ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 人物

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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、東洋史学者山本達郎が生まれた日です。
 山本達郎(やまもと たつろう)は、東京において、貴族院議員・参議院議員となった父・松村真一郎はの子として生まれましたが、日本銀行総裁などを歴任した祖父の山本達雄の養子となり改姓しました。1933年(昭和8)に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業し、翌年には、東方文化学院助手となり、「鄭和の西征」で中国艦隊のインド洋遠征の実態を解明し国際的評価を受けます。
 1942年(昭和17)に、東京帝国大学文学部助教授となり、1949年(昭和24)には、文学部東洋史学科教授(南方史講座)に昇任し、毎日学術奨励金を受けました。1951年(昭和26)に東京大学より文学博士の学位を取得、翌年には、「安南史研究」で、日本学士院賞を受賞します。
 1953年(昭和28)から東洋文庫の評議員・理事を歴任し、近代中国研究委員会(現在の東洋文庫 近代中国研究班)を発足させました。1966年(昭和41)に東京大学文学部長となり、翌年には、学士院会員となっています。
 1971年(昭和46)に東京大学を定年退官し、翌年には、国際基督教大学教授となり、イェール大学客員教授、コーネル大学客員教授も務めました。1975年(昭和50)に国際哲学人文科学協議会会長となり、1986年(昭和61)に文化功労者、1998年(平成10)には、文化勲章を受章しています。
 東南アジア史研究の先駆者として知られ、国際学術交流にも努めましたが、2001年(平成13)1月24日に、東京において、心不全により90歳で亡くなりました。

〇山本達郎の主要な著作

・『印度支那諸民族に関する民族学的研究の現状』帝国学士院(1942年)
・『世界史概観』東京大学文学部内史学会編:村川堅太郎・林健太郎共著、山川出版社(1949年)
・『安南史研究』山川出版社(1950年) 
・『世界史』 村川堅太郎・江上波夫・林健太郎共著、山川出版社(1952年)
・『歴史の見方』三省堂〈社会科歴史文庫〉(1957年)

