ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 経済

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 今日は、昭和時代後期の1973年(昭和48)に、古河鉱業が栃木県の足尾銅山を閉山し、363年の歴史に幕を下ろした日です。
 足尾銅山(あしおどうざん)は、栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山です。室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。
 その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大します。
 1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。
 禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件を引き起こしました。1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。
 1973年(昭和48)2月28日で閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。その後、1980年(昭和55)に、坑道を使用した足尾町「足尾銅山観光」がオープンしました。
 尚、2007年(平成19)には、足尾銅山が日本の地質百選に選定され、経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」としても認定されています。さらに、2008年(平成20)には、通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定されました。

〇足尾鉱毒事件】(あしおこうどくじけん)とは?

 明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1885年(明治18)には渡良瀬川における魚類の大量死が始まりました。
 1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
 1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
 1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
 以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残っています。

☆足尾銅山関係略年表

・1610年(慶長15) 足尾銅山開山
・1816年(文化13) 銅量低下による資金の行き詰まりに見舞われ、戸谷半兵衛光寿ら6人衆が5,000両を幕府に上納し、困窮者の救済にあたる
・1877年(明治10) 古河市兵衛が足尾銅山の経営に携わる
・1884年(明治17) 足尾銅山の銅生産量が日本一となる
・1885年(明治18) 『朝野新聞』が鉱毒被害を報道する
・1890年(明治23) 渡良瀬川の大洪水で鉱毒の被害が拡大する
・1891年(明治24) 田中正造が第2回帝国議会で鉱業停止を要求する
・1896年(明治29) 通洞が貫通、田中正造が第9議会において永久示談の不当性を追及し、有志と雲竜寺に群馬栃木両県鉱毒事務所を設置する
・1897年(明治30) 鉱毒被害民、大挙押出し、東京鉱山監督署長、足尾銅山に対して鉱毒除防工事を命令、第1回鉱毒調査会を組織(会長は農相の榎本武揚)する。
・1898年(明治31) 大蔵省、鉱毒被害民に対して地租条例による普通荒地免租処分を通達。該当者は公民権喪失。
・1900年(明治33) 川俣事件が発生する
・1901年(明治34) 田中正造、議会開院式より帰途の明治天皇に直訴状を提出しようとして遮られる。麹町警察署にて取り調べ、夕刻釈放される
・1903年(明治36) 古河市兵衛死去、養子の古河潤吉(実父陸奥宗光)が足尾銅山の経営を担うようになる
・1905年(明治38) 経営会社を古河鉱業と改称。古河潤吉死去、古河市兵衛の実子である古河虎之助が後継者となる
・1906年(明治39) 谷中村が廃村となり、日光精銅所が操業開始する
・1907年(明治40) 足尾暴動事件が起き、銅山施設の大部分が焼失する
・1912年(大正3) 足尾鉄道桐生駅~間藤駅間(現在のわたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線)が開通する
・1913年(大正4) 田中正造が亡くなる
・1921年(大正10) 古河商事が破綻し、古河鉱業に合併される
・1934年(昭和9) 沈殿池が溢れて渡良瀬川沿岸で鉱毒被害が発生する
・1944年(昭和19) 太平洋戦争下で、足尾銅山が軍需会社に指定される
・1950年(昭和25) 三栗谷用水、鉱毒沈砂池を設置する
・1954年(昭和29) 小滝坑が廃止される
・1956年(昭和31) 自溶製錬設備が完成し、亜硫酸ガスの排出が減少する
・1958年(昭和33) 源五郎沢堆積場が決壊し、待矢場両堰に鉱毒が流入、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会成立する
・1961年(昭和36) 銅・鉛・亜鉛の貿易自由化決定 これ以降、国内鉱山は次第に経営難となる
・1966年(昭和41) 天狗沢堆積場が決壊、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会が古河鉱業に抗議する
・1970年(昭和45) 桐生市水道局、渡良瀬川から基準値を超える砒素を検出する
・1971年(昭和46) 太田市毛里田地区の米からカドミウムが検出される
・1972年(昭和47) 太田市毛里田地区の米、土壌のカドミウム汚染は、足尾銅山が原因と群馬県が断定(古河鉱業は否認)する
・1973年(昭和48) 足尾銅山が閉山、製錬事業は継続される
・1974年(昭和49) 毛里田鉱毒根絶期成同盟会と15億5,000万円で和解が成立する
・1976年(昭和51) 草木ダムが竣工する
・1980年(昭和55) 足尾町「足尾銅山観光」がオープンする
・1989年(平成元) 足尾での製錬事業が事実上休止状態になる
・2002年(平成14) 環境基準の強化により、本山製錬所での廃棄物焼却事業を休止する
・2007年(平成19) 足尾銅山が日本の地質百選に選定され、経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」としても認定される
・2008年(平成20) 通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定される
・2010年(平成22) 製錬場が一部の施設を残して解体される
・2011年(平成23)3月11日、源五郎沢堆積場が東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)により再び決壊、鉱毒汚染物質が渡良瀬川に流下し、下流の農業用水取水地点で基準値を超える鉛が検出される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1591年(天正19)商人・茶人千利休の命日(新暦4月21日)詳細
1633年(寛永10)江戸幕府により「寛永十年二月令」(第一次鎖国令)が出される詳細
1638年(寛永15)島原・原城が落城し、島原の乱が終結、蘢城していた一揆勢が皆殺しなる(新暦4月12日)詳細
1864年(元治元)小説家二葉亭四迷の誕生日(新暦4月4日)詳細
1947年(昭和22)第1次吉田茂内閣で、「供米促進対策要綱」が閣議決定される詳細
1952年(昭和27)「日米安全保障条約(旧)」に関わり、日米両国の政府間で、「日米行政協定」が調印される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1944年(昭和19)に、「緊急国民勤労動員方策要綱」に基き、国民登録が始まった日です。
 「緊急国民勤労動員方策要綱」(きんきゅうこくみんきんろうどういんほうさくようこう)は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1944年(昭和19)1月17日に、東条英機内閣によって閣議決定されました。太平洋戦争の戦局が厳しくなり、銃後の労働力不足が深刻となる中で、国民を戦争のための生産に駆り立てるものです。これは、「国民勤労総力ノ最高度ノ発揚ヲ目途トシ国民勤労配置ノ適正化其ノ他国民勤労能率ノ飛躍的向上ヲ図ルト共ニ軍動員ト緊密ナル連繋ヲ保持シツツ国家ノ動員所要数ヲ充足為綜合的且計画的国民勤労動員ヲ強力ニ実施スル」(第一 方針)ために、①国民登録制度の確立、②国民徴用運営の確立、③学校在学者の勤労動員、④女子の勤労動員、⑤勤労給源の確保、⑥勤労配置の適正、⑦勤労能率の増進、⑧行政の刷新、⑨国民運動の展開を求めたものでした。
 翌日には、「緊急学徒勤労動員方策要綱」も閣議決定され、学徒勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられます。そして、同年2月22日から国民登録が始まりましたが、これまで技能者登録と青壮年国民登録に分かれていた国民登録を一元化し、その拡充整備をはかったものでした。
 以下に、「緊急国民勤労動員方策要綱」を全文掲載しておきますからご参照下さい。

