ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本放送協会

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 今日は、大正時代の1925年(大正14)に、東京放送局(現在のNHK東京放送局)がラジオ仮放送を開始した日で「放送記念日」とされています。
 放送記念日(ほうそうきねんび)は、日本放送協会(NHK)が1943年(昭和18)に制定した記念日でした。1925年(大正14)のこの日、社団法人東京放送局(日本放送協会の前身)が東京・芝浦の府立東京高等工芸学校図書館書庫の仮放送所から、日本最初のラジオ放送(試験送信開始は同月1日)を行ったのを記念したものです。
 最初の第一声は、午前9時30分に、京田武男アナウンサーの「アー、アー、アー、聞こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送であります。こんにち只今より放送を開始します」でスタートしましたが、JOAKは、東京放送局のコールサイン(呼出符号)でした。「試験放送」という形で逓信省の許可を取り、3月22日には逓信省から正式に免許を受けて仮放送を開始し、7月12日に愛宕山からの本放送が開始されます。大阪放送局は、その年の6月1日から仮放送を開始しました。
 この日は、毎年日本放送協会(NHK)を中心にさまざまな記念行事がとり行われますが、1950年(昭和25)には、放送開始25周年を記念し、放送事業の発展や放送文化の開拓・向上に特別の功労があった人々に対して贈られる「放送文化賞」が創設されています。

〇日本放送協会(NHK)(にほんほうそうきょうかい)とは?

 日本で唯一の公共放送を担う事業者で、略称を「NHK(エヌ・エイチ・ケイ)」と呼んでいます。1925年(大正14)3月22日、社団法人東京放送局が仮放送を開始し、同年中に大阪、名古屋も開局しましたが、1926年(大正15)8月6日、3局が一本化して社団法人日本放送協会が設立されました。
 その後、日本各地に放送局が設立されて、全国でラジオ放送が聞けるようになっていきます。しかし、戦時下での国家統制により、銃後を担う宣伝媒体ともされました。戦後は、連合国軍総司令部(GHQ)の管理下に置かれ、放送制度改革が進められたのです。
 そして、1950年(昭和25)6月に制定された「放送法」により、特殊法人として再出発することになりました。1953年(昭和28)2月から日本初のテレビ本放送を開始し、1957年12月からはFM実験放送を開始、1959年1月には教育テレビを開局します。
 1960年(昭和35)9月には、カラーテレビ本放送も始まり、1987年(昭和62)から衛星放送を開始しました。さらに、2000年(平成12)に衛星デジタルテレビ放送を始め、2003年(平成15)には、地上デジタルテレビ放送も開始されます。
 現在、国内放送では、<ラジオ>NHKラジオ第1放送、NHKラジオ第2放送、NHK-FM放送、<テレビ>NHK総合テレビジョン、NHKEテレ、NHKBS1、NHK BSプレミアム 、NHK BS4K、NHK BS8K、海外放送では、NHKワールド JAPAN、NHKワールド・ラジオ日本、NHKワールドTV(英語放送専門)、NHKワールドプレミアム(日本語放送専門)、NHK華語視界(中国語のインターネット放送)が放映されています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

646年(大化2)「薄葬令」が発布される(新暦4月12日)詳細
1898年(明治31)『時事新報』に、福沢諭吉が執筆したとされる、社説「支那人親しむ可し」が掲載される詳細
1943年(昭和18)童話作家新見南吉の命日詳細
2005年(平成17)建築家・都市計画家・工学博士丹下健三の命日詳細
2007年(平成19)小説家・経済学者城山三郎の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1953年(昭和28)に、NHK紅白歌合戦が初の公開放送となり、この年から大晦日の放送となった日です。
 NHK紅白歌合戦(えぬえいちけいこうはくうたがっせん)は、1951年(昭和26)から毎年、日本放送協会(NHK)が放送してきた男女対抗形式の大型音楽特別番組でした。当初は、ラジオの正月特別番組として放送されたのですが、テレビの本放送開始に伴って1953年(昭和28)の第4回から大晦日(12月31日)に変更されています。
 その年に活躍した男女の人気歌手が白組(男性)と紅組(女性)に分かれて勝ち負けを競ってきました。会場は第1~3回まで東京放送会館第1スタジオでしたが、その後日本劇場、東京宝塚劇場等を経て、1973年(昭和48)の第24回からは東京・渋谷の NHKホールから生中継されています。
 たいへんな人気番組となって、テレビ視聴率は、1963年 (昭和38) の第14回に、ビデオリサーチ社による視聴率調査が始まって以来の最高視聴率81.4%を記録しました。その後も高く、関東地区のビデオリサーチ社調査では、過去の視聴率ベスト10を独占していているものの、2006年(平成18)には 30%台にまで低下しています。

