ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 人物

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 今日は、明治時代後期の1909年〈明治42〉に、文芸評論家・小説家・劇作家花田清輝の生まれた日です。
 花田清輝(はなだ きよてる〉は、福岡県福岡市東公園において、黒田藩に仕えていた武士を祖先とする花田家の一人っ子として生まれました。旧制福岡中学(現在の県立福岡高等学校)、旧制第七高等学校、九州帝国大学哲学科の聴講生を経て、1929年(昭和4)に京都帝国大学文学部に選科生として入学します。
 在学中の1931年(昭和6)に『七』で、第8回サンデー毎日大衆文芸賞を受賞、その後学費が払えずに中退し、福岡県に戻りました。1933年(昭和8)に上京し、中学上級生の実姉の嫁ぎ先、三浦義一宅に一時寄宿、翻訳などのアルバイトで暮らし、また、政友会代議士の選挙応援、論文代筆などもしています。
 1935年(昭和10)に朝鮮人ジャーナリストの依頼で満州に渡り、朝鮮人のコロニーを取材、1936年(昭和11)に中野正剛の東方会に参加、1939年(昭和14)には、東大陸社に入社して「東大陸」の実質的編集長となり、中野秀人、岡本潤らと文化再出発の会を結成し「文化組織」を創刊しました。1940年(昭和15)に「東大陸」編集を辞め、秋山清の紹介で林業新聞社に入社、翌年には、 最初の評論集「自明の理」(のち「錯乱の論理」と改題)を刊行します。
 1942年(昭和17)に「文化組織」に『復興期の精神』収録の連作エッセイを引き続き書き継ぎ、林業新聞社を退社、サラリーマン社(のちの自由国民社)に就職しました。1943年(昭和18)に「現代文学」誌に、大東塾顧問三浦義一と尾崎士郎の対談や影山正治を批判した「虚実いりみだれて」を発表、翌年には、『小林秀雄』(のち「太刀先の見切り」と改題)を「現代文学」に発表、「軍事工業新聞」社(のちの「日刊工業新聞」社)に入社しますが、戦時下にありながら、抵抗精神を韜晦した文体に託した評論活動を続けます。
 戦後の1946年(昭和21)に、「復興期の精神」を刊行し、新日本文学会に入会、1947年(昭和22)に綜合文化協会を設立、「綜合文化」を発行、1952年(昭和27)には、「新日本文学」の編集長となりました。しかし、1954年(昭和29)に新日本文学の内紛のため編集長を下ろされ、1956年(昭和31)には、「群像」3月号に『モラリスト批判』を掲載、“「モラリスト」論争”が起こります。
 1958年(昭和33)に歴史ものの長編戯曲『泥棒論語』を執筆、舞芸座によって俳優座劇場で公演され、第1回週刊読売新劇賞を受賞、1959年(昭和34)には、安部公房、千田是也、木下順二、野間宏らと「三々会」を結成して、演劇刷新運動を展開しました。1960年(昭和35)に記録芸術の会を結成して「現代芸術」を創刊、1962年(昭和37)には、小説『鳥獣戯話』で第16回毎日出版文化賞を受賞します。
 1966年(昭和41)には、新日本文学会議長に選出されたものの、1974年(昭和49)9月23日に、東京都内の慶応病院において、脳出血のため、65歳で亡くなりました。

〇花田清輝の主要な著作

・評論集『自明の理』(1941年)
・評論集『錯乱の論理』(1947年)
・評論集『アヴァンギャルド芸術』(1954年)
・戯曲『泥棒論語』(1958年)第1回週刊読売新劇賞受賞
・評論集『近代の超克』(1959年)
・評論集『もう一つの修羅』(1961年)
・小説『鳥獣戯話』(1960~62年)第16回毎日出版文化賞受賞
・小説『爆裂弾記』(1962年)
・小説『俳優修業』(1964年)
・戯曲『ものみな歌でおわる』(1964年)
・小説『小説平家』(1967年)
・小説『室町小説集』(1973年)
・評論集『日本のルネッサンス人』(1974年)

