ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 人物

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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、詩人・児童文学者・伝道師山村暮鳥が亡くなった日です。
 山村暮鳥(やまむら ぼちょう)は、明治時代前期の1884年(明治17)1月10日に、群馬県西群馬郡棟高村(現在の高崎市)において、農業を営む父・木暮久七、母・志村シヤウの長男として生まれましたが、本名は志村八九十(しむら はくじゅう)と言いました。1889年(明治22)に父は祖父の確執のため家を出て、母と共に元総社村(現前橋市)の木暮家に帰り、養子となって、木暮八九十となります。
 1895年(明治28)に、父が事業に失敗したため、堤ヶ岡尋常小学校高等科を中退し、一家で上郊村に移り、松山寺の住職に、漢籍を学びました。1899年(明治32)に堤ヶ岡尋常小学校(現在の高崎市立堤ヶ岡小学校)の代用教員となり、翌年に前橋の聖マッテア教会で英語夜学校が開校され、小学校の宿直を務めながら夜学校に通います。
 1902年(明治35)に聖マッテア教会で洗礼を受け、同教会の婦人宣教師ウォールの通訳兼秘書として青森に転任、翌年には、ウォールの尽力により、東京佃島にある聖三一神学校に入学しました。1905年(明治38)に北海道旭川連帯に入隊、補充兵として満州に派遣されましたが、1906年(明治39)には、満州より帰国、聖三一神学校に復学します。
 1908年(明治41)に卒業後、秋田市秋田聖救世主教会に伝道師として着任したものの、各地に転任し、人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらいました。1910年(明治43)に自由詩社同人となり、1913年(大正2)には、萩原朔太郎、室生犀星と詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成、詩集『三人の処女』を新声社から自費出版します。
 1917年(大正6)に随筆集『小さな穀倉より』を刊行、1918年(大正7)には、水戸ステパノ教会に転任したが、健康を害して静養のため千葉県北条町に移り、大関五郎、柳橋好雄と「黎明会」を結成、雑誌「苦悩者」を創刊、詩集『風は草木にささやいた』、翻訳『ドストエフスキー書簡集』を刊行しました。1919年(大正8)に結核のため茨城県大貫海岸に転居、日本聖公会伝道師を休職、1920年(大正9)に福島県平町に移りましたが、結核とクリスチャンのため迫害され、茨城県磯浜に転居、童話集『ちるちる・みちる』を刊行、1921年(大正10)には、童謡専門雑誌「とんぼ」の顧問となり、詩集『梢の巣にて』、詩選集『穀粒』を刊行します。
 1922年(大正11)に「金の船」の「幼年詩」欄の選者となり、小説『十字架』、童謡童話集『万物の世界』、童話『葦舟の児』、童話『少年行』、童話『お菓子の城』を刊行しました。1923年(大正12)には、ほとんど病床で生活するようになり、童話『鉄の靴』を刊行したものの、翌年12月8日に、茨城県東茨城郡大洗町の借家「鬼坊裏別荘」において、肺結核に悪性腸結核を併発し、40歳で亡くなっています。
 尚、没後の1925年(大正14)に詩集『雲』、童話集『地獄の門』、『小さな世界』、『よしきり』が刊行され、1926年(大正15)には、雑誌「日本詩人」が「山村暮鳥追悼号」を出し、詩集『月夜の牡丹』が刊行されました。

〇山村暮鳥の主要な著作

・詩集『三人の処女』(1913年)
・詩集『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』(1915年)
・詩集『風は草木にささやいた』(1918年)
・童話集『ちるちる・みちる』(1920年)
・詩集『梢(こずえ)の巣にて』(1921年)
・童話『鉄の靴』(1923年)
・詩集『雲』(1925年)
・遺稿詩集『月夜の牡丹(ぼたん)』(1926年)

