ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:小説家

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 今日は、昭和時代後期の1972年(昭和47)に、小説家平林たい子が亡くなった日です。
 平林たい子(ひらばやし たいこ)は、明治時代後期の1905年(明治38年)10月3日に、長野県諏訪郡中洲村(現在の諏訪市)において、没落しつつあった旧家に生まれましたが、本名はタイと言いました。1916年(大正5)頃に、ロシア文学を読んだことがきっかけで作家になることを決心し、1917年(大正6)に諏訪高等女学校へ首席で入学、土屋文明に学び、国木田独歩や志賀直哉に傾倒し、社会主義に関心を持ち始めます。
 1922年(大正11)に卒業後、堺利彦に傾倒して上京、電話交換手、店員などの職業を転々としながら、アナーキストグループに近づきましたが、関東大震災で検挙、拘留されました。釈放されると、1924年(大正13)に山本虎三と朝鮮半島や中国東北部を放浪し、帰国後は「ダムダム」「MAVO」(マヴォ)などアナーキストのグループに属します。
 1926年(大正15)に朝日新聞懸賞小説に『残品』が入選、林芙美子らと女性作家グループを作り、1927年(昭和2)には、「文芸戦線」同人の小堀甚ニと結婚、『嘲る』が大阪朝日新聞の懸賞小説に入選しました。次いで、労農芸術家連盟に参加し、「文芸戦線」に『施療室』を発表して、新進のプロレタリア作家として認められ、1929年(昭和4)には、第3回渡辺賞を受賞します。
 「文芸戦線」派の代表的な作家としてナップ派と対立しましたが、その後、文戦派から去り、ナップに間接的に協力したものの、1937年(昭和12)の第1次人民戦線事件で検挙され、重病になって釈放され、淀橋病院などに入院し、戦争中は沈黙を続けました。太平洋戦争後に創作活動を再開し、1946年(昭和21)に、『一人行く』、『かういう女』、『鬼子母神』、『私は生きる』などを相次いで発表、翌年には、『かういう女』で、第1回女流文学者賞を受賞します。
 次第に反共・右派色を強めていき、保守系の言論人団体である日本文化フォーラム・言論人懇話会にも参加するようになりました。1952年(昭和27)にフランスのニースで開かれた世界ペン大会に出席、以降ドイツや韓国、フィリピン、ノルウェーなどを歴訪、講演や会議に出席しましたが、1954年(昭和29)には、小堀甚ニと離婚しています。
 1957年(昭和32)に長編自伝小説『砂漠の花』を発表、1960年(昭和35)には、『自伝的交友録・実感的作家論』を刊行しました。1968年(昭和43)には、『秘密』によって第7回女流文学賞を受賞したものの、1972年(昭和47)2月17日に、東京の慶應義塾大学病院において、急性肺炎のため、市川房枝らにみとられて、66歳で亡くなります。
 女流文学者会葬が行われ、没後に第28回日本芸術院恩賜賞(文芸部門)を受賞、遺言によって、「平林たい子文学賞」が創設されされましたが、1997年(平成)の第25回目をもって終了しました。

〇平林たい子の主要な著作

・『残品』(1926年)朝日新聞懸賞小説入選
・『嘲(あざけ)る』(1927年)大阪朝日新聞の懸賞小説入選
・『施療室にて』(1927年)
・『敷設列車』(1929年)
・『かういふ女』(1946年)第1回女流文学者賞受賞
・『鬼子母神』(1946年)
・『私は生きる』(1947年)
・『地底の歌』(1949年)
・『砂漠の花』(1957年)
・『自伝的交友録・実感的作家論』(1960年)
・『秘密』(1967年)第7回女流文学賞受賞
・『宮本百合子』(1971~72年)

