ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:江戸幕府

gokokujihondou01
 今日は、江戸時代前期の1681年(天和元)に、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が、母・桂昌院の発頓により、江戸雑司ヶ谷に護国寺の創建を命じた日ですが、新暦では3月26日となります。
 護国寺(ごこくじ)は、東京都文京区大塚五丁目にある寺院、真言宗豊山派の別格本山で、山号は神齢山、院号は悉地院と呼ばれてきました。江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が、母・桂昌院の発頓(開基)により、1681年(天和元年2月7日)に、上野国(群馬県)高崎の大聖護国寺住持であった亮賢(開山)に高田薬園の地を与え、桂昌院の祈願寺としての建立を命じます。
 堂宇を建立して、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、寺領300石を与え、翌年に完成しました。一方で、1688年(元禄元年)に、綱吉が神田橋・一ツ橋の間に移した護摩堂、祖師堂、観音堂などの大伽藍を整備し、隆光を開山として護持院が出来ます。
 1694年(元禄7)に将軍母子の参詣に際し寺領300石を加えられ、その後逐年加増されて朱印1,200石となりました。1717年(享保2年)の享保の大火で護持院が灰燼に帰したものの、幕府は再興を許さず、その地を合併して護国寺を護持院と改め、2,700石となります。
 1724年(享保9年)に幕命により長谷寺小池坊派に所属することとなり、1868年(明治元年)の廃仏毀釈で護持院が廃されると、護国寺として寺地を継承しました。明治維新後は後ろ盾を失い、経済的な苦境に陥入りましたが、1873年(明治6年)に明治天皇の第一皇子稚瑞照彦尊の薨去(死産)を機に、護国寺境内の東半分が皇族墓地とされます。
 その後、1883年(明治16年)、1926年(大正15年)と火災で堂宇の多くを失いました。1928年(昭和3年)に大津市(近江)の三井寺の塔頭日光院の客殿が移築され、月光殿となり、1931年(昭和6年)には、本堂と月光殿が旧国宝(現在の国指定重要文化財)に指定されています。
 寺宝に尊勝曼荼羅図、金銅五鈷鈴(いずれも国重要文化財)などがあり、境内には不昧軒(ふまいけん)、仲磨堂(ちゅうまどう)、茶室などもあり、江戸の面影を今に伝えてきました。尚、墓地には三条実美、山県有朋、大隈重信、河野広中、下田歌子ら名士の墓が多くあります。

〇徳川綱吉(とくがわ つなよし)とは?

 江戸幕府の第5代将軍です。第3代将軍徳川家光の四男で、側室於玉(桂昌院)を母として、江戸で生まれ、幼名は徳松といいました。
 1651年(慶安4)に15万石を拝領し、1653年(承応2)に元服して、綱吉と名乗るようになります。1661年(寛文元)に10万石を加増されて上野国館林城主となり、参議に任じられました。
 1680年(延宝8)に、兄の第4代将軍家綱が病気となり、跡継ぎとなれる男子がななったため継嗣となり、従二位権大納言に叙任されます。同年に家綱没後、第5代将軍となり、翌年、堀田正俊を大老に任命して、「天和の治」と呼ばれる政治改革に着手しました。
 「賞罰厳明」と天領行政の刷新を特色とし、将軍自ら積極的な政治に乗り出します。しかし、正俊の死後、柳沢吉保を重用し、財政悪化に対処するため、貨幣改鋳や積極的な貿易策によって商品経済への対応を強めましたが、インフレが起こり、経済の混乱を招きました。
 また、「生類憐(あわれ)みの令」を出したり、一部役人の腐敗による治世の乱れも引き起こします。その反面、学問を奨励し、文治政治を進めようともしたので、「元禄文化」が花開くことともなりました。犬公方(くぼう)とも称され、悪評を受けつつ、1709年(宝永6)1月10日に、63歳で死去しています。