☆山村暮鳥関係略年表

・1884年(明治17)1月10日 群馬県西群馬郡棟高村(現在の高崎市)において、農業を営む父・木暮久七、母・志村シヤウの長男として生まれる
・1889年(明治22) 父は祖父の確執のため家を出て、母と共に元総社村(現在の前橋市)の木暮家に帰る。暮鳥は養子という形で引き取られ、木暮八九十となる
・1890年(明治23) 元総社尋常小学校に入学する
・1891年(明治24) 祖父が死去したため、穂高村の志村家に帰り、堤ヶ丘尋常小学校に転入する
・1895年(明治28) 父が事業に失敗したため、高等科を中退し、一家で上郊村に移り、松山寺の住職に、漢籍を学ぶ
・1899年(明治32) 堤ヶ岡尋常小学校(現在の高崎市立堤ヶ岡小学校)の代用教員となる
・1901年(明治34) 前橋の聖マッテア教会で英語夜学校が開校され、小学校の宿直を務めながら夜学校に通う
・1902年(明治35) 聖マッテア教会で洗礼を受け、同教会の婦人宣教師ウォールの通訳兼秘書として青森に転任する
・1903年(明治36) ミス・ウォールの尽力により、東京佃島にある聖三一神学校に入学する
・1904年(明治37) 「白百合」に木暮流星の筆名で短歌を発表し、キーツの詩を愛読する
・1905年(明治38) 北海道旭川連帯に入隊、補充兵として満州に派遣される
・1906年(明治39) 満州より帰国、聖三一神学校に復学する
・1907年(明治40) 雑誌「南北」を創刊し、3号まで発刊、短歌から詩へ移る
・1908年(明治41) 聖三一神学校卒業、秋田市秋田聖救世主教会に伝道師として着任する
・1909年(明治42) 秋田県湯沢町日本聖公会湯沢講義所に転任、ついで仙台日本聖公会に転任、人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらう
・1910年(明治43) 東京諸聖徒教会に転籍、自由詩社同人となる
・1911年(明治44) 水戸聖公会に転任、常陸太田講義所に転任する
・1912年(明治45) 福島県平町新田町講義所に転任、詩集の刊行を計画し島崎藤村の序を得るが、刊行を断念する
・1913年(大正2) 教父土田三秀の長女冨士と結婚、萩原朔太郎、室生犀星と詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成、詩集『三人の処女』を新声社から自費出版する
・1914年(大正3) にんぎょ詩社の機関誌「卓上噴水」が創刊される
・1916年(大正5) 暮鳥を編集人、室生犀星を発行人とする雑誌「LE PRISM」を創刊、雑誌「感情」に準同人として加わる
・1917年(大正6) 畑を借りて、野菜などを作り始め、随筆集『小さな穀倉より』を白日社から刊行する
・1918年(大正7) 水戸ステパノ教会に転任したが、健康を害して静養のため千葉県北条町に移り、大関五郎、柳橋好雄と「黎明会」を結成、雑誌「苦悩者」を創刊、詩集『風は草木にささやいた』を新潮社から、翻訳『ドストエフスキー書簡集』を白日社から刊行する
・1919年(大正8) 結核のため茨城県大貫海岸に転居、日本聖公会伝道師を休職する
・1920年(大正9) 福島県平町に移るが、結核とクリスチャンのため迫害され、茨城県磯浜に転居、童話集『ちるちる・みちる』を洛陽堂から刊行する
・1921年(大正10) 童謡専門雑誌「とんぼ」の顧問となり、詩集『梢の巣にて』を叢文閣から、詩選集『穀粒』を降文館から刊行する
・1922年(大正11) 「金の船」の「幼年詩」欄の選者となり、小説『十字架』を聖書文学会から、童謡童話集『万物の世界』を真珠書房から、童話『葦舟の児』を文翫堂から、童話『少年行』を創文社から、童話『お菓子の城』を文星閣から刊行する
・1923年(大正12) ほとんど病床で生活するようになり、童話『鉄の靴』を内外出版から刊行する
