ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 政治・外交

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 今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、国際復興開発銀行(世界銀行)が、国際通貨基金(IMF)と共に、日本の加盟を承認した日です。
 国際復興開発銀行(世界銀行)は、貧困の解消と持続的な成長の実現に向けて、途上国政府に融資・技術協力・政策助言を行う国際開発金融機関です。一般的には、国際復興開発銀行(IBRD)と国際開発協会(IDA)の2機関の総称とされてきました。
 1944年(昭和19)7月に、アメリカのニュー・ハンプシャー州ブレトン・ウッズで開催された連合国通貨金融会議で調印されたブレトンウッズ協定(IMF協定)で設立が決まり、1946年(昭和21)6月に業務を開始、翌年からは国連の専門機関となります。第二次世界大戦後の各国の経済面での復興援助を行い、国際通貨基金(IMF)と共に、ブレトン・ウッズ金融機関とよばれて、国際金融を支える両輪となりました。
 日本の加盟は、1952年(昭和27)5月29日に、国際通貨基金(International Monetary Fund:略称IMF)と共に承認されてからとなります。

〇国際復興開発銀行(世界銀行)関係略年表

・1944年(昭和19)7月 アメリカのニューハンプシャー州ブレトン・ウッズにおいてIMF(国際通貨基金)とともに設立が決定(ブレトンウッズ協定)される
・1945年(昭和20)12月 「ブレトン・ウッズ協定」が発効する
・1946年(昭和21)6月 正式に業務を開始する
・1947年(昭和22) 国連の専門機関となる
・1947年(昭和22) フランスに最初の融資を行なう
・1952年(昭和27)5月29日 国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)の両理事会で日本の加盟申請が承認される
・1952年(昭和27)8月13日 日本が世界で52番目の加入国として正式加盟する
・1953年(昭和28) 日本の借り入れが始まる(合計8億6,000万ドルを借り入れ、東海道新幹線や名神高速道路・東名高速道路などのインフラの整備に充てられる)
・1971年(昭和46) 日本は5大出資国の1つとなって理事一人を自由に任命することができるようになる
・1990年(平成2)7月 日本は世界銀行からの借金を全額返済する
・2005年(平成17) 資金規模が1,897億ドルに増額される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1889年(明治22)小説家・随筆家・俳人内田百閒の誕生日詳細
1908年(明治41)言語学者服部四郎の誕生日詳細
1942年(昭和17)歌人・詩人与謝野晶子の命日(白櫻忌)詳細
1945年(昭和20)横浜大空襲により、死者・行方不明3,959人、重軽傷者10,198人、罹災者311,218人を出す詳細
1952年(昭和27)国際通貨基金(IMF)が日本の加盟を承認する詳細
1961年(昭和36)青森県八戸市で白銀大火が起きる詳細
1981年(昭和56)日本で7番目の地下鉄として、京都市営地下鉄が開業(烏丸線北大路駅~京都駅間)する詳細
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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、長野県の機械工宮下太吉が爆発物取締罰則違反容疑で逮捕され、大逆事件の検挙が始まった日です。
 大逆事件(たいぎゃくじけん)は、明治時代後期の1910年(明治43)に、明治政府が社会主義者に加えた大弾圧事件で、幸徳事件とも言われています。1908年(明治41)に、明治政府は赤旗事件前後から社会主義者への弾圧を強め,1910年(明治43)5月、長野県明科の職工宮下太吉の爆裂弾製造所持の事件を契機として、翌月から全国の社会主義者数100名を検挙、内26名を明治天皇暗殺計画容疑として、「刑法」73条の大逆罪で起訴しました。
 同年12月10日から29日まで大審院特別刑事部は16回の公判を非公開で行い、翌年1月18日には、2名を除いて証拠のないままに、幸徳秋水、森近運平、管野スガ、新村忠雄、宮下太吉、古河力作、奥宮健之、大石誠之助ら24名に大逆罪で死刑、2名に爆発物取締罰則違反で有期懲役刑が言い渡されます。同日夜に死刑宣告を受けた者の内12名は明治天皇の「仁慈」により無期懲役に減刑されたものの、幸徳秋水、宮下太吉、管野スガら12名は、世界中の抗議のうちに1月24~25日処刑されました。
 実際の事件関係者は数名で、幸徳秋水以下大部分はでっちあげの犠牲者とみられますが、以後社会主義や労働運動は徹底的に弾圧され、一時沈滞します。

〇幸徳秋水(こうとく しゅうすい)とは?