☆護国寺関係略年表

・1681年(天和元年2月7日) 江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が、母・桂昌院の発頓により、江戸雑司ヶ谷に護国寺の創建を命じる
・1682年(天和2年) 寺領300石を与えられて、梵鐘が寄進され、堂宇が完成して京都仁和寺の直末寺となる
・1688年(元禄元年) 江戸幕府の5代将軍徳川綱吉が神田橋・一ツ橋の間に移した護摩堂、祖師堂、観音堂などの大伽藍を整備し、隆光を開山として護持院となる
・1691年(元禄4年) 薬師堂が建立される
・1694年(元禄7年) 将軍母子の参詣に際し寺領300石を加えられる
・1697年(元禄10年) 本堂(観音堂)が七面七層入母屋造で完成する(国指定重要文化財)
・1717年(享保2年) 享保の大火で護持院が灰燼に帰したが、幕府は再興を許さず、その地を合併して護国寺を護持院と改める
・1724年(享保9年) 幕命により長谷寺小池坊派に所属することとなる
・1868年(明治元年) 廃仏毀釈で護持院が廃されると、護国寺として寺地を継承する
・1873年(明治6年) 明治天皇の第一皇子稚瑞照彦尊の薨去(死産)を機に、護国寺境内の東半分が皇族墓地とされる
・1883年(明治16年) 火災で堂宇の多くを失なう
・1902年(明治25年) 日清戦争で戦死した軍人の遺骨を埋葬し、忠霊堂が建立される
・1926年(大正15年) 火災で堂宇の多くを失なう
・1928年(昭和3年) 大津市(近江)の三井寺の塔頭日光院の客殿が移築され、月光殿(国指定重要文化財)となる
・1931年(昭和6年) 本堂と月光殿が旧国宝(現在の国指定重要文化財)となる
・1938年(昭和13年) 仰木敬一郎の設計で多宝塔、三尾邦三氏の寄進により不老門が建立される
・1996年(平成8年) 霊廟が完成する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1184年(治承8)一ノ谷の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に圧勝する(新暦3月20日)詳細
1692年(元禄4)孔子を祭る湯島聖堂が完成する(新暦3月17日)詳細
1731年(享保16)俳人・蕉門十哲の一人各務支考の命日(新暦3月14日)詳細
1873年(明治6)「敵討禁止令」(明治6年太政官布告第37号)が布告される詳細
1899年(明治32)「実業学校令」(明治32年勅令第29号)が公布(同年4月1日施行)される詳細
1998年(平成10)長野オリンピック(第18回冬季オリンピック・長野大会)が開幕する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

tokugawayoshinobutsuitourei
 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、新政府が「徳川慶喜追討令」を出した日ですが、新暦では1月31日となります。
 「徳川慶喜追討令」(とくがわよしのぶついとうれい)は、新政府によって出された、江戸幕府第15代将軍だった徳川慶喜を追討するよう各方面に命じたもので、高札としても掲げられました。1867年(慶応3)12月に、朝廷では西郷隆盛や公家の岩倉具視などが中心となって王政復古の大号令を出し、天皇を中心とする政府の樹立を宣言するクーデターが起こります。
 その後、徳川慶喜に官職や領地の返還が命じられましたが、これに不満をもつ旧幕府軍と新政府軍との間で、翌年1月3日に、鳥羽・伏見の戦いが起きたものの、新政府軍の勝利に終わり、徳川慶喜が江戸に逃げ帰りました。そこで、1月7日にこの追悼令が出され、徳川慶喜を厳しく批判し、慶喜征討への協力を呼びかけることになります。
 新政府は、全国を帰順させるため、鎮撫総督(翌月先鋒総督兼鎮撫使と改称)を各地に派遣し、これらの新政府軍と旧幕府軍との間で、東日本を中心に、戊辰戦争と呼ばれる戦いが、1869年(明治2)5月まで続けられ、新政府軍の勝利となりました。
 以下に、「徳川慶喜追討令」の文書と御触書の写しを掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「徳川慶喜追討令」1868年(慶応4)1月7日