☆平林たい子関係略年表

・1905年(明治38)10月3日 長野県諏訪郡中洲村(諏訪市)において、生まれる
・1916年(大正5) ロシア文学を読んだことがきっかけで作家になることを決心する
・1917年(大正6) 諏訪高等女学校へ首席で入学する
・1922年(大正11) 諏訪高等女学校を卒業後、堺利彦に傾倒して上京、アナーキストグループに近づくが、関東大震災で検挙、拘留される
・1924年(大正13) 山本虎三と朝鮮半島や中国東北部を放浪する
・1926年(大正15) 朝日新聞懸賞小説に『残品』が入選、林芙美子らと女性作家グループを作る
・1927年(昭和2) 小堀甚ニと結婚、『嘲る』が大阪朝日新聞の懸賞小説に入選、次いで、労農芸術家連盟に参加し、「文芸戦線」に『施療室』を発表して、プロレタリア作家として認められる
・1929年(昭和4) 第3回渡辺賞を受賞する
・1937年(昭和12) 第1次人民戦線事件で検挙されたが、重病により釈放される
・1946年(昭和21) 『一人行く』『かういう女』『鬼子母神』『私は生きる』などを相次いで発表する
・1947年(昭和22) 『かういう女』で、第1回女流文学者賞を受賞する
・1952年(昭和27) ニースで開かれた世界ペン大会に出席、以降ドイツや韓国、フィリピン、ノルウェーなどを歴訪、講演や会議に出席する
・1954年(昭和29) 小堀甚ニと離婚する
・1957年(昭和32) 長編自伝小説『砂漠の花』を発表する
・1960年(昭和35) 『自伝的交友録・実感的作家論』を刊行する
・1968年(昭和43) 『秘密』によって第7回女流文学賞を受賞、病苦の中で『宮本百合子』が遺作となる
・1972年(昭和47)2月17日 東京の慶應義塾大学病院において、急性肺炎のため、市川房枝らにみとられて、66歳で亡くなって女流文学者会葬が行われ、没後に第28回日本芸術院恩賜賞(文芸部門)を受賞する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1272年(文永9)第88代の天皇とされる後嵯峨天皇の命日(新暦3月17日)詳細
1906年(明治39)大隈重信を会頭とし、島村抱月・坪内逍遙らが中心となり、文芸協会が結成される詳細
1928年(昭和3)国語学者・国語辞典『言海』の編纂者である大槻文彦の命日詳細
1946年(昭和21)「金融緊急措置令」(勅令第83号)が発布・施行される詳細
1955年(昭和30)小説家・評論家・随筆家坂口安吾の命日(安吾忌)詳細
2005年(平成17)愛知県常滑市に中部国際空港(愛称:セントレア)が開港する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、小説家・ノーベル文学賞作家大江健三郎が生まれた日です。
 大江健三郎(おおえ けんざぶろう)は、愛媛県喜多郡大瀬村(現在の内子町)において、父・大江好太郎、母・小石の三男として生まれましたが、1944年(昭和19)に父が亡くなりました。1950年(昭和25)に愛媛県立内子高校に入学、1951年(昭和26)の二年への進級時、愛媛県立松山東高校へ転校し、文芸部で雑誌「掌上」を編集、伊丹十三と知り合います。
 1953年(昭和28)に卒業後、1年浪人して、1954年(昭和29)に東京大学文科二類に入学、東大学生演劇の脚本「天(そら)の嘆き」を執筆し、1956年(昭和31)には、フランス文学科に進み、渡辺一夫博士に師事しました。1957年(昭和32)に東京大学新聞に掲載された「奇妙な仕事」が毎日新聞の文芸時評で評価され、学生作家としてデビュー、1958年(昭和33)には、『死者の奢り』を刊行、「飼育」により第39回芥川龍之介賞を受賞します。
