ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:文化勲章

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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、東洋史学者山本達郎が生まれた日です。
 山本達郎(やまもと たつろう)は、東京において、貴族院議員・参議院議員となった父・松村真一郎はの子として生まれましたが、日本銀行総裁などを歴任した祖父の山本達雄の養子となり改姓しました。1933年(昭和8)に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業し、翌年には、東方文化学院助手となり、「鄭和の西征」で中国艦隊のインド洋遠征の実態を解明し国際的評価を受けます。
 1942年(昭和17)に、東京帝国大学文学部助教授となり、1949年(昭和24)には、文学部東洋史学科教授(南方史講座)に昇任し、毎日学術奨励金を受けました。1951年(昭和26)に東京大学より文学博士の学位を取得、翌年には、「安南史研究」で、日本学士院賞を受賞します。
 1953年(昭和28)から東洋文庫の評議員・理事を歴任し、近代中国研究委員会(現在の東洋文庫 近代中国研究班)を発足させました。1966年(昭和41)に東京大学文学部長となり、翌年には、学士院会員となっています。
 1971年(昭和46)に東京大学を定年退官し、翌年には、国際基督教大学教授となり、イェール大学客員教授、コーネル大学客員教授も務めました。1975年(昭和50)に国際哲学人文科学協議会会長となり、1986年(昭和61)に文化功労者、1998年(平成10)には、文化勲章を受章しています。
 東南アジア史研究の先駆者として知られ、国際学術交流にも努めましたが、2001年(平成13)1月24日に、東京において、心不全により90歳で亡くなりました。

〇山本達郎の主要な著作

・『印度支那諸民族に関する民族学的研究の現状』帝国学士院(1942年)
・『世界史概観』東京大学文学部内史学会編:村川堅太郎・林健太郎共著、山川出版社(1949年)
・『安南史研究』山川出版社(1950年) 
・『世界史』 村川堅太郎・江上波夫・林健太郎共著、山川出版社(1952年)
・『歴史の見方』三省堂〈社会科歴史文庫〉(1957年)

☆山本達郎関係略年表

・1910年(明治43)6月16日 東京において、貴族院議員・参議院議員となった父・松村真一郎はの子として生まれる
・1933年(昭和8) 東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業する
・1934年(昭和9) 東方文化学院助手となり、「鄭和の西征」で中国艦隊のインド洋遠征の実態を解明し国際的評価を受ける
・1942年(昭和17) 東京帝国大学文学部助教授となる
・1949年(昭和24) 東京大学文学部東洋史学科教授(南方史講座)に昇任し、毎日学術奨励金を受ける
・1951年(昭和26) 東京大学より文学博士の学位を取得する
・1952年(昭和27) 「安南史研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1953年(昭和28) 東洋文庫の評議員となる
・1966年(昭和41) 東京大学文学部長となる
・1967年(昭和42) 学士院会員となる
・1971年(昭和46) 東京大学を定年退官する
・1972年(昭和47) 国際基督教大学教授となる
・1975年(昭和50) 国際哲学人文科学協議会会長となる
・1986年(昭和61) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 文化勲章を受章する
・2001年(平成13)1月24日 東京において、心不全により90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1699年(元禄12)商人・海運と治水の功労者河村瑞賢の命日(新暦7月12日)詳細
1884年(明治17)俳人荻原井泉水の誕生日詳細
1939年(昭和14)国民精神総動員委員会がネオン抑制、パーマネント廃止等の生活刷新案を発表詳細
1943年(昭和18)「工場法戦時特例」公布・施行、「工場就業時間制限令」廃止で、労働時間制限撤廃等を許可する詳細
1961年(昭和36)「スポーツ振興法」が公布(施行は同年9月15日)される詳細
1964年(昭和39)新潟地震(M7.5)が起こり、死者26人、負傷者447人を出す詳細
1972年(昭和47)国連人間環境会議で「人間環境宣言」が採択される詳細
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aoyamasanu
 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、書家青山杉雨の生まれた日です。
 青山杉雨(あおやま さんう)は、愛知県葉栗郡草井村大字村久野において、次男として生まれましたが、本名は文雄(ふみお)といいました。1916年(大正5)、4歳の時に上京して、東京向島の養母太仁(たに)に育てられ、親戚の大池晴嵐から書の手ほどきを受けます。1930年(昭和5)に旧制芝中学校を卒業後、1934年(昭和9)に東横百貨店に勤務したものの、1937年(昭和12)には退職して、世田谷区尾山台で書道塾を始めます。1941年(昭和16)に第12回泰東書道院展総裁東久邇宮賞を受賞、1942年(昭和17)には、中国留学から戻った西川寧に師事したことが、独自の書風を確立するうえで大きな転機となりました。1945年(昭和20)に横須賀海兵団に入営しましたが、太平洋戦争後の1948年(昭和23)には、「李太白詩」で日展に初入選します。1950年(昭和25)に日展特選となり、1951年(昭和26)に毎日書道展審査員に就任、1954年(昭和29)には、日展審査員となりました。1955年(昭和30)に大東文化大学講師となり、1957年(昭和32)に第1回現代書道二十人展招待作家として出品、1961年 (昭和36)には、謙慎書道会初代理事長に就任しています。1963年(昭和38)に「周易抄」で、第6回日展文部大臣賞を受賞、1965年(昭和40)に全日本書道連盟改組に伴い、特別顧問に就任、1966年 (昭和41)には、「詩経の一節」で、日本芸術院賞を受賞しました。1972年(昭和47)に大東文化大学教授となり、1974年(昭和49)に全国書美術振興会を創立し、顧問となり、1983年 (昭和58)には、日本芸術院会員に選出されます。1984年(昭和59)に読売書法会を創立し、総務に就任、1985年(昭和60)に勲三等旭日中綬章を受章、1986年(昭和61)には、大東文化大学教授を辞め、日本書道教育会議を創立して副会長となりました。1988年(昭和63)に文化功労者となり、1990年(平成2)に成田山書道美術館設立を発議、1992年 (平成4)には、文化勲章を受章しています。篆書、隷書をもとに独自の表現様式を確立してきましたが、1993年(平成5)2月13日に、千葉県において、81歳で亡くなり、従三位と銀杯一組を追贈されました。尚、2010年(平成22)に、遺族の寄付により大東文化大学に青山杉雨賞が設けられたものの、2019年(平成31)で終了しています。