正月七日征討大號令

德川慶喜天下ノ形勢不得已ヲ察シ大政返上將軍職辭退相願候ニ付
朝議ノ上斷然被
聞食候處只大政返上ト申而已ニテ於
朝廷土地人民御保チ不被遊候テハ
御聖業難被爲立候ニ付尾越二藩ヲ以テ其實効御訊問被爲遊候節於慶喜ハ奉畏候得共麾下并會桑ノ者共承服不仕萬一暴擧可仕哉モ難計ニ付只管鎭撫ニ盡力仕居候旨尾越ヨリ及言上候間
朝廷ニハ慶喜眞ニ恭順ヲ盡シ候樣被
思食既往ノ罪不被爲問寬大ノ御處置可被
仰付候處豈圖ランヤ大阪城ヘ引取候ハ素ヨリノ詐謀ニテ去ル三日麾下ノ者ヲ引率シ剩前々御暇被遣候會桑等ヲ先鋒トシ
闕下ヲ奉犯候勢現在彼ヨリ兵端ヲ開キ候上ハ慶喜反状明白始終奉欺
朝廷候段大逆無道最早於
朝廷御宥恕ノ道モ絶果不被爲得已追討被
仰付候兵端既ニ相開候上ハ速ニ賊徒御平治萬民塗炭ノ苦ヲ被爲救度
叡慮ニ候間今般仁和寺宮征討將軍ニ被任候ニ付テハ是迄偸安怠情ニ打過或ハ兩端ヲ抱キ候者ハ勿論假令賊徒ニ從ヒ譜代臣下ノ者タリ共悔悟憤發爲國家盡忠ノ志有之候輩ハ寬大ノ思食ニテ御採用可被爲在候依戰功此行末德川家ノ儀ニ付歎願ノ儀モ候ヘハ其筋ニヨリ御許容可有之候然ルニ此御時節ニ至リ不

 辨大義賊徒ト謀ヲ通シ或ハ潛居爲致候者ハ朝敵同樣嚴刑ニ可被處候間心得違無之樣可致候事
 但シ征討大將軍被置候上ハ即時前件號令可被發ハ勿論ニ候ヘ共猶旗下粗暴ノ徒壅蔽爰ニ至リ候事哉ト彼是深重之
 思召ヲ以御遲延ノ處三日ヨリ今七日ニ至リ坂兵日々雖敗走益出兵呉々不得止斷然本文ノ通被仰出候各藩陪從吏卒ニ至ル迄方向ヲ定メ爲天下奉公可有之候事

  「太政類典・第一編」より

徳川征伐御触書之写

徳川慶喜天下之形勢不得止察候、
大政返上将軍職辞退相願候ニ付、
朝議之上断然被聞食候処、只大政返上ト
申而已ニテ於朝廷土地人民御保被遊候テハ、
御聖業難被為立候ニ付、尾越二藩を以
其実効御訊聞被遊候節、於慶喜ハ奉
畏入候得共、麾下并会桑之者共承服不仕、
万一暴挙可仕哉モ難計候ニ付、只管鎮撫ニ尽力
仕居候旨、尾越より及言上候間、
朝廷ニハ慶喜真ニ恭順相尽候様、被思召既往之
罪不被為間寬太之所置可被仰付之処、豈図哉
大坂城へ引取候者素より詐謀、剰前之御暇

  松田三左衛門家文書「徳川征伐御触書之写、神祗御改御触書之写」より

〇戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは?

 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦で、鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来しています。これにより、明治政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになります。

☆戊辰戦争関係略年表(日付は旧暦です)

<1868年(慶応4/明治元)>

・1月3日 「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる 
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる 
・1月7日 新政府が「徳川慶喜追討令」を出す
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
・4月11日 江戸開城が無血で行われる
・閏4月11日 奥羽諸藩による白石列藩会議が始まる
・5月3日 奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
・5月6日 長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる 
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で破る(上野戦争)
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
・9月8日 明治に改元される
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
・9月10日 仙台藩が降伏する
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
・10月26日 榎本武揚軍が箱館を占領する
・11月15日 暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没する

<1869年(明治2)>

・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
・5月11日 箱館総攻撃が始まる
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1490年(延徳2)室町幕府第8代将軍足利義政の命日(新暦1月27日)詳細
1835年(天保6)官僚・実業家・男爵前島密の誕生日(新暦2月4日)詳細
1902年(明治35)小説家・児童文学者住井すゑの誕生日詳細
1926年(大正15)劇作家協会と小説家協会が合併して、文藝家協会(日本文藝家協会の前身)が設立される詳細
1939年(昭和14)戦争経済を支える人的資源の把握の為、「国民職業能力申告令」が公布される詳細
1996年(平成8)芸術家岡本太郎の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kaiseigattkou01
 幕末明治維新期の1868年(明治元)に、明治新政府が江戸幕府の洋学教育研究機関「開成所」を「開成学校」として復興した日ですが、新暦では10月27日となります。
 開成学校(かいせいがっこう)は、明治初期の官立学校で、江戸幕府が設立していた開成所が、明治新政府に接収されて改称されたもので、洋学教育、翻訳・出版認可等の役割が課されました。翌年(明治2年12月17日)に、大学南校(現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身)となり、南校,第一大学区第一番中学を経て、1873年(明治)に専門学校として開成学校が設置されます。
 翌年に東京開成学校と改称され、外国人教師指導の下で、英語で法学・理学・工業学、フランス語で諸芸学、ドイツ語で鉱山学の専門教育が行われると共に、予科の語学教育と普通教育にも力点が置かれました。1877年(明治10年)には、東京医学校と統合されて、東京大学が設立されます。