☆山本達郎関係略年表

・1910年(明治43)6月16日 東京において、貴族院議員・参議院議員となった父・松村真一郎はの子として生まれる
・1933年(昭和8) 東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業する
・1934年(昭和9) 東方文化学院助手となり、「鄭和の西征」で中国艦隊のインド洋遠征の実態を解明し国際的評価を受ける
・1942年(昭和17) 東京帝国大学文学部助教授となる
・1949年(昭和24) 東京大学文学部東洋史学科教授(南方史講座)に昇任し、毎日学術奨励金を受ける
・1951年(昭和26) 東京大学より文学博士の学位を取得する
・1952年(昭和27) 「安南史研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1953年(昭和28) 東洋文庫の評議員となる
・1966年(昭和41) 東京大学文学部長となる
・1967年(昭和42) 学士院会員となる
・1971年(昭和46) 東京大学を定年退官する
・1972年(昭和47) 国際基督教大学教授となる
・1975年(昭和50) 国際哲学人文科学協議会会長となる
・1986年(昭和61) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 文化勲章を受章する
・2001年(平成13)1月24日 東京において、心不全により90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1699年(元禄12)商人・海運と治水の功労者河村瑞賢の命日(新暦7月12日)詳細
1884年(明治17)俳人荻原井泉水の誕生日詳細
1939年(昭和14)国民精神総動員委員会がネオン抑制、パーマネント廃止等の生活刷新案を発表詳細
1943年(昭和18)「工場法戦時特例」公布・施行、「工場就業時間制限令」廃止で、労働時間制限撤廃等を許可する詳細
1961年(昭和36)「スポーツ振興法」が公布(施行は同年9月15日)される詳細
1964年(昭和39)新潟地震(M7.5)が起こり、死者26人、負傷者447人を出す詳細
1972年(昭和47)国連人間環境会議で「人間環境宣言」が採択される詳細
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aoyamasanu
 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、書家青山杉雨の生まれた日です。
 青山杉雨(あおやま さんう)は、愛知県葉栗郡草井村大字村久野において、次男として生まれましたが、本名は文雄(ふみお)といいました。1916年(大正5)、4歳の時に上京して、東京向島の養母太仁(たに)に育てられ、親戚の大池晴嵐から書の手ほどきを受けます。1930年(昭和5)に旧制芝中学校を卒業後、1934年(昭和9)に東横百貨店に勤務したものの、1937年(昭和12)には退職して、世田谷区尾山台で書道塾を始めます。1941年(昭和16)に第12回泰東書道院展総裁東久邇宮賞を受賞、1942年(昭和17)には、中国留学から戻った西川寧に師事したことが、独自の書風を確立するうえで大きな転機となりました。1945年(昭和20)に横須賀海兵団に入営しましたが、太平洋戦争後の1948年(昭和23)には、「李太白詩」で日展に初入選します。1950年(昭和25)に日展特選となり、1951年(昭和26)に毎日書道展審査員に就任、1954年(昭和29)には、日展審査員となりました。1955年(昭和30)に大東文化大学講師となり、1957年(昭和32)に第1回現代書道二十人展招待作家として出品、1961年 (昭和36)には、謙慎書道会初代理事長に就任しています。1963年(昭和38)に「周易抄」で、第6回日展文部大臣賞を受賞、1965年(昭和40)に全日本書道連盟改組に伴い、特別顧問に就任、1966年 (昭和41)には、「詩経の一節」で、日本芸術院賞を受賞しました。1972年(昭和47)に大東文化大学教授となり、1974年(昭和49)に全国書美術振興会を創立し、顧問となり、1983年 (昭和58)には、日本芸術院会員に選出されます。1984年(昭和59)に読売書法会を創立し、総務に就任、1985年(昭和60)に勲三等旭日中綬章を受章、1986年(昭和61)には、大東文化大学教授を辞め、日本書道教育会議を創立して副会長となりました。1988年(昭和63)に文化功労者となり、1990年(平成2)に成田山書道美術館設立を発議、1992年 (平成4)には、文化勲章を受章しています。篆書、隷書をもとに独自の表現様式を確立してきましたが、1993年(平成5)2月13日に、千葉県において、81歳で亡くなり、従三位と銀杯一組を追贈されました。尚、2010年(平成22)に、遺族の寄付により大東文化大学に青山杉雨賞が設けられたものの、2019年(平成31)で終了しています。

〇青山杉雨の主要な著作

・『青山杉雨書法』(1976年)
・『中国書法名蹟』(1979年)
・『書の実相 中国書道史話』(1982年)
・『江南遊 中国文人風土記』(1983年)
・『明清書道図説』(1986年)
・『文字性霊』(1991年)
・『青山杉雨作品』(1994年)
・『青山杉雨文集』(2005年)

