ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:俳人

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 今日は、江戸時代中期の1740年(元文5)に、俳人で蕉門十哲の一人志太野坡の亡くなった日ですが、新暦では1月31日となります。
 志太野坡(しだ やば)は、江戸時代前期の1662年(寛文2年1月3日)に、越前国福井において、商家を営む父・斎藤庄三郎の子として生まれましたが、幼名を庄一郎、通称を弥助、半次郎と言いました。父に伴われて江戸に行き、越後屋の両替店に勤め、手代となりましたが、室井其角の教えを受けて俳諧をはじめたとされます。
 1687年(貞享4)の其角撰『読虚栗』に初めて野馬の名が見え、1693年(元禄6)には、芭蕉の指導を受けるようになったとされてきました。1694年(元禄7)に越後屋の同僚の小泉孤屋、池田利牛と共に『炭俵』の編集に参加し、1695年(元禄8)には、深川の芭蕉庵で芭蕉の一周忌があり、許六から芭蕉の画像を贈られています。
 1698年(元禄11)に江戸を立ち、途中に膳所の無名庵を訪ね、商用で長崎に出向き、1699年(元禄12)の芭蕉の七回忌には撰文して、長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立し、1701年(元禄14)に江戸に戻り、越後屋の番頭を辞めました。1702年(元禄15)から翌年にかけて本格的な筑紫行脚を開始し、長崎、田代、久留米、日田、博多などを巡って、多くの弟子を獲得します。
 1704年(元禄17)に大坂に移住、現在の中央区農人橋の近くに居を構え、俳諧に専心し、樗木社を結んで俳諧宗匠となりました。1708年(宝永5)に筑紫行脚に出立、黒崎水颯亭を経て吉井の素児亭に到着、1710年(宝永7)には、筑前博多で芭蕉の十七回忌追善歌仙を興行します。
 1714年(正徳4)から翌年にかけて、森川許六と俳論書翰の応酬を行いました。1724年(享保9年)に大火に遭って無一文になり、翌年、難波に浅生庵(あそうあん)を新築します。
 その後、積極的に上方や九州を行脚して、芭蕉の顕彰と蕉風の発展と門人の育成に尽くし、その数は、千人を越え、後世に名を残すこととなりました。作風は軽み・枯淡を旨とし平明で、温厚な人柄として親しまれたものの、1740年(元文5年1月3日)に、大坂において、痰咳が原因で、数え年78歳で亡くなっています。

<志太野坡の代表的な句>

・「鉢まきをとれば若衆ぞ大根引」(炭俵)
・「朝霜や師の脛おもふゆきのくれ」
・「寒きほど案じぬ夏の別れ哉」
・「ちからなや膝をかかえて冬篭り」
・「手まはしに朝の間凉し夏念仏」(続猿蓑)
・「金屏の松の古さよ冬篭り」(許六宛芭蕉書簡)

〇志太野坡の主要な著作

・編纂『炭俵』(1694年)
・『万句四季之富士』(1715年) 
・『放生日』(1726年) 
・『野坡吟草』(1759年)

☆志太野坡関係略年表(日付は旧暦です)

