ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:公武合体

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 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、土佐藩の後藤象二郎らが、前藩主・山内豊信(容堂)の「大政奉還建白書」を幕府に提出した日ですが、新暦では10月29日となります。
 土佐藩の大政奉還建白書(とさはんのたいせいほうかんけんぱくしょ)は、坂本龍馬の大政奉還を含めた構想「船中八策」に、後藤象二郎が共感し、前土佐藩主山内豊信(容堂)に大政奉還を進言、これをもとに公武合体派の容堂名により、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜に提出したものでした。内容は、諸外国の脅威が迫る中で国内が分裂状態に陥っている現状を憂い、「王政復古の業を建てざるべからざるの一大機会と存じたてまつり候」と説いたものです。また、広島藩からも10月6日に大政奉還建白書が出されました。
 これらの建白を受けて、慶喜は幕府有司に意見を聴き、10月13日に在京の40藩の重臣(諸侯)を二条城大広間に集めて意見を求め、翌14日に「大政奉還の上表文」を朝廷に出します。しかし、大政奉還後に想定された諸侯会議が開催されない内に、討幕派による王政復古のクーデターが起き、慶喜の辞官納地を決定し、戊辰戦争へと向かうことになりました。
 以下に、前土佐藩主・山内豊信(容堂)の「大政奉還建白書」と別紙を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇土佐藩「大政奉還建白書」 1867年(慶応3年10月3日)提出

山内豊信慶喜ニ致ス書

誠惶誠恐[1]謹テ建言[2]仕候、天下憂世[3]ノ士、口ヲ噤シテ敢テ不言ニ至リ候ハ、誠ニ可懼ノ時ニ候、朝廷、幕府、公卿[4]、諸侯[5]旨趣[6]相違フノ状アルニ似タリ、誠ニ可懼ノ事ニ候、此二懼ハ我ノ大患[7]ニシテ、彼ノ策於是乎成矣ト可謂候、如此事態ニ陷リ候ハ、其責任竟誰ニ可歸ヤ、併シ既往ノ是非曲直[8]ヲ喋々辧難[9]ストモ何ノ益カアラン、唯願クハ大活眼[10]大英斷ヲ以テ、天下萬民ト共ニ同心協力[12]公明正大ノ道理ニ歸シ、萬世[13]ニ亙テ不愧、萬國ニ臨ンテ恥[14]サルノ大根柢[15]ヲ建テサルヘカラス、此旨趣[6]、前月上京ノ砌ニモ追々建言[2]仕候心得ニ御坐候ヘトモ、何分阻隔[16]ノ筋ノミ有之、其内不圖[17]モ舊疾再發仕、不得止歸國仕候以來、起居[18]動作ト雖モ不隋意[19]ノ事ニ成リ至リ、再上ノ儀、暫時相調不申候ハ、誠ニ遺憾ノ次第ニテ、只管此事ノミ日夜焦心苦思[20]仕罷在候、因テ愚存[21]ノ趣、一二家來共ヲ以テ言上仕候、唯幾重ニモ公明正大ノ道理ニ歸シ、天下萬民ト共ニ、皇國數百年ノ國體[22]ヲ一變シ、至誠[23]ヲ以テ萬國ニ接シ、王政復古[24]ノ業ヲ建テサルヘカラサルノ一大機會ト奉存候、猶又別紙[25]得度御細覽被仰付度、懇々[26]ノ至情[27]難默止、泣血流涕[28]ノ至ニ不堪候。

 慶應三年丁卯九月             松平容堂

別紙

宇内[29]ノ形勢、古今ノ得失ヲ鑒シ[30]、誠惶誠恐[1]頓首再拜[31]、伏惟[32] 皇國[33]興復[34]ノ基業[35]ヲ建テント欲セハ、國體[22]ヲ一定シ、政度[36]ヲ一新シ、王政復古[24]、萬國萬世[13]ニ不恥者ヲ以テ本旨[37]トスヘシ、奸ヲ除キ良ヲ擧ケ、寬恕ノ政[38]ヲ施行シ、朝幕諸侯[39]齊ク[40]此大基本ニ注意スルヲ以テ、方今[41]急務ト奉存候、前月四藩上京仕、一二獻言[42]ノ次第モ有之、容堂儀ハ病症ニ因テ歸國仕候以來、猶又篤ト熟慮[43]仕候ニ、實ニ不容易[44]時態ニテ、安危[45]ノ決今日ニ有之哉ニ愚慮[46]仕候、因テ早速再上仕、右ノ次第一々乍不及[47]警言[48]仕候志願[49]ニ御坐候處、今ニ至テ病症難澀仕、不得已微賤[50]ノ私共ヲ以テ、愚存[21]ノ趣乍恐言上爲仕候、