☆青山杉雨関係略年表

・1912年(明治45)6月6日 愛知県葉栗郡草井村大字村久野に、次男として生まれる。
・1916年(大正5) 上京して、東京向島の養母太仁(たに)に育てられる
・1930年(昭和5) 旧制芝中学校を卒業する
・1934年(昭和9) 東横百貨店に勤務する
・1937年(昭和12) 東横百貨店を退職後、世田谷区尾山台で書道塾を始める
・1941年(昭和16) 第12回泰東書道院展総裁東久邇宮賞を受賞する
・1942年(昭和17) 西川寧に師事する
・1945年(昭和20) 横須賀海兵団に入営する
・1948年(昭和23) 「李太白詩」で日展に初入選する
・1950年(昭和25) 日展特選となる
・1951年(昭和26) 毎日書道展審査員に就任する
・1954年(昭和29) 日展審査員となる
・1955年(昭和30) 大東文化大学講師となる
・1957年(昭和32) 第1回現代書道二十人展招待作家として出品する
・1961年 (昭和36) 謙慎書道会初代理事長に就任する
・1963年(昭和38) 「周易抄」で、第6回日展文部大臣賞を受賞する
・1965年(昭和40) 全日本書道連盟改組に伴い、特別顧問に就任する
・1966年 (昭和41) 「詩経の一節」で、日本芸術院賞を受賞する
・1972年(昭和47) 大東文化大学教授となる
・1974年(昭和49) 全国書美術振興会を創立し、顧問となる
・1983年 (昭和58) 日本芸術院会員に選出される
・1984年(昭和59) 読売書法会を創立し、総務に就任する
・1985年(昭和60) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1986年(昭和61) 大東文化大学教授を辞め、日本書道教育会議を創立して副会長となる
・1988年(昭和63) 文化功労者となる
・1990年(平成2) 成田山書道美術館設立を発議する
・1991年(平成3) 第23回日展・天皇陛下御参観の解説をする
・1992年 (平成4) 文化勲章を受章する
・1993年(平成5)2月13日 千葉県において、81歳で亡くなり、従三位と銀杯一組を追贈される
・2010年(平成22) 遺族の寄付により大東文化大学に青山杉雨賞が設けられる(2019年で終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)日本画家・俳人川端龍子の誕生日詳細
1912年(明治45)小説家新田次郎の誕生日詳細
1915年(大正4)焼岳(長野県・岐阜県)の噴火により、泥流が梓川をせき止め、堰止湖である大正池を形成する詳細
1949年(昭和24)「土地改良法」公布され、土地改良事業が一本化される詳細
1952年(昭和27)文部省に中央教育審議会(中教審)が設置される詳細
1979年(昭和54)日本が「国際人権規約」の批准を国会で承認する詳細
2019年(令和元)小説家・随筆家田辺聖子の命日詳細
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 今日は、平成時代の1992年(平成4)に、小説家・詩人井上光晴の亡くなった日です。
 井上光晴(いのうえ みつはる)は、大正時代の1926年(大正15)5月15日に、福岡県久留米市でにおいて、職人だった父・井上雪雄と母・たか子の長男として生まれましたが、4歳の時に、母が家出し、7歳の時に、祖母に連れられ軍港・佐世保に住み着きました。12歳の時に、佐世保の沖・崎戸炭鉱へと移って働き、16歳の時に、専検(専門学校入学者検定試験)に合格し、上京して陸軍の電波兵器技術養成所に入ります。
 1945年(昭和20)に電波兵器技術養成所を卒業後、多摩陸軍技術研究所勤務しましたが、敗戦後、日本共産党長崎地方委員会の創設に参加しました。1947年(昭和22)にガリ版詩集『むぎ』、翌年には、大場康二郎との共著詩集『すばらしき人間群』を刊行、1949年(昭和24)には、日本共産党九州地方常任委員などを務めます。
 1950年(昭和25)に『書かれざる一章』を「新日本文学」に発表して作家デビューをしましたが、1953年(昭和28)に日本共産党を離党し、1955年(昭和30)に上京して、「週刊新潮」記者等となりました。1958年(昭和33)に吉本隆明や奥野健男らと「現代批評」というグループを結成、創作活動に専念し、1960年(昭和35)に「現代批評」に、『虚構のクレーン』を発表、1963年(昭和38)には、原爆被爆者に焦点をあてた『地の群れ』を発表し、作家としての地位を確立します。
 1969年(昭和44)に新日本文学会を退会し、1970年(昭和45)に季刊誌「辺境」を個人編集、1977年(昭和52)には、「文学伝習所」第一期を佐世保にて開講し、以後九州や北海道はじめ、山形、群馬、新潟、長野など各地で開講して後進の育成に力を注ぎました。1979年(昭和54)に野間宏らと「使者」を創刊、1984年(昭和59)に「文学伝習所」を函館にも開設し、「函館文学」を刊行、1989年(平成元)には、文芸誌「兄弟」が創刊されます。1992年(平成4)5月30日に、東京都調布市において、大腸癌により、66歳で亡くなっています。

