ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本学士院会員

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 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、数学者・第6代大阪大学総長・武蔵学園学園長正田建次郎の生まれた日です。
 正田建次郎(しょうだ けんじろう)は、群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)において、日清製粉の創業者である父・正田貞一郎の二男として生まれました。東京府立第四中学校、旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学理学部数学科に入学し、高木貞治の指導を受けます。
 1926年(大正15)にドイツに留学し、ゲッティンゲン大学でエミー・ネーターに師事し、抽象代数学を研究、1929年(昭和4)に日本へ帰国しました。1931年(昭和6)に理学博士となり、1932年(昭和7)には、『抽象代数学』を刊行して、日本における数学の現代化の先頭に立つ人物となります。
 1933年(昭和8)に大阪帝国大学理学部数学科創設と同時に教授に就任し、群論、多元環論について活発な研究発表を行いました。1946年(昭和21)に日本数学会初代会長に就任、1949年(昭和24)には、「輓近の抽象代数学に於ける研究」で、日本学士院賞を受賞します。
 1953年(昭和28)に日本学術会議会員、日本学士院会員となり、1954年(昭和29)には、第6代大阪大学総長に就任、1960年(昭和35)には、大阪大学総長を退任し、同大学名誉教授となりました。1961年(昭和36)に東京女子大が教授となりましたが、1962年(昭和37)には、初代大阪大学基礎工学部長として大阪大学に復帰し、京都大学数理解析研究所教授を兼任しています。
 1965年(昭和40)に大阪大学を定年退官し、武蔵大学学長に就任、1968年(昭和43)には、東京都教育委員ともなりました。1969年(昭和44)に文化勲章を受章、文化功労者となり、1974年(昭和49)には、勲一等瑞宝章を受章します。
 1975年(昭和50)に武蔵学園学園長となったものの、1977年(昭和52)3月20日に、75歳で亡くなり、従二位、勲一等旭日大綬章を追贈されました。尚、上皇明仁の皇后美智子の伯父にあたります。

〇正田建次郎の主要な著作

・『抽象代数学』(1932年)
・『代数学提要』(1944年)
・『数学へのみち』(1962年)
・『多元数論入門』(1968年)