・1924年(大正13)12月8日 茨城県東茨城郡大洗町の借家「鬼坊裏別荘」において、肺結核に悪性腸結核を併発し、40歳で亡くなる
・1925年(大正14) 詩集『雲』、童話集『地獄の門』、『小さな世界』、『よしきり』がイデア書院から刊行、茨城文芸社主宰暮鳥一周年追悼会が催される
・1926年(大正15) 雑誌「日本詩人」が「山村暮鳥追悼号」を出し、詩集『月夜の牡丹』、紅玉堂より刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」が発せられ、太平洋戦争が始まる(太平洋戦争開戦記念日)詳細
1943年(昭和18)東条英機の大東亜戦争二週年記念講演が、全国にラジオ放送される詳細
1945年(昭和20)GHQが「救済並福祉計画ノ件」(SCAPIN-404)を指令する詳細
1958年(昭和33)国道20号線の新笹子隧道[一般有料道路笹子トンネル](全長2,953m)が開通する詳細
1990年(平成2)歌人・国文学者土屋文明の命日詳細
2008年(平成20)初めて7地域が日本ジオパークに決まり、内3地域を世界ジオパークへ推薦する詳細
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shyounoeiji01
 今日は、平成時代の1993年(平成5)に、児童文学者・帝塚山学院大学学長庄野英二が亡くなった日です。
 庄野英二(しょうの えいじ)は、大正時代の1915年(大正4)11月20日に、山口県荻町(現在の萩市)において、帝塚山学院の初代校長だった父・庄野貞一の次男として生まれ、生後まもなく大阪市帝塚山へ移りました。府立の農業学校を経て、関西学院専門部文学部哲学科で学び、在学中の1935年(昭和10)に坪田譲治の『お化けの世界』を読み感動し、夏休みに上京し、坪田譲治の門をたたきます。
 1936年(昭和11)に卒業し、1937年(昭和12)に陸軍に入隊、中国を転戦、1940年(昭和15)に負傷して一時帰還、1942年(昭和17)には、ジャワ俘虜収容所に勤め、武田麟太郎、佐藤春夫と交友しました。太平洋戦争後マレーに抑留され、1946年(昭和21)に大尉で帰国復員し、翌年には、坪田譲治主宰の「童話教室」創刊号に『朝風の話』を発表し、本格的な創作活動を開始します。
 1948年(昭和23)に結婚し、帝塚山学院の教員となり、1951年(昭和26)には、民間放送の開局に伴い、ラジオの童話、小説、劇などを多数発表しました。1955年(昭和30)に第一童話集『こどものデッキ』をミネルヴァ書房より自費出版、1960年(昭和35)には、随筆集『ロッテルダムの灯』を自費出版し、翌年には、この著作で、第9回日本エッセイストクラブ賞、大阪府芸術賞を受賞します。
 1963年(昭和38)に理論社より童話『星の牧場』を刊行、翌年には、この著作で、第2回野間児童文芸賞、第4回日本児童文学者協会賞、第11回サンケイ児童出版文化賞を受賞しました。1965年(昭和40)に塚山学院高等学校長となり、少年小説『雲の中の虹』、童話集『小鳥のデッキ』を刊行、1966年(昭和41)には、帝塚山学院大学が創設され教授となり、『雲の中の虹』で第4回NHK児童文学賞(奨励賞)を受賞します。
 1968年(昭和43)に童話『うみがめ漂流記』、1972年(昭和47)に『アレン中佐のサイン』、1975年(昭和50)に短編集『鹿の結婚式』を刊行、1977年(昭和52)には、童話『アルファベット群島』を刊行し、第7回赤い鳥文学賞を受賞しました。1978年(昭和52)に全11巻の『庄野英二全集』を偕成社より刊行、1983年(昭和57)には、帝塚山学院大学学長(~1989年)となり、足立巻一、大谷晃一と同人誌『苜蓿』(もくしゅく)を創刊します。
 1990年(平成2)に第13回巌谷小波文芸賞を受賞しましたが、1993年(平成5)11月26日に、大坂府大阪市において、78歳で亡くなりました。尚、弟は、小説家の庄野潤三(じゅんぞう)です。