一天下ノ大政ヲ議定スル全權ハ朝廷ニアリ、乃我 皇國[33]ノ制度法則一切萬機[51]、必ス京師[52]ノ議政所[53]ヨリ出ツヘシ、
一議政所[53]上下ヲ分チ、議事官[54]ハ上公卿[4]ヨリ下陪臣[55]庶民ニ至ル迄、正明[56]純良[57]ノ士ラ選擧スヘシ、
一庠序[58]學校[59]ヲ郡會[60]ノ地ニ設ケ、長幼ノ序ヲ分チ、學術技藝[61]ヲ敎導[62]セサルヘカラス、
一一切外蕃[63]トノ規約ハ、兵庫港[64]ニ於テ、新ニ 朝廷ノ大臣ト諸藩ト相議シ、道理明確之新條約ラ結ヒ、誠實ノ商法ヲ行ヒ、信義ヲ外藩[65]ニ失セサルヲ以テ主要トスヘシ、
一海陸軍備ハ一大至要[66]トス、軍局ヲ京攝ノ間[67]ニ築造シ、朝廷守護ノ親兵[68]トシ、世界ニ比類ナキ兵隊ト爲ンコトヲ要ス、
一中古[69]以來、政刑[70]武門[71]ニ出ツ、洋艦來港[72]以後、天下紛紜[73]、國家多難、於是、政權梢動ク、是自然ノ勢ナリ、今日ニ至リ、古來ノ舊弊[74]ヲ改新シ、枝葉[75]ニ馳セス、小條理[76]ニ止マラス、大根基[77]ヲ建ルラ以テ主トス、
一朝廷ノ制度法則、從昔ノ律例[78]アリト雖、方今[41]ノ時勢ニ參合[79]シ、間或當然ナラサルモノアラン、宜ク其弊風[80]ヲ一新シ改革シテ、地球上ニ獨立スルノ國本[81]ヲ建ツヘシ、
一議事ノ士大夫[82]ハ私心ヲ去リ、公平ニ基キ、術策ヲ設ケス、正直ヲ旨トシ、既往ノ是非曲直[8]ヲ問ハス、一新更始[83]、今後ノ事ヲ見ルヲ要ス、言論多ク、實效[84]少キ通弊[85]ヲ踏ムヘカラス、

右ノ條目、恐ラクハ當今ノ急務、内外各般ノ至要、是ヲ捨テゝ他ニ求ムヘキモノハ有之間敷ト奉存候、然則、職ニ當ル者、成敗利鈍ヲ不顧、一心協力、萬世ニ亙テ貫徹致シ候樣有之度、若或ハ從來ノ事件ヲ執リ、辨難抗論、朝幕諸侯、互ニ相爭ノ意アルハ尤然ルへカラス、是則、容堂ノ志願ニ御坐候、因テ愚昧不才ヲ不顧、大意建言仕候、就テハ乍恐是等ノ次第、空シク御聽捨ニ相成候テハ、天下ノ爲遺憾不鮮候、猶又、此上寬仁ノ御趣意ヲ以テ、微賤ノ私共ト雖モ、御親問被 仰付度奉懇願候。
                  松平土佐守内
 慶應三年丁卯九月
                     寺村左膳
                     後藤象二郞
                     福岡藤次
                     神山佐多衞