 明治時代に活躍した思想家・社会運動家で、本名を傳次郎といいます。1871年(明治4年9月23日)に、 高知県幡多郡中村町(現在の四万十市)の薬種業・酒造業幸徳篤明と多治の次男として生まれました。
 子供の頃から聡明で神童と呼ばれ、1887年(明治20)に政治家を志して上京し、林有造の書生となります。しかし、 同年「保安条例」により東京を追われ、大阪で同郷の中江兆民の門弟となり、「秋水」の号を贈りました。
 1891年(明治24)再び上京し、国民英学会に学び、卒業後は、いくつかの新聞社を経て、1898年(明治31)に『萬朝報』の記者となります。同年に社会主義研究会に入り、社会主義協会の会員ともなりました。
 1900年(明治33)に、旧自由党系政党の憲政党が、かつての政敵であった藩閥出身の伊藤博文と結んで立憲政友会を結成することを批判した「自由党を祭る文」を掲載しますが、名文として知られています。1901年(明治34)には、堺利彦、安部磯雄、片山潜らとともに社会民主党を結成しますが、即日禁止されました。
 また、足尾鉱毒問題で奔走する田中正造の依頼で直訴文を起草します。日露戦争を前にして『万朝報』によって非戦論を主張しますが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して退社しました。
 その後、堺利彦等と共に平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発刊、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱え、反戦論を展開します。尚、同紙上に『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られてきました。
 しかし、1905年(明治38)に筆禍事件により「新聞紙条例」違反に問われ禁錮5ヶ月に処せられ、出獄後は保養を兼ねて渡米し、無政府主義に傾き始めます。1910年(明治43)に、弾圧により平民社を解散後は、大逆事件に連座し、検挙されて、天皇暗殺計画の主謀者とされ、1911年(明治44)1月24日に、41歳で絞首刑となりました。
 著書には、『廿世紀之怪物帝国主義』 (1901年)、『社会主義神髄』 (1903年) 、『平民主義』、『基督抹殺論』などがあります。

☆大逆事件関係略年表

<1908年(明治41)> 
・明治政府は赤旗事件前後から社会主義者への弾圧を強める

<1909年(明治42)>
・11月3日 長野県の機械工宮下太吉は長野県東筑摩郡中川手村大足(現在の長野県安曇野市)の大足山中で爆裂弾の爆破実験を行なう

<1910年(明治43)>
・5月21日 宮下太吉は、爆弾の材料を中川手村明科の明科製材所の工場に移す
・5月23日 長野県松本警察署長、宮下太吉に関わる「爆発物取締罰則」違反容疑の報告書を受け取る
・5月25日 宮下太吉が「爆発物取締罰則」違反容疑で逮捕される
・5月31日 検事総長は、(旧)刑法73条(大逆罪)に該当すると判断する
・6月1日 幸徳秋水、管野スガらが湯河原で逮捕される
・11月12日 アナキストのエマ・ゴールドマンら5名が連名で駐米全権大使・内田康哉宛に抗議文を送付する
・11月22日 エマ・ゴールドマンらがニューヨークで最初の抗議集会を開催する
・12月6日 フランスの社会主義者ら、在パリ日本大使館に抗議して大デモを行う
・12月10日 幸徳秋水ほか26人に関する大逆事件の大審院第1回公判(非公開)が開廷される
・12月12日 エマ・ゴールドマンらがニューヨークの抗議集会で桂太郎首相宛の抗議文を採択する
・12月29日 大審院は16回目の公判を非公開で行ない、結審となる

<1911年(明治44)>
・1月18日 2名を除いて証拠のないままに、幸徳秋水、森近運平、管野スガ、新村忠雄、宮下太吉、古河力作、奥宮健之、大石誠之助ら24名に大逆罪で死刑、2名に爆発物取締罰則違反で有期懲役刑が言い渡される
・1月19日 死刑宣告を受けた者の内12名は明治天皇の「仁慈」により無期懲役に減刑される
・1月24日 幸徳秋水、宮下太吉ら11が名が絞首刑となる
・1月25日 管野スガが絞首刑となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