☆花田清輝関係略年表

・1909年〈明治42〉3月29日 福岡県福岡市東公園において、生まれる
・1929年(昭和2) 京都帝国大学文学部に選科生として入学する
・1931年(昭和6) 『七』で、第8回サンデー毎日大衆文芸賞を受賞、京都帝国大学文学部英文科を中退する
・1933年(昭和8) 福岡より上京し、中学上級生の実姉の嫁ぎ先、三浦義一宅に一時寄宿、翻訳などのアルバイトで暮らす
・1934年(昭和9) 李東華自伝完成、政友会代議士の選挙応援、論文代筆などのアルバイトで生計をたてる
・1935年(昭和10) 朝鮮人ジャーナリストの依頼で満州に渡り、朝鮮人のコロニーを取材する
・1936年(昭和11) 中野正剛の東方会に参加する
・1939年(昭和14) 東大陸社に入社して「東大陸」の実質的編集長となり、中野秀人、岡本潤らと文化再出発の会を結成し「文化組織」を創刊する
・1940年(昭和15) 「東大陸」編集を辞め、秋山清の紹介で林業新聞社に入社する
・1941年(昭和16) 第1評論集「自明の理」(のち「錯乱の論理」と改題)を刊行する
・1942年(昭和17) 「文化組織」に『復興期の精神』収録の連作エッセイを引き続き書き継ぎ、林業新聞社を退社、サラリーマン社(のちの自由国民社)に就職する
・1943年(昭和18) 「現代文学」誌に、大東塾顧問三浦義一と尾崎士郎の対談や影山正治を批判した「虚実いりみだれて」を発表する
・1944年(昭和19) 『小林秀雄』(のち「太刀先の見切り」と改題)を「現代文学」に発表、「軍事工業新聞」社(のちの「日刊工業新聞」社)に入社する
・1946年(昭和21) 「復興期の精神」を刊行し、新日本文学会に入会する
・1947年(昭和22) 綜合文化協会を設立、「綜合文化」を発行する
・1948年(昭和23) 「新日本文学」の編集員となる
・1952年(昭和27) 「新日本文学」の編集長となる
・1954年(昭和29) 新日本文学の内紛のため「新日本文学」の編集長をおろされる
・1956年(昭和31) 「群像」3月号に『モラリスト批判』を掲載、“「モラリスト」論争”が起こる
・1958年(昭和33) 歴史ものの長編戯曲『泥棒論語』を執筆、舞芸座によって俳優座劇場で公演され、第1回週刊読売新劇賞を受賞する
・1959年(昭和34) 安部公房、千田是也、木下順二、野間宏らと「三々会」を結成して、演劇刷新運動を展開する
・1960年(昭和35) 記録芸術の会を結成して「現代芸術」を創刊する
・1962年(昭和37) 小説『鳥獣戯話』で第16回毎日出版文化賞を受賞する
・1966年(昭和41) 新日本文学会議長に選出される
・1974年(昭和49)9月23日 東京都内の慶応病院において、脳出血のため、65歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1401年(応永8)第101代の天皇とされる称光天皇の誕生日(新暦5月12日)詳細
1897年(明治30)金本位制の「貨幣法」が公布される詳細
1911年(明治44)「工場法」が公布される詳細
1933年(昭和8)「米穀統制法」が公布される詳細
1939年(昭和14)詩人・建築家立原道造の命日詳細
1952年(昭和27)「文化財保護法」で、タンチョウ、トキ、オオサンショウウオ等が初の特別天然記念物に指定される詳細
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 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、砂防工学者・政治家赤木正雄が生まれた日です。
 赤木正雄(あかぎ まさお)は、兵庫県城崎郡中筋村引野(現在の豊岡市)において、豪農の旧家だった父・赤木甚太夫、母・たみの4女2男の末子として生まれました。1旧制豊岡中学校、旧制第一高等学校を経て、1911年(明治44)に、東京帝国大学農科大学林学科に入学します。
 治水・砂防の道を進む決心をし、1914年(大正3)に卒業後、内務省へ入省、滋賀県田上山の山腹工事、翌年には、徳島県吉野川の砂防工事に従事しました。1923年(大正12)に自費でオーストリアに留学し、ウィーン農科大学で、近代的な砂防技術を学び、1925年(大正14)に帰国後、内務省に復職します。
 1926年(大正15)に初代立山砂防工事事務所長を兼務、京都帝国大学農学部講師を兼任、1929年(昭和4)に日本大学工学部講師も兼任、1935年(昭和10)には、京都帝国大学より農学博士を授与され、全国治水砂防協会を設立しました。1936年(昭和11)に勅任官に任命され、砂防工事全体計画を作成、1938年(昭和13)に砂防専管の第3技術課初代課長に就任、1940年(昭和15)には、砂防協会を社団法人にし、第3技術課が廃止されて、1942年(昭和17)には、内務省を退官し、砂防協会の仕事に専念します。
 1946年(昭和21)に貴族院議員に勅選され、1947年(昭和22)の第1回参議院議員選挙で当選、1948年(昭和23)には、建設政務次官に就任し、昭和天皇に御進講しました。1955年(昭和30)に砂防会館建築に着手、参議院建設委員会委員長に就任しましたが、1956年(昭和31)には、参議院議員選挙全国区で落選したものの、翌年に砂防会館が竣工しています。
 1960年(昭和35)に建設事業功労者として藍綬褒章を受章、1971年(昭和46)には、文化功労者となり、文化勲章を受章、豊岡市の名誉市民ともなりました。「砂防の父」、「砂防の神様」とも呼ばれてきましたが、1972年(昭和47)9月24日に、東京都杉並区において、85歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇赤木正雄の主要な著作

