ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:文部省

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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」により集団勤労作業が始まり、学徒勤労動員のさきがけとなった日です。
 学徒勤労動員(がくときんろうどういん)は、昭和時代前期の日中戦争最中の1938年(昭和13)6月9日に、文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」が出され、学生・生徒は長期休業中に3~5日勤労奉仕することを義務づけられたことに始まりました。それを恒常化したのが1939年(昭和14)の木炭や食料の増産運動からで、学生・生徒は正課として作業に参加することになります。
 さらに、1941年(昭和16)2月には、年間30日の授業を勤労作業にあててよいという指示が出され、同年8月には学校報国隊が結成されました。その後、太平洋戦争に突入し、軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、1943年(昭和18)6月に、東条内閣は各学校の軍事教練強化を命じ、翌年1月には勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられ、3月には通年実施と決定し、どんどん拡大していきます。
 その法令上の措置として、1944年(昭和19)8月23日に公布・施行されたものが、「学徒勤労令」で、同じ日に「女子挺身隊勤労令」も出されました。その後、動員は徹底的に強化され、11月には夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令されます。
 また、12月には中等学校卒業者の勤労動員継続の措置がきまり、翌年3月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとしました。このような学徒の全面的な動員に対して、政府は12月「動員学徒援護事業要綱」を閣議決定し、これに基づいて動員学徒援護会が設置されます。
 以後、この勅令は、昭和20年勅令第96号および同勅令第510号により2度改正がなされて、強化されました。この結果、敗戦時での動員学徒数は340万人を超えたといわれ、学徒動員による空襲等による死亡者は10,966人、傷病者は9,789人にも及びます。
 しかし、太平洋戦争敗戦後の「国民勤労動員令廃止等ノ件」(昭和20年勅令第566号)により、1945年(昭和20)10月10日をもって、この勅令は廃止されることになりました。

〇学徒勤労動員関係略年表

<1938年(昭和13)>
・6月9日 文部省は「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」を通牒し、学生・生徒は夏季休暇の始期終期その他適当な長期休業中に中等学校低学年は3日、それ以外は5日の勤労奉仕に従事することを義務付けられる

<1939年(昭和14)>
・7月8日 「国民徴用令」が公布(7月15日施行)される

<1941年(昭和16)>
・2月 「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」において1年のうち30日以内の木炭増産、飼料資源の開発、食糧増産等を授業として認める
・8月 学校報国隊が結成される
・10月16日 勅令で大学・高等学校・専門学校の修業年限の短縮が通達され、文部省は省令「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和十六年度臨時短縮ニ関スル件」を公布し、大学・専門学校・実業専門学校の修業年限を三か月短縮する
・11月1日 1942年度は予科・高校を加えて6か月短縮と決定し、繰り上げ卒業がはじまる

<1943年(昭和18)>
・6月25日 東条内閣は「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定し、学校報国隊を強化し、戦技・特技・防空訓練を図り、女子は救護訓練を行なうようになる
・10月12日 閣議で、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を決定、全国の学生の徴集延期を停止し、徴兵検査が行われることとなり、義務教育8年制を無期延期し、高等学校文科を3分の1減じ、理科を増員し、文科系大学を理科系へ転換し、勤労動員を年間3分の1実施することなどが盛り込まれる

<1944年(昭和19)>
・1月8日 政府は「緊急国民勤労動員方策要綱」と「緊急学徒勤労動員方策要綱」を閣議決定し、学徒勤労動員は年間4か月を継続して行うこととなる
・2月25日 「決戦非常措置要綱」を閣議決定する
・3月7日 「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で、学徒勤労動員の通年実施、学校の種類による学徒の計画的適正配置、教職員の指導と勤労管理が閣議決定され、文部省は詳細な学校別動員基準を決定する
・4月17日 文部省は「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」を発令し、作業場を「行学一体ノ道場」たらしめ、学徒の「奉公精神、教養規律ニヨリ、作業揚ヲ純真且明朗ナラシムルコト」を要請し、教職員の「率先垂範陣頭指揮」を強調する
・7月10日 閣議で、科学技術者動員計画設定要綱を決定し、航空機の生産増強のための理科系学校卒業者の動員、科学技術者の短期養成計画などが盛り込まれる
・7月11日 「航空機緊急増産ニ関スル非常措置ノ件」閣議決定によって、学徒動員の強化が目指され、文部省は「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」を通牒し、供給不足の場合は中等学校低学年生徒の動員、深夜業を中等学校三年以上の男子のみならず女子学徒にも課するなどを指令する
・8月23日 「学徒勤労令」が「女子挺身勤労令」と同日に公布され、学徒勤労動員に法的措置をおこない、大学・高専の2年以上の理科系学徒1000人に限り勤労動員より除外し科学研究要員とする
・12月19日 「動員学徒援護事業要綱」が閣議決定され、動員学徒援護会が設置される
・12月1日 閣議で、中等学校の新規卒業予定者の勤労動員の継続を決定する