967年(康保4)第62代天皇とされる村上天皇の命日(新暦7月5日)詳細
1336年(建武3)湊川の戦いで足利尊氏が楠木正成を破り、正成は一族と共に自害(新暦7月4日)詳細
1654年(承応3)第112代の天皇とされる霊元天皇の誕生日(新暦7月9日)詳細
1885年(明治18)詩人・歌人平野万里の誕生日詳細
1951年(昭和26)内閣が「人名用漢字別表」を告示し、人名用漢字92字を定める詳細
1955年(昭和30)岩波書店より新村出編『広辞苑』初版が刊行される詳細
1960年(昭和35)大修館書店が諸橋轍次著の『大漢和辞典』の最終巻を刊行する詳細
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 今日は、明治時代後期の1895年(明治28)に、三国干渉により、閣議で、日本が遼東半島の全面放棄の勧告を受諾することを決めた日です。
 三国干渉(さんごくかんしょう)は、明治時代後期の1895年(明治28)4月23日に、ロシア、ドイツ、フランス三国の公使が外務省を訪れ、遼東半島(奉天半島)を日本が所有することは、清国の首府を危うくし、朝鮮の独立を有名無実とし、極東の平和に障害となるから、その領有を放棄すべしとの勧告です。日清戦争後の講和に関わる1895年(明治28)4月17日調印(4月20日批准)の「下関条約」(日清講和条約)の結果、一旦は日本への割譲が決定した遼東半島(奉天半島)でしたが、6日後の4月23日にこのロシア・フランス・ドイツ三国の勧告が行われました。
 翌24日、大本営の置かれていた広島で急遽御前会議が開催されて対策が協議されたものの、当時の日本の国力では三国に対抗できないと判断され、5月4日に遼東半島(奉天半島)の放棄を決定、翌日3国に通告、10日には明治天皇が「遼東半島還付ノ詔勅」でその旨を国民に告げます。そして、日清両国は同年11月8日に「奉天半島還付条約」に調印(12月3日公布)し、①日本は清国に遼東半島(奉天半島)を返還する、②清国は1895年11月16日に返還の代償金として日本側に銀三千万両を支払う、③代償金の受け渡しの日から3ヶ月以内に日本軍が遼東半島(奉天半島)から撤退することを約しました。
 その後、1898年(明治31)3月に、ロシアは清と「旅順港・大連湾租借に関する露清条約」を結び、遼東半島(奉天半島)に鉄道を繋げ、軍港を建設することになり、のちの日露戦争の伏線となります。

〇三国干渉関係略年表

<1895年(明治28)>
・4月8日 ロシア帝国政府は「日本の旅順併合は、清国と日本が良好な関係を結ぶことにたいして永久的な障害となり、東アジアの平和の不断の脅威となるであろう、というのが、ヨーロッパ列強の共通の意見である——ということを、友好的な形式で日本へ申し入れる」ことを、列国に提議する
・4月17日 「下関条約」(日清講和条約)に調印し、遼東半島(奉天半島)の日本への割譲が決定する
・4月20日 「下関条約」(日清講和条約)が批准される
・4月23日 ロシア、ドイツ、フランス三国の公使が外務省を訪れ、「露仏独三国の遼東半島遷付勧告」を行い、遼東半島の領有を放棄せよと迫る
・4月24日 大本営の置かれていた広島で急遽御前会議が開催されて対策が協議され、当時の日本の国力では三国に対抗できないと判断される
・4月29日 イギリス外相のキンバーリー伯爵は駐英日本公使の加藤高明に対し、三国干渉について、イギリスは日本に援助できない旨を伝える
・5月4日 閣議で、日本が遼東半島の全面放棄の勧告を受諾することを決める
・5月5日 ロシア、ドイツ、フランス三国に、遼東半島の全面放棄を通告する
・5月10日 明治天皇が「遼東半島還付ノ詔勅」でその旨を国民に告げる
・11月8日 日清両国は「奉天半島還付条約」に調印(12月3日公布)し、①日本は清国に遼東半島(奉天半島)を返還する、②清国は1895年11月16日に返還の代償金として日本側に銀三千万両を支払う、③代償金の受け渡しの日から3ヶ月以内に日本軍が遼東半島(奉天半島)から撤退することを約する
・11月16日 遼東半島(奉天半島)返還の代償金として清国から日本側に銀三千万両が支払われる