・『アルス土木工学大講座第12 渓流及砂防工学』(1939年)
・『高等土木工学第16巻 渓流及砂防工学』(1941年)
・自伝『砂防一路』(1967年)
・『明治大正日本砂防工事々績ニ徴スル工法論』(1974年)
・『砂防工事』(1975年)

☆赤木正雄関係略年表

・1887年(明治20)3月24日 兵庫県城崎郡中筋村引野(現在の豊岡市)において、豪農の旧家だった父・赤木甚太夫、母・たみの4女2男の末子として生まれる
・1906年(明治39) 豊岡中学校を卒業する
・1908年(明治41) 旧制第一高等学校に入学する
・1911年(明治44) 旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学農科大学林学科に入学する
・1914年(大正3) 東京帝国大学農科大学林学科を卒業し、内務省へ入省、滋賀県田上山の山腹工事に従事する
・1915年(大正4) 徳島県吉野川の砂防工事に従事する
・1923年(大正12) オーストリアに留学し、ウィーン農科大学で、近代的な砂防技術を学ぶ
・1925年(大正14) 留学から帰国し、内務省に復職する
・1926年(大正15) 初代立山砂防工事事務所長を兼務、京都帝国大学農学部講師を兼任する
・1929年(昭和4) 日本大学工学部講師を兼任する
・1935年(昭和10) 京都帝国大学より農学博士を授与され、全国治水砂防協会を設立する
・1936年(昭和11) 勅任官に任命され、砂防工事全体計画を作成する
・1938年(昭和13) 砂防専管の第3技術課初代課長に就任する
・1940年(昭和15) 砂防協会を社団法人にし、第3技術課が廃止される
・1942年(昭和17) 内務省を退官する
・1946年(昭和21) 貴族院議員に勅選される
・1947年(昭和22) 第1回参議院議員選挙で当選する
・1948年(昭和23) 建設政務次官に就任し、昭和天皇に御進講する
・1955年(昭和30) 砂防会館建築に着手、参議院建設委員会委員長に就任する
・1956年(昭和31) 参議院議員選挙全国区で落選する
・1957年(昭和32) 砂防会館が竣工する
・1960年(昭和35) 建設事業功労者として藍綬褒章を受章する
・1971年(昭和46) 豊岡市の名誉市民、文化功労者となり、文化勲章を受章する
・1972年(昭和47)9月24日 東京都杉並区において、85歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(寿永4)壇ノ浦の戦いが行われ、平家一門が滅亡する(新暦4月25日)詳細
1847年(弘化4)信濃国で善光寺地震(推定マグニチュード7.4)が起き、甚大な被害をもたらす(新暦5月8日)詳細
1891年(明治24)「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)が公布される詳細
1932年(昭和7)小説家梶井基次郎の命日詳細
1974年(昭和49)建築家吉田五十八の命日詳細
1983年(昭和58)千代田IC~鹿野ICの開通によって、中国自動車道(吹田~下関)が全通する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1979年(昭和54)に、漫画家近藤日出造の亡くなった日です。
