ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 教育・文化

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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、「市町村義務教育国庫負担法」が公布(施行は同年4月1日)された日です。
 「市町村義務教育費国庫負担法」(しちょうそんぎむきょういくこっこふたんほう)は、市町村財政の負担軽減と教育の改善とを目的として、初めて、教員の俸給の一部を国が負担することを定めた法律(大正7年法律第18号)でした。大正時代になって、義務教育が普及しますが、第1次大戦後の地方財政の窮乏化と不均等化が進行します。
 その中で、教員給与の改善と市町村財政改善のため、 義務教育費の国庫負担を要求する建議案や請願があいついで、帝国議会に出されました。 そこで、1917年(大正6)に、内閣直属の臨時教育会議が設置され、小学校教員給与の国庫負担に関する答申が出されるに至ります。
 その結果、本法が成立し、1918年(大正7)3月27日に公布され、4月1日から施行されることになりました。これにより、 義務教育学校教員給与の一部を国が負担し(第一条)、 その金額は毎年1千万円を下らぬこととし(第二条)、 その半額は教員数、 半額は生徒数に比例して市町村に交付し(第三条)、 一部は財政力の弱い町村に特別交付する(第四条)とされます。
 この法律は、1940年(昭和15)に、「義務教育費国庫負担法」(昭和15年法律第22号)に受け継がれることとなりました。
 以下に、「市町村義務教育費国庫負担法」(大正7年法律第18号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「市町村義務教育費国庫負担法」(大正7年法律第18号)1918年(大正7)3月27日公布、4月1日施行

第一条 市町村立尋常小学校ノ正教員及准教員ノ俸給ニ要スル費用ノ一部ハ国庫之ヲ負担ス

第二条 前条ノ規定ニ依リ国庫ノ負担トシテ支出スヘキ金額ハ毎年度千万円ヲ下ラサルモノトス

第三条 国庫支出金ハ第四条ノ規定ニ依リ交付スル金額ヲ除キ其ノ半額ハ前年六月一日ニ於ケル市町村立尋常小学校ノ正教員及准教員ノ数ニ、他ノ半額ハ前年六月一日ニ於ケル市町村ノ就学児童数ニ比例シテ之ヲ市町村ニ交付ス

第四条 文部大臣ハ国庫支出金ノ十分ノーヲ超エサル範囲内ニ於テ資力薄弱ナル町村ニ対シ特ニ交付金額ヲ増加スルコトヲ得

第五条 本法ノ適用ニ付テハ市町村組合又ハ町村組合ハ之ヲ市町村ト看做ス市制又ハ町村制ヲ施行セサル地域ニ於ケル市町村ニ準スヘキ公共団体、其ノ組合又ハ小学校設置区域亦同シ
2 本法ノ適用ニ付テハ市町村立尋常高等小学校ニ於テ尋常小学校ノ教科ヲ授クヘキ部分ハ之ヲ市町村立尋常小学校ト看做ス