 1959年(昭和34)に卒論「サルトルの小説におけるイメージについて」を書いて、東京大学を卒業、書き下ろし長編『われらの時代』を刊行、1960年(昭和35)には、安保批判の会、若い日本の会に参加、『大江健三郎集』を刊行しました。1961年(昭和36)に東欧、西欧、ソビエトを旅行、翌年に紀行集『ヨーロッパの声・僕自身の声』を刊行、1964年(昭和39)には、『個人的な体験』により、第11回新潮社文学賞を受賞します。
 1965年(昭和40)にルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』を刊行、夏から初冬まで米国旅行をし、1966年(昭和41)には、『大江健三郎全集』全6巻を刊行しました。1967年(昭和42)に『万延元年のフットボール』で、第3回谷崎潤一郎賞を受賞、1968年(昭和43)には、オーストラリア旅行をし、エッセイ集『持続する志』を刊行します。
 1970年(昭和45)に『沖縄ノート』を刊行、1971年(昭和46)には、広島原爆病院長重藤博士との対話『原爆後の人間』を刊行、大田昌秀琉球大学教授(後に沖縄知事)との共同編集で季刊「沖縄経験」を創刊しました。1973年(昭和48)に書き下ろし長編『洪水はわが魂に及び』で、第26回野間文芸賞を受賞、1975年(昭和50)には、韓国の詩人金芝河(キムジハ)の釈放を訴えて、小田実、井出孫六らと数寄屋橋公園で48時間坐り込みをしています。
 1976年(昭和51)に芥川賞選考委員(~1984年)となり、1977年(昭和52)に、『大江健三郎全作品』第二期・全6巻を刊行、1978年(昭和53)には、朝日新聞の文芸時評担当(~1979年)しました。1982年(昭和57)に連作短編集『「雨の木」を聴く女たち』で第34回読売文学賞、1983年(昭和58)には、カリフォルニア大学バークレー校に研究員として滞在、『新しい人よ眼ざめよ』で第10回大佛次郎賞を受賞しています。
 1989年(平成元)にEC文学賞、ユーロパリア文学賞(ベルギー)を受賞、1990年(平成2)には、芥川賞選考委員に復帰、『人生の親戚』で第1回伊藤整文学賞を受賞しました。1993年(平成5)に『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』でモンデッロ賞(イタリア)を受賞、1994年(平成6)には、ノーベル文学賞を受賞、文化勲章と愛媛県の賞を辞退しています。
 1996年(平成8)に米プリンストン大学の客員講師となり、翌年には、米国芸術アカデミーの外国人名誉会員となり、日本へ帰国しました。2002年(平成14)に仏レジオン・ド・ヌール勲章コマンドールを受賞、2003年(平成15)に仏リベラシオン紙にてイラクへの自衛隊派遣計画を批判、2004年(平成16)には、加藤周一氏の呼びかけにより結成された「九条の会」に参加します。
 2005年(平成17)に「大江健三郎賞」創設を発表、2007年(平成19)に『さようなら、私の本よ!』が中国で魯迅文学賞の全国優秀文学翻訳賞、2009年(平成21)には、『臈たしアナベル・リイ』が、中国の「21世紀年度最優秀外国小説・2008微山湖賞」 を受賞しましたが、2023年〈令和5〉3月3日に、老衰のため88歳で亡くなりました。

