ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 経済

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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、岩淵水門完成により、荒川放水路が上流から下流までが繋がり、注水が開始されて通水式が行われた日です。
 荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、荒川の水量を調節し、東京の下町を洪水から守るためにつくられた迂回路で、東京都北区岩淵で分流させた水路でした。水路は、足立区、葛飾区、江戸川区などを通り、下流で綾瀬川、中川と並行して東京湾に注いでいます。
 1910年(明治43)8月に、荒川が氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生、翌年に政府は、根本的な首都の水害対策の必要性を受け、利根川や多摩川に優先して荒川放水路の建設を決定しました。1913年(大正2)に工事に着手しましたが、1917年(大正6)9月30日の台風により、記録的な高潮に見舞われ、工事用機械や船舶が流出、1923年(大正12)9月1日の関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成したばかりの橋梁の崩落などが起きています。
 ようやく、着工から11年を経て、1924年(大正13)10月12日に、岩淵水門完成により、上流から下流までが繋がり、注水が開始されて通水式が行われました。1930年(昭和5)に浚渫工事など関連作業がすべて完了し、1965年(昭和40)には、荒川放水路が荒川の本流とされ、旧本流を隅田川と呼ぶようになっています。

〇荒川放水路関係略年表

・1910年(明治43)8月 荒川が氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生する
・1911年(明治44) 政府は根本的な首都の水害対策の必要性を受け、利根川や多摩川に優先して荒川放水路の建設を決定する
・1913年(大正2) 荒川放水路の工事に着手する
・1917年(大正6)9月30日 台風により、記録的な高潮に見舞われ、工事用機械や船舶が流出する
・1923年(大正12)9月1日 関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成したばかりの橋梁の崩落などが起きる
・1924年(大正13)10月12日 岩淵水門完成により、上流から下流までが繋がり、注水が開始されて通水式が行われる
・1930年(昭和5) 浚渫工事など関連作業がすべて完了する
・1947年(昭和22) カスリーン台風により荒川流域は大きな被害を受けたものの、9mの堤防すれすれまで達したが氾濫は免れる
・1964年(昭和39) 東京都が記録的な渇水に見舞われ、利根川より緊急的に導水を図り対処する
・1965年(昭和40) 荒川放水路が本流とされ、旧本流を隅田川と呼ぶようになる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1694年(元禄7)俳聖松尾芭蕉の命日で、「芭蕉忌」とされる(新暦11月28日)詳細
1881年(明治14)「国会開設の勅諭」が出される詳細
1937年(昭和12)国民精神総動員中央連盟が発足し、国民精神総動員運動が始まる詳細
1940年(昭和15)新体制運動推進のために大政翼賛会が発足する詳細
1943年(昭和18)東條内閣が「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を閣議決定する詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本史授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1266)を出す詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1943年(昭和18)に、東条英機内閣によって、「第2次食糧増産対策要綱」が閣議決定された日です。
 「第2次食糧増産対策要綱」(だいにじしょくりょうぞうさんたいさくようこう)は、太平洋戦争下において、東条英機内閣によって、閣議決定された第2次の食糧増産対策でした。戦時下において、食料の流通体制が崩壊し、1943年(昭和18)になると輸・移入米が、前年の1,568万石から723万石へと半減し、食糧需給は逼迫の度を増し、国民の食生活は困窮を極めます。
 そこで、1943年(昭和18)6月4日に、「食糧増産応急対策要綱」が閣議決定され、外米依存を減らすため、臨時的に芋類及び雑穀の増産が図られ、農村の青少年からなる食糧増産隊(農兵隊)も結成されました。これにより、河川敷や空地の農業的利用は内務省、学徒動員は文部省、耕作者の徴用抑制は厚生省ということで、各々協調しながらすすめることができることとなります。
 しかし、それだけではまだ不十分で、食糧需給がいよいよ逼迫してきたので、同年8月17日に「第2次食糧増産対策要綱」が閣議決定されました。それにより、官民一体の下に学徒、非農家などの協力により、資材不足などの悪条件を克服するための処置がとられ、土地改良、裏作の拡張、土地利用の強化などが図られたものの、この間、大量の資材を要する大規模開墾事業は遅延措置がとられます。
 しかし、食糧不足はさらに深刻となり、翌年9月13日には、「第3次食糧増産対策要綱」も閣議決定されました。
 以下に、「第2次食糧増産対策要綱」と「食糧増産応急対策要綱」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「第2次食糧増産対策要綱」1943年(昭和18)8月17日閣議決定