<1945年(昭和20)>
・3月18日 「決戦教育措置要綱」を閣議決定し、国民学校初等科以外のすべての学校において、4月から1年間の授業停止による学徒勤労総動員の体制がとられる
・5月22日 「戦時教育令」が公布され、全学校・職場に学徒隊が結成される
・7月11日 勅令で、文部省に学徒動員局が設置される
・8月16日 文部次官通牒「動員解除に関する件」により事実上の動員解除がなされる
・9月4日 「文部省官制中改正ノ件」(昭和20年勅令第516号)により文部省官制を改正、学徒動員局を廃止、体育局へと改組される
・10月5日 「戦時教育令廃止ノ件」(昭和20年勅令第564号)により、「戦時教育令」が廃止される
・10月10日 「国民勤労動員令廃止等ノ件」(昭和20年勅令第566号)により、「学徒勤労令」が廃止される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1488年(長享2)加賀一向宗門徒が対立していた守護富樫政親を攻めて自刃(長享一揆)させる(新暦7月17日)詳細
1767年(明和4)読本・合巻作者滝沢馬琴の誕生日(新暦7月4日)詳細
1896年(明治29)「山縣・ロバノフ協定」(朝鮮問題に関する日露間議定書)が締結される詳細
1923年(大正12)小説家有島武郎の命日(武郎忌)詳細
1947年(昭和22)「朝日新聞」で石坂洋次郎著の小説『青い山脈』の連載が開始される詳細
1952年(昭和27)「日本国とインドとの間の平和条約」(通称:日印平和条約)が調印される詳細
1995年(平成7)衆議院で「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(戦後50年決議)が採択される詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1942年(昭和17)に、「国民錬成所官制」(昭和17年勅令第28号)によって、文部省に国民錬成所を設置し、中学教員に対する錬成を実施するとした日です。
 国民錬成所(こくみんれんせいじょ)は、国体の本義に基づき、実践躬行をもって先鋒たる人物を錬成する文部省直轄の錬成機関でした。1942年(昭和17)1月24日の「国民錬成所官制」(昭和17年勅令第28号)によって、中学教員に対する錬成を実施する機関として、文部省に設置が決まります。
 その後、1940年(昭和15)に実施された「紀元二千六百年式典」の式殿であった光華殿を東京小金井町(現在の江戸東京たてもの園)に移転の上、その9万坪の敷地をもって、1942年(昭和17)11月に開設されました。所内に企画課(総務班・教育班・訓練班・農場班)、庶務課(庶務掛・会計掛)が置かれ、別に錬成会議が設置されます。
 中等学校教員や校長、国民学校長、高等学校教授など、さまざまな対象者を修練生として迎え、心身の鍛錬、精神の修養をおこないました。しかし、行政整理のため、1943年(昭和18)11月1日に、先に設けていた国民精神文化研究所と合併して、教学錬成所(初代所長:橋田邦彦)となり、教学に関する研究と、教員そのほかの指導的国民の錬成に当たることとなります。

〇国民錬成所・国民精神文化研究所関係略年表

・1931年(昭和6)6月 学生思想問題調査委員会が設置される
・1932年(昭和7)5月 学生思想問題調査委員会から、「学生生徒左傾」対策として「我が国体、国民精神の原理を闡明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関」の創設が答申される
・1932年(昭和7)8月 「国民精神文化研究所官制」(昭和7年勅令233号)が公布される
・1933年(昭和7) 国民精神文化研究所が東京市品川区上大崎の新庁舎に新築移転される
・1934年(昭和8) 国民精神文化研究所の初代所長に関屋龍吉が就任する(それまでは、粟屋謙・伊東延吉が代行)
・1941年(昭和16) 国民精神文化研究所の2代所長に伊東延吉が就任する
・1942年(昭和17)1月24日 「国民錬成所官制」(昭和17年勅令第28号)が公布される
・1942年(昭和17)11月 国民錬成所が小金井町(現在の江戸東京たてもの園)に設置される
・1943年(昭和18)11月1日 国民精神文化研究所が国民錬成所に移転合併する形で教学錬成所となる
・1945年(昭和20)10月15日 教学錬成所が廃止され、教育研修所(後に国立教育研究所に改組、現在の国立教育政策研究所)となる
・1949年(昭和24)6月 国立教育研究所が旧教学錬成所の施設を利用して設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1632年(寛永9)武将・江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の命日(新暦3月14日)詳細
1865年(元治2)長崎に大浦天主堂が完成(西洋建築の木造三廊)し、献堂式が挙行される(新暦2月19日)詳細
1869年(明治2)詩人・随筆家・評論家大町桂月の誕生日(新暦3月6日)詳細
1871年(明治4)「書状ヲ出ス人ノ心得」、「郵便賃銭切手高並代銭表」等の太政官布告が出される(新暦3月14日)詳細
1960年(昭和35)小説家火野葦平の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1943年(昭和18)に、  文部省が、「疎開ニ伴フ生徒児童取扱ヒ措置ニ関スル新聞発表」を行い、生徒・児童の縁故疎開を促進した日です。
 「疎開ニ伴フ生徒児童取扱ヒ措置ニ関スル新聞発表」(そかいにともなうせいとじどうとりあつかいそちにかんするしんぶんはっぴょう)は、1943年(昭和18)も後半になると、マリアナ・パラオ諸島の戦いに勝利したアメリカは、マリアナ諸島に大規模な航空基地を建設し、日本本土の大半がB-29の攻撃圏内になる中で、生徒・児童の縁故疎開を促進するためになされた、文部省による新聞発表でした。
 戦局がますます不利となりつつあった中で、10月25日の次官会議決定で、重要都市人口疎開に対する当面の啓発宣伝方針で、「任意の人口疎開」がうたわれるようになり、10月31日の「防空法改正」(第三次防空法)では、「疎開」の言葉が登場します。その中で、まず、生徒・児童の縁故疎開が奨励それたもので、12月21日には、東條内閣により、「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、東京都区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸などが疎開地区とされ、その後、東京都を中心に学童疎開が進められました。

〇学童疎開(がくどうそかい)とは?