〇大江健三郎の主要な著作

・『奇妙な仕事』(1957年)五月祭の懸賞小説入賞
・『死者の奢り』(1957年)
・『他人の足』(1957年)
・『飼育』(1958年)第39回芥川龍之介賞受賞
・『性的人間』(1963年)
・『個人的な体験』(1964年)第11回新潮社文学賞受賞
・ルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』(1964~65年)
・随筆集『厳粛な綱渡り』(1965年)
・『万延元年のフットボール』(1967年)第3回谷崎潤一郎賞受賞
・『沖縄ノート』(1970年)
・『洪水はわが魂に及び』(1973年)第26回野間文芸賞受賞
・『ピンチランナー調書』(1976年)
・『同時代ゲーム』(1978年)
・短編連作『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』(1982年)第34回読売文学賞受賞
・『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)第10回大佛次郎賞受賞
・『懐かしい年への手紙』(1987年)
・『人生の親戚』(1990年)第1回伊藤整文学賞受賞
・三部作『燃えあがる緑の樹』(1993~95年)

☆大江健三郎関係略年表

・1935年(昭和10)1月31日 愛媛県喜多郡大瀬村(現在の内子町)において、父・大江好太郎、母・小石の三男として生まれる
・1944年(昭和19) 父・好太郎が亡くなる
・1947年(昭和22) 大瀬中学に入学する
・1950年(昭和25) 愛媛県立内子高校に入学する
・1951年(昭和26) 二年への進級時、愛媛県立松山東高校へ転校し、文芸部で雑誌「掌上」を編集、伊丹十三と知り合う。
・1953年(昭和28) 松山東高校を卒業、東京大学を受験するが、試験を途中で放棄し帰郷、神奈川県の藤沢に下宿し、浪人生活を送る
・1954年(昭和29) 東京大学文科二類に入学、東大学生演劇の脚本「天(そら)の嘆き」を執筆する
・1955年(昭和30) 「火山」を<学園>九月号に発表、脚本「夏の休暇」執筆する
・1956年(昭和31) フランス文学科に進み、渡辺一夫博士に師事、脚本「死人に口なし」、「獣たちの声」執筆する
・1957年(昭和32) 東京大学新聞に掲載された「奇妙な仕事」(「獣たちの声」を小説化したもの)が毎日新聞の文芸時評で評価され、学生作家としてデビュー、「死者の奢り」、「他人の足」、「石膏のマスク」、「偽証の時」、戯曲「動物倉庫」を発表する
・1958年(昭和33) 「飼育」、「人間の羊」、「運搬」を発表。『死者の奢り』を刊行、「飼育」により第39回芥川龍之介賞を受賞する
・1959年(昭和34) 卒論「サルトルの小説におけるイメージについて」を書いて、東京大学を卒業、書き下ろし長編『われらの時代』を刊行する
・1960年(昭和35) 安保批判の会、若い日本の会に参加、短編集『孤独な青年の休暇』、長編『青年の汚名』、『大江健三郎集』を刊行する
・1961年(昭和36) 東欧、西欧、ソビエト旅行をする
・1962年(昭和37) 長編『遅れてきた青年』、紀行集『ヨーロッパの声・僕自身の声』を刊行する
・1963年(昭和38) 長編『叫び声』を刊行する
・1964年(昭和39) 長編『日常生活の冒険』、書き下ろし長編『個人的な体験』を刊行、『個人的な体験』により第11回新潮社文学賞を受賞する
・1965年(昭和40) エッセイ集『厳粛な綱渡り』、『ヒロシマ・ノート』を刊行、夏から初冬まで米国旅行をする
・1966年(昭和41) 『大江健三郎全集』全6巻を刊行する
・1967年(昭和42) 『万延元年のフットボール』を刊行、第3回谷崎潤一郎賞を受賞する
・1968年(昭和43) オーストラリア旅行をし、エッセイ集『持続する志』を刊行する
・1969年(昭和44) 『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』を刊行する
・1970年(昭和45) 評論『壊れものとしての人間-活字のむこうの暗闇』、講演集『核時代の想像力』、『沖縄ノート』を刊行する
・1971年(昭和46) 広島原爆病院長重藤博士との対話『原爆後の人間』を刊行、大田昌秀琉球大学教授(後に沖縄知事)との共同編集で季刊「沖縄経験」を創刊する
・1972年(昭和47) 全エッセイ集『鯨の死滅する日』を刊行する
・1973年(昭和48) 書き下ろし長編『洪水はわが魂に及び』を刊行、第26回野間文芸賞を受賞する
・1974年(昭和49) 評論集『状況へ』、『文学ノート 付=15篇』を刊行する
・1975年(昭和50) 韓国の詩人金芝河(キムジハ)の釈放を訴えて、小田実、井出孫六らと数寄屋橋公園で48時間坐り込みをする
・1976年(昭和51) 評論集『言葉によって 状況・文学*』、長編『ピンチランナー調書』を刊行、芥川賞選考委員となる
・1977年(昭和52) 『大江健三郎全作品』第二期・全6巻を刊行する
・1978年(昭和53) 朝日新聞の文芸時評担当(~1979年)、評論『小説の方法』、評論集『表現する者 状況・文学**』を刊行する
・1979年(昭和54) 書き下ろし『同時代ゲーム』を刊行する
・1980年(昭和55) 評論集『方法を読む=大江健三郎文芸時評』、中短編集『現代伝奇集』、『大江健三郎同時代論集』全十巻を刊行する