〇「緊急国民勤労動員方策要綱」 (全文)  1944年(昭和19)1月17日閣議決定

緊急国民勤労動員方策要綱 

第一 方針

国民勤労総力ノ最高度ノ発揚ヲ目途トシ国民勤労配置ノ適正化其ノ他国民勤労能率ノ飛躍的向上ヲ図ルト共ニ軍動員ト緊密ナル連繋ヲ保持シツツ国家ノ動員所要数ヲ充足スル為総合的且計画的国民勤労動員ヲ強力ニ実施スルニ付左ノ方途ヲ講ズルモノトス
尚昭和十九年度国民動員計画ノ策案ニ際シ更ニ必要ナル方途ヲ講ズルコトアルモノトス

第二 要領

一 国民登録制度ノ確立
現行青壮年登録及技能者登録ノ制度ヲ統合スルト共ニ登録ノ範囲ヲ拡大シ一元的普遍的ナル国民登録制度ヲ確立スルコト
二 国民徴用運営ノ改善
国民徴用ノ実施範囲ノ拡大ニ伴ヒ
(一)現行ノ居住地主義的徴用制度ノ外職域徴用制度ヲ創設スルコト
(二)被徴用者ノ身上、従事スベキ総動員業務ノ種類等ニ応ジ徴用期間及徴用ノ解除方法ニ付弾力的運用ヲ更ニ強化スルコト
(三)被徴用者ノ援護ニ関スル措置ヲ強化スルコト
備考
徴用ノ国家性ヲ更ニ鮮明ニシ、徴用ニ関シ信賞必罰ヲ励行スル等ノコトニ関シ根本的ナル方策ノ樹立ニ付別途至急立案スルモノトスルコト