☆正田建次郎略年表

・1902年(明治35)2月25日 群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)において、日清製粉の創業者である父・正田貞一郎の二男として生まれる
・1919年(大正8) 東京府立第四中学校を卒業する
・1922年(大正11) 旧制第八高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部数学科に入学する
・1925年(大正14) 東京帝国大学理学部数学科を卒業する
・1926年(大正15) ドイツに留学し、ゲッティンゲン大学でエミー・ネーターに師事し、抽象代数学を研究する
・1929年(昭和4) 日本へ帰国する
・1931年(昭和6) 理学博士となる
・1932年(昭和7) 『抽象代数学』を刊行する
・1933年(昭和8) 大阪帝国大学理学部数学科創設と同時に教授に就任する
・1946年(昭和21) 日本数学会初代会長に就任する
・1949年(昭和24) 「輓近の抽象代数学に於ける研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1953年(昭和28) 日本学術会議会員、日本学士院会員となる
・1954年(昭和29) 第6代大阪大学総長に就任する
・1960年(昭和35) 大阪大学総長を退任し、同大学名誉教授となる
・1961年(昭和36) 東京女子大が教授となる
・1962年(昭和37) 初代大阪大学基礎工学部長として大阪大学に復帰、京都大学数理解析研究所教授を兼任する
・1965年(昭和40) 大阪大学を定年退官し、武蔵大学学長に就任する
・1968年(昭和43) 東京都教育委員となる
・1969年(昭和44) 文化勲章を受章、同時に文化功労者となる
・1974年(昭和49) 勲一等瑞宝章を受章する
・1975年(昭和50) 武蔵学園学園長となる
・1977年(昭和52)3月20日 75歳で亡くなり、従二位、勲一等旭日大綬章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1415年(応永22)僧侶・浄土真宗中興の祖蓮如の誕生日(新暦4月13日)詳細
1942年(昭和17)「戦時災害保護法」(昭和17年法律第71号)が公布される詳細
1944年(昭和19)東条英機内閣により、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1946年(昭和21)「金融緊急措置令」に基づいて新円を発行し、旧円と新円の交換が開始される詳細
1947年(昭和22)八高線高麗川駅付近で買い出しで満員の列車が転覆、死者184人を出す(八高線列車脱線転覆事故)詳細
1953年(昭和28)医師・歌人斎藤茂吉の命日(茂吉忌)詳細
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tsudakyousuke01
 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、薬学者・有機化学者津田恭介の生まれた日です。
 津田恭介(つだ きょうすけ)は、台湾・基隆庁基隆(キールン)保仙洞(セントウ)において、父・津田宗助、母・フサの子として生まれました。1917年(大正6)に父の転勤で台北に転居し、1919年(大正8)に台北中学へ入学し、1923年(大正12)に4年で卒業後、旧制浦和高等学校理科乙類に入学します。
 1925年(大正14)に母・フサが亡くなりましたが、1926年(大正15)に東京帝国大学医学部薬学科へ入学し、1929年(昭和4)に卒業後、薬化学教室の無給副手となりました。1930年(昭和5)に薬化学教室の助手に昇格し、1936年(昭和11)に論文「マトリンの構造研究補遺」で、東京大学より薬学博士を得て、翌年には、落合英二との共著『有機微量小量定量分析法』が刊行されます。
 1938年(昭和13)に東京帝国大学助教授に昇格し、1939年(昭和14)に伝染病研究所の長谷川秀治教授の研究室で実験化学療法を学び、1941年(昭和16)には東大薬学と伝研と兼任し、合成と動物実験とを連結してスルホンアミドの研究を行ないました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に父・宗助が亡くなり、1949年(昭和24)にフグ毒の研究を開始、1951年(昭和26)には、九州大学医学部教授となります。
 1954年(昭和29)にノルデヒドロ-α-マトリニジンの合成に成功し、チューリヒ工科大学ルジーチカ教授の下に留学、1955年(昭和30)には、東京大学応用微生物研究所教授・薬学部教授併任となりました。1956年(昭和31)にステロイドの微生物転換に関する研究に取り組み、1957年(昭和32)に日本薬学会学術賞を受賞、1961年(昭和36)頃から、モルフィン塩基の微生物による転換の研究に移り、坦子菌のヒイロタケによる水酸化反応を見出します。
 1963年(昭和38)に日本学術会議会員(~1966年)に選ばれ、1964年(昭和39)には、テトロドトキシンの構造決定に成功し、「フグ毒の単離と化学構造決定」で、朝日文化賞を受賞しました。1965年(昭和40)に東京大学応用微生物研究所研究所所長、東京大学評議員となり、1966年(昭和41)には、「苦蔘(くしん)塩基を中心とする荳科(とうか)アルカロイドの化学的研究」で、日本学士院賞を受賞します。
 1967年(昭和42)に東京大学を定年退官し、共立薬科大学学長(~1984年)に就任、1968年(昭和43)には、国際誌の「テトラヘドロン」、同速報誌のアジア地区編集委員(~1976年)として、編集・審査に取り組みました。1975年(昭和50)に厚生省中央薬事審議会会長(~1981年)、1977年(昭和52)に勲二等旭日重光章を受章、1979年(昭和54)には、宮内庁から依頼されて、宮中の講書始の儀で御進講をします。
 1979年(昭和54)にスイス工科大学の招待によりスイスへ出張、1980年(昭和55)に文化功労者となり、1982年(昭和57)には、文化勲章を受章します。1986年(昭和61)には、ヒューマンサイエンス振興財団会長に就任しましたが、1999年(平成11)6月17日に、東京都において、92歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇津田恭介の主要な著作