〇井上光晴の主要な著作

・『書かれざる一章』(1950年)
・『病める部分』(1951年)
・『双頭の鷲(わし)』(1952年)
・『長靴島』(1953年)
・長編小説『虚構のクレーン』(1960年)
・『地の群れ』(1963年) 
・『他国の死』(1965年)
・『赤い手毱(てまり)』(1966年)
・小説『黒い森林』(1967年)
・『心優しき叛逆者(はんぎゃくしゃ)たち』(1973年)
・時代小説『丸山蘭水楼の遊女たち』(1976年)
・『井上光晴詩集』(1976年)
・長編小説『憑(つ)かれた人』(1981年)
・『西海原子力発電所』(1986年)
・長編『地下水道』(1987年)
・作品集『サラダキャンプ、北へ』(1987年)
・『虫』(1988年)
・『暗い人』第1部・第2部・第3部(1988年・1989年・1991年)
・『輸送』(1989年)
・『十八歳の詩集』(1998年)

☆井上光晴関係略年表

・1926年(大正15)5月15日 福岡県久留米市でにおいて、職人だった父・井上雪雄と母・たか子の長男として生まれる
・1830年(昭和5) 4歳の時に、母が家出する
・1933年(昭和8) 7歳の時に、祖母に連れられ軍港・佐世保に住み着く
・1938年(昭和13) 12歳の時に、佐世保の沖・崎戸炭鉱へと移って働く
・1942年(昭和17) 16歳の時、専検(専門学校入学者検定試験)に合格し、上京して陸軍の電波兵器技術養成所に入る
・1945年(昭和20) 電波兵器技術養成所を卒業後、多摩陸軍技術研究所勤務、敗戦後、日本共産党長崎地方委員会の創設に参加する
・1947年(昭和22) ガリ版詩集『むぎ』を刊行する
・1948年(昭和23) 大場康二郎との共著詩集『すばらしき人間群』を刊行する
・1949年(昭和24) 日本共産党九州地方常任委員などを務める
・1950年(昭和25) 『書かれざる一章』を「新日本文学」に発表して作家デビューをする
・1953年(昭和28) 日本共産党を離党する
・1955年(昭和30) 上京し、「週刊新潮」記者となる
・1958年(昭和33) 吉本隆明や奥野健男らと「現代批評」というグループを結成、創作活動に専念する
・1960年(昭和35) 「現代批評」に、『虚構のクレーン』を発表する
・1963年(昭和38) 原爆被爆者に焦点をあてた『地の群れ』を発表し、作家としての地位を確立する
・1969年(昭和44) 新日本文学会を退会する
・1970年(昭和45) 季刊誌「辺境」を個人編集する
・1977年(昭和52) 「文学伝習所」第一期を佐世保にて開講する
・1979年(昭和54) 野間宏らと「使者」を創刊する
・1984年(昭和59) 「文学伝習所」を函館に開設し、「函館文学」を刊行する
・1989年(平成元) 文芸誌「兄弟」が創刊される
・1992年(平成4)5月30日 東京都調布市において、大腸癌により、66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)俳人杉田久女の誕生日詳細
1908年(明治41)法学者・弁護士戒能通孝の誕生日詳細
1950年(昭和25)皇居前広場(人民広場)でデモ隊と占領軍が衝突し、8名が逮捕される(人民広場事件)詳細
「文化財保護法」が公布される(文化財保護法公布記念日)詳細
1968年(昭和43)「消費者保護基本法」(現在の「消費者基本法」)が公布・施行される詳細
生化学・医化学者古武弥四郎の命日詳細
2006年(平成18)映画監督・脚本家今村昌平の命日詳細
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tanakadateaikitsu01
