ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:歌人

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 今日は、明治時代中頃の1893年(明治26)に、洋画家・歌人・詩人・随筆家中川一政の生まれた日です。
 中川一政(なかがわ かずまさ)は、東京市本郷区駒込西片町(現在の東京都文京区西片)において、刀剣鍛冶松戸家を営む父・中川政朝、母・スワの子として生まれましたが、1902年(明治35)に母・スワが亡くなりました。1903年(明治36)に東京市北豊島郡巣鴨村向原(現在の豊島区東池袋)に転居、1907年(明治40)には、本郷区誠之尋常高等小学校を卒業し、神田錦町の錦城中学校に入学します。
 在学中の1908年(明治41)に『少年世界』の表紙図案に入選、与謝野晶子撰歌集『白光』に歌3首が収録され、1910年(明治43)に『スバル』や『創作』に短歌が紹介され、1911年(明治44)には、『萬朝報』の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載されました。1912年(明治45)に錦城中学校を卒業、『萬朝報』の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載され、1913年(大正2)には、中村星湖の推薦で『早稲田文学』に短歌「逝春」を発表しています。
 1914年(大正3)に処女作油彩「酒倉」が画会第14回展に出品され、岸田劉生の推薦で入選、画家を志すようになり、1915年(大正4)には、巽画会第15回展に「霜のとける道」ほかを出品し、最高位二等賞銀牌を受賞、草土社を結成しました。1916年(大正5)に同人誌『貧しき者』を創刊し、詩や随想を発表、1917年(大正6)から二科会展に連続して入賞し、1921年(大正10)には、詩集『見なれざる人』を出版、二科会第8回展に「静物」などを出品し、二科賞を受賞しています。
 1922年(大正11)に萬鉄五郎、岸田劉生らと春陽会設立に参加、1924年(大正13)に短歌雑誌『日光』の同人となり、1925年(大正14)には、訳著『ゴオホ』を出版、東京府和田堀之内村永福寺隣(現在の杉並区永福)に転居しました。1926年(大正15)に初の画集『中川一政畫集』を出版、1928年(昭和3)に東京朝日新聞に連載の片岡鉄兵「生ける人形」の挿画を担当、1930年(昭和5)には、随筆『美術の眺め』を出版します。
 1931年(昭和6)に個展「中川一政水墨展」を開催、佐藤春夫、日夏耿之介と同人文芸誌『古東多万』を創刊、1933年(昭和8)に都新聞に連載の尾﨑士郎「人生劇場 青春篇」の挿画を担当、1937年(昭和12)には、小川芋銭、小杉放菴らと「墨人倶楽部」を結成しました。1938年(昭和13)に第2回文部省美術展覧会(新文展)第二部審査員を委嘱され、1939年(昭和14)に初の中国旅行で鹿島龍蔵と北京、ハルピン、熱河、大同を巡り、1940年(昭和15)には、藤田嗣治、小杉放菴、木村荘八らと邦画一如会を結成します。
 1948年(昭和23)に武者小路実篤を中心に結成された生成会に同人として参加、1949年(昭和24)に神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構え、1953年(昭和28)には、初の洋行で、約5か月にわたりブラジル、フランス、イタリア、イギリスを歴訪しました。1958年(昭和33)に訪中団団長として中国を訪問、1960年(昭和35)に全国知事会の依頼で「漁村凱風」を制作、東宮御所に献納され、1961年(昭和36)には、宮中歌会始の召人となります。
 1964年(昭和39)に日中文化交流協会代表団として訪中し、中国建国15周年を祝う国慶節式典に参列、1965年(昭和40)には、ソ連文化省の招きでソ連を訪問し、同国の美術演劇事情を視察しました。1975年(昭和50)に『中川一政全集』(全5巻)、『腹の虫』を出版、文化勲章を受章し、文化功労者となり、1982年(昭和57)には、日中文化交流協会代表団の顧問として訪中します。
 1984年(昭和59) 東京都名誉都民となり、1986年(昭和61)には、母の故郷である石川県松任市(現在の白山市)に「松任市立中川一政記念美術館」が開館、松任市名誉市民となりました。1989年(平成元)には、神奈川県真鶴町に「真鶴町立中川一政美術館」が開館しましたが、1991年(平成3)2月5日に、東京において、97歳で亡くなっています。

〇中川一政の主要な作品

<絵画>

・「酒倉」(1914年)巽(たつみ)画会展入選
・「監獄の横」(1917年)
・「板橋風景」(1919年)東京国立近代美術館蔵
・「静物」(1921年)二科会第8回展二科賞受賞
・「少年像」(1942年)
・「漁村凱風」(1960年)東宮御所蔵
・「福浦」(1965年)
・「箱根駒ケ岳(こまがたけ)」(1982年)

<著作>

・詩集『見なれざる人』(1921年)
・画文集『中川一政画集』(1926年)
・随筆『美術の眺め』(1930年)
・歌集『向ふ山』(1943年)
・随筆『うちには猛犬がいる』(1963年)
・『腹の虫』(1975年)