  附 則

本法ハ大正七年四月一日ヨリ施行ス

☆義務教育費国庫負担制度の沿革

・1896年(明治29) 「教員年功加俸国庫補助法」により、教員の俸給の一部を国庫補助とする
・1900年(明治33) 「市町村立小学校教育費国庫補助法」により、国庫補助を拡充、「改正小学校令」により、授業料徴収を廃止し、義務教育無償制を実現する
・1918年(大正7) 「市町村義務教育費国庫負担法」 により、市町村財政の負担軽減と教育の改善とを目的として、教員の俸給の一部を国が負担する
・1940年(昭和15) 「義務教育費国庫負担法」、「市町村立小学校教員俸給及び旅費の負担に関する件」(勅令)により、市町村財政力の不均衡拡大を背景に、定額負担制から実支出額の1/2国庫負担制になり、給与負担を市町村負担から道府県負担へ変更する
・1949年(昭和24) 「教育公務員特例法」、「市町村立学校職員給与負担法」により、給与費等の都道府県負担を制定する
・1950年(昭和25) 義務教育費国庫負担制度が廃止され、地方財政平衡交付金制度が創設され、これに吸収されねる(昭和24年シャウプ勧告)
・1953年(昭和28) 「義務教育国庫負担法」により、義務教育無償の原則に則り、「国民のすべてに対しその妥当な規模と内容とを保障する」ため、教職員の給与費等の実支出額の1/2国庫負担となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1689年(元禄2)松尾芭蕉が曾良と共に深川から『おくのほそ道』の旅に出発(新暦5月16日)詳細
1837年(天保8)元大坂東町奉行所与力・陽明学者大塩平八郎が市中潜伏中に幕吏に囲まれ、自刃する(新暦5月1日)詳細
1926年(大正15)歌人島木赤彦の命日(赤彦忌)詳細
1933年(昭和8)昭和天皇が「国際連盟脱退ノ詔書」を出し、日本政府が国際連盟事務局に国際連盟脱退の通告を行なう詳細
1968年(昭和43)厚生省が「イタイイタイ病の原因に関する研究」を発行、カドミウム汚染の状況が明らかにされる詳細
1998年(平成10)小説家・ノンフィクション作家山本茂実の命日詳細
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 今日は、南北朝時代の1356年(正平11/延文元)に、二条良基が日本初の連歌選集『菟玖波集』を編纂し、序文が書かれた日ですが、新暦では4月26日となります。
 『菟玖波集』(つくばしゅう)は、二条良基、救済撰による、わが国最初の連歌集でした。南北朝時代の1356年(正平11/延文元年3月25日)の序文(近衛道嗣の真名序・二条良基の仮名序)を持ち、その後しばらくして完成し、翌年准勅撰連歌集となります。
 古代から南北朝時代に至る連歌(付句2,000余、発句約120)を20巻に編集したものでした。作者は公家、武家、僧侶ほか各階層にわたって、500人以上にも及び、上位入集者は、救済(127句)、二品法親王尊胤(90句)、二条良基(87句)、佐々木道誉(81句)、足利尊氏(68句)です。
 連歌の文学的地位を高め、その後の発展の重要な礎石となり、後の『新撰菟玖波集』と共に連歌史上最も重要なものとされてきました。

〇二条良基(にじょう よしもと)とは?

 南北朝時代に活躍した公卿、歌人であり連歌の大成者です。1320年(元応2)に、関白だった父・二条道平、母・西園寺婉子(洞院公賢の娘)の嫡子として生まれました。
 1327年(嘉暦2)に、8歳で元服し、正五位下侍従となり、1328年(嘉暦3)に従四位上に昇叙し、さらに、従三位に昇叙、翌年には、権中納言に転任します。しかし、1332年(正慶元)に、元弘の乱が発生して後醍醐天皇は隠岐島に配流され、内覧であった父・道平は倒幕への関与が疑われて幽閉され、良基も権中納言兼左近衛中将の地位を追われました。
 翌年には、鎌倉幕府が滅亡し、京都に復帰して 建武の新政を開始した後醍醐天皇に仕え、権中納言に還任し、従二位に昇叙しています。1335年(建武2)に父・道平が急逝、1336年(延元元/建武3)に権大納言となりますが、後醍醐天皇は足利尊氏によって政権を追われ、吉野へ逃れて南朝(吉野朝廷)を成立させたものの、それに従わず京都に留まりました。
 北朝の光明天皇に仕え、1337年(延元2/建武4)に正二位に昇叙し、翌年には、左近衛大将を兼任します。1339年(延元4/暦応2)に母・西園寺婉子が亡くなりましたが、翌年に内大臣に任命され、1342年(興国3/康永元)には、東宮(興仁親王、のちの崇光天皇)傅を兼ね、翌年には、右大臣に転任しました。
 1345年(興国6/貞和元)最初の連歌論書である『僻連抄』が著され、翌年には、光明天皇の関白及び藤氏長者に任命されます。1347年(正平2/貞和3)に従一位に昇叙し、左大臣に転任したものの、翌年に東宮傅を辞任、1349年(正平4/貞和5)には、左大臣も辞任しました。
 1356年(正平11/延文元)に救済と共に連歌撰集である『菟玖波集』20巻を編集し、自分の句を87句入集させています。1363年(正平18/貞治2)に頓阿と共著『愚問賢註』を著し、1366年(正平21/貞治5)に『年中行事歌合』を主催して、その判詞を執筆、翌年に『新玉津島歌合』においても主要な役割を演じ、1372年(文中元/応安5)には、連歌式目として『応安新式』を制定しました。
 1376年(天授2/永和2)に准三宮宣下され、1381年(弘和元/永徳元)に太政大臣に任命され、1382年(弘和2/永徳2)に後小松天皇の即位と共に摂政となり、一方で、『新後拾遺和歌集』の仮名序も執筆しています。1383年(弘和3/永徳3)に内舎人随身を賜りましたが、1387年(元中4/至徳4)には、太政大臣と摂政を辞任し、松田貞秀に『近来風体抄』を書き与えました。
 歌道に通じ、博学多識、特に連歌の興隆に果した役割は注目されましたが、1388年(元中5/嘉慶2年6月13日)に、数え年69歳で亡くなっています。