 国民食糧確保ノ絶対的要請ニ応ジ食糧自給力ノ飛躍的増強ヲ期スル為国民全般ノ愈々昂揚セル増産熱意ノ下ニ既定諸方策ノ外更ニ左ニヨリ増産対策ヲ実施セントス

一 土地改良事業ノ急速実施
 農地ノ改良事業ハ食糧増産ノ確実ナル基礎ヲ造成スルモノニシテ水稲ノ増収ハ勿論裏作ノ拡張改良亦之ニ依リテ実現セラレ国内食糧生産力増強ノ根幹トシテ最モ緊要適切ノ施設ナルヲ以テ此ノ際暗渠排水、客土、小用排水等ノ改良事業ヲ広範囲ニ亘リ急速ニ拡充実施セントス。尚急速完成シ得ル水田ノ造成ニモ努ムルモノトス。
 1 暗渠排水事業約四十万町、小用排水事業受益面積約六十万町(約三分ノ一ハ暗渠排水事業ニ伴フ)ヲ目途トシテ本年度内急速ニ拡充実施スルコト
 2 本事業ノ実施ニハ努メテ地元農業団体ノ活動ヲ促進シ諸般ノ手続ヲ簡易ナラシメ迅速ニ事業ノ進捗ヲ期シ得ル如ク措置スルコトトシ尚実情ニ応ジ農道ノ整備ヲモ実施スルコト
 3 本事業ノ国家的要請ニ応ジ大規模且急速ニ之ヲ完成スベキモノナルヲ以テ的確敏速ニ事業ノ遂行ヲ期シ得ル如ク特別ナル助成措置ヲ為ス等万全ノ方途ヲ講ズルコト
  尚事業ノ迅速ナル進捗ヲ図ル為必要ニ応ジ法制的措置ヲ講ズルコト
 4 農地開発事業ノ実施ニ付テハ既定計画ニ検討ヲ加へ急速ニ効果ヲ期シ得ルモノノ外ハ一時之ヲ中止スルヲ原則トシ農地開発営団ノ事業ニモ適当ナル調整ヲ加へ其ノ余力ヲ土地改良等ニ活用スルコト
 5 本事業ノ実施ニ必要ナル土管其ノ他ノ資材ノ確保ニ付テハ特ニ遺漏ナキ措置ヲ講ズルコト

二 裏作ノ拡張改良
 土地改良ニ依リ裏作可能面積ヲ拡張シテ之ニ作付ヲ為スハ勿論苟モ裏作可能ノ耕地ニ付テハ地方ノ実情ニ即シ麦、春馬鈴薯等食糧作物作付ノ徹底的励行ヲ図ルモノトシ湿田利用ニ付テモ格段ノ措置ヲ講ゼントス

三 土地利用ノ強化
 食糧農産物ノ増産ヲ目途トシ有ユル土地ニ付其ノ利用ヲ強化スル為実情ニ応ジ適宜ノ措置ヲ講ゼントス(農耕地ノ他用途転換ノ抑制、空荒地其ノ他有ユル土地ノ動員、不急作物ノ作付ノ抑止、桑園、果樹園、煙草作付地等ニ付食糧生産ヘノ転換活用ノ促進等)

四 藷類ノ画期的増産
 藷類増産ニ関スル方策ノ強化拡充ニ格段ノ努力ヲ払ヒ特ニ左ノ諸点ニ努ムルモノトス(甘藷優良苗ノ急速ナル普及ヲ目途トシ特設育苗圃ノ設置ノ継続拡張、明春馬鈴薯ノ増産ニハ此ノ際特ニ重点ヲ置クコト、北海道ヨリノ種子用馬鈴薯ノ輸送ニ付特別ノ措置ヲ講ズルト共ニ各府県高冷地ニ馬鈴薯採種保護地ノ急速ナル拡張)

五 優良種苗ノ確保普及

六 農業労務動員ノ強化
 農業労力ノ確保ハ増産達成上ノ絶対要件ナルヲ以テ農村労力ノ他ヘノ転移ノ抑制、学徒ノ農業労務ヘノ動員強化等ニ付格段ノ方途ヲ講ゼントス

七 農業技術指導態勢ノ刷新充実
 本件ノ実施二必要ナル予算措置ヲ講ズルモノトス

備考
 一 方策ノ適確ナル実行ヲ期シ中央地方ノ連絡ヲ敏速緊密ナラシムルト共ニ随時現地ニツキテ其ノ実施ヲ査閲督励スル措置ヲ講ズルコト
 二 肥料、農機具等ノ供給確保ニ関シテハ別途適切ナル措置ヲ講ズルコト
 三 外地ニ於テモ本対策ニ即応シ別途食糧増産上適切ナル方策ヲ講ズルコト
 四 満洲国ニ於ケル食糧増産ニ付テハ内地人開拓用地ニ於ケル報国農場設置ノ拡充等日満両国提携シテ適切ナル方策ノ実施ニ努ムルコト
(1)増産目標
 (表省略)
 イ 小用排水実施量六十一万五、三〇九町ノ内十一万四、七八八町ハ暗渠排水ニ伴フ小用排水ナルヲ以テ米ノ増産量ハ見込マズ
 ロ 裏作面積ハ施行面積ノ十四.八パーセントニ相当ス
(2)主要資材
 (表省略)
 暗渠排水用陶管所要本数 二三、一二六、〇〇〇本
     〃   燃料石炭 三一、七八〇屯
     〃   〃 干薪 七、一九五、六〇〇〆

