ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:岩波書店

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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、岩波書店が「岩波新書」の最初の20点(赤版)を刊行した日です。
 岩波新書(いわなみしんしょ)は、岩波書店が刊行してきた新書シリーズで、イギリスのペリカンブックス、ペンギンブックスを参考に「現代人の世界的教養」を追求する叢書として創刊されました。日本最初の新書シリーズで、古典を中心とした岩波文庫に対し、書き下ろし作品による一般啓蒙書を廉価で提供することを目的とします。
 斎藤茂吉『万葉秀歌』、三木清『哲学入門』、吉田洋一『零の発見』、吉川幸次郎・三好達治『新唐詩選』など、同時代に属する筆者によって、現代人の現代的教養を追求する、教養書としての性格を備えていました。分量も手ごろで、廉価(発売当初50銭)なこともあって、学生、知識人を中心に安定した読者を獲得することとなります。
 しかし、太平洋戦争が激化する中で、1944年(昭和19)に刊行点数98点を以て、発行中絶のやむなきにいたりました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、3点を復活発行したのを最後に赤版新書は終結します。
 その後、1949年(昭和24)4月に、装いを新たに表紙を青(いわゆる青版)に変更して再出発しました。それも、1977年(昭和52)4月に、青版の刊行が1,000点を越え、岩波新書創立40周年を迎えるのを機に黄版に改められます。
 さらに、1988年(昭和63)1月に、岩波新書創刊50年・総刊総数1,500点をもって新赤版に改められました。2006年(平成18)3月で、新赤版の刊行が1,000点を迎え、同年4月の1,001点目の刊行となった柄谷行人『世界共和国へ』から、装幀がリニューアルされます。
 それからも、出版点数を増やしていき、2014年(平成26)9月19日には、通算で刊行3,000点を突破しました。

〇1938年(昭和13)の岩波新書第1回刊行作品(全20点)

・『奉天三十年(上・下)』クリスティ/矢内原忠雄訳
・『支那思想と日本』津田左右吉著
・『天災と国防』寺田寅彦著
・『万葉秀歌(上・下)』斎藤茂吉著
・『家計の数学』小倉金之助著
・『雪』中谷宇吉郎著
・『世界諸民族経済戦夜話』白柳秀湖著
・『人生論』武者小路実篤著
・『ドイツ 戦歿学生の手紙』ヴィットコップ/高橋健二訳
・『神秘な宇宙』ジーンズ/鈴木敬信訳
・『科学史と新ヒューマニズム』サートン・森島恒雄訳
・『ベートーヴェン』長谷川千秋著
・『森鴎外 妻への手紙』小堀杏奴編
・『荊棘の冠』里見弴著
・『瘤』山本有三著
・『春泥・花冷え』久保田万太郎著
・『薔薇』横光利一著
・『抒情歌』川端康成著

☆岩波新書発行部数ランキング(岩波書店調べ、2008年5月現在)

・1位『大往生』永六輔著(1994年発行)239万部
・2位『日本語練習帳』大野晋著(1999年発行)192万部
・3位『論文の書き方』清水幾太郎著(1959年発行)145万部
・4位『知的生産の技術』梅棹忠夫著(1969年発行)132万部
・5位『日本の歴史(上)』井上清著(1963年発行)114万部
・6位『万葉秀歌(上)』斎藤茂吉著(1938年発行)110万部
・7位『一日一言』桑原武夫著(1956年発行)103万部
・8位『昭和史』遠山茂樹・今井清一・藤原彰著(1959年発行)102万部
・9位『日本の思想』丸山真男著(1961年発行)102万部
・10位『零の発見』吉田洋一著(1939年発行)98万部

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1858年(安政5)政治家尾崎行雄の誕生日(新暦12月24日)詳細
1890年(明治23)木骨煉瓦造り3階建て約60室の初代帝国ホテルが完成し、竣工式が行われる詳細
1942年(昭和17)日本文学報国会が企画・選定した「愛国百人一首」が情報局より発表される詳細
1945年(昭和20)GHQが「無線通信の統制に関する覚書」 (SCAPIN-321)を出す詳細
1959年(昭和34)国連総会において「児童の権利に関する宣言」が採択される(世界こどもの日)詳細
2005年(平成17)書家村上三島の命日詳細
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 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、和辻哲郎著の『古寺巡礼』が発刊された日です。
 『古寺巡礼』(こじじゅんれい)は、和辻哲郎の著作で、奈良付近の古寺を見物したときの印象記とされてきました。1918年(大正7)5月に、友人達と共に、奈良近辺の古寺を巡ったときの感想や印象を日記形式で記したものです。
 同年8月~翌年1月まで、岩波書店の雑誌『思潮』に6回連載され、1919年(大正8)5月23日に、岩波書店から単行本としての初版が出版されました。鋭い感受性により、建築、仏像などが芸術的、文化史的対象として扱われ、広く青年たちに愛読されます。
 しかし、1923年(大正12)の関東大震災で版が焼け、翌年9月に新版が出されました。さらに、太平洋戦争後の1947年(昭和22)3月に、岩波書店から改訂版が出版されています。
 以下に、和辻哲郎『古寺巡礼』改訂版序を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇和辻哲郎『古寺巡礼』改訂版序