・1982年(昭和57) 講演集『核の大火と「人間」の声』、連作短編集『「雨の木」を聴く女たち』を刊行、第34回読売文学賞を受賞する
・1983年(昭和58) カリフォルニア大学バークレー校に研究員として滞在、『新しい人よ眼ざめよ』で第10回大佛次郎賞を受賞する
・1984年(昭和59) 芥川賞選考委員を辞任する
・1985年(昭和60) 『河馬に噛まれる』を刊行する
・1987年(昭和62) 書き下ろし長編『懐かしい年への手紙』を刊行する
・1988年(昭和63) 新潮5月号にて江藤淳、開高健、石原慎太郎の四人で座談会を開く
・1989年(平成元) EC文学賞、ユーロパリア文学賞(ベルギー)を受賞する
・1990年(平成2) 芥川賞選考委員に復帰、『人生の親戚』にて第1回伊藤整文学賞を受賞する
・1991年(平成3) 政府の湾岸戦争貢献策批判の声明を出す
・1992年(平成4) 『僕が本当に若かった頃』、『人生の習慣』を刊行する
・1993年(平成5) 『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』でモンデッロ賞(イタリア)を受賞する
・1994年(平成6) 長男光の作曲家としての成功を期に小説執筆の終止を宣言、ノーベル文学賞を受賞、文化勲章と愛媛県の賞を辞退する
・1995年(平成7) 朝日賞を受賞、ノーベル賞記念講演『あいまいな日本の私』を刊行する
・1996年(平成8) 作曲家武満徹の告別式で作家復帰を宣言、エッセイ集『ゆるやかな絆』を刊行、米プリンストン大学の客員講師となる
・1997年(平成9) 米国芸術アカデミーの外国人名誉会員となり、日本へ帰国する
・1998年(平成10) 『私という小説家の作り方』を刊行する
・1999年(平成11) ベルリン自由大学で客員教授として「日本作家の現実」というテーマで講義する
・2000年(平成12) 有楽町朝日ホールにて朝日賞記念講演「『知』をめぐる私の意見」を行う
・2001年(平成13) 「新しい歴史教科書をつくる会」の検定不合格を求める声明を三木睦子氏らと発表する
・2002年(平成14) 仏レジオン・ド・ヌール勲章コマンドールを受賞する
・2003年(平成15) 仏リベラシオン紙にてイラクへの自衛隊派遣計画を批判する
・2004年(平成16) 加藤周一氏の呼びかけにより結成された「九条の会」に参加する
・2005年(平成17) 「大江健三郎賞」創設を発表する
・2007年(平成19) 『さようなら、私の本よ!』が中国で魯迅文学賞の全国優秀文学翻訳賞受賞する
・2009年(平成21) 『臈たしアナベル・リイ』が、中国の「21世紀年度最優秀外国小説・2008微山湖賞」 を受賞する
・2023年〈令和5〉3月3日 老衰のため88歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1883年(明治16)病理学者緒方知三郎の誕生日詳細
1892年(明治25)詩人・随筆家・翻訳家尾崎喜八の誕生日詳細
1893年(明治26)北村透谷・島崎藤村らが文藝雑誌「文学界」を創刊する詳細
1897年(明治30)哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の命日詳細
1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細
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ikutanaochikahon01
 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、小説家・脚本家生田直親が生まれた日です。
 生田直親(いくた なおちか)は、東京府に生まれましたが、本名は生田直近と書きました。1945年(昭和20)に福島県立川俣工業学校(現在の福島県立川俣高等学校)を中退し、1956年(昭和31)に近代映画社の雑誌『映画の友』の懸賞付き公募シナリオ応募作「凡馬の暦」の入賞を機に上京し、テレビの脚本家となります。
 1958年(昭和33)に童門冬二と共に同人誌「さえら」を出版し、1962年(昭和37)に東芝日曜劇場(TBS)の1作として『煙の王様』を手掛けましたが、翌年にこの作品で、第17回芸術祭文部大臣賞受賞しました。テレビの脚本家として「判決」、「火曜日の女」など多くのシナリオを執筆したものの、1974年(昭和49)に『誘拐197X年』を刊行して、推理作家に転身します。
 1980年(昭和55)に『ソ連侵略198X年』、『東京大地震M8』、1981年(昭和56)に『殺意の大滑降』を刊行し、1982年(昭和57)には、「問題小説」に発表した『赤馬からくり』が日本文藝家協会の「代表作時代小説 昭和58年度」に収録されました。1985年(昭和60)に『金沢怨霊殺人事件』、1986年(昭和61)に『コンピュータ完全犯罪』、1987年(昭和62)に『京都怨霊殺人事件』を刊行するなど、書下ろし長編に作家生命を賭け、パニック小説、伝奇ミステリー、山岳サスペンス、時代小説などを精力的に作品を発表します。
 スキー三昧の傍らの創作活動でしたが、1993年(平成5)3月18日に、肝硬変による静脈瘤破裂のため、63歳で亡くなりました。

