今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)に、文芸評論家青野季吉の生まれた日です。
青野季吉(あおの すえきち)は、新潟県佐渡郡沢根町(現在の佐渡市)において、酒造業、廻船問屋を営む地主であった父・青野半五郎と母・ヒサの長男として生まれましたが、1894年(明治27)に母・ヒサ、1896年(明治29)に父・半五郎を亡くしました。新潟県立佐渡中学校、新潟県立高田師範学校第二部を経て、1910年(明治43)に早稲田大学文科予科一年に編入し、1912年(明治45)には、本科に進みます。
1915年(大正4)に卒業後、読売新聞社入社し、社会部記者となったものの、1918年(大正7)に社内上層部のシベリア出兵論に反対し対立が深まり、1919年(大正8)に日本で最初にロープシンの『蒼ざめた馬』の翻訳を発表後、読売新聞社を辞職しました。1921年(大正10)に市川正一、平林初之輔、佐野文夫らと「無産階級」を発刊、1922年(大正11)に評論『心霊の滅亡』を「新潮」に発表して評論家として世に出ます。
1923年(大正12)に「種まく人」の同人となり、『階級闘争と芸術運動』を発表、1924年(大正13)には、徳田球一とともに上海に渡り、帰国後「文芸戦線」の同人となり、プロレタリア文学理論の確立に努めました。1925年(大正14)に『無産政党と社会運動』、1926年(大正15)に最初の評論集『解放の芸術』、1927年(昭和2)に第二評論集『転換期の文学』を刊行、プロレタリア文学団体の分裂の際に労農芸術家連盟(労芸)に所属します。
1929年(昭和4)に第三評論集『マルクス主義文学闘争』を刊行、1936年(昭和11)には、早稲田大学文学部講師となりましたが、1938年(昭和13)に第二次人民戦線事件において、「治安維持法」違反で検挙され、翌年に保釈出獄しました。戦争中の1941年(昭和16)に『文学の場所』、『文学の本願』、1942年(昭和17)に『回心の文学』、『文学の美徳』、1943年(昭和18)には、自伝『一つの石』を刊行しています。
戦後の1946年(昭和21)に『文学と人間』、『芸術の園』などを刊行、1948年(昭和23)に日本ペンクラブの副会長となり、1949年(昭和24)には、『日本現代小説体系』の編集に参加、発足したばかりの国語審議会の委員を務めました。1950年(昭和25)に『現代文学論』で第1回読売文学賞の文芸評論賞を受賞、1951年(昭和26)に日本文藝家協会会長に就任、1952年(昭和27)には、「社会タイムス」発刊に際し、社長兼編集局長となります。
1954年(昭和29)に『現代文学論大系』の編集に従事し、1956年(昭和31)に中国に招かれて旅行、日本芸術院会員となり、1958年(昭和33)には、回想記『文学五十年』で毎日出版文化賞を受賞しました。1960年(昭和35)に早稲田大学文学部講師を定年退職したものの、1961年(昭和36)6月23日に、東京の慶應義塾大学病院において、胃癌のため、71歳で亡くなっています。
1915年(大正4)に卒業後、読売新聞社入社し、社会部記者となったものの、1918年(大正7)に社内上層部のシベリア出兵論に反対し対立が深まり、1919年(大正8)に日本で最初にロープシンの『蒼ざめた馬』の翻訳を発表後、読売新聞社を辞職しました。1921年(大正10)に市川正一、平林初之輔、佐野文夫らと「無産階級」を発刊、1922年(大正11)に評論『心霊の滅亡』を「新潮」に発表して評論家として世に出ます。
1923年(大正12)に「種まく人」の同人となり、『階級闘争と芸術運動』を発表、1924年(大正13)には、徳田球一とともに上海に渡り、帰国後「文芸戦線」の同人となり、プロレタリア文学理論の確立に努めました。1925年(大正14)に『無産政党と社会運動』、1926年(大正15)に最初の評論集『解放の芸術』、1927年(昭和2)に第二評論集『転換期の文学』を刊行、プロレタリア文学団体の分裂の際に労農芸術家連盟(労芸)に所属します。
1929年(昭和4)に第三評論集『マルクス主義文学闘争』を刊行、1936年(昭和11)には、早稲田大学文学部講師となりましたが、1938年(昭和13)に第二次人民戦線事件において、「治安維持法」違反で検挙され、翌年に保釈出獄しました。戦争中の1941年(昭和16)に『文学の場所』、『文学の本願』、1942年(昭和17)に『回心の文学』、『文学の美徳』、1943年(昭和18)には、自伝『一つの石』を刊行しています。
戦後の1946年(昭和21)に『文学と人間』、『芸術の園』などを刊行、1948年(昭和23)に日本ペンクラブの副会長となり、1949年(昭和24)には、『日本現代小説体系』の編集に参加、発足したばかりの国語審議会の委員を務めました。1950年(昭和25)に『現代文学論』で第1回読売文学賞の文芸評論賞を受賞、1951年(昭和26)に日本文藝家協会会長に就任、1952年(昭和27)には、「社会タイムス」発刊に際し、社長兼編集局長となります。
