ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本芸術院会員

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 今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)に、文芸評論家青野季吉の生まれた日です。
 青野季吉(あおの すえきち)は、新潟県佐渡郡沢根町(現在の佐渡市)において、酒造業、廻船問屋を営む地主であった父・青野半五郎と母・ヒサの長男として生まれましたが、1894年(明治27)に母・ヒサ、1896年(明治29)に父・半五郎を亡くしました。新潟県立佐渡中学校、新潟県立高田師範学校第二部を経て、1910年(明治43)に早稲田大学文科予科一年に編入し、1912年(明治45)には、本科に進みます。
 1915年(大正4)に卒業後、読売新聞社入社し、社会部記者となったものの、1918年(大正7)に社内上層部のシベリア出兵論に反対し対立が深まり、1919年(大正8)に日本で最初にロープシンの『蒼ざめた馬』の翻訳を発表後、読売新聞社を辞職しました。1921年(大正10)に市川正一、平林初之輔、佐野文夫らと「無産階級」を発刊、1922年(大正11)に評論『心霊の滅亡』を「新潮」に発表して評論家として世に出ます。
 1923年(大正12)に「種まく人」の同人となり、『階級闘争と芸術運動』を発表、1924年(大正13)には、徳田球一とともに上海に渡り、帰国後「文芸戦線」の同人となり、プロレタリア文学理論の確立に努めました。1925年(大正14)に『無産政党と社会運動』、1926年(大正15)に最初の評論集『解放の芸術』、1927年(昭和2)に第二評論集『転換期の文学』を刊行、プロレタリア文学団体の分裂の際に労農芸術家連盟(労芸)に所属します。
 1929年(昭和4)に第三評論集『マルクス主義文学闘争』を刊行、1936年(昭和11)には、早稲田大学文学部講師となりましたが、1938年(昭和13)に第二次人民戦線事件において、「治安維持法」違反で検挙され、翌年に保釈出獄しました。戦争中の1941年(昭和16)に『文学の場所』、『文学の本願』、1942年(昭和17)に『回心の文学』、『文学の美徳』、1943年(昭和18)には、自伝『一つの石』を刊行しています。
 戦後の1946年(昭和21)に『文学と人間』、『芸術の園』などを刊行、1948年(昭和23)に日本ペンクラブの副会長となり、1949年(昭和24)には、『日本現代小説体系』の編集に参加、発足したばかりの国語審議会の委員を務めました。1950年(昭和25)に『現代文学論』で第1回読売文学賞の文芸評論賞を受賞、1951年(昭和26)に日本文藝家協会会長に就任、1952年(昭和27)には、「社会タイムス」発刊に際し、社長兼編集局長となります。
 1954年(昭和29)に『現代文学論大系』の編集に従事し、1956年(昭和31)に中国に招かれて旅行、日本芸術院会員となり、1958年(昭和33)には、回想記『文学五十年』で毎日出版文化賞を受賞しました。1960年(昭和35)に早稲田大学文学部講師を定年退職したものの、1961年(昭和36)6月23日に、東京の慶應義塾大学病院において、胃癌のため、71歳で亡くなっています。

〇青野季吉の主要な著作

・評論『心霊の滅亡』(1922年)
・『「調べた」芸術』(1925年)
・『自然生長と目的意識』(1926年)
・『解放の芸術』(1926年)
・評論集『解放の芸術』(1926年)
・評論集『転換期の文学』(1927年)
・評論集『マルクス主義文学闘争』(1929年)
・評論集『文芸と社会』(1936年)
・『現代文学論』(1950年)第1回読売文学賞の文芸評論賞受賞
・回想記『文学五十年』(1957年)毎日出版文化賞受賞