 近藤日出造(こんどう ひでぞう)は、明治時代後期の1908年(明治41)2月15日に、長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市)において、洋品小間物商を営む父・近藤三津蔵、母・くめの次男として生まれましたが、本名は秀蔵と書きました。1921年(大正10)に、稲荷山尋常高等小学校高等科を卒業後上京、日本橋三越に見習定員として就業したものの、半年後に退職して帰郷、長野市内の洋服店に仕立職人として就職します。
 1922年(大正11)に仕立職人も長続きせず、退職して家業に従事、この間に、新聞・雑誌の投稿漫画欄に入選、また、一般公募の企業漫画(国分商店のポスター)で二等を受けました。1928年(昭和3)に再度上京、紹介者を得て岡本一平の門下生となり、第四次「東京パック」に近藤秀三の名で初期作品を発表します。
 1929年(昭和4)に、九州日報の嘱託となり、斬新な筆致で政治漫画、インタビュー記事を書き、近藤日出造のペンネームを使用するようになり、1932年(昭和7)に岡本一平門下生の杉浦幸雄、矢崎茂四、漫画雑誌で知遇を得た横山隆一らと共に「新漫画派集団」を結成、翌年には、読売新聞社に嘱託として入社、新漫画派集団「漫画年鑑」を発行しました。1936年(昭和11)に「現代連続漫画全集」第4巻(アトリエ社)に、ストーリー漫画「ミスパン子」が収録され、1938年(昭和13)には、満州鉄道の招待により、横山隆一、清水崑らと共に大陸を旅行、読売新聞社を退職してフリーとなります。
 1940年(昭和15)に「新日本漫画家協会」を設立、「漫画」の編集にたずさわり、翌年に「漫画」誌の責任編集者としてその発行にあたり、1943年(昭和18)には、海軍報道班員として南方を一巡し、帰国後「大東亜漫画研究所」、「報道漫画研究会」の設立に参加しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、漫画家・新聞・雑誌関係者らと再会、「新漫画派集団」を「漫画集団」と改称し、翌年には、月刊誌「漫画」の責任編集者として復帰、表紙画を描きます。
 1947年(昭和22)に、読売新聞社に復職、1948年(昭和23)には、戦後政界の混乱期を描き、政治漫画の第一人者としての地位を固めました。1955年(昭和30)に第1回「文芸春秋漫画賞」選考委員となり、1956年(昭和31)には、日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」に司会・インタビュアーとして登場、絶妙の対話術で人気を呼びます。
 1964年(昭和39)に日本漫画家協会初代理事長に就任、1965年(昭和40)には、東京デザインカレッジの理事に就任し、新たに漫画科を創設しました。1974年(昭和49)に紫授褒章を受章、1975年(昭和50)には、「漫画で政治を大衆に近づけた功績」で、第23回菊池寛賞を受け、漫画家として初めて勲三等瑞宝章を受章します。
 1976年(昭和51)に脳卒中で倒れて入院、療養生活を送り、1977年(昭和52)には、読売新聞社を退職しました。漫画の質的向上、漫画家の地位向上のために活躍しましたが、1979年(昭和54)3月23日に、東京において、加療中に肺炎を併発し、71歳で亡くなっています。
 尚、1990年(平成2)に故郷の長野県千曲市稲荷山に「ふる里漫画館」が開館となり、日出造の作品が収蔵・常設展示されるようになりました。