☆中川一政関係略年表

・1893年(明治26)2月14日 東京市本郷区駒込西片町(現在の東京都文京区西片)において、刀剣鍛冶松戸家を営む父・中川政朝、母・スワの子として生まれる
・1902年(明治35) 母・スワ(享年33歳)が亡くなる
・1903年(明治36) 東京市北豊島郡巣鴨村向原(現在の豊島区東池袋)に転居する
・1907年(明治40) 本郷区誠之尋常高等小学校を卒業し、神田錦町の錦城中学校に入学する
・1908年(明治41) 『少年世界』の表紙図案に入選、与謝野晶子撰歌集『白光』に歌3首が収録される
・1910年(明治43) 『スバル』や『創作』に短歌が紹介される
・1911年(明治44) 『萬朝報』の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載される
・1912年(明治45) 錦城中学校を卒業、『萬朝報』の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載される
・1913年(大正2) 中村星湖の推薦で『早稲田文学』に短歌「逝春」を発表する
・1914年(大正3) 処女作油彩「酒倉」が画会第14回展に出品され、岸田劉生の推薦で入選、画家を志す
・1915年(大正4) 巽画会第15回展に「霜のとける道」ほかを出品し、最高位二等賞銀牌を受賞、草土社を結成する
・1916年(大正5) 同人誌『貧しき者』を創刊し、詩や随想を発表する
・1917年(大正6) 二科会第4回展に「風景〔杉と茶畑〕」を出品し、入選、同人雑誌『観照』特別号として「中川一政詩集」が刊行される
・1918年(大正7) 二科会第5回展に「冬〔初冬〕」《夏》を出品し、入選する
・1919年(大正8) 二科会第6回展に「下板橋の川辺(冬)〔板橋風景〕」ほかを出品し入選する
・1920年(大正9) 初の個展(油彩)を開き、二科会第7回展に「自画像」ほかを出品し入選、千家元麿、宮崎丈二らと雑誌『詩』を創刊する
・1921年(大正10) 詩集『見なれざる人』を出版、二科会第8回展に「静物」などを出品し、二科賞を受賞する
・1922年(大正11) 小杉放庵、萬鉄五郎、石井鶴三、木村荘八、岸田劉生らと春陽会設立に参加する
・1923年(大正12) 伊藤暢子(伊藤為吉の娘)と結婚する
・1924年(大正13) 短歌雑誌『日光』の同人となる
・1925年(大正14) 訳著『ゴオホ』を出版、東京府和田堀之内村永福寺隣(現在の杉並区永福)に転居する
・1926年(大正15) 初の画集『中川一政畫集』を出版する
・1928年(昭和3) 東京朝日新聞に連載の片岡鉄兵「生ける人形」の挿画を担当する
・1930年(昭和5) 随筆『美術の眺め』を出版する
・1931年(昭和6) 個展「中川一政水墨展」を開催、佐藤春夫、日夏耿之介と同人文芸誌『古東多万』を創刊する
・1933年(昭和8) 都新聞に連載の尾﨑士郎「人生劇場 青春篇」の挿画を担当する
・1937年(昭和12) 小川芋銭、小杉放菴、菅楯彦、矢野橋村、津田青楓らと「墨人倶楽部」を結成する
・1938年(昭和13) 第2回文部省美術展覧会(新文展)第二部審査員を委嘱される
・1939年(昭和14) 初の中国旅行で鹿島龍蔵と北京、ハルピン、熱河、大同を巡る
・1940年(昭和15) 父・政朝が死去(享年79歳)、藤田嗣治、石井柏亭、鍋井克之、津田青楓、牧野虎雄、小杉放菴、石井鶴三、木村荘八らと邦画一如会を結成する
・1945年(昭和20) 疎開先の富山県高岡に約1か月滞在し、山形県酒田を経て宮城県黒川郡宮床村(現在の大和町宮床)で終戦を迎える
・1948年(昭和23) 武者小路実篤を中心に結成された生成会に同人として参加、文芸雑誌『心』が創刊される
・1949年(昭和24) 神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構える
・1953年(昭和28) 初の洋行で、約5か月にわたりブラジル、フランス、イタリア、イギリスを歴訪、東京新聞夕刊文化欄に旅行記を41回にわたり連載する
・1957年(昭和32) 『鉄斎』を武者小路実篤、梅原龍三郎、小林秀雄とともに監修、出版する
・1958年(昭和33) 「光琳生誕三〇〇年記念展」が北京で開催され、訪中団団長として訪問、東京新聞夕刊文化欄に「中国遊記」を7回にわたり連載する
・1960年(昭和35) 全国知事会の依頼で「漁村凱風」を制作、東宮御所に献納される
・1961年(昭和36) 宮中歌会始の召人となる
・1962年(昭和37) ミュンヘンのバイエルン独日協会の招きで渡欧、ミュンヘン市立美術館で「東洋美術の考え」を講演する
・1963年(昭和38) 「現代日本油絵展」が北京、上海で開催され、訪中洋画家団団長として訪問、随筆『うちには猛犬がゐる』を出版する
・1964年(昭和39) 日中文化交流協会代表団として訪中し、中国建国15周年を祝う国慶節式典に参列する
・1965年(昭和40) ソ連文化省の招きでソ連を訪問し、同国の美術演劇事情を視察、東京新聞夕刊文化欄に「私のソ連・欧州旅行」を8回にわたり連載する
・1967年(昭和42) 『中川一政画集』、随筆『遠くの顔』、『近くの顔』画文集、『中川一政書蹟』を出版、書展「中川一政書展」を開催する
・1975年(昭和50) 『中川一政全集』(全5巻)、『腹の虫』を出版、文化勲章を受章し、文化功労者となる
・1982年(昭和57) 日中文化交流協会代表団の顧問として訪中する
・1984年(昭和59) 東京都名誉都民となる
・1986年(昭和61) 母の故郷である石川県松任市(現在の白山市)に「松任市立中川一政記念美術館」が開館、松任市名誉市民となる
・1989年(平成元) 神奈川県真鶴町に「真鶴町立中川一政美術館」が開館する
・1991年(平成3)2月5日 東京において、97歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