 この書は大正七年の五月、二三の友人とともに奈良付近の古寺を見物したときの印象記である。大正八年に初版を出してから今年で二十八年目になる。その間、関東大震災のとき紙型をやき、翌十三年に新版を出した。当時すでに書きなおしたい希望もあったが、旅行当時の印象をあとから訂正するわけにも行かず、学問の書ではないということを標榜ひょうぼうして手を加えなかった。その後著者は京都に移り住み、曾遊そうゆうの地をたびたび訪れるにつれて、この書をはずかしく感ずる気持ちの昂じてくるのを経験した。そのうち閑ひまを得てすっかり書きなおそうといく度か考えたことがある。しかしそういう閑を見いださないうちに著者はまた東京へ帰った。そうしてその数年後、たしか昭和十三四年のころに、この書が、再び組みなおすべき時機に達したとの通告をうけた。著者はその機会に改訂を決意し、筆を加うべき原稿を作製してもらった。旅行当時の印象はあとからなおせないにしても、現在の著者の考えを注の形で付け加えることができるであろうと考えたのである。しかし仕事はそう簡単ではなかった。幼稚であるにもせよ最初の印象記は有機的なつながりを持っている。部分的の補修はいかにも困難である。従って改訂のための原稿は何年たってもそのままになっていた。そのうちに社会の情勢はこの書の刊行を不穏当とするようなふうに変わって来た。ついには間接ながらその筋から、『古寺巡礼』の重版はしない方がよいという示唆を受けるに至った。その時には絶版にしてからすでに五六年の年月がたっていたのである。そういうわけでこの書は今までにもう七八年ぐらいも絶版となっていた。
 この間に著者は実に思いがけないほど方々からこの書に対する要求に接した。写したいからしばらく借してくれという交渉も一二にとどまらなかった。近く出征する身で生還は保し難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい、という申し入れもかなりの数に達した。この書をはずかしく感じている著者はまったく途方に暮れざるを得なかった。かほどまでにこの書が愛されるということは著者として全くありがたいが、しかし一体それは何ゆえであろうか。著者がこの書を書いて以来、日本美術史の研究はずっと進んでいるはずであるし、またその方面の著書も数多く現われている。この書がかつてつとめたような手引きの役目は、もう必要がなくなっていると思われる。著者自身も、もしそういう古美術の案内記をかくとすれば、すっかり内容の違ったものを作るであろう。つまりこの書は時勢おくれになっているはずなのである。にもかかわらずなおこの書が要求されるのは何ゆえであろうか。それを考えめぐらしているうちにふと思い当たったのは、この書のうちに今の著者がもはや持っていないもの、すなわち若さや情熱があるということであった。十年間の京都在住のうちに著者はいく度も新しい『古寺巡礼』の起稿を思わぬではなかったが、しかしそれを実現させる力はなかった。ということは、最初の場合のような若い情熱がもはや著者にはなくなっていたということなのである。
 このことに気づくとともに著者は現在の自分の見方や意見をもってこの書を改修することの不可をさとった。この書の取り柄が若い情熱にあるとすれば、それは幼稚であることと不可分である。幼稚であったからこそあのころはあのような空想にふけることができたのである。今はどれほど努力してみたところで、あのころのような自由な想像力の飛翔にめぐまれることはない。そう考えると、三十年前に古美術から受けた深い感銘や、それに刺戟されたさまざまの関心は、そのまま大切に保存しなくてはならないということになる。
 こういう方針のもとに著者は自由に旧版に手を加えてこの改訂版を作った。文章は添えた部分よりも削った部分の方が多いと思うが、それは当時の気持ちを一層はっきりさせるためである。
 昭和二十一年七月

   「青空文庫」より

☆和辻 哲郎(わつじ てつろう)とは?