 今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、地球物理学者・航空学者・貴族院議員田中舘愛橘が亡くなった日です。
 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、江戸時代後期の1856年(安政3年9月18日)に、陸奥国二戸郡福岡村(現在の岩手県二戸市福岡)において、南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と母・喜勢(きせ・旧姓 小保内)の長男として生まれました。1862年(文久2)の6歳の時、母・喜勢を亡くし、1865年(慶応元)に下斗米軍七の武芸「実用流」に入門、翌年に福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学びます。
 1870年(明治3)に盛岡藩校修文所入学、和漢の学問を修め、1872年(明治5)には、一家で東京へ移住し、慶應義塾英語学校に入学しました。1876年(明治9)に東京開成学校へ入学、1878年(明治11)に東京大学理学部本科へ入学し、1882年(明治15)に卒業後、同校の準助教授となります。
 1888年(明治21)にイギリスのグラスゴー大学に留学、1890年(明治23)にドイツのベルリン大学へ転学し、1891年(明治24)に帰国後、帝国大学理科大学教授(理学博士)となり、同年10月28日に発生した濃尾大地震の調査で根尾谷大断層を発見しました。1894年(明治27)に万国測地協会委員、1902年(明治35)に勲四等旭日小綬章受章、1906年(明治39)に帝国学士院会員となり、勲二等旭日重光章を受章、1907年(明治40)には、万国度量衡会議常任委員となります。
 1910年(明治43)に航空事業視察のためヨーロッパへ派遣され、所沢飛行場建設に関わり、1914年(大正3)には、文部省測地学委員会委員長となりました。1916年(大正5)に勲一等瑞宝章を受章、帝国大学教授在職25年祝賀会の日に辞表を提出し、翌年に名誉教授となり、万国度量衡会議に出席します。
 1918年(大正7)に国際学術研究会議のため欧州各国へ出張、東京帝国大学航空研究所を創立し、顧問となり、1919年(大正8)には、地磁気・空中電気国際会議に出席し会長となりました。1921年(大正10)に小石川区雑司ヶ谷町へ転居、日本ローマ字会を創立、航空評議会評議員となり、1925年(大正14)には、文部省学術研究会議副議長、貴族院議員となります。
 1928年(昭和3)に航空事業に対しフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章、1930年(昭和5)には、文部省臨時ローマ字調査委員会委員となりました。1932年(昭和7)に貴族院議員に再選され、1933年(昭和8)の御講書始めに「航空発達史の概要」を御進講、1939年(昭和14)には、中央航空研究所施設委員会委員となり、貴族院議員に3選されます。
 1940年(昭和15)に帝国学士院第二部部長となり、1944年(昭和19)に文化勲章を受章し、朝日文化賞を受賞、1945年(昭和20)には、空襲の激化により、故郷の福岡町に疎開しました。太平洋戦争後の1948年(昭和23)に自著『時は移る』を発行(ローマ字、漢字かな書き併記)、1950年(昭和25)に日本物理学会名誉会員、1951年(昭和26)に福岡町名誉町民となったものの、1952年(昭和27年)5月21日に、東京の経堂の自宅において、95歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されています。
 尚、1999年(平成11)には、故郷の岩手県二戸市に「田中舘愛橘記念科学館」がオープンしました。