741年(天平13)聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す(新暦3月5日)詳細
940年(天慶3)平将門が下野の豪族藤原秀郷と平貞盛らの軍勢により、猿島の北山で討たれる(新暦3月25日)詳細
1896年(明治29)日本画家徳岡神泉の誕生日詳細
1945年(昭和20)近衛文麿が昭和天皇に対して、上奏文(近衛上奏文)を出す詳細
1951年(昭和26)奄美大島日本復帰協議会(議長:泉芳朗)が結成される詳細
1967年(昭和42)小説家山本周五郎の命日詳細
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 今日は、平成時代の1994年(平成6)に、小説家・歌人中河与一が亡くなった日です。
 中河与一 (なかがわ よいち)は、明治時代後期の1897年(明治30)2月28日に、香川県阿野郡坂出町(現在の坂出市)において、代々の医家の父・与吉郎、母・多美の長男として生まれました。香川県立丸亀中学校(現在の県立丸亀高等学校)を経て、1919年(大正8)に早稲田大学高等予科文科に入学し、翌年には、同郷の歌人・林幹子と結婚します。
 1921年(大正10)に早稲田大学高等予科文科を卒業し、同大学英文科に進学し、「新公論」6月号に『悩ましき妄想』を発表しました。1922年(大正11)に歌集『光る波』を上田屋書店より刊行しましたが、早稲田大学を中途退学し、翌年には、金星堂編集部に勤務、菊池寛に認められて「文藝春秋」編集同人となります。
 1924年(大正13)に川端康成、横光利一、片岡鉄平、今東光、十一谷義三郎らとともに「文芸時代」を創刊、『刺繍(ししゅう)せられた野菜』(1924年)、『氷る舞踏場』(1925年)を発表し、新感覚派の旗手としてモダニズム時代を築きました。1928年(昭和3)に形式主義文学論争が始まり、1930年(昭和5)には、『形式主義芸術論』、『フォルマリズム芸術論』を刊行、雑誌「新科学的文芸」(「新科学的」と改題)を創刊(~1933年)します。
 1935年(昭和10)に『偶然と文学』、1936年(昭和11)に『愛恋無限』を刊行し、翌年には、この作品で、第1回北村透谷賞を受賞しました。1938年(昭和13)に代表作『天の夕顔』を刊行し、永井荷風の激賞を受けたものの、1939年(昭和14)には、『全体主義の構想』を刊行、「文芸世紀」を創刊(~1945年)し、厚生省諮問機関の労務管理調査委員に選ばれるなどして、民族主義に傾向き、軍国主義への協力を強めます。
 太平洋戦争後は、戦時中の活動が批判を浴び、ようやく1950年(昭和25)に、『失楽の庭』を刊行して、文壇に復帰しました。1957年(昭和32)には、谷崎潤一郎をモデルとした『探美の夜』、翌年に)、『続・探美の夜』を刊行して注目されます。
 1966年(昭和41)から『中河与一全集』全12巻の刊行を開始し、1967年(昭和42)に完結します。1976年(昭和51)には、勲三等瑞宝章を受章しましたが、1994年(平成6)12月12日に、神奈川県箱根町において、97歳で亡くなりました。

〇中河与一の主要な著作

・『刺繍(ししゅう)せられた野菜』(1924年)
・『氷る舞踏場』(1925年)
・『﨟(ろう)たき花』(1933年)
・『愛恋無限』(1935~36年)第1回北村透谷賞受賞
・『天(てん)の夕顔』(1938年)
・『失楽の庭』(1950年)
・『悲劇の季節』(1952年)
・『探美の夜』(1956~59年)