〇近藤日出造の主要な著作

<漫画>
・矢部友衛共著『漫画研究資料講座 第2輯 漫画デツサン論』(1935年)
・『家庭科学漫画』(1942年)
・『にっぽん人物画』 正・続(1964年)
・『人の顔はなにを語るか』(1970年)

<エッセイ・コラム>
・共著 東京産業報国会編『模範産業戦士訪問記』(1943年)
・『日出造膝栗毛』(1954年)
・『やァこんにちわ』第1‐2集(1954年)
・『絵のない漫画』(1956年)
・『海道うらばなし』(1958年)
・編『わが青春の懺悔録』(1958年)
・杉浦幸雄共著『この道ばかりは』(1960年)
・『孫子の兵法』(1962)
・『金 欲の皮の人間学』(1963年)

<小説>
・『恐妻会』(1955)

☆近藤日出造関係略年表

・1908年(明治41)2月15日 長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市)において、洋品小間物商を営む父・近藤三津蔵、母・くめの次男として生まれる
・1914年(大正3) 稲荷山尋常高等小学校に入学する
・1921年(大正10) 稲荷山尋常高等小学校高等科を卒業後上京、日本橋三越に見習定員として就業、半年後に三越を退職して帰郷、長野市内の洋服店に仕立職人として就業する
・1922年(大正11) 仕立職人も長続きせず、退職して家業に従事。この間、新聞・雑誌の投稿漫画欄に入選、また、一般公募の企業漫画(国分商店のポスター)で二等を受ける
・1928年(昭和3) 母方の叔父・宮沢治平を頼って再度上京。紹介者を得て岡本一平の門下生となり、師の指導を受けながら「一平全集」全15巻(先進社)発行の準備にたずさわり、第四次「東京パック」に近藤秀三の名で初期作品を発表する
・1929年(昭和4) 九州日報の嘱託となり、斬新な筆致で政治漫画、インタビュー記事を書く、「東京パック」3月号より「近藤日出造」のペンネームを使用、創刊された「月刊マンガマン」に数多くの作品を寄稿する
・1932年(昭和7) 岡本一平門下生の杉浦幸雄、矢崎茂四、漫画雑誌で知遇を得た横山隆一らと共に「新漫画派集団」を結成する
・1933年(昭和8) 読売新聞社に嘱託として入社、横山隆一の妹・英と結婚、新漫画派集団「漫画年鑑」を発行する
・1936年(昭和11) 「現代連続漫画全集」第4巻(アトリエ社)に、最初にして最後のストーリー漫画「ミスパン子」(講談社「婦人倶楽部」連載)が収録される
・1938年(昭和13) 満州鉄道の招待により、横山隆一、清水崑らと共に大陸を旅行、読売新聞社を退職してフリーとなる
・1940年(昭和15) 「新日本漫画家協会」を設立、設立委員として、機関誌、月刊・“眼で見る時局誌”「漫画」の編集にたずさわる
・1942年(昭和17) 執筆、出版事情が悪化する中、「漫画」誌の責任編集者としてその発行にあたる
・1943年(昭和18) 海軍報道班員として南方を一巡し、帰国後「大東亜漫画研究所」、「報道漫画研究会」の設立に参加する
・1945年(昭和20) 応召(九州・熊本県)、終戦で妻子の疎開先の上田市に復員後上京し、漫画家・新聞・雑誌関係者らと再会、「新漫画派集団」を「漫画集団」と改称し、再発足のため仲間を集う
・1946年(昭和21) 月刊誌「漫画」1月号より責任編集者として復帰、表紙画を描く
・1947年(昭和22) 読売新聞社に復職、10月16日号より執筆を開始する
・1948年(昭和23) 戦後政界の混乱期を描き、政治漫画の第一人者としての地位をかためる
・1951年(昭和26) サンフランシスコ対日講和会議取材に読売新聞社より派遣され、会議終了後、米国各地を取材旅行する
・1953年(昭和28) 「週刊読売」誌上に、各界第一人者との対談記事「やァこんにちわ、日出造見参」がスタートする
・1954年(昭和29) 文化人訪中団の一員として視察旅行へ行き、郭沫若ほか中国要人と会見する
・1955年(昭和30) 第1回「文芸春秋漫画賞」選考委員となる
・1956年(昭和31) 日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」に司会・インタビュアーとして登場、絶妙の対話術で人気を呼ぶ
・1957年(昭和32) 流感がもとで肺炎、心臓病を併発し、東京・聖路加病院、東大病院に入院加療する
・1958年(昭和33) 東大病院を退院し、那須高原にて静養する
・1959年(昭和34) 日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」を改題した「春夏秋冬」に、ホストとして出演する
・1960年(昭和35) 五輪ローマ大会取材のためイタリアに渡る
・1964年(昭和39) 日本漫画家協会初代理事長に就任する
・1965年(昭和40) 東京デザインカレッジの理事に就任し、新たに漫画科を創設する
・1970年(昭和45) 日本万国博覧会(大阪)に漫画集団として参加、「自由新報」に「日本安全運転」の連載を開始する