三 学校在学者ノ勤労動員
学校在学者ノ勤労動員ヲ一層積極的ナラシムルモノトシ之ガ為講スベキ措置ニ付テハ別ニ之ヲ定ムルコト

四 女子ノ勤労動員
我国ノ家族制度並ニ女子ノ特性ト民族力強化ノ必要トヲ勘案シツツ女子ノ勤労動員ヲ促進拡大スルモノトスルコト
之ガ為
(一)既定ノ諸方策ヲ更ニ強化推進スルコト
(二)挺身隊制度ノ運用ヲ強化スルト共ニ、極力家庭ヨリノ通勤制ヲ採リ且学校別、地域別ニ責任者ヲ設ケ之ヲ統率セシムル等之ガ改善整備ニ努ムルコト、尚要スレバ之ガ組織、運営、隊員ノ紀律、処遇等ニ付法的措置ヲ講ズルコト
(三)各産業別、工場事業場別等ニ付女子使用目標率ヲ明示シ女子使用ノ範囲ヲ拡大スルコト
(四)男子ノ就業制限ニ伴フ女子ニ依ル補充ハ産業ノ緊要度ニ応ジ重点的計画的ニ之ヲ為スコト
(五)在家庭女子ノ勤労力ノ活用ニ付有効ナル措置ヲ講ズルコト
備考
女子ノ勤労管理ハ特ニ現在尚極メテ不備ナルノ実情ニ顧ミ之ニ関スル具体的方途ノ徹底励行ニ付別途特段ノ措置ヲ講ズルコト

五 勤労給源ノ確保
(一)存続セシムルモノトシテ決定シタル以外ノ各種学校ニ在学スル者ニ対シテハ之ヲ積極的ニ勤労ヘ動員スルコト
(二)勤労給源ノ供出ヲ目途トスル企業整備ノ強力且計画的ナル遂行ヲ為スコト
(三)男子ノ就業制限ノ範囲ヲ更ニ拡充スルコト
(四)現行勤労配置規制ノ年齢範囲ヲ引上グルコト
(五)要員充足困難ナル緊要産業部門ニ付テハ勤労者ノ充足ニ関スル現行制度ノ制限ヲ緩和又ハ撤廃スルコト
(六)朝鮮人勤労者ノ内地集団移入ヲ強化スルコト
(七)華人勤労者ノ内地移入ノ本格化ヲ図ルコト
(八)在監者ノ活用並ニ俘虜ノ利用ヲ拡充スルコト
備考
一 広ク国民ノ職業ノ自由転換ヲ規制スルコトニ関シ別途攻究ヲ進ムルコト
二 青少年ニ対シ包括的ニ一定期間勤労ニ服スル義務ヲ課スルコトニ付テモ至急研究ヲ為スモノトスルコト

六 勤労配置ノ適正
(一)地方長官ヲシテ国民動員計画ニ基キ都道府県別需給計画ヲ設定セシメ之ニ依リ適時的確ナル要員ノ充足ヲ図ラシムルコト
都道府県間ノ調整ハ原則トシテ地方行政協議会長ヲシテ之ニ当ラシムルコト
(二)農、工、鉱、運輸其ノ他ノ緊急産業ニ付適正ナル勤労配置ヲ確保スル為計画的且一元的ニ勤労配置ヲ強力ニ調整スルノ措置ヲ講ズルコト
(三)勤労者ノ需要ハ極力地元ニ於テ充足スルノ方針ヲ採ルト共ニ現ニ工場事業場ニ就業スル者ニ付テモ之ガ地域的配置転換ニ関シ強力ナル措置ヲ講ズルコト
(四)企業系列ノ調整強化ニ即応シ親工場ト協力工場トヲ一体トセル勤労配置態勢ヲ確立スルコト
(五)軽易ナル作業ニ従事スル男子勤労者ハ之ヲ重筋作業部門ニ転換セシメ男女勤労配置ノ再編整備ヲ断行スルコト
(六)技術者及熟練労務者ノ全面的活用ヲ図ル為現場還元、配置転換及適正配置ヲ図ルコト
(七)中等及専門程度以上ノ学校卒業者ニ対シテハ職場ニ於ケル特別ノ養成等ノ方途ヲ講ジ努メテ現場幹部工員又ハ職員タラシムル如ク措置スルコト
(八)常備勤労報国隊ヲ更ニ整備シ常時待機態勢ヲ確立シ其ノ出動ノ迅速且的確化ヲ図ルコト
備考
生産等ノ量及質ニ対応スル所要勤労ノ量及質ヲ明確ニシ各工場事業場ニ付生産等ノ計画ニ真ニ適合セル勤労要員ノ配置ヲ図ル為勤労定員制ノ確立等所要ノ措置ヲ急速ニ攻究スルモノトスルコト