 昭和時代前期の太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による日本本土爆撃に備え、東京、大阪、名古屋、横浜など大都市の国民学校初等科児童を集団的、個人的に、半強制により農村地帯へ移動させた措置のことです。太平洋戦争も後期になるとアメリカ軍の反撃・侵攻が著しくなり、爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月に、「都市疎開実施要綱」が閣議決定されて都市施設の地方分散がはかられ、東京都での学童疎開も始まっていました。
 ついには、1944年(昭和19)6月15日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸しましたが、この島が陥落すると、B-29爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が迫ります。そこで、6月30日に、東条英機内閣は、「学童疎開促進要綱」、「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することになりました。
 7月10日には、「帝都学童集団疎開実施細目」が発表され、文部省は、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示すこととなります。そして、8月4日には第1陣として、東京の国民学校初等科3年以上の児童が上野駅から群馬県に出発しました。
 その後も、続々と実施され、8月~9月には、約35万人の児童が、地方の約7,000ヶ所の公会堂、社寺、旅館などに集団疎開することとなります。そこで授業等も行われましたが、戦争末期の食糧不足、物資の欠乏により、その調達に追われる日々で、まとも教育はあまり行われませんでした。
 そんな中で、1944年(昭和19)8月22日、沖縄県の児童、教員、保護者を乗せた疎開船「対馬丸」が、アメリカ軍潜水艦に撃沈され、犠牲者数1,476名(内、疎開学童780名)を出すという、いたましい対馬丸事件も発生しています。1945年(昭和20)3月9日には、「学童疎開強化要綱」も閣議決定され、疎開児童数は約45万人に達しました。
 「ポツダム宣言」を受諾し、1945年8月15日に「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送)が流されて戦争が終わると翌日に、東京都は学童集団疎開を翌年3月まで継続する方針を明示したものの、10月10日に東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着き、11月には、集団疎開からの大部分の復帰が完了しています。

☆学童疎開関係略年表

<1941年(昭和16)>
・11月20日 芦田均議員が空襲の危険がある東京・大阪で子供を事前に避難させることを推奨する
・12月16日 勅令「防空法施行令」で国民学校初等科児童は、病人、妊婦、老人などと共に事前避難の対象とされる

<1943年(昭和18)>
・10月25日 次官会議決定で、重要都市人口疎開に対する当面の啓発宣伝方針で、「任意の人口疎開」をうたう
・10月31日 「防空法改正」(第三次防空法)で、「疎開」の言葉が登場する
・12月10日 文部省が、「疎開ニ伴フ生徒児童取扱ヒ措置ニ関スル新聞発表」を行い、生徒・児童の縁故疎開が促進される
・12月21日 東條内閣により「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、東京都区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸などを疎開地区とする

<1944年(昭和19)>
・3月3日  「一般疎開促進要綱」が閣議決定され、縁故疎開促進の原則が出される 
・3月10日 東京都は「学童疎開奨励ニ関スル件」を通牒し、縁故・養護学園を利用する疎開実施につき指示する
・4月 東京都では縁故のない児童のための疎開学園設置が進められる
・4月2日 学童疎開の内務省案が示される
・4月5日 東京都は、縁故のない学童のため施設を利用する「戦時疎開学園設置要綱」を発表する
・6月30日 東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、集団的な学童疎開が促進される
・7月5日 防空総本部は「帝都学童疎開実施細目」を定め、実施が勧奨される
・7月7日 緊急閣議により沖縄の疎開が決定される
・7月10日 「帝都学童集団疎開実施細目」が発表される
・7月12日 文部省は「帝都学童集団疎開実施細目」により、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示す
・7月19日 沖縄県は「学童集団疎開準備ニ関スル件」を通牒し、疎開を準備するよう命じる
・7月22日 文部省は「帝都学童集団疎開実施要領」「同実施細目」に準じ、疎開都市として、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡の12都市を追加指定する
・8月4日 20万人規模の疎開の第1陣の児童が東京の上野駅を出発する
・8月16日 沖縄県の九州などへの疎開が開始される
・8月22日 沖縄から本土への学童疎開のための「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈され、死者1,418人(うち学童775人)が出る(対馬丸事件)
・9月25日 全国で子供の集団疎開が41万6,946人となる
・8月~9月 約35万人の児童が、約7,000ヶ所の旅館、寺院などに集団疎開する
・9月 文部省は指令を改め、旅館を宿舎とする場合は一ヶ月25円、その他は23円以内とし、特別の事情ある場合は文部大臣の承認を受けることとする
・9月29日 「疎開学童対策協議会規程」と「疎開学童ニ関スル措置要領」が閣議決定される

<1945年(昭和20)>
・1月12日 「昭和20年度学童集団疎開継続ニ関スル措置要領」を閣議決定し、学童集団疎開期間を当初の予定より1年間延長する
・3月9日 「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、初等科3年以上の児童は全員を疎開させ、1、2年の児童は、縁故疎開を強力に勧奨するとともに、集団疎開の対象にも加える
・3月15日 空襲に対処するため「大都市における疎開強化要綱」が閣議決定される(学童、母子など続々緊急疎開)
・3月16日 「学童疎開強化要綱(追加)」を再度閣議決定し、高等科の児童についても可能なかぎり縁故疎開をすすめるとする
・3月26日 東京都は千葉・茨城・静岡県の集団疎開学童に青森・岩手・秋田へ再疎開命令を出す
・4月 疎開都市に京都、舞鶴、広島、呉の4都市を追加指定する
・5月1日 集団疎開学童への主要食糧の配給量が減少する
・7月11日 集団疎開学童への主食の配給さらに1割減少、3年生まで252g(1合8勺)、4年生以上354g(2合5勺)となる
・8月16日 東京都は学童集団疎開を昭和21年3月まで継続する方針を明示する
・10月10日 東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着く
・11月 集団疎開からの大部分の復帰が完了する

