ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:古事記

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 今日は、江戸時代後期の1798年(寛政10)に、本居宣長が約35年を費した『古事記伝』全44巻が完成した日ですが、新暦では7月26日となります。
 『古事記伝』(こじきでん)は、本居宣長が約30年間の歳月をかけて、完成させた『古事記』の注釈書でした。宣長は、1764年(明和元)に、『古事記』研究に着手し、本文批判、訓読、注釈のすべての点において豊富な用例を引き、広く深い知識をもって実証的帰納的研究を行い、従来の諸説を批判し、多数の創見を提出し、実証的・総合的に研究します。
 そして、約35年を費やして、1798年(寛政10)に完成させましたが、刊行は名古屋の永楽屋より、1790年(寛政2)~1822年(文政5)にかけて行われました。全44巻よりなり、巻1に書名論、文体論、文字論、古道論などを含む総論、巻2に序文の注釈と系図、巻3~44に本文の注釈、巻45以下に索引(本居春庭作)を収めています。
 最初の文献学的な『古事記』研究書で、江戸時代最高の注釈書であるばかりでなく、現在でも『古事記』研究上不可欠の書とされ、宣長の国学思想の基礎をなしてきました。

〇本居宣長(もとおり のりなが)とは?

 荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに、国学四大人の一人とされる国学者です。1730年(享保15年5月7日)に、伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿商の父・小津定利の次男(母は勝)として生まれましたが、幼名は富之助と言いました。
 1740年(元文5)に11歳で父を亡くし、1748年(寛延元)19歳で同国山田の紙商今井田家の養子となりましたが、21歳で不縁となって実家に出戻ります。1751年(宝暦元)に兄が亡くなって、小津家の家督を相続しましたが、商売には向かず店をたたんで、医師を志し、上洛しました。
 この頃、姓を本居と変え、医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、漢学や国学なども学びます。1758年(宝暦7)に松坂に帰郷し、医師を開業、その一方で、自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励みました。
 1763年(宝暦13)に賀茂真淵と会い、のちに入門、『古事記伝』を書き始めます。並行して、語学研究、評論執筆にいそしみ、門人も増えていきました。
 1793年(寛政5)には64歳で随筆『玉勝間』を起稿、1798年(寛政10)には、『古事記伝』44巻を完成させます。その後も、国文、神話、神道、国語などの研究に努めましたが、1801年(享和元年9月29日)に、松坂において、数え年72歳で亡くなりました。
 門人は487人に達し、田中道麿、服部中庸、横井千秋、石塚竜麿らを輩出しています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1582年(天正10)山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れ、敗走中土民に殺される(新暦7月2日)詳細
1615年(慶長20)江戸幕府により「一国一城令」が出される(新暦8月7日)詳細
1924年(大正13)土方与志・小山内薫らが築地小劇場を開場する詳細
1931年(昭和6)医学者・細菌学者・教育者北里柴三郎の命日詳細
1998年(平成10)北海道室蘭市に白鳥大橋が開通する詳細
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 今日は、奈良時代の711年(和銅4)に、元明天皇の詔勅により太安麻呂が『古事記』の編纂に着手した日ですが、新暦では11月3日となります。
 『古事記』(こじき)は、奈良時代の元明天皇の勅命により、太安万侶が、稗田阿礼のそらんじていた帝紀・旧辞などを筆録した日本最古の歴史書とされてきました。712年(和銅5年1月28日)に完成して、元明天皇に献進されましたが、記と略され、『日本書紀』と併せて「記紀」と呼ばれています。
 3巻からなり、内容は上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説・歌謡などを含んでいました。天皇支配の正当性を歴史的に証明し、合理化しようとする思想で貫かれているものの、文学古典としての価値や国語研究上の価値も大きなものがあるとされています。
 以下に、『古事記』の序文を現代語訳付で全文載せておきますので、ご参照下さい。

〇『古事記』の序文

<原文>

 臣安萬侶言。
 夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。所以、出入幽顯、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。故、太素杳冥、因本教而識孕土產嶋之時、元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世。
 寔知、懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬神蕃息與。議安河而平天下、論小濱而淸國土。
 是以、番仁岐命、初降于高千嶺、神倭天皇、經歷于秋津嶋。化熊出川、天劒獲於高倉、生尾遮徑、大烏導於吉野、列儛攘賊、聞歌伏仇。卽、覺夢而敬神祇、所以稱賢后。望烟而撫黎元、於今傳聖帝。定境開邦、制于近淡海、正姓撰氏、勒于遠飛鳥。雖步驟各異文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽・照今以補典教於欲絶。
 曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世、濳龍體元、洊雷應期。開夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然、天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎步於東國、皇輿忽駕、淩渡山川、六師雷震、三軍電逝、杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解、未移浹辰、氣沴自淸。乃、放牛息馬、愷悌歸於華夏、卷旌戢戈、儛詠停於都邑。歲次大梁、月踵夾鍾、淸原大宮、昇卽天位。道軼軒后、德跨周王、握乾符而摠六合、得天統而包八荒、乘二氣之正、齊五行之序、設神理以奬俗、敷英風以弘國。重加、智海浩汗、潭探上古、心鏡煒煌、明覩先代。
 於是天皇詔之「朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭、既違正實、多加虛僞。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。」時有舍人、姓稗田、名阿禮、年是廿八、爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。卽、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。然、運移世異、未行其事矣。
 伏惟、皇帝陛下、得一光宅、通三亭育、御紫宸而德被馬蹄之所極、坐玄扈而化照船頭之所逮、日浮重暉、雲散非烟、連柯幷穗之瑞、史不絶書、列烽重譯之貢、府無空月。可謂名高文命、德冠天乙矣。
 於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者、謹隨詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字卽難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之內、全以訓錄。卽、辭理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改。
 大抵所記者、自天地開闢始、以訖于小治田御世。故、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前、爲上卷、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前、爲中卷、大雀皇帝以下、小治田大宮以前、爲下卷、幷錄三卷、謹以獻上。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