〇青山杉雨の主要な著作

・『青山杉雨書法』(1976年)
・『中国書法名蹟』(1979年)
・『書の実相 中国書道史話』(1982年)
・『江南遊 中国文人風土記』(1983年)
・『明清書道図説』(1986年)
・『文字性霊』(1991年)
・『青山杉雨作品』(1994年)
・『青山杉雨文集』(2005年)

☆青山杉雨関係略年表

・1912年(明治45)6月6日 愛知県葉栗郡草井村大字村久野に、次男として生まれる。
・1916年(大正5) 上京して、東京向島の養母太仁(たに)に育てられる
・1930年(昭和5) 旧制芝中学校を卒業する
・1934年(昭和9) 東横百貨店に勤務する
・1937年(昭和12) 東横百貨店を退職後、世田谷区尾山台で書道塾を始める
・1941年(昭和16) 第12回泰東書道院展総裁東久邇宮賞を受賞する
・1942年(昭和17) 西川寧に師事する
・1945年(昭和20) 横須賀海兵団に入営する
・1948年(昭和23) 「李太白詩」で日展に初入選する
・1950年(昭和25) 日展特選となる
・1951年(昭和26) 毎日書道展審査員に就任する
・1954年(昭和29) 日展審査員となる
・1955年(昭和30) 大東文化大学講師となる
・1957年(昭和32) 第1回現代書道二十人展招待作家として出品する
・1961年 (昭和36) 謙慎書道会初代理事長に就任する
・1963年(昭和38) 「周易抄」で、第6回日展文部大臣賞を受賞する
・1965年(昭和40) 全日本書道連盟改組に伴い、特別顧問に就任する
・1966年 (昭和41) 「詩経の一節」で、日本芸術院賞を受賞する
・1972年(昭和47) 大東文化大学教授となる
・1974年(昭和49) 全国書美術振興会を創立し、顧問となる
・1983年 (昭和58) 日本芸術院会員に選出される
・1984年(昭和59) 読売書法会を創立し、総務に就任する
・1985年(昭和60) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1986年(昭和61) 大東文化大学教授を辞め、日本書道教育会議を創立して副会長となる
・1988年(昭和63) 文化功労者となる
・1990年(平成2) 成田山書道美術館設立を発議する
・1991年(平成3) 第23回日展・天皇陛下御参観の解説をする
・1992年 (平成4) 文化勲章を受章する
・1993年(平成5)2月13日 千葉県において、81歳で亡くなり、従三位と銀杯一組を追贈される
・2010年(平成22) 遺族の寄付により大東文化大学に青山杉雨賞が設けられる(2019年で終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)日本画家・俳人川端龍子の誕生日詳細
1912年(明治45)小説家新田次郎の誕生日詳細
1915年(大正4)焼岳(長野県・岐阜県)の噴火により、泥流が梓川をせき止め、堰止湖である大正池を形成する詳細
1949年(昭和24)「土地改良法」公布され、土地改良事業が一本化される詳細
1952年(昭和27)文部省に中央教育審議会(中教審)が設置される詳細
1979年(昭和54)日本が「国際人権規約」の批准を国会で承認する詳細
2019年(令和元)小説家・随筆家田辺聖子の命日詳細
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tanakadateaikitsu01
 今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、地球物理学者・航空学者・貴族院議員田中舘愛橘が亡くなった日です。