・落合英二との共著『有機微量少量分析法』(1937年)
・『植物塩基』
・『薬品合成化学』
・『医薬品合成化学』

☆津田恭介関係略年表

・1907年(明治40)2月10日 台湾・基隆庁基隆(キールン)保仙洞(セントウ)において、父・津田宗助、母・フサの子として生まれる
・1917年(大正6) 父の転勤で台北に転居する
・1919年(大正8) 台北中学へ入学する
・1923年(大正12) 旧制浦和高等学校理科乙類に入学する
・1925年(大正14) 母・フサが亡くなる
・1926年(大正15) 東京帝国大学医学部薬学科へ入学する
・1929年(昭和4) 東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、薬化学教室の無給副手となる
・1930年(昭和5) 東京帝国大学医学部薬化学教室の助手に昇格する
・1936年(昭和11) 論文「マトリンの構造研究補遺」で、東京大学より薬学博士を得る
・1937年(昭和12) 落合、津田共著『有機微量小量定量分析法』(南山堂書店)が刊行される
・1938年(昭和13) 東京帝国大学助教授となる
・1939年(昭和14) 伝染病研究所の長谷川秀治教授の研究室で実験化学療法を学ぶ
・1941年(昭和16) 東大薬学と伝研と兼任し、合成と動物実験とを連結してスルホンアミドの研究を行なう
・1946年(昭和21) 疎開先の福島で、父・宗助が亡くなる
・1949年(昭和24) フグ毒の研究を開始する
・1951年(昭和26) 九州大学医学部教授となる
・1954年(昭和29) ノルデヒドロ-α-マトリニジンの合成に成功し、チューリヒ工科大学ルジーチカ教授の下に留学する
・1955年(昭和30) 東京大学応用微生物研究所教授・薬学部教授併任となる
・1956年(昭和31) ステロイドの微生物転換に関する研究に取り組む
・1957年(昭和32) 日本薬学会学術賞を受賞する
・1961年(昭和36) この頃から、モルフィン塩基の微生物による転換の研究に移り、坦子菌のヒイロタケによる水酸化反応を見出す
・1963年(昭和38) 日本学術会議会員に選ばれる(~1966年)
・1964年(昭和39) テトロドトキシンの構造決定に成功し、「フグ毒の単離と化学構造決定」で、朝日文化賞を受賞する
・1965年(昭和40) 東京大学応用微生物研究所研究所所長、東京大学評議員となる
・1966年(昭和41) 「苦蔘(くしん)塩基を中心とする荳科(とうか)アルカロイドの化学的研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1967年(昭和42) 東京大学を定年退官し、共立薬科大学学長に就任する
・1968年(昭和43) 国際誌の「テトラヘドロン」、同速報誌のアジア地区編集委員(~1976年)として、編集・審査に取り組む
・1975年(昭和50) 厚生省中央薬事審議会会長(~1981年)となる
・1976年(昭和51) 日本学士院会員となる
・1977年(昭和52) 勲二等旭日重光章を受章する
・1979年(昭和54) 宮内庁から依頼されて、宮中の講書始の儀で御進講する
・1979年(昭和54) スイス工科大学の招待によりスイスへ出張する
・1980年(昭和55) 文化功労者として顕彰される
・1982年(昭和57) 文化勲章を受章する
・1984年(昭和59) 共立薬科大学学長を辞める
・1986年(昭和61) ヒューマンサイエンス振興財団会長に就任する
・1999年(平成11)6月17日 東京都において、92歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1439年(永享11)鎌倉永安寺で第4代鎌倉公方足利持氏が叔父満貞と共に自害し、鎌倉府が滅亡する(新暦3月24日)詳細
1657年(明暦3)儒学者・政治家新井白石の誕生日(新暦3月24日)詳細
1903年(明治36)病理学者吉田富三の誕生日詳細
1904年(明治37)「露国に対する宣戦の詔勅」が発せられて、日露戦争に対して正式に宣戦が布告される詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の創立大会が開かれる詳細
1940年(昭和15)「津田事件」により、津田左右吉の『古事記及び日本書紀の研究』等の著書4冊が発禁となる詳細
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okadayoshio01
 今日は、平成時代の2008年(平成20)に、細胞生物学者・医師岡田善雄が亡くなった日です。
 岡田善雄(おかだ よしお)は、昭和時代前期の1928年(昭和3)3月10日に、広島県呉市において生まれ、広島県立呉第一中学校(現在の呉三津田高校)を経て、1943年(昭和18)に海軍兵学校に入学しました。太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)に海軍兵学校(第75期)を卒業し、高知高等学校を経て、1952年(昭和27)に大阪大学医学部を卒業します。
 1953年(昭和28)に大阪大学微生物病研究所助手(防疫学部)となり、1957年(昭和32)に世界で最初に細胞融合に関する論文を発表、1962年(昭和37)に大阪大学微生物病研究所助教授となり、1971年(昭和46)には、「細胞融合現象の解析」で、朝日賞を受賞しました。1973年(昭和48)に大阪大学微生物病研究所教授となり、1975年(昭和50)に「HVJによる細胞融合現象の発見と細胞工学的応用」で武田医学賞、1978年(昭和53)には、日本人類遺伝学会賞を受賞します。
 1979年(昭和54)に「HVJによる細胞融合現象の発見と研究」で、藤原賞、1980年(昭和55)には、「細胞融合現象の解析と細胞工学的応用」で、日本学士院賞恩賜賞を受賞しました。1982年(昭和57)に大阪大学細胞工学センター長(~1987年3月)、文化功労者となり、1987年(昭和62)に文化勲章を受章、1989年(平成元)には、広島県名誉県民となります。
 1990年(平成2)に財団法人千里ライフサイエンス振興財団理事長(~2007年3月)となり、1991年(平成3)に大阪大学を定年退官して名誉教授、1993年(平成5)には、日本学士院会員となりました。2000年(平成12)に勲一等瑞宝章を受章、2001年(平成13)には、『細胞融合と生命科学』を刊行しましたが、2008年(平成20)1月16日に、大阪府府吹田市において、解離性大動脈瘤によって、79歳で亡くなり、従三位を追贈されています。