 和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶

   『古事記』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

 臣安万侶言さく、
 夫れ混元既に凝りて、気象未だ效れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分れて、参神造化の首と作り、陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為りき。所以に幽顕に出入りして、日月目を洗うに彰れ、海水に浮沈して、神祗身を漱ぐに呈る。故、太素は杳冥なれども、本教によりて而土を孕み嶋を産みし時を識り、元始は綿邈なれども、先聖に頼りて、神を生み人を立てし世を察る。
 寔に知る、鏡を懸け、珠を吐きて、百王相續ぎ、剣を喫み釼蛇を切りて、萬神蕃息せしことを。安河に議りて天下平け、小濱に論ひて国土を清めき。
 是を以ちて番仁岐命。初めて高千嶺に降り、神倭天皇、秋津嶋に經歴したまひき。化熊川を出でて。天釼を高倉に獲、生尾徑を遮りて、大烏吉野に導きき。儛を列ねて賊を攘ひ、歌を聞きて仇を伏はしむ。即ち夢に覺りて神祇を敬ひたまひき。所以に賢后と称す。烟を望みて黎元を撫でたまひき。今に聖帝と云ふ。境を定めて邦を開きて、近淡海を制め、姓を正して氏を撰び、遠飛鳥を勒めたまいき。歩驟各異に、文質同じからずといえども、莫不古を稽へて風猷を既に頽れたるに繩し。今に照らして典教を絶えむとするに補はずということなし。
 飛鳥の清原の大宮に、大八洲にしらしめし天皇の御世に曁りて、濳龍元を体し。洊雷期に応じき。夢の歌を聞きて而業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまいひき。然れども天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共洽わりて、東国に虎歩したまいき。皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を挙げて、猛士烟のごとく起り、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。未だ浹辰移さずして、氣?自ら清まりき。乃ち牛を放ち馬を息へ。愷悌して華夏に帰り。旌を巻き戈をおさめ、舞詠して都邑に停まりたまひき。
 歳大梁に次り、月侠鍾に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。道は軒后に軼ぎ、徳は周王に跨えたまひき。乾符を握りて六合を摠べ、天統を得て八荒を包ねたまひき。二氣の正しきに乗り、五行の序を齊へ、神理を設けて俗を奬め、英風を敷きて国を弘めたまいき。重加、智海は浩瀚として、潭く上古を探り、心鏡は?煌として、明らかに先代を観たまひき。
 ここに天皇詔りたまわく、「朕聞く、諸家のもてる帝紀および本辭、既に正實に違ひ、多く虚僞を加ふと、今の時にあたり、その失を改めずは、いまだ幾年を経ずして、その旨、滅びなむとす。これすなわち邦家の經緯、王化の鴻基なり。故、これ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り、実を定實めて、後の葉に流へむと欲ふ」とのりたまひき。時に舍人、有り。姓は稗田、名は阿禮。年はこれ廿八。人と爲り聰明にして、。目に度れば、口に誦み、耳に拂るれば心に勒す。即ち阿禮に勅語して、帝皇の日繼及び、先代の旧辞を誦に習はしめたまひき。然れども運移り世異りて。未だその事を行ひたまはざりき。
 伏して惟うに皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。紫宸に御して徳は馬の蹄の極まる所に被び、玄扈に坐して化は船の頭の逮ぶ所を照らしたまふ。日浮かびて暉を重ね、雲散ちりて烟に非ず。柯を連ね穗を并す瑞、史書すことを絶たず、烽を列ね訳を重むる貢、府空しき月無し。名は文命よりも高く、徳は天乙にも冠りたまへりと謂ひつべし。
 ここに舊辭の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れると正さむとして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔りして、稗田阿禮が誦む所の勅語の舊辭を撰録して、獻上せしむといへれば、謹みて詔旨のまにまに、子細に採り摭ひぬ。
 然れども上古の時は、言と意を並朴にして、文を敷き句を構ふること、字におきて即ち難し。已に訓によりて述べたるは、詞心におよばず。全く音を以て連ねたるは、事の趣さらに長し。是をもちて今、或は一句の中に、音訓を交いて用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録す。即ち、辭理の見えがたきは、注を以ちて明かにし、意况の解り易きは更に注せず。また姓おきて日下を玖沙訶といひ、名におきて帶の字を多羅斯といふ。かくの如き類は、本のままに改ず。大抵記す所は、天地の開闢より始めて。于小治田の御世に訖る。故、天御中主神以下、日子波限建鵜
 草葺不合尊以前を上卷となし、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前を中卷となし、大雀皇帝以下、小治田大宮以前を下卷となし、并せて三卷に録して、謹みて獻上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