<1898年(明治31)>
・3月27日 ロシアは清と「旅順港・大連湾租借に関する露清条約」を結び、遼東半島(奉天半島)に鉄道を繋げ、軍港を建設することになる

<1904年(明治37)>
・2月6日~翌年9月5日 日露戦争が戦われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1550年(天文19)室町幕府12代将軍足利義晴の命日(新暦5月20日)詳細
1881年(明治14)「小学校教則綱領」が制定される詳細
1913年(大正2)函館大正2年大火で、1,532戸が焼失する詳細
1949年(昭和24)GHQにより「国税行政の再編成に関する覚書」 (SCAPIN-2001) が出される詳細
1950年(昭和25)現行の「生活保護法」が公布・施行される詳細
1976年(昭和51)30件の郷土芸能が初の重要無形民俗文化財に指定される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、山東出兵をめぐり、山東省済南で日本軍と国民政府軍が衝突した済南事件が起きた日です。
 済南事件(さいなんじけん)は、日本軍の山東出兵をめぐり、山東省済南で起きた北伐軍と日本軍の武力衝突事件でした。1928年(昭和3)4月に、田中義一内閣は居留民保護のため済南と膠済(こうさい)線沿線に派兵(第2次山東出兵)しましたが、国民革命軍が日本軍の撤収を要求したこともあって、5月3日の小衝突をきっかけに両軍の交戦が始まり、この事件のことを指しています。
 同夜に停戦協定が成立したものの、田中義一内閣は中国の多年にわたる排日感情が原因であるとして、内地から1個師団の増派(第3次山東出兵)を決定し、8日に総攻撃を開始し、集中砲火により済南城内では一般市民を主に5,000人にのぼる死傷者を出しながら、11日までに済南中心部を占領しました。中国民衆の反日感情はこの事件で増大し、日中両国は互いに相手側の謝罪・賠賞を要求して困難な交渉となりましたが、翌年3月28日の外交交渉による解決で、5月に日本軍は全面撤退して、山東出兵は終結したものの、反日運動の激化を招き、同時に英米の日本批判も強まることとなります。
 以下に、「済南事件解決に関する文書」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「済南事件解決に関する文書」 1929年(昭和4)3月28日

一、日支兩國共同聲明書
日支兩國政府ハ客年五月三日濟南に於テ發生セル事件カ兩國國民傳來ノ友誼ニ鑑ミ極メテ不幸悲痛ノ出來事ナルヲ認ムルモ今ヤ兩國政府及國民ハ切ニ友誼ノ增進ヲ望ムカ故ニ此ノ際該事件ニ伴フ不快ノ感情ヲ記憶ヨリ一埽シ以テ將來兩國々交ノ益々敦厚ナランコトヲ期スル旨茲ニ聲明ス
  昭和四年三月二十八日南京ニ於テ  
  日本帝國特命全權公使
  芳澤謙吉(印)
  國民政府外交部長
  王正廷(印)

二、保障及撤兵ニ關スル交換公文
(イ)往翰
以書翰啓上致候陳者本使ハ國民政府ニ於テ日本軍ノ山東撤去後全責任ヲ以テ在支日本國民ノ生命及財產ノ安全ヲ保障セラルルニ於テハ帝國政府ハ現ニ山東ニ在ル日本軍ヲ本件解決ニ關スル文書ノ交換調印ノ日ヨリ向フ貳箇月以內ニ全部撤去スヘキ旨茲ニ貴部長ニ對シ通吿スルト共ニ日本軍撤去ノ際ニ於ケル引繼ノ措置ニ關シテハ日支兩國各委員ヲ任命シ現地ニ於テ商議辨理セシメンコトヲ提議致候此段照會得貴意候 敬具
  昭和四年三月二十八日
  日本帝國特命全權公使
  芳澤謙吉
  國民政府外交部長
  王正廷殿