〇庄野英二の主要な著作

・第一童話集『デッキ』(1955年)
・随筆集『ロッテルダムの灯(ひ)』(1961年)第9回日本エッセイストクラブ賞、大阪府芸術賞受賞
・長編童話『星の牧場(まきば)』(1963年)第2回野間児童文芸賞、第4回日本児童文学者協会賞、第11回サンケイ児童出版文化賞受賞
・童話集『雲の中の虹』(1965年)第4回NHK児童文学賞(奨励賞)受賞
・童話集『うみがめ丸漂流記』(1968年)
・童話集『アルファベット群島』(1977年)第7回赤い鳥文学賞受賞
・小説『ユングフラウの月』(1978年)
・童話集『いななく高原』上下(1979年)
・童話集『孫太郎南海漂流記』(1980年)
・童話集『アルピエロ群島』(1981年)
・詩画集『王の悲しみ』(1984年)
・童話集『海のシルクロード』(1985年)
・詩画集『たきまくら』(1985年)
・詩画集『胡蝶蘭(こちょうらん)』(1986年)
・自伝的エッセイ『新しい靴』(1987年)
・文学的自叙伝『鶏冠詩人伝』(1990年)

☆庄野英二関係略年表

・1915年(大正4)11月20日 山口県荻町(現在の萩市)において、帝塚山学院の初代校長だった父・庄野貞一の次男として生まれ、大阪市帝塚山へ移る
・1935年(昭和10) 関西学院専門部文学部哲学科在学中に坪田譲治の『お化けの世界』を読み感動し、夏休みに上京し、坪田譲治の門をたたく
・1936年(昭和11) 関西学院専門部文学部哲学科を卒業する
・1937年(昭和12) 陸軍に入隊し、中国、南方を転戦する
・1940年(昭和15) 負傷して一時帰還する
・1942年(昭和17) ジャワ俘虜収容所に勤め武田麟太郎、佐藤春夫と交友する
・1946年(昭和21) 大尉で帰国復員する
・1947年(昭和22) 坪田譲治主宰の「童話教室」創刊号に『朝風の話』を発表し、本格的な創作活動を開始する
・1948年(昭和23) 結婚し、帝塚山学院の教員となる
・1951年(昭和26) 民間放送の開局に伴い、ラジオの童話、小説、劇などを多数発表する
・1955年(昭和30) 第一童話集『こどものデッキ』をミネルヴァ書房より自費出版する
・1960年(昭和35) 随筆集『ロッテルダムの灯』を自費出版する
・1961年(昭和36) 『ロッテルダムの灯』で、第9回日本エッセイストクラブ賞、大阪府芸術賞を受賞する
・1963年(昭和38) 理論社より童話『星の牧場』を刊行する
・1964年(昭和39) 『星の牧場』で第2回野間児童文芸賞、第4回日本児童文学者協会賞、第11回サンケイ児童出版文化賞を受賞する
・1965年(昭和40) 帝塚山学院高等学校長となり、少年小説『雲の中の虹』、童話集『小鳥のデッキ』を刊行する
・1966年(昭和41) 帝塚山学院大学が創設され教授となり、『雲の中の虹』で第4回NHK児童文学賞(奨励賞)を受賞する
・1968年(昭和43) 童話『うみがめ漂流記』を刊行する
・1972年(昭和47) 『アレン中佐のサイン』を岩波書店より刊行する
・1975年(昭和50) 短編集『鹿の結婚式』を創文社より刊行する
・1977年(昭和52) 童話『アルファベット群島』を偕成社より刊行、第7回赤い鳥文学賞を受賞する
・1978年(昭和52) 全11巻の『庄野英二全集』が偕成社より刊行する
・1983年(昭和57) 帝塚山学院大学学長となり、足立巻一、大谷晃一と同人誌『苜蓿』(もくしゅく)を創刊する