<二条良基の主要な著作>
・連歌論書『僻連抄』(1345年)
・連歌論書『連理秘抄』(1349年)
・紀行『小島 (おじま) の口ずさみ』(1353年)
・救済と共撰『菟玖波集』20巻(1356年)
・連歌論書『撃蒙抄』(1358年)
・頓阿と共著歌論書『愚問賢註(ぐもんけんちゅう)』(1363年)
・連歌論書『筑波問答』(1372年)
・連歌論書『九州問答』(1376年)
・連歌論書『連歌十様』(1379年)
・連歌論書『十問最秘抄』(1383年)
・歌論書『近来風体抄』(1387年)
・連歌論書『知連抄』(1387年)

☆二条良基関係略年表(日付は旧暦です)

・元応2年(1320年) 関白だった父・二条道平、母・西園寺婉子(洞院公賢の娘)の嫡子として生まれる
・嘉暦2年(1327年) 元服し、禁色を許され、正五位下に叙位し、侍従に任官、左近衛少将に転任、従四位下に昇叙し、左近衛中将に転任する
・嘉暦3年(1328年) 従四位上に昇叙し、さらに、従三位に昇叙する
・嘉暦4年(1329年) 権中納言に転任する
・元徳2年(1330年) 正三位に昇叙する
・正慶元年(1332年) 権中納言を辞任する
・元弘3年(1333年) 権中納言に還任、従二位に昇叙する
・建武2年(1335年) 父・道平が急逝する
・延元元年・建武3年(1336年) 権大納言に転任、後醍醐天皇は足利尊氏によって政権を追われ、吉野へ逃れて南朝(吉野朝廷)を成立させたものの、それに従わず京都に留まる
・延元2年・建武4年(1337年) 正二位に昇叙しする
・延元3年・暦応元年(1338年) 左近衛大将を兼任する
・延元4年・暦応2年(1339年) 母・西園寺婉子が亡くなる
・興国元年・暦応3年(1340年) 内大臣に任命される
・興国3年・康永元年(1342年) 東宮(興仁親王、のちの崇光天皇)傅を兼ね。左近衛大将を辞職する
・興国4年・康永2年(1343年) 右大臣に転任する
・興国6年・貞和元年(1345年) 最初の連歌論書である『僻連抄』を著わす
・正平元年・貞和2年(1346年) 関白宣下、内覧宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下される
・正平2年・貞和3年(1347年) 従一位に昇叙し、左大臣に転任する
・正平3年・貞和4年(1348年) 東宮傅を辞任する
・正平4年・貞和5年(1349年) 左大臣を辞任する
・正平11年・延文元年(1356年) 救済と共に『菟玖波(つくば)集』を編集する
・正平13年・延文3年(1358年) 関白を辞任し、内覧宣下される
・正平18年・貞治2年(1363年) 関白宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下され、頓阿と共著『愚問賢註(ぐもんけんちゅう)』を著す
・正平21年・貞治5年(1366年) 『年中行事歌合(うたあわせ)』を主催して、その判詞を執筆する
・正平22年・貞治6年(1367年) 『新玉津島歌合』においても主要な役割を演じ、関白を辞すも内覧宣下される
・文中元年・応安5年(1372年) 連歌式目として『応安(おうあん)新式』を制定する
・天授2年・永和2年(1376年) 准三宮宣下される
・弘和元年・永徳元年(1381年) 太政大臣に任命される
・弘和2年・永徳2年(1382年) 摂政宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下され、『新後拾遺(しんごしゅうい)和歌集』の仮名序を執筆する
・弘和3年・永徳3年(1383年) 内舎人随身を賜る
・元中4年・至徳4年(1387年) 太政大臣を辞任、摂政を辞し、内覧宣下され、松田貞秀(さだひで)に『近来風体抄(きんらいふうていしょう)』を書き与える
・元中5年・嘉慶2年(1388年) 摂政宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下され、6月13日に数え年69歳で亡くなり、後普光園院摂政太政大臣と号する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