☆青野季吉関係略年表

・1890年(明治23)2月24日 新潟県佐渡郡沢根町(現在の佐渡市)において、酒造業、廻船問屋を営む地主であった父・青野半五郎と母・ヒサの長男として生まれる
・1894年(明治27) 母・ヒサが亡くなる
・1896年(明治29) 沢根町尋常小学校に入学するが、父・半五郎が亡くなる
・1902年(明治35) 新潟県立佐渡中学校へ入学する
・1907年(明治40) 新潟県立佐渡中学校を卒業して上京する
・1908年(明治41) 脚気のため帰郷し、新潟県立高田師範学校第二部へ入学する
・1909年(明治42) 新潟県立高田師範学校第二部を卒業し、神原郡袋津小学校に勤務する
・1910年(明治43) 早稲田大学文科予科一年に編入する
・1912年(明治45) 早稲田大学文科本科に進む
・1915年(大正4) 早稲田大学文科英文科卒業後、読売新聞社入社し、社会部記者となる
・1918年(大正7) 社内上層部のシベリア出兵論に反対し対立が深まる
・1919年(大正8) 日本で最初にロープシンの『蒼ざめた馬』の翻訳を発表、読売新聞社を辞職する
・1921年(大正10) 市川正一、平林初之輔、佐野文男らと「無産階級」を発刊する
・1922年(大正11) 評論『心霊の滅亡』を「新潮」に発表して評論家として世に出る
・1923年(大正12) 「種まく人」の同人となり、『階級闘争と芸術運動』を発表する
・1924年(大正13) 徳田球一とともに上海に渡り、帰国後「文芸戦線」の同人となる
・1925年(大正14) 『無産政党と社会運動』を刊行する
・1926年(大正15) 最初の評論集『解放の芸術』を刊行する
・1927年(昭和2) 第二評論集『転換期の文学』を刊行、プロレタリア文学団体の分裂の際に労農芸術家連盟(労芸)に所属する
・1929年(昭和4) 第三評論集『マルクス主義文学闘争』を刊行する
・1936年(昭和11) 早稲田大学文学部講師となる
・1938年(昭和13) 第二次人民戦線事件において、「治安維持法」違反で検挙される
・1939年(昭和14) 保釈出獄する 
・1941年(昭和16) 『文学の場所』、『文学の本願』を刊行する
・1942年(昭和17) 『回心の文学』、『文学の美徳』を刊行する
・1943年(昭和18) 自伝『一つの石』を刊行する
・1946年(昭和21) 『文学と人間』、『芸術の園』などを刊行する
・1948年(昭和23) 日本ペンクラブの副会長となる
・1949年(昭和24) 『日本現代小説体系』の編集に参加、発足したばかりの国語審議会の委員を務める
・1950年(昭和25) 『現代文学論』で第1回読売文学賞の文芸評論賞を受賞する
・1951年(昭和26) 日本文藝家協会会長に就任する
・1952年(昭和27) 「社会タイムス」発刊に際し、社長兼編集局長となる
・1954年(昭和29) 『現代文学論大系』の編集に従う
・1956年(昭和31) 中国に招かれて旅行、日本芸術院会員となる
・1958年(昭和33) 回想記『文学五十年』で毎日出版文化賞を受賞する
・1960年(昭和35) 早稲田大学文学部講師を定年退職する
・1961年(昭和36)6月23日 東京の慶應義塾大学病院において、胃癌のため、71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1610年(慶長15)絵師長谷川等伯の命日(新暦3月19日)詳細
1704年(元禄17)俳人・蕉門十哲の一人内藤丈草の命日(新暦3月29日)詳細
1901年(明治34)奥村五百子らによって愛国婦人会が創立される詳細
1906年(明治39)日本社会党[明治期]が結成され、日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生する詳細