・1662年(寛文2年1月3日) 越前国福井において、商家を営む父・斎藤庄三郎の子として生まれる
・1687年(貞享4年) 其角撰『読虚栗』に野馬の名が見える
・1693年(元禄6年) 芭蕉の指導を受けるようになる
・1694年(元禄7年) 越後屋の同僚の小泉孤屋、池田利牛と共に『炭俵』の編集に参加する
・1695年(元禄8年) 深川の芭蕉庵で芭蕉の一周忌があり、許六から芭蕉の画像を贈られる
・1696年(元禄9年) 土芳を訪ねる
・1698年(元禄11年) 江戸を立ち、膳所の無名庵を訪ね、商用で長崎に出向く
・1699年(元禄12年) 芭蕉の七回忌に野坡の撰文で長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立する
・1700年(元禄13年) 箱崎の俳人哺川が枯野塚を建立し、野坡が揮毫する
・1701年(元禄14年) 長崎の商用より戻り、越後屋の番頭を辞める
・1702年(元禄15年) 筑紫から豊後の日田に吟遊して、野紅亭に逗留、日田で越年する
・1703年(元禄16年) 筑紫行脚から戻る
・1704年(元禄17年) 大坂に移住、現在の中央区農人橋の近くに居を構え、俳諧に専心し、樗木社を結んで俳諧宗匠となる
・1705年(宝永2年) 長崎に旅立つ魯九に餞別の句を詠む
・1708年(宝永5年) 筑紫行脚に出立、黒崎水颯亭を経て吉井の素児亭に到着する
・1710年(宝永7年) 筑前博多で芭蕉の十七回忌追善歌仙を興行する
・1714年(正徳4年) 森川許六と翌年にかけて、俳論書翰の応酬を行う
・1716年(正徳6年) 露川は門人燕説を伴い西国行脚の途上、難波の野坡を訪れる
・1718年(享保3年) 筑紫行脚中に直方を訪れ、多賀宮神官青山文雄、直方藩士有井浮風が入門する
・1719年(享保4年) 冬に塩足村の市山邸を訪ねる
・1721年(享保6年) 熊本壺風亭に遊び、門人30余人に送られて熊本を去る
・1724年(享保9年) 大火に遭い、無一文になる
・1725年(享保10年) 難波に浅生庵(あそうあん)を新築する
・1728年(享保13年) 再び直方を訪れ、弟子たちとに上野の皿山や白糸滝を見物する
・1729年(享保14年) 上京する
・1730年(享保15年) 廬元坊が西国行脚の途上、浅生庵を訪れる
・1734年(享保19年) 風之を伴い赤間関に下り、小倉へ行き、風之は熊本に赴く
・1735年(享保20年) 芭蕉四十一回忌に「世にふるも更に宗祇のやとりかな」の真蹟短冊を埋めて「屋土里塚」を建立する
・1737年(元文2年) 風律亭で歌仙興行し、三原からの福山に移り素浅を訪れる。
・1738年(元文3年) 伊勢神宮参詣に出立する
・1739年(元文4年) 高津の新庵が落成し、瓦屋町より新庵に移る
・1740年(元文5年1月3日) 大坂において、痰咳が原因で、数え年78歳で亡くなる
・1756年(宝暦6年) 十七回忌追善句集『窓の春』(浮風編)が出される
・1759年(宝暦9年) 『野坡吟草』(風之編)が刊行される
・1761年(宝暦11年) 二十回忌に湖白菴浮風は野坡の墓を建立する
・1785年(天明5年) 許六との往復書簡が、嘯山(しょうざん)によって『許野消息(きょやしょうそこ)』として公刊される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

976年(天延4)第67代の天皇とされる三条天皇の誕生日(新暦2月5日)詳細
985年(永観3)天台宗の僧・比叡山中興の祖良源の命日(新暦1月26日)詳細
1669年(寛文9)国学者・歌人で、国学の四大人の一人とされる荷田春満の誕生日(新暦2月3日)詳細