〇開成学校関係略年表(日付は旧暦です)

・1744年(延享元年) 徳川吉宗が外神田に天文台を建てる
・1811年(文化8年) 天文方から新しく蕃書和解(ばんしょわげ)御用方が設けられる
・1853年(嘉永6年6月) 黒船(ペリー艦隊)が来航する
・1854年(安政元年3月) 「日米和親条約」締結の中で、蕃書和解御用方が多忙となる
・1855年(安政2年8月30日) 御用方は「洋学所」と改めて独立する
・1855年(安政2年10月2日) 安政江戸地震で全壊焼失する
・1856年(安政3年2月11日) 幕府は洋学所を「蕃書調所」と改称する
・1856年(安政3年2月13日) 江戸飯田町九段坂下の竹本正雅(図書頭、中奥小姓)屋敷地に設立する
・1857年(安政4年1月18日) 開場し、幕府旗本・御家人等の子弟も洋学教育を受けられるようになる
・1858年(安政5年) 藩士の入学も認められるようになる
・1860年(万延元年) 小川町に移転する
・1860年(万延元年7月) プロシア東洋遠征艦隊来航の際、蕃書調所の市川斎宮が「独逸学」を学ぶ公命を受ける
・1862年(文久2年) 学問所奉行および林大学頭の管轄下に入り、幕府官立学校となる
・1862年(文久2年) 洋書調所に独逸学科が開設される
・1862年(文久2年5月18日) 一橋門外護持院原(神田一ツ橋通り)に移転する
・1862年(文久2年5月23日) 「洋書調所」と改称してに開校する
・1863年(文久3年8月29日) 洋書調所を「開成所」に改称する
・1864年(元治元年) 「開成所規則」が制定され、オランダ語、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の5ヶ国語のほか、天文学、地理学、窮理学、数学、物産学、化学、器械学、画学、活字術の9学科が定められる
・1868年(明治元年9月12日) 幕府が倒れ、開成所は明治新政府に接収され、官立の開成学校と改称される
・1869年(明治2年12月17日) 大学南校(現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身)となる(医学校が大学東校)
・1871年(明治4年) 南校と改称される、
・1872年(明治5年) 第一大学区第一番中学と改称される
・1873年(明治6年) 専門学校として開成学校が設置される
・1874年(明治7年) 東京開成学校と改称される
・1877年(明治10年) 東京医学校と統合されて、東京大学が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1242年(仁治3)第84代の天皇とされる順徳天皇の命日(新暦10月7日)詳細
1571年(元亀2)織田信長による比叡山の焼き討ちが起きる(新暦9月30日)詳細
1821年(文政4)国学者塙保己一の命日(新暦10月7日)詳細
1872年(明治5)新橋駅~ 横浜駅間で日本最初の鉄道が完成し、鉄道開業式典が行われる(新暦10月14日)詳細
1887年(明治20)日本画家堅山南風の誕生日詳細
1913年(大正2)「都新聞」で中里介山の長編時代小説『大菩薩峠』の連載が開始される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

nichieiwashinjyouyaku01
 今日は、江戸時代後期の1854年(嘉永7)に、長崎において、「日英和親条約」が調印(同年8月29日批准書交換)された日ですが、新暦では10月14日となります。
 「日英和親条約」(にちえいわしんじょうやく)は、日本が「日米和親条約」に次いで、イギリスとの間で締結した最初の条約で、「日英約定」とも呼ばれてきました。東インド・中国艦隊司令長官スターリングと長崎で調印されましたが、船舶修理や食料・必需品の補給のため長崎・箱館を開くこと、難船には他の諸港への入港を許すこと、片務的最恵国待遇などが規定されています。
 これは、外交上の全権をもたない使節と調印した点で異例であり、不平等条約であったものの、1858年(安政5)の「日英修好通商条約」にも受け継がれることとなりました。
 以下に、「日英和親条約」の英語原文と江戸幕府による日本語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日本國大不列顛國約定(日英和親条約)」 1854年10月14日(嘉永7年8月23日)長崎にて調印

<英語原文>

Convention between Great Britain and Japan (Anglo-Japanese Friendship Treaty)

Ratifications exchanged at Nagasaki, October 9th 1855 (the 29th day, 8th month, 2nd year of Ansei).