 大正時代から昭和時代に活躍した哲学者・倫理学者・文化史家・評論家です。明治時代前期の1889年(明治22)3月1日に、兵庫県神崎郡砥堀村(現在の姫路市)において、倫理学者で医師の父・和辻瑞太郎の次男として生れました。
 旧制姫路中学校(現在の兵庫県立姫路西高校)、第一高等学校を経て、1909年(明治42)に東京帝国大学文科大学哲学科へ入学します。在学中に谷崎潤一郎、小山内薫らと第2次「新思潮」の同人となり、1912年(明治45)に卒業後、同大学院へ進学しました。
 『ニイチェ研究』 (1913年) 、『ゼエレン・キェルケゴオル』 (1915年) など実存主義者の研究を発表し、日本におけるその先駆者となります。1917年(大正6)に奈良を旅行し、古寺を巡り、その旅行記を『古寺巡礼』(1919年)として出版して、日本文化の探求へも進み、『日本古代文化』(1920年)、『日本精神史研究』(1926年)などを出しました。
 また、東洋大学講師、法政大学教授を経て、1925年(大正14)には京都帝国大学助教授となり京都市左京区に転居します。1927年(昭和2)から翌年にかけて、ドイツ留学し、1931年(昭和6)には京都帝国大学教授となりました。
 翌年、『原始仏教の実践哲学』で京都大学より文学博士号を取得、1934年(昭和9)には東京帝国大学文学部倫理学講座教授に就任し、東京市本郷区に転居します。その後、『風土』(1935年)、『孔子』(1938年)などを出版し、思想史・文化史的研究にすぐれた業績を上げました。
 太平洋戦争後は、雑誌『世界』の創刊に関わり、1949年(昭和24)に大学を定年退官し、日本学士院会員となります。翌年日本倫理学会を創設し会長に就任(死去まで)、1951年(昭和26)に『鎖国』で読売文学賞、1953年(昭和28)に『日本倫理思想史』で毎日出版文化賞、1955年(昭和30)に文化勲章と数々の栄誉にも輝きました。
 人と人との関係たる間柄の学としての独自の倫理学を築き、晩年は皇太子妃となる正田美智子のお妃教育の講師も務めたものの、1960年(昭和35)12月26日に、東京において、71歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

811年(弘仁2)武将・征夷大将軍坂上田村麻呂の命日(新暦6月17日)詳細
1663年(寛文3)江戸幕府が改訂した「武家諸法度」(寛文令)21ヶ条を発布する(新暦6月28日)詳細
1832年(天保3)蘭学者・政治家・外交官寺島宗則の誕生日(新暦6月21日)詳細
1948年(昭和23)憲法学者美濃部達吉の命日詳細
1969年(昭和44)ウィーンにおいて、「条約法に関するウィーン条約」が締結され.る(1980年1月27日発効)詳細
1981年(昭和56)編集者・児童文学者・評論家・翻訳家吉野源三郎の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、岩波書店から新村出編『広辞苑』初版が発行された日です。
 『広辞苑(こうじえん)』は、岩波書店発行で、新村出が編集した中型国語辞典で、国語辞典と百科事典を兼ね備えたものでした。昭和初期に出版された博文館発行の『辞苑(じえん)』の改訂作業を引継ぎ、太平洋戦争後新たに発行元を岩波書店、書名を『広辞苑』と改めて出版され、約20万語を収録、挿入図版2千余図となっています。
 1969年(昭和44)に第二版、1976年(昭和51)に第二版補訂版、1983年(昭和58)に第三版、1991年(平成3)に第四版、1998年(平成10)に第五版、2008年(平成20)に第六版、2018年(平成30)に第七版と改訂を重ねて発行されてきました。第一版から第七版の累計で1,200万部以上販売され、辞書としてはベストセラーで、第七版では約25万語を収録し、三省堂の『大辞林』と並ぶ両雄とされています。
 尚、1992年(平成4)には、第四版をもとにした『逆引き広辞苑』も発行され、また、携帯機器に電子辞書の形で収録されることも多くなっていて、幅広く活用されてきました。
 以下に、『広辞苑』第一版発行時の新村出による自序と後記を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇新村 出(しんむら いずる)とは?