<1946年(昭和21)
・3月 神田・日本橋・京橋区などの集団疎開学童が帰京する
・11月 沖縄の集団疎開学童が九州から沖縄へ帰還する 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1186年(文治2)鎌倉幕府が九州の御家人統率・軍事統括の為の鎮西奉行を設置する(新暦1187年1月21日)詳細
1901年(明治34)田中正造が足尾鉱毒問題について、明治天皇へ直訴しようとする詳細
1943年(昭和18)社団法人日本玩具統制協会から子供向けの「愛国イロハカルタ」が発行される詳細
1948年(昭和23)国連総会で「世界人権宣言」が採択される詳細
1997年(平成9)山陽自動車道(神戸JCT~山口JCT)が全通する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、太平洋戦争後初の国民学校用国史教科書『くにのあゆみ』が文部省より発行された日です。
 『くにのあゆみ』は、文部省が太平洋戦争後初の国民学校用国史教科書として、新たに編纂した国定教科書でした。1945年(昭和20)の太平洋戦争敗戦後の連合軍占領支配下で、連合国軍最高司令部(GHQ)は日本の民主教育の第一歩として、軍国主義教育の廃止と軍国主義教育者の追放を行います。
 その中で、同年12月31に、GHQより「修身科・国史科・地理科の中止指令」 (SCAPIN-519)が出され、国民学校国史の教授が停止されました。その復活のため、文部省が新たにそれに対応する国史の国定教科書の編纂を始めます。
 家永三郎(原始~平安)、森末義彰(鎌倉~室町)、岡田章雄(江戸)、大久保利謙(明治以降)の4人の学者の手で編纂が進められ、翌年9月5日に国史教科書『くにのあゆみ』が発行されました。そして、同年10月12日には、「日本史授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1266)が指令され、この国定教科書を使用した日本史の授業が再開されることとなります。
 この教科書の特徴は、肇国神話が姿を消し、また軍国的な記述は削除され、歴代天皇の事蹟等は、歴史上不可欠な最小限度にとどめられたことで、客観的・科学的な歴史叙述を目指すと共に、支配者の視点だけでなく、庶民の歴史にも言及するなど、民主的な内容も志向していたことでした。しかし、1947年(昭和22)に国民学校初等科は小学校になり、9月の社会科の授業開始とともに、初等教育段階における通史の学習は行われなくなっています。
 以下に、GHQの「修身科・国史科・地理科の中止指令」 (SCAPIN-519) と「日本史授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1266)、及び宮本百合子著「『くにのあゆみ』について」を掲載しておきますので、ご参照下さい。 

〇修身科・国史科・地理科の中止指令(しゅうしんか・こくしか・ちりかのちゅうししれい)とは?

 太平洋戦争後の連合軍占領下において、1945年(昭和20)12月31日に、連合国軍最高司令部(GHQ)が出した指令(SCAPIN)で、正式には、「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)といい、GHQ教育四大指令の一つとされています。文部省に対し、すべてのコースおよび教育機関で使用されている終身科、国史科、地理科に関する教科書および教師用マニュアルをすべてを使用中止とするよう指示し、指令部の許可あるまで再開しないようにしたものでした。そして、代替用教科書の改定案を準備し、連合国最高司令官に提出することとしています。その後、翌年6月29日の「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-519)で地理科の再開を許可、10月12日の「日本史授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1266)で国史科の再開を許可していますが、文部省が作成し、連合国最高司令官が承認した教科書を使用することが条件とされました。
 
〇「修身科・国史科・地理科の中止指令」 (SCAPIN-519) 1945年(昭和20)12月31日GHQ指令

GENERAL HEADQUARTERS 
 SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS

31 December 1945 AG 000.8 (31 Dec 45) CIE 
(SCAPIN-519) 

 MEMORANDUM FOR:IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT.
 THROUGH:Central Liaison Office, Tokyo.
 Subject:Suspension of courses in Morals (Shushin), Japanese History and Geography.

 1. In accordance with the basic directive AG 000. 3 (15 Dec 45) CIE proclaiming the abolition of government sponsorship and support of State Shinto and Doctrine, and 
Inasmuch as the Japanese government has used education to inculcate militaristic and ultra-nationalistic ideologies which have been inextricably interwoven in certain textbooks imposed upon students, 
 It is hereby directed that: 
a. All courses in Morals (Shushin), Japanese History, and Geography in all educational institutions, including government, public, and private schools, for which textbooks and teachers’ manuals have been published or sanctioned by the Ministry of Education shall be suspended immediately and will not be resumed until permission has been given by this headquarters. 
b. The Ministry of Education shall suspend immediately all ordinances (Horei), regulations, or instructions directing the manner in which the specific subjects of Morals (Shushin), Japanese History, and Geography shall be taught. 
c. The Ministry of Education shall collect all text books and teachers’ manuals used in every course and educational institution affected by 1, a. for disposal in accordance with the procedure outlined in Annex A to this memorandum. 
d. The Ministry of Education shall prepare and submit to this Headquarters a plan for the introduction of substitute programs to take the place of courses affected by this memorandum in accordance with the procedure outlined in Annex B to this memorandum. These substitute programs will continue in force until such time as this Headquarters authorizes the resumption of the courses suspended herein. 
e. The Ministry of Education shall prepare and submit to this Headquarters a plan for revising textbooks to be used in Morals (Shushin), Japanese History and Geography in accordance with the procedure outlined in Annex C to this memorandum. 

 2. All officials, subordinates, and employees of the Japanese Government affected by the terms of this directive, and all school officials and teachers, both public and private, will be held personally accountable for compliances with the spirit as well as the letter of the terms of this directive.