 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、江戸時代後期の1856年(安政3年9月18日)に、陸奥国二戸郡福岡村(現在の岩手県二戸市福岡)において、南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と母・喜勢(きせ・旧姓 小保内)の長男として生まれました。1862年(文久2)の6歳の時、母・喜勢を亡くし、1865年(慶応元)に下斗米軍七の武芸「実用流」に入門、翌年に福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学びます。
 1870年(明治3)に盛岡藩校修文所入学、和漢の学問を修め、1872年(明治5)には、一家で東京へ移住し、慶應義塾英語学校に入学しました。1876年(明治9)に東京開成学校へ入学、1878年(明治11)に東京大学理学部本科へ入学し、1882年(明治15)に卒業後、同校の準助教授となります。
 1888年(明治21)にイギリスのグラスゴー大学に留学、1890年(明治23)にドイツのベルリン大学へ転学し、1891年(明治24)に帰国後、帝国大学理科大学教授(理学博士)となり、同年10月28日に発生した濃尾大地震の調査で根尾谷大断層を発見しました。1894年(明治27)に万国測地協会委員、1902年(明治35)に勲四等旭日小綬章受章、1906年(明治39)に帝国学士院会員となり、勲二等旭日重光章を受章、1907年(明治40)には、万国度量衡会議常任委員となります。
 1910年(明治43)に航空事業視察のためヨーロッパへ派遣され、所沢飛行場建設に関わり、1914年(大正3)には、文部省測地学委員会委員長となりました。1916年(大正5)に勲一等瑞宝章を受章、帝国大学教授在職25年祝賀会の日に辞表を提出し、翌年に名誉教授となり、万国度量衡会議に出席します。
 1918年(大正7)に国際学術研究会議のため欧州各国へ出張、東京帝国大学航空研究所を創立し、顧問となり、1919年(大正8)には、地磁気・空中電気国際会議に出席し会長となりました。1921年(大正10)に小石川区雑司ヶ谷町へ転居、日本ローマ字会を創立、航空評議会評議員となり、1925年(大正14)には、文部省学術研究会議副議長、貴族院議員となります。
 1928年(昭和3)に航空事業に対しフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章、1930年(昭和5)には、文部省臨時ローマ字調査委員会委員となりました。1932年(昭和7)に貴族院議員に再選され、1933年(昭和8)の御講書始めに「航空発達史の概要」を御進講、1939年(昭和14)には、中央航空研究所施設委員会委員となり、貴族院議員に3選されます。
 1940年(昭和15)に帝国学士院第二部部長となり、1944年(昭和19)に文化勲章を受章し、朝日文化賞を受賞、1945年(昭和20)には、空襲の激化により、故郷の福岡町に疎開しました。太平洋戦争後の1948年(昭和23)に自著『時は移る』を発行(ローマ字、漢字かな書き併記)、1950年(昭和25)に日本物理学会名誉会員、1951年(昭和26)に福岡町名誉町民となったものの、1952年(昭和27年)5月21日に、東京の経堂の自宅において、95歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されています。
 尚、1999年(平成11)には、故郷の岩手県二戸市に「田中舘愛橘記念科学館」がオープンしました。

〇田中舘愛橘の主要な著作

・『電気ニ就テノ演説』(1899年)
・『航空機講話』(1915年)
・『羅馬字意見及び発音考』(1926年)
・『メートル法の歴史と現在の問題』(1934年)
・『ローマ字綴り方の外交及び国際関係の事項概要』(1936年)
・随筆・論文集『葛の根 田中館愛橘論文抜集』(1938年)
・『時は移る』(1948年)
・『田中館愛橘遺墨集』(1992年)
・『田中館愛橘博士歌集 地球を翔けた心の歌』(1997年)
・『献詠和歌集 田中舘愛橘博士墓前祭 昭和27年~平成18年』(2007年)