 明治時代後期から昭和時代に活躍した、言語学者・国語学者・随筆家です。明治時代前期の1876年(明治9)10月4日に、山口県山口において、旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として生まれましたが、1889年(明治22)に、父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、元小姓頭取の新村猛雄の養子となりました。
 1896年(明治29)に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文科大学へ入学、1899年(明治32)に博言学科を卒業、国語研究室助手を経て、1902年(明治35)より東京高等師範学校の教授となる一方で東大大学院で国語学を専攻します。1904年(明治37)に東京帝国大学助教授を兼任、1907年(明治40)に京都帝国大学助教授となり、欧州留学に出発し、イギリス・ドイツ・フランスで言語学研究に従事、1908年(明治40)にドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表として参加、1909年(明治41)には、欧州留学から帰国して京都帝国大学教授となり、言語学講座を担当しました。
 1910年(明治43)に文学博士、翌年には、京都帝国大学図書館長となり、日本語音韻史や近隣の諸言語との比較研究に成果をあげ、1927年(昭和2)に論文集『東方言語史叢考』を刊行、翌年には帝国学士院会員となります。1930年(昭和5)に語源研究『東亜語源志』を刊行、1935年(昭和9)には、宮中の講書始の正メンバーに選ばれ、昭和天皇に国書の進講を行い、国語審議会委員も勤めました。
 1936年(昭和11)に京都帝国大学を定年退官し名誉教授となってからは、1937年(昭和12)に音声学協会、1938年(昭和13)に日本言語学会、1942年(昭和17)に日本民族学協会などの会長を歴任します。1943年(昭和18)に『国語学叢録』を刊行、1949年(昭和24)に国語辞書『言林』を編纂、1955年(昭和30)には、国語辞書『広辞苑』を編纂、初版が発刊されました。
 これらの功績により、1956年(昭和31)に文化勲章を受章、文人でもあり、『琅玕記 』(1930年)など多くの随筆も残しましたが、1967年(昭和42)8月17日に、京都府京都市北区の自宅において、90歳で亡くなっています。