   「国立国会図書館リサーチ・ナビ」

〇「食糧増産応急対策要綱」1943年(昭和18)6月4日閣議決定

国民生活確保ノ絶対的要請ニ応ジ速ニ食糧自給態勢ノ確立ヲ期シ之ガ達成ニ寄与シ得ベキ有ユル方途ヲ講ズルノ要緊切ナルモノアルトコロ此ノ際米、麦、藷類等主要食糧農産物並ニ水産物ノ増産ニ関スル既定計画ノ外左記応急対策ヲ実施セントス

食糧農産物増産対策
一、不耕作地ノ解消及雑穀等ノ増産ニ関スル措置
当面ノ稲作ニ万全ヲ期シ栽植密度ノ増加、窒素肥料ノ全層施肥、除草必要回数ノ励行等ニ努メ生産目標ノ達成ヲ図ルト共ニ此ノ際特ニ左ノ措置ヲ講ゼントス
(一)不耕作田ノ解消ヲ目途トシ市町村農会、部落農業団体等ヲシテ共同耕作等ノ方法ニ依リ水稲ノ作付ヲ完遂スルコト
(二)耕作廃止畑ハ勿論伐木跡地、河川敷、荒地、工場建築予定地其ノ他有ユル休閑地ヲ動員シ各方面ノ労力ヲ動員シテ蕎麦、粟、大豆、稗、玉蜀黍等ノ雑穀又ハ南瓜等各地方ニ適シタル食糧農作物ノ作付ヲ行フト共ニ果樹園、桑園、瓜類、其ノ他ノ作付地ニ付地方ノ実情ニ応ジ大豆ノ周囲作又ハ間作ヲ行ヒ又輪作方法ノ改善ニ依リ蕎麦等ノ作付ニ努ムルコト
(三)北海道ニ於ケル食糧生産ノ確保ニ付テハ其ノ特殊事情ニ鑑ミ此ノ際差当リ不耕作ノ発生ヲ防止スル為必要ナル措置ヲ講ズルコト
二、藷類増産ニ関スル措置
藷類ハ増産ノ余地最モ大ニシテ其ノ主要食糧化ヲ強化促進スルハ食糧政策上特ニ緊要適切ナルヲ以テ既定方針ニ依リ優良苗普及等ノ施設ヲ実施スル外左ノ措置ヲ講ゼントス
(一)藷類増産ニ関シ此ノ際品種、栽培、貯蔵、加工等ニ亘リ急速ニ技術ノ改善ヲ推進シ民間経験者ノ優秀ナル技能ノ活用ニ努メ適切ナル技術ノ普及ヲ期スルコト
(二)藷類ノ主要食糧トシテノ活用ヲ徹底セシムル為其ノ加工ニ関シ格段ノ措置ヲ講ジ廉価優良ナル加工製品ノ生産ヲ図ルコト
(三)藷類ノ価格及其ノ統制ニ検討ヲ加ヘ之ガ増産ヲ確保スルト共ニ実情ニ即シ敏速円滑ナル配給ヲ期シ得ル如ク急速ニ所要ノ改訂ヲ行フコト
三、労力補給ニ関スル措置
所要労力ニ付テハ地元労力ノ活用ニ努ムルト共ニ概ネ左ノ措置ニ依リ之ガ補給ヲ為サントス
(一)農村ノ付近都市特ニ地方ノ町等ヨリ青少年、一般市民等ノ労力ヲ大政翼賛会諸団体ヲ中心トスル自発的ノ国民運動トシテ適当ナル勤労報国隊ヲ動員シ地元農村ノ要請ニ応ゼシムルコト
(二)一般学徒就中農学校生徒ノ動員ハ極力実施スルモノトシ専門学校以上ノ学徒ニ付テモ積極的ニ之ヲ行フコト
(三)地方ノ実情ニ即シ農村青少年等ヲ以テ食糧増産隊ヲ編成シ随時随処ニ出動シテ農耕又ハ開墾ニ従事セシムルコト尚農村国民学校児童ノ就労ニ付更ニ適切ナル措置ヲ講ズルコト
四、其ノ他
(一)肥料ニ関スル措置
販売肥料特ニ無機質肥料ノ供給確保ニ遺憾無ラシムル為必要ナル各般ノ方途ヲ講ズルハ勿論、自給肥料ノ改良増産並ニ施肥ノ改善ニ関スル従来ノ施設ヲ推進シ特ニ緑肥作物種子ノ確保、都市屎尿ノ農村配給ノ強化、農業用石灰及石灰原石粉末ノ供給確保等ニ必要ナル措置ヲ講ズルコト
(二)自給飼料ニ関スル措置
自給肥料ノ増産ニ関スル既定計画ノ完遂ニ努ムル外各種藁稈類、甘藷蔓其ノ他茎葉等ノ利用ヲ徹底スル為サイロノ普及施設ヲ拡充スルト共ニ未利用資源ノ活用及草類利用等ニ関シ必要ナル措置ヲ講ズルコト
(三)郷土食運動ニ関スル措置
各地方ニハ夫々其ノ土地ノ生産事情ニ即シ尊重スベキ固有ノ郷土食存スルモノ少ナカラザルヲ以テ大政翼賛会等ヲ中心トシ郷土食ノ存続復活ヲ目途トスル運動ガ地方事情ニ即シ自発的ニ展開セラルル如ク適当ナル方途ヲ講ズルコト
(四)満洲国ニ於ケル応急増産ニ関スル措置
満洲国内ニ於ケル日本内地人開拓地ノ未墾地ヲ急速ニ開発シテ食糧ノ応急増産ヲ図ル為満洲国ノ協力ヲ得テ適当ナル措置ヲ講ズルコト
尚土地改良ヲ拡充スルト共ニ裏作ノ普及改良ヲ図リ農地ノ生産力ヲ増強スル為別途必要ナル施策ヲ講ズルコト