Signed at Nagasaki, October 14th 1854 (the 23rd day, 8th month, 7th year of Kaei).

It is agreed between Sir James Stirling, Knight, Rear-Admiral and Commander-in-chief of the ships and vessels of Her Britannic Majesty in the East Indies and seas adjacent, and Mizu-no Chikugo-no Kami, Obugio of Nagasaki, and Nagai Iwa-no jio, Ometske of Nagasaki, ordered by His Imperial Highness the Emperor of Japan to act herein, that:--

 ARTICLE I.

The Ports of Nagasaki [Hizen] and Hakodate [Matsmai] shall be open to British ships for the purposes of effecting repairs, and obtaining fresh water, provisions, and other supplies of any sort they may absolutely want for the use of the ships.

 ARTICLE II.

Nagasaki shall be open for the purposes aforesaid from and after the present date; and Hakodate from and after the end of fifty days from the Admiral’s departure from this port. The rules and regulations of each of these ports are to be complied with.

 ARTICLE III.

Only ships in distress from weather, or unmanageable, will be permitted to enter other ports than those specified in the foregoing Articles, without permission from the Imperial Government.

 ARTICLE IV.

British ships in Japanese ports shall conform to the laws of Japan. If high officers or commanders of ships shall break any such laws, it will lead to the ports being closed. Should inferior persons break them, they are to be delivered over to the Commanders of their ships for punishment.

 ARTICLE V.

In the ports of Japan, either now open, or which may hereafter be opened, to the ships or subjects of any foreign nation, British ships and subjects shall be entitled to admission, and to the enjoyment of an equality of advantages with those of the most favoured nation, always excepting the advantages accruing to the Dutch and Chinese from their existing relations with Japan.

 ARTICLE VI.

This Convention shall be ratified, and the ratifications shall be exchanged at Nagasaki on behalf of Her Majesty the Queen of Great Britain, and on behalf of His Highness the Emperor of Japan, within twelve months from the present date.

 ARTICLE VII.

When this Convention shall be ratified, no high officer coming to Japan shall alter it.

<江戸幕府による日本語訳>

嘉永七年(安政元年)甲寅八月二十三日(西曆千八百五十四年第十月十四日)於長崎調印

安政二年乙卯八月二十九日(西曆千八百五十五年第十月九日)於同所本書交換

日本大君の命を請たる長崎奉行水野筑後守御目付永井岩之丞と東印度及ひ其近海の英國軍艦を指揮する第三等水師提督ナイト(爵名)ゼームス、スチルリングと同意約定する條々左の如し

 第一條

長崎箱館の兩港を英國船修復淸水食料其外都て船中必需の貯品を供せん爲め開くへし

 第二條

長崎は右のため今より開き箱館は水師提督當港を出帆の日より五十日後に開くへし尤も右兩港の法律規則は都て聽從すへし

 第三條

暴風雨の爲に困難し或は不得止時のみは日本政府の免許を受けす前條に取極し港の外他港へ入津するを許すへし

 第四條

日本の港に入津する英船は日本の法律に從ふへし船中の高官或は指揮官右法律を犯す時は其港を鎖し其以下の人々之を犯す時は其船の指揮官に引渡し罰を加ふへし

 第五條

他の外國の船或は人民の爲に今開きたる港或は此後開くへき港に於ては英國の船並人民も其港に入津し且最も恩惠を加へらる〃國に與へらる〃利益は同樣之を受くへし然れ共日本と先前より交際を存する和蘭並支那に與ふる利益は常に此例に非さるへし

 第六條

此約書確證の上本書は日本大君と英國女王の爲め今より十二箇月の中に長崎に於て取替すへし

 第七條

此約書本書爲取替相濟たる上は日本に來る高官誰にても此約を變更する事なし

右證據として於長崎此書に手記調印する者也

 嘉永七年甲寅八月二十三日
 千八百五十四年十月十四日

  水野筑後守 花押
  永井岩之丞 花押
  ゼームス、スチルリング 手記

   「日本外交年表竝主要文書上巻」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)石橋山の戦いで、300騎の源頼朝が3,000余騎の大庭景親に敗れる(新暦9月14日)詳細
1914年(大正3)第一次世界大戦で、「日英同盟」を理由に日本がドイツに宣戦布告する詳細
1942年(昭和17)日本画家竹内栖鳳の命日詳細
1944年(昭和19)「学徒勤労令」が公布・施行される詳細
「女子挺身勤労令」が公布・施行される詳細
1975年(昭和50)中央自動車道の恵那山トンネル(当時日本最長の道路トンネル)が開通する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

