ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:劇作家

kinoshitaj01
 今日は、平成時代の2006年(平成18)に、劇作家木下順二の亡くなった日です。
 木下順二(きのした じゅんじ)は、大正時代の1914年(大正3)8月2日に、東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれましたが、第二女子師範附属小学校を経て郷里熊本市に戻りました。旧制熊本中学(現在の県立熊本高等学校)、旧制第五高等学校を経て、1936年(昭和11)に東京帝国大学文学部英文科に入学します。
 中野好夫のもとでシェイクスピアを専攻し、1939年(昭和14)に卒業後、大学院へ進み、法政大学講師となり、1941年(昭和16)には、修士課程を修了しました。1943年(昭和18)には、民話を素材に、『鶴女房』『二十二夜待ち』『彦市(ひこいち)ばなし』などを書きます。
 太平洋戦争後、1946年(昭和21)に明治大学講師(演劇)となり、1947年(昭和22)には、山本安英らと劇団「ぶどうの会」を結成しました。1949年(昭和24)に『夕鶴』で毎日演劇賞、1954年(昭和29)に『風浪』で第1回岸田演劇賞を受賞、1955年(昭和30)には、アジア諸国会議や世界平和大会に参加するなど良心的、進歩的な活動にも参加します。
 1959年(昭和34)に『日本民話選』で第6回産経児童出版文化賞、『ドラマの世界』で第13回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)、1966年(昭和41)には、『無限軌道』で、第20回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞するなど、リアリズム演劇でも、戦後の演劇界を代表する存在となりました。1967年(昭和42)に山本安英らと「ことばの勉強会」を開始し、1979年(昭和54)には、『子午線の祀り』で第30回読売文学賞、翌年には、この上演により第21回毎日芸術賞を受賞しています。
 1984年(昭和59)に日本芸術院会員に選ばれたが辞退、1985年(昭和60)に『ぜんぶ馬の話』で第36回読売文学賞(随筆部門)、1986年(昭和61)に「夕鶴」「子午線の祀り」など、長年にわたる劇作活動で朝日賞、1990年(平成2)には、『木下順二集』ほかで第31回毎日芸術賞を受賞しました。1992年(平成4)に『絵巻平家物語』を刊行し、第39回産経児童出版文化賞大賞、1995年(平成7)に『馬の文化叢書』でJRA賞馬事文化賞を受賞しましたが、1998年(平成10)には、東京都名誉都民に選ばれたものの辞退するなど、国家的名誉は一切受けず、元号法制化、小選挙区制度等の反対運動に参加するなどしています。
 2000年(平成12)に趣味で収集した国内有数の“馬の本”コレクション約3000冊を馬事文化財団に寄贈しましたが、2006年(平成18)10月30日に、東京都文京区において、肺炎により、92歳で亡くなりました。

〇木下順二の主要な著作

・脚本『赤い陣羽織』(1947年)
・脚本『夕鶴(ゆうづる)』(1949年)毎日演劇賞受賞
・脚本『山脈(やまなみ)』(1949年)
・脚本『暗い火花』(1950年)
・脚本『蛙(かえる)昇天』(1951年)
・脚本『風浪(ふうろう)』(1954年)岸田演劇賞受賞
・脚本『沖縄』(1961年)
・脚本『オットーと呼ばれる日本人』(1962年)
・小説『無限軌道』(1965年)
・脚本『神と人とのあいだ』2部(1972年)
・脚本『子午線の祀り』(1978年)読売文学賞受賞
・評論的な作品『戯曲の日本語』(1982年)
・小説『本郷』(1983年)
・脚本『巨匠』(1991年)
・『絵巻平家物語』(1992年)産経児童出版文化賞大賞受賞
・評論『“劇的”とは』(1995年)