・1989年(平成元) 帝塚山学院大学学長を辞める 
・1990年(平成2) 第13回巌谷小波文芸賞を受賞する
・1993年(平成5)11月26日 大坂府大阪市において、78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)洋画家・小説家・随筆家有島生馬の誕生日詳細
1906年(明治39)南満洲鉄道株式会社が設立される詳細
1911年(明治44)政治家・外交官小村寿太郎の命日詳細
1935年(昭和10)日本ペンクラブが発足する(ペンの日)詳細
1941年(昭和16)ハル米国務長官が野村駐米大使に「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」(ハル・ノート)を手交する詳細
1957年(昭和32)東京都奥多摩町に上水道・発電用の小河内ダムが完成する詳細
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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、生化学者江上不二夫が生まれた日です。
 江上不二夫(えがみ ふじお)は、1910年(明治43)11月21日に東京において生まれ、1933年(昭和8)には、東京帝国大学理学部化学科を卒業しました。1934年(昭和9)にフランス政府の招聘留学生としてストラスブール大学、パリ生物物理化学研究所に学びましたが、1937年(昭和12)には帰国し、東京帝国大学理学部助手となります。
 1942年(昭和17)に、名古屋帝国大学理学部化学科第三講座(有機化学)助教授となり、東京大学より「スルファターゼ模型に関する研究」で理学博士を得ました。1943年(昭和18)に同大学理学部教授に昇進し、1953年(昭和28)には、「生体酸化環元の研究」で中日文化賞、翌年には、日本化学会賞を受賞しています。
 1957年(昭和32)にタカジアスターゼから核酸分解酵素の1種であるリボヌクレアーゼ T1を分離・精製に成功し、国際的に知名度を高め、1958年(昭和33)には、東京大学理学部教授となりました。1961年(昭和36)に国際生化学連合の評議員(~1970年)となり、1966年(昭和41)に「リボヌクレアーゼT1に関する研究」で、朝日賞、1967年(昭和42)には、『生命を探る』で、毎日出版文化賞を受賞、国際生化学会議を日本に誘致して事務局長を務めています。
 1968年(昭和43)に埼玉大学理工学部教授を併任、日本生化学会会長となり、1969年(昭和44)には、日本学術会議会長(~1972年)となりました。1971年(昭和46)に三菱化成生命科学研究所初代所長となって、“生命の起源”の研究に打ち込み、「リボヌクレアーゼに関する研究」で日本学士院賞を受賞、レジオン・ドヌール勲章も受章し、1977年(昭和52)には、国際生命の起源学会会長に就任します。
 1980年(昭和55)には、三菱化成生命科学研究所名誉所長となりましたが、1982年(昭和57)7月17日に、東京において、71歳で亡くなりました。尚、兄は東洋史学・考古学者で「騎馬民族説」を唱えた江上波夫です。

〇江上不二夫の主要な著作

・『生体の化学』(1946年)
・『生化学研究の進み方』(1950年)
・『核酸および核蛋白質』(1951年)
・『生命を探る』(1967年)
・『生物化学概説』(1975年)