☆田中舘愛橘関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1856年(安政3年9月18日) 陸奥国二戸郡福岡村(現在の二戸市福岡)において、南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と母・喜勢(きせ・旧姓 小保内)の長男として生まれる
・1861年(文久元年) 母キセから文字の手習い、伯父小保内定身より和漢の書を学ぶ
・1862年(文久2年) 母・喜勢が病没する
・1865年(慶応元年) 下斗米軍七の武芸「実用流」に入門する
・1866年(慶応2年) 福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学ぶ
・1870年(明治3年) 盛岡藩校修文所入学、和漢の学問を修める  
・1872年(明治5年) 一家で東京へ移住、慶應義塾英語学校に入学する
・1876年(明治9年) 東京開成学校入学する
・1878年(明治11年) 東京大学理学部本科入学する
・1880年(明治13年) メンデンホールの指導の下で、東京や富士山の重力測定をする
・1882年(明治15年) 東京大学を卒業し、準助教授となる  
・1883年(明治16年) 東京大学助教授となる
・1888年(明治21年) イギリスのグラスゴー大学に留学する
・1890年(明治23年) ドイツのベルリン大学へ転学する
・1891年(明治24年) 帰国し帝国大学理科大学教授(理学博士)となり、濃尾大地震の調査で根尾谷大断層を発見する
・1893年(明治26年) 本宿キヨ子と結婚する  
・1894年(明治27年) 長女美稲誕生、産後の病により夫人が亡くなり、万国測地協会委員となる
・1898年(明治31年) 万国測地学協会総会に出席する
・1902年(明治35年) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1904年(明治37年) 日露戦争、陸軍の気球の研究に従事する
・1906年(明治39年) 帝国学士院会員となり、勲二等旭日重光章を受章  
・1907年(明治40年) 万国度量衡会議常任委員となる
・1909年(明治42年) 臨時軍用気球研究会委員となる
・1910年(明治43年) 航空事業視察のためヨーロッパへ派遣、所沢飛行場建設に関わる
・1914年(大正3年) 文部省測地学委員会委員長となる
・1915年(大正4年) 貴族院有志に航空機の発達及び研究状況を講演『航空機講話』を発行する
・1916年(大正5年) 勲一等瑞宝章を受章、帝国大学教授在職25年祝賀会の日に辞表を提出する  
・1917年(大正6年) 東京帝国大学名誉教授となり、万国度量衡会議に出席する
・1918年(大正7年) 国際学術研究会議のため欧州各国へ出張、東京帝国大学航空研究所を創立し、顧問となる
・1919年(大正8年) 地磁気・空中電気国際会議に出席し会長となる
・1920年(大正9年) 東京帝国大学航空研究所嘱託、陸軍省航空機調査研究嘱託、外務省より航空条約事務嘱託、国際連盟協会会議、万国度量衡委員会議、万国学術研究会議出席する
・1921年(大正10年) 小石川区雑司ヶ谷町へ転居、日本ローマ字会を創立、航空評議会評議員となる
・1923年(大正12年) 万国度量衡常置委員会議及び物理学会に出席する
・1924年(大正13年) 測地学・地球物理学国際会議へ出席する
・1925年(大正14年) 文部省学術研究会議副議長、貴族院議員となる
・1926年(大正15年) 故郷の福岡町において古希の祝賀会、震災予防評議会評議員となる、太平洋学術会議副議長となる
・1927年(昭和2年) 国際航空委員会、測地学・地球物理学国際会議、度量衡会議総会へ出席する
・1928年(昭和3年) 航空事業に対しフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章する  
・1929年(昭和4年) 万国度量衡会議、国際航空連盟会議、国際気象学会へ出席する
・1930年(昭和5年) 文部省臨時ローマ字調査委員会委員となる  
・1931年(昭和6年) 万国度量衡常置委員を辞し同名誉委員となる、言語学国際会議へ出席する
・1932年(昭和7年) 貴族院議員に再選される
・1933年(昭和8年) 御講書始めに「航空発達史の概要」を御進講、測地学・地球物理学国際会議へ出席する
・1935年(昭和10年) 天文学会、国際音声学会、議員会議、気象学会、国際航空連盟会議へ出席する
・1938年(昭和13年) 随筆・論文集『葛の根』を発刊、科学振興調査会委員、航空機技術委員会委員となる  
・1939年(昭和14年) 中央航空研究所施設委員会委員となる、貴族院議員に3選される
・1940年(昭和15年) 帝国学士院第二部部長となる
・1944年(昭和19年) 文化勲章を受章し、朝日文化賞を受賞する  
・1945年(昭和20年) 故郷の福岡町に疎開する  
・1948年(昭和23年) 自著『時は移る』を発行(ローマ字、漢字かな書き併記)する
・1950年(昭和25年) 日本物理学会名誉会員となる
・1951年(昭和26年) 福岡町名誉町民となる  
・1952年(昭和27年)5月21日 東京の経堂の自宅において、95歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈される
・1999年(平成11年) 故郷の二戸市に田中舘愛橘記念科学館がオープンする  
・2002年(平成14年) 没後50年記念事業が挙行される
・2015年(平成27年) 二戸市名誉市民となる 
・2016年(平成28年) 田中舘愛橘像が落成し、二戸市のシンボルとなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

