ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:文化功労者

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 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、砂防工学者・政治家赤木正雄が生まれた日です。
 赤木正雄(あかぎ まさお)は、兵庫県城崎郡中筋村引野(現在の豊岡市)において、豪農の旧家だった父・赤木甚太夫、母・たみの4女2男の末子として生まれました。1旧制豊岡中学校、旧制第一高等学校を経て、1911年(明治44)に、東京帝国大学農科大学林学科に入学します。
 治水・砂防の道を進む決心をし、1914年(大正3)に卒業後、内務省へ入省、滋賀県田上山の山腹工事、翌年には、徳島県吉野川の砂防工事に従事しました。1923年(大正12)に自費でオーストリアに留学し、ウィーン農科大学で、近代的な砂防技術を学び、1925年(大正14)に帰国後、内務省に復職します。
 1926年(大正15)に初代立山砂防工事事務所長を兼務、京都帝国大学農学部講師を兼任、1929年(昭和4)に日本大学工学部講師も兼任、1935年(昭和10)には、京都帝国大学より農学博士を授与され、全国治水砂防協会を設立しました。1936年(昭和11)に勅任官に任命され、砂防工事全体計画を作成、1938年(昭和13)に砂防専管の第3技術課初代課長に就任、1940年(昭和15)には、砂防協会を社団法人にし、第3技術課が廃止されて、1942年(昭和17)には、内務省を退官し、砂防協会の仕事に専念します。
 1946年(昭和21)に貴族院議員に勅選され、1947年(昭和22)の第1回参議院議員選挙で当選、1948年(昭和23)には、建設政務次官に就任し、昭和天皇に御進講しました。1955年(昭和30)に砂防会館建築に着手、参議院建設委員会委員長に就任しましたが、1956年(昭和31)には、参議院議員選挙全国区で落選したものの、翌年に砂防会館が竣工しています。
 1960年(昭和35)に建設事業功労者として藍綬褒章を受章、1971年(昭和46)には、文化功労者となり、文化勲章を受章、豊岡市の名誉市民ともなりました。「砂防の父」、「砂防の神様」とも呼ばれてきましたが、1972年(昭和47)9月24日に、東京都杉並区において、85歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇赤木正雄の主要な著作

・『アルス土木工学大講座第12 渓流及砂防工学』(1939年)
・『高等土木工学第16巻 渓流及砂防工学』(1941年)
・自伝『砂防一路』(1967年)
・『明治大正日本砂防工事々績ニ徴スル工法論』(1974年)
・『砂防工事』(1975年)