(ロ) 來翰(譯文)
以書翰啓上致候陳者本日附貴翰ヲ以テ貴公使ハ國民政府ニ於テ日本軍ノ山東撤去後全責任ヲ以テ在支日本國民ノ生命及財產ノ安全ヲ保障スルニ於テハ日本國政府ハ現ニ山東ニ在ル日本軍ヲ本件解決ニ關スル文書ノ交換調印ノ日ヨリ向フ二箇月以內ニ全部撤去スヘキ旨本部長ニ對シ通吿セラルルト共ニ日本軍撤去ノ際ニ於ケル引繼ノ措置ニ關シテハ日支兩國各々委員ヲ任命シ現地ニ於テ商議辨理セシムルコトヲ提議セラルル旨御照會ノ趣閱悉致候査スルニ支那ニ於ケル外國人ニ對シ國民政府ニ於テ國際公法ニ照シ責任ヲ以テ保護スヘキ旨ハ曩ニ聲明シアル所ニシテ今後國民政府カ日本在留民ニ對シ保護ヲ爲スヘキハ實ニ當然ノ次第ニ有之候御申越ニ係ル撤兵ノ期日及期間ハ旣ニ了承致候就テハ日本軍撤去ノ際ニ於ケル引繼ノ措置ニ關シテハ兩國政府ヨリ各々委員ヲ任命シ現地ニ於テ商議辨理セシムヘキ旨貴公使ノ御提議ニ對シテハ本部長ニ於テ同意ヲ表シ候此段回答得貴意候 敬具
  中華民國十八年三月二十八日
  國民政府外交部長
  王正廷
  日本帝國特命全權公使
  芳澤謙吉殿

三、損害問題ニ關スル議定書 昨年五月三日ノ濟南事件ノ発生ニ依リ日支兩國ノ受ケタル損害問題ニ關シテハ雙方ニ於テ各同數ノ委員ヲ任命シ日支共同調査委員會ヲ設置シ實地調査ヲ爲シ之ヲ決定ス

 昭和四年三月二十八日南京ニ於テ
  日本帝國特命全權公使
  芳澤謙吉(印)
  國民政府外交部長
  王正廷(印) (不公表)

 會議録  

一、共同聲明ニ關スルモノ 芳澤公使及王部長ハ茲ニ濟南事件ヲ解決シ兩國ノ睦誼ヲ增進センカ爲、別紙日支共同聲明書ヲ本年三月二十八日夫々東京及南京ニ於テ發表スルコトニ合意セリ。  

二、損害問題ニ關スルモノ 王部長ハ濟南事件ノ発生ニ依リ支那側ハ既ニ損失ヲ受ケ居ル處芳澤公使ニ於テハ日本側モ亦損失有ル旨既ニ屢々陳述セラレタルカ右ハ事實問題ニ屬スルカ故ニ茲ニ兩國ニ於テ同數ノ委員ヲ任命シ共同委員會ヲ組織シ同委員會ヲシテ双方ノ損害數ヲ調査シ之ヲ辨理セシメンコトヲ提議スル旨、述ヘタリ。 芳澤公使ハ日支双方ノ受ケタル損害ハ略同額ト認メラレ直ニ之ヲ相殺スルモ差支無シト信スル處、王部長ニ於テ共同委員會ヲ設置シ同委員會ヲシテ之ヲ決定セシムヘキ旨提議セラレタルニ就テハ、予ハ予ノ述ヘタル右相殺ノ趣旨ヲ以テ之ニ同意ス。但シ、該委員會ノ調査範圍ハ兩國ノ個人ノ受ケタル損害ニ限ルヘキモノトスル旨、述ヘタリ。 王部長ハ同意ス。右ニ依リ至急辨理スヘシ、ト述ヘタリ。 仍テ、別紙議定書ノ通リ双方ノ意見一致セリ。  