水産物増産対策
一、増殖ニ関スル措置
(一)溜池、湖沼、河川等ニ於ケル未利用水面ニ於ケル鯉、鮒、鰌等ノ孵化放流施設等ヲ拡充シ淡水魚ノ増産ヲ図ルコト
(二)大衆向海産多獲魚類ノ孵化放流施設ヲ拡充スルト共ニ未利用浅海面ノ開発ニ依リ介藻類ノ増産ヲ図ルコト尚無動力漁船ノ操業促進ノ方途ヲ講ズルコト
二、遭難漁船ニ関スル措置
時局ニ因ル漁船遭難ノ場合ニ於テ遭難漁業者及遭難漁船ニ対スル施設及一定水域ニ出漁スル漁船ノ出漁奨励等ノ施設ヲ急速ニ実施スルコト
本要綱ニ基ク政府ノ助成ニ付適切ナル予算的措置ヲ講ズルコト
備考
一、主要食糧ノ自給強化施策ノ展開ニ関連シ特ニ左ノ事項ヲ考慮スルモノトス
(一)農業技術者及指導者ノ技術動員態勢ヲ強化スルコト
(二)主要食糧農産物ノ種苗ニ関スル国ノ施設ヲ整備スルコト
(三)不要不急作物ノ生産抑制其ノ他作付統制ノ徹底ヲ期スルト共ニ不耕作地ノ解消及空閑地ノ利用等ニ関シ要スレバ法令ニ依ル措置ヲ講ズルコト
(四)農耕地ノ他用途ヘノ転換ハ此ノ際特ニ抑制スルト共ニ農業者ノ徴用及他部門ヘノ転出ニ付テハ格段ノ注意ヲ払フコト
二、主要食糧ノ自給力強化ニ付テハ外地ニ於テモ其ノ実情ニ応ジ概ネ本要綱ニ準ジ措置スルコト

   「国立国会図書館リサーチ・ナビ」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)伊豆に流されていた源頼朝が、以仁王の令旨を受けて挙兵し、山木館を襲撃する(新暦9月8日)詳細
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1949年(昭和24)国鉄東北本線の旅客列車が福島県内で転覆させられる事故(松川事件)が起こる詳細
1963年(昭和38)みどり丸沈没事故が起き、死者・行方不明者112名を出す詳細
1965年(昭和40)小説家・詩人高見順の命日詳細
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rikenseishyu01
 今日は、大正時代の1921年(大正10)に、理科学研究所の鈴木梅太郎が合成清酒の特許を取得した日です。
 合成清酒(ごうせいせいしゅ)は、元来は米を用いず、アルコールにぶどう糖、アミノ酸類などを加え、清酒に近いものを化学的に合成して造る酒のことで、合成酒とも言いました。1918年(大正7)に富山県下で米騒動が起こり、これが全国に広がって、人口と食糧の問題がやかましく叫ばれた時代を背景とし、理化学研究所の鈴木梅太郎らが将来の食糧難への対策のために研究に着手します。
 米を使用しないで科学的に酒をつくる新規な着想のもとに研究を進め、1921年(大正10)には、その基本となる「清酒代用飲料製造法」を発明して特許を取得しました。当初は、特許の関係で製造元が限定されましたが、1936年(昭和11)にライセンシングに踏み切ったため合成清酒の製法として、理研式は半ば標準的なものとなります。
 当初酒の名も「理研酒」または「合成酒」とよばれていましたが、1940年(昭和15)の「酒税法」改正により、「合成清酒」となりました。理研酒工業の「利久」や大和醸造の「新進」が代表的銘柄となります。太平洋戦争後の1949年(昭和24)から「合成清酒」にも5%の白米の使用が認められ、品質も向上して新清酒の名で呼ばれるようになりました。
 一時は、清酒の30%近くまで生産されましたが、米の豊作と清酒の増産にともない激減しています。

〇鈴木梅太郎(すずき うめたろう)とは?