☆中河与一関係略年表

・1897年(明治30)2月28日 香川県坂出町において、代々の医家の父・与吉郎、母・多美の長男として生まれる
・1903年(明治36) 母の郷里である岡山県赤磐郡に行き、大内小学校に入学する
・1910年(明治43) 坂出に帰り、香川県立丸亀中学校(現在の県立丸亀高等学校)に入学する
・1915年(大正4) 丸亀中学校を卒業する
・1916年(大正5) 京都市七条大宮に弟・四郎とともに暮らす。短歌の制作に熱中し、北原白秋主宰の「ザムボア」に数多く投稿。近所の夜学校「漢数学館」で数学を教える。年末、坂出に帰る
・1918年(大正7) 上京し、本郷美術研究所に通う
・1919年(大正8) 早稲田大学高等予科文科に入学する
・1920年(大正9) 同郷の歌人・林幹子と結婚する
・1921年(大正10) 早稲田大学高等予科文科を卒業し、同大学英文科に進学、「新公論」6月号に「悩ましき妄想」を発表する
・1922年(大正11) 歌集『光る波』を上田屋書店より刊行、早稲田大学を中途退学する
・1923年(大正12) 金星堂編集部に勤務、菊池寛に認められて「文藝春秋」編集同人となる
・1924年(大正13) 川端康成、横光利一、片岡鉄平、今東光、十一谷義三郎らとともに「文芸時代」を創刊する
・1925年(大正14) 『午前の殺人』(新潮社)を刊行する
・1926年(大正15) 『氷る舞踏場』(金星堂)を刊行、中国旅行で上海、蘇州、杭州、南京を巡る
・1927年(昭和2) 『恐ろしき花』(改造社)を刊行する
・1928年(昭和3) 形式主義文学論争が始まる
・1930年(昭和5) 『形式主義芸術論』(新潮社)、『フォルマリズム芸術論』(天人社)を刊行、雑誌「新科学的文芸」(「新科学的」と改題)を創刊(~1933年)、南洋方面の旅行に出発する
・1931年(昭和6) 『ホテルQ』(赤炉閣書房)、『海路歴程』(第一書房)を刊行する
・1933年(昭和8) 雑誌「翰林」を創刊(~1936)、『臘たき花』(第一書房)を刊行する
・1934年(昭和9) 『レドモア島誌』(改造社)、『ゴルフ』(昭和書房)、『熱帯紀行』(竹村書房)を刊行する
・1935年(昭和10) 『偶然と文学』(第一書房)を刊行する
・1936年(昭和11) 『愛恋無限』(第一書房)を刊行する
・1937年(昭和12) 『万葉の精神』(千倉書房)を刊行、『愛恋無限』により第1回北村透谷賞を受賞する
・1938年(昭和13) 『日本の理想』(白水社)、『天の夕顔』(三和書房)を刊行する
・1939年(昭和14) 『全体主義の構想』(作品社)を刊行、「文芸世紀」を創刊(~1945年)、厚生省諮問機関の労務管理調査委員に選ばれる
・1940年(昭和15) 『愛の約束』(人文書院)、『熱帯圏』(第一書房)を刊行する
・1943年(昭和18) 『旅人椰子』(講談社)を刊行する
・1944年(昭和19) 『日本文芸論』(講談社)を刊行する
・1948年(昭和23) 『天の夕顔』が新東宝で映画化される
・1950年(昭和25) 『失楽の庭』(中央公論社)を刊行する
・1952年(昭和27) 『悲劇の季節』(河出書房)を刊行する
・1957年(昭和32) 『美貌』(講談社)、『探美の夜』(講談社)を刊行する
・1958年(昭和33) 『誘惑の谷』(第二書房)、『続・探美の夜』(講談社)を刊行する
・1959年(昭和34) 『愛の漂泊者』(角川書店)、『探美の夜・完』(講談社)を刊行する
・1963年(昭和38) 『三人姉妹』(集英社)を刊行、エジプト、ヨーロッパ、インドを巡遊、『天の夕顔』(雪華社)を刊行する
・1966年(昭和41) 『中河与一全集』全12巻(角川書店)を刊行開始(~1967年)する