☆赤木正雄関係略年表

・1887年(明治20)3月24日 兵庫県城崎郡中筋村引野(現在の豊岡市)において、豪農の旧家だった父・赤木甚太夫、母・たみの4女2男の末子として生まれる
・1906年(明治39) 豊岡中学校を卒業する
・1908年(明治41) 旧制第一高等学校に入学する
・1911年(明治44) 旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学農科大学林学科に入学する
・1914年(大正3) 東京帝国大学農科大学林学科を卒業し、内務省へ入省、滋賀県田上山の山腹工事に従事する
・1915年(大正4) 徳島県吉野川の砂防工事に従事する
・1923年(大正12) オーストリアに留学し、ウィーン農科大学で、近代的な砂防技術を学ぶ
・1925年(大正14) 留学から帰国し、内務省に復職する
・1926年(大正15) 初代立山砂防工事事務所長を兼務、京都帝国大学農学部講師を兼任する
・1929年(昭和4) 日本大学工学部講師を兼任する
・1935年(昭和10) 京都帝国大学より農学博士を授与され、全国治水砂防協会を設立する
・1936年(昭和11) 勅任官に任命され、砂防工事全体計画を作成する
・1938年(昭和13) 砂防専管の第3技術課初代課長に就任する
・1940年(昭和15) 砂防協会を社団法人にし、第3技術課が廃止される
・1942年(昭和17) 内務省を退官する
・1946年(昭和21) 貴族院議員に勅選される
・1947年(昭和22) 第1回参議院議員選挙で当選する
・1948年(昭和23) 建設政務次官に就任し、昭和天皇に御進講する
・1955年(昭和30) 砂防会館建築に着手、参議院建設委員会委員長に就任する
・1956年(昭和31) 参議院議員選挙全国区で落選する
・1957年(昭和32) 砂防会館が竣工する
・1960年(昭和35) 建設事業功労者として藍綬褒章を受章する
・1971年(昭和46) 豊岡市の名誉市民、文化功労者となり、文化勲章を受章する
・1972年(昭和47)9月24日 東京都杉並区において、85歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(寿永4)壇ノ浦の戦いが行われ、平家一門が滅亡する(新暦4月25日)詳細
1847年(弘化4)信濃国で善光寺地震(推定マグニチュード7.4)が起き、甚大な被害をもたらす(新暦5月8日)詳細
1891年(明治24)「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)が公布される詳細
1932年(昭和7)小説家梶井基次郎の命日詳細
1974年(昭和49)建築家吉田五十八の命日詳細
1983年(昭和58)千代田IC~鹿野ICの開通によって、中国自動車道(吹田~下関)が全通する詳細
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mutoukiyoshi01
 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、建築家・建築構造学者武藤清の亡くなった日です。
 武藤清(むとう きよし)は、明治時代後期の1903年(明治36)1月29日に、茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)において生まれました。龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)、旧制第二高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科に入学します。
 在学中の1923年(大正12)に、関東大震災を経験し、耐震建築の研究を志すようになり、1925年(大正14)に卒業後、大学に残って、佐野利器の元で建築構造の研究を行いました。1927年(昭和2)に東京帝国大学工学部助教授となり、1931年(昭和6)には、臨時帝室博物館造営課の嘱託を勤め、1933年(昭和8)には、世界的な耐震計算法である「横力分布係数法」を完成します。
 1935年(昭和10)に東京帝国大学工学部教授に昇任し、1938年(昭和13)には、「材端に剛域を有するラーメンの地震力に依る応力の略算法」で、日本建築学会賞(学術賞)を受賞し、太平洋戦争末期には松代大本営の造営に関与しました。1960年(昭和35)に東京大学工学部長となり、1961年(昭和36)には、「わが国地震工学の国際的高揚」で、日本建築学会賞(学術高揚)を受賞します。
 1962年(昭和37)に千葉工業大学建築学科創設に携わり、講師を務め、1963年(昭和38)に東京大学を退官後、鹿島建設副社長に就任、国際地震工学会初代会長ともなりました。1964年(昭和39)に「耐震構造に関する研究」で、日本学士院恩賜賞を受賞、1966年(昭和41)には、『超高層建築へのアプローチ』を刊行します。
 コンピューターによるシミュレーション法を開発し、その成果は「柔構造」理論として、1968年(昭和43)には、霞が関ビルを36階建てに自ら構造設計し、日本最初の超高層建築を実現させ、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰を受けました。1969年(昭和44)に武藤構造力学研究所所長となり、1970年(昭和45)に「耐震工学に関する研究」で、日本建築学会大賞を受賞、1975年(昭和50)には、日本学士院会員となっています。
 1979年(昭和54)に文化功労者となり、1980年(昭和55)に「複合隙間壁体構造を用いた柔構造物の発明」で、全国発明表彰(恩賜発明賞)を受賞、1983年(昭和58)には、文化勲章を受章しました。1984年(昭和59)に米国地震工学会特別賞を受賞しましたが、1989年(平成元)3月12日に、東京都新宿区の自宅において、急性心不全のため、86歳で亡くなっています。

〇武藤清の主要な著作

・共著『構造力学』高等建築学第5巻(1934年)
・『耐震設計シリーズ』全5巻(1963~67年)
・『超高層建築へのアプローチ』(1966年)