1954年(昭和29)に『現代文学論大系』の編集に従事し、1956年(昭和31)に中国に招かれて旅行、日本芸術院会員となり、1958年(昭和33)には、回想記『文学五十年』で毎日出版文化賞を受賞しました。1960年(昭和35)に早稲田大学文学部講師を定年退職したものの、1961年(昭和36)6月23日に、東京の慶應義塾大学病院において、胃癌のため、71歳で亡くなっています。
〇青野季吉の主要な著作
・評論『心霊の滅亡』(1922年)
・『「調べた」芸術』(1925年)
・『自然生長と目的意識』(1926年)
・『解放の芸術』(1926年)
・評論集『解放の芸術』(1926年)
・評論集『転換期の文学』(1927年)
・評論集『マルクス主義文学闘争』(1929年)
・評論集『文芸と社会』(1936年)
・『現代文学論』(1950年)第1回読売文学賞の文芸評論賞受賞
・回想記『文学五十年』(1957年)毎日出版文化賞受賞
☆青野季吉関係略年表
・1890年(明治23)2月24日 新潟県佐渡郡沢根町(現在の佐渡市)において、酒造業、廻船問屋を営む地主であった父・青野半五郎と母・ヒサの長男として生まれる
・1894年(明治27) 母・ヒサが亡くなる
・1896年(明治29) 沢根町尋常小学校に入学するが、父・半五郎が亡くなる
・1902年(明治35) 新潟県立佐渡中学校へ入学する
・1907年(明治40) 新潟県立佐渡中学校を卒業して上京する
・1908年(明治41) 脚気のため帰郷し、新潟県立高田師範学校第二部へ入学する
・1909年(明治42) 新潟県立高田師範学校第二部を卒業し、神原郡袋津小学校に勤務する
・1910年(明治43) 早稲田大学文科予科一年に編入する
・1912年(明治45) 早稲田大学文科本科に進む
・1915年(大正4) 早稲田大学文科英文科卒業後、読売新聞社入社し、社会部記者となる
・1918年(大正7) 社内上層部のシベリア出兵論に反対し対立が深まる
・1919年(大正8) 日本で最初にロープシンの『蒼ざめた馬』の翻訳を発表、読売新聞社を辞職する
・1921年(大正10) 市川正一、平林初之輔、佐野文男らと「無産階級」を発刊する
・1922年(大正11) 評論『心霊の滅亡』を「新潮」に発表して評論家として世に出る
・1923年(大正12) 「種まく人」の同人となり、『階級闘争と芸術運動』を発表する
・1924年(大正13) 徳田球一とともに上海に渡り、帰国後「文芸戦線」の同人となる
・1925年(大正14) 『無産政党と社会運動』を刊行する
・1926年(大正15) 最初の評論集『解放の芸術』を刊行する
・1927年(昭和2) 第二評論集『転換期の文学』を刊行、プロレタリア文学団体の分裂の際に労農芸術家連盟(労芸)に所属する
・1929年(昭和4) 第三評論集『マルクス主義文学闘争』を刊行する
・1936年(昭和11) 早稲田大学文学部講師となる
・1938年(昭和13) 第二次人民戦線事件において、「治安維持法」違反で検挙される
・1939年(昭和14) 保釈出獄する
・1941年(昭和16) 『文学の場所』、『文学の本願』を刊行する
・1942年(昭和17) 『回心の文学』、『文学の美徳』を刊行する
・1943年(昭和18) 自伝『一つの石』を刊行する
・1946年(昭和21) 『文学と人間』、『芸術の園』などを刊行する
・1948年(昭和23) 日本ペンクラブの副会長となる
・1949年(昭和24) 『日本現代小説体系』の編集に参加、発足したばかりの国語審議会の委員を務める
・1950年(昭和25) 『現代文学論』で第1回読売文学賞の文芸評論賞を受賞する
・1951年(昭和26) 日本文藝家協会会長に就任する
・1952年(昭和27) 「社会タイムス」発刊に際し、社長兼編集局長となる
・1954年(昭和29) 『現代文学論大系』の編集に従う
・1956年(昭和31) 中国に招かれて旅行、日本芸術院会員となる
・1958年(昭和33) 回想記『文学五十年』で毎日出版文化賞を受賞する
・1960年(昭和35) 早稲田大学文学部講師を定年退職する
・1961年(昭和36)6月23日 東京の慶應義塾大学病院において、胃癌のため、71歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1610年(慶長15) | 絵師長谷川等伯の命日(新暦3月19日) | 詳細 |
1704年(元禄17) | 俳人・蕉門十哲の一人内藤丈草の命日(新暦3月29日) | 詳細 |
1901年(明治34) | 奥村五百子らによって愛国婦人会が創立される | 詳細 |
1906年(明治39) | 日本社会党[明治期]が結成され、日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生する | 詳細 |
1933年(昭和8) | 国際連盟総会のリットン調査団報告書採択に抗議し日本全権大使松岡洋右が退場、連盟脱退宣言をする | 詳細 |
1934年(昭和9) | 小説家・脚本家・映画監督直木三十五の命日(南国忌) | 詳細 |