850年(嘉祥3)第56代の天皇とされる清和天皇(源氏の祖)の誕生日(新暦5月10日)詳細
1906年(明治39)島崎藤村が長篇小説『破戒』を「緑陰叢書」第1篇として自費出版し、自然主義文学の出発点となる詳細
1919年(大正8)建築家・工学博士で、「日本近代建築の父」と呼ばれた辰野金吾の命日詳細
1928年(昭和3)全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成される詳細
1939年(昭和14)「軍用資源秘密保護法」が公布(施行は同年6月26日)される詳細
2005年(平成17)愛知県において、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)が開幕する詳細
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 今日は、明治時代後期の1906年(明治38)に、上野公園内に帝国図書館の新館庁舎(現在の国際子ども図書館)が竣工、移転し、開館式が挙行された日です。
 帝国図書館(ていこくとしょかん)は、東京都台東区の上野公園内にあった、戦前唯一の国立図書館でした。その前身は、1872年(明治5年8月1日)文部省によって博物局内に開設されたされた「書籍館(しょじゃくかん)」で、その後一時東京府に移管されたものの、1880年(明治13)に再び文部省の所管となって、「東京図書館」と改称されます。
 1885年(明治18)に上野公園内に移転し、1889年(明治22)3月2日に「東京図書館官制」が規定されて、文部行政のもとにおいて運営されました。そして、1897年(明治30)4月27日に、「帝国図書館官制」が公布(官報公示)され、「帝国図書館」となりますが、欧米の国会図書館に倣って整備拡充を図ることを目指すこととなります。
 同令第一条では「帝国図書館ハ文部大臣ノ管理ニ属シ内外古今ノ図書ヲ蒐集保存シ及衆庶ノ閲覧参考ノ用ニ供ズル所トス」と規定し、日本で唯一の国立図書館として国内の新刊書の大部分を収蔵していくものでした。しかし、1898年(明治31)に新館建設に着手されたものの、日露戦争による財政逼迫によって、全設計の1/4の規模で1906年(明治38)3月20日の開館を余儀なくされます。
 それでも、文部省年報によれば、同館の蔵書総数は、1897年(明治30)で164,219冊、1902年(明治35)、217,092冊、1907年(明治40)には260,771冊と着実に増加しました。1921年(大正10)からは、文部省の図書館員教習所(後の図書館情報大学)も館内に設置されるなど、図書館行政の拠点となり、戦前の日本の図書館界を主導していきます。
 太平洋戦争後は、1947(昭和22)12月4日に「国立図書館」と改称され、1949年(昭和24)には、「国立国会図書館」に統合され、「国立国会図書館支部上野図書館」となりました。その後この建物は、1999年(平成11)に東京都選定歴史的建造物に指定され、2000年(平成12)に、建設時の庁舎を利用して「国立国会図書館」の支部図書館である「国際子ども図書館」へと改装開館されています。