〇『広辞苑』自序   新村出

 いまさら辞典懐古の自叙でもないが、明治時代の下半期に、国語学言語学を修めた私は、現在もひきつづいて恩沢を被りつつある先進諸家の大辞書を利用し受益したことを忘れぬし、大学に進入したころには、恩師上田万年先生をはじめ、藤岡勝二・上田敏両先進の、辞書編集法およびその沿革についての論文等を読んで、つとに啓発されたのであった。柳村上田からは『新英大辞典』の偉業の紹介を「帝国文学」の誌上で示され、目をみはって海彼にあこがれた。われらもいかにしてか、理想的な大中小はともかくも、あんなに整った辞典を編んでみたいものだと、たのしい夢を見たのであった。
 かくて、英米独仏の大辞書の完備に対して限りなき羨望の情が動き、ひたむき学究的な理想にのみふけりつつ、青春の客気で現実的方面については一層暗愚であったことは、後年とほぼ同様であった。卒業後の三年めの明治三十五年(一九〇二年)から凡そ五年間、それぞれの大辞典の編著や統理に成功を収めた上田・大槻・芳賀・松井等の諸先覚には、他方において国語の研究や調査や教育や改善やの諸事業にわたって計るべからざる種々の資益を得たことが、かれこれと想起されてくる。とりわけ、上田・松井両博士の『大日本国語辞典』と、大槻博士の『大言海』とに関しては、身親しくその編集室に見学した縁故もあったのみか、殊に後者の校訂には深く参与し、前者の再刊に際しては僅少ながら接触したゆかりもあって、自分のためにも、何かと参考に資せられて幸福であった。その後も、かれこれ二つばかりの辞典の編集に参画はしたものの、元より綜合統理の任に当った次第ではなかった。それに反して、自分の仕事は、主として語原や語史、語誌や語釈の、主として分解的な、しかし根本的本質的な方面の考究に専念し、綜合的方面の事業に意を致し力を注ぐまでには至らなかった。それは、自分自身の研究が、当初は音韻および文字に、やや進んでからは漸次語法や語義に及び、後年には段々と語誌に向って来たのであって、要は分解を主とし、綜合にうとかった。
 今から二十年前、私の辞典の処女作が出来て、望外の歓迎を受けたが、内心大いに満足し得ず、『言海』の著者が、古く率直にその巻末に録しておいたごとく、そんなに良く出来あがったものは無く、ただ直してゆくばかりだ、と思って、すぐさま改訂の業を起し、或は簡約し、或は増訂し、同時に業を進めて、大戦の末期に入り、改訂版の原稿が災厄に帰した。簡約版は衆知のごとく、早く印行して世に出でたが、しかし私に代って戦時中には、統理の傍ら、他方には、新たに、語詞の採訪と採集とに力を尽くしつつ専ら改訂の業に従った私の次男猛は、苦心努力の結果、辞書編集上、望外にもこよなき良い経験と智識とを得たかと信ずる。彼自身もまたフランスの大辞典リットレないしラルース等の名著およびダルメステテール等の中辞典から平素得つつある智識を、他山の石として、乃父の『改訂辞苑』旧版本の礎石の材料にも供してくれた。彼は従前のごとくには、今回の『広辞苑』の編集に関して、協力する余裕は十分でなかったが、名古屋大学の行余の力をこれに注いでくれ、老父の能くせざる所を補足し、編集および印刷の進行、人事その他各般の統理に心を尽くしてくれた。現代の国語に対する智識と感覚とについては、当然長所の在ることは認めてよろしく、その点において、むしろ語史にのみ傾倒せる編者の粗漫な一方面を補佐してくれたことを付言したい。また、グリム兄弟の場合とは全く違った情味が存する。
 以上、主として『改訂辞苑』の進行および始末について述べつつ、その善後の処理に及ばんとしたが、戦後その改訂版の長所を保存し、短所を除去し、内容形態共に新時代の要求に応ずる必要上、根本的修正と増補とを施すことを得たのは、昭和二十三年九月より岩波書店内に設置された編集室において、斯業の経験と智識とを具備する市村宏氏を編集主任となし、終始一貫、増訂の業を進めたことによる。爾来、編集部はこの複雑な編集に従事し、その間いくたびか内員外員の増減変動と場所の転移等とを見たが、書店内外よりの定期臨機に嘱託された諸員諸君の格別なる協力に依って、編集すでに了り、校正および修治の業、将に完成せんとするに至ったのは、まことに欣懐といたす所である。
 抱負と実行、理想と現実、その間、自分の未熟か老境かよりして、事志と違った趣きがあることを自省してやまないが、とにかく、簡明にして平易、広汎にして周到、雅語漢語、古語新語、慣用語と新造語、日用語と専門語、旧外来語と新外来語、新聞語と流行語、みなつとめて博載を期した。発音の正確と語法の説明には意を注ぎて、規範を示さんと欲したけれども、現在の規範こんとんとして未だ定まらぬ不便をなげかねばならなかった。
 誇称してもよいが、われら父子が親交ある哲学・史学・文学の先進同友をはじめ、今日の科学界に令名あり世界的栄誉をも博せられた碩学者より、直接にも間接にも指示を受けた語詞の説明も少からず存し、花さき実のれる、この言語園を展望しながら、感激してやまぬ心境に在るのである。従来の経験により、あとからあとから、自他の注意から、種々補修を要することが、殊に一般辞書の上には生じがちなのを按ずるが、さりとて先進の辞典学者の引いた言葉にたよって、あのラテン語の金言や、ゲーテの箴言にもあるがごとき、過まるは人のつね、容るすは神のみち、とやら申された遁辞めいた文句にすがる気はない。ただ周密な眼光をもって徹底的に過誤なきを期したばかりである。
 もしそれ、物の順序からすると、大辞書が先きに出来あがってから、その後に、それらの成果を収拾し抜萃し、簡易に平明に、短縮して編集してこそ、より完全な中小辞典、簡短(ショーター)とか、要略(コンサイス)とかの文字を冠らせた中型小型の辞書が作られるわけであるが、私一個の場合、その逆のコースを進んで来たので、殊に現今わが国語界の標準規律は未だ緒につかず、新語の粗製濫造のはげしい時代には、程よき中辞典の達成は、省みるに早計であったかも知れない。
 上記のごとく、本書は、当初の出発点こそ改訂版をいささか加除し修正する程度から進んだのであったが、いつしか本来の節度をかなり超えて、根本的修正が、ひとり文字の表記法のみにとどまらず、載録語詞、分量の上のみならず、かなり本質的にも及ぶことになってしまった。結局、実質にも、形式にも、少なからぬ進歩の跡がみとめられると信ずる。従って、頁数や組方の上にも、多大の影響を及ぼし、厚みその他装幀等色々な点にも、予想以上の多難を感ぜねばならなかった。
 かくて、編集完成の時期もおくれたし、諸般の煩雑名状しがたい苦難も甞めなければならなかった。編集部においても、辛うじてこれらの難を克服し得たのであるが、部員の手不足などを補充するために、書店の内部からも、俊敏練達の士の参加協力を得ると共に、臨時に外部からも特に明達懇篤な新進諸学人の援助をも求めることとなり、内外一和、衆力一致、他方もちろん熟練な校正員の補翼にも由り、着々、印刷の工程もなめらかにはかどり、ここに発行の機運に恵まれるに至ったのは、編者の満足これに及ぶものはない。
 それら諸彦の助力を跋文中に銘記するに先だって、特に今記すべき一事は、畏友大野晋氏が、語法と基本語詞につき、更にその同窓板坂元・同美智子両氏の協力をも得て、応急適切な援助を寄せられたことである。
 斯業行程の始終に関しては、一に岩波書店前店主故岩波茂雄氏の宏量と、現社長同雄二郎氏の寛厚に感謝すると共に、事業の進行上絶えず店内の練達者諸賢から、啓発激励を蒙ったことを肝銘する。さかのぼっては、前行『辞苑』の出版改訂時代の、博文館の上局諸氏と、忠実なる編集主任たりし溝江八男太翁と内助の一老友をも想起せざるを得ない。曽て「私の信条」(本全集第十三巻二九七頁)として書いた如く、老至って益々四恩のありがたきを感ずるのみである。
(昭和三十年一月一日)