1868年(慶応4)戊辰戦争の幕開けである鳥羽伏見の戦いが始まる(新暦1月27日)詳細
1870年(明治3)「神霊ヲ鎮祭スルノ詔」(鎮祭の詔)・「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)が出される(新暦2月3日)詳細
1976年(昭和51)多国間条約である「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」が発効する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、実業家・国文学者・俳人角川源義の亡くなった日です。
 角川源義(かどかわ げんよし)は、大正時代の1917年(大正6)10月9日に、富山県中新川郡東水橋町(現在の富山市水橋)において、商家を営む父・源三郎、母・ヤイの三男として生まれました。1930年(昭和5)に富山県立神通中学校(現在の県立富山中部高等学校)に入学し、1931年(昭和6)に中学の校友会誌に「俳人一茶の生涯」を寄稿、1932年(昭和7)には、「草上」に投句をはじめます。
 1935年(昭和10)に中学卒業後、第四高等学校受験に失敗して受験浪人となり、勉学のために京都に出ましたが、1936年(昭和11)には、上京して東京市立一中(東京都立九段高等学校)の補習科に通い、折口信夫の「古代研究」に出会いました。1937年(昭和12)に折口の在籍する国学院大学に入学、折口や武田祐吉、柳田國男に師事したものの、1941年(昭和16)には、臨時徴兵制度によって国学院大学国文学科を繰り上げ卒業します。
 1942年(昭和17)に東亜学校教授、日本文化協会研究員となり、初めての著書『悲劇文学の発生』を刊行、城北中学校教師となりました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、東京都板橋区小竹町で角川書店を設立、1947年(昭和22)に金尾梅の門の「古志」に幹部同人として参加、1948年(昭和23)には、雑誌「表現」を刊行(~1949年)します。
 1949年(昭和24)に角川文庫を創刊、合本として出版した『三太郎の日記』で、廃業寸前の角川書店を救い、1951年(昭和26)には、山本健吉の「現代俳句」を、俳句関連の書物としてはじめて角川書店から出版しました。1952年(昭和27)に俳句総合誌「俳句」を創刊、現代俳句協会に入会し、1953年(昭和28)には、『昭和文学全集』(全25巻)の出版を開始し、全集物ブームを引き起こします。
 1954年(昭和29)に短歌総合誌「短歌」創刊、1955年(昭和30)に角川俳句賞と角川短歌賞を設立、1956年(昭和31)に第1句集『ロダンの首』を刊行、1958年(昭和33)には、俳誌「河」を創刊・主宰しました。1961年(昭和36)に現代俳句協会を離れ、俳人協会設立に参加、常務理事となり、『語り物文芸の発生』で文学博士(国学院大学)を得て、1964年(昭和39)には、国学院大学文学部講師となります。
 1967年(昭和42)に俳句の「蛇笏賞」と短歌の「迢空賞」を設立、1971年(昭和46)に俳句文学館建設委員長に就任、1972年(昭和47)には、随想集『雉子の声』で第20回日本エッセイストクラブ賞を受賞しました。1975年(昭和50)には、慶応大学大学院講師、国学院大学理事となり、句集『西行の日』で第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)を受賞したものの、10月27日に入院していた東京女子医大病院において、肝臓癌のために、58歳で亡くなり、正五位、勲三等を追贈されています。