・1969年(昭和44) インド、ネパールを巡遊する
・1972年(昭和47) 『中河与一代表短編集』(読売新聞社)を刊行する
・1974年(昭和49) 『鏡に這入る女』(旺文社)を刊行する
・1975年(昭和50) 『雪にとぶ鳥』(読売新聞社)を刊行する
・1976年(昭和51) 勲三等瑞宝章を受章する
・1979年(昭和54) 『古都幻想』(村松書館)を刊行する
・1982年(昭和57) 『足と煙草』(宝文館出版)を刊行、蒲生久仁子と再婚する
・1994年(平成6)12月12日 神奈川県箱根町において、97歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1568年(永禄11)武田信玄軍と今川氏真・北条氏政軍との間で薩埵峠の戦いが始まる(新暦12月30日)詳細
1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細
1947年(昭和22)「児童福祉法」が公布される詳細
1963年(昭和38)映画監督・脚本家小津安二郎の命日詳細
1989年(平成元)漫画家田河水泡の命日詳細
2015年(平成27)「気候変動に関する国際連合枠組み条約第21回締約国会議」(COP21)で「パリ協定」を採択する詳細
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 今日は、平成時代の1995年(平成7)に、地球物理学者・歌人和達清夫(筆名:西須諸次)が亡くなった日です。
 和達清夫(わだち きよお)は、明治時代後期の1902年(明治35)9月8日に、愛知県名古屋市において生まれましたが、出身地は東京でした。天王寺中学校を経て、東京開成中学校を1920年(大正9)に卒業します。
 その後、旧制第一高校を経て、東京帝国大学理学部物理学科に進み、寺田寅彦らに学びました。1925年(大正14)に卒業後、中央気象台(現在の気象庁)に勤務して、初めはもっぱら地震を研究します。
 1932年(昭和7)に、深所に発生する地震(深発地震)の研究で、東京帝國大学から理学博士の学位を取得し、日本学士院恩賜賞を受賞しました。1943年(昭和18)に満州国観象台長となり、太平洋戦争後の1947年(昭和22)には、中央気象台長となり、地震予知研究連絡委員会(地震予知連絡会の前身)発足と共に委員長ともなります。
 1952年(昭和27)に「気象業務法」の施行を進め、1956年(昭和31)には、中央気象台が昇格して気象庁となると、初代長官に就任しました。1960年(昭和35)に第5期日本学術会議議長に就任、1963年(昭和38)には、気象庁を退官、国立防災科学技術センター(現、防災科学技術研究所)所長となります。
 1966年(昭和41)に埼玉大学長、1968年(昭和43)に中央公害対策審議会会長、1969年(昭和44)には、日本気象学会の名誉会員となりまました。1971年(昭和46)に文化功労者となり、1972年(昭和47)に埼玉大学長を辞め、勲一等瑞宝章を受章、1974年(昭和49)には、日本学士院院長ともなります。
 1976年(昭和51)に第27回NHK放送文化賞、1981年(昭和56)にアメリカ地震学会1980メダル、1982年(昭和57)に第29回交通文化賞、東京地学協会会長、1985年(昭和60)には文化勲章を受章、東京都名誉都民となるなど数々の栄誉に輝きました。1988年(昭和63)に中央公害対策審議会会長を辞めましたが、1995年(平成7)1月5日に、東京において、92歳で亡くなっています。尚、随筆をよくし、アララギ派の歌人(筆名:西須諸次)としても知られてきました。