〇『広辞苑』後記  新村出

 昭和十年の初頭以来、粒々の辛苦を積んで完成を急ぎつつあった『改訂辞苑』の原稿も組版も、二十年四月二十九日の戦火に跡形もなく焼け失せ、茫然たる編者の手許にはただ一束の校正刷のみが残された。しかも戦火に続く敗戦と戦後の混乱とは、如何に辞典に妄執を抱く編者を以てしても、直ちに復興を企図し得べき底のものではなかった。焦土の余熱は、容易に冷ゆべくもなかったのである。
 然るに倖なる哉、同年十二月、当時元気に活躍せられつつあった岩波書店主故岩波茂雄氏と編者との間に、早くも『辞苑』の改訂に関する協定成り、一陽来復、編者として欣快のこれに過ぐるものはなかった。
 他面、当時の国内情勢は、恐らく開闢以来最悪の事態におかれて居た。餓※(「くさかんむり/孚」、第3水準1-90-90)路に横り、怨嗟の声巷に満つるを見聞しては、辞典改修のごとき迂遠なる事業の、未だその時機に非ざるを観念せざるを得なかった。更に翌二十一年四月、岩波茂雄氏の突如たる訃音に接しては、出版界の先覚を喪弔するの悲しみと共に、本事業の前途も亦多難なるべきを秘かに憂慮したのである。
 併し、越えて二十三年季春、先考の志を襲いで岩波書店を継承せられた岩波雄二郎氏を始め幹部の各位は、文化の再建途上における辞典の重要な役割を認識して『辞苑』改修の促進方針を決定せられ、編者はこれに基き、同年九月十三日、書店内の一室を借りて新編集部を開設し、茲に事業の再発足を見得るに至ったのである。
 ただその当初にあっては、危く烏有をまぬかれた校正刷を唯一のたよりとしてのことではあっても、ともかくも校正刷がある以上、改修の事業は比較的簡単に進め得るものと我も人も思考したが、その予想は実は甚だ甘かった。戦塵の鎮まりゆくにつれて、日本は一大転換を開始して居たのである。即ち昨日まで国を動かす大きな原動力であった陸海軍は廃止され、日本国憲法は公布せられた。この憲法の改正を軸として、法律は勿論、文物制度のあらゆるものがめまぐるしく改廃され、創建されて行った。民主化への巨大な歩みは、古いもの一切の存続を拒むごとき世相を展開した。この事は辞典編纂の上に細大となく影響する。甞ての重要項目は今は多く削除すべきものとなり、或は評価が急変して増補または縮小を余儀なくされた。存続すべき項目に対しても、その見方が著しく違ってきた。加之、新たに採るべき項目は日に月に続出し、応接に暇なからしめると共に、忽ち現れ忽ち消え去る社会百般の事象が編集部を困惑せしめたのも、混乱期の自然なる姿であった。兵を廃した国に警察予備隊ができ、これが忽ちにして保安隊と変り、三転して自衛隊となる。編集部はその都度、前稿を捨てて新稿を草するのである。この辞典が単純な国語辞典ではなく、百科の語彙、固有名詞をも収録してあまさぬものであるだけに、かかる現象から被むる編纂上の困難は、当初の予想を裏切ってこれを数倍化した。
 困難はそれのみには止まらなかった。新事項は遠慮なく発生するが、これを正確に解説するに資料とすべきものは、これに伴っては出て来ない。否、編集部開設の当初には、新項目採集に使用する新聞などの入手すらできなかった。紙がない、鉛がない――資材の欠乏が新資料の出現を固く阻んで居たのである。今ならば年鑑を繰れば容易に知り得ることも、重い兵隊靴をはいた部員が、役所や新聞社を訪ねて聞いて回った。信憑すべき戦後の資料がぽつぽつ出て来たのは二十六、七年頃からである。
 かかる状況の中にあっては、当初二、三年でと予想されたこの改修事業も、恰もこの国の河川改修工事のごとく四年と延び五年と後れざるを得なかった。小規模の改修のつもりで始めたこの仕事は、日本そのものの大革新を偽らずに反映するためには、全面的な大改修に突入せねばならなかった。
 斯様に改修の規模は拡大され、収載語彙は二十万を超えるに至り、時日は遷延しつつも、二十八年三月に至り、六年に及んだ業を終り、爾後の推移転変には組版の過程において対応する方針の下に、尨大なる原稿の集積を書店側の手に委ねたのである。