1933年(昭和8)国際連盟総会のリットン調査団報告書採択に抗議し日本全権大使松岡洋右が退場、連盟脱退宣言をする詳細
1934年(昭和9)小説家・脚本家・映画監督直木三十五の命日(南国忌)詳細
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 今日は、平成時代の2010年(平成22)に、鋳金作家蓮田修吾郎が亡くなった日です。
 蓮田修吾郎(はすだ しゅうごろう)は、大正時代の1915年(大正4)8月2日に、石川県金沢市野田町において、父・蓮田修一郎、母・つぎの長男として生まれましたが、幼名は修次と言いました。1928年(昭和3)に石川県立工業学校図案絵画科に入学、1933年(昭和8)に卒業、卒業制作「藤下遊鹿」で、御大典記念奨学資金賞を受賞、東京美術学校(現在の東京芸術大学)工芸科鋳金部予科に入学し、高村豊周に師事します。
 1938年(昭和13)に卒業、第3回実在工芸美術展では卒業制作の鋳白銅浮彫「龍班スクリーン」で実在工芸賞を受賞しました。1939年(昭和14)から軍役を勤め(~1945年)、1943年(昭和18)に満州の中央銀行造幣廠彫刻課に勤務、太平洋戦争後の1946年(昭和21)に満州国奉天より復員して帰国、金沢市に帰ります。
 1948年(昭和23)に金沢市在住の同人とR工芸集団を設立し作品を発表、1949年(昭和24)の第5回日展に鋳銅「水瓶」を初出品、初入選し、1951年(昭和26)の第7回日展に鋳白銅「鷲トロフィー」を出品、特選・白寿賞を受賞しました。1952年(昭和27)に日展無鑑査となり、1953年(昭和28)の第9回日展に鋳銅浮彫「黒豹スクリーン」を出品、北斗賞を受賞、1959年(昭和34)には、東京芸術大学美術学部非常勤講師となり、第2回日展(新日展)に黄銅浮彫「野牛とニンフ」を出品、文部大臣賞を受賞します。
 1961年(昭和36)の第4回日展に鋳銅浮彫「森の鳴動」を出品、「社団法人 現代工芸美術家協会」の設立に参画、東京芸術大学美術学部助教授に昇任、翌年に「森の鳴動」で日本芸術院賞を受賞しました。1965年(昭和40)にベルリン芸術祭使節として訪独、欧州歴訪、1966年(昭和41)に紺綬褒章を受章、1967年(昭和42)には、神奈川県鎌倉市へ住居を移しアトリエを新築します。
 1969年(昭和44)に社団法人日展が改組され、理事に就任、1971年(昭和46)に神奈川県工芸会の会長、1972年(昭和47)には、現代工芸美術家協会神静会の設立に際し会長に就任しました。1974年(昭和49)に日展の常務理事、1975年(昭和50)に東京芸術大学美術学部の教授に昇任し、日本芸術院会員となり、1976年(昭和51)には、現代工芸美術家協会の副会長となり、東京芸術大学美術学部教授を退任、「日本金属造型研究所」を設立して理事長となります。
 1981年(昭和56)に北方領土返還祈念モニュメント「四島のかけ橋」が完成、現代工芸美術家協会会長、日本金属造型振興会理事長となり、1982年(昭和57)にドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章を受章、1983年(昭和58)には、石川県名誉県民、金沢市名誉市民となりました。1987年(昭和62)に文化功労者となり、1991年(平成3)に文化勲章を受章、1992年(平成4)に石川県名誉県民、金沢市名誉市民、1996年(平成8)には日展顧問となります。
 1998年(平成10)に現代工芸美術家協会の最高顧問、2007年(平成19)には、鎌倉市名誉市民となったものの、2010年(平成22)1月6日に、神奈川県鎌倉市の病院において、敗血症のため、95歳で亡くなりました。