〇田中舘愛橘の主要な著作

・『電気ニ就テノ演説』(1899年)
・『航空機講話』(1915年)
・『羅馬字意見及び発音考』(1926年)
・『メートル法の歴史と現在の問題』(1934年)
・『ローマ字綴り方の外交及び国際関係の事項概要』(1936年)
・随筆・論文集『葛の根 田中館愛橘論文抜集』(1938年)
・『時は移る』(1948年)
・『田中館愛橘遺墨集』(1992年)
・『田中館愛橘博士歌集 地球を翔けた心の歌』(1997年)
・『献詠和歌集 田中舘愛橘博士墓前祭 昭和27年~平成18年』(2007年)

☆田中舘愛橘関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1856年(安政3年9月18日) 陸奥国二戸郡福岡村(現在の二戸市福岡)において、南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と母・喜勢(きせ・旧姓 小保内)の長男として生まれる
・1861年(文久元年) 母キセから文字の手習い、伯父小保内定身より和漢の書を学ぶ
・1862年(文久2年) 母・喜勢が病没する
・1865年(慶応元年) 下斗米軍七の武芸「実用流」に入門する
・1866年(慶応2年) 福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学ぶ
・1870年(明治3年) 盛岡藩校修文所入学、和漢の学問を修める  
・1872年(明治5年) 一家で東京へ移住、慶應義塾英語学校に入学する
・1876年(明治9年) 東京開成学校入学する
・1878年(明治11年) 東京大学理学部本科入学する
・1880年(明治13年) メンデンホールの指導の下で、東京や富士山の重力測定をする
・1882年(明治15年) 東京大学を卒業し、準助教授となる  
・1883年(明治16年) 東京大学助教授となる
・1888年(明治21年) イギリスのグラスゴー大学に留学する
・1890年(明治23年) ドイツのベルリン大学へ転学する
・1891年(明治24年) 帰国し帝国大学理科大学教授(理学博士)となり、濃尾大地震の調査で根尾谷大断層を発見する
・1893年(明治26年) 本宿キヨ子と結婚する  
・1894年(明治27年) 長女美稲誕生、産後の病により夫人が亡くなり、万国測地協会委員となる
・1898年(明治31年) 万国測地学協会総会に出席する
・1902年(明治35年) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1904年(明治37年) 日露戦争、陸軍の気球の研究に従事する
・1906年(明治39年) 帝国学士院会員となり、勲二等旭日重光章を受章  
・1907年(明治40年) 万国度量衡会議常任委員となる
・1909年(明治42年) 臨時軍用気球研究会委員となる
・1910年(明治43年) 航空事業視察のためヨーロッパへ派遣、所沢飛行場建設に関わる
・1914年(大正3年) 文部省測地学委員会委員長となる
・1915年(大正4年) 貴族院有志に航空機の発達及び研究状況を講演『航空機講話』を発行する
・1916年(大正5年) 勲一等瑞宝章を受章、帝国大学教授在職25年祝賀会の日に辞表を提出する  
・1917年(大正6年) 東京帝国大学名誉教授となり、万国度量衡会議に出席する
・1918年(大正7年) 国際学術研究会議のため欧州各国へ出張、東京帝国大学航空研究所を創立し、顧問となる
・1919年(大正8年) 地磁気・空中電気国際会議に出席し会長となる
・1920年(大正9年) 東京帝国大学航空研究所嘱託、陸軍省航空機調査研究嘱託、外務省より航空条約事務嘱託、国際連盟協会会議、万国度量衡委員会議、万国学術研究会議出席する
・1921年(大正10年) 小石川区雑司ヶ谷町へ転居、日本ローマ字会を創立、航空評議会評議員となる
・1923年(大正12年) 万国度量衡常置委員会議及び物理学会に出席する
・1924年(大正13年) 測地学・地球物理学国際会議へ出席する
・1925年(大正14年) 文部省学術研究会議副議長、貴族院議員となる
・1926年(大正15年) 故郷の福岡町において古希の祝賀会、震災予防評議会評議員となる、太平洋学術会議副議長となる
・1927年(昭和2年) 国際航空委員会、測地学・地球物理学国際会議、度量衡会議総会へ出席する
・1928年(昭和3年) 航空事業に対しフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章する  
・1929年(昭和4年) 万国度量衡会議、国際航空連盟会議、国際気象学会へ出席する
・1930年(昭和5年) 文部省臨時ローマ字調査委員会委員となる  
・1931年(昭和6年) 万国度量衡常置委員を辞し同名誉委員となる、言語学国際会議へ出席する
・1932年(昭和7年) 貴族院議員に再選される
・1933年(昭和8年) 御講書始めに「航空発達史の概要」を御進講、測地学・地球物理学国際会議へ出席する
・1935年(昭和10年) 天文学会、国際音声学会、議員会議、気象学会、国際航空連盟会議へ出席する
・1938年(昭和13年) 随筆・論文集『葛の根』を発刊、科学振興調査会委員、航空機技術委員会委員となる  
・1939年(昭和14年) 中央航空研究所施設委員会委員となる、貴族院議員に3選される
・1940年(昭和15年) 帝国学士院第二部部長となる
・1944年(昭和19年) 文化勲章を受章し、朝日文化賞を受賞する  
・1945年(昭和20年) 故郷の福岡町に疎開する  
・1948年(昭和23年) 自著『時は移る』を発行(ローマ字、漢字かな書き併記)する
・1950年(昭和25年) 日本物理学会名誉会員となる
・1951年(昭和26年) 福岡町名誉町民となる  
・1952年(昭和27年)5月21日 東京の経堂の自宅において、95歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈される
・1999年(平成11年) 故郷の二戸市に田中舘愛橘記念科学館がオープンする  
・2002年(平成14年) 没後50年記念事業が挙行される
・2015年(平成27年) 二戸市名誉市民となる 
・2016年(平成28年) 田中舘愛橘像が落成し、二戸市のシンボルとなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