〇生田直親の主要な著作

・『誘拐197X年』(1974年)
・『ソ連侵略198X年』(1980年)
・『東京大地震M8』(1980年)
・『殺意の大滑降』(1981年)
・『金沢怨霊殺人事件』(1985年)
・『コンピュータ完全犯罪』(1986年)
・『京都怨霊殺人事件』(1987年)

☆生田直親関係略年表

・1929年(昭和4)12月31日 東京府に生まれる
・1945年(昭和20) 福島県立川俣工業学校(現在の福島県立川俣高等学校)を中退する
・1956年(昭和31) 近代映画社の雑誌『映画の友』の懸賞付き公募シナリオの応募作「凡馬の暦」の入賞を機に上京し、テレビの脚本家となる
・1958年(昭和33) 童門冬二と共に同人誌「さえら」を出版する
・1962年(昭和37) 東芝日曜劇場(TBS)の1作として『煙の王様』を手掛ける
・1963年(昭和38) テレビドラマ「煙の王様」で第17回芸術祭文部大臣賞受賞する
・1974年(昭和49) 『誘拐197X年』を刊行して、推理作家となる
・1980年(昭和55) 『ソ連侵略198X年』、『東京大地震M8』を刊行する
・1981年(昭和56) 『殺意の大滑降』を刊行する
・1982年(昭和57) 「問題小説」に発表した『赤馬からくり』は日本文藝家協会の「代表作時代小説 昭和58年度」に収録される
・1985年(昭和60) 『金沢怨霊殺人事件』を刊行する
・1986年(昭和61) 『コンピュータ完全犯罪』を刊行する
・1987年(昭和62) 『京都怨霊殺人事件』を刊行する
・1993年(平成5)3月18日 肝硬変による静脈瘤破裂のため、63歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1924年(大正13)文人画家・儒学者富岡鉄斎の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)を指令する詳細
1946年(昭和21)俳人中塚一碧楼の命日詳細
1953年(昭和28)NHK紅白歌合戦が初の公開放送となり、この年から大晦日の放送となる詳細
1963年(昭和38)NHK紅白歌合戦でテレビの最高視聴率81.4%を記録する詳細
1994年(平成6)小説家・推理作家多岐川恭の命日詳細
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 今日は、平成時代の2008年(平成20)に、小説家早乙女貢の亡くなった日です。
 早乙女貢(さおとめ みつぐ)は、大正時代の1926年(大正15)1月1日に、中国・ハルビン市において、父・鐘ヶ江茂一の子として生まれましたが、本名は鐘ヶ江秀吉(かねがえ ひでよし)といいました。少年時代は体が弱かったせいもあり、15歳頃から小説家になることを志し、徴兵検査では肺浸潤のため不合格となります。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に九州に引き揚げ、1948年(昭和23)に上京して、1952年(昭和27)頃には、横浜の山本周五郎の仕事場に編集者と訪ねたのを契機に師事するようになりました。1955年(昭和30)に『算盤武士』で、第6回講談倶楽部賞の選外佳作となり、その頃には、倶楽部雑誌新人賞受賞者の集まり「泉の会」に所属します。
 1956年(昭和31)に伊藤桂一、尾崎秀樹らと同人誌「小説会議」を創刊、1965年(昭和40)頃には、有馬頼義主催の「石の会」に参加しました。1966年(昭和41)に『鬼の骨』、1967年(昭和42)に『叛臣伝』で、直木賞候補となった後、1968年(昭和43)に『僑人の檻』で、第60回直木賞を受賞します。
 1974年(昭和49)に『おけい』で、1976年(昭和51)に『北条早雲』で、吉川英治賞候補となり、1988年(昭和63)には、『會津士魂』で、第23回吉川英治文学賞を受賞しました。一方で、日本ペンクラブ常任理事を務め、1984年(昭和59)の国際ペンクラブ東京大会では企画司会等を担当します。
 その後、各国で行われた国際ペンクラブの大会に参加し、1993年(平成5)には、日本ペンクラブ専務理事に就任しました。1995年(平成7)にブレッドでの国際作家会議、エルサレムでの日本文学フェスティバルに参加し、その後も各国で開催された国際ペン大会に代表として出席しています。
 趣味の絵画では、1984年(昭和59)に『江戸を歩く』原画等による個展、1985年(昭和60)に『會津士魂』出版記念個展「早乙女貢が描く会津の詩」、1995年(平成7)に「城下町を描く絵画展」などを開催し、1999年(平成11)に「政経文化画人展」に出品し、文部大臣賞を受賞しました。2003年(平成15)には、『わが師 山本周五郎』で、第16回大衆文学研究賞特別賞を受賞しましたが、2008年(平成20)12月23日に、神奈川県鎌倉市の病院において、胃癌のため82歳で亡くなっています。

〇早乙女貢の主要な著作

・『鬼の骨』(1966年)第56回直木賞候補
・『叛臣伝』(1967年)第58回直木賞候補
・『僑人の檻』(1968年)第60回直木賞受賞
・『おけい』(1974年)第8回吉川英治文学賞候補
・『血槍三代』(1974年)
・『北条早雲』(1976年)第11回吉川英治賞候補
・『會津士魂』(1985~88年)第23回吉川英治文学賞受賞
・『わが師 山本周五郎』(2003年)第16回大衆文学研究賞特別賞受賞