三、日本在留民保護及其ノ他ノ問題ニ關スルモノ 本問題ニ關シ双方討議ノ結果左ノ如シ。
(甲)芳澤公使ヨリ山東ニ於ケル日本軍撤去後在留日本國臣民ノ生命及財産ノ保護ニ關シ國民政府ニ於テ如何ナル具體的方法アリヤ承知シ度シ、ト述ヘタルニ對シ。 王部長ハ山東在留日本國臣民ノ生命及財産ハ固ヨリ國民政府ノ全責任ヲ以テ保護スル所ナルニ依リ將來モ外交部長トシテ全責任ヲ以テ適切ナル措置ヲ講スヘク、差當リ國民政府ヨリ山東省政府ニ對シ同地方在留日本國臣民ノ保護方ヲ命令シ、右命令寫一部ヲ芳澤公使ニ送附スヘキ旨、陳述セリ。尚、右ノ外事實問題トシテ山東交渉員ヨリ芳澤公使ニ對シ右ニ關スル具體的方法ヲ説明スル所アリタリ。
(乙)芳澤公使ハ山東ハ勿論支那全國ニ亙ル排日排貨ニ對シテハ國民政府ニ於テ嚴重ナル取締ヲ爲シ速ニ之カ絶滅ヲ期センコトヲ要求セリ。王部長ハ本件ニ就テハ誠意ヲ以テ其ノ責ニ任スヘク、且ツ中央黨部ニ諮リ各地方黨部ニ對シ排日排貨運動ヲ直ニ終熄セシムヘキ旨ノ密令ヲ發セシメ其ノ趣ヲ御通知スヘシト、陳述セリ。
(丙)芳澤公使ハ膠濟鐵道ノ交通ヲ確保スル爲國民政府ニ於テ
 (一) 同鐵道ノ車輛ヲ他線ニ流用セサルコト、
 (二) 同鐵道ノ收入ハ同鐵道自體ノ經費及日本政府ニ對スル債務ノ元利償却ニ充ツルノ外他ノ用途ニ使用ス可カラサルコト、
 (三) 同鐵道ノ重要ナル地位ニ配置スヘキ日本人ノ數ヲ增加スルコト、 ヲ承諾アリ度シ、ト述ヘタルニ。 王部長ハ鐵道交通ノ確保ハ國民政府ノ最モ留意スル所ナルヲ以テ同政府ハ撤兵問題トハ關係ナク自發的處置トシテ鐵道部長ヲシテ膠濟鐵道局長ニ對シ同鐵道ノ車輛ヲ他線ニ流用ス可カラサル旨、及同鐵道ノ收入ハ同鐵道自體ノ經費及日本政府ニ對スル債務ノ元利償却ニ充ツルノ外他ノ用途ニ使用ス可カラサル旨、命令セシメ右命令寫一部ヲ芳澤公使ノ許ニ送附スヘキ旨、陳述セリ。尚、王部長ハ同鐵道ノ重要ナル地位ニ配置スヘキ日本人ノ增員方ニ關シテハ濟南事件ト引離シ同鐵道理事長ノ資格ヲ以テ處理スヘキ旨、附言セリ。
(丁)芳澤公使ハ靑島埠頭ノ完成、靑島市政外國人參與、膠濟鐵道成線都市開放其ノ他山東條約若ハ同細目協定ニ基ク支那側義務ニシテ今日迄履行セラレサルモノハ凡テ此ノ際速ニ實行セラレ度キ旨要求セリ。 王部長ハ國民政府ニ於テ右ノ條約及協定ニ基ク支那側ノ義務ヲ履行スヘキハ勿論ナルカ、本件ハ撤兵ノ條件ト爲スコトナク別ニ速ニ實行スヘシト、述ヘタリ。

  昭和四年三月二十八日南京ニ於テ。
  日本帝國特命全權公使
  芳澤謙吉(印)
  國民政府外交部長
  王正廷(印)

   「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

☆山東出兵関係略年表

<1915年(大正4)>
・1月18日 中華民国政府に対しドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した「21か条の要求」を提出する
・5月25日 「山東省に関する条約」、「山東省に於ける都市開放に関する交換公文」、「膠洲湾租借地に関する交換公文」として承認される

<1918年(大正7)>
・9月 満蒙四鉄道および膠済鉄道の延長線である済順鉄道(済南‐順徳)、高徐鉄道(高密‐徐州)の借款仮契約が締結されるとともに、山東問題処理に関する取極めが交わされる

<1919年(大正8)> 
・パリ講和会議およびヴェルサイユ条約で、山東問題について、大日本帝国は対支21ヶ条要求を中華民国が受諾したと主張したが、中華民国は対支21ヶ条要求は強要されたもので、山東は自国に復帰すると主張した。イギリスとフランスは前者を支持したが、アメリカ合衆国は後者に同情的だったため、大日本帝国は要求が拒否されるなら国際連盟規約に調印しないと迫ったため、アメリカ合衆国が譲歩する

<1922年(大正11)> 
・2月4日 「山東還付条約」締結によって、青島を含んだ山東省を中国に還付することとなる

<1926年(大正15/昭和元)>
・中国の蒋介石は国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指して北伐を開始する