   FOR THE SUPREME COMMANDER:

             H.W.Allen 
           Colonel,A.G.D. 
       Asst Adjutant General 

 3 Incls: 
 1 - Annex A - Procedure for Collection of Textbooks and Manuals 
 2 - Annex B - Plan for Submission of Substitute Programs 
 3 - Annex C - Procedure for Submission of Revised Program

 Annex A 
Procedure For Collection of Textbooks and Manuals. 
 The Ministry of Education shall collect all textbooks and teachers’ manuals used in every course and educational institution for which teaching materials in the subjects of Morals (Shushin), Japanese History, and Geography have been prescribed, published, or sanctioned by the Ministry. 
 For the Tokyo, Kyoto, Osaka, and Kobe areas, the collection of these teaching materials shall be accomplished as soon as possible and, in any event, not later than the beginning of the Spring Term of School, 1946, at which time a report shall be submitted to this Headquarters, stating the total number of volumes collected, the gross weight of these volumes, and the specific location where these teaching materials have been collected. 
 In addition, a detailed report shall be submitted to this Headquarters, on 1 April 1946, for the collection of similar textbooks and manuals in all other areas of Japan. This plan shall include: the orders to competent prefectural authorities, reference to this Memorandum, and detailed instructions on the collections, number; weight, and availability for shipping of these teaching materials to designated pulping centers for the manufacture of paper. 

 Annex B 
Plan For Submission of Substitute Programs. 
 The Ministry of Education shall prepare and submit as soon as possible to this Headquarters a plan for the introduction of substitute programs to take the place of courses affected by this Memorandum. These substitute programs will continue in force until such time as this Headquarters authorises the resumption of the courses suspended herein. 
 This plan shall aim at presenting fundamental social, economic and political truths, relating them to the world and life of the students. 
 These truths shall be taught through classroom discussion based in part on materials sponsored by this Headquarters. Whenever possible, the discussion will be correlated with current events. 
 The Ministry of Education will issue teachers’ manuals explaining the purpose of the program, prescribing discussion methods which will encourage independent thinking, outlining the major topics to be discussed and listing press, radio, pamphlet and other materials to be used. 

 Annex C 
Procedure For Submission of Revised Program. 
 The Ministry of Education shall prepare and submit as soon as possible for approval to this Headquarters, a plan for revising textbooks and teachers’ manuals used in Morals (Shushin), Japanese History, and Geography courses. 
 This plan shall have for its objective the preparation of temporary teaching materials which will be available for the Spring Term of the 1946 school year. 
 The details to be covered in this plan will include: personnel for the preparation of teaching materials, selection of suitable subject matter, translation into English, consultation with and approval from this Headquarters, printing, and distribution of materials.

 「国立国会図書館デジタルコレクション」より
 
<日本語訳>

修身、日本歷史及地理ノ學科課程停止ニ關スル覺書(SCAPIN-519)

一九四五年一二月三一日 

一 國家神道及ビ其ノ敎義ニ對スル政府ノ保證及支持ノ廢止ヲ布吿セル一九四五年一二月一五日附ノ基本指令ニ從ヒ、而シテ 
學生々徒ニ課セラレタル或種敎科書中ニ拔ク可カラザル如クニ織リ込マレタル軍國主義的及ビ極端ナル國家主義的觀念ヲ注入スルコトニ日本政府ガ敎育ヲ利用セル事實ニ鑑ミ、 
茲ニ左ノ通リ指令ス。 
(a)文部省ガ發行又ハ認可セル敎科書及ビ敎師用參考書ヲ使用スル官、公、私立ノ諸學校ヲ含ム一切ノ敎育機關ニ於ケル、修身、日本歷史及ビ地理ノ全學科課程ヲ卽時停止シ、聯合國最高司令部ノ許可アル迄再開スベカラズ。 
(b)修身、日本歷史及ビ地理ノ特殊項目ガ敎授サレルベキ方法ヲ指令スルタメニ發布セラレタル一切ノ法令、規則又ハ訓令ヲ文部省ハ卽時停止スベシ。 
(c)文部省ハ、第一項(a)ノ適用ヲ受クル各學科課程及ビ敎育機關ニ於テ、使用セラルヽ敎科書及ビ敎師用敎範ノ一切ヲ集メ、本覺書附屬書(甲)ニ槪說セル措置ニ從ヒ之ヲ處理スベシ。 
(d)文部省ハ、本覺書ノ適用ヲ受クル學科課程ニ代ルベキ敎授要綱ノ採用ニ關スル案ヲ、本覺書附屆書(乙)ニ槪說セル措置ニ從ヒテ作製シ聯合國最高司令部ニ提出スベシ。コノ代リノ敎授要綱ハ茲ニ停止ヲ命ゼラレタル學科課程ノ再開ヲ當最高司令部ヨリ認許セラルヽ迄有效ナルベシ。 
(e)文部省ハ、本覺書附屬書(丙)ニ槪說セル措置ニ從ヒ、修身、日本歷史及ビ地理ニ使用スベキ敎科書ノ改訂案ヲ作製シ最高司令部ニ提出スベシ。

二 本指令ノ條項ノ適用ヲ受クベキ日本政府ノ一切ノ官公吏、屬僚並ニ勤勞者及ビ公立ト私立トニ拘ハラズ一切ノ學校職員並ニ敎師ハ、本指令ノ條項ノ規定ト共ニ其ノ精神ニモ服從スベク、ソレニ對シ個人的ニ責任ヲ有スルモノナリ。