  和銅五年正月二十八日。正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上。

<現代語訳>

 わたくし安萬侶が申しあげます。
 宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。それからして天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました。そこでイザナギの命は、地下の世界を訪れ、またこの國に歸つて、禊をして日の神と月の神とが目を洗う時に現われ、海水に浮き沈みして身を洗う時に、さまざまの神が出ました。それ故に最古の時代は、くらくはるかのあちらですけれども、前々からの教によつて國土を生み成した時のことを知り、先の世の物しり人によつて神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。
 ほんとにそうです。神々が賢木の枝に玉をかけ、スサノヲの命が玉を噛んで吐いたことがあつてから、代々の天皇が續き、天照らす大神が劒をお噛みになり、スサノヲの命が大蛇を斬つたことがあつてから、多くの神々が繁殖しました。神々が天のヤスの川の川原で會議をなされて、天下を平定し、タケミカヅチノヲの命が、出雲の國のイザサの小濱で大國主の神に領土を讓るようにと談判されてから國内をしずかにされました。
 これによつてニニギの命が、はじめてタカチホの峯にお下りになり、神武天皇がヤマトの國におでましになりました。この天皇のおでましに當つては、ばけものの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジによつて劒をお授けになり、尾のある人が路をさえぎつたり、大きなカラスが吉野へ御案内したりしました。人々が共に舞い、合圖の歌を聞いて敵を討ちました。そこで崇神天皇は、夢で御承知になつて神樣を御崇敬になつたので、賢明な天皇と申しあげますし、仁徳天皇は、民の家の煙の少いのを見て人民を愛撫されましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。成務天皇は近江の高穴穗の宮で、國や郡の境を定め、地方を開發され、允恭天皇は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりました。それぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、華やかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあつても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによつて衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。
 飛鳥の清原の大宮において天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。しかしながら時がまだ熟しませんでしたので吉野山に入つて衣服を變えてお隱れになり、人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。武器が威勢を現わして強い將士がたくさん立ちあがり、赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のように破れました。まだ十二日にならないうちに、惡氣が自然にしずまりました。そこで軍に使つた牛馬を休ませ、なごやかな心になつて大和の國に歸り、旗を卷き武器を納めて、歌い舞つて都におとどまりになりました。そうして酉の年の二月に、清原の大宮において、天皇の位におつきになりました。その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさつていました。神器を手にして天下を統一し、正しい系統を得て四方八方を併合されました。陰と陽との二つの氣性の正しいのに乘じ、木火土金水の五つの性質の順序を整理し、貴い道理を用意して世間の人々を指導し、すぐれた道徳を施して國家を大きくされました。そればかりではなく、知識の海はひろびろとして古代の事を深くお探りになり、心の鏡はぴかぴかとして前の時代の事をあきらかに御覽になりました。
 ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは國家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う」と仰せられました。その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。
 謹んで思いまするに、今上天皇陛下(元明天皇)は、帝位におつきになつて堂々とましまし、天地人の萬物に通じて人民を正しくお育てになります。皇居にいまして道徳をみちびくことは、陸地水上のはてにも及んでいます。太陽は中天に昇つて光を増し、雲は散つて晴れわたります。二つの枝が一つになり、一本の莖から二本の穗が出るようなめでたいしるしは、書記が書く手を休めません。國境を越えて知らない國から奉ります物は、お倉にからになる月がありません。お名まえは夏の禹王よりも高く聞え御徳は殷の湯王よりもまさつているというべきであります。そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました。
 しかしながら古代にありましては、言葉も内容も共に素朴でありまして、文章に作り、句を組織しようと致しましても、文字に書き現わすことが困難であります。文字を訓で讀むように書けば、その言葉が思いつきませんでしようし、そうかと言つて字音で讀むように書けばたいへん長くなります。そこで今、一句の中に音讀訓讀の文字を交えて使い、時によつては一つの事を記すのに全く訓讀の文字ばかりで書きもしました。言葉やわけのわかりにくいのは註を加えてはつきりさせ、意味のとり易いのは別に註を加えません。またクサカという姓に日下と書き、タラシという名まえに帶の字を使うなど、こういう類は、もとのままにして改めません。大體書きました事は、天地のはじめから推古天皇の御代まででございます。そこでアメノミナカヌシの神からヒコナギサウガヤフキアヘズの命までを上卷とし、神武天皇から應神天皇までを中卷とし、仁徳天皇から推古天皇までを下卷としまして、合わせて三卷を記して、謹んで獻上いたします。わたくし安萬侶、謹みかしこまつて申しあげます。

 和銅五年正月二十八日
 正五位の上勳五等 太の朝臣安萬侶

     現代語訳は、武田祐吉「校註 古事記」(青空文庫)による。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1428年(正長元)正長の土一揆で京都・醍醐附近の地下人が徳政を要求して蜂起する(新暦10月26日)詳細
1868年(明治元)日本画家横山大観の誕生日(新暦11月2日)詳細
1869年(明治2)東京・築地に明治新政府により海軍操練所海軍兵学校の前身)が設立される(新暦10月22日)詳細
1927年(昭和2)小説家徳富蘆花の命日(蘆花忌)詳細


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 今日は、古墳時代の雄略天皇23年(479年?)に、第21代の天皇とされる雄略天皇の亡くなった日(『日本書紀』による)です。
 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は、生年は不詳ですが、父は允恭天皇の第五皇子(母は忍坂大中姫命)とされ、名は『日本書紀』では大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)、『古事記』では大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)とされてきました。記紀によれば、同母兄の安康天皇を殺害した眉輪王(まゆわのおおきみ)を誅し、さらに履中天皇の皇子の市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)らをも殺して、泊瀬朝倉宮に即位したとされています。
 平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を大臣に、大伴連室屋と物部連目を大連とし、秦氏や漢氏をはじめ渡来人をも重用して王権を強化、諸氏族の反乱を鎮圧し、朝鮮半島の乱れに乗じて、百済や新羅、高麗への影響力強化を画策するなど、対外関係においても注目すべきことが伝えられてきました。また、『宋書』倭国伝にみえる倭王武は雄略天皇に比定され、478年に南朝宋へ遣使上表し、「使持節都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸事事安東大将軍倭王」に任命され、『南斉書』には479年に倭王武が鎮東大将軍になったと記されています。
 そして、『日本書紀』によれば、雄略天皇22年1月1日に白髪皇子(後の22代清寧天皇)を皇太子とし、翌年8月7日に病いのために数え年62歳で亡くなり、陵墓は丹比高鷲原陵(現在の大阪府羽曳野市島泉)とされてきました。尚、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘「獲加多支鹵大王」と熊本県江田船山古墳出土大刀銘「獲〇〇〇鹵大王」は、雄略天皇に比定されています。
 以下に、参考のため『宋書』倭国伝を掲載しておきましたので、御参照下さい。