<角川源義の代表的な句>

・「何求(と)めて冬帽行くや切通し」(ロダンの首)
・「篁(たかむら)に一水まぎる秋燕」(秋燕)
・「花あれば西行の日とおもふべし」(西行の日)
・「後の月雨に終るや足まくら」

〇角川源義の主要な著作

・論文集『悲劇文学の発生』(1942年)
・句集『ロダンの首』(1956年)
・文芸評論集『語り物文芸の発生』(1961年)
・文芸評論集『源義経』(1966年)
・句集『秋燕』(1966年)
・句集『神との宴』(1969年)
・随想集『雉子の声』(1972年)第20回日本エッセイストクラブ賞受賞
・句集『冬の虹』(1972年)
・句集『西行の日』(1975年)第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)受賞 

☆角川源義関係略年表

・1917年(大正6)10月9日 富山県中新川郡東水橋町(現在の富山市水橋)において、商家を営む父・源三郎、母・ヤイの三男として生まれる
・1930年(昭和5) 富山県立神通中学校(現在の県立富山中部高等学校)に入学する
・1931年(昭和6) 中学の校友会誌に「俳人一茶の生涯」を寄稿する
・1932年(昭和7) 「草上」に投句をはじめる
・1935年(昭和10) 中学卒業後、第四高等学校受験に失敗して受験浪人となり、勉学のために京都に出る
・1936年(昭和11) 上京して東京市立一中(東京都立九段高等学校)の補習科に通い、折口信夫の「古代研究」に出会います
・1937年(昭和12) 折口信夫の在籍する国学院大学に入学、折口信夫や武田祐吉、柳田國男に師事する
・1941年(昭和16) 臨時徴兵制度によって国学院大学国文学科を繰り上げ卒業する
・1942年(昭和17) 東亜学校教授、日本文化協会研究員となり、初めての著書『悲劇文学の発生』を刊行、城北中学校教師となる
・1945年(昭和20) 東京都板橋区小竹町で角川書店を設立する
・1947年(昭和22) 金尾梅の門の「古志」に幹部同人として参加する
・1948年(昭和23) 雑誌「表現」を刊行(~1949年)する
・1949年(昭和24) 角川文庫を創刊、合本として出版した『三太郎の日記』で、廃業寸前の角川書店を救う
・1951年(昭和26) 山本健吉の「現代俳句」を、俳句関連の書物としてはじめて角川書店から出版する
・1952年(昭和27) 俳句総合誌「俳句」創刊、現代俳句協会に入会する
・1953年(昭和28) 『昭和文学全集』(全25巻)の出版を開始し、全集物ブームを引き起こす
・1954年(昭和29) 短歌総合誌「短歌」創刊する
・1955年(昭和30) 角川俳句賞と角川短歌賞を設立する
・1956年(昭和31) 第1句集『ロダンの首』を刊行する
・1958年(昭和33) 俳誌「河」を創刊・主宰する
・1961年(昭和36) 現代俳句協会を離れ、俳人協会設立に参加、常務理事となる。『語り物文芸の発生』で文学博士(国学院大学)となる
・1964年(昭和39) 国学院大学文学部講師となる
・1967年(昭和42) 俳句の「蛇笏賞」と短歌の「迢空賞」を設立する
・1971年(昭和46) 俳句文学館建設委員長に就任する
・1972年(昭和47) 随想集『雉子の声』で第20回日本エッセイストクラブ賞を受賞する
・1975年(昭和50) 慶応大学大学院講師、国学院大学理事となり、句集『西行の日』で第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)を受賞、10月27日に、入院していた東京女子医大病院において、肝臓癌のために、58歳で亡くなり、正五位、勲三等を追贈される
・1979年(昭和54) 文学・歴史の学術賞「角川源義賞」が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日「文字・活字文化振興法」により制定された「文字・活字文化の日」です詳細
1876年(明治9)秋月の乱がおこる詳細