七 勤労能率ノ増進
勤労管理ノ刷新、勤労精神ノ昂揚、勤労者ノ援護ノ拡充、勤労者ノ規律ノ確立、勤労者ノ保健、作業能率ノ増進、勤労者用住宅及物資ノ確保等ヲ重点トシ勤労能率ノ増進ニ付別途具体的措置ヲ定ムルモノトスルコト
尚朝鮮人及華人労務者ノ勤労管理ノ刷新強化ニ付テハ特ニ格段ノ措置ヲ講ズルコト
備考
一 六及七ニ関シ速ニ行政査察ヲ行フコト
二 勤労者ノ給与制度ノ根本的合理化ニ関シテハ至急研究ヲ進ムルモノトスルコト

八 行政ノ刷新
勤労動員業務ノ拡大強化ニ伴ヒ動員行政機能及機構ノ刷新ヲ図ルコト

九 国民運動ノ展開
(一)運動ノ主体ハ大政翼賛会トシ関係各省及関係団体之ニ協力スルモノトスルコト
(二)運動ノ重点ヲ皇国勤労観ノ徹底、国民動員ノ促進及勤労能率ノ発揚ニ置クコト

  「内閣制度百年史 下」内閣制度百年史編纂委員会偏より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

622年(推古天皇30)政治家・宗教的思想家聖徳太子が亡くなったとされる日(新暦4月8日)詳細
1239年(延応元)第82代の天皇後鳥羽天皇の命日(新暦3月28日)詳細
1585年(天正13)天正遣欧使節がローマ教皇グレゴリウス13世に謁見する(新暦3月23日)詳細
1875年(明治8)板垣退助が大阪で自由民権運動の政治団体「愛国社」を創設する詳細
1967年(昭和42)歌人で大正三美人の1人とされる柳原白蓮の命日詳細
1989年(平成元)佐賀県吉野ヶ里遺跡で弥生時代後期の国内最大規模の環濠集落発見と報道される詳細
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 今日は、明治時代後期の1901年(明治34)に、官営八幡製鐵所の第一鎔鉱炉で火入れ式が行われ、操業を開始した日です。
 官営八幡製鉄所(かんえいやわたせいてつじょ)は、明治時代中頃に近代工業が発達してきたのと日清戦争を契機とする鉄鋼需要増加に応え、軍備増強および産業資材用鉄鋼の生産増大をはかるため、1896年(明治29)の第9回帝国議会で官営製鉄所建設案が可決、「製鉄所官製」が公布されたことに基づいて建設が決まりました。日清戦争による清国からの賠償金の一部を使用し、ドイツ人技師グーテホフヌングスヒュッテの指導を受けて、翌年から福岡県遠賀郡八幡村(現在の北九州市八幡東区)で建設が始まります。筑豊炭田を後背に抱え、石炭を大量・迅速に調達できることと鉄鉱石の輸送・運搬に適した港を持っていることなどから適地と考えられました。
 1899年(明治32)に、中国湖北省ターイエ(大冶)鉄鉱山の鉄鉱を原料とする長期契約が結ばれ、日本初の近代的銑鋼一貫工場とされます。1901年(明治34)2月5日に東田第一高炉で火入れが行われ、同年11月18日に作業開始式が行われて、操業が始まりました。
 当初は農商務省の管轄でしたが、日露戦争後は飛躍的発展を遂げて全国の鉄鋼生産の7~8割を占めるようになり、1925年(大正14)には商工省の所管となります。そして、1934年(昭和9)に、民間製鉄5社と合併し、半官半民の日本製鉄となりました。
 太平洋戦争後の1950年(昭和25)に、「過度経済力集中排除法」の適用を受けて、日本製鉄は、富士製鉄と八幡製鉄に分割されますが、1970年(昭和45)に、再び富士製鉄と合併して新日本製鐵となり、2012年(平成24)には、新日本製鐵と住友金属工業が合併し、新日鐵住金八幡製鐵所となります。その後、新日鐵住金は、2019年(平成31)に現在の「日本製鉄」に社名変更しました。
 尚、2007年(平成19)11月30日には、経済産業省から八幡製鐵所関連遺産が「近代化産業遺産」に認定され、2015年(平成27)には、官営八幡製鉄所関連の旧本事務所、修繕工場、旧鍛冶工場(福岡県北九州市)、遠賀川水源地ポンプ室(福岡県中間市)の4資産が「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇官営八幡製鉄所関係略年表