〇岡田善雄の主要な著作

・『細胞融合』 (1971年)
・『細胞行動と器官形成』 (1973年)
・『細胞融合と細胞工学』(1976年)
・『体細胞遺伝学』 共著(1981年)
・『細胞の増え方』(1989年)
・『細胞融合と生命科学』(2001年)

☆岡田善雄関係略年表

・1928年(昭和3)3月10日 広島県呉市において、生まれる
・1943年(昭和18) 広島県立呉第一中学校(現在の呉三津田高校)を卒業し、海軍兵学校に入学する
・1945年(昭和20) 海軍兵学校(第75期)を卒業する
・1952年(昭和27) 大阪大学医学部を卒業する
・1953年(昭和28) 大阪大学微生物病研究所助手(防疫学部)となる
・1957年(昭和32) 世界で最初に細胞融合に関する論文を発表する
・1962年(昭和37) 大阪大学微生物病研究所助教授となる
・1971年(昭和46) 「細胞融合現象の解析」で、朝日賞を受賞する
・1973年(昭和48) 大阪大学微生物病研究所教授となる
・1975年(昭和50) 「HVJによる細胞融合現象の発見と細胞工学的応用」で、武田医学賞を受賞する
・1978年(昭和53) 日本人類遺伝学会賞を受賞する
・1979年(昭和54) 「HVJによる細胞融合現象の発見と研究」で、藤原賞を受賞する
・1980年(昭和55) 「細胞融合現象の解析と細胞工学的応用」で、日本学士院賞恩賜賞を受賞する
・1982年(昭和57) 大阪大学細胞工学センター長(~1987年3月)、文化功労者となる
・1987年(昭和62) 文化勲章を受章する
・1989年(平成元) 広島県名誉県民となる
・1990年(平成2) 財団法人千里ライフサイエンス振興財団理事長(~2007年3月)となる
・1991年(平成3) 大阪大学を定年退官し、名誉教授となる
・1993年(平成5) 日本学士院会員となる
・2000年(平成12) 勲一等瑞宝章を受章する
・2001年(平成13) 『細胞融合と生命科学』を刊行する
・2008年(平成20)1月16日 大阪府府吹田市において、解離性大動脈瘤によって、79歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1103年(康和5)第74代の天皇とされる鳥羽天皇の誕生日(新暦2月24日)詳細
1905年(明治38)小説家・詩人・文芸評論家伊藤聖の誕生日詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」(第一次近衛声明)という声明を出す詳細
1941年(昭和16)大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会を統合、大日本青少年団が結成される詳細
1942年(昭和17)青壮年による大政翼賛会の外郭団体として、大日本翼賛壮年団が結成される詳細
1986年(昭和61)洋画家梅原龍三郎の命日詳細
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futagikenzou01
 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、医師・細菌学者二木謙三の生まれた日です。
 二木謙三(ふたぎ けんぞう)は、秋田県秋田市土手長町(現在の千秋明徳町)において、秋田藩主の侍医であった父・樋口順泰、母・ヱイの二男として生まれましたが、1876年(明治9)には、土崎港に住まいする二木家の養子となりました。1893年(明治26)に秋田中学を卒業し、仙台の官立第二高等学校(東北大学教養部の前身)に進学したものの、神経衰弱に襲われて休学後、官立山口高等学校に転校します。
 その後、東京帝国大学医科大学に進み、1901年(明治34)に卒業、直ちに東京市駒込病院(現:東京都立駒込病院)に勤務、伝染病研究のかたわら食べ物に関する研究に注力しました。1903年(明治36)に志賀潔発見の赤痢菌と異なる2種の赤痢菌(駒込A・B菌と名付けられる)を発見、赤痢病原多元説の基礎を確立します。
 1905年(明治38)にドイツへ留学し、ミュンヘン医科大学衛生学教室で細菌学、免疫学を専攻、1908年(明治41)に帰国し、翌年には駒込病院副院長となり、東大伝染病研究所や医科大学で研究を続け、医学博士となり、東京帝国大学講師も兼務しました。1914年(大正3)に助教授に昇任して、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の第4代病院長となります。
 1917年(大正6)に高木逸麿らと鼠咬症スピロヘータを発見、1919年(大正8)には、駒込病院の第5代院長となり、二木式保健学の出発点となる『保健学』を刊行しました。1921年(大正10)に東京帝国大学教授に昇任し、1923年(大正12)に日本医科大学教授を兼任、1924年(大正13)には、嗜眠(しみん)性脳炎や流行性脊髄炎と異なる病原の分離に成功、夏季脳炎(現在の日本脳炎)として発表します。
 1926年(大正15)に日本伝染病学会(1974年に日本感染症学会に改称)を創立し、初代会長となり、1929年(昭和4)に共同研究「鼠咬症の実験的研究」で、帝国学士院賞を受賞、1931年(昭和6)には、駒込病院の第5代院長を辞めました。1932年(昭和7)に豊島岡女子学園理事長に就任し、『古史読本』を編纂、1933年(昭和8)に東京帝国大学名誉教授となり、1939年(昭和14)には、東宮御成婚記念賞を受賞します。
 1951年(昭和26)に日本学士院会員となり、1955年(昭和30)に文化勲章を受章、1966年(昭和41)には、勲一等瑞宝章も受章しましたが、4月27日に東京において、老衰により、93歳で亡くなりました。

