koumeitennou01

 今日は、江戸時代後期の1831年(天保2)に、第121代の天皇とされる孝明天皇の生まれた日ですが、新暦では7月22日となります。
 孝明天皇(こうめいてんのう)は、京都において、仁孝天皇の第四皇子(母は贈左大臣正親町実光の女雅子)として生まれましたが、名は統仁(おさひと)と言いました。1835年(天保6)に親王宣下され、1840年(天保11)には、立太子の儀が行われ皇太子となります。
 1846年(弘化3)に、父・仁孝天皇が亡くなると践祚の儀を行い、翌年には即位礼をあげて、第121代とされる天皇となりました。黒船来航(1853年)、大地震(1854年)、内裏炎上(1854年)と不安の状況が続いたため、1855年(嘉永3年11月27日)に元号を安政と改元します。
 1858年(安政5)に上洛してきた老中堀田正睦が「日米修好通商条約」調印の承認を求めた時、諸大名の意見を聞いた上で判断するとして許可を与えず、幕府が独断で「日米修好通商条約」調印を行ったとの報告に接し譲位を表明、井伊直弼の幕政指導に不信を示して、戊午の密勅を水戸藩および幕府に伝達しました。1860年(万延元)に公武の合体による国内一致のため、妹和宮の江戸降嫁による第14代将軍徳川家茂との婚姻を認め、1862年(文久2)には、島津久光の献策を容れて勅使大原重徳を江戸に派遣します。
 続いて、薩長土3藩主の要請に基づき三条実美、姉小路公知を正副の勅使として派遣し幕府に攘夷を督促、翌年には将軍家茂の上洛に際して、攘夷の勅命を下しました。1863年(文久3)の「文久三年八月十八日の政変」の時、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放、翌年に再度上洛した将軍家茂に公武一和の協力を命じています。
 1865年(慶応元)に幕府の要請を受けて長州再征を許可、翌年の第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、征長の停止を幕府に指示しました。しかし、1866年(慶応2年12月25日)に京都において、36歳で急逝し、墓所は京都東山泉涌寺の後月輪東山陵(現在の京都市東山区今熊野)とされています。

〇孝明天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1831年(天保2年6月14日) 京都において、仁孝天皇の第四皇子(母は贈左大臣正親町実光の女雅子)として誕生する
・1835年(天保6年6月21日) 儲君治定される
・1835年(天保6年9月18日) 親王宣下される、
・1840年(天保11年3月14日) 立太子の儀が行われ皇太子となる
・1843年(天保14年) 侍講に中沼了三を迎える
・1846年(弘化3年2月13日) 父天皇の崩御のあとをうけて践祚の儀をあげる
・1846年(弘化3年8月29日) 対外関係が急迫の度を強めたため、幕府に対して海防を厳重にするよう沙汰書を出す
・1847年(弘化4年3月9日) 学習所(学習院)の開講式が行われる
・1847年(弘化4年4月25日) 石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈る
・1847年(弘化4年9月23日) 即位礼をあげる
・1847年(弘化4年9月27日) 将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代の酒井忠義と参賀する
・1850年(嘉永3年4月8日) 「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺へ命じる
・1854年(嘉永7年4月6日)、内裏が炎上する
・1858年(安政5年2月) 上洛の老中堀田正睦が「日米修好通商条約」調印の承認を求めたとき、諸大名の意見を聞いた上で判断するとして許可を与えず
・1858年(安政5年6月) 幕府が独断で「日米修好通商条約」調印を行ったとの報告に接し譲位を表明する
・1858年(安政5年8月) 井伊直弼の幕政指導に不信を示す、いわゆる戊午の密勅を水戸藩および幕府に伝達する
・1858年(安政5年12月) 鎖国の状態に引き戻すことを条件に「日米修好通商条約」調印を了承する
・1860年(万延元年) 公武の合体による国内一致のため、妹和宮の江戸降嫁を認める
・1861年(文久元年) 長井雅楽の「航海遠略策」を受理する
・1862年(文久2年5月) 島津久光の献策を容れて勅使大原重徳を江戸に派遣する
・1862年(文久2年10月) 薩長土3藩主の要請に基づき三条実美、姉小路公知を正副の勅使として派遣し幕府に攘夷を督促する
・1863年(文久3年3月) 将軍家茂の上洛に際して、攘夷の勅命を下す
・1863年(文久3年3月) 攘夷の成功を祈願するため、賀茂社に行幸する
・1863年(文久3年4月) 攘夷の成功を祈願するため、石清水社に行幸する
・1863年(文久3年8月) 「文久三年八月十八日の政変」の時、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放する
・1864年(元治元年1月) 再度上洛した将軍家茂に公武一和の協力を命じる
・1865年(慶応元年9月) 幕府の要請を受けて長州再征を許可する
・1865年(慶応元年10月) 徳川慶喜の強要を容れ条約を許可、ただし兵庫開港は不可とする
・1866年(慶応2年7月) 第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、天皇は征長の停止を幕府に指示する
・1866年(慶応2年12月25日) 京都において、痘瘡によって36歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1571年(元亀2)戦国武将・大名毛利元就の命日(新暦7月6日)詳細
1899年(明治32)小説家川端康成の誕生日詳細
1920年(大正9)北炭夕張炭鉱(北上坑)で爆発事故があり、死者・行方不明者209人を出す詳細
1992年(平成4)「環境と開発に関する国際連合会議」が「環境と開発に関するリオ宣言」などを採択して閉幕する詳細