そして、約35年を費やして、1798年(寛政10)に完成させましたが、刊行は名古屋の永楽屋より、1790年(寛政2)~1822年(文政5)にかけて行われました。全44巻よりなり、巻1に書名論、文体論、文字論、古道論などを含む総論、巻2に序文の注釈と系図、巻3~44に本文の注釈、巻45以下に索引(本居春庭作)を収めています。
最初の文献学的な『古事記』研究書で、江戸時代最高の注釈書であるばかりでなく、現在でも『古事記』研究上不可欠の書とされ、宣長の国学思想の基礎をなしてきました。
1740年(元文5)に11歳で父を亡くし、1748年(寛延元)19歳で同国山田の紙商今井田家の養子となりましたが、21歳で不縁となって実家に出戻ります。1751年(宝暦元)に兄が亡くなって、小津家の家督を相続しましたが、商売には向かず店をたたんで、医師を志し、上洛しました。
この頃、姓を本居と変え、医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、漢学や国学なども学びます。1758年(宝暦7)に松坂に帰郷し、医師を開業、その一方で、自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励みました。
1763年(宝暦13)に賀茂真淵と会い、のちに入門、『古事記伝』を書き始めます。並行して、語学研究、評論執筆にいそしみ、門人も増えていきました。
1793年(寛政5)には64歳で随筆『玉勝間』を起稿、1798年(寛政10)には、『古事記伝』44巻を完成させます。その後も、国文、神話、神道、国語などの研究に努めましたが、1801年(享和元年9月29日)に、松坂において、数え年72歳で亡くなりました。
門人は487人に達し、田中道麿、服部中庸、横井千秋、石塚竜麿らを輩出しています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1582年(天正10) | 山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れ、敗走中土民に殺される(新暦7月2日) | 詳細 |
1615年(慶長20) | 江戸幕府により「一国一城令」が出される(新暦8月7日) | 詳細 |
1924年(大正13) | 土方与志・小山内薫らが築地小劇場を開場する | 詳細 |
1931年(昭和6) | 医学者・細菌学者・教育者北里柴三郎の命日 | 詳細 |
1998年(平成10) | 北海道室蘭市に白鳥大橋が開通する | 詳細 |