〇和達清夫の主要な著作

・『大地雲の話』(1927年)
・『地震』(1933年)
・『あく迄希望あれ 西須諸次肺病文叢第一集』(1941年)
・『地球と人』(1949年)
・『沈まぬ都会』(1949年)
・『青い太陽』(1971年)
・随筆集『地震の顔』(1983年)

☆和達清夫関係略年表

・1902年(明治35)9月8日 愛知県名古屋市において、生まれる
・1920年(大正9)  東京開成中学校を卒業する
・1925年(大正14) 東京帝國大学理学部物理学科を卒業、中央気象台(現在の気象庁)に勤務する
・1932年(昭和7) 東京帝國大学から理学博士の学位を取得し、日本学士院恩賜賞を受賞する
・1943年(昭和18) 満州国観象台長となる
・1947年(昭和22) 中央気象台長となり、地震予知研究連絡委員会(地震予知連絡会の前身)発足とともに委員長となる
・1952年(昭和27) 「気象業務法」の施行を進める
・1956年(昭和31) 中央気象台は昇格して気象庁となり、初代長官に就任する
・1960年(昭和35) 第5期日本学術会議議長に就任する
・1963年(昭和38) 気象庁を退官、国立防災科学技術センター(現在の防災科学技術研究所)所長となる
・1966年(昭和41) 埼玉大学長となる
・1968年(昭和43) 中央公害対策審議会会長となる
・1969年(昭和44) 日本気象学会の名誉会員となる
・1971年(昭和46) 文化功労者となる
・1972年(昭和47) 埼玉大学長を辞め、勲一等瑞宝章を受章する
・1974年(昭和49) 日本学士院院長となる
・1976年(昭和51) 第27回NHK放送文化賞を受賞する
・1981年(昭和56) アメリカ地震学会1980メダルを受ける
・1982年(昭和57) 第29回交通文化賞を受賞、東京地学協会会長となる
・1985年(昭和60) 文化勲章を受章、東京都名誉都民となる
・1988年(昭和63) 中央公害対策審議会会長を辞める
・1995年(平成7)1月5日 東京において、92歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(正平3)楠木正成の子・楠木正行が高師直軍との四条畷の戦いに敗れ自刃(新暦2月4日)詳細
1593年(文禄2)第106代の天皇とされる正親町天皇の命日(新暦2月6日)詳細
1963年(昭和38)「三八豪雪」が始まり、日本海側に記録的大雪をもたらす詳細
1974年(昭和49)中国の北京において、「日中貿易協定」が締結(同年6月22日発効)される詳細
1978年(昭和53)陶芸家・人間国宝濱田庄司の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1967年(昭和42)に、歌人で大正三美人の1人とされる柳原白蓮が亡くなった日です。
 柳原白蓮(やなぎわら びゃくれん)は、東京において、伯爵だった父・柳原前光(さきみつ)と妾の母・りょうの子として生まれ、品川に里子に出されましたが、本名は愛子と言いました。1892年(明治25)に柳原家に戻り、麻布南山小学校入学、1894年(明治27)には、子爵・北小路隨光(よりみつ)の養女となり、竹早の師範附属小学校に転校します。
 1898年(明治31)に華族女学校に入学したものの、1900年(明治33)に中退して、北小路資武と結婚、佐佐木信綱に師事し『心の花』に作品を発表しました。1901年(明治34)に男児(功光)を出産しましたが、1905年(明治38)には、北小路資武と離婚、子を残して実家に戻っています。
 1908年(明治41)に東洋英和女学校に編入学し竹柏会に入門し、1910年(明治43)に卒業後、翌年には九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚し“筑紫の女王”と呼ばれるようになりました。1915年(大正4)に白蓮の雅号で第一歌集『踏絵』上梓、1917年(大正6)に筑豊疑獄事件で証人として出廷、1919年(大正8)には、詩集『几帳のかけ』・歌集『幻の華』を刊行します。
 1920年(大正9)に編集者として別府を訪れた社会主義者の宮崎龍介と出会い、翌年には、白蓮事件(宮崎龍介と駆け落ち)を起こし、伊藤伝右衛門と離婚しました。1922年(大正11)に男児(香織)を出産しましたが、翌年9月1日に関東大震災に遭遇、香織と共に宮崎家に入り、華族を除籍され、以降、柳原白蓮、柳原燁子の筆名で活動することとなります。
 その中で、小説『則天武后』(1924年)、歌集『紫の梅』(1925年)、自伝小説『荊棘の実』、小説『恋愛懺悔』(1928年)などを刊行しました。1931年(昭和6)に宮崎滔天遺族の国賓として龍介と中国訪問し、1934年(昭和9)には、歌誌『ことたま』を創刊し主宰するようになります。
 1945年(昭和20)に、子の香織が鹿児島県串木野市で戦災死し、太平洋戦争後の1946年(昭和21)には、悲母の会を結成し平和運動に参加しました。1947年(昭和22)に歌集『踏絵・幻の華』(日本文学選)、1950年(昭和25)には『短歌教室』を刊行します。
 1956年(昭和31)に歌集『地平線』を刊行したものの、1961年(昭和36)には、緑内障で徐々に両眼の視力を失い、1967年(昭和42)2月22日に、東京・西池袋の自宅において、81歳で亡くなりました。

<代表的な歌>

・「踏絵もて ためさるる日の 来しごとも 歌反故(ほご)いだき 立てる火の前」(踏絵)
・「わが命 惜まるるほどの 幸を 初めて知らむ 相許すとき」
・「われなくば わが世もあらじ 人もあらじ まして身をやく 思ひもあらじ」
・「思ひきや 月も流転の かげぞかし わがこし方に 何をなげかむ」

〇柳原白蓮の主要な著作

・歌集『踏絵』(1915年)
・歌集『幻の華』(1919年)
・詩集『几帳のかげ』(1919年)
・小説『則天武后』(1924年)
・歌集『紫の梅』(1925年)
・自伝小説『荊棘の実』(1928年)
・小説『恋愛懺悔』(1928年)
・『短歌教室』(1950年)
・歌集『地平線』(1956年)