三 同封書類。 
一、 附屬書(甲)―敎科書及ビ敎範蒐集措置 
二、 附屬書(乙)―代リノ敎科目ノ提出ニ關スル案 
三、 附屬書(丙)―改訂敎科目ノ提出ノ手續 

附屬書(甲)敎科書及敎範蒐集ノ手續。 
文部省ニヨリ指定發行又ハ認可セラレタル修身、日本歷史及地理科ノ敎授資料ヲ用フルトコロノ、一切ノ授業及ビ敎育機關ニ於テ使用セラルヽ一切ノ敎科書及ビ敎師用參考書ヲ文部省ハ總テ蒐集スベシ。 
東京、京都、大阪及ビ神戶地區ニツキテハコレラ敎授資料ノ蒐集ハ出來得ル限リ速ヤカニ遂行セラルベク、如何ナル場合ニモ一九四六年春學期六年春學期ノ開始期ヨリ遲ルベカラズ。而シテ春學期開始期ニ於テ、蒐集セル部數ノ總計其ノ總重量及ビコレラ敎授資料ヲ蒐集セル具體的ノ場所ヲ記セル報吿書ヲ當最高司令部ニ提出スベシ。 
尙一九四六年四月一日ニ、日本ノ一切ノ他ノ地域ニ於ケル同樣ナル敎科書及ビ敎範ノ蒐集ニ關シテ詳細ナル報吿書ヲ當最高司令部ニ提出スベシ。右報吿ニハ左記ヲ含ムベシ。 
縣ノ主管當局ニ對スル命令、本覺書トノ關聯及蒐集セル資料、數量、重量並ニコレラ敎授資料ヲ製紙ノ爲メニ指定セラレタル「パルプ」製造所ニ送付スル爲ノ便宜。

附屬書(乙)代リノ敎科目ノ提出ニ關スル案 
文部省ハ、本覺書ノ適用ヲ受クル學科課程ニ代ルベキ敎授要綱ノ採用ニ關スル案ヲ出來ル限リ速カニ作製シ、之ヲ聯合國最高司令部ニ提出スベシ。コノ代リノ敎授要綱ハ茲ニ停止ヲ命ゼラレタル學科ノ課程ノ再開ニツキ許可アル迄有效ナルベシ。 
コノ案ハ、基本的ナル社會的、經濟的及ビ政治的眞實ヲ提示シ、コレヲ世界並ニ學生々徒ノ生活ニ關聯セシムルコトヲ目的トスベシ。 
コレラノ眞實ハ、當最高司令部ノ發意ニヨル材料ヲモ一部基礎トシ、敎室內ノ討論ヲ通ジテ敎授セラルベシ。可能ナル限リ、討論ハ現在ノ出來事ニ關聯セシメラルベシ。 
文部省ハ、敎授要綱ノ目的ヲ說明シ、獨創的思索ヲ奬勵スル討論方法ヲ規定シ、討論ノ主要ナル題目ヲ槪說シ新聞ラヂオ、小册子及ビ其ノ他使用資料ヲ列擧シタル敎師用參考書ヲ發行スベシ。

附屬書(丙)改訂敎科目ノ提出ノ手續 
文部省ハ、修身、日本歷史及地理科ニ於テ使用スベキ敎科書及ビ敎師用參考書ノ改訂案ヲ、出來得ル限リ速ヤカニ作製シ、當最高司令部ニ提出シテ其ノ承認ヲ受クベシ。 
本案ハ、一九四六年ノ新學年ニ使用セラルヽ臨時的敎授資料ノ作製ヲ目的トスルモノトス。 
本案ニ包含サルベキ詳細事項左ノ如シ。 
敎授資料作製職員、適當ナル題材ノ選擇、英語譯、當最高司令部トノ打合ハセ及其ノ承認、印刷及敎授資料ノ分配。

 『日本管理法令研究』第6巻より

〇日本史授業再開に関する覚書(にほんしじゅぎょうさいかいにかんするおぼえがき)とは?

 太平洋戦争後の占領下において、1946年(昭和21)10月12日に、連合国最高司令官指令(SCAPIN)として日本国政府に対して発せられた基本的施策を定める指示・訓令の一つ(SCAPIN-1266)です。戦前の皇国史観が色濃い国史の教科書には、国家主義や戦意を鼓舞する内容の多くの記載があり、当初はそのような記述のある箇所を黒く墨塗りにして削除させていましたが、1945年(昭和20)12月31日に指令された「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)で、授業そのものを停止させられ、教科書も回収させられました。それを修正し、この指令によって、文部省が作成し、連合国最高司令官が承認した教科書で、日本史授業を再開するように指示したものです。これに基づいて、同年10月から文部省が作成した暫定教科書『くにのあゆみ』を使用して、国民学校(小学校)における日本史授業は再開されています。また、先行して同年6月29日には、「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)も出されて、同じ条件で地理の授業の再開も許可されていました。しかし、修身については、公民という全く新しい科目が設置され、同年9月から公民科が課されています。
 
〇「日本史授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1266) 1946年(昭和21)10月12日

   AG 000.8 (12 Oct 46) CIB          APO 500
   (SCAPIN-1266)                    12 October 1946

   MEMORANDUM FOR : IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT.
   THROUGH    : Central Liaison Office, Tokyo
   SUBJECT    : Reopening of School Courses in Japanese History.

1. Reference letter Imperial Japanese Government, Central Liaison office, C.L.O. No. 4839(PE), dated 20 Septenber 1946, Subject:“Reoperening of School Courses in Japanese History.”

2. Permission is granted for the reopening of courses in Japanese History in all educational institutions, including government, public and private schools, for which textbooks are published or sanctioned by the Ministry of Education, provided that in such courses only those textbooks prepared by the Ministry of Education and approved by General Headquarters, Supreme Commander for the Allied Powers, are used.