sankinkoutai01
 今日は、江戸時代後期の1862年(文久2)に、江戸幕府が参勤交代を緩和し、妻子の帰国を許し3年に1度の出府となり、事実上廃止された日(閏8月)ですが、新暦では10月15日となります。
 参勤交代(さんきんこうたい)は、江戸幕府が大名支配の手段として課した大名軍役の一つで、諸大名に時期を定めて江戸に参勤させた制度でした。全国250以上ある大名家が2年毎に江戸に参勤し、1年経ったら自分の領地へ引き上げる交代を行うものです。
 江戸初期に諸大名が自発的に江戸に参勤したことに端を発し、大名は忠誠を示すため、正室と子(男子であれば跡継ぎ)、有力家臣の子弟を人質として江戸に住まわせるようになりました。1615年(元和元)に、制定された「武家諸法度(元和令)」により、参勤作法として従者の員数を定めて、100万石以下20万石以上の大名は20騎以下、10万石以下の大名は分に応ずるよう規定されます。
 1634年(寛永11)に、譜代大名の妻子を江戸に移すこととし、翌年には、「武家諸法度(寛永令)」を改定し、その第2条に「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり、毎歳夏四月中、参勤いたすべし」と規定し、参勤交代が制度化されました。1642年(寛永19)には、制度改正が行われ、譜代大名の交代期は6月、とくに関東の譜代大名は在府・在国半年、8月ないし2月交代となります。
 享保の改革の一環として、1722年(享保7)に諸大名に1万石につき100石の上米を命じ、その代償として、参勤交代を緩和し、在府半年・在国1年半としましたが、8年後の1730年(享保15)には、参勤交代が旧制に復しました。1862年(文久2)に、再び参勤交代を緩和し、3年一勤百日在府制を実施しましたが、1865年(慶応元)に再び旧に戻そうとしたものの、命令に従う者がなく、事実上の廃絶となっています。
 この制度は、江戸幕府による大名妻子の人質政策であり、往復の旅費や江戸藩邸での巨額の出費は大名の財政を苦しめたものの、一方で江戸の繁栄、交通(街道や宿場等)・経済(貨幣流通や商工業)の発達、中央文化の地方普及を促したとされてきました。

〇参勤交代関係略年表

・1596年(慶長元) 藤堂高虎が弟の正高を証人として江戸に送り、参勤交代のはじめとされる
・1600年(慶長5) 関ケ原の戦後、外様大名の江戸参勤が増加する
・1602年(慶長7) 前田利長が母を人質として参勤する
・1615年(元和元) 「武家諸法度(元和令)」が制定されたが、参勤作法として従者の員数を定めただけで100万石以下20万石以上の大名は20騎以下、10万石以下の大名は分に応ずるよう規定する
・1634年(寛永11) 譜代大名の妻子を江戸に移す
・1635年(寛永12) 「武家諸法度(寛永令)」を改定し、その第2条に「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり、毎歳夏四月中、参勤いたすべし」と規定し、参勤交代を制度化する
・1642年(寛永19) 制度の改正が行われ、譜代大名の交代期は6月、とくに関東の譜代大名は在府・在国半年、8月ないし2月交代となる
・1722年(享保7) 諸大名に1万石につき100石の上米を命じ、その代償として、参勤交代を緩和し、在府半年・在国1年半とする
・1730年(享保15) 参勤交代が旧制に復する
・1862年(文久2) 再び参勤交代を緩和し、三年一勤百日在府制を実施する
・1865年(慶応元)  再び旧に戻したが命令に従う者がなく、参勤交代制度が廃絶となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1869年(明治2)彫刻家米原雲海の誕生日(新暦9月27日)詳細
1903年(明治36)東京電車鉄道(電鉄)が、品川~新橋間を開業(東京初の路面電車)する詳細
1904年(明治37)日本と大韓帝国との間で、「第一次日韓協約」が調印される詳細
1941年(昭和16)劇作家・小説家長谷川時雨の命日詳細
1943年(昭和18) 詩人・小説家島崎藤村の命日(藤村忌)詳細
1944年(昭和19)沖縄からの学童疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈される(対馬丸事件)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