〇二木謙三の主要な著作

・『栄養の適応と体質改善』(1943年)
・『健康への道 : 完全正食の医学』(1957年)
・『完全にして正しき食物』(1961年)
・『二木博士講話集』(1966年)
・『食べ物と病気 : 栄養の適応と体質改善』(1969年)

☆二木謙三関係略年表

・1873年(明治6)1月10日 秋田県秋田市土手長町(現在の千秋明徳町)において、秋田藩主の侍医であった父・樋口順泰、母・ヱイの二男として生まれる
・1876年(明治9) 土崎港に住まいする二木家の養子となる
・1893年(明治26) 秋田中学を卒業し、仙台の官立第二高等学校(東北大学教養部の前身)に進学する
・1901年(明治34) 東京帝国大学医学部を卒業、直ちに東京市駒込病院(現:東京都立駒込病院)に勤務、伝染病研究のかたわら食べ物に関する研究に注力する
・1903年(明治36) 志賀潔発見の赤痢菌と異なる2種の赤痢菌(駒込A・B菌と名付けられる)を発見、赤痢病原多元説の基礎を確立する
・1905年(明治38) ドイツへ留学し、ミュンヘン医科大学衛生学教室で細菌学、免疫学を専攻する
・1908年(明治41) ドイツ留学より帰国する
・1909年(明治42) 駒込病院副院長となり、東大伝染病研究所や医科大学で研究を続け、医学博士となり、東京帝国大学講師も兼務する
・1914年(大正3) 東京帝国大学助教授に昇任して、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の第4代病院長となる
・1917年(大正6) 高木逸麿らと鼠咬症スピロヘータを発見する
・1919年(大正8) 駒込病院の第5代院長となり、二木式保健学の出発点となる『保健学』を刊行する
・1921年(大正10) 東京帝国大学教授を兼任する
・1923年(大正12) 日本医科大教授を兼任する
・1924年(大正13) 嗜眠(しみん)性脳炎や流行性脊髄炎と異なる病原の分離に成功、夏季脳炎(現在の日本脳炎)として発表する
・1926年(大正15) 日本伝染病学会(1974年に日本感染症学会に改称)を創立し、初代会長となる
・1929年(昭和4) 共同研究「鼠咬症の実験的研究」で、帝国学士院賞を受賞する
・1931年(昭和6) 駒込病院の第5代院長を辞める
・1932年(昭和7) 豊島岡女子学園理事長に就任し、『古史読本』を編纂する
・1933年(昭和8) 東京帝国大学名誉教授となる
・1939年(昭和14) 東宮御成婚記念賞を受賞する
・1951年(昭和26) 日本学士院会員となる
・1955年(昭和30) 文化勲章を受章する
・1966年(昭和41)4月27日 勲一等瑞宝章を受章、東京において、老衰により、93歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1871年(明治4)文芸評論家・演出家・劇作家・小説家・詩人島村抱月の誕生日(新暦2月28日)詳細
1891年(明治24)刑法学者・弁護士小野清一郎の誕生日詳細
1920年(大正9)東京帝国大学経済学部助教授の森戸辰男が筆禍事件(森戸辰男事件)により休職処分を受ける詳細
1922年(大正11)政治家・教育者大隈重信の命日詳細
1947年(昭和22)小説家織田作之助の命日詳細
1951年(昭和26)「日本の現代物理学の父」とも言われる物理学者仁科芳雄の命日詳細
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hayaishiosamu01
 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、医師・生化学者・分子生物学者早石修が生まれた日です。