☆木下順二関係略年表

・1914年(大正3)8月2日 東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれる
・1925年(大正14) 小学4年時、郷里熊本の小学校に転校する
・1933年(昭和8) 第五高等学校へ入学する 
・1936年(昭和11) 第五高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部英文科に入学する
・1939年(昭和14) 東京帝国大学英文科を卒業し、大学院へ進み、法政大学講師となる
・1941年(昭和16) 東京大学大学院文学部英文科修士課程を修了する
・1943年(昭和18) 民話を素材に、『鶴女房』『二十二夜待ち』『彦市(ひこいち)ばなし』などを書く
・1946年(昭和21) 明治大学講師(演劇)となる
・1947年(昭和22) 山本安英らと劇団「ぶどうの会」を結成する
・1949年(昭和24) 『夕鶴』で毎日演劇賞を受賞する
・1954年(昭和29) 『風浪』で第1回岸田演劇賞を受賞する
・1955年(昭和30) アジア諸国会議に参加する
・1959年(昭和34) 『日本民話選』で第6回産経児童出版文化賞、『ドラマの世界』で第13回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞する
・1966年(昭和41) 『無限軌道』で、第20回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞する
・1967年(昭和42) 山本安英らと「ことばの勉強会」を開始する
・1979年(昭和54) 『子午線の祀り』で第30回読売文学賞を受賞する
・1980年(昭和55) 『子午線の祀り』上演により第21回毎日芸術賞を受賞する
・1984年(昭和59) 日本芸術院会員に選ばれたが辞退する
・1985年(昭和60) 『ぜんぶ馬の話』で、第36回読売文学賞(随筆部門)を受賞する
・1986年(昭和61) 「夕鶴」「子午線の祀り」など、長年にわたる劇作活動で、朝日賞を受賞する
・1990年(平成2) 『木下順二集』ほかで第31回毎日芸術賞を受賞する
・1992年(平成4) 『絵巻平家物語』を刊行し、第39回産経児童出版文化賞大賞を受賞する
・1995年(平成7) 『馬の文化叢書』でJRA賞馬事文化賞を受賞する
・1998年(平成10) 東京都名誉都民に選ばれるが辞退する
・2000年(平成12) 趣味で収集した国内有数の“馬の本”コレクション約3000冊を馬事文化財団に寄贈する
・2006年(平成18)10月30日 東京都文京区において、肺炎により、92歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1850年(嘉永5)医師・蘭学者高野長英の命日詳細
1874年(明治7)評論家・イギリス文学者・翻訳家・詩人上田敏の誕生日詳細
1890年(明治23)「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」が発布される詳細
1903年(明治36)小説家尾崎紅葉の命日(紅葉忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」を出す詳細
1999年(平成11)上信越自動車道の中郷IC~上越JCT間が開通、藤岡JCTから長野県長野市を経て上越JCT間が全通する詳細
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kawaguchimatsutarou01
 今日は、明治時代後期の1899年(明治32)に、小説家・劇作家川口松太郎の生まれた日です。
 川口松太郎(かわぐち まつたろう)は、東京市浅草区今戸(現在の東京都台東区)で生まれ、左官職人、川口竹次郎の養子として入籍されました。山谷堀小学校卒業後、山谷町の質屋、浅草伝法院脇の古本の露天商、象潟警察署の給仕などの仕事を転々とし、1915年(大正4)の16歳の時、栃木県芳賀郡の祖母井郵便局に勤め、久保田万太郎に師事し、文章を書き始めます。
 翌年に、「流罪人藤助」を公団雑誌に発表、岩田専太郎との交流が始まり、1919年(大正8)には、講談師・悟道軒圓玉の元で住み込み口述筆記の作業を行う傍ら、江戸文芸、漢詩文などを学びました。1922年(大正11)に、坪内逍遥らが選者となって帝国劇場創立10周年記念の戯曲募集があり、応募した『出獄』が、永井龍男らとともに入選し、翌年には、小山内薫主宰の「劇と評論」に脚本『足袋』を投稿し、これが認められて大阪プラトン社に推薦されて入社、直木三十五らと共に、娯楽紙「苦楽」の編集を行います。
 1926年(大正15)に帰京し、小説や随筆、戯曲などを執筆するようになり、1930年(昭和5)頃から、『講談倶楽部』で、現代物小説や映画読物などを執筆、1931年(昭和6)から翌年にかけて連載した『女優情艶史』は評判が高くなりました。しかし、1933年(昭和8)に不良華族事件の捜査の過程で文士らによる常習賭博が明らかになり、久米正雄、 里見弴らとともに検挙され、罰金刑を受けます。
 1934年(昭和9)に「オール讀物」に掲載した明治時代の芸人世界を舞台にした人情もの『鶴八鶴次郎』の評判が良くなり、翌年には、『風流深川唄』、『明治一代女』と共に、第1回直木賞を受賞しました。1937年(昭和12)から翌年に欠けて「婦人俱楽部」に連載した、『愛染かつら』がベストセラーとなり、田中絹代・上原謙の主演による映画化も爆発的なヒットとなって、一躍花形作家となります。
 1940年(昭和15)に花柳章太郎らと共に、劇団新生新派主事となり、専属脚本化として長年にわたり脚本を書くことになりました。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に大映映画株式会社、制作担当専務取締役に就任し、1949年(昭和24)に直木賞が再開されると選考委員となります。
 1959年(昭和34)に毎日演劇賞、1963年(昭和38)に第11回菊池寛賞を受賞し、翌年には、文京区小石川水道町(現在の春日)へ転居しました。1966年(昭和41)に日本芸術院会員(第三部・演劇)、1969年(昭和44)に『しぐれ茶屋おりく』で、第3回吉川英治文学賞、1973年(昭和48)には、文化功労者と、数々の栄誉に輝きます。
 しかし、1982年(昭和57)に後妻・三益愛子に先立たれ、1985年(昭和60)6月9日に、東京の東京女子医科大学病院において、肺炎により、85歳で亡くなりました。