・1972年(昭和47) 月刊「漫画」復刊にたずさわった樋口信と共に、株式会社漫画社を設立、社主として就任、東京銀座・松屋にて、横山隆一、杉浦幸雄と共に「漫画御三家展」を開催する
・1973年(昭和48) 東京・大丸にて「顔・近藤日出造が描く一五〇人展」を開催する
・1974年(昭和49) 全国の原子力発電所取材記事を読売新聞に連載、紫授褒章を受章する
・1975年(昭和50) 「漫画で政治を大衆に近づけた功績」で、第23回菊池寛賞を受け、漫画家として初めて勲三等瑞宝章を受章する
・1976年(昭和51) 脳卒中で意識を失い、慈恵医大病院に入院、小康を得て中伊豆温泉病院にて療養生活を送る
・1977年(昭和52) 東京・武蔵野療園病院に転院、読売新聞社を退職する
・1978年(昭和53) 妻・英がくも膜下出血により急逝する
・1979年(昭和54)3月23日 東京において、加療中に肺炎を併発し、71歳で亡くなる
・1990年(平成2) 長野県千曲市稲荷山に「ふる里漫画館」が開館となり、日出造の作品が収蔵・常設展示される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1238年(暦仁元)僧・浄光が鎌倉大仏(木造仏)の建立を開始する(新暦5月8日)詳細
1883年(明治16)陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家北大路魯山人の誕生日詳細
1898年(明治31)東京市本郷区で本郷大火があり、1,478戸を焼失する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「国民義勇隊」結成を閣議決定する詳細
1950年(昭和25)世界気象機関(WMO)が設立される(世界気象デー)詳細
1981年(昭和56)国語審議会が当用漢字表に代わる「常用漢字表」を答申する詳細
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 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、建築家・建築構造学者武藤清の亡くなった日です。
 武藤清(むとう きよし)は、明治時代後期の1903年(明治36)1月29日に、茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)において生まれました。龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)、旧制第二高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科に入学します。
 在学中の1923年(大正12)に、関東大震災を経験し、耐震建築の研究を志すようになり、1925年(大正14)に卒業後、大学に残って、佐野利器の元で建築構造の研究を行いました。1927年(昭和2)に東京帝国大学工学部助教授となり、1931年(昭和6)には、臨時帝室博物館造営課の嘱託を勤め、1933年(昭和8)には、世界的な耐震計算法である「横力分布係数法」を完成します。
 1935年(昭和10)に東京帝国大学工学部教授に昇任し、1938年(昭和13)には、「材端に剛域を有するラーメンの地震力に依る応力の略算法」で、日本建築学会賞(学術賞)を受賞し、太平洋戦争末期には松代大本営の造営に関与しました。1960年(昭和35)に東京大学工学部長となり、1961年(昭和36)には、「わが国地震工学の国際的高揚」で、日本建築学会賞(学術高揚)を受賞します。
 1962年(昭和37)に千葉工業大学建築学科創設に携わり、講師を務め、1963年(昭和38)に東京大学を退官後、鹿島建設副社長に就任、国際地震工学会初代会長ともなりました。1964年(昭和39)に「耐震構造に関する研究」で、日本学士院恩賜賞を受賞、1966年(昭和41)には、『超高層建築へのアプローチ』を刊行します。
 コンピューターによるシミュレーション法を開発し、その成果は「柔構造」理論として、1968年(昭和43)には、霞が関ビルを36階建てに自ら構造設計し、日本最初の超高層建築を実現させ、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰を受けました。1969年(昭和44)に武藤構造力学研究所所長となり、1970年(昭和45)に「耐震工学に関する研究」で、日本建築学会大賞を受賞、1975年(昭和50)には、日本学士院会員となっています。
 1979年(昭和54)に文化功労者となり、1980年(昭和55)に「複合隙間壁体構造を用いた柔構造物の発明」で、全国発明表彰(恩賜発明賞)を受賞、1983年(昭和58)には、文化勲章を受章しました。1984年(昭和59)に米国地震工学会特別賞を受賞しましたが、1989年(平成元)3月12日に、東京都新宿区の自宅において、急性心不全のため、86歳で亡くなっています。