〇蓮田修吾郎の主要な著書・作品

<著書>
・『黄銅への道 金属造型作家のあゆみ』(1979年)
・『蓮田修吾郎金属造型』(1981年)
・『公共の空間へ 金属造型作家の活動』(1982年)
・『環境造型への対話』(1986年)

<作品>
・鋳白銅浮彫「龍班スクリーン」(1938年)実在工芸賞受賞
・鋳銅浮彫「黒豹スクリーン」(1953年)北斗賞受賞
・黄銅浮彫「野牛とニンフ」(1959年)文部大臣賞受賞
・鋳銅浮彫「森の鳴動」(1961年)日本芸術院賞受賞
・鋳銅浮彫「仁王の印象」(1962年)
・「朱銅壺 遙か」(1965年)
・「ルルド雲仙」(1975年)
・モニュメント「四島のかけ橋」(1981年)
・モニュメント「森の旋律」(1987年)
・モニュメント「悠颺(ゆうよう)」(1991年)

☆蓮田修吾郎関係略年表

・1915年(大正4)8月2日 石川県金沢市野田町において、父・蓮田修一郎、母・つぎの長男として生まれる
・1922年(大正11) 静岡県立浜松師範附属小学校に入学、「王様クレヨンの全国児童選抜展」に入賞する
・1928年(昭和3) 石川県立工業学校図案絵画科に入学する
・1933年(昭和8) 石川県立工業学校図案絵画科を卒業、卒業制作「藤下遊鹿」で、御大典記念奨学資金賞を受賞、東京美術学校(現在の東京芸術大学)工芸科鋳金部予科に入学し、高村豊周に師事する
・1938年(昭和13) 東京美術学校工芸科鋳金部を卒業、第3回実在工芸美術展では卒業制作の鋳白銅浮彫「龍班スクリーン」で実在工芸賞を受賞する
・1939年(昭和14) 軍役をつとめる(~1945年)
・1943年(昭和18) 満州の中央銀行造幣廠彫刻課に勤務する
・1946年(昭和21) 満州国奉天より復員して帰国、金沢市に帰る
・1948年(昭和23) 金沢市在住の同人とR工芸集団を設立し作品を発表する
・1949年(昭和24) 第5回日展に鋳銅「水瓶」を初出品、初入選する
・1951年(昭和26) 第7回日展に鋳白銅「鷲トロフィー」を出品、特選・白寿賞を受賞する
・1952年(昭和27) 日展無鑑査となる
・1953年(昭和28) 第9回日展に鋳銅浮彫「黒豹スクリーン」を出品、北斗賞を受賞する
・1959年(昭和34) 東京芸術大学美術学部非常勤講師となり、第2回日展(新日展)に黄銅浮彫「野牛とニンフ」を出品、文部大臣賞を受賞する
・1961年(昭和36) 第4回日展に鋳銅浮彫「森の鳴動」を出品、「社団法人 現代工芸美術家協会」の設立に参画、東京芸術大学美術学部助教授に昇任する
・1962年(昭和37) 「森の鳴動」で日本芸術院賞を受賞する
・1965年(昭和40) ベルリン芸術祭使節として訪独、欧州歴訪する
・1966年(昭和41) 紺綬褒章を受章する
・1967年(昭和42) 鎌倉へ住居を移しアトリエを新築する
・1969年(昭和44) 社団法人日展が改組、理事に就任する
・1970年(昭和45) 第2回個展を銀座石井三柳堂で開催する
・1971年(昭和46) 神奈川県工芸会の会長に就任する
・1972年(昭和47) 神奈川県と静岡県在住の工芸作家による現代工芸美術家協会神静会の設立に際し会長に就任する
・1973年(昭和48) 第3回個展を日本橋高島屋で開催する
・1974年(昭和49) 日展(改組日展)の常務理事に就任する
・1975年(昭和50) 東京芸術大学美術学部の教授に昇任し、日本芸術院会員となる
・1976年(昭和51) 現代工芸美術家協会の副会長となり、東京芸術大学美術学部教授を退任、「日本金属造型研究所」を設立して理事長となる
・1979年(昭和54) 『黄銅への道 金属造型作家のあゆみ』を出版する
・1981年(昭和56) 北方領土返還祈念モニュメント「四島のかけ橋」が完成、現代工芸美術家協会会長、日本金属造型振興会理事長となる
・1982年(昭和57) ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章を受章、『公共の空間へ 金属造型作家の活動』を出版する
・1983年(昭和58) 石川県名誉県民、金沢市名誉市民に認定される
・1987年(昭和62) 文化功労者として顕彰される
・1991年(平成3) 文化勲章を受章、金沢駅モニュメント「悠颺(ゆうよう)」が完成する
・1992年(平成4) 石川県名誉県民、金沢市名誉市民となる
・1996年(平成8) 日展顧問となる
・1998年(平成10) 現代工芸美術家協会の最高顧問に就任する
・2007年(平成19) 鎌倉市名誉市民となる
・2010年(平成22)1月6日 神奈川県鎌倉市の病院において、敗血症のため、95歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

757年(天平宝字元)皇族・公卿・歌人橘諸兄の命日(新暦1月30日)詳細
1215年(建保3)鎌倉幕府初代執権北条時政の命日(新暦2月6日)詳細
1822年(文政5)洒落本・滑稽本・黄表紙・合巻作者式亭三馬の命日(新暦2月27日)詳細
1831年(天保2)禅僧・歌人・書家良寛の命日(新暦2月18日)詳細
1902年(明治35)生態学者・文化人類学者・登山家・探検家今西錦司の誕生日詳細
1977年(昭和52)国鉄が「一枚のキップから」キャンペーンを開始する詳細
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 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、彫刻家長江録弥の生まれた日です。
 長江録弥(ながえ ろくや)は、愛知県瀬戸市上品野町で生まれましたが、幼少の頃から絵を描くことが好きで、次第に芸術に関心を持つようになりました。1943年(昭和18)に上京して、多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)彫刻科に入学したものの、太平洋戦争下において、招集を受けます。
 戦後、学校に復帰、1948年(昭和23)に卒業し、この年の日展で初入選しました。1952年(昭和27)に神奈川県川崎市高津区に自宅兼アトリエを建てましたが、1955年(昭和30)に長女が誕生したものの、妻が入院し、生活が困窮します。
 1957年(昭和32)に日彫展に出品し、1964年(昭和39)に「芽」で、第7回日展特選、1965年(昭和40)に「乾漆作品の一」で、第8回日展特選と連続して栄誉を受けました。続いて、1966年(昭和41)に「憩ふ」で、第9回日展の菊花賞を受賞、1980年(昭和55)には、日展評議員となります。
 さらに、1984年(昭和59)に「倒れる」で、第3回高村光太郎大賞展で優秀賞、1986年(昭和61)に「思考」で、第18回日展文部大臣賞を受賞しました。1991年(平成3)に脱乾漆像「砂丘」で、日本芸術院賞を受賞、1992年(平成4)に日展理事に就任、1995年(平成7)には、日本芸術院会員となります。
 1996年(平成8) 日展常務理事となり、1997年(平成9)に神宮美術館に「猿田彦神」が収蔵され、1998年(平成10)には、瀬戸市名誉市民となり、日本彫刻会理事長に就任しました。1999年(平成11)に紺授褒章、翌年には勲三等瑞宝章を受章したものの、2005年(平成17)4月6日に、神奈川県川崎市高津区の自宅において、79歳で亡くなり、従四位を追贈されています。