☆武藤清関係略年表

・1903年(明治36)1月29日 茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)において、生まれる
・1925年(大正14) 東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、大学に残って、佐野利器の元で建築構造の研究を行う
・1927年(昭和2) 東京帝国大学工学部助教授となる
・1931年(昭和6) 臨時帝室博物館造営課の嘱託を勤める
・1933年(昭和8) 世界的な耐震計算法である「横力分布係数法」を完成する
・1935年(昭和10) 東京帝国大学工学部教授となる
・1938年(昭和13) 「材端に剛域を有するラーメンの地震力に依る応力の略算法」で、日本建築学会賞(学術賞)を受賞する
・1960年(昭和35) 東京大学工学部長となる
・1961年(昭和36) 「わが国地震工学の国際的高揚」で、日本建築学会賞(学術高揚)を受賞する
・1962年(昭和37) 千葉工業大学建築学科創設に携わり、講師を務める
・1963年(昭和38) 東京大学を退官後、鹿島(かじま)建設副社長に就任、国際地震工学会初代会長となる
・1964年(昭和39) 「耐震構造に関する研究」で、日本学士院恩賜賞を受賞する
・1966年(昭和41) 『超高層建築へのアプローチ』を刊行する
・1968年(昭和43) 霞が関ビルを36階建てに自ら構造設計し、日本最初の超高層建築を実現させ、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰を受ける
・1969年(昭和44) 武藤構造力学研究所所長となる
・1970年(昭和45) 「耐震工学に関する研究」で、日本建築学会大賞を受賞する
・1975年(昭和50) 日本学士院会員となる
・1979年(昭和54) 文化功労者となる
・1980年(昭和55) 「複合隙間壁体構造を用いた柔構造物の発明」で、全国発明表彰(恩賜発明賞)を受賞する
・1983年(昭和58) 文化勲章を受章する
・1984年(昭和59) 米国地震工学会特別賞を受賞する
・1989年(平成元)3月12日 東京都新宿区の自宅において、急性心不全のため、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1633年(寛永10)第110代の天皇とされる後光明天皇の誕生日(新暦4月20日)詳細
1705年(宝永2)思想家・儒学者・古義学派の創始者伊藤仁斎の命日(新暦4月5日)詳細
1945年(昭和20)名古屋大空襲で中心街が消失し、105,093人が罹災、死者519人人、負傷者734人を出す詳細
1946年(昭和21)日本労働運動の先駆的指導者・政治家鈴木文治の命日詳細
将棋棋士・十三世名人関根金次郎の命日詳細
2011年(平成23)九州新幹線の新八代~博多が延伸開業し、鹿児島ルートの全線開通となる詳細
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shyoudakenjirou01
 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、数学者・第6代大阪大学総長・武蔵学園学園長正田建次郎の生まれた日です。
 正田建次郎(しょうだ けんじろう)は、群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)において、日清製粉の創業者である父・正田貞一郎の二男として生まれました。東京府立第四中学校、旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学理学部数学科に入学し、高木貞治の指導を受けます。
 1926年(大正15)にドイツに留学し、ゲッティンゲン大学でエミー・ネーターに師事し、抽象代数学を研究、1929年(昭和4)に日本へ帰国しました。1931年(昭和6)に理学博士となり、1932年(昭和7)には、『抽象代数学』を刊行して、日本における数学の現代化の先頭に立つ人物となります。
 1933年(昭和8)に大阪帝国大学理学部数学科創設と同時に教授に就任し、群論、多元環論について活発な研究発表を行いました。1946年(昭和21)に日本数学会初代会長に就任、1949年(昭和24)には、「輓近の抽象代数学に於ける研究」で、日本学士院賞を受賞します。
 1953年(昭和28)に日本学術会議会員、日本学士院会員となり、1954年(昭和29)には、第6代大阪大学総長に就任、1960年(昭和35)には、大阪大学総長を退任し、同大学名誉教授となりました。1961年(昭和36)に東京女子大が教授となりましたが、1962年(昭和37)には、初代大阪大学基礎工学部長として大阪大学に復帰し、京都大学数理解析研究所教授を兼任しています。
 1965年(昭和40)に大阪大学を定年退官し、武蔵大学学長に就任、1968年(昭和43)には、東京都教育委員ともなりました。1969年(昭和44)に文化勲章を受章、文化功労者となり、1974年(昭和49)には、勲一等瑞宝章を受章します。
 1975年(昭和50)に武蔵学園学園長となったものの、1977年(昭和52)3月20日に、75歳で亡くなり、従二位、勲一等旭日大綬章を追贈されました。尚、上皇明仁の皇后美智子の伯父にあたります。