 明治時代から昭和時代前期に活躍した農芸化学者・栄養化学者です。明治時代前期の1874年(明治7)4月7日に、静岡県榛原郡堀野新田村(現:牧之原市堀野新田)で農業を営む鈴木庄蔵の次男として生まれました。
 幼い頃より学問を好み、1888年(明治21)に単身上京し、東京農林学校(翌年帝国大学農科大学と改称)へ入学、J.Liebig(リービッヒ)の弟子O. Loebなどに農芸化学を学び、1896年(明治29)に卒業し、大学院に入ります。桑の萎縮病の原因を研究、1900年(明治33)に農科大学助教授に任ぜられ、1901年(明治34)には、農学博士の学位を授与されました。
 同年に文部省留学生として渡欧、スイス、ドイツに遊学、特にベルリンのE.フィッシャーについてタンパク質の研究にあたります。1906年(明治39)に帰国し、盛岡高等農林学校教授に任ぜられ、東京帝国大学助教授も兼任しました。
 翌年東京帝国大学農科大学教授となり、1910年(明治43)に、米ぬかから抗脚気の有効成分ビタミンB1の抽出に成功、オリザニンと命名し、ビタミン発見の先駆をなします。1917年(大正6)に理化学研究所設立と共に同研究委員となり、栄養化学および合成酒、サリチル酸、乳酸などの研究・製造に従事しました。
 1924年(大正13)に「副栄養素の研究」により学士院賞受賞、日本農芸化学会を創立し、初代会長となり、翌年に帝国学士院会員、1926年(大正15)には、帝国発明協会よりオリザニンの発見に対し、恩賜記念賞および大賞を受賞します。1943年(昭和18)には、文化勲章を受章しましたが、同年9月20日に東京の慶應義塾大学病院において腸閉塞症のため、69歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1871年(明治4)明治新政府が「散髪脱刀令」(明治4年太政官第199号)を発布する(新暦9月23日)詳細
1875年(明治8)小説家・詩人・歌人大塚楠緒子の誕生日詳細
1933年(昭和8)「第1回関東地方防空大演習」が開始される詳細
1945年(昭和20)哲学者・評論家戸坂潤の命日 詳細
1946年(昭和21)第1回国民体育大会の夏季大会の開会式が兵庫県宝塚市で開催される詳細
1949年(昭和24)「長崎国際文化都市建設法」が公布・施行される詳細
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zeitakuwatekida01
 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、東京市内に「ぜいたくは敵だ」の戦時標語の立看板1,500本が配置された日です。
 「ぜいたくは敵だ」(ぜいたくはてきだ)は、日中戦争下の1940年(昭和15)に、国民精神総動員本部が、「奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)」のために作った戦時標語でした。の1939年(昭和14)1月5日につね近衛内閣に代わって組閣された平沼騏一郎内閣は、同年2月に国民精神総動員運動を「官民一体ノ挙国実践運動」として強化する方針を打ち出します。
 その中で、同年9月から毎月1日を「興亜奉公日」として、前線の労苦を想う耐乏生活をおしつけることとなります。翌年7月に、「奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)」が出されると、8月1日の「興亜奉公日」には、東京市内に「ぜい沢は敵だ」の戦時標語の立看板1,500本が配置され、街頭などでの宣伝が強化されました。国民生活での耐乏を呼びかけ、戦意高揚のために活用されていきます。

〇戦時標語(せんじひょうご)とは?

 戦時下において、国民向けに主張・信条や行動の目標、指示内容などをわかりやすく簡潔に言い表した語句(スローガン)のことです。日本では、日中戦争から太平洋戦争配線までにまで、戦意高揚・生活統制・精神動員のため盛んに作られました。
 1937年(昭和12)7月の日中戦争開始後、「国民精神総動員運動」が展開され、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」の国策標語が掲げられました。1938年(昭和13)5月1日に、ガソリン切符制が実施されと、「ガソリン1滴は血の1滴」の標語が登場します。
 1940年(昭和15)に至り、日中戦争長期化による物資不足が深刻になってくると、国民精神総動員本部は、「日本人なら、ぜいたくは出来ない筈だ!」「ぜいたくは敵だ!」「パーマネントはやめませう」などの標語をつくり、街頭に国民生活の在り方を規制する看板を立てました。同年11月10日には、紀元2600年祝賀行事が行われ、その前後に「祝へ元気に朗らかに」、「祝ひ終った、さあ働かう」のポスターが張り出されます。
 1941年(昭和16)になると、「人口政策要綱」が閣議決定され、「生めよ殖やせよ国のため」の標語も登場しました。同年12月8日に太平洋戦争が始まると、大政翼賛会による「進め一億火の玉だ」「屠れ!米英我等の敵だ」も掲げられます。
 1942年(昭和17)には、「大東亜戦争一周年記念」の企画として、大政翼賛会と各新聞社が「国民決意の標語」を懸賞募集し、32万以上の応募の中から、「欲しがりません勝つまでは」「頑張れ!敵も必死だ」など入選10点と佳作20点が選ばれ、町内・職場等に掲示されました。1943年(昭和18)2月23日には、陸軍省が「撃ちてし止まむ」の決戦標語ポスター5万枚を全国に配布し、同年4月に連合艦隊司令長官・山本五十六が戦死すると「元帥の仇は増産で(討て)」がスローガンとなります。
 1944年(昭和19)には、アメリカ軍の反撃によって、戦局が厳しくなり、「本土決戦」、「鬼畜米英をうて」、「一億玉砕」、「神州不滅」などが叫ばれるようになり、敗戦へと向かうことになりました。