<1927年(昭和2)>
・1月 イギリス租界奪取事件が起き、イギリスは租界の居留民を保護するため、日本に共同出兵を要請したが断る
・3月 揚子江下流の南京での国民革命軍と軍閥部隊との衝突に巻き込まれた日本を含む居留民に多くの被害が出る(南京事件)
・4月3日 漢口事件が起きる
・4月18日 上海を制圧した北伐軍は、上海クーデターによって共産党を排除し、国民党による南京国民政府を樹立、イギリス公使が2個師団増派を提議したが、日本側はいまだその必要がない旨を回答する
・4月17日 若槻内閣は総辞職する
・4月20日 立憲政友会の田中義一を首班とする田中義一内閣が誕生する
・5月27日 政府は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、陸海軍を派遣することを決定する
・5月28日 「山東派兵に関する政府声明」が出され、陸軍中央部は在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令を下す(第一次山東出兵)
・5月30日 歩兵第33旅団は大連を出発する
・5月31日 歩兵第33旅団が青島に入港する
・6月1日 歩兵第33旅団が青島上陸を完了する
・7月3日 北軍の孫伝芳系の周蔭人の指揮下の軍が南軍に加担して、青島奪取を企図し、済南にあった北軍の張宗昌軍がこれを討伐しようとする
・7月4日 藤田栄介済南総領事は外務大臣に旅団の西進を申請する
・7月5日 閣議で旅団の西進の必要が認められる ・7月8日 旅団は済南に進出、閣議で兵力増派の要請が承認される
・7月12日 在満第10師団の残余と第14師団の一部、内地より鉄道、電信各一個班が、青島に上陸する
・8月13日 蒋介石は武漢政府(汪兆銘政権)との合流を優先させてに下野を宣言し、北伐は一時的に中断する
・8月24日 日本政府は閣議で撤兵を決定する
・9月8日 撤兵を完了する

<1928年(昭和3)>
・3月、蒋介石の北伐軍は広州を出発し山東省に接近する
・4月末 10万人の北伐軍が市内に突入する
・4月19日 田中義一内閣が中国・国民革命軍の北伐再開に対応して、第二次山東出兵を決定する
・4月20日 支那駐屯軍の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から第6師団の一部が派遣され、臨時済南派遣隊が済南到着する
・4月26日 第6師団の先行部隊の斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が済南に到着し、6千人が山東省に展開する(第二次山東出兵)
・5月3日 日本軍の一部は済南まで進出し、国民革命軍と軍事衝突が発生する(済南事件)
・5月4日 日本は緊急閣議を開いて、関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を決定する
・5月8日 閣議において、動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認する
・5月9日 第3師団の山東派遣が命じられる(第三次山東出兵)
・5月10日から11日 北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開する
・5月11日 済南城ならびに済南全域を占領する(済南事変)
・6月8日 国民革命軍は日本軍との決戦を避けて、北京に入城する

<1929年(昭和4)>
・3月28日 和平交渉が成立し、「済南事件解決に関する文書」が調印される
・5月 済南城から日本軍が撤退して終結する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)戊辰戦争で奥羽の反官軍25藩による奥羽列藩同盟が成立する(新暦6月22日)詳細
1910年(明治43)青森県青森市で、青森大火が起き、死者26名、負傷者160名、焼失戸数5,200戸以上を出す詳細
1946年(昭和21)極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷する詳細
GHQが「帝国議会議員の公職よりの罷免及び除去に関する覚書」で鳩山一郎の公職追放を指令詳細
1961年(昭和36)民芸運動の創始者・美術評論家・宗教哲学者柳宗悦の命日詳細
1962年(昭和37)国鉄で三河島事故が起こり、列車三重衝突により、死者160人・負傷者296人を出す詳細
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 今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、日本と中華民国の間で「日華平和条約」が調印(同年8月5日より発効)され、日中戦争が正式に終了した日です。
 「日華平和条約」(にっかへいわじょうやく)は、太平洋戦争後に締結された、日本と中華民国(台湾政権)との間の講和条約で、正式名称は「日本国と中華民国との間の平和条約」と言いました。1951年(昭和26)9月のサンフランシスコ講和会議には、中国代表は招待されませんでしたが、同年12月の吉田書簡で日本は国民政府(台湾政権)との講和希望を表明し、翌1952年(昭和27)4月28日に台湾のタイペイ (台北) において、条約締結(同年8月5日より発効)に至ったものです。
 日本と中華民国間の戦争状態の終結、台湾・澎湖(ほうこ)諸島などに対する領土権の放棄、日本財産の放棄と台湾の賠償請求権の放棄などを規定していました。国民政府の支配下にある台湾を適用範囲として締結され、かつ将来国民政府の支配下に入る領域をも適用範囲と定めています。
 そのため、日中間の全面的国交回復が阻害される要因となりましたが、1972年(昭和47)日本が中華人民共和国と国交を回復すると共に、この条約も失効し、国民政府もまた対日国交断絶を宣言しました。
 以下に、「日本国と中華民国との平和条約」(昭和27年条約第10号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。
 