〇武藤清の主要な著作

・共著『構造力学』高等建築学第5巻(1934年)
・『耐震設計シリーズ』全5巻(1963~67年)
・『超高層建築へのアプローチ』(1966年)

☆武藤清関係略年表

・1903年(明治36)1月29日 茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)において、生まれる
・1925年(大正14) 東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、大学に残って、佐野利器の元で建築構造の研究を行う
・1927年(昭和2) 東京帝国大学工学部助教授となる
・1931年(昭和6) 臨時帝室博物館造営課の嘱託を勤める
・1933年(昭和8) 世界的な耐震計算法である「横力分布係数法」を完成する
・1935年(昭和10) 東京帝国大学工学部教授となる
・1938年(昭和13) 「材端に剛域を有するラーメンの地震力に依る応力の略算法」で、日本建築学会賞(学術賞)を受賞する
・1960年(昭和35) 東京大学工学部長となる
・1961年(昭和36) 「わが国地震工学の国際的高揚」で、日本建築学会賞(学術高揚)を受賞する
・1962年(昭和37) 千葉工業大学建築学科創設に携わり、講師を務める
・1963年(昭和38) 東京大学を退官後、鹿島(かじま)建設副社長に就任、国際地震工学会初代会長となる
・1964年(昭和39) 「耐震構造に関する研究」で、日本学士院恩賜賞を受賞する
・1966年(昭和41) 『超高層建築へのアプローチ』を刊行する
・1968年(昭和43) 霞が関ビルを36階建てに自ら構造設計し、日本最初の超高層建築を実現させ、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰を受ける
・1969年(昭和44) 武藤構造力学研究所所長となる
・1970年(昭和45) 「耐震工学に関する研究」で、日本建築学会大賞を受賞する
・1975年(昭和50) 日本学士院会員となる
・1979年(昭和54) 文化功労者となる
・1980年(昭和55) 「複合隙間壁体構造を用いた柔構造物の発明」で、全国発明表彰(恩賜発明賞)を受賞する
・1983年(昭和58) 文化勲章を受章する
・1984年(昭和59) 米国地震工学会特別賞を受賞する
・1989年(平成元)3月12日 東京都新宿区の自宅において、急性心不全のため、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1633年(寛永10)第110代の天皇とされる後光明天皇の誕生日(新暦4月20日)詳細
1705年(宝永2)思想家・儒学者・古義学派の創始者伊藤仁斎の命日(新暦4月5日)詳細
1945年(昭和20)名古屋大空襲で中心街が消失し、105,093人が罹災、死者519人人、負傷者734人を出す詳細
1946年(昭和21)日本労働運動の先駆的指導者・政治家鈴木文治の命日詳細
将棋棋士・十三世名人関根金次郎の命日詳細
2011年(平成23)九州新幹線の新八代~博多が延伸開業し、鹿児島ルートの全線開通となる詳細
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fukadakyuuya01
 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、小説家・随筆家・登山家深田久弥の生まれた日です。
 深田久弥(ふかだ きゅうや)は、石川県江沼郡大聖寺町字中町(現在の加賀市)において、深田屋紙店を営む深田家の長男として生まれました。12歳の時に、福井県境に近い富士写ヶ岳(942m)に登ったのがきっかけで登山に興味を持ち、1918年(大正7)に旧制福井中学校(現在の福井県立藤島高等学校)へ入学し、友人と二人で白山に登頂して山岳開眼します。
 1923年(大正12)へ旧制第一高校へ進学、登山部に入部して本格的に登山に取り組み、一方で、文芸部で堀辰雄や高見順と知り合いました。1926年(大正15)に卒業後、東京帝国大学文学部哲学科入学、第9~10次「新思潮」に参加、第10次「新思潮」に発表した『武人鑑賞録』が川端康成らに認められ、「文学」同人となります。
 1927年(昭和2)に大学に在籍しつつ、改造社に入社、1929年(昭和4)に『イエスの弟子』を発表、1930年(昭和5)に「文芸春秋」に発表した『オロッコの娘』で小説家としての地位を確立、東京帝国大学を中退して、作家生活に入りました。1932年(昭和7)に『あすならう』を発表して文壇的評価を確立し、1933年(昭和8)には、小林秀雄らと「文学界」を創刊します。
 1935年(昭和10)に『津軽の野づら』連作により文壇の評価を高め、日本山岳会に入会、1937年(昭和12)には、『鎌倉夫人』、『山岳展望』を刊行しました。1941年(昭和16)に中島敦がパラオに出立する前に、自身の原稿をまとめたものを託され、翌年には、その原稿の内、『李陵』、『山月記』を「文学界」に紹介します。
 1944年(昭和19)に応召されて、中国各地を転戦、1946年(昭和21)には、中国から復員したものの、越後湯沢、金沢などを転々としました。1949年(昭和24)に錦城山岳会を結成し、理事となり、1955年(昭和30)に東京に転居、1957年(昭和32)には、『贋作家故郷へ行く』を最後に小説の筆を折ります。
 1958年(昭和33)にヒマラヤ探査行を実行、1959年(昭和34)に山岳雑誌『山と高原』(朋文堂)で毎月2山の連載を開始、1964年(昭和39)には、『日本百名山』を刊行し、翌年に第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞して人気作家に返り咲きました。1966年(昭和41)にシルクロード学術踏査等で、約4ヶ月中央アジアを旅行し、1968年(昭和43)には、日本山岳会の副会長に就任します。
 1969年(昭和44)には、山渓賞(山と渓谷社)を受賞しましたが、1971年(昭和46)3月21日に、登山中の茅ヶ岳(1,704m)にて、脳卒中により、68歳で急逝しました。