☆江上不二夫関係略年表

・1910年(明治43)11月21日 東京において、生まれる
・1933年(昭和8) 東京帝国大学理学部化学科を卒業する
・1934年(昭和9) フランス政府の招聘(しょうへい)留学生としてストラスブール大学、パリ生物物理化学研究所に学ぶ
・1937年(昭和12) 帰国し、東京帝国大学理学部助手となる
・1942年(昭和17) 名古屋帝国大学理学部化学科第三講座(有機化学)助教授となり、東京大学より「スルファターゼ模型に関する研究」で理学博士を得る
・1943年(昭和18) 名古屋帝国大学理学部教授となる
・1953年(昭和28) 「生体酸化環元の研究」で、中日文化賞を受賞する
・1954年(昭和29) 日本化学会賞を受賞する
・1957年(昭和32) タカジアスターゼから核酸分解酵素の1種であるリボヌクレアーゼ T1を分離・精製に成功し、国際的に知名度を高める
・1958年(昭和33) 東京大学理学部教授となる
・1961年(昭和36) 国際生化学連合の評議員となる(~1970年)
・1966年(昭和41) 「リボヌクレアーゼT1に関する研究」で、朝日賞を受賞する
・1967年(昭和42) 『生命を探る』で、毎日出版文化賞を受賞、国際生化学会議を日本に誘致して事務局長を務める
・1968年(昭和43) 埼玉大学理工学部教授併任となり、日本生化学会会長となる
・1969年(昭和44) 日本学術会議会長(~1972年)となる
・1971年(昭和46) 三菱化成生命科学研究所初代所長となり、「リボヌクレアーゼに関する研究」で日本学士院賞を受賞、レジオン・ドヌール勲章を受章する
・1977年(昭和52) オパーソン博士の後を継いで、国際生命の起源学会会長となる
・1980年(昭和55) 三菱化成生命科学研究所名誉所長となる
・1982年(昭和57)7月17日 東京において、71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

734年(天平6)「得度・授戒の制」が定められる(新暦12月20日)詳細
1889年(明治22)東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座四丁目)に歌舞伎座が開場する詳細
1956年(昭和31)歌人・美術史家・書道家会津八一の命日(八一忌・秋艸忌)詳細
1903年(明治36)小説家伊藤永之介の誕生日詳細
1969年(昭和44)俳人石田波郷の命日詳細
1978年(昭和53)第20回ユネスコ総会で「体育およびスポーツに関する国際憲章」が採択される詳細
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fujitatetsuya01
 今日は、平成時代の1998年(平成10)に、気象学者藤田哲也の亡くなった日です。
 藤田哲也(ふじた てつや)は、大正時代の1920年(大正9)10月23日に、福岡県企救郡曽根村(現在の北九州市小倉南区)において、生まれました。旧制小倉中学校(現在の福岡県立小倉高等学校)を経て、1939年(昭和14)に、明治専門学校(現在の九州工業大学)工学部機械工学科へ入学します。
 1940年(昭和15) 阿蘇や姶良カルデラなどの立体図を完成(松本唯一教授の学位論文に掲載)し、1943年(昭和18)には、明治専門学校工学部機械科を卒業し、同大学で助手、続いて物理学助教授に就任しました。1945年(昭和20)に広島および長崎への原爆投下を受けて、それらの被害調査に派遣され、爆心地や炸裂高度特定し、風の地上絵を発見しました。1946年(昭和21)に桜島大噴火の調査を5名の学生を同行して実施、翌年には、脊振山頂で下降気流の観測を実施、現在のみやま市 (瀬高、山川、高田町が合併) の「江の浦」で起こった竜巻を調査しています。
 1949年(昭和24)に明治専門学校が新制で九州工業大学に変わり、その助教授となり、1950年(昭和25)には、論文「Micro-analytical study of thunder-nose」を発表しました。1953年(昭和28)に、東京大学で理学博士号を取得し、シカゴ大学の教授から招聘され、渡米して同大学の気象学客員研究員となります。
 1956年(昭和31)に米国へ家族と共に移住し、シカゴ大学研究教授(上級気象学者)となり、1957年(昭和32)には、ノースダコタ州のファーゴ市で発生した強い竜巻について、渡米後の初調査として行いました。1959年(昭和34)に第3回岡田賞(日本気象学会)を受賞、母校に天文台「愛宕ドーム」を建設、「藤田賞」を設け、1960年(昭和35)には、「Mother cloud of the Fargo tornadoes of 20 June, 1957」の論文で、竜巻の親雲の存在を確認します。
 1962年(昭和37)にシカゴ大学気象学准教授となり、1965年(昭和40)に同大学教授に昇任、九州工業大学の第2回嘉村賞を受賞、1967年(昭和42)には、アメリカ気象学会マイジンガー賞を受賞しました。1968年(昭和43)にアメリカ市民権を取得、1971年(昭和46)には、竜巻の規模を示す藤田スケール (F-Scale) を考案します。
 1975年(昭和50)にジョン・F・ケネディ国際空港で発生した航空機事故の調査を行い、ダウンバーストの研究を本格化させ、1979年(昭和54)には、ドップラー・レーダーによりダウンバーストが予測可能であることを立証しました。1982年(昭和57)にJAWSプロジェクト実施、マイクロバーストを同定し、航空事故防止法を提案、1987年(昭和62)には、アメリカ気象学会応用気象学賞を受賞、1989年(平成元)には、「マイクロ・バーストの発見による航空安全への功績」で、フランス国立航空宇宙アカデミー賞・金メダルを授与されます。
 1990年(平成2)にシカゴ大学を定年となり、日本気象学会藤原賞を受賞、1991年(平成3)にシカゴ大学名誉教授となり、勲二等瑞宝章を受章、1992年(平成4)には、第39回交通文化賞を受賞しました。1996年(平成8)には、自伝自伝『ある気象学者の一生(和文)』を出版しましたが、1998年(平成10)11月19日に、アメリカ・シカゴの自宅において、糖尿病により、78歳で亡くなっています。