〇帝国図書館関係略年表

・1872年(明治5年8月1日) 文部省によって博物局内に「書籍館(しょじゃくかん)」が開設される
・1873年(明治6年) ウィーン万国博覧会参加のためにつくられた太政官博覧会事務局に文部省博物局が併合されると書籍館も文部省の管轄を離れる
・1875年(明治8年) 博物館と書籍館を組織のみ文部省の所管に取り戻す
・1877年(明治10年) 財政難から廃止が決定され、東京府に移管されて学務課が管轄する東京府書籍館となる
・1880年(明治13年) 東京府から再び文部省の所管となって、「東京図書館」と改称される
・1885年(明治18年) 東京教育博物館(国立科学博物館の前身)と合併して上野公園内に移転する
・1889年(明治22年)3月2日 「東京図書館官制」が規定され、東京教育博物館から分離、独立の図書館となる
・1890年(明治23年) 東京図書館の館長に就任した田中稲城が、「帝国図書館」の設置をはたらきかける
・1897年(明治30年)4月27日 「帝国図書館官制」が公布(官報公示)され、「帝国図書館」となる
・1898年(明治31年) 新館建設に着手される
・1906年(明治38年)3月20日 上野公園内に新館庁舎(現在の国際子ども図書館)が竣工し移転し、開館式を挙行する
・1897年(明治30年) 図書館の蔵書が164,219冊となる
・1902年(明治35年) 図書館の蔵書が217,092冊となる
・1907年(明治40年) 図書館の蔵書が260,771冊となる
・1921年(大正10年) 文部省の図書館員教習所(後の図書館情報大学)が館内に設置される
・1923年(大正12年)9月1日 関東大震災では蔵書と庁舎に損傷を受けたが軽微で済む
・1947年(昭和22年)12月4日 「国立図書館」と改称される
・1949年(昭和24年) 「国立国会図書館」に統合され、「国立国会図書館支部上野図書館」となる
・1999年(平成11年) 東京都選定歴史的建造物に指定される
・2000年(平成12年) 建設時の庁舎を利用して「国立国会図書館」の支部図書館である「国際子ども図書館」へと改装開館される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)上野公園に博物館(現在の東京国立博物館)が開館する詳細
上野公園に博物館附属動物園(上野動物園)が開館する詳細
1883年(明治16)自由民権運動への弾圧となる高田事件(新潟県)が起こる詳細
1914年(大正3)東京の上野公園等で「東京大正博覧会」が開幕する詳細
1935年(昭和10)日本画家速水御舟の命日詳細
1956年(昭和31)秋田県で第二次能代大火が起き、市街の三分の一となる1,475棟を焼失する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、「都新聞」で尾崎士郎著『人生劇場青春編』の連載が開始された日です。
 『人生劇場』(じんせいげきじょう)は、尾崎士郎著の自伝的長編小説で、1933年(昭和8)3月18日から「都新聞」に『青春編』が掲載されました。その後、『愛慾編』 (1934~35年) 、『残侠編』 (1936年) 、『風雲編』 (1938~39年) 、『離愁編』 (1943年) 、『夢現編』 (1947年) 、『望郷編』 (1951~52年) 、『蕩子編』 (1959年) と断続的に8編が発表され、完結しています。
 愛知県吉良町(現在の西尾市)から上京し、早稲田大学に入学した青成瓢吉(あおなりひょうきち)が、学園騒動を引き起こすところを描いて好評を博し、大正~昭和時代へと移る社会の動きを背景に、義理と人情の仁侠(にんきょう)の世界を描写し、日本的心情があふれていたこともあって、評価を得ました。特に、『青春編』は、評価も高く、川端康成が絶賛して、ベストセラーともなり、文芸懇話会賞を受賞し、作者の作家としての地位を定めた代表作とされています。

〇尾崎士郎(おざき しろう)とは?

 昭和時代に活躍した小説家です。明治時代後期の1898年(明治31)2月5日に、愛知県幡豆郡横須賀村(現在の西尾市)で、綿実買問屋「辰巳屋」として郵便局もやっていた父・嘉三郎、母・よねの三男として生まれました。
 横須賀尋常高等小学校(現在の市立横須賀小学校)から、1910年(明治43)に愛知県立第二中学校(現在の県立岡崎高等学校)に入学します。在学中に政治に関心をもち雄弁家として知られ、雑誌『世界の日本』の懸賞募集に「いかにして選挙権を拡張すべき乎」を寄稿して、三位入選しました。
 1916年(大正5)に上京して、早稲田大学政治学科に入り、普選運動や社会主義運動にも関わりましたが、1919年(大正8)に中退します。翌年、『近世社会主義発達史論』を刊行し、1921年(大正10)には、『獄中より』で時事新報の懸賞小説第二席に入選しました。
 その後、『逃避行』を著して社会主義運動から離脱して文学に転じ、作家生活に入り、1926年(大正15)に宇野千代と結婚(1930年離婚)します。1933年(昭和8)から都新聞連載の『人生劇場』で文芸懇話会賞を受賞、流行作家となりました。
 戦時中は陸軍宣伝班員として、戦地に赴き、民族心を喚起する小説や著作を多く書いたため、戦後公職追放となります。1950年(昭和25)に追放解除となり、翌年に『天皇機関説』によって文芸春秋読者賞を受賞して文壇に復帰、それからは歴史小説を多く書き、中間小説作家として活躍しました。
 また、随筆誌『風報』 (1954~62年) を発刊し、自伝随筆集『小説四十六年』(1962年)、『一文士の告白』(1963~64年)なども書きましたが、1964年(昭和39)2月19日に、東京において、66歳で亡くなっています。尚、没後に文化功労者が追贈されました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1473年(文明5)武将・守護大名山名持豊(宗全)の命日(新暦4月15日)詳細
1874年(明治7)医学者・九州帝大教授・東京帝大教授・日本医師会会長稲田龍吉の誕生日詳細
1881年(明治14)自由民権派の日刊新聞「東洋自由新聞」が創刊される詳細
1925年(大正14)大正日暮里大火が起き、全半焼約2,100戸を出す詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣で「決戦教育措置要綱」が閣議決定される詳細
1965年(昭和40)愛知県犬山市に「博物館明治村」が開村する詳細
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 今日は、江戸時代後期の1855年(安政2)に、緒方洪庵の適塾に福沢諭吉が入塾した日です。
 適塾(てきじゅく)は、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が、江戸時代後期の1838年(天保9)に、大坂の瓦町に開いた蘭学の家塾ですが、正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)といいました。1843年(天保14)には、船場過書町に移転して、大いに発展し、緒方洪庵が1862年(文久2)に江戸に移るまで続きます。
 この間の門人数は600名余りで、出身地はほぼ全国に及び、大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介など幕末から明治にかけて活躍した人材を多数輩出しました。尚、建物は現存していて、「緒方洪庵旧宅および塾」として1941年(昭和16)に国の史跡指定を受け、1964年(昭和39)には国の重要文化財ともなっています。