〇『宋書』倭国伝とは?

 中国の『宋書』夷蛮伝の東夷の条に属している倭国伝のことです。『宋書』は、中国南朝の宋(420 ~ 479年)について書かれた歴史書、本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体のもので、沈約が斉の武帝に命ぜられて編纂しました。夷蛮伝は、宋朝と諸国の交渉記事中心に記述されていて、倭国伝には、“倭の五王”(讃・珍・済・興・武)と呼ばれる日本の支配者から朝貢が行われたことが書かれています。その中で、讃は応神・仁徳・履中のいずれか、珍は仁徳か反正、済は允恭、興は安康、武は雄略の各天皇に比定されてきました。ここに記された武(雄略天皇)の上表文は有名です。

☆『宋書』倭国伝

<原文>

倭國在高驪東南大海中丗修貢職
髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授
太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽
二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王
二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡濟死丗子興遣貢獻
丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王
順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無朁前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王

<読み下し文>

倭国は高驪[1]の東南、大海の中にあり、世々貢職[2]を修む。
高祖[3]の永初二年[4]、詔して日く、「倭の讃[5]、万里[6]貢を修む。遠誠宣しくあらわすべく、除授を賜ふ[7]べし」と。
太祖[8]の元嘉二年[9]、讃[5]また司馬曹達を遣わして表を奉り方物[10]を献ず。
讃[5]死して弟珍[11]立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督[12]倭・百済[13]・新羅[14]・任那[15]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられん[18]ことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。
珍[11]また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。
二十年、倭国王済[19]、使を遣はして奉献す。また以て安東将軍倭国王となす。
二十八年、使持節都督[12]倭・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事を加ふ。安東将軍は故の如し。ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。済[19]死す。世子[21]興[22]、使を遣わして貢献す。
世祖[23]の大明六年[24]、詔して曰く、「倭王世子[21]興[22]、奕世戴ち忠、藩[25]を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職[2]を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」と。興[22]死して弟武[26]立ち、自ら使持節都督[12]倭・百済[13]・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。
順帝[27]の昇明二年[28]、使を遣わして上表[29]して曰く、「封国[30]は偏遠にして、藩[25]を外に作す[31]。昔より祖禰[32]、躬ら甲冑を環き、山川を跋渉[33]して、寧処[34]に遑あらず。東は毛人[35]を征すること五十五国、西は衆夷[36]を服すること六十六国を渡りて海北[37]を平ぐること九十九国。王道融泰[38]にして、土を廓き畿を遐にす累葉朝宗して歳に愆たず。臣、下愚[39]なりといえども、忝なくも先緒[40]を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極[41]に帰崇[42]し、道百済[13]を遙て、船舫[43]を装治[44]す。而るに句驪[45]無道[46]にして、図りて見呑せんと欲し、辺隷[47]を掠抄[48]し、虔劉[49]して巳まず。毎に稽滞[50]を致し、以って良風を失い、路に進と日うと雖も、或は通じ或は不らず。臣が亡考済[19]、実に寇讐[51]の天路を壅塞[52]するを忿り、控弦[53]百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功[54]をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇[55]にあり兵甲[56]を動かさず。これを以て、偃息[57]して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父・兄の志しを申べんと欲す。義士[58]虎賁[59]、文武功を効し、自刃前に交わるとも亦顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司[60]を仮し、その余は咸な仮授[61]して以て忠節を勧む」と。詔して武[26]を使持節都督[12]倭・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事安東大将軍倭王に叙す。