〇長江録弥の主要な作品

・「芽」(1964年)第7回日展特選
・「乾漆作品の一」(1965年)第8回日展特選
・「憩ふ」(1966年)第9回日展菊花賞
・「倒れる」(1984年)第3回高村光太郎大賞展優秀賞
・「思考」(1986年)第18回日展文部大臣賞
・「砂丘」(1991年)日本芸術院賞
・「猿田彦神」(1997年)神宮美術館収蔵
・「裸婦」
・「薬師如来像」
・「老人」
・「吟遊詩人」

☆長江録弥関係略年表

・1926年(大正15)1月2日 愛知県瀬戸市上品野町で生まれる
・1943年(昭和18) 上京して、多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)彫刻科に入学する
・1948年(昭和23) 多摩帝国美術学校彫刻科を卒業し、日展で初入選する
・1952年(昭和27) 神奈川県川崎市高津区に自宅兼アトリエを建てる
・1955年(昭和30) 長女が誕生したが、妻が入院する
・1957年(昭和32) 日彫展に出品する
・1958年(昭和33) 長男眞弥が生まれる
・1964年(昭和39) 「芽」で、第7回日展特選となる
・1965年(昭和40) 「乾漆作品の一」で、第8回日展特選となる
・1966年(昭和41) 「憩ふ」で、第9回日展の菊花賞を受賞する
・1980年(昭和55) 日展評議員となる
・1984年(昭和59) 「倒れる」で、第3回高村光太郎大賞展で優秀賞を受賞する
・1986年(昭和61) 「思考」で、第18回日展文部大臣賞を受賞する
・1988年(昭和63) 川崎市立高津図書館新設にあたり、「読書」が川崎西ロータリークラブによって寄贈される
・1991年(平成3) 脱乾漆像「砂丘」で、日本芸術院賞を受賞する
・1992年(平成4) 日展理事に就任、川崎市高津区役所移転時に、陶壁「玉川」が川崎西ロータリークラブによって寄贈される
・1995年(平成7) 日本芸術院会員となる
・1996年(平成8) 日展常務理事となる
・1997年(平成9) 神宮美術館に「猿田彦神」が収蔵される
・1998年(平成10) 瀬戸市名誉市民となり、日本彫刻会理事長に就任する
・1999年(平成11) 紺授褒章を受章する
・2000年(平成12) 勲三等瑞宝章を受章する
・2005年(平成17)4月6日 神奈川県川崎市高津区の自宅において、79歳で亡くなり、従四位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1268年(文永5)蒙古の使者が来朝し、大宰府で「大蒙古国皇帝奉書(蒙古国牒状)」等を受け取る(新暦1月17日)詳細
1871年(明治4)蘭学者・医者伊東玄朴の命日(新暦2月20日)詳細
1912年(明治45)生理学者・東京慈恵会医科大学長名取礼二の誕生日詳細
1942年(昭和17)「興亜奉公日」に代えて毎月8日を「大詔奉戴日」とすることが閣議決定される詳細
1976年(昭和51)小説家・作詞家檀一雄の命日詳細
1991年(平成3)詩人・小説家野間宏の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1899年(明治32)に、小説家・劇作家川口松太郎の生まれた日です。
 川口松太郎(かわぐち まつたろう)は、東京市浅草区今戸(現在の東京都台東区)で生まれ、左官職人、川口竹次郎の養子として入籍されました。山谷堀小学校卒業後、山谷町の質屋、浅草伝法院脇の古本の露天商、象潟警察署の給仕などの仕事を転々とし、1915年(大正4)の16歳の時、栃木県芳賀郡の祖母井郵便局に勤め、久保田万太郎に師事し、文章を書き始めます。
 翌年に、「流罪人藤助」を公団雑誌に発表、岩田専太郎との交流が始まり、1919年(大正8)には、講談師・悟道軒圓玉の元で住み込み口述筆記の作業を行う傍ら、江戸文芸、漢詩文などを学びました。1922年(大正11)に、坪内逍遥らが選者となって帝国劇場創立10周年記念の戯曲募集があり、応募した『出獄』が、永井龍男らとともに入選し、翌年には、小山内薫主宰の「劇と評論」に脚本『足袋』を投稿し、これが認められて大阪プラトン社に推薦されて入社、直木三十五らと共に、娯楽紙「苦楽」の編集を行います。
 1926年(大正15)に帰京し、小説や随筆、戯曲などを執筆するようになり、1930年(昭和5)頃から、『講談倶楽部』で、現代物小説や映画読物などを執筆、1931年(昭和6)から翌年にかけて連載した『女優情艶史』は評判が高くなりました。しかし、1933年(昭和8)に不良華族事件の捜査の過程で文士らによる常習賭博が明らかになり、久米正雄、 里見弴らとともに検挙され、罰金刑を受けます。
 1934年(昭和9)に「オール讀物」に掲載した明治時代の芸人世界を舞台にした人情もの『鶴八鶴次郎』の評判が良くなり、翌年には、『風流深川唄』、『明治一代女』と共に、第1回直木賞を受賞しました。1937年(昭和12)から翌年に欠けて「婦人俱楽部」に連載した、『愛染かつら』がベストセラーとなり、田中絹代・上原謙の主演による映画化も爆発的なヒットとなって、一躍花形作家となります。
 1940年(昭和15)に花柳章太郎らと共に、劇団新生新派主事となり、専属脚本化として長年にわたり脚本を書くことになりました。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に大映映画株式会社、制作担当専務取締役に就任し、1949年(昭和24)に直木賞が再開されると選考委員となります。
 1959年(昭和34)に毎日演劇賞、1963年(昭和38)に第11回菊池寛賞を受賞し、翌年には、文京区小石川水道町(現在の春日)へ転居しました。1966年(昭和41)に日本芸術院会員(第三部・演劇)、1969年(昭和44)に『しぐれ茶屋おりく』で、第3回吉川英治文学賞、1973年(昭和48)には、文化功労者と、数々の栄誉に輝きます。
 しかし、1982年(昭和57)に後妻・三益愛子に先立たれ、1985年(昭和60)6月9日に、東京の東京女子医科大学病院において、肺炎により、85歳で亡くなりました。