☆柳原白蓮関係略年表

・1885年(明治18)10月15日 東京において、伯爵だった父・柳原前光(さきみつ)と妾の母・りょうの子として生まれ、品川に里子に出される
・1892年(明治25) 柳原家に戻り、麻布南山小学校入学する
・1894年(明治27) 子爵・北小路隨光(よりみつ)の養女となり、竹早の師範附属小学校に転校する
・1898年(明治31) 華族女学校に入学する
・1900年(明治33) 華族女学校を中退、北小路資武と結婚、佐佐木信綱に師事し『心の花』に作品を発表する
・1901年(明治34) 男児(功光)を出産する
・1905年(明治38) 北小路資武と離婚、実家に戻る
・1908年(明治41) 東洋英和女学校に編入学、竹柏会に入門する
・1910年(明治43)3月 東洋英和女学校卒業する
・1911年(明治44)2月 九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚する
・1915年(大正4) 白蓮の雅号で第一歌集『踏絵』上梓する
・1917年(大正6)4月 筑豊疑獄事件で証人として出廷する
・1919年(大正8) 詩集『几帳のかけ』・歌集『幻の華』を刊行する
・1920年(大正9)1月 編集者として別府を訪れた社会主義者の宮崎龍介と出会う、戯曲『指鬘外道』を刊行する
・1921年(大正10)10月 白蓮事件(宮崎龍介と駆け落ち)、伊藤伝右衛門と離婚、『白蓮自選歌集』を刊行する
・1922年(大正11)5月 男児(香織)を出産する
・1923年(大正12)9月 関東大震災に会い、香織と共に宮崎家に入る
・1923年(大正12)11月16日 華族を除籍され、以降、柳原白蓮、柳原燁子の筆名で活動する
・1924年(大正13) 小説『則天武后』を刊行する
・1925年(大正14)9月 長女・蕗苳誕生、歌集『紫の梅』を刊行する
・1928年(昭和3) 歌集『流転』、『筑紫集』、自伝小説『荊棘の実』、小説『恋愛懺悔』を刊行する
・1930年(昭和5) 小説『青春譜』を刊行する
・1931年(昭和6) 宮崎滔天遺族の国賓として龍介と中国訪問する
・1934年(昭和9) 歌誌『ことたま』を創刊し主宰する
・1937年(昭和12)7月 盧溝橋事件がある
・1939年(昭和14) 『歴代女流歌人の鑑賞』を刊行する
・1943年(昭和18) 小説『民族のともしび』を刊行する
・1945年(昭和20)8月 子の香織が鹿児島県串木野市で戦災死する
・1946年(昭和21)1月 長女・蕗苳結婚、悲母の会を結成し平和運動に参加する
・1947年(昭和22) 歌集『踏絵・幻の華』(日本文学選)を刊行する
・1950年(昭和25) 『短歌教室』を刊行する
・1954年(昭和29) 『ことたま選集』
・1956年(昭和31)5月 龍介と中国訪問し毛沢東主席、周恩来総理と対面、歌集『地平線』を刊行する
・1961年(昭和36) 緑内障で徐々に両眼の視力を失う
・1967年(昭和42)2月22日 東京・西池袋の自宅において、81歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

622年(推古天皇30)政治家・宗教的思想家聖徳太子が亡くなったとされる日(新暦4月8日)詳細
1239年(延応元)第82代の天皇後鳥羽天皇の命日(新暦3月28日)詳細
1875年(明治8)板垣退助が大阪で自由民権運動の政治団体「愛国社」を創設する詳細
1989年(平成元)佐賀県吉野ヶ里遺跡で弥生時代後期の国内最大規模の環濠集落発見と報道される詳細
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fujiwaranoyorimichi01
 今日は、平安時代後期の1074年(延久6)に、公卿・歌人藤原頼通が亡くなった日ですが、新暦では3月2日となります。
 藤原頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期の992年(正暦3年1月)に、京都において、摂政・関白・太政大臣だった、父・藤原道長の嫡男(母は左大臣源雅信の娘倫子)として生まれましたが、幼名は田鶴(たづ)と言いました。1003年(長保5)に元服し、正五位下に叙位、昇殿と禁色を許され、侍従に任官します。
 翌年には、従四位下に昇叙し、近江介を兼任、春日祭使(藤原氏の氏社奈良の春日社の大祭に朝廷から派遣される使者)に選ばれました。1006年 (寛弘3) に従三位、1009年(寛弘6)に権中納言、1011年(寛弘8)に正二位、1013年(長和2)に権大納言、1015年(長和4)に左近衛大将と順調に昇叙・任官します。
 同年に内大臣となり、後一条天皇の摂政を父・道長から譲られ、藤原氏長者ともなり、1019年(寛仁3)には関白宣下されました。1021年(治安元)に居邸高陽院を壮麗に造営して世の耳目を集め、1021年(治安元)に従一位に昇叙し、左大臣に転任します。
 1024年(万寿元)に高陽院において競馬を催したりしますが、1028年(万寿4)には、父・道長が亡くなりました。1035年(長元8)に関白左大臣頼通歌合を開催、1037年(長暦元)に養女嫄子(げんし)が後朱雀天皇に入内、1051年(永承6)には、平親王の女との間に生まれた寛子(かんし)が後冷泉天皇の皇后となり、天皇との姻戚関係を強め、藤原氏全盛時代を築きます。
 一方で、1040年(長久元)、1045年(寛徳2)、1055年(天喜3)に「荘園整理令」に着手したものの、権門擁護策に終わりました。後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の3代、50余年に渡って、摂政あるいは関白の座を占め、女子を天皇の後宮にいれて、外孫皇子の誕生を期待しましたが、その誕生がないままとなります。
 1061年(康平4)に太政大臣まで上り詰めたものの、翌年には辞し、1064年(康平7)に藤原氏長者も辞め、1067年(治暦3)には関白も辞し、准三宮を宣下されました。翌年には、170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位し、1072年(延久4)には、出家し法名を蓮華覚、のち、寂覚とします。
 1052年(永承8)に宇治の別荘を宇治平等院鳳凰堂として建立していましたが、そこに隠遁し、1074年(延久6年2月2日)に宇治において、数え年83歳で亡くなりました。尚、歌人としても知られ、歌壇の後援者として大きな存在で、私家集の集成や歌合類聚事業など、和歌史上の功績も大きく、『後拾遺和歌集』初出後、勅撰集入集は15首にも及んでいます。