     FOR THE SUPREME COMMANDER:
                     /s/ JOHN b. COOLEY
                     JOHN b. COOLEY, 
                     Colonel, AGD, 
                     Adjutant General.

 「国立国会図書館デジタルコレクション」より
 
<日本語訳> 

    AG 000.8(1946年10月12日)CIB            APO 500
    (SCAPIN-1266)                   1946年10月12日

    覚書:日本帝国政府 
    経由:中央連絡事務所、東京
    件名:日本史授業の再開

1. 1946年9月20日日本帝国書翰終戰連絡中央事務局第4839号、「日本歷史學科の再開」に關する件を參照すること。

2. 文部省によって発行または認可され、連合軍の最高司令官である総司令部によって承認された教科書によって、官立、公立および私立学校を含むすべての教育機関で、日本史授業の再開が許可される。

        最高司令官に代り
                  JOHN b. COOLEY (署名) 
                  JOHN b. COOLEY
                  アメリカ合衆国海軍 大佐
                  総務

 ※英語の原文から筆者が訳しました。
 
〇「『くにのあゆみ』について」 宮本百合子著

 去年の八月からきょうまで、十四ヵ月ほどの間、日本じゅう幾百万の国民学校の上級児童は、日本の歴史教科書というものを失っていた。
 小学校令が行われ、国定教科書で教えるという方法がきまったのは明治何年であったか知らない。けれども、日本の子どもが歴史の教科書をもたなかったことはかつて無かったことなのであった。
 その異常な経験におかれた日本のこどもがやっと新しい『くにのあゆみ』を持つことになった。各新聞に、その梗概がのせられている。政府は、新しい民主憲法を、何故か世界民主国人民の祭日である五月一日に実効発生することをきらって、十一月三日に発布することにきめた。文部省は一億円という尨大な予算を憲法祭のためにとった。新歴史教科書もその関係で発表されたのであろう。
 考えてみると、このようにして日本の児童が新歴史教科書をもつようになった事実は、決してただ国民学校の一課目の教科書が新しく制定されたというだけの意味ではない。全日本の私たち、すべての人間が、これまでいく久しい歳月の間、民主日本の発足とともに、子供に話してやることさえも出来ないような片手落ちに書かれた日本歴史で養われて来ていたのであったという深刻な反省をもとめられるのである。
 かえりみれば、これまで私たち日本人が教えこまれていた日本の歴史は、むきになって強調されていた上代の神話と、後代の内国戦の物語、近代日本の支那・ロシア・朝鮮・満州などにおける侵略戦争とその植民地化との物語であった。その時代時代の軍事上の覇者たちが英雄権力者として扱われていた。庶民の日々の営みとその生産の発展などにつき、これまで、日本歴史は眼をくれなかった。幼ごころのそもそもから、軍事的であり侵略を勝利として扱ったものの考えかたで養われてきた正直な幾千万日本人が、今回の第二次大戦で支配者に万事をあやまられしかもなおそれを十分自覚していないようなのも、さけ難いことであった。
『くにのあゆみ』が、従来のように東洋における覇権の争奪者としての日本を描き出す態度をすてて、平静に、われらが生国日本における民族生活の推移と、諸外国との関係を扱っているのは当然である。新制『くにのあゆみ』は、その点に特別の配慮がされていて、物語る口調そのものの平らかさにまで随分気がくばられている。
 抗争摩擦の面をさけてなるべく平和にと心がけられた結果、その努力は一面の成功と同時に、あんまり歴史がすべすべで民族自体の気力を感じさせる溌剌さを欠いている。それは、これまでの調子から離れようとしているときのさけがたいあらわれかもしれない。何年かさきに、必ずもう一度日本の歴史教科書は書き直されるべき見とおしに立っている。
 もう一遍かき直されたとき、はじめて日本民族は、自分たちの祖先が、世界進歩の波瀾の間にどんな失敗をし、どんな功献、建設をしたかということを率直具体的に知ることが出来るだろう。真に自主日本の物語をもつに到るであろう。『くにのあゆみ』が日本の歴史学的な根拠もとぼしい皇紀をやめて、西暦に統一して書かれたことは、この将来の展望の上からも妥当である。
〔一九四六年十月〕

    「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1905年(明治38)「日露講和条約(ポーツマス条約)」が調印され、日露戦争が終結する詳細
日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」を巡って、東京で日比谷焼打事件が起きる詳細
1933年(昭和8)小説家・児童文学者・俳人巖谷小波の命日詳細
1966年(昭和41)第2宮古島台風により宮古島で日本最高の最大瞬間風速(85.3m/s)を観測詳細
1975年(昭和50)日本画家堂本印象の命日詳細
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gakudousokai001
 今日は、昭和時代前期の1944年(昭和19)に、文部省が集団的な学童疎開の範囲を東京のほか12都市(横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡)に拡大した日です。
 学童疎開(がくどうそかい)は、太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による日本本土爆撃に備え、東京、大阪、名古屋、横浜など大都市の国民学校初等科児童を集団的、個人的に、半強制により農村地帯へ移動させた措置のことでした。太平洋戦争も後期になるとアメリカ軍の反撃・侵攻が著しくなり、爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月に、「都市疎開実施要綱」が閣議決定されて都市施設の地方分散がはかられ、東京都での学童疎開も始まっています。
 ついに、1944年(昭和19)6月15日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸しましたが、この島が陥落すると、B-29爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が迫りました。そこで、6月30日に、東条英機内閣は、「学童疎開促進要綱」、「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することになります。
 7月10日には、「帝都学童集団疎開実施細目」が発表され、文部省は、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示すこととなりました。そして、7月20日に文部省は、集団的な学童疎開の範囲を東京のほか12都市(横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡)に拡大します。
 これに基づき、8月4日には第1陣として、東京の国民学校初等科3年以上の児童が上野駅から群馬県に出発しました。その後も、続々と実施され、8月~9月には、約35万人の児童が、地方の約7,000ヶ所の公会堂、社寺、旅館などに集団疎開することとなります。
 そこで授業等も行われましたが、戦争末期の食糧不足、物資の欠乏により、その調達に追われる日々で、まとも教育はあまり行われませんでした。そんな中で、1944年(昭和19)8月22日、沖縄県の児童、教員、保護者を乗せた疎開船「対馬丸」が、アメリカ軍潜水艦に撃沈され、犠牲者数1,476名(内、疎開学童780名)を出すという、いたましい対馬丸事件も発生しています。
 1945年(昭和20)3月9日には、「学童疎開強化要綱」も閣議決定され、疎開児童数は約45万人に達しました。「ポツダム宣言」を受諾し、1945年8月15日に「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送)が流されて戦争が終わると翌日に、東京都は学童集団疎開を翌年3月まで継続する方針を明示したものの、10月10日に東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着き、11月には、集団疎開からの大部分の復帰が完了しています。