【注釈】

[1]高驪:こうらい=高句麗。朝鮮三国の一つで、朝鮮半島北部にあった。
[2]貢職:こうしょく=貢物。貢献物。
[3]高祖:こうそ=宋の初代皇帝武帝。
[4]永初二年:えいしょにねん=武帝の年号で、西暦では421年。
[5]讃:さん=応神天皇、仁徳天皇、履中天皇に比定する説がある。
[6]万里:ばんり=非常に遠い距離。きわめて遠いこと。
[7]除授を賜ふ:じょじゅをたまふ=官職・爵位を授ける。
[8]太祖:たいそ=宋の第三代皇帝文帝。
[9]元嘉二年:げんかにねん=文帝の年号で、西暦では425年。
[10]方物:ほうぶつ=その地方の産物。土産。
[11]珍:ちん=仁徳天皇、反正天皇に比定する説がある。
[12]使持節都督:しじせつととく=支配を委ねられた地域の最上級軍政官。
[13]百済:くだら=朝鮮三国の一つで、朝鮮半島南西部にあった。
[14]新羅:しらぎ=朝鮮三国の一つで、朝鮮半島南東部にあった。
[15]任那:みなま=朝鮮半島南部にあった日本の植民地。
[16]秦韓:しんかん=朝鮮半島南東部の地域。
[17]慕韓:ぼかん=朝鮮半島南西部の地域。
[18]表して除正せられん:ひょうしてじょせいせられん=文書で正式に任命されること。
[19]済:せい=允恭天皇に比定されている。
[20]加羅:から=任那諸国中の一国。
[21]世子:せし=跡継ぎ。
[22]興:こう=安康天皇に比定されている。
[23]世祖:せそ=宋の第四代皇帝孝武帝。
[24]大明六年:だいめいろくねん=孝武帝の年号で、西暦では462年。
[25]藩:はん=領域のこと。
[26]武:ぶ=雄略天皇に比定されている。
[27]順帝:じゅんてい=宋の第八代皇帝順帝。
[28]昇明二年:しょうめいにねん=順帝の年号で、西暦では478年。
[29]上表:じょうひょう=君主に文書をたてまつること。また、その文書。上書。上疏。
[30]封国:ほうこく=王として封ぜられた国。宋から支配を任された国。
[31]外に作す:そとになす=遠いところにある。
[32]祖禰:そでい=祖先。
[33]跋渉:ばっしょう=山野を越え、川をわたり、各地を歩き回ること。
[34]寧処:ねいしょ=やすらかな所。安んずる処。また、やすらかに居ること。
[35]毛人:もうじん=東方の服属していない人々。蝦夷か?
[36]衆夷:しゅうい=西方の服属していない人々。九州南部か?
[37]海北:かいほく=朝鮮半島か?
[38]融泰:ゆうたい=行き届いていて、平安である。
[39]下愚:かぐ=はなはだ愚かであること。また、その人。至愚。
[40]先緒:せんしょ=先人の遺した事業。先祖の遺業。前緒。
[41]天極:てんきょく=地軸の延長と天球との交点。北極星。
[42]帰崇:きすう=すぐれたものを深く信仰し、その教えに従い、その威徳を仰ぎ、尊び信じること。
[43]船舫:ふなもやい=船をつなぎとめること。船を進めないで一か所に止めておくこと。ふなもよい。
[44]装治:そうち=旅装を整える。旅支度をする。
[45]句驪:くり=高句麗のこと。
[46]無道:ぶどう=人の道にはずれること。また、そのさま。非道。
[47]辺隷:へんれい=国境の人民。
[48]掠抄:りゃくしょう=かすめとること。
[49]虔劉:けんりゅう=むりに奪いとったり、殺したりする。
[50]稽滞:けいりゅう=とどこおる。停留。
[51]寇讐:こうしゅう=敵。かたき。
[52]壅塞:ようそく=ふさぐこと。また、ふさがること。
[53]控弦:こうげん=弓を引くこと。また、その兵士。
[54]垂成の功:すいせいのこう=完全な成功。
[55]諒闇:りょうあん=天皇が、その父母の死にあたり喪に服する期間。
[56]兵甲:へいこう=武器と甲冑(かっちゅう)。転じて、兵士。また、いくさ。
[57]偃息:えんそく=くつろいでやすむこと。休息。
[58]義士:ぎし=義を守り行なう士。節義の人。高節の士。義人。
[59]虎賁:こほん=剛勇をもって主君に仕える人。
[60]開府儀同三司:かいふぎどうさんし=従一位の唐名。もと中国の官名で、漢代末期から開府の制度がはじまり、その中でとくに重んぜられて、三公(三司)と同じ儀制を認められた者の呼び名。
[61]仮授:かじゅ=許し授ける。

<現代語訳>

倭国は高句麗の東南の大海の中にあって、代々貢物を送ってきていた。
高祖(宋の武帝)の永初2年(421年)に、詔して言うには、「倭王の讃は、とても遠い所から貢物を献上してきた。遠方からの誠意に報いて、官職を授けよう。」と。
太祖(宋の文帝)の元嘉2年(425年)、讃王はまた司馬曹達を遣わして、上表文を奉り、倭の特産物を献上した。
讃王が死んで、弟の珍が王となった。使者を遣わして貢物を献上し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、文書で正式に任命されることを求めてきた。詔を下して安東将軍倭国王に任じた。
珍王はまた倭隋等13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に任命されんことを求めた。詔を下して同じように聞き入れた。
元嘉20年(443年)、倭国王の済は、使者を遣わして貢物を献上してきた。そこで安東将軍倭国王に任命した。
元嘉28年(451年)、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の官職を加え、安東将軍はそのままとした。同じく上奏していた23人を将軍や郡長官に任命した。済王が死に、跡継ぎの興が、使者を遣はして貢物を献上してきた。
世祖(宋の孝武帝)の大明6年(462年)、詔して言うには、「倭王の跡継ぎ興は、これまでと変わらず忠節を重ね、領域を守る外海の垣根となり、中国の感化をうけて辺境を守り、うやうやしく貢物を献上し、新たにその守りを嗣いだ。よろしく爵号を授けるべきで、安東将軍倭国王とする。」と。興王が死に、弟の武が王となり、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称した。
宋の順帝の昇明2年(478年)、使者を遣わして上表文を奉って言うには、「封ぜられた国ははるか遠くにあり、領域の外側を形成しています。昔より祖先は、自ら甲冑を身に着け、山野を越え、川をわたり、各地を歩き回って、安んずる暇もありませんでした。東は蝦夷を征すること55国、西は熊襲等を服属させること66国、海を渡って朝鮮半島を平定すること99国となります。王権が行き届いて平安で、封土も広大です。我が国は先祖代々中国の天子に拝謁するのに、毎年時節をたがえ誤ることはありませんでした。私は、はなはだ愚かではありますが、かたじけなくも先祖の遺業を継いで、統治下にある人々を駆り率い、中国の教えに従い、その威徳を仰ぎ、尊び信じ、往来の道は百済を経由すべく、船をつなぎとめて旅装を整えています。しかし、高句麗は人の道にはずれ、はかりごとをしてこれを飲み込もうとして、国境の人民を略奪、殺害しています。そのどれもが滞ってしまい、従って良い風を失い、航路を進もうとしても、あるいは通じ、あるいは通ぜずといった状態です。わたくしの亡父の済は、実に敵(高句麗)の中国への路をふさぐことを怒り、弓矢をもつ兵士百万、正義の声に感激して、まさに大挙して向かおうとしましたが、にわかに父(済王)と兄(興王)を失ってしまい、完全な成功を成すための最後の一撃を加えることが出来ませんでした。そのまま喪に服する期間にあたり、兵士を動かさず。このようなわけで、休止せざるを得ず、いまだに戦いに勝つことが出来ないでいます。今に至って、武器を整え兵を訓練して、父・兄の志しを果たしたいと欲しています。義士も勇士も文官も武官も力を発揮して、敵と刃を交えようともおのれを顧み怯むことなどありません。もし皇帝の徳を以て援護していただけたら、この強敵を打ち破ることも、また我が地の乱れを収めることも、今までの功績に見劣りすることなどはないでしょう。ひそかに自ら開府儀同三司の任を負わせ、その他の部下・諸将にもみな許し授けていただければ、もって忠節を勧むでしょう。」と。詔を下して、武王を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命した。