1903年(明治36)幸徳秋水と堺利彦が平民社を設立する詳細
1914年(大正3)詩人・俳人木下夕爾の誕生日詳細
1933年(昭和8)小説家半村良の誕生日詳細
1977年(昭和52)日本画家前田青邨の命日詳細
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 今日は、江戸時代中期の1791年(寛政3)に、俳人で中興五傑の一人とされる加舎白雄が亡くなった日ですが、新暦では10月10日となります。 
 加舎白雄(かや しらお)は、江戸時代中期の1738年(元文3年8月20日)に、江戸・深川の上田藩深川抱屋敷において、上田藩江戸詰め藩士であった父・加舎吉亨の二男として生まれましたが、幼名を五郎吉。本名は吉春、また競と言いました。5歳の時に母に死別、16歳の時に俳句を知り、19歳の時に、初めて上田へ移住し、宝暦末期に宗匠の青峨門に入門して舎来と号し、11765年(明和2)の銚子滞在中に、松露庵烏明に師事し、白尾坊昨烏(さくう)と称するようになります。
 1766年(明和3)に、白井鳥酔 の供をして初めて吹上を訪れ、袋村の医師川鍋千杏の家を訪問、その後、地引村(現長生郡長南町)に墓参、大網・東金・九十九里・横芝から銚子へと行脚し、翌年には、俳人として初めて信州を行脚して自藩に入り、上田の小島麦二宅を訪れました。1769年(明和6)に、姨捨山の長楽寺に 芭蕉面影塚を建立、1770年(明和7)には、鴫立庵 に滞留後、江戸を去って信州に入り、更級郡八幡の独楽庵に逗留、『おもかげ集』を刊行します。
 1771年(明和8)に上田で『田毎の春』を刊行、上田の門人岡崎如毛・児玉左十と大輪寺に遊び、宮本虎杖を伴い北陸行脚に出て、加賀の千代尼、五升菴の蝶夢を訪ね、秋には松阪を訪れ、鳥酔の遺跡一葉庵に入り、京において俳論書『加佐里那止』を刊行しました。1772年(安永元)に伊勢神宮内宮で新年を迎え、古慊・如思(斗墨)・呉扇・滄波と共に 「南紀紀行」 の旅に出、松坂から東海道を下り江戸に帰り、翌年には、斗墨、烏光を伴い 「奥羽紀行」 の旅に出ています。
 1775年(安永4)に海晏寺で白井鳥酔七回忌法要を営んだ後、鳥明から破門され、江戸を去って甲州を行脚、1779年(安永8)に初めて白雄の号を使うようになり、翌年には、江戸日本橋鉄砲町に春秋庵を開いて自立しました。しかし、1783年(天明3)に春秋庵は火災に遭って復興したものの、1786年(天明6)には再び類焼し、日本橋馬喰町に移転します。
 1788年(天明8)に海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を実施、呉水を伴って相模に行脚、武州毛呂の碩布亭を訪問し、美濃口春鴻宅で芭蕉忌を執行しました。1790年(寛政2)に上田へ行って虎杖菴を訪れ、信州から江戸へ帰る途中、上州坂本で芭蕉の句碑のために揮毫しましたが、翌年9月13日に、江戸・日本橋の春秋庵において、数え年54歳で亡くなっています。
 尚、妻帯せず清貧孤高だったものの、門人は、関東から中部地方に4,000人を数え、俳人として名を知られた者だけでも200人以上いたと言われてきました。没後、1793年(寛政5)の三回忌に春秋庵社中が句碑を建立、1798年(寛政10)には、追善集『くろねぎ』が刊行されています。

<加舎白雄の代表的な句>

・「みちのくの空たよりなや霜の声」
・「ひと恋し火とぼしころを桜ちる」
・「いなづまやとゞまるところ人のうへ」
・「吹つくし後は草根に秋のかぜ」

〇加舎白雄の主要な著作・編著

・『おもかげ集』(1770年)
・『田毎の春』(1771年)
・俳論書『加佐里那止(かざりなし)』(1771年)
・『春秋稿』(1780年)
・『俳諧寂栞(はいかいさびしおり)』
・『文車(ふぐるま)』
・碩布編『白雄句集』(1793年)
・追善集『くろねぎ』(1798年)
・『寂栞 (さびしおり) 』(1812年)
・『白雄夜話』(1833年)