☆代表的な戦時標語一覧(日中戦争~太平洋戦争) 

<1937年(昭和12)> 
・「挙国一致」  
・「尽忠(じんちゅう)報国」  
・「堅忍(けんにん)持久(じきゅう)」  
・「銃執れ 鍬(くわ)執れ ハンマー執れ」 和歌山県 
・「黙って働き 笑って納税」 税務署による標語 

<1938年(昭和13)> 
・「ガソリン1滴は血の1滴」 5月1日、ガソリン切符制が実施 

<1939年(昭和14)> 
・「遂げよ聖戦 興せよ東亜」 大阪朝日新聞社 
・「子よ孫よ 続けよ建てよ 新東亜」 大阪朝日新聞社 
・「聖戦へ 民一億の体当たり」 読売新聞社 
・「聖戦だ 己殺して国生かせ」 読売新聞社 
・「飲んでて何が非常時だ」 日本国民禁酒同盟 

<1940年(昭和15)> 
・「日本人なら、ぜいたくは出来ない筈だ!」 国民精神総動員本部 
・「ぜいたくは敵だ!」 国民精神総動員本部、「奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)」のために作られた 
・「パーマネントはやめませう」 国民精神総動員本部 
・「リつばな戦死とゑがほの老母」 名古屋市銃後奉公会 
・「一億が みんな興亜へ散る覚悟」 京都府 
・「贅沢品より代用品」 中央標語研究会 
・「身にはボロ着て心に錦」  中央標語研究会 
・「米が足りぬにまだ飲むか」 日本国民禁酒同盟 
・「赤い顔から赤字出る」  日本国民禁酒同盟 
・「祝へ元気に朗らかに」 大政翼賛会、紀元2600年祝賀行事前 
・「祝ひ終った、さあ働かう」 大政翼賛会、紀元2600年祝賀行事後 

<1941年(昭和16)> 
・「生めよ殖やせよ國のため」 9月2日、厚生省 
・「進め一億火の玉だ」 大政翼賛会 
・「屠れ!米英我等の敵だ」  
・「酒屋太れば妻子は痩せる」 日本国民禁酒同盟 
・「増える酒量に減る寿命」 日本国民禁酒同盟 
・「酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫」 日本国民禁酒同盟 
・「働いて 耐えて笑って 御奉公」 標語報国社 

<1942年(昭和17)> 
 「大東亜戦争一周年記念」の企画として、大政翼賛会と朝日新聞・東京日日新聞・読売新聞の3紙が「国民決意の標語」を懸賞募集(入選は賞状ならびに副賞金が100円(公債)、佳作は副賞金20円(公債))し、広告が11月15日の各紙面に出されました。その結果、4日間で32万以上の応募があり、その中から、以下の入選10点と佳作20点が選ばれ、11月27日付の紙面上に発表され、町内・職場等に掲示されました。
<入選10点>「欲しがりません勝つまでは」、「さあ2年目も勝ち抜くぞ」、「たつた今!笑って散った友もある」、「ここも戦場だ」、「頑張れ!適も必死だ」、「すべてを戦場へ」、「その手ゆるめば戦力にぶる」、「今日も決戦 明日も決戦」、「理窟言う間に一仕事」、「『足らぬ足らぬは』工夫が足らぬ」 
・「正しき血から 強い民族」 日本カレンダー株式会社 
・「よい児殖やして 興亜をリレー」 日本カレンダー株式会社 
・「産んで殖やして育てて皇楯」 中央標語研究会 
・「米英を消して明るい世界地図」 大政翼賛会神戸市支部 

<1943年(昭和18)> 
・「撃ちてし止まむ」 2月23日、陸軍省 
・「元帥の仇は増産で」 山本五十六戦死後 
・「アメリカ人をぶち殺せ!」 主婦之友 
・「嬉しいな僕の貯金が弾になる」 大日本婦人会朝鮮慶北支部 
・「初湯から 御楯と願う 国の母」 仙台市 
・「進め一億 火の玉だ」 大政翼賛会 
・「なにがなんでもやりぬくぞ」   
・「ぜいたくは敵だ!」 国民精神総動員本部 
・「頑張れ! 敵も必死だ」   
・「血の犠牲 汗で応えて 頑張らう」 大阪翼賛神戸支部 
・「一億抜刀 米英打倒」 北海道新聞社 
・「我が家から敵が討てるぞ経済戦」 大日本婦人会 