二十四節季二十四節季の8番目小満の日です詳細
720年(養老4)舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を完成し撰上する(新暦7月1日)詳細
1281年(弘安4)蒙古軍が対馬に上陸し、第2回元寇(弘安の役)が始まる詳細
1575年(天正3)長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破る(新暦6月29日)詳細
1827年(文政10)頼山陽著『日本外史』22巻が、元老中・松平定信に献呈される(新暦6月15日)詳細
1880年(明治13)三条の大火「糸屋万平火事」で、死者34名、焼失2,743戸を出す詳細
1949年(昭和24)「新宿御苑」が国民公園となり一般に利用が開放される詳細
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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、法医学者・血清学者・人類遺伝学者古畑種基が亡くなった日です。
 古畑種基(ふるはた たねもと)は、明治時代後期の1891年(明治24)6月15日に、三重県南牟婁郡相野谷村(現在の紀宝町)平尾井において、地元の開業医だった父・古畑虎之助、母・志うの次男として生まれました。旧制和歌山県立和歌山中学校(現在の県立桐蔭高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1912年(明治45)に、東京帝国大学医科大学へ入学します。
 1916年(大正5)に卒業後、同校の医学部助手となり、1921年(大正10)に欧米留学に出発、生物学的実験術式を研修し、法医学組織学を専修し、1923年(大正12)には、医学博士となりました。1924年(大正13)に欧米留学から帰国し、金沢医科大学教授兼同大学附属医学専門部教授となり、1934年(昭和9)には、Q式血液型を発見します。
 1936年(昭和11)に東京帝国大学医学部法医学教室主任教授(~1952年)となり、1943年(昭和18)に帝国学士院恩賜賞を受賞、1947年(昭和22)には、日本学士院会員に選出されました。1949年(昭和24)の下山事件で、下山国鉄総裁の死因について(死後轢断、他殺説)を主張して捜査当局と対立、1950年(昭和25)には、中尊寺の金色堂を修復するにあたり、藤原四代の遺体を調査します。
 1952年(昭和27)に東京医科歯科大学教授(~1960年)となり、1954年(昭和29)には、第1回世界人口会議(於:ローマ)に日本代表として出席、「血液型因子の人口に及ぼす遺伝的影響」について発表しました。1956年(昭和31)に法医学研究の業績が認められ、文化勲章を受章、1960年(昭和35)に東京医科歯科大学教授を辞め、科学警察研究所所長となり、1970年(昭和45)には、勲一等瑞宝章を受章しています。
 1971年(昭和46)に脳血栓で倒れ、療養に入りましたが、1975年(昭和50)5月6日に、東京において、83歳で亡くなり、正三位、勲一等旭日大綬章を追贈されました。

〇古畑種基の主要な著作

・『血液型と親子鑑定・指紋学 近代犯罪科学全集 第12篇』(1930年)
・『血液型と其の決定法 臨牀医学講座』(1936年)
・『簡明法医学』(1937年)
・『犯罪と法医学』(1938年)
・『法医学』(1939年)
・『法医学と犯罪捜査』(1939年) 
・『血液型』(1945年)
・『血液型学』(1947年)
・『犯罪と法医学』(1948年)
・『民族と血液型』(1948年)
・『法医学雑記』(1949年)
・『犯罪の科学』(1950年)
・『血と指紋とミイラの話』(1952年)
・『法医学入門』(1953年)
・『法医学の話』(1958年)
・『今だから話そう 法医学秘話』(1959年)
・『法医学ノート』(1959年)
・『血液型の話』(1962年)
・『一本の毛は語る 科学捜査物語』(1963年)
・『遺伝と疾病』(1964年)
・『血液型を考える 法医学のはなし』(1972年)