・1896年(明治29)3月28日 第9回帝国議会で製鉄所の創立が決定される
・1897年(明治30) 製鉄所を八幡村に設置すると決定し、官営製鐵所を開庁する
・1901年(明治34)2月5日 東田第一高炉を火入れし、5月に製鋼工場、6月に中形工場・小形工場(いずれも条鋼用を圧延する工場)・鋼板工場、11月に軌条工場が操業を開始する
・1901年(明治34)11月18日 作業開始式が挙行され、伏見宮貞愛親王、平田東助農商務大臣が出席する
・1902年(明治35) 東田第一高炉・転炉が休止する
・1904年(明治37) 大形工場(大形の条鋼を圧延)が操業開始、東田第一高炉を火入れする
・1905年(明治38) 東田第二高炉を火入れし、厚板工場が操業を開始する
・1906年(明治39) 第一期拡張工事を開始する
・1907年(明治40) 線材工場が操業を開始する
・1909年(明治42) 東田第三高炉を火入れする
・1912年(大正元) 中空ロール機を導入(イリス商会による)する
・1913年(大正2) セメント製造を開始する(日鉄住金高炉セメントの起源)
・1914年(大正3) 東田第四高炉を火入れする
・1917年(大正6) 電気炉を新設する
・1917年(大正6) 九州製鋼株式会社、東洋製鐵株式会社が設立される
・1918年(大正7) 東田第五高炉を火入れする
・1919年(大正8) 労働組合(労友会)が2万4千名を率いてストライキを決行、東洋製鐵で高炉を火入れする(後の戸畑第二高炉)
・1921年(大正10) 東田第六高炉を火入れ、官営製鉄所が東洋製鐵の工場を借入れる
・1922年(大正11) ブリキ(当時は熱漬ブリキ)の製造を開始する
・1924年(大正13) 戸畑作業所で2基目の高炉に火入れ(後の戸畑第一高炉)する
・1928年(昭和3) 九州製鋼の製鋼工場(通称西八幡工場)が操業開始を開始、同時に官営製鉄所が借入れ、厚板工場が操業開始する
・1929年(昭和4) 九州製鋼の大形工場が操業開始する
・1930年(昭和5) 専用鉄道(炭滓線、現・くろがね線)が運転開始、洞岡第一高炉火を入れする
・1933年(昭和8) 洞岡第二高炉を火入れする
・1934年(昭和9) 官営製鐵所や九州製鋼などが合同し、日本製鐵(日鉄)が発足して、日鉄八幡製鐵所となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)小説家尾崎士郎の誕生日詳細
1913年(大正2) 第30帝国議会衆議院本会議において、尾崎行雄の桂首相弾劾演説が行われる詳細
1920年(大正8)八幡製鉄所で職工2万4千人がストライキに入る(八幡製鉄所争議)詳細
1936年(昭和11)日本職業野球聯盟が設立される(プロ野球の日)詳細
1943年(昭和18)東条英機内閣によって、「大東亜要員錬成要綱」が閣議決定される詳細
1981年(昭和56)恒久的輸送機関として初めての新交通システムとなる神戸新交通ポートアイランド線が開業する詳細

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 今日は、昭和時代中期の1960年(昭和35)に、三井鉱山が三井三池炭鉱をロックアウトし、全山の労組が無期限スト(三井三池争議)に突入した日です。
 三井三池争議(みついみいけそうぎ)は、三井鉱山三池鉱業所(福岡県大牟田市)で起こった労働争議のことで、1953年(昭和28)にも大規模なものが有りましたが、一般的には、1959年(昭和34)から翌年にかけてのものを指します。石炭から石油へのエネルギー転換政策を背景に、1955年(昭和30)に「石炭鉱業合理化臨時措置法」が公布され、非能率炭鉱が廃坑化されることになりました。
 1959年(昭和34)、石炭大手18社は炭価引下げのため11万人もの大規模整理を含む合理化の実施に踏み切ります。その中で、1959年(昭和34)1月19日、三井鉱山は6,000人の希望退職を含む会社再建案を提示し、同年8月29日には4,580人の人員削減案を発表しました。
 続いて12月2日・3日には1,492人に退職を勧告し、これに応じない1,278人に対し12月11日に指名解雇を通告します。しかし、そこには労働組合つぶしをねらった、約300人の職場活動家の解雇問題がありました。
 労働組合側はこれに強く反発し、日本労働組合総評議会(総評)、日本炭鉱労働組合 (炭労) の支援で白紙撤回を要求して対立し、会社側は翌年1月25日に、同鉱業所のロックアウトを強行し、組合側は無期限ストライキに突入します。財界が三井鉱山を全面的に支援、一方、日本労働組合総評議会(総評)は三池労組を全面的に支援し、全国から応援されたので、この争議は“総資本対総労働の対決”などと呼ばれ、折からの安保反対闘争と結びついて大規模な闘いとなりました。
 しかし、1960年(昭和35)3月に三池労組内に第2組合が結成されるなど労働組合側の足並みが乱れ、中央労働委員会の斡旋も不調に終わります。最後は、三川坑のホッパー(貯炭槽)を巡っての対立となり死傷者も出ましたが、同年11月1日に、会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職するなどの会社側に有利な条件で、282日に及ぶストライキは中止され、終結に向かいました。