〇川口松太郎の主要な著作

・『鶴八鶴次郎』(1934年)第1回直木賞受賞
・『風流深川唄(うた)』(1935年)第1回直木賞受賞
・『明治一代女』(1935年)第1回直木賞受賞
・『愛染(あいぜん)かつら』(1937~38年)
・『夜の蝶(ちょう)』(1957年)
・『新吾十番勝負』(1957~59年)
・『飯と汁』(1960年)
・『破れかぶれ』(1965年)
・『しぐれ茶屋おりく』(1969年)第3回吉川英治文学賞受賞

☆川口松太郎関係略年表

・1899年(明治32)10月1日 東京市浅草区今戸(現在の東京都台東区)で生まれ、左官職人、川口竹次郎の養子として入籍される
・1915年(大正4) 16歳の時、栃木県芳賀郡の祖母井郵便局に勤め、久保田万太郎に師事し、文章を書き始める
・1916年(大正5) 17歳の時、「流罪人藤助」を公団雑誌に発表、岩田専太郎との交流が始まる
・1919年(大正8) 講談師・悟道軒圓玉の元で住み込み口述筆記の作業を行う傍ら、江戸文芸、漢詩文などを学ぶ
・1922年(大正11) 坪内逍遥らが選者となって帝国劇場創立10周年記念の戯曲募集があり、応募した『出獄』が、永井龍男らとともに入選する
・1923年(大正12) 小山内薫主宰の「劇と評論」に脚本「足袋」を投稿し、これが認められて大阪プラトン社に推薦され入社、直木三十五らと共に、娯楽紙「苦楽」の編集を行う
・1926年(大正15) 帰京し、小説や随筆、戯曲などを執筆する
・1930年(昭和5) この頃から、『講談倶楽部』で、現代物小説や映画読物などを執筆する
・1931年(昭和6) 翌年にかけて連載した『女優情艶史』は評判が高くなる
・1933年(昭和8) 不良華族事件の捜査の過程で文士らによる常習賭博が明らかになり、久米正雄、 里見弴らとともに検挙され、罰金刑を受ける
・1934年(昭和9) 「オール讀物」に掲載した明治時代の芸人世界を舞台にした人情もの『鶴八鶴次郎』の評判が良くなる
・1935年(昭和10) 『風流深川唄』『鶴八鶴次郎』『明治一代女』で、第1回直木賞を受賞する
・1937年(昭和12) 翌年に欠けて「婦人俱楽部」に連載した、『愛染かつら』がベストセラーとなり、田中絹代・上原謙の主演による映画化も爆発的なヒットとなって、一躍花形作家となります
・1940年(昭和15) 花柳章太郎らと共に、劇団新生新派主事となり、専属脚本化として長年にわたり脚本を書く
・1947年(昭和22) 大映映画株式会社、制作担当専務取締役に就任する
・1949年(昭和24) 直木賞が再開されると選考委員となる
・1959年(昭和34) 毎日演劇賞を受賞する
・1963年(昭和38) 第11回菊池寛賞を受賞する
・1964年(昭和39) 文京区小石川水道町(現在の春日)へ転居する
・1966年(昭和41) 日本芸術院会員(第三部・演劇)となる
・1969年(昭和44) 『しぐれ茶屋おりく』で、第3回吉川英治文学賞を受賞する
・1973年(昭和48) 文化功労者となる
・1982年(昭和57) 後妻・三益愛子に膵臓癌により71歳で先立たれる
・1985年(昭和60)6月9日 東京の東京女子医科大学病院において、肺炎により、85歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