<藤原頼通の代表的歌>

・「そらならば たづねきなまし 梅の花 まだ身にしまぬ 匂ひとぞみる」(新勅撰和歌集)
・「有明の 月だにあれや ほととぎす ただ一声の ゆくかたも見む」(後拾遺和歌集)
・「見もはてで さめけむ夢を 思ふにも これぞうつつと いかで知らせむ」(玉葉和歌集)

〇藤原頼通関係略年表(日付は旧暦です)

・992年(正暦3年1月) 京都において、摂政・関白・太政大臣だった父・藤原道長の嫡男(母は左大臣源雅信の娘倫子)として生まれる
・1003年(長保5年2月20日) 元服し、正五位下に叙位、昇殿と禁色を許される
・1003年(長保5年2月28日) 侍従に任官する
・1004年(長保6年1月7日) 従四位下に昇叙し、右近衛少将如元
・1004年(長保6年1月24日) 近江介を兼任する
・1004年(長保6年) 春日祭使(藤原氏の氏社奈良の春日社の大祭に朝廷から派遣される使者)に選ばれる
・1005年(寛弘2年10月22日) 従四位上に昇叙し、右近衛少将如元
・1006年(寛弘3年3月4日) 従三位に昇叙し、右近衛少将如元
・1006年(寛弘3年9月22日) 正三位に昇叙し、右近衛少将如元
・1007年(寛弘4年1月28日) 春宮(のちの三条天皇こと、居貞親王)権大夫に転任する
・1008年(寛弘5年10月16日) 従二位に昇叙し、春宮権大夫如元
・1009年(寛弘6年3月4日) 権中納言に転任し、左衛門督を兼任、春宮権大夫如元
・1011年(寛弘8年6月9日) 正二位に昇叙し、権中納言・左衛門督如元
・1011年(寛弘8年6月13日) 春宮権大夫如元
・1013年(長和2年6月23日) 権大納言に転任し、春宮権大夫如元
・1015年(長和4年10月27日) 左近衛大将を兼任する
・1016年(長和5年1月29日) 春宮権大夫を停む
・1017年(長和6年3月4日) 内大臣に転任する
・1017年(長和6年3月6日) 左近衛大将如元
・1017年(長和6年3月16日) 摂政宣下、内大臣・左近衛大将如元
・1017年(長和6年3月22日) 左近衛大将を辞任する
・1019年(寛仁3年12月22日) 摂政を止め、関白宣下、内大臣如元
・1021年(治安元年) 居邸高陽院を壮麗に造営して世の耳目を集める
・1021年(治安元年1月7日) 従一位に昇叙し、関白・内大臣如元
・1021年(治安元年7月25日) 左大臣に転任し、関白如元
・1021年(治安元年8月10日) 太政大臣(藤原公季)の下に列する旨の宣旨あり
・1024年(万寿元年秋) 高陽院において競馬を催す
・1028年(万寿4年12月4日) 父・藤原道長が亡くなる
・1035年(長元8年) 関白左大臣頼通歌合を開催する
・1037年(長暦元年) 養女嫄子(げんし)が後朱雀天皇に入内する
・1040年(長久元年) 「荘園整理令」を出す
・1045年(寛徳2年) 「荘園整理令」を出す
・1051年(永承6年) 陸奥国で前九年の役が勃発する
・1051年(永承6年) 平親王の女との間に生まれた寛子(かんし)が後冷泉天皇の皇后となる
・1052年(永承8年) 宇治の別荘を宇治平等院鳳凰堂として建立する
・1055年(天喜3年) 「荘園整理令」を出す
・1060年(康平3年7月17日) 左大臣を辞し、関白如元
・1061年(康平4年12月21日) 太政大臣宣下、関白如元
・1062年(康平5年9月2日) 太政大臣を辞す
・1064年(康平7年12月13日) 藤原氏長者を辞す
・1067年(治暦3年4月16日) 関白を辞し、准三宮宣下される
・1068年(治暦4年4月19日) 170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位する
・1072年(延久4年4月29日) 出家し法名を蓮華覚、のち、寂覚とする
・1074年(延久6年2月2日) 山城国宇治において、数え年83歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

749年(天平21)社会事業に尽力した法相宗の僧行基の命日詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)が結成される詳細
1942年(昭和17)大日本国防婦人会・愛国婦人会・大日本聯合婦人会を統合し、大日本婦人会が発足詳細
1971年(昭和46)湿地の保存に関する「ラムサール条約」が調印される(世界湿地デー)詳細
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