〇「日本国と中華民国との平和条約」(昭和27年条約第10号)1952年(昭和27)4月28日締結、同年8月5日発効

 日本国及び中華民国は、
 その歴史的及び文化的のきずなと地理的の近さにかんがみ、善隣関係を相互に希望することを考慮し、
 その共通の福祉の増進並びに国際の平和及び安全の維持のための緊密な関係が重要であることを思い、
 両者の間の戦争状態の存在の結果として生じた諸問題の解決の必要を認め、
 平和条約を締結することに決定し、よつて、その全権委員として次のとおり任命した。

 日本国政府    河田 烈
 中華民国大統領  葉 公超

 これらの全権委員は、互にその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次の諸条を協定した。

第一条
 日本国と中華民国との間の戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する。

第二条
 日本国は、千九百五十一年九月八日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約(以下「サン・フランシスコ条約」という。)第二条に基き、台湾及び澎湖諸島並びに新南諸島及び西沙諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承認される。

第三条
 日本国及びその国民の財産で台湾及び澎湖諸島にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で台湾及び澎湖諸島における中華民国の当局及びそこの住民に対するものの処理並びに日本国におけるこれらの当局及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国政府と中華民国政府との間の特別取極の主題とする。国民及び住民という語は、この条約で用いるときはいつでも、法人を含む。

第四条
 千九百四十一年十二月九日前に日本国と中国との間で締結されたすべての条約、協約及び協定は、戦争の結果として無効となつたことが承認される。

第五条
 日本国は、サン・フランシスコ条約第十条の規定に基き、千九百一年九月七日に北京で署名された最終議定書並びにこれを補足するすべての附属書、書簡及び文書の規定から生ずるすべての利得及び特権を含む中国におけるすべての特殊の権利及び利益を放棄し、且つ、前記の議定書、附属書、書簡及び文書を日本国に関して廃棄することに同意したことが承認される。

第六条
 (a) 日本国及び中華民国は、相互の関係において、国際連合憲章第二条の原則を指針とするものとする。
 (b) 日本国及び中華民国は、国際連合憲章の原則に従つて協力するものとし、特に、経済の分野における友好的協力によりその共通の福祉を増進するものとする。

第七条
 日本国及び中華民国は、貿易、海運その他の通商の関係を安定した且つ友好的な基礎の上におくために、条約又は協定をできる限りすみやかに締結することに努めるものとする。

第八条
 日本国及び中華民国は、民間航空運送に関する協定をできる限りすみやかに締結することに努めるものとする。

第九条
 日本国及び中華民国は、公海における漁猟の規制又は制限並びに漁業の保存及び発展を規定する協定をできる限りすみやかに締結することに努めるものとする。

第十条
 この条約の適用上、中華民国の国民には、台湾及び澎湖諸島のすべての住民及び以前にそこの住民であつた者並びにそれらの子孫で、台湾及び澎湖諸島において中華民国が現に施行し、又は今後施行する法令によつて中国の国籍を有するものを含むものとみなす。また、中華民国の法人には、台湾及び澎湖諸島において中華民国が現に施行し、又は今後施行する法令に基いて登録されるすべての法人を含むものとみなす。

第十一条
 この条約及びこれを補足する文書に別段の定がある場合を除く外、日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は、サン・フランシスコ条約の相当規定に従つて解決するものとする。

第十二条
 この条約の解釈又は適用から生ずる紛争は、交渉又は他の平和的手段によつて解決するものとする。

第十三条
 この条約は、批准されなければならない。批准書は、できる限りすみやかに台北で交換されなければならない。この条約は、批准書の交換の日に効力を生ずる。

第十四条
 この条約は、日本語、中国語及び英語により作成するものとする。解釈の相違がある場合には、英語の本文による。

 以上の証拠として、それぞれの全権委員は、この条約に署名調印した。

 昭和二十七年四月二十八日(中華民国の四十一年四月二十八日及び千九百五十二年四月二十八日に相当する。)に台北で、本書二通を作成した。

 日本国のために   河田 烈

 中華民国のために  葉 公超

  議定書 (省略)

  「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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