☆古畑種基関係略年表

・1891年(明治24)6月15日 三重県南牟婁郡相野谷村(現在の紀宝町)平尾井において、地元の開業医だった父・古畑虎之助、母・志うの次男として生まれる
・1897年(明治30) 同町平尾井の明成尋常小学校に入学する
・1900年(明治33) 和歌山市内に転居し、和歌山市広瀬小学校へ転校する
・1904年(明治37) 旧制和歌山県立和歌山中学校(現在の県立桐蔭高等学校)へ入学する
・1909年(明治42) 旧制和歌山県立和歌山中学校(現在の県立桐蔭高等学校)を卒業し、旧制第三高等学校へ入学する
・1912年(明治45) 旧制第三高等学校を卒業し、東京帝国大学医科大学へ入学する
・1916年(大正5) 東京帝国大学医科大学を卒業し、同校の医学部助手となる
・1921年(大正10) 欧米留学に出発する
・1923年(大正12) 医学博士となる
・1924年(大正13) 欧米留学から帰国し、金沢医科大学教授兼同大学附属医学専門部教授となる
・1934年(昭和9) Q式血液型を発見する
・1936年(昭和11) 東京帝国大学医学部法医学教室主任教授(~1952年)となる
・1943年(昭和18) 帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1947年(昭和22) 日本学士院会員に選出される
・1949年(昭和24) 下山事件で、下山国鉄総裁の死因について(死後轢断、他殺説)を主張して捜査当局と対立する
・1950年(昭和25) 中尊寺の金色堂を修復するにあたり、藤原四代の遺体を調査する
・1952年(昭和27) 東京医科歯科大学教授(~1960年)となる
・1954年(昭和29) 第1回世界人口会議(於:ローマ)に日本代表として出席、「血液型因子の人口に及ぼす遺伝的影響」について発表する
・1956年(昭和31) 法医学研究の業績が認められ、文化勲章を受章する
・1960年(昭和35) 東京医科歯科大学教授を辞め、科学警察研究所所長となる
・1970年(昭和45) 勲一等瑞宝章を受章する
・1971年(昭和46) 脳血栓で倒れ、療養に入る
・1975年(昭和50)5月6日 東京において、83歳で亡くなり、正三位、勲一等旭日大綬章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