〇三井三池争議関係略年表

・1955年(昭和30) 「石炭鉱業合理化臨時措置法」が公布され、非能率炭鉱が廃坑化されることになる
・1959年(昭和34) 石炭大手18社は炭価引下げのため11万人もの大規模整理を含む合理化の実施に踏み切る
・1959年(昭和34)1月19日 三井鉱山は6,000人の希望退職を含む会社再建案を提示する
・1959年(昭和34)8月29日 4,580人の人員削減案を発表する
・1959年(昭和34)12月2日・3日 1,492人に退職を勧告する
・1959年(昭和34)12月11日 退職勧告に応じない1,278人に対し指名解雇を通告する
・1960年(昭和35)1月25日 会社側は三井鉱山鉱業所のロックアウトを強行し、組合側は無期限ストライキに突入する
・1960年(昭和35)3月17日 三池労組内に第2組合(三池炭鉱新労働組合:三池新労)が結成される
・1960年(昭和35)3月18日 三井鉱山社員労組連合会(三社連)は炭労を脱退し、正式にストから離脱する
・1960年(昭和35)3月29日 ピケを張っていた三池労組の組合員・久保清が暴力団員に刺殺される
・1960年(昭和35)4月6日 中労委から出された斡旋案(藤林斡旋案)に対し、三鉱連内部でその取扱が分かれる
・1960年(昭和35)4月9日 炭労臨時大会では、強行に闘争完遂を訴える三池労組に対し、他の5労組(美唄、芦別、田川、砂川、山野)は、早期妥結を求めたため、対立する
・1960年(昭和35)4月18日 三池労組は三鉱連を脱退する
・1960年(昭和35)7月7日 石炭を出荷まで貯めておく貯炭場であるホッパーへの組合員立ち入り禁止の仮処分を福岡地裁が下す
・1960年(昭和35)8月10日 中央労働委員会は、会社は指名解雇を取り消す代わりに、整理期間の終了を待って、指名解雇された労働者は自然に退職したものとみなすという斡旋案を発表する
・1960年(昭和35)11月1日 会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職するなどの会社側に有利な条件でストライキが中止される

☆三池炭鉱(みいけたんこう)とは?

 福岡県大牟田市に、平成時代の1997年(平成9)まであった炭鉱です。この地での石炭掘削の歴史は古く、室町時代には発見されていたと伝えられ、江戸時代には、三池藩の直轄で行われていたのです。明治維新後の1873年(明治6)には、工部省がこれらの炭鉱の官有を決定して、開発してきました。しかし、1889年(明治22)に民間に払い下げられて、三井財閥の所有する所となり、かの団琢磨が技師として、腕を振るい、かつての大炭坑地帯を形成したのです。太平洋戦争後、石炭産業が斜陽化していく中で、1959年(昭和34)に「三井三池争議」が勃発して、大きな社会問題となりました。1963年(昭和38)には、三川鉱で爆発事故が発生して 458人の犠牲者を出したことが知られています。その後、石炭需要の減少により、1997年(平成9)3月30日閉山するに至りました。閉山後、関連施設が国の重要文化財や史跡に指定されています。また、2007年(平成19)11月30日に経済産業省により、近代化産業遺産として三池炭鉱関連遺産が認定されました。さらに、宮原坑と万田坑は、2015年(平成27)に「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼,造船,石炭産業」として世界遺産の文化遺産に登録されています。 

☆三井三池炭鉱三川鉱の爆発事故とは?