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 今日は、奈良時代の712年(和銅5)に、太安万侶が編纂した『古事記』が完成し、元明天皇に献上された日ですが、新暦では3月9日となります。
 『古事記』は、奈良時代の元明天皇の勅命により、太安万侶が、稗田阿礼のそらんじていた帝紀・旧辞などを筆録した日本最古の歴史書で、712年(和銅5)元明天皇に献進されました。3巻からなり、内容は上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説・歌謡などを含んでいます。
 江戸時代後期から偽書説がありますが、学界の大勢はこれを認めるに至っておらず、近年はあまり言われなくなってきました。
 以下に、『古事記』の序文(原文・読み下し文・現代語訳)を全部載せておきます。

☆『古事記』の序文

古事記上卷 幷序

 臣安萬侶言。
 夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。所以、出入幽顯、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。故、太素杳冥、因本教而識孕土產嶋之時、元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世。
 寔知、懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬神蕃息與。議安河而平天下、論小濱而淸國土。
 是以、番仁岐命、初降于高千嶺、神倭天皇、經歷于秋津嶋。化熊出川、天劒獲於高倉、生尾遮徑、大烏導於吉野、列儛攘賊、聞歌伏仇。卽、覺夢而敬神祇、所以稱賢后。望烟而撫黎元、於今傳聖帝。定境開邦、制于近淡海、正姓撰氏、勒于遠飛鳥。雖步驟各異文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽・照今以補典教於欲絶。
 曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世、濳龍體元、洊雷應期。開夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然、天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎步於東國、皇輿忽駕、淩渡山川、六師雷震、三軍電逝、杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解、未移浹辰、氣沴自淸。乃、放牛息馬、愷悌歸於華夏、卷旌戢戈、儛詠停於都邑。歲次大梁、月踵夾鍾、淸原大宮、昇卽天位。道軼軒后、德跨周王、握乾符而摠六合、得天統而包八荒、乘二氣之正、齊五行之序、設神理以奬俗、敷英風以弘國。重加、智海浩汗、潭探上古、心鏡煒煌、明覩先代。
 於是天皇詔之「朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭、既違正實、多加虛僞。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。」時有舍人、姓稗田、名阿禮、年是廿八、爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。卽、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。然、運移世異、未行其事矣。
 伏惟、皇帝陛下、得一光宅、通三亭育、御紫宸而德被馬蹄之所極、坐玄扈而化照船頭之所逮、日浮重暉、雲散非烟、連柯幷穗之瑞、史不絶書、列烽重譯之貢、府無空月。可謂名高文命、德冠天乙矣。
 於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者、謹隨詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字卽難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之內、全以訓錄。卽、辭理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改。
 大抵所記者、自天地開闢始、以訖于小治田御世。故、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前、爲上卷、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前、爲中卷、大雀皇帝以下、小治田大宮以前、爲下卷、幷錄三卷、謹以獻上。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