〇正田建次郎の主要な著作

・『抽象代数学』(1932年)
・『代数学提要』(1944年)
・『数学へのみち』(1962年)
・『多元数論入門』(1968年)

☆正田建次郎略年表

・1902年(明治35)2月25日 群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)において、日清製粉の創業者である父・正田貞一郎の二男として生まれる
・1919年(大正8) 東京府立第四中学校を卒業する
・1922年(大正11) 旧制第八高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部数学科に入学する
・1925年(大正14) 東京帝国大学理学部数学科を卒業する
・1926年(大正15) ドイツに留学し、ゲッティンゲン大学でエミー・ネーターに師事し、抽象代数学を研究する
・1929年(昭和4) 日本へ帰国する
・1931年(昭和6) 理学博士となる
・1932年(昭和7) 『抽象代数学』を刊行する
・1933年(昭和8) 大阪帝国大学理学部数学科創設と同時に教授に就任する
・1946年(昭和21) 日本数学会初代会長に就任する
・1949年(昭和24) 「輓近の抽象代数学に於ける研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1953年(昭和28) 日本学術会議会員、日本学士院会員となる
・1954年(昭和29) 第6代大阪大学総長に就任する
・1960年(昭和35) 大阪大学総長を退任し、同大学名誉教授となる
・1961年(昭和36) 東京女子大が教授となる
・1962年(昭和37) 初代大阪大学基礎工学部長として大阪大学に復帰、京都大学数理解析研究所教授を兼任する
・1965年(昭和40) 大阪大学を定年退官し、武蔵大学学長に就任する
・1968年(昭和43) 東京都教育委員となる
・1969年(昭和44) 文化勲章を受章、同時に文化功労者となる
・1974年(昭和49) 勲一等瑞宝章を受章する
・1975年(昭和50) 武蔵学園学園長となる
・1977年(昭和52)3月20日 75歳で亡くなり、従二位、勲一等旭日大綬章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1415年(応永22)僧侶・浄土真宗中興の祖蓮如の誕生日(新暦4月13日)詳細
1942年(昭和17)「戦時災害保護法」(昭和17年法律第71号)が公布される詳細
1944年(昭和19)東条英機内閣により、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1946年(昭和21)「金融緊急措置令」に基づいて新円を発行し、旧円と新円の交換が開始される詳細
1947年(昭和22)八高線高麗川駅付近で買い出しで満員の列車が転覆、死者184人を出す(八高線列車脱線転覆事故)詳細
1953年(昭和28)医師・歌人斎藤茂吉の命日(茂吉忌)詳細
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 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、写真家田沼武能が生まれた日です。
 田沼武能(たぬま たけよし)は、東京府東京市・東浅草の「田沼写真館」を営む家に生まれ、東京都立江北中学校(現在の都立江北高等学校)を経て、1946年(昭和21)に、東京写真工業専門学校(現在の東京工芸大学)へ入学し、報道写真家を志しました。1949年(昭和24)に東京写真工業専門学校(現在の東京工芸大学)を卒業後、サンニュースフォトスにスタッフカメラマンとして入社して木村伊兵衛に師事、1950年(昭和25)には、日本写真家協会の設立に参加します。
 1951年(昭和26)に木村伊兵衛の紹介で、「芸術新潮」嘱託となり、1954年(昭和29)には、東京・銀座の松屋で、最初の写真展「芸術院会員の顔」を開催しました。1959年(昭和34)にサン通信社(前身はサンニュースフォトス)と『芸術新潮』の嘱託を辞してフリーランスとなりましたが、1965年(昭和40)には、アメリカのタイム・ライフ社『LIFE』の契約写真家となります。
 1972年(昭和47)からライフワークとして世界の子供たちを撮影を開始、1975年(昭和50)には、写真集『すばらしい子供たち』を刊行し、第25回日本写真協会年度賞を受賞しました。1978年(昭和53)に写真集『遊べ子供たち』を刊行、1979年(昭和54)には、第14回モービル児童文化賞を受賞、写真展「日本の子供たち」が世界各国を巡回します。
 1984年(昭和59)に黒柳徹子のユニセフ・キャンペーンに毎年同行(~2014年)するようになり、1985年(昭和60)に第33回菊池寛賞、1988年(昭和63)には、第38回日本写真協会年度賞を受賞しました。さらに、1990年(平成2)に紫綬褒章、1994年(平成6)に第44回日本写真協会年度賞を受賞し、1993年(平成7)には、東京工芸大学写真学科教授となり、日本写真家協会会長(~2015年)にも就任します。
 2000年(平成12)に写真集『人間万歳』を刊行、2002年(平成14)に勲三等瑞宝章、2003年(平成15)に文化功労者、2004年(平成16)に東京工芸大学名誉教授、2019年(令和元)には文化勲章と数々の栄誉に輝きました。2020年(令和2)に「70年にわたる写真家活動と、写真界への多大な貢献」を理由に、2019年度朝日賞特別賞を受賞しましたが、2022年(令和4)6月1日に、東京都内の自宅において、93歳で亡くなり、従三位を追贈されています。