〇川口松太郎の主要な著作

・『鶴八鶴次郎』(1934年)第1回直木賞受賞
・『風流深川唄(うた)』(1935年)第1回直木賞受賞
・『明治一代女』(1935年)第1回直木賞受賞
・『愛染(あいぜん)かつら』(1937~38年)
・『夜の蝶(ちょう)』(1957年)
・『新吾十番勝負』(1957~59年)
・『飯と汁』(1960年)
・『破れかぶれ』(1965年)
・『しぐれ茶屋おりく』(1969年)第3回吉川英治文学賞受賞

☆川口松太郎関係略年表

・1899年(明治32)10月1日 東京市浅草区今戸(現在の東京都台東区)で生まれ、左官職人、川口竹次郎の養子として入籍される
・1915年(大正4) 16歳の時、栃木県芳賀郡の祖母井郵便局に勤め、久保田万太郎に師事し、文章を書き始める
・1916年(大正5) 17歳の時、「流罪人藤助」を公団雑誌に発表、岩田専太郎との交流が始まる
・1919年(大正8) 講談師・悟道軒圓玉の元で住み込み口述筆記の作業を行う傍ら、江戸文芸、漢詩文などを学ぶ
・1922年(大正11) 坪内逍遥らが選者となって帝国劇場創立10周年記念の戯曲募集があり、応募した『出獄』が、永井龍男らとともに入選する
・1923年(大正12) 小山内薫主宰の「劇と評論」に脚本「足袋」を投稿し、これが認められて大阪プラトン社に推薦され入社、直木三十五らと共に、娯楽紙「苦楽」の編集を行う
・1926年(大正15) 帰京し、小説や随筆、戯曲などを執筆する
・1930年(昭和5) この頃から、『講談倶楽部』で、現代物小説や映画読物などを執筆する
・1931年(昭和6) 翌年にかけて連載した『女優情艶史』は評判が高くなる
・1933年(昭和8) 不良華族事件の捜査の過程で文士らによる常習賭博が明らかになり、久米正雄、 里見弴らとともに検挙され、罰金刑を受ける
・1934年(昭和9) 「オール讀物」に掲載した明治時代の芸人世界を舞台にした人情もの『鶴八鶴次郎』の評判が良くなる
・1935年(昭和10) 『風流深川唄』『鶴八鶴次郎』『明治一代女』で、第1回直木賞を受賞する
・1937年(昭和12) 翌年に欠けて「婦人俱楽部」に連載した、『愛染かつら』がベストセラーとなり、田中絹代・上原謙の主演による映画化も爆発的なヒットとなって、一躍花形作家となります
・1940年(昭和15) 花柳章太郎らと共に、劇団新生新派主事となり、専属脚本化として長年にわたり脚本を書く
・1947年(昭和22) 大映映画株式会社、制作担当専務取締役に就任する
・1949年(昭和24) 直木賞が再開されると選考委員となる
・1959年(昭和34) 毎日演劇賞を受賞する
・1963年(昭和38) 第11回菊池寛賞を受賞する
・1964年(昭和39) 文京区小石川水道町(現在の春日)へ転居する
・1966年(昭和41) 日本芸術院会員(第三部・演劇)となる
・1969年(昭和44) 『しぐれ茶屋おりく』で、第3回吉川英治文学賞を受賞する
・1973年(昭和48) 文化功労者となる
・1982年(昭和57) 後妻・三益愛子に膵臓癌により71歳で先立たれる
・1985年(昭和60)6月9日 東京の東京女子医科大学病院において、肺炎により、85歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