〇学童疎開関係略年表

<1941年(昭和16)>
・11月20日 芦田均議員が空襲の危険がある東京・大阪で子供を事前に避難させることを推奨する
・12月16日 勅令「防空法施行令」で国民学校初等科児童は、病人、妊婦、老人などと共に事前避難の対象とされる

<1943年(昭和18)>
・10月25日 次官会議決定で、重要都市人口疎開に対する当面の啓発宣伝方針で、「任意の人口疎開」をうたう
・10月31日 「防空法改正」(第三次防空法)で、「疎開」の言葉が登場する
・12月10日 文部省により縁故による学童疎開促進が発表される
・12月21日 東條内閣により「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、東京都区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸などを疎開地区とする

<1944年(昭和19)>
・3月3日  「一般疎開促進要綱」が閣議決定され、縁故疎開促進の原則が出される 
・3月10日 東京都は「学童疎開奨励ニ関スル件」を通牒し、縁故・養護学園を利用する疎開実施につき指示する
・4月 東京都では縁故のない児童のための疎開学園設置が進められる
・4月2日 学童疎開の内務省案が示される
・4月5日 東京都は、縁故のない学童のため施設を利用する「戦時疎開学園設置要綱」を発表する
・6月30日 東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、集団的な学童疎開が促進される
・7月5日 防空総本部は「帝都学童疎開実施細目」を定め、実施が勧奨される
・7月7日 緊急閣議により沖縄の疎開が決定される
・7月10日 「帝都学童集団疎開実施細目」が発表される
・7月12日 文部省は「帝都学童集団疎開実施細目」により、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示す
・7月19日 沖縄県は「学童集団疎開準備ニ関スル件」を通牒し、疎開を準備するよう命じる
・7月20日 文部省は「帝都学童集団疎開実施要領」「同実施細目」に準じ、疎開都市として、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡の12都市を追加指定する
・8月4日 20万人規模の疎開の第1陣の児童が東京の上野駅を出発する
・8月16日 沖縄県の九州などへの疎開が開始される
・8月22日 沖縄から本土への学童疎開のための「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈され、死者1,418人(うち学童775人)が出る(対馬丸事件)
・9月25日 全国で子供の集団疎開が41万6,946人となる
・8月~9月 約35万人の児童が、約7,000ヶ所の旅館、寺院などに集団疎開する
・9月 文部省は指令を改め、旅館を宿舎とする場合は一ヶ月25円、その他は23円以内とし、特別の事情ある場合は文部大臣の承認を受けることとする
・9月29日 「疎開学童対策協議会規程」と「疎開学童ニ関スル措置要領」が閣議決定される

<1945年(昭和20)>
・1月12日 「昭和20年度学童集団疎開継続ニ関スル措置要領」を閣議決定し、学童集団疎開期間を当初の予定より1年間延長する
・3月9日 「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、初等科3年以上の児童は全員を疎開させ、1、2年の児童は、縁故疎開を強力に勧奨するとともに、集団疎開の対象にも加える
・3月15日 空襲に対処するため「大都市における疎開強化要綱」が閣議決定される(学童、母子など続々緊急疎開)
・3月16日 「学童疎開強化要綱(追加)」を再度閣議決定し、高等科の児童についても可能なかぎり縁故疎開をすすめるとする
・3月26日 東京都は千葉・茨城・静岡県の集団疎開学童に青森・岩手・秋田へ再疎開命令を出す
・4月 疎開都市に京都、舞鶴、広島、呉の4都市を追加指定する
・5月1日 集団疎開学童への主要食糧の配給量が減少する
・7月11日 集団疎開学童への主食の配給さらに1割減少、3年生まで252g(1合8勺)、4年生以上354g(2合5勺)となる
・8月16日 東京都は学童集団疎開を昭和21年3月まで継続する方針を明示する
・10月10日 東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着く
・11月 集団疎開からの大部分の復帰が完了する

<1946年(昭和21)
・3月 神田・日本橋・京橋区などの集団疎開学童が帰京する
・11月 沖縄の集団疎開学童が九州から沖縄へ帰還する 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)江戸幕府第14代将軍徳川家茂の命日(新暦8月29日)詳細
1883年(明治16)公卿・政治家岩倉具視の命日詳細
1907年(明治40)豊国炭鉱(福岡県)で炭塵爆発事故により死者365人を出す詳細
1948年(昭和23年)「国民の祝日に関する法律」(祝日法)が公布・施行され9つの祝日が誕生する詳細
1975年(昭和50)沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)が開幕詳細
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