〇田沼武能の主要な著作

・写真集『武蔵野』(1974年)
・写真集『すばらしい子供たち』(1975年)
・写真集『遊べ子供たち』(1978年)
・写真集『世界の子供たちは、いま』(1979年)
・『未知の国すばらしい人たち カメラマン世界取材日記』(1983年)
・写真集『人間万歳』(2000年)
・『難民キャンプの子どもたち カラー版』(2005年)

☆田沼武能関係略年表

・1929年(昭和4)2月18日 東京府東京市・東浅草の「田沼写真館」を営む家に生まれる
・1946年(昭和21) 東京写真工業専門学校(現在の東京工芸大学)へ入学し、報道写真家を志す
・1949年(昭和24) 東京写真工業専門学校(現在の東京工芸大学)を卒業後、サンニュースフォトスにスタッフカメラマンとして入社する
・1950年(昭和25) 日本写真家協会の設立に参加する
・1951年(昭和26) 木村伊兵衛の紹介で、「芸術新潮」嘱託となる
・1954年(昭和29) 東京・銀座の松屋で、最初の写真展「芸術院会員の顔」を開催する
・1959年(昭和34) サン通信社(前身はサンニュースフォトス)と『芸術新潮』の嘱託を辞してフリーランスとなる
・1965年(昭和40) アメリカのタイム・ライフ社『LIFE』の契約写真家となる
・1972年(昭和47) ライフワークとして世界の子供たちを撮影を開始する
・1974年(昭和49) 師匠であった木村伊兵衛が死去した際、そのデスマスクを撮影する
・1975年(昭和50) 写真集『すばらしい子供たち』が刊行され、第25回日本写真協会年度賞を受賞する
・1978年(昭和53) 写真集『遊べ子供たち』が刊行される
・1979年(昭和54) 写真集『すばらしい子供たち』や『遊べ子供たち』などで、第14回モービル児童文化賞を受賞、写真展「日本の子供たち」が世界各国を巡回する
・1984年(昭和59) 黒柳徹子のユニセフ・キャンペーンに毎年同行(~2014年)するようになる
・1985年(昭和60) 第33回菊池寛賞を受賞する
・1988年(昭和63) 第38回日本写真協会年度賞を受賞する
・1990年(平成2) 紫綬褒章を受章する
・1994年(平成6) 第44回日本写真協会年度賞を受賞する
・1993年(平成7) 東京工芸大学写真学科教授となり、日本写真家協会会長(~2015年)に就任する
・2000年(平成12) 写真集『人間万歳』を刊行する
・2002年(平成14) 勲三等瑞宝章を受章する
・2003年(平成15) 文化功労者となる
・2004年(平成16) 東京工芸大学名誉教授となる
・2019年(令和元) 文化勲章を受章する
・2020年(令和2) 「70年にわたる写真家活動と、写真界への多大な貢献」を理由に、2019年度朝日賞特別賞を受賞する
・2022年(令和4)6月1日 東京都内の自宅において、93歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1212年(建暦2)第86代の天皇とされる後堀河天皇の誕生日(新暦3月22日)詳細
1825年(文政8)江戸幕府が「異国船打払令」を出す(新暦4月6日)詳細
1889年(明治22)日本画家奥村土牛の誕生日詳細
1908年(明治41)米国移民に関する「日米紳士協約」第七号が締結され、日本からの移民が制限される詳細
1935年(昭和10)貴族院で菊地武夫議員が美濃部達吉の「天皇機関説」を非難し、天皇機関説問題の端緒となる詳細
1938年(昭和13)石川達三著の南京従軍記『生きてゐる兵隊』を掲載した雑誌『中央公論』3月号が発禁処分となる詳細
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 今日は、明治時代中頃の1893年(明治26)に、洋画家・歌人・詩人・随筆家中川一政の生まれた日です。