☆加舎白雄関係略年表(日付は旧暦です)

・1738年(元文3年8月20日) 江戸・深川の上田藩松平家の深川抱屋敷において、信濃国上田藩の江戸詰め藩士であった父・加舎吉亨の二男として生まれる
・1742年(寛保2年) 5歳の時、母に死別する
・1753年(宝暦3年) 16歳の時、俳句を知る
・1756年(宝暦6年) 19歳の時、初めて上田へ移住する
・1762~64年(宝暦末期) 宗匠の青峨門に入門し、舎来と号する
・1765年(明和2年) 銚子滞在中、松露庵烏明に師事し、白尾坊昨烏(さくう)と称する
・1766年(明和3年) 白井鳥酔 の供をして初めて吹上を訪れ、袋村の医師川鍋千杏 の家を訪問、その後、地引村(現長生郡長南町)に墓参、大網・東金・九十九里・横芝から銚子へと行脚する
・1767年(明和4年) 俳人として初めて信州を行脚して自藩に入り、上田の小島麦二宅を訪れる
・1768年(明和5年) 宮本虎杖が姨捨山に案内する
・1769年(明和6年) 姨捨山の長楽寺に 芭蕉面影塚を建立する
・1770年(明和7年) 鴫立庵 に滞留後、江戸を去って信州に入り、更級郡八幡の独楽庵に逗留、記念集『おもかげ集』を刊行する
・1771年(明和8年) 上田で『田毎の春』を刊行、上田の門人岡崎如毛・児玉左十と大輪寺に遊び、宮本虎杖を伴い北陸行脚に出て、加賀の千代尼、五升菴の蝶夢を訪ね、秋には松阪を訪れ、鳥酔の遺跡一葉庵に入り、京において俳論書『加佐里那止』を刊行する
・1772年(安永元年) 伊勢神宮内宮で新年を迎え、古慊・如思(斗墨)・呉扇・滄波と共に 「南紀紀行」 の旅に出、松坂から東海道を下り江戸に帰る
・1773年(安永2年) 斗墨、烏光を伴い 「奥羽紀行」 の旅に出る
・1775年(安永4年) 海晏寺で白井鳥酔七回忌法要を営んだ後、鳥明から破門され、江戸を去って甲州を行脚する
・1779年(安永8年) 初めて白雄の号を使う
・1780年(安永9年) 箕田村の桃源庵文郷の許で新春を迎え、江戸日本橋鉄砲町に春秋庵を開いて自立する
・1782年(天明2年) 海晏寺に白井鳥酔の墓参を行う
・1783年(天明3年) 相模の用田(現藤沢市用田)に門人楚雀を訪問し歌仙を巻き、夏に呉水 を伴い相模の真鶴・厚木を訪ね、呉水を同伴して 小河原雨塘を訪問、春秋庵は火災に遭う
・1784年(天明4年) 呉水を伴ない房総行脚、横芝では坂田小堤村(現在の横芝光町)の神保家を訪ね鳥酔の懐紙を見、呉水を伴なって伊那の中村伯先を訪れ、白井、渋川、引間を訪れた折、大久保の金谷里恭宅に数泊する
・1785年(天明5年) 大輪寺で兄吉重一周忌、虎杖菴に滞留、海晏寺で白井鳥酔十七回忌法要、伯先が芭蕉の句碑を建立に際し揮毫する
・1786年(天明6年) 春秋庵が再び類焼し、日本橋馬喰町移転する
・1788年(天明8年) 蝶夢が訪問、海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を実施、呉水を伴って相模に行脚、八王子に星布を訪ね、松原庵二世の嗣号を許し、武州毛呂の碩布亭を訪問、美濃口春鴻宅で芭蕉忌を執行する
・1790年(寛政2年) 兄吉重七周忌に上田へ行き、虎杖菴を訪れ、信州から江戸へ帰る途中、上州坂本で芭蕉の句碑に揮毫する
・1791年(寛政3年9月13日) 江戸・日本橋の春秋庵において、54歳で亡くなる
・1793年(寛政5年) 三回忌に春秋庵社中は白雄の句碑を建立する
・1798年(寛政10年) 追善集『くろねぎ』が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1733年(享保18)蘭学医杉田玄白の誕生日(新暦10月20日)詳細
1948年(昭和23)昭和電工事件で、福田赳夫大蔵省主計局長が10万円の収賄容疑で逮捕される詳細
1953年(昭和28)弁護士・社会運動家布施辰治の命日詳細
1955年(昭和30)東京・立川基地拡張の強制測量で反対地元同盟・支援労組・学生と警官隊が衝突する(砂川闘争)詳細
1975年(昭和50)版画家棟方志功の命日詳細
2007年(平成19)国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択される詳細
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 今日は、江戸時代中期の俳人・蕉風復興運動の中心者加藤暁台の生まれた日ですが、新暦では10月19日となります。
 加藤暁台(かとう きょうたい)は、尾張藩士岸上林右衛門の子として名古屋に生まれましたが、名は周挙(かねたか)と言いました。同藩士加藤仲右衛門の養子となり、加藤姓となり、17歳で尾張徳川家に出仕し、江戸の尾張藩邸において右筆部屋総帳方を務めます。
 俳諧は、1751年(宝暦元)頃に、武藤巴雀の門に入って他朗と号し、翌年に巴雀が亡くなると、その子白尼に師事し、買夜(ばいや)と号しました。1759年(宝暦9)の28歳の時、致仕して脱藩し、江戸を去って、俳諧に専念するようになります。
 名古屋を中心に「暮雨巷(ぼうこう)」と称する一派を形成、1763年(宝暦13)に、記念集『蛙啼集』を出し、始めて暁台を名乗り、1768年(明和5)には、『姑射文庫』を刊行し、明和年間に至って、名古屋前津に竜門と称する庵を結びました。1770年(明和7)に名古屋を立ち、芭蕉の『奥の細道』の跡を辿り、『しをり萩』を出し、1772年(安永元)には、『秋の日』(暁台編・也有序)を刊行して、蕉風復興の意図を明らかにします。
 安永年間(1772~81年)に、与謝蕪村一派と交遊して、中興俳諧の一中心となり、『去来抄』、『熱田三歌仙』(共に1775年)を世に紹介するに至りました。1783年(天明3)には、湖南幻住庵(義仲寺)、洛東安養寺端寮、金福寺芭蕉庵の3ヶ所において、芭蕉百回忌取越追善俳諧を興行します。
 1790年(寛政2)に、京都二条家に召されて俳諧宗匠の免状を受け、名声を高めました。高雅優美で多様な作風を示し、蕪村と並んで中興俳諧の代表的俳人とされましたが、1792年(寛政4年1月20日)に、京都において、数え年61歳で亡くなり、翌年には、一周忌の追悼集『落梅花』(臥央編)が出されています。