    『復古記』巻一より

【注釈】

[1]誠惶誠恐:せいこうせいきょう=心からおそれかしこまることの意味。
[2]建言:けんげん=政府・上役などに対して意見を申し立てること。また、その意見。
[3]憂世:ゆうせい=世の中や国家の安危を憂えること。憂国。
[4]公卿:くぎょう=公と卿の総称。公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいうが、参議は四位も含める。
[5]諸侯:しょこう=諸大名のこと。
[6]旨趣:ししゅ=事のわけ。おもむき。内容。趣意。
[7]大患:たいかん=大きな心配事。
[8]是非曲直:ぜひきょくちょく=よいことと悪いことと曲がっていることとまっすぐなこと。物事のよしあしや正邪。
[9]辧難:べんなん=ことばで非難すること。論難。
[10]活眼:かつがん=生きた眼。物の道理を見抜く見識。物事を見抜く能力。
[11]英斷:えいだん=きっぱりと事を決めること。また、すぐれた決断。
[12]同心協力:どうしんきょうりょく=心を一つにし、協力し合い、皆で団結して事にあたること。
[13]萬世:ばんせい=限りなく何代も続く永い世。万代。永遠。
[14]不愧:ふかい=恥じない。
[15]根柢:こんてい=物事の根本(こんぽん)。基礎。よりどころ。
[16]阻隔:そかく=じゃまをして、へだたりをつくること。また、へだたりができること。
[17]不圖:はからず=思いもよらず。不意に。ふと。
[18]起居:ききょ=立ったり、すわったりすること。立ち居ふるまい。転じて、日常の生活。
[19]不隋意:ふずいい=思いのままにならないこと。意志のとおりにならないこと。また、そのさま。
[20]焦心苦思:しょうしんくし=心を痛めて、あれこれ思いをめぐらし悩むこと。
[21]愚存:ぐぞん=自分の考えをへりくだっていう語。愚見。愚意。愚案。
[22]國體:こくたい=国のあり方。国家の根本体制。
[23]至誠:しせい=きわめて誠実なこと。また、その心。まごころ。
[24]王政復古:おうせいふっこ=政治体制が、君主制から武家政治、共和制などに変わったのち、再びもとの君主制に戻ること。
[25]別紙:べっし=大政奉還後の新政体綱領八ヶ条のこと。
[26]懇々:こんこん=心をこめたさま。また、親切に繰り返し言うさま。
[27]至情:しじょう=誠心誠意の感情。まごころ。赤心。
[28]泣血流涕:きゅうけつりゅうてい=血の涙を流すこと。
[29]宇内:うだい=天下。世界。
[30]鑒シ:かんし=かんがみて。手本と照らし合わせてよく考えて。見分けて。
[31]頓首再拜:とんしゅさいはい=手紙や書簡で敬意を表して用いる言葉で、頭を地面に打ちつけて、二度続けてお辞儀する意味。
[32]伏惟:ふくい=謹んで私が考えてみると。
[33]皇國:こうこく=天皇が統治する国。
[34]興復:こうふく=おとろえたものを、もとの状態にたてなおすこと。再興すること。復興。
[35]基業:きぎょう=基礎となる事業や業績。
[36]政度:せいど=国家・政治を動かす一定のきまり。憲法・法律・政令・条例など。
[37]本旨:ほんし=本来の趣旨。もとの主旨。
[38]寬恕ノ政:かんじょのせい=心が広く思いやりがある政治。
[39]朝幕諸侯:ちょうばくしょこう=朝廷・幕府・諸大名。
[40]齊ク:ひとしく=そろって。平らに。揃えて。
[41]方今:ほうこん=ただいま。現在。現今。
[42]獻言:けんげん=主君や目上の人に意見を申し上げること。また、その意見。
[43]熟慮:じゅくりょ=よくよく考えること。十分に考えをめぐらすこと。熟考。
[44]不容易:ふようい=容易ではないこと。たいへんなこと。難しいこと。
[45]安危:あんき=安全か危険かの瀬戸際の状態。
[46]愚慮:ぐりょ=おろかな考え。また、自分の考えをへりくだっていう語。愚考。
[47]乍不及:およばずながら=不十分ではあるが。完全にはできないが。行き届かないが。およばぬながら。
[48]警言:けいげん=いましめることば。さとす言葉。
[49]志願:しがん=ある事をこころざし願うこと。望み願うこと。また、こころざして願い出ること。
[50]微賤:びせん=身分・地位が低いこと。
[51]一切萬機:いっさいばんき=すべての諸々の重要な政務。特に、天皇の政務。天下の政治。
[52]京師:けいし=みやこ。帝都。
[53]議政所:ぎせいしょ=討議によって政治を行うところ。
[54]議事官:ぎじかん=議政所において公議に参与する議員。
[55]陪臣:ばいしん=臣下の、また臣。家来の家来。
[56]正明:せいめい=正しく明らかなこと。正しくて公明なこと。また、そのさま。
[57]純良:じゅんりょう=純粋で善良であること。まじりけがなく質がよいこと。また、そのさま。
[58]庠序:しょうじょ=郷校を中国周代では「庠」、殷(いん)代では「序」といったところからそれを意味する。
[59]學校:がっこう=昌平黌や藩校などの教育機関。
[60]郡會:ぐんかい=行政単位として国の下にあり、郷、里、村などを含むまとまり。
[61]學術技藝:がくじゅつぎげい=学問・技術。
[62]敎導:きょうどう=教え導くこと。
[63]外蕃:がいばん=外国や外国人をさげすんでいった語。
[64]兵庫港:ひょうごこう=現在の兵庫県神戸港の母胎となった港湾。
[65]外藩:がいはん=外蕃。外国や外国人をさげすんでいった語。
[66]至要:しよう=最もだいじなこと。また、そのさま。
[67]京攝ノ間:きょうせつのあいだ=京都と摂津国の間。
[68]親兵:しんぺい=君主などの側近くに仕える兵。また、天皇の身辺を護衛する兵。
[69]中古:ちゅうこ=その時点からある程度年代のへだたった昔。なかむかし。中世。
[70]政刑:せいけい=政治と刑罰。
[71]武門:ぶもん=武士の家筋。武家。
[72]洋艦來港:ようかんらいこう=1854年(安政元)にアメリカ使節ペリー艦隊が下田に来航したことを指す。
[73]紛紜:ふんうん=物事の入り乱れていること。事がもつれること。また、その乱れ。
[74]舊弊:きゅうへい=古い習慣・制度などの弊害。
[75]枝葉:しよう=枝(えだ)と葉(は)。転じて、主要でないものや事柄。
[76]條理:じょうり=物事のすじみち。もののことわり。物事の道理。
[77]根基:こんき=おおもと。ねもと。根本。根源。
[78]律例:りつれい=律(永久不変の根本法)と例(時代によって作られる条例)。刑法。また、広く法規をいう。
[79]參合:さんごう=いろいろのものを照らし合わせて考えること。
[80]弊風:へいふう=悪い風俗や習慣。悪習。
[81]國本:こくほん=国家の基本。国の基礎。国基(こっき)。
[82]士大夫:したいふ=中国で、士と大夫。のち、知識階級や科挙に合格して官職にある者をさした。
[83]一新更始:いっしんこうし=新たに物事を始めるにあたって、古いものを全て新しくすること。
[84]實效:じっこう=実際に現れる効力や効果。実効。
[85]通弊:つうへい=全般に共通して見られる弊害。