684年(天武天皇13)八色の姓が制定される詳細
1555年(天文24)巌島の戦いで、毛利元就軍が陶晴賢軍を破る(新暦10月16日)詳細
1937年(昭和12)「防空法」(昭和12年法律第47号)が施行(公布は同年4月5日)される詳細
1955年(昭和30)新潟県新潟市で昭和新潟大火が起きる詳細
1964年(昭和39)東海道新幹線の東京~新大阪が開業する詳細
1997年(平成9)磐越自動車道が西会津IC~津川IC間の供用開始により、全線開通する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1958年(昭和33)に、劇作家・演出家・小説家・批評家久保栄の亡くなった日です。
 久保栄(くぼ さかえ)は、明治時代後期の1900年(明治33)12月28日に、北海道札幌市において、野幌煉瓦工場社長、札幌商工会議所会頭を務めた父・久保兵太郎の次男として生まれました。1903年(明治36)に伯父熊蔵の養子となり上京、しましたが、1906年(明治39)に養父母の離婚問題で札幌に預けられ、同地の小学校に入学、1910年(明治43)に養父の再婚に伴い再び上京しています。
 府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)を経て、1917年(大正6)に第一高等学校へ入学、この頃から『ホトトギス』『水甕(みずがめ)』に投稿するようになり、翌年に投稿作品「三人の木憔の話」「悪魔と若き人麿」が島崎藤村選透谷賞に当選しました。東京帝国大学文学部独文科に進学し、在学中に翻訳した「ホオゼ」が築地小劇場で上演され、1926年(大正15)に卒業後、築地小劇場文芸部に入り、小山内薫に師事するようになります。
 1929年(昭和4)に新築地劇団結成に参加し、翌年に第一戯曲『新説国姓爺合戦』を上演したものの、日本プロレタリア演劇同盟(プロット)に加盟、「プロレタリア演劇」の創刊にあたることになりました。1933年(昭和8)に戯曲『五稜郭血書』を発表、1934年(昭和9)にプロレタリア芸術運動への弾圧強化で、プロットを解散し、新協劇団を結成、藤村原作の「夜明け前」を演出、リアリズム演劇の再出発となります。
 1935年(昭和10)に「迷えるリアリズム」(都新聞)、「社会主義リアリズムと革命的(反資本主義)リアリズム」(文学評論)、「リアリズムの一般的表象」(都新聞)を発表し、1937年(昭和12)には、代表作の戯曲『火山灰地』を刊行しました。翌年この戯曲で、小野宮吉戯曲平和賞を受賞、同作を新協劇団で初演しましたが、1940年(昭和15)に新協劇団が強制解散させられ、新劇人事件で検挙され、公的活動を遠ざかっています。
太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、滝沢修らと東京芸術劇場を設立し、1947年(昭和22)には、戦後第一作の『林檎園日記』を上演しました。1950年(昭和25)に劇団民藝の創立に参加、長編小説『のぼり窯』(未完)の執筆を試みたりしたものの、1958年(昭和33)3月15日に、東京において入院中、うつ病が悪化し、57歳で自殺しています。

〇久保栄の主要な著作

・戯曲『火山灰地』2部作(1937~38年)
・戯曲『中国湖南省』(1932年)
・戯曲『五稜郭血書』(1933年)
・評論集『新劇の書』(1939年)
・戯曲『林檎園日記』(1947年)
・評伝『小山内薫』(1947年)
・小説『のぼり窯』第一部(1952年)
・戯曲『日本の気象』(1953年)
・戯曲『吉野の盗賊』(1953年)