684年(天武天皇13)八色の姓が制定される詳細
1555年(天文24)巌島の戦いで、毛利元就軍が陶晴賢軍を破る(新暦10月16日)詳細
1937年(昭和12)「防空法」(昭和12年法律第47号)が施行(公布は同年4月5日)される詳細
1955年(昭和30)新潟県新潟市で昭和新潟大火が起きる詳細
1964年(昭和39)東海道新幹線の東京~新大阪が開業する詳細
1997年(平成9)磐越自動車道が西会津IC~津川IC間の供用開始により、全線開通する詳細
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 今日は、平成時代の2004年(平成16)に、ガラス工芸家で日本のガラス工芸の第一人者だった藤田喬平の亡くなった日です。
 藤田喬平(ふじた きょうへい)は、大正時代の1921年(大正10)4月28日に、東京府豊多摩群大久保町(現在の東京都新宿区百人町)に生まれました。目白商業学校を経て、東京美術学校(現在の東京芸術大学)工芸科彫金部へ進み、彫金を学びましたが、1944年(昭和19)に同校を卒業後、1946年(昭和21)の第1回日展に、金属による立体的な造形作品「波」を出品し初入選、染織家の長浜重太郎が主宰する真赤土工芸会に参加、ガラス工芸に転向し、1947年(昭和22)に岩田工芸硝子に入社します。
 しかし、1949年(昭和24)に同社を退職し、ガラス作家として独立、1955年(昭和30)には、市川市北方に転居しました。1957年(昭和32)に上野松坂屋にて初の個展「藤田喬平手吹きガラス器新作展」を開催、1961年(昭和36)には、日本橋高島屋にて「藤田喬平硝子工芸創作展」が開催され、以降毎年開催されるようになります。
 1964年(昭和39)に個展で発表した「虹彩」が、同年「現代日本の工芸」展(国立近代美術館京都分館)に招待出品されました。1973年(昭和48)の個展で飾筥「菖蒲」を発表し、以後この「菖蒲」シリーズは晩年まで制作が続けられることとなります。
 1976年(昭和51)に日本ガラス工芸協会会長(~2003年)に就任、翌年にイタリアのベネチアを訪れたのを機に、色ガラスの技法を学びました。1986年(昭和61)の第25回「日本現代工芸美術展」に招待出品し、文部大臣賞を受賞、1989年(平成元)には、飾筥「春に舞う」で、日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、日本芸術院会員となります。
 1994年(平成6)に勲三等瑞宝章を受章、1996年(平成8)に宮城県松島に藤田喬平美術館が開館、1997年(平成9)には、文化功労者として顕彰を受け、紺綬褒章を受章しました。1998年(平成10)にアメリカ、ガラス・アート・ソサエティーより、ライフタイム・アチーブメントアワードを受賞、1999年(平成11)には、市川市名誉市民となります。
 2002年(平成14)に文化勲章を受章しましたが、2004年(平成16)9月18日に、東京都千代田区の病院において、肺炎のため、83歳で亡くなりました。