 早石修(はやいし おさむ)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ストックトンにおいて生まれましたが、旧制北野中学校を4修で卒業後、旧制大阪高校を経て、大阪帝国大学医学部医学科に入学しました。1942年(昭和17)に卒業後、同大学医学部副手となりましたが、太平洋戦争中に海軍軍医(中尉)として従軍し、戦後の1946年(昭和21)には、医化学第一講座助手に昇任します。
 1949年(昭和24)に「抗菌性物質に関する研究」で、大阪大学より博士号を授与され、アメリカ留学して、ウィスコンシン大学酵素研究所研究員となりました。1950年(昭和25)にカリフォルニア大学研究員、1951年(昭和26)にアメリカ国立衛生研究所研究員となり、1952年(昭和27)には、セントルイス・ワシントン大学医学部助教授(微生物学教室)となります。
 1954年(昭和29)にアメリカ国立衛生研究所(N.I.H)毒物学部長となり、1956年(昭和31)には、酸素添加酵素「オキシゲナーゼ」を発見しました。1958年(昭和33)に帰国して、京都大学医学部(生化学)教授となり、1961年(昭和36)には、大阪大学医学部(生化学第一講座)教授併任(~1963年)となります。
 1964年(昭和39)に「トリプトファンによるNADの生合成に関する研究」で日本ビタミン学会賞、「酸素添加酵素の研究」で松永賞を受賞、1965年(昭和40)に「酸素添加酵素の発見と研究」で朝日文化賞、1967年(昭和42)には、「酸素添加酵素の研究」で日本学士院賞を受賞しました。1968年(昭和43)にヴァンダービルト大学教授、1970年(昭和45)に東京大学医学部(栄養学講座)教授併任(~1974年)となり、1972年(昭和47)には、文化功労者となり、文化勲章を受章します。
 1973年(昭和48)に国際生化学・分子生物学連合の総裁を務め(~1976年)、1974年(昭和49)に日本学士院会員となり、1975年(昭和50)に「POLY(ADP-RIB)の発見、その合成分解酵素の生物学的意義に関する研究」で、第16回藤原賞を受賞、パリ市長ブロンズメダルを得て、1976年(昭和51)には、ニューヨーク科学アカデミー生化学賞を受賞、イギリス・チバ金牌を得ました。1978年(昭和53)にWHO医学研究顧問、1979年(昭和54)に京都大学評議員(~12月)、京都大学医学部長(~1981年)となり、スペイン ヒメネス・ディアズ記念賞受賞、1983年(昭和58)には、京都大学を退官して名誉教授となり、大阪医科大学学長(~1989年)となります。
 1984年(昭和59)に京都市名誉市民、1986年(昭和61)にウルフ賞医学部門受賞、1987年(昭和62)に財団法人大阪バイオサイエンス研究所所長、1990年(平成2)にニューオーリンズ市国際名誉市民、1993年(平成5)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1995年(平成7)にイタリア ルイジ・ムサジョ賞受賞、1998年(平成10)に財団法人大阪バイオサイエンス研究所名誉所長、1999年(平成11)にルイジアナ州立大学医学部・神経科学センター総長賞、カルフォルニア酸素クラブ賞・終身名誉会員、第3回世界睡眠学会連合総会(WFSRS)第1回優秀科学者賞を受賞します。
 2004年(平成16)に財団法人大阪バイオサイエンス研究所理事長、2007年(平成19)に大阪医科大学賞を受賞しましたが、2015年(平成27)12月17日に、京都府京都市の病院において、老衰のために、95歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇早石修の主要な著作