☆久保栄関係略年表

・1900年(明治33)12月28日 北海道札幌市において、野幌煉瓦工場社長、札幌商工会議所会頭を務めた父・久保兵太郎の次男として生まれる
・1903年(明治36) 伯父熊蔵の養子となり上京、芝区西久保八幡町に住む
・1906年(明治39) 養父母の離婚問題で札幌に預けられ、同地の小学校に入学する
・1910年(明治43) 養父の再婚に伴い再び上京、京橋区木挽町に住む
・1917年(大正6) 第一高等学校へ入学する
・1918年(大正7) 投稿作品「三人の木憔の話」「悪魔と若き人麿」が島崎藤村選透谷賞に当選する
・1926年(大正15) 東京帝国大学独文科を卒業、築地小劇場文芸部に入り、小山内薫に師事する
・1929年(昭和4) 新築地劇団結成に参加する
・1930年(昭和5) 第一戯曲『新説国姓爺合戦』を上演、日本プロレタリア演劇同盟(プロット)に加盟、「プロレタリア演劇」の創刊にあたる
・1933年(昭和8) 戯曲『五稜郭血書』を発表する
・1934年(昭和9) プロレタリアへ芸術運動への弾圧強化で、プロットを解散し、新協劇団を結成、藤村原作の「夜明け前」を演出、リアリズム演劇の再出発となる
・1935年(昭和10) 「迷えるリアリズム」(都新聞)、「社会主義リアリズムと革命的(反資本主義)リアリズム」(文学評論)、「リアリズムの一般的表象」(都新聞)を発表する
・1937年(昭和12) 代表作戯曲『火山灰地』を刊行する
・1938年(昭和13) 戯曲『火山灰地』で、小野宮吉戯曲平和賞を受賞、同作を新協劇団で初演する
・1940年(昭和15) 新協劇団が強制解散させられ、新劇人事件で検挙される
・1945年(昭和20) 滝沢修らと東京芸術劇場を設立する
・1947年(昭和22) 戦後第一作の『林檎園日記』を上演する
・1950年(昭和25) 劇団民藝の創立に参加する
・1958年(昭和33)3月15日 東京において入院中、うつ病が悪化し、50歳で自殺する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)明治政府が、民政方針を示す「五榜の掲示」の高札を設置する(新暦4月7日)詳細
1875年(明治8)詩人蒲原有明の誕生日詳細
1884年(明治17)「地租条例」が公布される詳細
1890年(明治23)琵琶湖疎水の第一期工事が完成し、全線通水が完了する詳細
1914年(大正3)秋田県内陸南部を震源とする秋田仙北地震(マグニチュード7.1)が起き、大きな被害を出す詳細
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 今日は、昭和時代後期の1973年(昭和48)に、劇作家・演出家・作詞家菊田一夫の亡くなった日です。
 菊田一夫(きくた かずお)は、1908年(明治41)3月1日に、神奈川県横浜市において、西郷家に生まれましたが、生後4ヵ月で両親に連れられて台湾に渡りました。その後、両親に捨てられ、転々と他の人に養育されて、5歳の時に菊田家の養子になります。
 台湾城北小学校卒業直前に、大阪の薬種問屋に丁稚奉公に出され、1920年(大正9)には、神戸元町に移り住みました。それから、大阪・神戸で小僧をして夜学に学び、1923年(大正12)に結成された「元五青年団」の機関誌「桜草」の編集人を務めます。
 1925年(大正14)に上京し、印刷工として働き、1927年(昭和2)には、サトウハチロー門下となりました。その世話で、1929年(昭和4)に浅草公園劇場の文芸部に入り、翌年に玉木座の『阿呆(あほう)疑士迷々伝』で注目され、1933年(昭和8)には、古川ロッパらにより、浅草常盤座で旗揚げされた劇団「笑の王国」に座付き作家として迎え入れられます。
 1935年(昭和10)に古川ロッパが退団して東宝に所属となるとね翌年に東宝に移籍して東宝文芸部の主力となりました。1943年(昭和18)に戯曲『花咲く港』を発表、本格的な劇作家としてスタートしたものの、戦時中は岩手県江刺市(現在の奥州市)に疎開します。
 太平洋戦争後、東京に戻り、作曲家の古関裕而とコンビを組むようになり、1947年(昭和22)からラジオドラマ『鐘の鳴る丘』(~1950年)の放送を手掛け、注目されました。1952年(昭和27)にラジオドラマ『君の名は』(~1954年)の放送が開始されると、空前の大ヒットとなり、1953年(昭和28)には、松竹において、三部作で映画化されます。
 1955年(昭和30)に小林一三の招きで、東宝の取締役(演劇担当役員)に就任、1957年(昭和32)には、東宝芸術座を創設、東宝演劇部の総帥としての仕事に取り組みました。1959年(昭和44)に演劇『がめつい奴』(製作・脚本・演出)が初演され、翌年に菊池寛賞を受賞、1961年(昭和46)には、芸術選奨文部大臣賞(演劇部門)も受賞します。
 1963年(昭和48)に東宝劇場で『マイ・フェア・レディ』を制作・上演し、ミュージカル・ブームに火をつけ、1966年(昭和51)には、新装開場した帝劇で『風と共に去りぬ』を世界で初めて劇化し、上演しました。1970年(昭和55)に『風と共に去りぬ』をミュージカル化した『スカーレット』を帝劇で、次いでロンドン、パリで公演したものの、1973年(昭和48)4月4日に、東京・慶應義塾大学病院において、65歳で亡くなっています。
 尚、1975年(昭和50)に菊田の功績を記念し、演劇界の発展を願って「菊田一夫演劇賞」が東宝により創設(現在は一般社団法人映画演劇文化協会が主催)されました。