〇深田久弥の主要な著作

・『わが山山』(1934年)
・『津軽の野づら』(1935年)
・『鎌倉夫人』(1937年)
・『山岳展望』(1937年)
・『親友』(1943年)
・『知と愛』(1953年)
・『日本百名山』(1964年)第16回読売文学賞(評論・伝記賞)受賞
・『ヒマラヤの高峰』(1964~65年)

☆深田久弥関係略年表

・1903年(明治36)3月11日 石川県江沼郡大聖寺町字中町(現在の加賀市)において、深田屋紙店を営む深田家の長男として生まれる
・1915年(大正4) 12歳の時、福井県境に近い富士写ヶ岳(942m)に登ったのがきっかけで登山に興味を持つ
・1918年(大正7) 旧制福井中学校(現在の福井県立藤島高等学校)へ入学し、友人と二人で白山に登頂して山岳開眼する
・1923年(大正12) 旧制第一高校へ入学する
・1926年(大正15) 旧制第一高校を卒業し、東京帝国大学文学部哲学科入学する
・1927年(昭和2) 大学に在籍しつつ、改造社に入社する
・1929年(昭和4) 『イエスの弟子』を発表する
・1930年(昭和5) 「文芸春秋」に発表した『オロッコの娘』で小説家としての地位を確立、東京帝国大学を中退して、作家生活に入る
・1932年(昭和7) 『あすならう』を発表して文壇的評価を確立する
・1933年(昭和8) 小林秀雄らと「文学界」を創刊する
・1935年(昭和10) 『津軽の野づら』連作により文壇の評価を高め、日本山岳会に入会する
・1937年(昭和12) 『鎌倉夫人』、『山岳展望』を刊行する
・1940年(昭和15) 北畠八穂と結婚して正式に夫婦となる
・1941年(昭和16) 中島敦がパラオに出立する前に、深田に自身の原稿をまとめたもの『古潭』を託し、発表の仲介を依頼する
・1942年(昭和17) 前年託された中島の原稿のうち『李陵』『山月記』、また田中英光の『オリンポスの果実』の原稿を「文学界」に紹介する
・1943年(昭和18) 『親友』を刊行、木庭志げ子が深田の子を出産したことが北畠に露見する
・1944年(昭和19) 応召されて、中国各地を転戦する
・1946年(昭和21) 中国から復員する
・1947年(昭和22) 北畠と離婚の上、木庭志げ子と再婚する
・1949年(昭和24) 錦城山岳会を結成し、理事となる
・1955年(昭和30) 東京に転居する
・1957年(昭和32) 『贋作家故郷へ行く』を最後に小説の筆を折る
・1958年(昭和33) ヒマラヤ探査行をする
・1959年(昭和34) 山岳雑誌『山と高原』(朋文堂)で毎月2山の連載を開始する
・1964年(昭和39) 『日本百名山』を刊行する
・1965年(昭和40) 『日本百名山』が第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞し、人気作家に返り咲く
・1966年(昭和41) シルクロード学術踏査等で、約4ヶ月中央アジアを旅行をする
・1968年(昭和43) 日本山岳会の副会長に就任する
・1969年(昭和44) 山渓賞(山と渓谷社)を受賞する
・1971年(昭和46)3月21日 登山中の茅ヶ岳(1,704m)にて脳卒中により、68歳で急逝する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1582年(天正10)織田信長・徳川家康連合軍に敗れた武田勝頼が自害し甲斐武田家が滅亡(新暦4月3日)詳細
1643年(寛永20)江戸幕府が「田畑永代売買禁止令」を発布する(新暦4月29日)詳細
1834年(天保5)福井藩士・幕末の志士・思想家橋下佐内の誕生日(新暦4月19日)詳細
1901年(明治33)国木田独歩の初の作品集『武蔵野』が民友社から刊行される詳細
2010年(平成22)農林水産省により「ため池百選」が選定される詳細
2011年(平成23)東北地方太平洋沖地震が発生し、激しい揺れと大津波によって、東日本大震災と称される大被害を出す詳細
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