二十四節季二十四節季の8番目小満の日です詳細
720年(養老4)舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を完成し撰上する(新暦7月1日)詳細
1281年(弘安4)蒙古軍が対馬に上陸し、第2回元寇(弘安の役)が始まる詳細
1575年(天正3)長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破る(新暦6月29日)詳細
1827年(文政10)頼山陽著『日本外史』22巻が、元老中・松平定信に献呈される(新暦6月15日)詳細
1880年(明治13)三条の大火「糸屋万平火事」で、死者34名、焼失2,743戸を出す詳細
1949年(昭和24)「新宿御苑」が国民公園となり一般に利用が開放される詳細
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 今日は、平安時代後期の1139年(保延5)に、第76代とされる近衛天皇が生まれた日ですが、新暦では6月16日となります。
 近衛天皇(このえてんのう)は、平安時代後期の1139年(保延5年5月18日)に、鳥羽天皇の第9皇子(母は藤原長実の娘美福門院得子)として生まれましたが、生後三ヶ月で立太子しました。1142年(永治元年12月7日)の3歳の時、異母兄崇徳天皇の譲位をうけ、第76代とされる天皇として即位したものの、父・鳥羽天皇が院政を敷きます。
 1150年(久安6年)に、12歳で元服し、内覧・藤原頼長の養女の多子が入内して皇后となる一方で、関白・藤原忠通の養女の呈子も入内して、中宮となりました。これにより、摂関家の内部対立が深まり、保元の乱の遠因となったとされます。
 1153年(仁平3年)の15歳の頃から著しく病気がちであり、一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白・忠通に告げました。しかし、1155年(久寿2年7月23日)に京都において、御所としていた近衛殿で、皇子女のないままに、数え年17歳で夭折しています。
 墓所は安楽寿院南陵(京都市伏見区)とされましたが、死因は呪詛によるとの噂が流れました。尚、和歌を能くし、「千載和歌集」初出で、勅撰集へ五首入集しています。

<代表的な和歌>

・「浮雲の かかる程だに あるものを 隠れなはてそ 有明の月」(千載和歌集)
・「この寝ぬる 夜のまの風や さえぬらむ 筧の水の 今朝はこほれる」(続古今和歌集)
・「虫の音の 弱るのみかは 過ぐる秋を 惜む我が身ぞ まづ消えぬべき」(玉葉和歌集)

〇近衛天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1139年(保延5年5月18日) 鳥羽天皇の第9皇子(母は藤原長実の娘美福門院得子)として生まれる
・1139年(保延5年8月) 生後三ヶ月で立太子する
・1142年(永治元年12月7日) 3歳の時、異母兄崇徳天皇の譲位をうけ、第76代とされる天皇として即位するが、父・鳥羽天皇が院政を敷く
・1150年(久安6年) 12歳で元服し、内覧・藤原頼長の養女の多子が入内して皇后となる一方で、関白・藤原忠通の養女の呈子も入内して、中宮となる
・1153年(仁平3年) 15歳の頃から著しく病気がちであり、一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白・忠通に告げる
・1155年(久寿2年7月23日) 京都において、数え年17歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1333年(元弘3/正慶2)鎌倉幕府第16代執権北条守時が鎌倉小袋坂の戦いで自刃する(新暦6月30日)詳細
1862年(文久2)江戸幕府が蕃書調所を「洋書調所」と改称する(新暦6月15日)詳細
1869年(明治2)榎本武揚らが最後の拠点・五稜郭を開城し維新政府軍に降伏する(新暦6月27日)詳細
1901年(明治34)日本最初の社会主義政党である「社会民主党」が結成される詳細
1943年(昭和18)日本美術報国会(会長横山大観)が結成される詳細
1970年(昭和45)「全国新幹線鉄道整備法」(昭和45年法律第71号)が公布(施行は同年6月18日)される詳細
1982年(昭和57)国連環境計画特別会議で「ナイロビ宣言」が採択される詳細
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