〇菊田一夫の主要な作品

・戯曲『花咲く港』(1943年)
・ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』(1947~50年)
・ラジオドラマ『君の名は』(1952~54年)
・戯曲『がめつい奴』(1959年)
・戯曲『がしんたれ』(1960年)
・戯曲『放浪記』(1961年)

☆菊田一夫関係略年表

・1908年(明治41)3月1日 神奈川県横浜市において、生まれる
・1908年(明治41) 生後4カ月で両親に連れられ台湾に渡る
・1913年(大正2) 5歳のときに、菊田家の養子になる
・1920年(大正9) 神戸元町に移り住む
・1923年(大正12) 結成された「元五青年団」の機関誌「桜草」の編集人を務める
・1925年(大正14) 上京し、印刷工として働く
・1927年(昭和2) サトウハチロー門下となる
・1929年(昭和4) 浅草公園劇場の文芸部に入る
・1930年(昭和5) 玉木座の『阿呆(あほう)疑士迷々伝』で注目される
・1933年(昭和8) 古川ロッパらにより、浅草常盤座で旗揚げされた劇団「笑の王国」に座付き作家として迎え入れられる
・1935年(昭和10) 古川ロッパが退団して東宝に所属となる
・1936年(昭和11) 東宝に移籍して東宝文芸部の主力となる
・1943年(昭和18) 戯曲『花咲く港』を発表、本格的な劇作家としてスタートする
・1947年(昭和22) ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の放送が始まる(~1950年)
・1952年(昭和27) ラジオドラマ『君の名は』の放送が始まり、空前の大ヒットとなる(~1954年)
・1953年(昭和28) 『君の名は』が松竹で三部作映画化される
・1955年(昭和30) 小林一三の招きで、東宝の取締役(演劇担当役員)に就任する
・1957年(昭和32) 東宝芸術座を創設、東宝演劇部の総帥としての仕事に取り組む
・1962年(昭和37)4月23日 開かれた「学者・文化人による民社党をはげます会」に尾崎士郎・徳川夢声・平林たい子らと共に出席する
・1959年(昭和44) 演劇『がめつい奴』(製作・脚本・演出)が初演される
・1960年(昭和45) 劇作家の生活向上を目的として、川口松太郎、中野実、北條秀司、菊田一夫で「劇作家四人の会」を結成、演劇『がめつい奴』で菊池寛賞を受賞する
・1961年(昭和46) 演劇『がめつい奴』、『がしんたれ』で芸術選奨文部大臣賞(演劇部門)を受賞する
・1963年(昭和48) 東宝劇場で『マイ・フェア・レディ』を制作・上演し,ミュージカル・ブームに火をつける
・1966年(昭和51) 新装開場した帝劇で『風と共に去りぬ』を世界で初めて劇化し、上演する
・1970年(昭和55) 『風と共に去りぬ』をミュージカル化した『スカーレット』を帝劇で、次いでロンドン、パリで公演する
・1973年(昭和48)4月4日 東京・慶應義塾大学病院において、65歳で亡くなる
・1975年(昭和50) 菊田の功績を記念し、演劇界の発展を願って菊田一夫演劇賞が東宝により創設(現在は一般社団法人映画演劇文化協会が主催)される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1284年(弘安7)鎌倉幕府第8代執権北条時宗の命日(新暦4月20日)詳細
1609年(慶長14)江戸時代の大名・備前岡山藩初代藩主池田光政の誕生日(新暦5月10日)詳細
1885年(明治18)小説家中里介山の誕生日詳細
1949年(昭和24)「団体等規制令」が公布・施行される詳細