763年(天平宝字7)唐代の高僧・日本律宗の開祖鑑真の命日(新暦6月25日)詳細
1408年(応永15)室町幕府3代将軍足利義満の命日(新暦5月31日)詳細
1607年(慶長12)朝鮮使節(朝鮮通信使)が初めて江戸を訪問し、江戸幕府第2代将軍秀忠と会見(新暦6月29日)詳細
1909年(明治42)「新聞紙法」が公布される詳細
1950年(昭和25)「住宅金融公庫法」(昭和25年法律第156号)が公布・施行される詳細
1983年(昭和58)農業経済学者・農政家東畑精一の命日詳細
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yamamotokyuujin01
 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、日本画家山本丘人の生まれた日です。
 山本丘人(やまもと きゅうじん)は、東京市下谷区上野広小路(現在の台東区上野3丁目)において、東京音楽学校書記だった父・昇と母・ぬい(縫)の一人息子として生まれましたが、本名は正義(まさよし)と言いました。1913年(大正2)に東京府立第三中学校(現在の都立両国高校)に入学しましたが、1915年(大正4)には、東京府立工芸学校金属細工科(現在の都立工芸高等学校)へ転入、彫金を学ぶと共に、広瀬東畝、篠田柏邦に日本画の手ほどきを受けます。
 1918年(大正7)に父・昇が亡くなったものの、1919年(大正8)に府立工芸学校卒業後、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備科日本画科に入学、1921年(大正10)には、日本画科選科に編入しました。松岡映丘に師事し、1924年(大正13)に卒業後、映丘主催の画塾「木之華社」に入門します。
 1926年(大正15)に新興大和絵会第6回展に出品(以後昭和6年解散時まで毎年出品)、1928年(昭和3)に第9回帝展に「公園の初夏」が初入選し、1929年(昭和4)には、新興大和絵賞・会友に推薦されました。1930年(昭和5)の第11回帝展に「不忍池」が入選し、この作品から雅号「丘人」を使い始め、以後第14回まで連続して入選します。
 1934年(昭和9)に映丘門下の杉山寧、浦田正夫、岡田昇、松岡貞夫らと新日本画研究会「瑠爽画社」を結成、1936年(昭和11)に東京府北多摩郡小金井村(現在の小金井市)に転居、文展に「海の微風」を出品し、特選となりました。1940年(昭和15)に「瑠爽画社」が解散、1943年(昭和18)には、川崎小虎を代表として加藤栄三、東山魁夷らと「国土会」を結成します。
 1944年(昭和19)に東京美術学校日本画科助教授となり、第4回野間美術奨励賞を受賞しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に文部省主催第2回日本美術展覧会(日展)審査員として「望流」を出品、1947年(昭和22)には、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)教授となります。
 1948年(昭和23)に上村松篁ら13名とで「創造美術」を結成、1949年(昭和24)の第2回創造美術展に「草上の秋」を出品、翌年に芸術選奨美術文部大臣賞を受賞しました。1951年(昭和26)に創造美術が新制作派協会(洋画、彫刻、建築)と合同し、新制作協会日本画部となり、国土会解散、東京芸術大学、女子美術大学を辞職します。
 1964年(昭和39)に「異郷落日」に対して日本芸術院賞が贈られ、1977年(昭和52)には、文化勲章を受章、文化功労者として顕彰されました。しかし、1985年(昭和60)に病に倒れ入院し、翌年2月10日に、神奈川県において、急性心不全のため、85歳で亡くなっています。
 尚、1989年(平成元)には、静岡県駿東郡小山町に「山本丘人記念館・美術館夢呂土(むろど)」が開設されました。

〇山本丘人主要な作品

・「海の微風」(1936年)文展特選
・「到春」(1942年)
・「草上の秋」(1949年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・「冬岳」(1953年)
・「北濤」(1955年)東京国立近代美術館蔵
・「夕焼山水(ゆうやけさんすい)」(1961年)平木浮世絵財団蔵
・「異郷落日」(1964年)日本芸術院賞受賞
・「狭霧野(さぎりの)」(1970年)