・『酸素と生命』(1984年)
・『プロスタグランジンの基礎と臨床 研究の歴史・現況と将来への展望』(1988年)

☆早石修関係略年表

・1920年(大正9)1月8日 アメリカ合衆国カリフォルニア州ストックトンにおいて、生まれる
・1942年(昭和17) 大阪帝国大学医学部医学科を卒業し、同大学医学部副手となる
・1946年(昭和21) 大阪帝国大学医学部医化学第一講座助手に昇任する
・1949年(昭和24) 「抗菌性物質に関する研究」で、大阪大学より博士号を授与され、アメリカ留学して、ウィスコンシン大学酵素研究所研究員となる
・1950年(昭和25) カリフォルニア大学研究員となる
・1951年(昭和26) アメリカ国立衛生研究所研究員となる
・1952年(昭和27) セントルイス・ワシントン大学医学部助教授(微生物学教室)となる
・1954年(昭和29) アメリカ国立衛生研究所(N.I.H)毒物学部長となる
・1956年(昭和31) 酸素添加酵素「オキシゲナーゼ」を発見する
・1958年(昭和33) 帰国して、京都大学医学部(生化学)教授となる
・1961年(昭和36) 大阪大学医学部(生化学第一講座)教授併任となる(~1963年)
・1964年(昭和39) 「トリプトファンによるNADの生合成に関する研究」で、日本ビタミン学会賞、「酸素添加酵素の研究」で、松永賞を受賞する
・1965年(昭和40) 「酸素添加酵素の発見と研究」で、朝日文化賞を受賞する
・1967年(昭和42) 「酸素添加酵素の研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1968年(昭和43) ヴァンダービルト大学教授となる
・1970年(昭和45) 東京大学医学部(栄養学講座)教授併任となる(~1974年)
・1972年(昭和47) 文化功労者となり、文化勲章を受章する
・1973年(昭和48) 国際生化学・分子生物学連合の総裁を務める(~1976年)
・1974年(昭和49) 日本学士院会員(第7分科(医学・薬学・歯学))となる
・1975年(昭和50) 「POLY(ADP-RIB)の発見、その合成分解酵素の生物学的意義に関する研究」で、第16回藤原賞を受賞、パリ市長ブロンズメダルを得る
・1976年(昭和51) ニューヨーク科学アカデミー生化学賞を受賞、イギリス・チバ金牌を得る
・1978年(昭和53) WHO医学研究顧問となる
・1979年(昭和54) 京都大学評議員(~12月)、京都大学医学部長となり(~1981年)、スペイン ヒメネス・ディアズ記念賞を受賞する
・1983年(昭和58) 京都大学を退官して名誉教授となり、大阪医科大学学長となる(~1989年)
・1984年(昭和59) 京都市名誉市民となる
・1986年(昭和61) ウルフ賞医学部門を受賞する
・1987年(昭和62) 財団法人大阪バイオサイエンス研究所所長となる
・1990年(平成2) ニューオーリンズ市国際名誉市民となる
・1993年(平成5) 勲一等瑞宝章を受章する
・1995年(平成7) イタリア ルイジ・ムサジョ賞を受賞する
・1998年(平成10) 財団法人大阪バイオサイエンス研究所名誉所長となる
・1999年(平成11) ルイジアナ州立大学医学部・神経科学センター総長賞、カルフォルニア酸素クラブ賞・終身名誉会員、第3回世界睡眠学会連合総会(WFSRS)第1回優秀科学者賞を受賞する
・2004年(平成16) 財団法人大阪バイオサイエンス研究所理事長となる
・2007年(平成19) 大阪医科大学賞を受賞する
・2015年(平成27)12月17日 京都府京都市の病院において、老衰のために、95歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1173年(承安3)華厳宗の学僧明恵の誕生日(新暦2月21日)詳細
1646年(正保3)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生日(新暦2月23日)詳細
1892年(明治25)詩人・歌人・フランス文学者・翻訳家堀口大学の誕生日詳細
1912年(明治45)映画監督今井正の誕生日詳細
1917年(大正6)農芸化学者・富山県立技術短大学長田村三郎の誕生日詳細
1941年(昭和16)陸軍大臣東條英機によって、陸訓第一号「戦陣訓」が発表される詳細
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