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 今日は、昭和時代後期の1986年(昭和61)に、小説家・劇作家円地文子の亡くなった日です。
 円地文子(えんち ふみこ)は、1905年(明治38)10月2日に、東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区)で、国語学者の父・上田万年、母・鶴子の次女として生まれました。東京高等師範学校付属小学校二部(後の筑波大学附属小学校)を経て、1918年(大正7)に日本女子大学付属高等女学校(現在の日本女子大学附属高等学校)に入学しましたが、1922年(大正11)に校風に馴染めず中退します。
 1924年(大正13)に小山内薫の公演を聞いて感銘を受け、戯曲を志すようになり、1926年(大正15)には、雑誌「歌舞伎」に戯曲『ふるさと』が当選、劇作家として活動を開始し、小山内薫に師事しました。1928年(昭和3)に「女人芸術」掲載の『晩春騒夜』が、築地小劇場で上演され好評を得ましたが、打ち上げの席で小山内が倒れ死去します。
 1930年(昭和5)に円地与四松と結婚して、円地姓となり、翌年に長女・素子を出産、「日暦」、「人民文庫」に参加するようになりました。1935年(昭和10)に戯曲集『惜春』刊行後、小説に転じ、翌年には初めての小説となる短篇『社会記事』を「日暦」に発表します。
 1937年(昭和12)に父・上田万年が亡くなり、翌年には、自身も結核性乳腺炎のために東大病院に入院、手術を受けました。戦時下では海軍文芸慰問団の一員として戦地を巡りましたが、1945年(昭和20)に中野の家が空襲に遭い、家財蔵書の一切を焼失、軽井沢の別荘に疎開します。
 戦後、1946年(昭和21)に上京して母が隠居する谷中清水町17番地に戻り、子宮癌で子宮摘出しました。健康回復後も不遇の時代が続きましたが、1951年(昭和26)に河盛好蔵の尽力により「小説新潮」に『光明皇后の絵』が掲載されます。
 それからは、1953年(昭和28)に『ひもじい月日』で第6回女流文学者賞、1957年(昭和32)に『女坂』で第10回野間文芸賞、1958年(昭和33)に女流文学者会の会長就任、1966年(昭和41)に『なまみこ物語』で第5回女流文学賞受賞など女流文壇の第一人者として高く評価されるようになりました。その後も、1967年(昭和42)に『源氏物語』の現代語訳に着手、1969年(昭和44)に『朱を奪うもの』、『傷ある翼』、『虹と修羅』の一連の活動で第5回谷崎潤一郎賞、1970年(昭和45)に日本芸術院会員、1972年(昭和47)に『遊魂』三部作で第4回日本文学大賞を受賞するなど活躍が続きます。
 さらに、1979年(昭和54)に文化功労者となり、1985年(昭和60)には、文化勲章も受章したものの、1986年(昭和61)11月14日に、東京都台東区谷中清水町の自宅で、急性心不全によって81歳で亡くなりました。

〇円地文子の主要な著作

・『ひもじい月日』(1953年)第6回女流文学者賞受賞
・『朱を奪うもの』(1955~56年)第5回谷崎潤一郎賞受賞
・『妖(よう)』(1956年)
・『女坂』(1949~57年)第10回野間文芸賞受賞
・『二世の縁拾遺』(1957年)
・『傷ある翼』(1960年)第5回谷崎潤一郎賞受賞
・『虹(にじ)と修羅(しゅら)』(1965~67年)第5回谷崎潤一郎賞受賞
・『なまみこ物語』(1959~61、65年)第5回女流文学賞受賞
・『狐火』(1969年)
・『遊魂』(1970年)第4回日本文学大賞受賞
・『蛇の声』(1970年)
・『円地文子訳源氏物語』10巻(1972~73年)
・『食卓のない家』(1979年)

