今日は、昭和時代後期の1973年(昭和48)に、古河鉱業が栃木県の足尾銅山を閉山し、363年の歴史に幕を下ろした日です。
足尾銅山(あしおどうざん)は、栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山です。室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。
その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大します。
1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。
禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件を引き起こしました。1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。
1973年(昭和48)2月28日で閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。その後、1980年(昭和55)に、坑道を使用した足尾町「足尾銅山観光」がオープンしました。
尚、2007年(平成19)には、足尾銅山が日本の地質百選に選定され、経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」としても認定されています。さらに、2008年(平成20)には、通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定されました。
その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大します。
1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。
禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件を引き起こしました。1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。
1973年(昭和48)2月28日で閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。その後、1980年(昭和55)に、坑道を使用した足尾町「足尾銅山観光」がオープンしました。
尚、2007年(平成19)には、足尾銅山が日本の地質百選に選定され、経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」としても認定されています。さらに、2008年(平成20)には、通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定されました。
〇足尾鉱毒事件】(あしおこうどくじけん)とは?
明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1885年(明治18)には渡良瀬川における魚類の大量死が始まりました。
1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残っています。
1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残っています。
☆足尾銅山関係略年表
・1610年(慶長15) 足尾銅山開山
・1816年(文化13) 銅量低下による資金の行き詰まりに見舞われ、戸谷半兵衛光寿ら6人衆が5,000両を幕府に上納し、困窮者の救済にあたる
・1877年(明治10) 古河市兵衛が足尾銅山の経営に携わる
・1884年(明治17) 足尾銅山の銅生産量が日本一となる
・1885年(明治18) 『朝野新聞』が鉱毒被害を報道する
・1890年(明治23) 渡良瀬川の大洪水で鉱毒の被害が拡大する
・1891年(明治24) 田中正造が第2回帝国議会で鉱業停止を要求する
・1896年(明治29) 通洞が貫通、田中正造が第9議会において永久示談の不当性を追及し、有志と雲竜寺に群馬栃木両県鉱毒事務所を設置する
・1897年(明治30) 鉱毒被害民、大挙押出し、東京鉱山監督署長、足尾銅山に対して鉱毒除防工事を命令、第1回鉱毒調査会を組織(会長は農相の榎本武揚)する。
・1898年(明治31) 大蔵省、鉱毒被害民に対して地租条例による普通荒地免租処分を通達。該当者は公民権喪失。
・1900年(明治33) 川俣事件が発生する
・1901年(明治34) 田中正造、議会開院式より帰途の明治天皇に直訴状を提出しようとして遮られる。麹町警察署にて取り調べ、夕刻釈放される
・1903年(明治36) 古河市兵衛死去、養子の古河潤吉(実父陸奥宗光)が足尾銅山の経営を担うようになる
・1905年(明治38) 経営会社を古河鉱業と改称。古河潤吉死去、古河市兵衛の実子である古河虎之助が後継者となる
・1906年(明治39) 谷中村が廃村となり、日光精銅所が操業開始する
・1907年(明治40) 足尾暴動事件が起き、銅山施設の大部分が焼失する
・1912年(大正3) 足尾鉄道桐生駅~間藤駅間(現在のわたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線)が開通する
・1913年(大正4) 田中正造が亡くなる
・1921年(大正10) 古河商事が破綻し、古河鉱業に合併される
・1934年(昭和9) 沈殿池が溢れて渡良瀬川沿岸で鉱毒被害が発生する
・1944年(昭和19) 太平洋戦争下で、足尾銅山が軍需会社に指定される
・1950年(昭和25) 三栗谷用水、鉱毒沈砂池を設置する
・1954年(昭和29) 小滝坑が廃止される
・1956年(昭和31) 自溶製錬設備が完成し、亜硫酸ガスの排出が減少する
・1958年(昭和33) 源五郎沢堆積場が決壊し、待矢場両堰に鉱毒が流入、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会成立する
・1961年(昭和36) 銅・鉛・亜鉛の貿易自由化決定 これ以降、国内鉱山は次第に経営難となる
・1966年(昭和41) 天狗沢堆積場が決壊、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会が古河鉱業に抗議する
・1970年(昭和45) 桐生市水道局、渡良瀬川から基準値を超える砒素を検出する
・1971年(昭和46) 太田市毛里田地区の米からカドミウムが検出される
・1972年(昭和47) 太田市毛里田地区の米、土壌のカドミウム汚染は、足尾銅山が原因と群馬県が断定(古河鉱業は否認)する
・1973年(昭和48) 足尾銅山が閉山、製錬事業は継続される
・1974年(昭和49) 毛里田鉱毒根絶期成同盟会と15億5,000万円で和解が成立する
・1976年(昭和51) 草木ダムが竣工する
・1980年(昭和55) 足尾町「足尾銅山観光」がオープンする
・1989年(平成元) 足尾での製錬事業が事実上休止状態になる
・2002年(平成14) 環境基準の強化により、本山製錬所での廃棄物焼却事業を休止する
・2007年(平成19) 足尾銅山が日本の地質百選に選定され、経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」としても認定される
・2008年(平成20) 通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定される
・2010年(平成22) 製錬場が一部の施設を残して解体される
・2011年(平成23)3月11日、源五郎沢堆積場が東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)により再び決壊、鉱毒汚染物質が渡良瀬川に流下し、下流の農業用水取水地点で基準値を超える鉛が検出される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1591年(天正19) | 商人・茶人千利休の命日(新暦4月21日) | 詳細 |
1633年(寛永10) | 江戸幕府により「寛永十年二月令」(第一次鎖国令)が出される | 詳細 |
1638年(寛永15) | 島原・原城が落城し、島原の乱が終結、蘢城していた一揆勢が皆殺しなる(新暦4月12日) | 詳細 |
1864年(元治元) | 小説家二葉亭四迷の誕生日(新暦4月4日) | 詳細 |
1947年(昭和22) | 第1次吉田茂内閣で、「供米促進対策要綱」が閣議決定される | 詳細 |
1952年(昭和27) | 「日米安全保障条約(旧)」に関わり、日米両国の政府間で、「日米行政協定」が調印される | 詳細 |