<1944年(昭和19)> 
・「本土決戦」  
・「鬼畜米英をうて」  
・「一億玉砕」  
・「神州不滅」  

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1810年(文化7)江戸幕府の老中・下総佐倉藩主堀田正睦の誕生日(新暦8月30日)詳細
1872年(明治5)東京・湯島の昌平黌講堂跡に日本初の公共図書館である書籍館が開設される(新暦9月3日)詳細
1885年(明治18)医師・詩人木下杢太郎の誕生日詳細
1894年(明治27)「日清戦争宣戦の詔書」が発せられて、日清戦争に対して正式に宣戦が布告される(日清戦争開戦)詳細
1907年(明治40)民俗学者・農村指導者・社会教育家宮本常一の誕生日詳細
1912年(大正元)日本初の労働組合である友愛会が結成される詳細
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 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、「明治5年7月4日大蔵省達第83号」が布達され、大蔵省が日本全国に10月までに地券(壬申地券)を交付するとされた日ですが、新暦では8月7日となります。
 「明治5年7月4日大蔵省達第83号」は、大蔵省が地方官に対し、従来の所持地に対しても一般に地券(壬申地券)を発行し、管下人民への地券授与を同年10月中に終了すべき旨を布達したものでした。明治維新後の1872年2月5日(明治4年12月27日)に、東京府下の市街地に対して地券が発行され、従来無税だった都市の市街地に対しても地価100分の1の新税(沽券税)が課せられることになり、この動きは、東京以外の都市部にも広がります。
 続いて、1872年(明治5年2月15日)に「地所永代売買ヲ許ス」(明治5年太政官布告第50号)を発布し、「田畑永代売買禁止令」が廃止され、これまで貢租の対象とされてきた郡村の土地を売買譲渡の際にも地券が交付されることとなりました。当初の地券は、土地取引の都度に発行する方式でしたが、この方法では全国の土地の状況を短期間に把握することは難しいとされます。
 そこで、「明治5年7月4日大蔵省達第83号」が発布され、都度の地券発行を改め、人民所有のすべての土地に地券を発行する地券の全国一般発行とし、翌年10月までに完了するよう指示したもので、壬申地券と呼ばれました。そして、1873年(明治6)7月28日には、「上諭」と「太政官布告第272号」、「地租改正条例」を発して、いわゆる「地租改正」が実施されることとなります。
 以下に、「明治5年7月4日大蔵省達第83号」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「明治5年7月4日大蔵省達第83号」 1872年(明治5年7月4日)布達

  明治五年七月四日大蔵省達第八三号

 地所売買規則第十三則ニ従来持地ハ追テ地券渡方ノ儀可相達旨掲載布告ニ及置候所即今已ニ売買ノ者ヘ地券相渡従来所持ノ者ヘハ不相渡候ハテハ不都合ニ付管下人民地所所持ノ者ヘ最前相達候規則ニ準シ都テ地券相渡候様可致尤其代価ノ儀ハ田畑ノ位付ニ不拘方今適当ノ代価為申出地券面ヘ書載可致候
 但本文地券相渡候儀ハ可成丈至急ニ取計総テ当十月中ニ渡済相成候様可取計若事実無拠次第有之延引可相成見込候ハ丶其旨前以租税寮ヘ可申出事
     
   『法令全書』第7冊より

☆地租改正(ちそかいせい)とは?

 明治時代前期に、明治政府が実施した土地・租税制度の改革のことです。まず、1872年(明治5年2月15日)に「地所永代売買ヲ許ス」(明治5年太政官布告第50号)を発布し、「田畑永代売買禁止令」を解き地券を発行し、1873年(明治6)7月28日には、「上諭」と「太政官布告第272号」、「地租改正条例」を発しました。
 その主要な内容は、 (1) 課税標準を従来の収穫量から地価に改める、(2) 税率は100分の3をもって、豊凶に関係なく定率とする、(3) 物納を廃し、すべて金納として、土地所有者に課税するというものです。また、附属して、「地租改正施行規則」全17条と「地方官心得」全44章も出され、具体的な改租方法と実施要領を定めました。
 しかし、今までの税収を減らさないことを基本としたので、地価は高めに設定され、農民には重い負担となります。その結果、1876年(明治9)には、各地で地租改正反対一揆が起き、明治政府は、翌年から地租率を100分の2.5に引き下げる譲歩を行うことになりました。
 これらの改革によって、明治政府の財政的基礎が確立した一方で、地主・小作の関係は強化されていきます。

☆地券発行関係略年表(明治5年までの日付は旧暦です)

<明治4年>

・12月27日(1872年2月5日) 東京府下の市街地に対して地券を発行する

<明治5年>

・2月15日 「地所永代売買ノ儀従来禁制ノ処自今四民共売買致所持候儀被差許候事」(明治5年太政官布告第50号)によって、地所永代売買解禁の布告が公布される
・2月24日 「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」全14条(明治5年大蔵省達第25号)が公布される
・7月4日 「明治5年7月4日大蔵省達第83号」により、大蔵省が日本全国に10月までに地券(壬申地券)を交付すると布達される
・7月20日 「明治5年7月20日大蔵省達第88号」により、地券証印税の制度が設けられる
・7月25日 「明治5年7月25日大蔵省達第94号」により、郡村地券について、一枚の地券に何筆もの記載を許す合筆券状の制度を承認する
・8月5日 「明治5年8月5日大蔵省達第97号」により、地券発行の際の用紙について、各地方で適宜に堅牢耐久の品を用いることとする
・8月28日 「明治5年8月28日大蔵省達第115号」により、地券大帳は二つ折帳とし、半枚に2筆づつ記載し、地券と割印すべき旨を布達する
・9月14日 「明治5年9月14日大蔵省達第131号」により、地券発行の経費収支について、各府県におけるその標準が示される