 昭和時代中期の1963年(昭和38)に、三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)で粉塵爆発が起き、死者458人、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839人を出した事故の事です。
 この日の午後3時12分に、第1斜坑で石炭を満載した炭車の連結器が破断して炭車が暴走し、坑内に積もっていた炭塵が舞い上がって、それに引火爆発しました。
 当時坑内には、約1,400人の労働者が従事していて、458人が死亡(爆死20人、一酸化炭素中毒死438人)し、救出された940人の内、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839人を出しましたが、犠牲者数は戦後日本の炭坑爆発事故中最大のものです。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1701年(元禄14)真言宗僧・国学者・歌人契沖の命日(新暦3月4日)詳細
1880年(明治13)福沢諭吉を中心に、日本最初の社交クラブである交詢社が設立される詳細
1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣によって、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1947年(昭和22)国文学者・作詞家・文学博士高野辰之の命日詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1943年(昭和18)に、東条英機内閣によって、「生産増強勤労緊急対策要綱」が閣議決定された日です。
 「生産増強勤労緊急対策要綱」(せいさんぞうきょうきんろうきんきゅうたいさくようこう)は、太平洋戦争下において、労働が全国民の国家的急務であるとして「国民皆働体制の整備強化」と「皇国勤労観の確立」をうたい、それに関連した労務関係勅令の改正によって労働統制を強化する、東条英機内閣の閣議決定でした。その中で特に、女子労働について、「女子ヲ以テ代替シ得ル業種及職種ニ付夫々女子ノ使用員数ノ標準ヲ定ムルト共ニ女子勤労管理ヲ確立シ以テ女子動員ノ強化ヲ図ルコト 右ニ関連シ男子ノ就業制限乃至禁止ヲ行フコト」(第二 国民勤労ノ重点的配置ノ強化徹底)としています。また、賃金に関しては、「勤労者ノ生活ノ恒常性ヲ確保シ勤労能率ノ向上ヲ期スル為賃金統制ヲ合理的ナラシムルト共ニ賃金統制上必要ナル措置ヲ別途講ズルコト」(第三 勤労管理ノ刷新強化)としました。
 その後の労務関係勅令のあいつぐ改正によって、男性に代わって女性がその業務、労働に従事できる17業種(事務職、車掌、料理人など)が定められます。これらによって、労働統制はほぼその極限に達し、国民徴用の徹底的強化と女子および学徒の動員が急角度に進行しました。増産のための「労務管理」は、労働時間その他にみられる露骨な労働条件の悪化を公認するにいたり、労働力の磨滅に導いたとされます。
 以下に、閣議決定「生産増強勤労緊急対策要綱」を掲載しておきますから、ご参照下さい。

〇「生産増強勤労緊急対策要綱」 1943年(昭和18)1月20日閣議決定

生産増強ハ刻下喫緊ノ要務ニシテ之ガ完遂ハ国民勤労ノ充実発揚ニ俟ツ処極メテ大ナルニ鑑ミ勤労総力ヲ最高度ニ発揮スル為特ニ左ノ如キ方策ヲ緊急実施スルモノトス

第一 国民徴用制度ノ刷新強化
一 国民徴用ノ国家性明確化
(一)被徴用者全員一体ノ態勢ヲ以テ生産増強ニ邁進シ得ル如ク社長ノ徴用其ノ他必要ナル措置ヲ講ズルコト
(二)徴用ハ予メ合格者ヲ定メ可成国家施設ニ収容シ教養訓練ヲ施シタル上工場事業場ニ配置スルコト
(三)被徴用者ノ工場事業場ニ於テ支給ヲ受クル給与ガ当該被徴用者ノ前収ニ比シ著シク減少スル場合ニ於テハ之ヲ補給スルノ途ヲ講ジ其ノ財源ハ国家ニ於テ相当負担スルコト
右補給ハ別途国民徴用援護制度ノ拡充ニ依リ之ヲ為スコト
二 国民徴用制度ノ運営ノ改善
(一)現行徴用期間ハ之ヲ延長シ必要アル場合ニ於テハ更ニ更新シ得ルコトヽスルト共ニ徴用ヲ解除シ得ル場合ヲ明確ニスルコト
(二)徴用銓衡ヲ厳正且権威アラシムル為国民徴用官制度ヲ確立スルト共ニ国民職業指導所ノ機能増進ニ必要ナル措置ヲ講ズルコト
徴用官ハ地方庁ニ於ケル関係高等官ヲ以テ之ニ充ツルコト
(三)徴用給源ノ確保並ニ銓衡ノ厳正ヲ期スル為銓衡ニ当リテノ徴用除外ノ範囲ヲ縮少スルト共ニ適正ナル銓衡基準ヲ定ムルコト
(四)国民登録ノ範囲ヲ更ニ拡大シ被徴用者銓衡ニ便ナラシムル如ク之ガ整備ヲ図ルコト
(五)被徴用者ニシテ特ニ勤労状況良好ナラザル者ニ付テハ国家ノ特別錬成施設ニ於テ錬成ヲ実施シ其ノ教化善導ニ努ムルコト
三 国民徴用援護制度ノ拡充
被徴用者ヲシテ後顧ノ憂ナカラシムル為其ノ遺家族ニ対スル援護制度ヲ拡充強化スルト共ニ被徴用者ノ士気ヲ昂揚スル為慰問激励ニ付特別ノ措置ヲ講ズルコト