<現代語訳>

山内豊信が徳川慶喜にお届けする書

恐れかしこみ謹んで意見を申し上げます、天下の安危を憂う者として、口をとざして敢えて何も言わなかったならば、誠におそろしき時であります。朝廷、幕府、公卿、諸大名、趣旨は相異なる状況にあるに似て、誠におそろしき事であります。ここに恐れるは私の大きな心配事であって、薩長の討幕運動がここにおいて成就するかということであります。このような事態に陥ったことは、その責任は結局誰にあるのでしょうか、しかれどもそれまでの物事のよしあしや正邪をしきりに非難することは何の利益があるというのでしょうか、ただ願うのは大いなる見識と大いなる決断をもって、天下の人々と共に心を一つにして協力し合い、公明正大の道理に基づいて、永きにわたって恥じず、諸外国に臨んでも恥じない大いなる基礎を建てないわけにはいかないことです。この趣旨は、前月上京した折にも追々意見を申し上げたように心得てはいますが、なにぶん隔たりが出来ることが有り、そのうち思いもよらず古い病が再発し、やむを得ず帰国して以来、日常の生活の動作といっても思いのままにならない事になり至って、再び上京することは、しばらくは出来かねる状態で、誠に遺憾の次第であって、ひたすらこの事のみ日夜心を痛めて、あれこれ思いをめぐらし悩んでいます、よって愚見の趣旨は、一つ二つ家来共によって言上させます。ただ幾重にも公明正大の道理に基づき、天下の人々と共に、天皇の国としての数百年の国のあり方を一変し、真心をもって諸外国に接し、王政復古の事業を建てねばならない一大機会と考えます。なおまた、別紙をとくとお命じいただきたく、切々たる真心を止めることが出来ず、血の涙を流すことに至るのを耐えることが出来ないのです。