<明治6年(1873年)>

・4月4日 「明治6年4月4日大蔵省達第54号」により、証印税収入を地租改正の事業費用に充てるとされる
・7月28日 「上諭」と「太政官布告第272号」、「地租改正条例」が発布される

☆(参考)「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」1872年(明治5年2月24日)布達

 地所売買譲渡ニ付地券渡方規則

今般地所永代売買被差許候ニ付今後売買並譲渡ノ分地券渡方等別紙規則ノ通可相心得事
 (別紙)
  地所売買譲渡ニ付地券渡方規則
      第一
一 地所売買譲渡ノ節地券相渡候ニ付テハ於府県元帳ヲ製シ地券申受ノ儀願出候節ハ別紙雛型ノ通地券本紙並扣共二枚ヲ書シ押切印ノ上本紙ハ地主ヘ與ヘ扣ハ右元帳ヘ綴込置可申事
      第二
一 右元帳ヲ以地券ノ大帳ト定メ以後ノ分綴込置一箇年分取纏寫壹通リ大蔵省ヘ差出置可申事
      第三
一 地券申受ノ儀ハ別紙願面書式ノ通リ相認為願出可申事
      第四
一 右願出有之節ハ雙方情篤ト相糺相違無之候ハゝ地券相渡可申事
      第五
一 一筆ノ地所ヲ裂キ売買致度旨願出候分ハ実地ニ於テ總歩数ヲ改検地帳ヘ照合シ引分ケ方偏頗無之様篤ト検査ノ上願ノ趣聞届地券相渡可申事
      第六
一 右地券ハ地所持主タル確證ニ付大切ニ可致所持旨兼テ相論置可申候万一水火盗難ニテ地券ヲ失ヒ候節ハ二人以上ノ証人ヲ立村役人連印ヲ以書替ノ儀為願出可申事
 但盗難等ニテ失ヒ候分後日相知レ候ハゝ早速可差出旨請書取置可申事
      第七
一 初度地券相渡候以後売買譲渡シ並代替リ其外質地流込等ニテ持主相替リ候節ハ地券ノ裏ヘ雛型ノ通相認地券書替ノ儀為願出可申事
      第八
一 右書替願出候節ハ其情実ヲ吟味シテ後新地券ヲ渡シ舊券ヲ取消スヘシ尤大帳ヘモ地主相替リ候趣地代金増減ノ有無年月日共詳記シ置一箇年分取纏メ大蔵省ヘ可届出事
      第九
一 山林原野其他ノ地所共売買譲渡ニ付地券相渡候分總テ同様可相心得事
      第十
一 願ニヨリ荒蕪ノ地所払下ケ候節ハ同様地券可相渡事
      第十一
一 新規書替共地券申受候節証印税トシテ左ノ通リ上納可為致事
     証印税
 地券ニ記セシ
                       千分ノ五
  金高    百円以下             即十円ニ付五銭
   同    百円以上二百円迄       五十銭
   同    二百円以上五百円迄     一円
   同    五百円以上千円迄       一円二十五銭
   同    千円以上二千円迄       一円五十銭
   同    二千円以上五千円迄     二円五十銭
   同    五千円以上           三円七十五銭

      第十二
一 爾後地券ヲ不申請密買致シ候者ハ其地所並代金共金取揚可申事
  但致連印候村役人ハ地代金ノ三分通罰金可申付事
      第十三
一 従来ノ持地ハ追テ地券渡シ方ノ儀可相達事
      第十四
一 東京府下ヲ始沽券税法御達ノ土地ハ此規則ノ例ニアラサル事
右之通相定候事
     
   『法令全書』第7冊より

☆(参考)「明治5年8月28日大蔵省達第115号」 1872年(明治5年8月28日)布達

地所売買譲渡ニ付地券渡方規則中第一条第二条左之通改正

第一条
 地券相渡候節地券ハ最前ノ雛形通リニ製シ地主ヘ相渡地券大帳ハ二ツ折帳ニ仕立半枚ニ二筆宛記載シ券状ト割印可致置事
 但腹書多分有之分ハ見計タル可キ事
第二条
 地券大帳ハ年々収税ノ照準ニ致シ地券渡済ノ上一村限地所之段別地券金高トモ綜合高取調租税寮ヘ可差出来
 但綜合高取調方別紙表式之通可相心得尤表式ハ追テ可相達事
 右之通及更正候条此段相達候也

   『法令全書』第7冊より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

757年(天平宝字元)藤原仲麻呂を打倒しようとした橘奈良麻呂の乱(未遂)が起きる(新暦7月27日)詳細
1900年(明治33)物理学者・随筆家中谷宇吉郎の誕生日詳細
1910年(明治43)日本とロシアとの間で、「第二次日露協約」が締結される詳細
1912年(明治45)彫刻家佐藤忠良の誕生日詳細
1941年(昭和16)帝都高速度交通営団設立される詳細
1952年(昭和27)「破壊活動防止法」(昭和27年7月21日法律第240号)が、国会で成立する詳細
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