第二 国民勤労ノ重点的配置ノ強化徹底
一 産業及企業間ニ於ケル重点ノ移動ニ即応スル企業整備ノ進捗ニ伴ヒ工場事業場間ニ於ケル勤労者ノ配置転換ヲ容易且迅速ナラシムル為必要ナル措置ヲ講ズルコト
二 中小商工業者ノ戦時重要生産ヘノ転換ヲ更ニ一層促進スル為必要ナル措置ヲ講ズルコト
三 国民勤労報国隊制度ノ刷新ヲ図リ各地域、職域又ハ団体ニ於ケル報国隊ノ常時組織ヲ編成セシメ且其ノ出動期間ヲ延長スルコト
四 不急ト認メラルヽ学校殊ニ時局下緊要ナラザル各種学校及之ニ類スル施設ノ閉鎖制限又ハ収容定員ノ減少ヲ行フト共ニ学生生徒ノ勤労報国隊組織ニ付テハ特ニ之ガ拡充強化ヲ図ルコト
五 女子ヲ以テ代替シ得ル業種及職種ニ付夫々女子ノ使用員数ノ標準ヲ定ムルト共ニ女子勤労管理ヲ確立シ以テ女子動員ノ強化ヲ図ルコト
右ニ関連シ男子ノ就業制限乃至禁止ヲ行フコト

第三 勤労管理ノ刷新強化
一 勤労管理行政ノ強化
(一)皇国本来ノ勤労観ヲ確立シ且工場事業場ニ於ケル勤労管理機構及勤労管理ノ陣容ヲ整備セシムル為必要ナル措置ヲ講ズルト共ニ特ニ勤労能率不良ナル工場事業場ニ付勤労管理改善ノ為強力ナル指導ヲ行フコト
(二)管理官、労務官、工務官等緊密一体ノ態勢ヲ整備シ重要工場事業場ノ生産能率ノ増強ニ付総合的且強力ナル指導ヲ為スコト
二 勤労青少年ノ補導錬成
国力ノ基幹タル勤労青少年ノ不良化ヲ未然ニ防止スルト共ニ健全ナル勤労青少年育成ノ為別案「勤労青少年補導緊急対策要綱」ニ依リ其ノ補導錬成ノ徹底ヲ図ルコト
三 就業時間制度ノ刷新
現行就業時間関係法規ヲ改正シ戦時生産即応ノ弾力性アル運営ヲ為シ得ル如クスルコト
四 戦時適正賃金制度ノ確立
勤労者ノ生活ノ恒常性ヲ確保シ勤労能率ノ向上ヲ期スル為賃金統制ヲ合理的ナラシムルト共ニ賃金統制上必要ナル措置ヲ別途講ズルコト

第四 勤労者用物資、住宅等ニ関スル対策ノ強化
一 勤労者用物資ノ割当並ニ配給ハ原則トシテ産業報国会ノ組織ヲ通ズルコトヽシ其ノ一元化ヲ図ルコト
二 工場、鉱山、事業場二於ケル購買会ノ配給機構上ノ地位ヲ認メ之ガ積極的活用ヲ図ルコト
三 勤労者住宅、寄宿舎及厚生施設ハ国ニ於テ一定ノ規格ヲ定メ工場施設ト一体的ニ計画セシムルト共ニ其ノ建設既設建物ノ有効利用等ニ付特別ノ措置ヲ講ズルコト

第五 本要綱実施ニ関シ必要ナル経費ニ付テハ予算上ノ措費ヲ講ズルコト

   「国立国会図書館リサーチ・ナビ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1184年(寿永3)琵琶湖畔の粟津の戦いで源義仲(木曽義仲)が討ち死にする(新暦3月4日)詳細
1869年(明治2)薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主が版籍奉還を上奏する(新暦3月2日)詳細
明治政府が街道の関所を廃止する(新暦3月2日)詳細
1885年(明治18)俳人尾崎放哉の誕生日詳細
1925年(大正14)「日ソ基本条約」が締結され、日ソ間に国交が樹立される詳細
1958年(昭和33)「日本・インドシナ平和条約」が調印(発効は同年4月15日)される詳細
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