 和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶

<読み下し文>

 臣安万侶言さく、
 夫れ混元既に凝りて、気象未だ效れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分れて、参神造化の首と作り、陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為りき。所以に幽顕に出入りして、日月目を洗うに彰れ、海水に浮沈して、神祗身を漱ぐに呈る。故、太素は杳冥なれども、本教によりて而土を孕み嶋を産みし時を識り、元始は綿?なれども、先聖に頼りて、神を生み人を立てし世を察る。
 寔に知る、鏡を懸け、珠を吐きて、百王相續ぎ、剣を喫み釼蛇を切りて、萬神蕃息せしことを。安河に議りて天下平け、小濱に論ひて国土を清めき。
 是を以ちて番仁岐命。初めて高千嶺に降り、神倭天皇、秋津嶋に經歴したまひき。化熊川を出でて。天釼を高倉に獲、生尾徑を遮りて、大烏吉野に導きき。?を列ねて賊を攘ひ、歌を聞きて仇を伏はしむ。即ち夢に覺りて神祇を敬ひたまひき。所以に賢后と称す。烟を望みて黎元を撫でたまひき。今に聖帝と云ふ。境を定めて邦を開きて、近淡海を制め、姓を正して氏を撰び、遠飛鳥を勒めたまいき。歩驟各異に、文質同じからずといえども、莫不古を稽へて風猷を既に頽れたるに繩し。今に照らして典教を絶えむとするに補はずということなし。
 飛鳥の清原の大宮に、大八洲にしらしめし天皇の御世に曁りて、濳龍元を体し。?雷期に応じき。夢の歌を聞きて而業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまいひき。然れども天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共洽わりて、東国に虎歩したまいき。皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を挙げて、猛士烟のごとく起り、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。未だ浹辰移さずして、氣?自ら清まりき。乃ち牛を放ち馬を息へ。愷悌して華夏に帰り。旌を巻き戈をおさめ、舞詠して都邑に停まりたまひき。
 歳大梁に次り、月侠鍾に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。道は軒后に軼ぎ、徳は周王に跨えたまひき。乾符を握りて六合を摠べ、天統を得て八荒を包ねたまひき。二氣の正しきに乗り、五行の序を齊へ、神理を設けて俗を奬め、英風を敷きて国を弘めたまいき。重加、智海は浩瀚として、潭く上古を探り、心鏡は?煌として、明らかに先代を観たまひき。
 ここに天皇詔りたまわく、「朕聞く、諸家のもてる帝紀および本辭、既に正實に違ひ、多く虚僞を加ふと、今の時にあたり、その失を改めずは、いまだ幾年を経ずして、その旨、滅びなむとす。これすなわち邦家の經緯、王化の鴻基なり。故、これ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り、実を定實めて、後の葉に流へむと欲ふ」とのりたまひき。時に舍人、有り。姓は稗田、名は阿禮。年はこれ廿八。人と爲り聰明にして、。目に度れば、口に誦み、耳に拂るれば心に勒す。即ち阿禮に勅語して、帝皇の日繼及び、先代の旧辞を誦に習はしめたまひき。然れども運移り世異りて。未だその事を行ひたまはざりき。
 伏して惟うに皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。紫宸に御して徳は馬の蹄の極まる所に被び、玄扈に坐して化は船の頭の逮ぶ所を照らしたまふ。日浮かびて暉を重ね、雲散ちりて烟に非ず。柯を連ね穗を并す瑞、史書すことを絶たず、烽を列ね訳を重むる貢、府空しき月無し。名は文命よりも高く、徳は天乙にも冠りたまへりと謂ひつべし。
 ここに舊辭の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れると正さむとして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔りして、稗田阿禮が誦む所の勅語の舊辭を撰録して、獻上せしむといへれば、謹みて詔旨のまにまに、子細に採り摭ひぬ。
 然れども上古の時は、言と意を並朴にして、文を敷き句を構ふること、字におきて即ち難し。已に訓によりて述べたるは、詞心におよばず。全く音を以て連ねたるは、事の趣さらに長し。是をもちて今、或は一句の中に、音訓を交いて用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録す。即ち、辭理の見えがたきは、注を以ちて明かにし、意况の解り易きは更に注せず。また姓おきて日下を玖沙訶といひ、名におきて帶の字を多羅斯といふ。かくの如き類は、本のままに改ず。大抵記す所は、天地の開闢より始めて。于小治田の御世に訖る。故、天御中主神以下、日子波限建鵜
草葺不合尊以前を上卷となし、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前を中卷となし、大雀皇帝以下、小治田大宮以前を下卷となし、并せて三卷に録して、謹みて獻上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。
 和銅五年正月二十八日。
 正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上。
 