 慶応3年(1867年)丁卯9月             松平容堂

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1899年(明治32)日本画家山口華楊の誕生日詳細
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1983年(昭和58)三宅島の雄山が21年ぶりに大噴火し、熔岩流によって約400戸が埋没・焼失する(三宅島1983年噴火詳細


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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16年)に、公卿・政治家岩倉具視が亡くなった日です。
 岩倉具視(いわくら ともみ)は、江戸時代後期の1825年(文政8年9月15日)に、京都において、公卿・堀河康親の次男(母は勧修寺経逸の娘・吉子)として生まれましたが、幼名は周丸(かねまる)と言いました。1837年(天保8)に岩倉具慶の養子となり、岩倉具視を名乗るようになります。
 1838年(天保9)に従五位下に叙位され、同年に元服し、昇殿を許されました。1853年(嘉永6)に、歌道を通じて関白鷹司政通に接するわうになり、1854年(安政元)には、孝明天皇の侍従となります。
 1858年(安政5)に、幕府の老中堀田正睦が「日米修好通商条約」の勅許を奏請したことに対して、「神州萬歳堅策」を起草、内奏し、88人の公家の列参(集団行動)で反対して、勅許を失敗させました。1860年(万延元)に、桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されたのち、公武合体をとなえて、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現します。
 1862年(文久2)に和宮降嫁を策したことで、四奸の一人とされ、左近衛権中将を辞任して、洛北の岩倉村に蟄居し、落髪して法名を友山としました。1867年(慶応3)には、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下すことに成功し、処分を解除され、尊王討幕派と結び、王政復古のクーデタを成功させます。
 それによって、明治新政府の中枢にすわり、議定、副総裁、大納言を経て、1871年(明治4)には、右大臣となりました。また、同年特命全権大使となって、政府首脳を率い渡欧(岩倉使節団)、欧米の文化・制度を視察します。
 1873年(明治6)帰国後は、征韓論に反対し、同年10月には太政大臣代理となり、征韓中止の勅裁を得ました。自由民権運動を弾圧し、天皇制による立憲制確立のために、井上毅に欽定憲法の原則「大綱領」を起草させます。
 また、宮廷改革にも意を配り、皇室財産確立を意図し、華族の財産保護を目的とした第十五銀行、華族の事業の日本鉄道会社を設立するなど華族の地位を擁護し、近代天皇制の確立に努めました。しかし、1883年(明治16)7月20日に、東京において、数え年59歳で亡くなり、太政大臣を追贈されると共に、国葬が執り行われています。