☆円地文子関係略年表

・1905年(明治38)10月2日 東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区)で、国語学者の父・上田万年、母・鶴子の次女として生まれる
・1907年(明治40) 2歳の時、東京市麹町区(現在の千代田区)富士見町30に転居する
・1912年(明治45)4月 東京高等師範学校付属小学校二部(後の筑波大学附属小学校)に入学する
・1918年(大正7)4月 日本女子大学付属高等女学校(現在の日本女子大学附属高等学校)に入学する
・1922年(大正11) 日本女子大学附属高等女学校を中退する
・1924年(大正13)5月 慶応義塾ホールで小山内薫の公演を聞いて感銘を受け、戯曲を志すようになる
・1926年(大正15) 雑誌「歌舞伎」に戯曲『ふるさと』が当選、劇作家として活動を開始し、小山内薫に師事する
・1928年(昭和3) 「女人芸術」掲載の「晩春騒夜」が築地小劇場で上演され好評を得たが、打ち上げの席で小山内が倒れ死去する
・1930年(昭和5) 円地与四松と結婚する
・1931年(昭和6) 長女・素子を出産。「日暦」、「人民文庫」に参加
・1935年(昭和10) 戯曲集『惜春』刊行後、小説に転じる
・1936年(昭和11) 初めての小説となる短篇『社会記事』を「日暦」に発表する
・1937年(昭和12)10月26日 父・上田万年が亡くなる
・1938年(昭和13)4月 結核性乳腺炎のために東大病院に入院、手術を受ける
・1939年(昭和14) 「東京日日新聞」に『源氏物語私語』を掲載する
・1941年(昭和16) 海軍文芸慰問団の一員として長谷川時雨、尾崎一雄ら十数名と広州方面から海南島を廻る
・1943年(昭和18)10月 日本文学報国会の一員として朝鮮総督府に招聘され、深田久弥らと北朝鮮を旅行する
・1945年(昭和20) 中野の家が空襲に遭い、家財蔵書の一切を焼失、軽井沢の別荘に疎開する
・1946年(昭和21) 上京して母が隠居する谷中清水町17番地に戻り、子宮癌で子宮摘出する
・1951年(昭和26) 河盛好蔵の尽力により「小説新潮」に『光明皇后の絵』が掲載される
・1953年(昭和28) 『ひもじい月日』で第6回女流文学者賞を受賞する
・1957年(昭和32) 『女坂』で第10回野間文芸賞を受賞する
・1958年(昭和33) 女流文学者会の会長に就任する
・1966年(昭和41) 『なまみこ物語』で第5回女流文学賞を受賞する
・1967年(昭和42) 『源氏物語』の現代語訳に着手する
・1969年(昭和44) 『朱を奪うもの』、『傷ある翼』、『虹と修羅』の一連の活動で第5回谷崎潤一郎賞を受賞(自身が選考委員)する
・1970年(昭和45) 日本芸術院会員に選出される
・1972年(昭和47) 『円地文子訳源氏物語』刊行開始。『遊魂』三部作で第4回日本文学大賞を受賞する
・1976年(昭和51) 女流文学者会会長を辞任する
・1977年(昭和52) ヨーロッパを旅行する
・1979年(昭和54) 文化功労者となる
・1984年(昭和59) 最後の長編となった『菊慈童』を刊行する
・1985年(昭和60) 文化勲章を受章する
・1986年(昭和61)11月14日 東京都台東区谷中清水町の自宅で、急性心不全によって81歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

735年(天平7)皇族政治家・『日本書紀』の編纂責任者舎人親王の命日(新暦12月2日)詳細
1951年(昭和26)天野貞祐文相の「教育勅語」に代わる国民道徳の基本としての「国民実践要領」の大綱が明らかになる詳細
1971年(昭和46)言語学者・民俗学者・アイヌ語研究者金田一京助の命日詳細
1973年(昭和48)関門橋(山口県下関市・福岡県北九州市門司区)が開通する詳細


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