〇藤田哲也の主要な著作

・『たつまき・上』(1973年)
・自伝『ある気象学者の一生(和文)』(1996年)

☆藤田哲也関係略年表

・1920年(大正9)10月23日 福岡県企救郡曽根村(現在の北九州市小倉南区)において、生まれる
・1933年(昭和8) 小倉中学校(現在の福岡県立小倉高等学校)へ入学する
・1939年(昭和14) 小倉中学校を卒業し、明治専門学校(現在の九州工業大学)工学部機械工学科へ入学する
・1940年(昭和15) 阿蘇や姶良カルデラなどの立体図を完成する(松本唯一教授の学位論文に掲載)
・1943年(昭和18) 明治専門学校工学部機械科を卒業し、同大学で助手、続いて物理学助教授に就任する
・1945年(昭和20) 広島および長崎への原爆投下を受けて、それらの被害調査に派遣され、爆心地や炸裂高度特定し、風の地上絵を発見する
・1946年(昭和21) 桜島大噴火の調査を5名の学生を同行して実施する
・1947年(昭和22) 脊振山頂で下降気流の観測を実施、現在のみやま市 (瀬高、山川、高田町が合併) の「江の浦」で起こった竜巻を調査する
・1949年(昭和24) 明治専門学校が新制で九州工業大学に変わり、その助教授となる
・1950年(昭和25) 論文「Micro-analytical study of thunder-nose」を発表する
・1953年(昭和28) 東京大学で理学博士号を取得し、同年よりシカゴ大学の教授から招聘され、渡米して同大学の気象学客員研究員となる
・1956年(昭和31) 米国へ家族と共に移住し、シカゴ大学研究教授(上級気象学者)となる
・1957年(昭和32) ノースダコタ州のファーゴ市で発生した強い竜巻について、渡米後の初調査として行う
・1959年(昭和34) 第3回岡田賞(日本気象学会)を受賞、母校に天文台「愛宕ドーム」を建設、「藤田賞」を設ける
・1960年(昭和35)  「Mother cloud of the Fargo tornadoes of 20 June, 1957」の論文で、竜巻の親雲の存在を確認する
・1961年(昭和36) NOAA(米国海洋・大気庁)の援助で、3台の航空機を使って、回転雷雲を捕捉する
・1962年(昭和37) シカゴ大学気象学准教授となる
・1965年(昭和40) シカゴ大学教授に昇任、九州工業大学の第2回嘉村賞を受賞する
・1967年(昭和42) アメリカ気象学会マイジンガー賞を受賞する
・1968年(昭和43) アメリカ市民権を取得する。
・1971年(昭和46) 竜巻の規模を示す藤田スケール (F-Scale) を考案する
・1975年(昭和50) ジョン・F・ケネディ国際空港で発生した航空機事故の調査を行い、ダウンバーストの研究を本格化させる
・1976年(昭和51) ダウンバーストの存在を実証する。大竜巻の中に子竜巻があって、メリーゴーラウンドのようにぐるぐる回る二重構造の「親子竜巻」を論文で発表する
・1978年(昭和53) (1)NIMROD プロジェクト実施、ダウンバーストを同定し、マクロバーストとマイクロバーストに分類する