〇岩倉具視関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1825年(文政8年9月15日) 京都において、公卿・堀河康親の次男(母は勧修寺経逸の娘・吉子)として生まれる
・1837年 (天保8年8月8日)  岩倉具慶の養子となる
・1838年(天保9年10月28日) 従五位下に叙位される
・1838年(天保9年12月11日) 元服し、昇殿を許される
・1841年(天保12年6月4日) 従五位上に昇叙される
・1845年(弘化2年2月18日) 正五位下に昇叙される
・1853年(嘉永6年) 歌道を通じて関白鷹司政通(たかつかさまさみち)に接する
・1854年(安政元年3月20日) 孝明天皇の侍従となる
・1854年(安政元年6月10日) 従四位下に昇叙する
・1858年(安政5年2月) 幕府の老中堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を奏請したことに対して、「神州萬歳堅策」を起草、内奏する
・1860年(万延元年) 桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されたのち、幕府が公武合体策を進め、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現する
・1860年(万延元年12月29日) 右近衛権少将に転任する
・1861年(万延2年1月5日) 正四位下に昇叙する
・1861年(文久元年) 和宮に随従し江戸に赴き帰京する
・1862年(文久2年4月) 島津久光に面会、「三事策」を提示して公武合体運動を支持する
・1862年(文久2年5月15日) 左近衛権中将に転任する
・1862年(文久2年8月20日) 和宮降嫁を策したことで、四奸の一人とされ、左近衛権中将を辞任し、蟄居する
・1862年(文久2年8月22日) 落髪し、法名を友山とする
・1865年(慶応元年)春頃 非蔵人松尾相永の訪問を受けてより、同志の廷臣・薩摩藩士との交流が再開し、政界復帰への意欲を深める
・1866年(慶応2年8月) 親幕派の関白二条斉敬、朝彦親王の追放を策謀、同志の大原重徳、中御門経之ら22名は列参奏上を敢行したが失敗する
・1867年(慶応3年6月) 坂本竜馬、中岡慎太郎、次いで大久保利通との交流が始まる
・1867年(慶応3年10月) 中山忠能、正親町三条実愛,中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下す
・1867年(慶応3年12月8日) 処分を解除される
・1867年(慶応3年12月9日) 政変を断行し、明治政府参与を兼務する
・1867年(慶応3年12月27日) 明治新政府参与から議定に異動兼務する
・1868年(慶応4年1月9日) 明治新政府の副総裁を兼任する
・1868年(慶応4年1月27日) 政府会計事務総督及び海陸軍事務総督兼務する
・1868年(慶応4年2月2日) 従三位昇叙し、右兵衛督に任官する(時に、政府副総裁議定会計事務総督海陸軍事務総督従三位行右兵衛督)
・1868年(慶応4年2月20日) 政府会計事務総督及び海陸軍事務総督辞職する
・1868年(慶応4年閏4月20日) 政府副総裁を辞職する
・1868年(慶応4年閏4月21日) 政府制度改正により、議政官たる上局議定及び輔相を兼務する
・1868年(明治2年1月7日) 輔相を辞任する
・1868年(明治2年1月25日) 正二位に昇叙し、権大納言に転任する
・1868年(明治2年7月8日) 制度改正により、上局議定より大納言に異動する
・1868年(明治2年8月) 王政復古の功により永世禄として5,000石を授けられる
・1868年(明治2年11月23日) 兵部省御用掛兼務となる
・1869年(明治3年) 勅使として鹿児島,山口へ赴き、島津久光、毛利敬親に面会、新政府強化のため両藩の協力を要請する
・1871年(明治4年7月14日) 廃藩置県に伴う官制改革で外務卿となる
・1871年(明治4年10月8日) 右大臣並びに遣外使節団特命全権大使に異動する
・1871年(明治4年11月12日) 条約改正交渉と米欧視察のため、特命全権大使として使節団を引率して外国の巡回へ向かう
・1873年(明治6年)9月13日 米欧視察から帰国する
・1873年(明治6年)10月20日 太政大臣代理を兼任するが、同日のみとなる
・1873年(明治6年)10月24日 征韓中止の勅裁を得る
・1874年(明治7年)1月 赤坂喰違で征韓派の士族に襲われる
・1876年(明治9年)4月9日 華族会館長に就任する
・1876年(明治9年)5月18日 従一位昇叙する
・1876年(明治9年)5月26日 華族督部長兼務する
・1876年(明治9年)12月29日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1881年(明治14年) 井上毅(いのうえこわし)に命じて「大綱領」を起草させる
・1882年(明治15年)11月1日 大勲位菊花大綬章を受章する
・1882年(明治15年)11月15日 華族督部長職廃止に伴い止む
・1882年(明治15年)12月4日 華族会館長を辞職する
・1883年(明治16年)4月7日 宮内省編纂局総裁心得を兼務する
・1883年(明治16年)7月20日 東京において、数え年59歳で亡くなる
・1883年(明治16年)7月23日 太政大臣が追贈される
・1883年(明治16年)7月25日 国葬が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)江戸幕府第14代将軍徳川家茂の命日(新暦8月29日)詳細
1907年(明治40)豊国炭鉱(福岡県)で炭塵爆発事故により死者365人を出す詳細
1948年(昭和23年)国民の祝日に関する法律」(祝日法)が公布・施行され9つの祝日が誕生する詳細
1975年(昭和50)沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)が開幕詳細