 中川一政(なかがわ かずまさ)は、東京市本郷区駒込西片町(現在の東京都文京区西片)において、刀剣鍛冶松戸家を営む父・中川政朝、母・スワの子として生まれましたが、1902年(明治35)に母・スワが亡くなりました。1903年(明治36)に東京市北豊島郡巣鴨村向原(現在の豊島区東池袋)に転居、1907年(明治40)には、本郷区誠之尋常高等小学校を卒業し、神田錦町の錦城中学校に入学します。
 在学中の1908年(明治41)に『少年世界』の表紙図案に入選、与謝野晶子撰歌集『白光』に歌3首が収録され、1910年(明治43)に『スバル』や『創作』に短歌が紹介され、1911年(明治44)には、『萬朝報』の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載されました。1912年(明治45)に錦城中学校を卒業、『萬朝報』の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載され、1913年(大正2)には、中村星湖の推薦で『早稲田文学』に短歌「逝春」を発表しています。
 1914年(大正3)に処女作油彩「酒倉」が画会第14回展に出品され、岸田劉生の推薦で入選、画家を志すようになり、1915年(大正4)には、巽画会第15回展に「霜のとける道」ほかを出品し、最高位二等賞銀牌を受賞、草土社を結成しました。1916年(大正5)に同人誌『貧しき者』を創刊し、詩や随想を発表、1917年(大正6)から二科会展に連続して入賞し、1921年(大正10)には、詩集『見なれざる人』を出版、二科会第8回展に「静物」などを出品し、二科賞を受賞しています。
 1922年(大正11)に萬鉄五郎、岸田劉生らと春陽会設立に参加、1924年(大正13)に短歌雑誌『日光』の同人となり、1925年(大正14)には、訳著『ゴオホ』を出版、東京府和田堀之内村永福寺隣(現在の杉並区永福)に転居しました。1926年(大正15)に初の画集『中川一政畫集』を出版、1928年(昭和3)に東京朝日新聞に連載の片岡鉄兵「生ける人形」の挿画を担当、1930年(昭和5)には、随筆『美術の眺め』を出版します。
 1931年(昭和6)に個展「中川一政水墨展」を開催、佐藤春夫、日夏耿之介と同人文芸誌『古東多万』を創刊、1933年(昭和8)に都新聞に連載の尾﨑士郎「人生劇場 青春篇」の挿画を担当、1937年(昭和12)には、小川芋銭、小杉放菴らと「墨人倶楽部」を結成しました。1938年(昭和13)に第2回文部省美術展覧会(新文展)第二部審査員を委嘱され、1939年(昭和14)に初の中国旅行で鹿島龍蔵と北京、ハルピン、熱河、大同を巡り、1940年(昭和15)には、藤田嗣治、小杉放菴、木村荘八らと邦画一如会を結成します。
 1948年(昭和23)に武者小路実篤を中心に結成された生成会に同人として参加、1949年(昭和24)に神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構え、1953年(昭和28)には、初の洋行で、約5か月にわたりブラジル、フランス、イタリア、イギリスを歴訪しました。1958年(昭和33)に訪中団団長として中国を訪問、1960年(昭和35)に全国知事会の依頼で「漁村凱風」を制作、東宮御所に献納され、1961年(昭和36)には、宮中歌会始の召人となります。
 1964年(昭和39)に日中文化交流協会代表団として訪中し、中国建国15周年を祝う国慶節式典に参列、1965年(昭和40)には、ソ連文化省の招きでソ連を訪問し、同国の美術演劇事情を視察しました。1975年(昭和50)に『中川一政全集』(全5巻)、『腹の虫』を出版、文化勲章を受章し、文化功労者となり、1982年(昭和57)には、日中文化交流協会代表団の顧問として訪中します。
 1984年(昭和59) 東京都名誉都民となり、1986年(昭和61)には、母の故郷である石川県松任市(現在の白山市)に「松任市立中川一政記念美術館」が開館、松任市名誉市民となりました。1989年(平成元)には、神奈川県真鶴町に「真鶴町立中川一政美術館」が開館しましたが、1991年(平成3)2月5日に、東京において、97歳で亡くなっています。