 ともあれ、「やっと出来た」安心と満足の中に今年元朝八十の春光に浴することを得た。この辞典が昭代の文化遺産として後世に伝存するに足るべきか否かは、大方の批判を仰ぎ、時の篩に俟つ外はないが、少くとも現在最も新しく、当用を弁ずるに甚だ好適な辞書たらしめ得たことの自負を持つ。併し、この功たるや、自己一身に帰すべきでないのはもとよりである。この編纂事業に協力を惜しまれなかった数十百氏もしくはそれ以上の方々の心血の凝り固まってこの辞典をなしたものと、編者は回想し且感謝する。今、序文中に誌して謝意を表明した方々以外、編集に執筆に製作に、老来諸事にものうい編者を扶けてこの難事業を達成せしめられた方々の芳名を掲げながら、日頃抱懐する四恩感謝の念をも新たにしたいのである。
 昭和二十三年九月十三日に開設した編集部は、主任を市村宏氏に依嘱し、部員に関宦市・猪場毅・横地章子・長谷川八重子・藤井譲・佐藤鏡子・木村美和子諸氏の参加があり、協力一致、直接に編者を扶けて如上の難関に当面し、本辞典のためその全力を傾倒された。また大野晋氏は特に国語部門の校閲と語法に関する事項の改新とに、終始繁忙の時を割いて協力を惜しまれなかったし、松山貞夫氏は法律部門、稲沼瑞穂氏は理科部門において編集部を指導された。
 昭和二十八年三月、前後六カ年にわたり、改修と称するよりもむしろ新修の業を了って編集部を解いたのちは、仕事は製作の過程に入り、岩波書店編集部における担当各位の、有形無形、真に昼夜を分たぬ努力によって業務は進行せられたのであるが、一々芳名の列挙を省くの失儀をお宥しありたい。尚、前記の市村・佐藤両氏にも引続いてこの仕上げ過程に参加を煩した。
 二十八年六月、大日本印刷株式会社市ヶ谷工場にトラックで搬入された累々たる苦心の原稿が、やがて校正刷になって返って来る。それを校正して四校五校に及ぶのであるが、その間にも新事項は次々と発生し、新学説も現出する。最後のみがきもかけねばならない。このためには書店の方々の並々ならぬ尽瘁は勿論、また外部から来援せられた市古貞次・板坂元・同美智子等諸氏の熱心な協力があった。かくして三年にわたる製作期間中に生ずべきずれを除き、誤謬を人力の及ぶ限りにおいて少なからしめようとの編者及び書店の意図は、ほぼ全きを得たと信ぜられる。これらの方々の努力に対し、編者は衷心の謝意を表するものである。
 尚、本辞典は前後二回にわたる改修において、それぞれの専門項目につき、当代一流の学者、新進の学人に執筆・修訂を委ねて居り、ために本辞典の内容につき自信を深め、権威を高め得たること幾許なるかを知らないが、今その主なる方々の芳名を記せば、会津晃・青山秀夫・浅山哲二・有賀鉄太郎・粟田賢三・飯島篤信・池上禎造・今西錦司・大築邦雄・岡山泰四・小野和・河鰭実英・岸春雄・木下法也・小島六郎・小林恵之助・小林行雄・駒井卓・斎藤秋男・阪倉篤義・坂田昌一・佐藤芳彦・鎮目和夫・島村福太郎・新村猛・末永雅雄・高木公明・高木貞二・千野光茂・塚本洋太郎・暉峻衆三・徳田御稔・朝永振一郎・長尾雅人・仲新・中村誠太郎・中村幸彦・南条正明・橋浦泰雄・林雄次郎・原光雄・土方克法・日高敏隆・平野宣紀・福田正・古川久・堀喜望・本城市次郎・牧野亥之助・真下信一・松山貞夫・三ヶ尻浩・宮地伝三郎・都留重人・都城秋穂・宮原誠一・森鹿三・森龍吉・大和一夫・山内太郎・湯浅明・湯川秀樹・依田新等の諸家である。また本辞典に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵の筆を執られた牧野四子吉・佐藤義郎の両氏、及び煩雑極まりない本辞典の組版・製版・印刷に従事せられ、書店側とよく協調を保ちつつ、我印刷術が到達し得たる最高の技術と能力とを惜しみなく発揮せられた大日本印刷株式会社の関係各位に感謝し、更に個人的にではあったが、この事業の前後を通じてなにくれとなく編者の相談相手となり、不断の友情を表せられた岡茂雄氏に本辞典の成るを告げて、その喜びを頒ちたい。
 更に、我洋画壇の巨擘安井曽太郎画伯が親しく装幀の労を執られ、巧みに『広辞苑』の書格を表現せられたことに対し、編者として深い感銘を禁じ難い。
 思うてここに至れば、四恩の広大にして無辺際なる、早春の陽光と共に老身を包むの感を覚えるのである。
(昭和三十年三月)