〇藤田喬平の主要な作品

・鉄のオブジェ「波」(1946年)日展初入選
・流動ガラス「虹彩」(1964年)
・飾筥「菖蒲」(1973年)
・飾筥「春に舞う」(1989年)芸術院恩賜賞受賞

☆藤田喬平関係略年表

・1921年(大正10)4月28日 東京府豊多摩群大久保町(現在の東京都新宿区百人町)に生まれる
・1944年(昭和19) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)工芸科彫金部を卒業する
・1946年(昭和21) 第1回日展に、金属による立体的な造形作品「波」を出品し初入選、染織家の長浜重太郎が主宰する真赤土工芸会に参加する
・1947年(昭和22) 岩田工芸硝子に入社する
・1949年(昭和24) 岩田工芸硝子を退社し、ガラス作家として独立する
・1955年(昭和30) 市川市北方に転居する
・1957年(昭和32) 上野松坂屋にて初の個展「藤田喬平手吹きガラス器新作展」が開催される
・1961年(昭和36) 日本橋高島屋にて「藤田喬平硝子工芸創作展」が開催される
・1964年(昭和39) 日本橋高島屋第4回個展にて、流動ガラス「虹彩」を発表する
・1967年(昭和42) 日本橋高島屋第7回個展にて、流動ガラス十数点を発表する
・1973年(昭和48) 日本橋高島屋第13回個展にて、飾筥最初の作品「菖蒲」を発表する
・1974年(昭和49) 神奈川県立近代美術館「日本のガラス展」を出品する
・1975年(昭和50) デンマークの「世界のスタジオグラス展」に招待出品する
・1976年(昭和51) 日本ガラス工芸協会会長に就任する
・1977年(昭和52) イタリアのベネチアを訪れたのを機に,色ガラスの技法を学ぶ
・1978年(昭和53) 日本橋高島屋第18回個展にて、ベネチアムラーノ島にて制作の新作カンナ文様ガラス器を発表する
・1980年(昭和55) 『藤田喬平手吹きガラス作品集』(アート社)を刊行する
・1981年(昭和56) スウェーデン・オレフォス社にてクリスタル・ガラス作品を制作、千葉県立美術館にて第1回「千葉美術工芸展」に、代表理事として出品する
・1983年(昭和58) 『藤田喬平版画集』(現代版画センター)を刊行する
・1984年(昭和59) 日本橋高島屋第25回個展にて、「風」「創生」など新たな造形上の大作を発表する
・1985年(昭和60) NHK日曜美術館「アトリエ訪問-ガラスに日本美をこめて-」に出演する
・1986年(昭和61) 第25回「日本現代工芸美術展」に招待出品し文部大臣賞を受賞、『 雅びの夢-藤田喬平ガラス』(京都書院)を刊行する
・1989年(平成元) 飾筥「春に舞う」で、日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、日本芸術院会員となる
・1991年(平成3) 朝日新聞社主催「古稀記念 藤田喬平の世界」展を開催(東京、大阪、京都、横浜高島屋巡回)する
・1992年(平成4) 富山市文化センターにて「藤田喬平ガラス造形の世界展」を開催する
・1994年(平成6) 勲三等瑞宝章を受章する
・1996年(平成8) 宮城県松島に藤田喬平美術館が開館する
・1997年(平成9) 文化功労者として顕彰を受け、紺綬褒章を受章、イタリアのベネチアを訪れる
・1998年(平成10) アメリカ、ガラス・アート・ソサエティーよりライフタイム・アチーブメントアワードを受賞する
・1999年(平成11) 市川市名誉市民となる
・2000年(平成12) 『2000年記念出版 藤田喬平のガラス』(求龍堂)を刊行、日本橋三越にて「〈一期一会〉小倉遊亀・藤田喬平展」を開催、千葉県立現代産業科学館にて「市川の文化人展-藤田喬平の世界展」を開催する
・2001年(平成13) デンマーク コペンハーゲン、デンマーク工芸美術館にて個展を開催、卒寿記念個展を開催する
・2002年(平成14) 文化勲章を受章する
・2003年(平成15) 日本ガラス工芸協会会長を辞める
・2004年(平成16)9月18日 東京都千代田区の病院において、肺炎のため、83歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)元明天皇の詔勅により太安麻呂が『古事記』の編纂に着手する(新暦11月3日)詳細
1428年(正長元)正長の土一揆で京都・醍醐附近の地下人が徳政を要求して蜂起する(新暦10月26日)詳細
1868年(明治元)日本画家横山大観の誕生日(新暦11月2日)詳細
1869年(明治2)東京・築地に明治新政府により海軍操練所(海軍兵学校の前身)が設立される(新暦10月22日)詳細
1927年(昭和2)小説家徳富蘆花の命日(蘆花忌)詳細
1931年(昭和6)柳条湖事件が起き、満州事変が始まる詳細
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