<加藤暁台の代表的な句>

・「秋の雨 ものうき顔に かかるなり」
・「秋の蚊や 香の煙の 前を行く」
・「あら海や 波をはなれて 秋の雲」
・「人の親の 焼野のきゝす うちにけり」
・「桐の花 寺は桂の 町はづれ」
・「馬の尾を むすび揚げたる 雪間かな」
・「梅林に 夜のほこりや 薄曇り」(辞世)

〇加藤暁台の主要な著作

・編著『蛙啼 (あてい) 集』(1763年)
・連句集『秋の日』(1772年)
・編著『風羅念仏 (ふうらねんぶつ) 』(1782~83年)
・『暁台句集』桜田臥央編(1809年)

☆加藤暁台関係略年表(日付は旧暦です)

・1732年(享保17年9月1日) 尾張藩士岸上林右衛門の子として名古屋に生まれる
・1748年(延享5年) 17歳の時、尾張徳川家に出仕する
・1751年(宝暦元年) 20歳の頃、武藤巴雀の門に入る
・1752年(宝暦2年) 21歳の時、武藤巴雀が亡くなり、その子白尼に師事する
・1759年(宝暦9年) 28歳の時、致仕して脱藩し、江戸を去る
・1762年(宝暦12年10月) 矢作の橋守園連中は聖願寺十王堂に蛙塚を建立。買夜(暁台の前号)書。「古池や蛙飛込む水のおと」
・1763年(宝暦13年) 記念集『蛙啼集』(暁台自序)を出し、始めて暁台を名乗る
・1765年(明和2年秋) 信濃路・武蔵野の旅をする。也有の紹介で鴻巣の布袋庵を訪ねる
・1768年(明和5年) 『姑射文庫』を刊行する
・1770年(明和7年3月16日) 名古屋を立ち、芭蕉の『奥の細道』の跡を辿る。『送別しをり萩』、『二編しをり萩』。仙台を訪れ、山田丈芝と出会う。
・1772年(安永元年12月) 『秋の日』(暁台編・也有序)を刊行する
・1773年(安永2年春) 丈芝は名古屋へ赴き暁台に俳諧を学ぶ
・1774年(安永3年4月) 暁台は丈芝を伴って上京。7日、夜半亭興行。夏四月七日、於夜半亭興行 長安萬戸子規一聲
・1774年(安永3年9月) 加藤暁台は義仲寺の幻住庵に滞在。蕪村来訪。
・1775年(安永4年3月) 加藤暁台は『去来抄』(去来著)板行。暁台序、士朗跋。
・1775年(安永4年5月) 『熱田三歌仙』(暁台編)自序。
・1775年(安永4年6月12日) 暁台は出雲崎から佐渡へ渡る。29日、出雲崎に戻る。
・1776年(安永5年2月) 暁台は上京。蕪村を訪ね、伏見・嵯峨に遊ぶ
・1781年(天明元年) 加藤暁台は江戸に出て、周辺を遊歴する
・1782年(天明2年) 隅田川西岸再可子の楼上で新年を迎え、『風羅念仏』(房総の巻)を刊行する
・1782年(天明2年9月) 加藤暁台は再度白川の関を越えて奥州に入る
・1783年(天明3年3月2日) 加藤暁台は上京。湖南幻住庵、洛東安養寺端寮、金福寺芭蕉庵の3ケ所で芭蕉百回忌取越追善俳諧を興行、『風羅念仏』(法会の巻)を刊行する
・1783年(天明3年秋) 加藤暁台は信濃から甲斐に赴き、可都里を訪ねている
・1783年(天明3年冬) 加藤暁台は上田に来遊、大輪寺で歌仙を巻く
・1786年(天明6年8月1日) 母を喪う
・1786年(天明6年9月9日 大津に遊ぶ
・1787年(天明7年) 栗田樗堂は京都・大和・尾張を巡る。『爪しるし』暮雨奄暁台序
・1790年(寛政2年) 京都二条家に召されて俳諧宗匠の免状を受ける
・1792年(寛政4年1月20日) 京都において、数え年61歳で亡くなる
・1793年(寛政5年) 一周忌の追悼集『落梅花』(臥央編)が出される
・1799年(寛政11年) 『幽蘭集』(暁台編・臥央校)が出される
・1801年(亨和元年8月) 尾張国春日井郡内津村に暁台の句碑「人の親の焼野のきゝすうちにけり」が建立される
・1809年(文化6年) 『暁台句集』(臥央編・士朗序。自跋)刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1904年(明治37)与謝野晶子が文芸誌『明星』に反戦詩「君死にたまふこと勿れ」を発表詳細
1911年(明治44)平塚らいてうらが女性文藝雑誌「青踏」を創刊し、「元始、女性は太陽であつた」が掲げられる詳細
1916年(大正5)「工場法」が施行される詳細
1923年(大正12)関東大震災が起き、190万人が被災、10万5千人余が死亡・行方不明(防災の日)詳細
1931年(昭和6)清水トンネルが開通し、上越線が全通する詳細
1939年(昭和14)第1回興亜奉公日が実施され、国旗掲揚、宮城遥拝、勤労奉仕等が行われる詳細
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 今日は、江戸時代中期の1742年(寛保2)に、医者・俳人井上士朗の生まれた日ですが、新暦では4月14日となります。
 井上士朗(いのうえしろう)は、尾張国春日井郡守山村(現在の愛知県名古屋市守山区)において生まれましたが、本名は正春と言いました。叔父の町医師・井上安清(名古屋新町在住)の養子となり、専庵と号し、1757年(宝暦7年2月)には、医師として独立し、後に京都に上り、吉増周輔に師事、産科医として著名となります。
 1765年~66年(明和2~3年)頃に、水野万岱の勧めで加藤暁台に入門して、俳句を習い、それ以外にも国学を本居宣長、絵画を勝野范古、平曲を荻野検校に学び、漢学にも詳しく、幅の広い知識人となりました。師の暁台が隠居して京都に移るとその留守を預かり、1792年(寛政4)に、暁台が亡くなると、一門を同門俳友の臥央に譲り独立します。
 尾張俳壇の指導者的立場を強めていき、衰退ぎみだった俳諧連歌(連句)においては俳句に勝る評価を得るようになりました。門人は、東は奥州から西は九州と全国に及びその名声は高まり、「尾張名古屋は士朗(城)で持つ」と俗謡にうたわれ、夏目成美、鈴木道彦と共に寛政三大家の一人とされるようになりましたが、1812年(文化9年5月16日)に、名古屋において、数え年71歳で亡くなっています。