☆山本丘人関係略年表
  
・1900年(明治33)4月15日 東京市下谷区上野広小路(現在の台東区上野3丁目)において、東京音楽学校書記だった父・昇と母・ぬい(縫)の一人息子として生まれる
・1902年(明治35) 下谷区上野桜木町34番地に転居する
・1907年(明治40) 東京市下谷区根岸尋常小学校に入学する
・1913年(大正2) 東京市下谷区根岸尋常小学校を卒業。東京府立第三中学校(現在の都立両国高校)に入学する
・1915年(大正4) 東京府立工芸学校金属細工科(現在の都立工芸高等学校)へ転入、彫金を学ぶとともに、在学中に広瀬東畝、篠田柏邦に日本画の手ほどきを受ける
・1918年(大正7) 父昇死去(享年数え年53)、第1回国画創作協会第1回展を見学し感銘を受ける
・1919年(大正8) 府立工芸学校を卒業後、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備科日本画科に入学する
・1920年(大正9) 夏休みの課題コンクールに「娘之坐像」を出品。教授の松岡映丘に高く評価され、以後薫陶を受ける
・1921年(大正10) 日本画科選科に編入。この年「婦女坐像(青梅)」を制作する
・1924年(大正13) 東京美術学校を「白菊」を制作して卒業後、映丘主催の画塾、木之華社に入門する
・1925年(大正14) 第六回帝展に出品するが落選。この頃、本郷洋画研究所に通う
・1926年(大正15) 新興大和絵会第6回展に出品する(以後昭和6年解散時まで毎年出品)
・1927年(昭和2) 新興大和絵会第7回展に直垂姿の松岡映丘(画人の像)を出品する
・1928年(昭和3) 第9回帝展に「公園の初夏」が初入選する
・1929年(昭和4) 新興大和絵賞・会友に推薦される
・1930年(昭和5) 第11回帝展に「不忍池」が入選。この作品から雅号「丘人」を使い始める。以後第14回まで連続して入選する
・1932年(昭和7) 大野美代と結婚、資生堂ギャラリーにて個展開催する
・1934年(昭和9) 映丘門下の杉山寧、浦田正夫、岡田昇、松岡貞夫らと新日本画研究会「瑠爽画社」を結成、夏に伊豆へ取材旅行をする
・1936年(昭和11) 東京府北多摩郡小金井村貫井243(現・小金井市貫井南町4)に転居、文部省美術展覧会鑑査展(文展)に「海の微風」を出品し、特選となる
・1938年(昭和13) 師、松岡映丘が亡くなる(享年58歳)
・1939年(昭和14) 文展、院展作家12名による「綵尚会」(関尚美堂主催)会員となる
・1940年(昭和15) 「瑠爽画社」が解散、高島屋主催「青丘会」会員となり、岡田昇らが「一采社」を結成、顧問格となる
・1942年(昭和17) 第5回新文展に無鑑査出品する
・1943年(昭和18) 川崎小虎を代表として加藤栄三、東山魁夷らと「国土会」を結成する
・1944年(昭和19) 安田靫彦に呼ばれ、東京美術学校日本画科助教授となり、第4回野間美術奨励賞を受賞する
・1946年(昭和21) 文部省主催第2回日本美術展覧会(日展)審査員として「望流」を出品する
・1947年(昭和22) 向井万吉、広田多津、吉岡堅二、福田豊四郎らと下諏訪へ旅行、女子美術専門学校(現・女子美術大学)教授となる
・1948年(昭和23) 上村松篁、秋野不矩、吉岡堅二、福田豊四郎、加藤栄三、澤宏靭、橋本明治、高橋周桑、菊池隆志、向井久万、奥村厚一、広田多津ら13名で「創造美術」を結成する
・1949年(昭和24) 創造美術研究会を開催、第2回創造美術展に「草上の秋」を出品する
・1950年(昭和25) 「草上の秋」に対して芸術選奨美術文部大臣賞が贈られ、岡鹿之助との交友が始まる
・1951年(昭和26) 橋本明治、加藤栄三、東山魁夷、森田沙夷、杉山寧と「未更会」発足、創造美術が新制作派協会(洋画、彫刻、建築)と合同し、新制作協会日本画部となり、国土会解散、東京芸術大学、女子美術大学を辞職する
・1952年(昭和27) ヴェネツィア・ビエンナーレに「山麓」を出品する
・1954年(昭和29) 小倉遊亀、吉岡堅二らと高島屋主催「鼎会」を発足させる
・1956年(昭和31) 奥村土牛、岡鹿之助、中川一政らと兼素洞主催「雨晴会」発足させる
・1957年(昭和32) ブリジストン美術館で個展を開催する
・1959年(昭和34) 貨物船にて渡欧、4月~6月パリ到着滞在後イタリアを巡り、パリでは岡鹿之助と行動を共にする
・1960年(昭和35) 神奈川県中郡大磯町瀧之沢に転居、第25回新制作展に「夕焼け山水」出品する
・1963年(昭和38) 東山魁夷、杉山寧、高山辰雄、西山英雄らと孔雀画廊主催「五山会」を発足させる
・1964年(昭和39) 「異郷落日」に対して日本芸術院賞が贈られる
・1968年(昭和43) サカモト画廊主催「十一月会」が発足する
・1972年(昭和47) 東急百貨店(東京・渋谷)にて「山本丘人展」が開催される
・1974年(昭和49) 新制作協会日本画部全会員が退会し、新たに「創画会」が発足、日展、院展、創画会の会員により「遊星会」が発足する
・1977年(昭和52) 文化勲章を授章、文化功労者として顕彰され、上村松篁、杉山寧、高山辰雄、東山魁夷らと兼素洞主催「白虹会」を発足する
・1983年(昭和58) 軽い脳溢血を起こし静養、遊星展が終了する
・1985年(昭和60) 美代夫人が亡くなり、病に倒れ入院する
・1986年(昭和61)2月10日 神奈川県において、急性心不全のため、85歳で亡くなる
・1989年(平成元) 静岡県駿東郡小山町に「山本丘人記念館・美術館夢呂土(むろど)」が開設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
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1710年(宝永7)江戸幕府が漢文体から和文に改訂した「武家諸法度」(宝永令)17ヶ条を発布する(新暦5月13日)詳細
1716年(享保元)江戸幕府が五街道の呼称を布達する(新暦6月4日)詳細
1994年(平成6)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(WTO設立協定)が調印(翌年1月1日発効)される詳細
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