〇緒方洪庵(おがた こうあん)とは?

 江戸時代後期に活躍した武士・医師・蘭学者です。1810年(文化7年7月14日)に、備中国足守(現在の岡山県岡山市)において、足守藩士佐伯瀬左衛門の三男として生まれましたが、幼名は田上之助といいました。
 1825年(文政8)に元服して田上惟章と名乗るようになり、父が大坂蔵屋敷留守居役になったため同行して大坂に出ます。翌年に中天游の私塾「思々斎塾」に入門、4年間蘭学を学び、1831年(天保2)には、江戸へ出て坪井信道に入門(3年間在塾)、さらに宇田川玄真にも学びました。
 1836年(天保7)に長崎へ遊学し、オランダ商館長ニーマンのもとで医学を学び、この頃から洪庵と号すようになります。1838年(天保9)に、大坂に帰って瓦町で医業を開業するとともに、蘭学塾「適塾(適々斎塾)」を始めました。
 名が知られるようになり、門弟も増えたので、1845年(弘化2)に、過書町の商家跡へ適塾を移転します。多くの人材が集い、門人は600名以上に及び、大鳥圭介、佐野常民、大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内らを輩出しました。
 また、1849年(嘉永2)に、牛痘種痘法による切痘を始め、『虎狼痢治準』、『扶氏経験遺訓』、『病学通論』などの著訳書を出して、蘭学・医学の発展に貢献します。1862年(文久2)には、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕し、「法眼」にも叙せられました。
 しかし、1863年(文久3年6月11日)、江戸の役宅において突然喀血し、52歳で急逝します。

〇福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)とは?

 幕末から明治時代の思想家・教育者です。1835年(天保5)に豊前国中津藩士福沢百助の五男として、大坂藩邸で生まれました。
 1854年(安政元)に長崎で蘭学を学び、翌年大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾に学び、塾頭にまでなります。1858年(安政5)藩命によって江戸へ出府し、鉄砲洲の中津藩邸内に蘭学塾を開きました。
 その後、英学を独修し、1860年(万延元)には幕府の軍艦咸臨丸の艦長の従僕を志願して渡米することになります。以後、1861年(文久元)~翌年、1867年(慶応3)と都合3回幕府遣外使節に随行して欧米を視察しました。
 その経験をもとに1866年(慶応2)『西洋事情』初編、1868年(慶応4)『西洋事情』外編、1869年(明治2)『世界国尽』(1869)などを刊行して大衆の啓蒙に寄与します。また、1868年(慶応4)蘭学塾の名を慶応義塾と改め。今日の慶應義塾大学の礎を築きました。
 そして、1872年(明治5)から1876年(明治9)にわたって出版した『学問のすゝめ』は、人間平等宣言と「一身の独立」「一国の独立」の主張により、ベストセラーとなります。このように、教育と啓蒙活動に専念し、1873年(明治6)に明六社を設立、1875年(明治8)『文明論之概略』を出版、(1875)1882年(明治15)「時事新報」を創刊するなどしてきましたが、1901年(明治34)年2月3日に68歳で死去しました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1634年(寛永11)将棋師・一世名人大橋宗桂(初代)の命日(新暦4月6日)詳細
1851年(嘉永4)江戸幕府により、江戸に於て、「株仲間再興令」が布達される(新暦4月10日)詳細
1894年(明治27)日本初の記念切手(明治天皇銀婚記念切手)が発行される(記念切手記念日)詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「学童疎開強化要綱」を閣議決定する詳細
1958年(昭和33)下関~門司間の海底道路トンネルである関門国道トンネルが開通する詳細
1968年(昭和43)イタイイタイ病の患者・遺族が原因企業の三井金属鉱業に損害賠償を提訴する詳細
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