〇視聴率とは?
 あるテレビの番組が、一定地域内のどれくらいの人または世帯で見られたかを示す割合のことで、世帯視聴率と個人視聴率がありますが、一般には前者を指してきました。尚、ラジオの場合は聴取率と言っています。
 調査方法としては、電話によるインタビュー、個人面接、日記による記録、特定の機械による方法などがありました。日本において歴史的には、1954年(昭和29)に「NHK放送文化研究所」が年に2回、訪問面接法による調査を開始したのが最初とされています。
 翌年には電通が年に4回、日記式のアンケートによる調査を始め(1963年1月まで)、1958年(昭和33)には社団法人中央調査社が日記式のアンケートによる調査を年に4回開始し、翌年には毎月に拡大しました。
 そして、1961年(昭和36)に外資系のニールセン社、翌年にはビデオ・リサーチ社が調査対象世帯に測定機を置く機械式調査を開始し、視聴率調査の主流となっていきます。
 ところが、2000年(平成12)にニールセン社が撤退し、現在では、ビデオリサーチ社が関西、名古屋、札幌、その他大都市地域でそれぞれ実施している機械式調査が中心となりました。その中で、NHKの放送世論調査所では年5回、日記式の全国個人視聴率調査をしてきています。
 2015年(平成27)から、関東地区においては、ビデオリサーチ社によるタイムシフト視聴率(録画して視聴するものも含めた視聴率)が提供されるようになりました。
 ちなみに、視聴率1%はほぼ100万人が視聴していることに相当するといわれ、商業放送では、広告料金の決定や広告効果測定に重要な要素となっています。しかし、行き過ぎた視聴率競争の結果、番組の質が低下しているとの批判も出されるようになりました。

☆過去のNHK紅白歌合戦視聴率ベスト10(関東地区・ビデオリサーチ社調査)

・第1位 81.4% 第14回NHK紅白歌合戦 1963年12月31日 
・第2位 80.6% 第23回NHK紅白歌合戦 1972年12月31日 
・第3位 80.4% 第13回NHK紅白歌合戦 1962年12月31日 
・第4位 78.1% 第35回NHK紅白歌合戦 1984年12月31日
・第4位 78.1% 第22回NHK紅白歌合戦 1971年12月31日 
・第4位 78.1% 第16回NHK紅白歌合戦 1965年12月31日 
・第7位 77.0% 第30回NHK紅白歌合戦 1979年12月31日 
・第7位 77.0% 第21回NHK紅白歌合戦 1970年12月31日 
・第7位 77.0% 第28回NHK紅白歌合戦 1977年12月31日
・第10位 76.9% 第19回NHK紅白歌合戦 1968年12月31日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1924年(大正13)文人画家・儒学者富岡鉄斎の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)を指令する詳細
1946年(昭和21)俳人中塚一碧楼の命日詳細
1963年(昭和38)NHK紅白歌合戦でテレビの最高視聴率81.4%を記録する詳細
1994年(平成6)小説家・推理作家多岐川恭の命日詳細
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 昭和時代前期、太平洋戦争下の1942年(昭和17)に、大政翼賛会が「海ゆかば」を国歌につぐ国民の歌として各種会合に斉唱するよう通達した日です。
 「海ゆかば」(うみゆかば)は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、信時潔(のぶとききよし)が日本放送協会(NHK)の嘱託を受けて作曲した日本歌曲で、合唱曲として、NHKラジオで放送されました。歌詞は、『万葉集』巻十八の長歌「賀陸奥国出金詔書歌」(大伴家持作)の一節から採ったものです。
 国民の戦闘意欲高揚を意図して依頼された曲で、1942年(昭和17)12月15日には、大政翼賛会がこの歌を国歌「君が代」に次ぐ国民の歌として各種会合に斉唱するよう通達しました。また、NHKラジオ放送の戦果発表(大本営発表)や、部隊の玉砕を伝える際に冒頭に流されたことから、国民に広く知られることになります。
 戦時歌謡として強く意識されため、戦後は事実上の封印状態が続くこととなりました。

<歌詞>

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草(くさ)生(む)す屍
大君(おほきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
長閑(のど)には死なじ

<原歌>

陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持作)
葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 御代重ね 天の日嗣(ひつぎ)と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方(よも)の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝(みつきたから)は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大王(おほきみ)の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地(あめつち)の 神相(かみあい)うづなひ 皇御祖(すめろぎ)の 御霊(みたま)助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 御食国(みをすぐに)は 栄えむものと 神(かむ)ながら 思ほしめして 武士(もののふ)の 八十伴(やそとも)の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人(おいびと)も 女めの童児(わらはこ)も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官つかさ 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立ことだてて 丈夫の 清きその名を 古いにしえよ 今の現をつつに 流さへる 祖(おや)の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君(おほきみ)に まつろふものと 言ひ継げる 言ことの官つかさぞ 梓弓(あずさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩はき 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言(みこと)のさきの聞けば貴み

〇大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織で、総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たしました。国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則とします。
 その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図りました。それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めます。
 さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定しました。このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになります。しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しました。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

827年(天長5)空海が京都九条の教王護国寺(東寺)の東隣に綜芸種智院を創設する(新暦828年1月23日)詳細
1914年(大正3)方城炭鉱(福岡県)で爆発事故があり、死者・行方不明者671人を出す詳細
1937年(昭和12)第一次人民戦線事件で政府が労農派などの関係者446人を一斉逮捕する詳細
1945年(昭和20)GHQが「宗教指令(神道指令)」(SCAPIN-448)を指令する詳細
1988年(昭和63)俳人・随筆家・鉱山学者山口青邨の命日詳細
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