〇中川一政の主要な作品

<絵画>

・「酒倉」(1914年)巽(たつみ)画会展入選
・「監獄の横」(1917年)
・「板橋風景」(1919年)東京国立近代美術館蔵
・「静物」(1921年)二科会第8回展二科賞受賞
・「少年像」(1942年)
・「漁村凱風」(1960年)東宮御所蔵
・「福浦」(1965年)
・「箱根駒ケ岳(こまがたけ)」(1982年)

<著作>

・詩集『見なれざる人』(1921年)
・画文集『中川一政画集』(1926年)
・随筆『美術の眺め』(1930年)
・歌集『向ふ山』(1943年)
・随筆『うちには猛犬がいる』(1963年)
・『腹の虫』(1975年)

☆中川一政関係略年表

・1893年(明治26)2月14日 東京市本郷区駒込西片町(現在の東京都文京区西片)において、刀剣鍛冶松戸家を営む父・中川政朝、母・スワの子として生まれる
・1902年(明治35) 母・スワ(享年33歳)が亡くなる
・1903年(明治36) 東京市北豊島郡巣鴨村向原(現在の豊島区東池袋)に転居する
・1907年(明治40) 本郷区誠之尋常高等小学校を卒業し、神田錦町の錦城中学校に入学する
・1908年(明治41) 『少年世界』の表紙図案に入選、与謝野晶子撰歌集『白光』に歌3首が収録される
・1910年(明治43) 『スバル』や『創作』に短歌が紹介される
・1911年(明治44) 『萬朝報』の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載される
・1912年(明治45) 錦城中学校を卒業、『萬朝報』の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載される
・1913年(大正2) 中村星湖の推薦で『早稲田文学』に短歌「逝春」を発表する
・1914年(大正3) 処女作油彩「酒倉」が画会第14回展に出品され、岸田劉生の推薦で入選、画家を志す
・1915年(大正4) 巽画会第15回展に「霜のとける道」ほかを出品し、最高位二等賞銀牌を受賞、草土社を結成する
・1916年(大正5) 同人誌『貧しき者』を創刊し、詩や随想を発表する
・1917年(大正6) 二科会第4回展に「風景〔杉と茶畑〕」を出品し、入選、同人雑誌『観照』特別号として「中川一政詩集」が刊行される
・1918年(大正7) 二科会第5回展に「冬〔初冬〕」《夏》を出品し、入選する
・1919年(大正8) 二科会第6回展に「下板橋の川辺(冬)〔板橋風景〕」ほかを出品し入選する
・1920年(大正9) 初の個展(油彩)を開き、二科会第7回展に「自画像」ほかを出品し入選、千家元麿、宮崎丈二らと雑誌『詩』を創刊する
・1921年(大正10) 詩集『見なれざる人』を出版、二科会第8回展に「静物」などを出品し、二科賞を受賞する
・1922年(大正11) 小杉放庵、萬鉄五郎、石井鶴三、木村荘八、岸田劉生らと春陽会設立に参加する
・1923年(大正12) 伊藤暢子(伊藤為吉の娘)と結婚する
・1924年(大正13) 短歌雑誌『日光』の同人となる
・1925年(大正14) 訳著『ゴオホ』を出版、東京府和田堀之内村永福寺隣(現在の杉並区永福)に転居する
・1926年(大正15) 初の画集『中川一政畫集』を出版する
・1928年(昭和3) 東京朝日新聞に連載の片岡鉄兵「生ける人形」の挿画を担当する
・1930年(昭和5) 随筆『美術の眺め』を出版する
・1931年(昭和6) 個展「中川一政水墨展」を開催、佐藤春夫、日夏耿之介と同人文芸誌『古東多万』を創刊する
・1933年(昭和8) 都新聞に連載の尾﨑士郎「人生劇場 青春篇」の挿画を担当する