☆早乙女貢関係略年表

・1926年(大正15)1月1日 中国・ハルビンにおいて、父・鐘ヶ江茂一の子として生まれる
・1946年(昭和21) 九州に引き揚げる
・1948年(昭和23) 上京する
・1949年(昭和24) 『暁闇』で、第1回『叡智』懸賞小説で佳作となる
・1952年(昭和27)頃 横浜の山本周五郎の仕事場に編集者と訪ねたのを契機に師事する
・1955年(昭和30) 『算盤武士』で、第6回講談倶楽部賞の選外佳作となる
・1955年(昭和30)頃 倶楽部雑誌新人賞受賞者の集まり「泉の会」に所属する
・1956年(昭和31) 伊藤桂一、尾崎秀樹らと同人誌「小説会議」を創刊する
・1965年(昭和40)頃 有馬頼義主催の「石の会」に参加する
・1966年(昭和41) 『鬼の骨』で、第56回直木賞候補となる
・1967年(昭和42) 『叛臣伝』で、第58回直木賞候補となる
・1968年(昭和43) 『僑人の檻』で、第60回直木賞を受賞する
・1974年(昭和49) 『おけい』で、第8回吉川英治文学賞候補となる
・1976年(昭和51) 『北条早雲』で、第11回吉川英治賞候補となる
・1984年(昭和59) 国際ペンクラブ東京大会では企画司会等を担当する
・1988年(昭和63) 『會津士魂』で、第23回吉川英治文学賞を受賞する
・1993年(平成5) 日本ペンクラブ専務理事に就任する
・1995年(平成7) ブレッドでの国際作家会議、エルサレムでの日本文学フェスティバルに参加する
・2003年(平成15) 『わが師 山本周五郎』で、第16回大衆文学研究賞特別賞を受賞する
・2008年(平成20)12月23日 神奈川県鎌倉市の病院において、胃癌のため82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1496年(明応5)第105代の天皇とされる後奈良天皇の誕生日(新暦1497年1月26日)詳細
1613年(慶長18)徳川秀忠により、「伴天連追放之文(禁教令)」が公布される(新暦1614年2月1日)詳細
1874年(明治7)洋画家和田英作の誕生日詳細
1912年(大正元)北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)で爆発事故が起こり、死者216人、負傷者13人を出す詳細
1942年(昭和17)大日本言論報国会(会長:徳富蘇峰)が結成される詳細
1958年(昭和33)東京タワーの完工式が行われる詳細
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nakagawayoichi01
 今日は、平成時代の1994年(平成6)に、小説家・歌人中河与一が亡くなった日です。
 中河与一 (なかがわ よいち)は、明治時代後期の1897年(明治30)2月28日に、香川県阿野郡坂出町(現在の坂出市)において、代々の医家の父・与吉郎、母・多美の長男として生まれました。香川県立丸亀中学校(現在の県立丸亀高等学校)を経て、1919年(大正8)に早稲田大学高等予科文科に入学し、翌年には、同郷の歌人・林幹子と結婚します。
 1921年(大正10)に早稲田大学高等予科文科を卒業し、同大学英文科に進学し、「新公論」6月号に『悩ましき妄想』を発表しました。1922年(大正11)に歌集『光る波』を上田屋書店より刊行しましたが、早稲田大学を中途退学し、翌年には、金星堂編集部に勤務、菊池寛に認められて「文藝春秋」編集同人となります。
 1924年(大正13)に川端康成、横光利一、片岡鉄平、今東光、十一谷義三郎らとともに「文芸時代」を創刊、『刺繍(ししゅう)せられた野菜』(1924年)、『氷る舞踏場』(1925年)を発表し、新感覚派の旗手としてモダニズム時代を築きました。1928年(昭和3)に形式主義文学論争が始まり、1930年(昭和5)には、『形式主義芸術論』、『フォルマリズム芸術論』を刊行、雑誌「新科学的文芸」(「新科学的」と改題)を創刊(~1933年)します。
 1935年(昭和10)に『偶然と文学』、1936年(昭和11)に『愛恋無限』を刊行し、翌年には、この作品で、第1回北村透谷賞を受賞しました。1938年(昭和13)に代表作『天の夕顔』を刊行し、永井荷風の激賞を受けたものの、1939年(昭和14)には、『全体主義の構想』を刊行、「文芸世紀」を創刊(~1945年)し、厚生省諮問機関の労務管理調査委員に選ばれるなどして、民族主義に傾向き、軍国主義への協力を強めます。
 太平洋戦争後は、戦時中の活動が批判を浴び、ようやく1950年(昭和25)に、『失楽の庭』を刊行して、文壇に復帰しました。1957年(昭和32)には、谷崎潤一郎をモデルとした『探美の夜』、翌年に)、『続・探美の夜』を刊行して注目されます。
 1966年(昭和41)から『中河与一全集』全12巻の刊行を開始し、1967年(昭和42)に完結します。1976年(昭和51)には、勲三等瑞宝章を受章しましたが、1994年(平成6)12月12日に、神奈川県箱根町において、97歳で亡くなりました。

〇中河与一の主要な著作

・『刺繍(ししゅう)せられた野菜』(1924年)
・『氷る舞踏場』(1925年)
・『﨟(ろう)たき花』(1933年)
・『愛恋無限』(1935~36年)第1回北村透谷賞受賞
・『天(てん)の夕顔』(1938年)
・『失楽の庭』(1950年)
・『悲劇の季節』(1952年)
・『探美の夜』(1956~59年)