<現代語訳>

 わたくし安萬侶が申しあげます。
 宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。それからして天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました。そこでイザナギの命は、地下の世界を訪れ、またこの國に歸つて、禊をして日の神と月の神とが目を洗う時に現われ、海水に浮き沈みして身を洗う時に、さまざまの神が出ました。それ故に最古の時代は、くらくはるかのあちらですけれども、前々からの教によつて國土を生み成した時のことを知り、先の世の物しり人によつて神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。
 ほんとにそうです。神々が賢木の枝に玉をかけ、スサノヲの命が玉を噛んで吐いたことがあつてから、代々の天皇が續き、天照らす大神が劒をお噛みになり、スサノヲの命が大蛇を斬つたことがあつてから、多くの神々が繁殖しました。神々が天のヤスの川の川原で會議をなされて、天下を平定し、タケミカヅチノヲの命が、出雲の國のイザサの小濱で大國主の神に領土を讓るようにと談判されてから國内をしずかにされました。
 これによつてニニギの命が、はじめてタカチホの峯にお下りになり、神武天皇がヤマトの國におでましになりました。この天皇のおでましに當つては、ばけものの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジによつて劒をお授けになり、尾のある人が路をさえぎつたり、大きなカラスが吉野へ御案内したりしました。人々が共に舞い、合圖の歌を聞いて敵を討ちました。そこで崇神天皇は、夢で御承知になつて神樣を御崇敬になつたので、賢明な天皇と申しあげますし、仁徳天皇は、民の家の煙の少いのを見て人民を愛撫されましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。成務天皇は近江の高穴穗の宮で、國や郡の境を定め、地方を開發され、允恭天皇は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりました。それぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、華やかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあつても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによつて衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。
 飛鳥の清原の大宮において天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。しかしながら時がまだ熟しませんでしたので吉野山に入つて衣服を變えてお隱れになり、人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。武器が威勢を現わして強い將士がたくさん立ちあがり、赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のように破れました。まだ十二日にならないうちに、惡氣が自然にしずまりました。そこで軍に使つた牛馬を休ませ、なごやかな心になつて大和の國に歸り、旗を卷き武器を納めて、歌い舞つて都におとどまりになりました。そうして酉の年の二月に、清原の大宮において、天皇の位におつきになりました。その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさつていました。神器を手にして天下を統一し、正しい系統を得て四方八方を併合されました。陰と陽との二つの氣性の正しいのに乘じ、木火土金水の五つの性質の順序を整理し、貴い道理を用意して世間の人々を指導し、すぐれた道徳を施して國家を大きくされました。そればかりではなく、知識の海はひろびろとして古代の事を深くお探りになり、心の鏡はぴかぴかとして前の時代の事をあきらかに御覽になりました。
 ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは國家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う」と仰せられました。その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。
 謹んで思いまするに、今上天皇陛下(元明天皇)は、帝位におつきになつて堂々とましまし、天地人の萬物に通じて人民を正しくお育てになります。皇居にいまして道徳をみちびくことは、陸地水上のはてにも及んでいます。太陽は中天に昇つて光を増し、雲は散つて晴れわたります。二つの枝が一つになり、一本の莖から二本の穗が出るようなめでたいしるしは、書記が書く手を休めません。國境を越えて知らない國から奉ります物は、お倉にからになる月がありません。お名まえは夏の禹王よりも高く聞え御徳は殷の湯王よりもまさつているというべきであります。そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました。
 しかしながら古代にありましては、言葉も内容も共に素朴でありまして、文章に作り、句を組織しようと致しましても、文字に書き現わすことが困難であります。文字を訓で讀むように書けば、その言葉が思いつきませんでしようし、そうかと言つて字音で讀むように書けばたいへん長くなります。そこで今、一句の中に音讀訓讀の文字を交えて使い、時によつては一つの事を記すのに全く訓讀の文字ばかりで書きもしました。言葉やわけのわかりにくいのは註を加えてはつきりさせ、意味のとり易いのは別に註を加えません。またクサカという姓に日下と書き、タラシという名まえに帶の字を使うなど、こういう類は、もとのままにして改めません。大體書きました事は、天地のはじめから推古天皇の御代まででございます。そこでアメノミナカヌシの神からヒコナギサウガヤフキアヘズの命までを上卷とし、神武天皇から應神天皇までを中卷とし、仁徳天皇から推古天皇までを下卷としまして、合わせて三卷を記して、謹んで獻上いたします。わたくし安萬侶、謹みかしこまつて申しあげます。

 和銅五年正月二十八日
 正五位の上勳五等 太の朝臣安萬侶

     現代語訳は、武田祐吉「古事記-現代語訳古事記-」(青空文庫)による。
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 今日は、『古事記』の編者太安万侶が、723年(養老7)に亡くなった日ですが、新暦に換算すると8月11日となります。
 太安万侶(おおのやすまろ)は、奈良時代の文官で、名は安萬侶、安麻呂とも記され、生年は不詳ですが、父は壬申の乱で功績のあった多品治とされています。
 711年(和銅4)に、元明天皇の命で『古事記』の編纂に着手し、天武朝に稗田阿礼が誦習した帝紀や旧辞を再整理し、712年(和銅5)『古事記』三巻として撰進し、日本書紀の編纂にもあたったといわれています。
 1979年(昭和54)に、奈良県奈良市此瀬町の茶畑で墓が発見され、埋葬されていた墓誌から平城京左京四条四坊に住み、官位は従四位下勲五等、723年(養老7)7月6日に歿したことなどがわかり、話題となりました。
 墓は『太安萬侶墓』として1980年(昭和55)に国の史跡に指定され、『太安萬侶墓誌』は、1981年(昭和56)に国の重要文化財になりました。

〇『古事記』とは?
 奈良時代の元明天皇の勅命により、太安万侶が、稗田阿礼のそらんじていた帝紀・旧辞などを筆録した日本最古の歴史書で、712年(和銅5)に献進されました。
 3巻からなり、内容は上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説・歌謡などを含んでいます。
 以下に、『古事記』の冒頭部分を載せておきます。

☆『古事記』の冒頭部分
古事記上卷 幷序

臣安萬侶言。夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。所以、出入幽顯、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。故、太素杳冥、因本教而識孕土產嶋之時、元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世。寔知、懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬神蕃息與。議安河而平天下、論小濱而淸國土。
是以、番仁岐命、初降于高千嶺、神倭天皇、經歷于秋津嶋。化熊出川、天劒獲於高倉、生尾遮徑、大烏導於吉野、列儛攘賊、聞歌伏仇。卽、覺夢而敬神祇、所以稱賢后。望烟而撫黎元、於今傳聖帝。定境開邦、制于近淡海、正姓撰氏、勒于遠飛鳥。雖步驟各異文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽・照今以補典教於欲絶。
曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世、濳龍體元、洊雷應期。開夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然、天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎步於東國、皇輿忽駕、淩渡山川、六師雷震、三軍電逝、杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解、未移浹辰、氣沴自淸。乃、放牛息馬、愷悌歸於華夏、卷旌戢戈、儛詠停於都邑。歲次大梁、月踵夾鍾、淸原大宮、昇卽天位。道軼軒后、德跨周王、握乾符而摠六合、得天統而包八荒、乘二氣之正、齊五行之序、設神理以奬俗、敷英風以弘國。重加、智海浩汗、潭探上古、心鏡煒煌、明覩先代。
(以下略)
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