<井上士朗の代表的な句>

・「足軽の かたまつて行く 寒さ哉」(竪並(たてのならび)集)
・「たうたうと 滝の落ちこむ 茂りかな」
・「小倉山 鹿の子やわたる 路の欠」
・「月の舟 池の向ふへ つきやりて」
・「万代や 山の上より けふの月」

〇井上士朗の主要な著作

・句集『枇杷園句集』(1804年)
・句集『枇杷園句集後集』(1808年)
・『枇杷園随筆』(1810年)
・『枇杷園七部集』1~5編(1825年)

☆井上士朗関係略年表(日付は旧暦です)

・1742年(寛保2年3月10日) 尾張国春日井郡守山村(現在の愛知県名古屋市守山区)において生まれる
・1757年(宝暦7年2月) 医師として独立する
・1763年(宝暦13年) 三河国矢作で橋守園連中の『蛙啼集』に初入選する
・1765年~66年(明和2~3年頃) 水野万岱の勧めで加藤暁台に入門する
・1768年(明和5年) 『姑射文庫』で初めて枇杷園の号を使用する
・1774年(安永3年) 伊藤都貢と共に京都に上り、与謝蕪村と交流、難波、伏見、大津を経て伊勢神宮を参拝して帰宅する
・1777年(安永6年12月) 尾張藩主御目見となる
・1783年(天明3年) 『風羅念仏』法会の巻(士朗序・はせを堂蘭更跋)
・1784年(天明4年4月) 尾張藩御用懸を務める
・1789年(寛政元年3月) 本居宣長が名古屋を訪れた際、門人録に署名する
・1790年(寛政2年) 士朗・羅城・臥央等7人は千代倉家を訪れて芭蕉の笈を見る、京都の二条家屋敷で加藤暁台を宗匠とする中興御俳諧之百韻が行われた際には、士朗は萌黄散服を着用する
・1792年(寛政4年閏2月) 多度山に参詣し、『楽書日記』を著す
・1793年(寛政5年) 加藤暁台の墓参に上京し、吉野を回って帰り、『桜日記』を刊行、芭蕉の百回忌記念集『麻刈集』(士朗編)を出す
・1794年(寛政6年) 妻・貞庵が亡くなる
・1795年(寛政7年) 藤森素檗は尾張に行脚して井上士朗及びその一門らと歌仙を巻く。『草まくら』。
・1796年(寛政8年5月) 『松の炭』(蕉雨編・士朗序)が刊行される
・1798年(寛政10年6月9日) 美濃路を経て木曽に入る
・1799年(寛政11年) 『幽蘭集』(暁台編・臥央校・士朗序)
・1801年(享和元年) 二之丸御次療治を務める、門人松兄・卓池を伴い江戸へ旅をする
・1802年(享和2年11月2日) 『むぐらのおく』(南江・士朗序)
・1803年(享和3年) 名古屋市南区笠寺町の笠覆寺に「暁台塚」を建立、中風のため藩医を引退する
・1804年(文化元年5月16日) 岳輅が名古屋市の妙安寺に士朗の句碑を建立する
・1804年(文化元年) 『枇杷園句集』(桂五序。岳輅跋)を刊行する
・1807年(文化4年) 発病するも快方に向かう、見舞いに贈られた句を『花筏』に記録、医業を息子に譲って隠居し、松翁と号する
・1808年(文化5年) 多賀庵玄蛙は枇杷園で俳諧を興行する
・1809年(文化6年) 『暁台句集』(臥央編・士朗序・自跋)を刊行、倉田葛三は九州行脚の途上、井上士朗を訪ねる
・1810年(文化7年9月) 『枇杷園随筆』(士朗編・秋舉・大蘇序)が刊行される
・1811年(文化8年) 古稀を迎え、各地の門弟により賀集が出版される
・1812年(文化9年) 『惟然坊句文集』(中島秋擧編・朱樹叟士朗序)が刊行、『萍窓集』(尾張朱樹叟士朗序)
・1812年(文化9年5月16日) 名古屋において、71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

710年(和銅3)元明天皇が藤原京から平城京に都を遷す(新暦4月13日)詳細
1771年(明和8)八重山地震(推定M7.4)による大津波(明和の大津波)で、先島諸島に大被害が出る(新暦4月24日)詳細
1900年(明治33)「治安警察法」が公布される詳細
1945年(昭和20)東京大空襲か行われ、死傷10万人以上、焼失27万余戸、罹災100余万人が出る詳細
1975年(昭和50)山陽新幹線の岡山駅~博多駅間が延伸開業し、全線開業する詳細
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