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 今日は、江戸時代後期の1831年(天保2)に、第121代の天皇とされる孝明天皇の生まれた日ですが、新暦では7月22日となります。
 孝明天皇(こうめいてんのう)は、京都において、仁孝天皇の第四皇子(母は贈左大臣正親町実光の女雅子)として生まれましたが、名は統仁(おさひと)と言いました。1835年(天保6)に親王宣下され、1840年(天保11)には、立太子の儀が行われ皇太子となります。
 1846年(弘化3)に、父・仁孝天皇が亡くなると践祚の儀を行い、翌年には即位礼をあげて、第121代とされる天皇となりました。黒船来航(1853年)、大地震(1854年)、内裏炎上(1854年)と不安の状況が続いたため、1855年(嘉永3年11月27日)に元号を安政と改元します。
 1858年(安政5)に上洛してきた老中堀田正睦が「日米修好通商条約」調印の承認を求めた時、諸大名の意見を聞いた上で判断するとして許可を与えず、幕府が独断で「日米修好通商条約」調印を行ったとの報告に接し譲位を表明、井伊直弼の幕政指導に不信を示して、戊午の密勅を水戸藩および幕府に伝達しました。1860年(万延元)に公武の合体による国内一致のため、妹和宮の江戸降嫁による第14代将軍徳川家茂との婚姻を認め、1862年(文久2)には、島津久光の献策を容れて勅使大原重徳を江戸に派遣します。
 続いて、薩長土3藩主の要請に基づき三条実美、姉小路公知を正副の勅使として派遣し幕府に攘夷を督促、翌年には将軍家茂の上洛に際して、攘夷の勅命を下しました。1863年(文久3)の「文久三年八月十八日の政変」の時、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放、翌年に再度上洛した将軍家茂に公武一和の協力を命じています。
 1865年(慶応元)に幕府の要請を受けて長州再征を許可、翌年の第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、征長の停止を幕府に指示しました。しかし、1866年(慶応2年12月25日)に京都において、36歳で急逝し、墓所は京都東山泉涌寺の後月輪東山陵(現在の京都市東山区今熊野)とされています。

〇孝明天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1831年(天保2年6月14日) 京都において、仁孝天皇の第四皇子(母は贈左大臣正親町実光の女雅子)として誕生する
・1835年(天保6年6月21日) 儲君治定される
・1835年(天保6年9月18日) 親王宣下される、
・1840年(天保11年3月14日) 立太子の儀が行われ皇太子となる
・1843年(天保14年) 侍講に中沼了三を迎える
・1846年(弘化3年2月13日) 父天皇の崩御のあとをうけて践祚の儀をあげる
・1846年(弘化3年8月29日) 対外関係が急迫の度を強めたため、幕府に対して海防を厳重にするよう沙汰書を出す
・1847年(弘化4年3月9日) 学習所(学習院)の開講式が行われる
・1847年(弘化4年4月25日) 石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈る
・1847年(弘化4年9月23日) 即位礼をあげる
・1847年(弘化4年9月27日) 将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代の酒井忠義と参賀する
・1850年(嘉永3年4月8日) 「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺へ命じる
・1854年(嘉永7年4月6日)、内裏が炎上する
・1858年(安政5年2月) 上洛の老中堀田正睦が「日米修好通商条約」調印の承認を求めたとき、諸大名の意見を聞いた上で判断するとして許可を与えず
・1858年(安政5年6月) 幕府が独断で「日米修好通商条約」調印を行ったとの報告に接し譲位を表明する
・1858年(安政5年8月) 井伊直弼の幕政指導に不信を示す、いわゆる戊午の密勅を水戸藩および幕府に伝達する
・1858年(安政5年12月) 鎖国の状態に引き戻すことを条件に「日米修好通商条約」調印を了承する
・1860年(万延元年) 公武の合体による国内一致のため、妹和宮の江戸降嫁を認める
・1861年(文久元年) 長井雅楽の「航海遠略策」を受理する
・1862年(文久2年5月) 島津久光の献策を容れて勅使大原重徳を江戸に派遣する
・1862年(文久2年10月) 薩長土3藩主の要請に基づき三条実美、姉小路公知を正副の勅使として派遣し幕府に攘夷を督促する
・1863年(文久3年3月) 将軍家茂の上洛に際して、攘夷の勅命を下す
・1863年(文久3年3月) 攘夷の成功を祈願するため、賀茂社に行幸する
・1863年(文久3年4月) 攘夷の成功を祈願するため、石清水社に行幸する
・1863年(文久3年8月) 「文久三年八月十八日の政変」の時、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放する
・1864年(元治元年1月) 再度上洛した将軍家茂に公武一和の協力を命じる
・1865年(慶応元年9月) 幕府の要請を受けて長州再征を許可する
・1865年(慶応元年10月) 徳川慶喜の強要を容れ条約を許可、ただし兵庫開港は不可とする
・1866年(慶応2年7月) 第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、天皇は征長の停止を幕府に指示する
・1866年(慶応2年12月25日) 京都において、痘瘡によって36歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1992年(平成4)「環境と開発に関する国際連合会議」が「環境と開発に関するリオ宣言」などを採択して閉幕する詳細


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