☆中河与一関係略年表

・1897年(明治30)2月28日 香川県坂出町において、代々の医家の父・与吉郎、母・多美の長男として生まれる
・1903年(明治36) 母の郷里である岡山県赤磐郡に行き、大内小学校に入学する
・1910年(明治43) 坂出に帰り、香川県立丸亀中学校(現在の県立丸亀高等学校)に入学する
・1915年(大正4) 丸亀中学校を卒業する
・1916年(大正5) 京都市七条大宮に弟・四郎とともに暮らす。短歌の制作に熱中し、北原白秋主宰の「ザムボア」に数多く投稿。近所の夜学校「漢数学館」で数学を教える。年末、坂出に帰る
・1918年(大正7) 上京し、本郷美術研究所に通う
・1919年(大正8) 早稲田大学高等予科文科に入学する
・1920年(大正9) 同郷の歌人・林幹子と結婚する
・1921年(大正10) 早稲田大学高等予科文科を卒業し、同大学英文科に進学、「新公論」6月号に「悩ましき妄想」を発表する
・1922年(大正11) 歌集『光る波』を上田屋書店より刊行、早稲田大学を中途退学する
・1923年(大正12) 金星堂編集部に勤務、菊池寛に認められて「文藝春秋」編集同人となる
・1924年(大正13) 川端康成、横光利一、片岡鉄平、今東光、十一谷義三郎らとともに「文芸時代」を創刊する
・1925年(大正14) 『午前の殺人』(新潮社)を刊行する
・1926年(大正15) 『氷る舞踏場』(金星堂)を刊行、中国旅行で上海、蘇州、杭州、南京を巡る
・1927年(昭和2) 『恐ろしき花』(改造社)を刊行する
・1928年(昭和3) 形式主義文学論争が始まる
・1930年(昭和5) 『形式主義芸術論』(新潮社)、『フォルマリズム芸術論』(天人社)を刊行、雑誌「新科学的文芸」(「新科学的」と改題)を創刊(~1933年)、南洋方面の旅行に出発する
・1931年(昭和6) 『ホテルQ』(赤炉閣書房)、『海路歴程』(第一書房)を刊行する
・1933年(昭和8) 雑誌「翰林」を創刊(~1936)、『臘たき花』(第一書房)を刊行する
・1934年(昭和9) 『レドモア島誌』(改造社)、『ゴルフ』(昭和書房)、『熱帯紀行』(竹村書房)を刊行する
・1935年(昭和10) 『偶然と文学』(第一書房)を刊行する
・1936年(昭和11) 『愛恋無限』(第一書房)を刊行する
・1937年(昭和12) 『万葉の精神』(千倉書房)を刊行、『愛恋無限』により第1回北村透谷賞を受賞する
・1938年(昭和13) 『日本の理想』(白水社)、『天の夕顔』(三和書房)を刊行する
・1939年(昭和14) 『全体主義の構想』(作品社)を刊行、「文芸世紀」を創刊(~1945年)、厚生省諮問機関の労務管理調査委員に選ばれる
・1940年(昭和15) 『愛の約束』(人文書院)、『熱帯圏』(第一書房)を刊行する
・1943年(昭和18) 『旅人椰子』(講談社)を刊行する
・1944年(昭和19) 『日本文芸論』(講談社)を刊行する
・1948年(昭和23) 『天の夕顔』が新東宝で映画化される
・1950年(昭和25) 『失楽の庭』(中央公論社)を刊行する
・1952年(昭和27) 『悲劇の季節』(河出書房)を刊行する
・1957年(昭和32) 『美貌』(講談社)、『探美の夜』(講談社)を刊行する
・1958年(昭和33) 『誘惑の谷』(第二書房)、『続・探美の夜』(講談社)を刊行する
・1959年(昭和34) 『愛の漂泊者』(角川書店)、『探美の夜・完』(講談社)を刊行する
・1963年(昭和38) 『三人姉妹』(集英社)を刊行、エジプト、ヨーロッパ、インドを巡遊、『天の夕顔』(雪華社)を刊行する
・1966年(昭和41) 『中河与一全集』全12巻(角川書店)を刊行開始(~1967年)する
・1969年(昭和44) インド、ネパールを巡遊する
・1972年(昭和47) 『中河与一代表短編集』(読売新聞社)を刊行する
・1974年(昭和49) 『鏡に這入る女』(旺文社)を刊行する
・1975年(昭和50) 『雪にとぶ鳥』(読売新聞社)を刊行する
・1976年(昭和51) 勲三等瑞宝章を受章する
・1979年(昭和54) 『古都幻想』(村松書館)を刊行する
・1982年(昭和57) 『足と煙草』(宝文館出版)を刊行、蒲生久仁子と再婚する
・1994年(平成6)12月12日 神奈川県箱根町において、97歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1568年(永禄11)武田信玄軍と今川氏真・北条氏政軍との間で薩埵峠の戦いが始まる(新暦12月30日)詳細
1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細
1947年(昭和22)「児童福祉法」が公布される詳細
1963年(昭和38)映画監督・脚本家小津安二郎の命日詳細
1989年(平成元)漫画家田河水泡の命日詳細
2015年(平成27)「気候変動に関する国際連合枠組み条約第21回締約国会議」(COP21)で「パリ協定」を採択する詳細
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