・1937年(昭和12) 小川芋銭、小杉放菴、菅楯彦、矢野橋村、津田青楓らと「墨人倶楽部」を結成する
・1938年(昭和13) 第2回文部省美術展覧会(新文展)第二部審査員を委嘱される
・1939年(昭和14) 初の中国旅行で鹿島龍蔵と北京、ハルピン、熱河、大同を巡る
・1940年(昭和15) 父・政朝が死去(享年79歳)、藤田嗣治、石井柏亭、鍋井克之、津田青楓、牧野虎雄、小杉放菴、石井鶴三、木村荘八らと邦画一如会を結成する
・1945年(昭和20) 疎開先の富山県高岡に約1か月滞在し、山形県酒田を経て宮城県黒川郡宮床村(現在の大和町宮床)で終戦を迎える
・1948年(昭和23) 武者小路実篤を中心に結成された生成会に同人として参加、文芸雑誌『心』が創刊される
・1949年(昭和24) 神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構える
・1953年(昭和28) 初の洋行で、約5か月にわたりブラジル、フランス、イタリア、イギリスを歴訪、東京新聞夕刊文化欄に旅行記を41回にわたり連載する
・1957年(昭和32) 『鉄斎』を武者小路実篤、梅原龍三郎、小林秀雄とともに監修、出版する
・1958年(昭和33) 「光琳生誕三〇〇年記念展」が北京で開催され、訪中団団長として訪問、東京新聞夕刊文化欄に「中国遊記」を7回にわたり連載する
・1960年(昭和35) 全国知事会の依頼で「漁村凱風」を制作、東宮御所に献納される
・1961年(昭和36) 宮中歌会始の召人となる
・1962年(昭和37) ミュンヘンのバイエルン独日協会の招きで渡欧、ミュンヘン市立美術館で「東洋美術の考え」を講演する
・1963年(昭和38) 「現代日本油絵展」が北京、上海で開催され、訪中洋画家団団長として訪問、随筆『うちには猛犬がゐる』を出版する
・1964年(昭和39) 日中文化交流協会代表団として訪中し、中国建国15周年を祝う国慶節式典に参列する
・1965年(昭和40) ソ連文化省の招きでソ連を訪問し、同国の美術演劇事情を視察、東京新聞夕刊文化欄に「私のソ連・欧州旅行」を8回にわたり連載する
・1967年(昭和42) 『中川一政画集』、随筆『遠くの顔』、『近くの顔』画文集、『中川一政書蹟』を出版、書展「中川一政書展」を開催する
・1975年(昭和50) 『中川一政全集』(全5巻)、『腹の虫』を出版、文化勲章を受章し、文化功労者となる
・1982年(昭和57) 日中文化交流協会代表団の顧問として訪中する
・1984年(昭和59) 東京都名誉都民となる
・1986年(昭和61) 母の故郷である石川県松任市(現在の白山市)に「松任市立中川一政記念美術館」が開館、松任市名誉市民となる
・1989年(平成元) 神奈川県真鶴町に「真鶴町立中川一政美術館」が開館する
・1991年(平成3)2月5日 東京において、97歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

741年(天平13)聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す(新暦3月5日)詳細
940年(天慶3)平将門が下野の豪族藤原秀郷と平貞盛らの軍勢により、猿島の北山で討たれる(新暦3月25日)詳細
1896年(明治29)日本画家徳岡神泉の誕生日詳細
1945年(昭和20)近衛文麿が昭和天皇に対して、上奏文(近衛上奏文)を出す詳細
1951年(昭和26)奄美大島日本復帰協議会(議長:泉芳朗)が結成される詳細
1967年(昭和42)小説家山本周五郎の命日詳細
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