(昭和三十年五月初版『広辞苑』)

  「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

967年(康保4)第62代天皇とされる村上天皇の命日(新暦7月5日)詳細
1336年(建武3)湊川の戦い足利尊氏が楠木正成を破り、正成は一族と共に自害(新暦7月4日)詳細
1654年(承応3)第112代の天皇とされる霊元天皇の誕生日(新暦7月9日)詳細
1885年(明治18)詩人・歌人平野万里の誕生日詳細
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iwanamibunkosoukan01

 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、岩波書店から「岩波文庫」(初回23点)が創刊された日です。
 「岩波文庫(いわなみぶんこ)」は、岩波書店がドイツのレクラム文庫を範とし、世界の文芸、学術の全分野における古典的価値をもつ書を並製廉価版のA6判で刊行したものでした。100ページ当りを星印(★)で表示し、当時は(★)一つ20銭という安さで、学生・知識層の圧倒的な支持を得て、大いに一般民衆に普及します。
 文庫本巻末に掲載された「読書子に寄す」―岩波文庫発刊に際して―では、当時の教養・啓蒙主義のもとで、知識を一般民衆に普及させるために刊行したという趣旨と共に、ドイツのレクラム文庫を範としていることなどが書かれていますが、起草者は三木清とされ、当時の社長であった岩波茂雄の名とされました。書目を厳選して真に古典的価値のある名著を収録、翻訳はすべて原典からの直接訳、省略なしの完全版を宣伝文句としています。
 続いて、社会科学関係に特色をもつ『改造文庫』(1929年)、文芸書中心の『春陽堂文庫』(1931年)、『新潮文庫』(1933年)などが発刊され、第1次文庫ブームが起きました。現在では、創刊以来の「岩波文庫」の刊行点数は6,000点以上になっています。

<岩波文庫の6つの分類>
・黄(日本古典文学)
・緑(日本近現代文学)
・赤(外国文学)
・青(日本思想・東洋思想・仏教・歴史・地理・音楽・美術・哲学・教育・宗教・自然科学)
・白(法律・政治・経済・社会)
・別冊

〇「読書子に寄す」(文庫本巻末に掲載)

――岩波文庫発刊に際して――

岩波茂雄

 真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである。このときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世の読書子とのうるわしき共同を期待する。

   昭和二年七月

〇岩波文庫の第1回刊行(23点)一覧 1927年(昭和2)7月10日刊

・夏目漱石『こゝろ』
・プラトン/久保勉・阿部次郎譯『プラトン ソクラテスの辯明・クリトン』
・イマヌエル・カント/波多野精一・宮本和吉譯『實踐理性批判』
・島崎藤村自選『藤村詩抄』
・樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』
・トルストイ/米川正夫譯『戦争と平和(一)』
・幸田露伴『五重塔』
・正岡子規『病牀六尺』
・ストリン トベルク/小宮豐隆譯『父』
・倉田百三『出家とその弟子』
・チェーホフ/米川正夫譯『櫻の園』
・武者小路実篤『幸福者』
・國木田獨歩(国木田独歩)『號外 他六篇』
・ポアンカレ/田辺元譯『科學の價値』
・リッケルト/山内得立譯『認識の対象』
・小林一茶/荻原井泉水校訂『おらが春・我春集』
・北村透谷/島崎藤村編『北村透谷集』
・レッシング/大庭米治郎譯『賢人ナータン』
・トルストイ/米川正夫譯『闇の力』
・正岡子規『仰臥漫録』
・チェーホフ/米川正夫譯『伯父ワーニャ』
・トルストイ/米川正夫譯『生ける屍』
・ストリン トベルク/茅野蕭々譯『令嬢ユリェ』

<その後の刊行>

・稗田阿禮/太安萬侶/幸田成友校訂『古事記』1927年(昭和2)年8月1日刊
・松尾芭蕉/伊藤松宇校訂『芭蕉七部集』1927年(昭和2)年8月1日刊
・ヴェデキント/野上豊一郎譯『春の目ざめ』1927年(昭和2)年8月1日刊
・近松門左衛門/和田萬吉校訂『曾我會稽山・心中天の網島』1927年(昭和2)年8月1日刊
・アダム・スミス/気賀勘重譯『國富論(上)』1927年(昭和2)年8月10日刊  
・ポアンカレ/吉田洋一譯『科学と方法』1927年(昭和2)年9月5日刊
・佐佐木信綱編『新訓 萬葉集(上)』1927年(昭和2)年9月5日刊

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1947年(昭和22)静岡県静岡市の登呂遺跡で総合的な発掘調査が始まる詳細
1948年(昭和23)温泉法」が制定・公布される詳細
1993年(平成5)小説家井伏鱒二の命日 詳細
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