・1979年(昭和54) ドップラー・レーダーによりダウンバーストが予測可能であることを立証する
・1982年(昭和57) JAWS プロジェクト実施、マイクロバーストを同定、航空事故防止法を提案する
・1983年(昭和58) レーガン大統領の専用機エアフォースワンが着陸した6分後にダウンバーストが発生し、格納庫が破壊された事故が発生。米空軍が対策を講じる過程で、ダウンバースト論の正当性が認められる
・1984年(昭和59) 日本でも航空安全のための「ダウンバースト」対策で招聘、関係者に講演する
・1986年(昭和61) MIST プロジェクトで、「マイクロバースト」と雷雨の大規模な観測を実施する
・1987年(昭和62) アメリカ気象学会応用気象学賞を受賞する
・1989年(平成元) チャールズ・メリヤム特別貢献教授、「マイクロ・バーストの発見による航空安全への功績」で、フランス国立航空宇宙アカデミー賞・金メダルを授与される
・1990年(平成2) シカゴ大学を定年となり、日本気象学会藤原賞を受賞する
・1991年(平成3) シカゴ大学名誉教授とな、勲二等瑞宝章を受章する
・1992年(平成4) 第39回交通文化賞を受賞する 
・1996年(平成8) 自伝自伝『ある気象学者の一生(和文)』を出版する
・1998年(平成10)11月19日 アメリカ・シカゴの自宅において、糖尿病により、78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)京阪電気鉄道株式会社が設立される詳細
1947年(昭和22)「農業協同組合法」が公布される詳細
1956年(昭和31)米原~京都の電化により東海道本線の全線電化が完成する詳細
東京駅~博多駅間の夜行特急あさかぜが運行開始される詳細
1975年(昭和50)MK鋼を発明した冶金学者三島徳七の命日詳細
1993年(平成5)「環境基本法」が公布・施行される詳細
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kogamasaodouzou01
 今日は、明治時代後期の1904年(明治37)に、作曲家古賀政男の生まれた日です。
 古賀政男(こが まさお)は、福岡県三瀦郡田口村三丸(現在の大川市)において、父・喜太郎、母・セツの五男として生まれました。1911年(明治44)に田口尋常小学校に入学しましたが、翌年には、母、姉、弟と供に仁川に住む長兄を頼りに朝鮮へ渡り、仁川公立尋常高等小学校へ転校します。
 1923年(大正12)に上京し、明治大学予科へ入学、直ちにマンドリン倶楽部を創設したものの、翌年夏に旅先の青根温泉付近の山中で剃刀自殺を図りましたが未遂に終わりました。1929年(昭和4)に明治大学商学部を卒業し、明治大学マンドリン倶楽部の第14回定期演奏会で「影を慕いて」(ギター合奏曲)を発表、佐藤千夜子が特別出演しています。
 1931年(昭和6)に日本コロムビアレコードと契約、「酒は涙か溜息か」、「丘を越えて」を発表、1933年(昭和8)には、松平晃が歌唱した「サーカスの唄」がヒットしたものの、体調を崩し伊東で静養しました。1934年(唱和9)にコロムビアレコードからテイチクレコードに移籍しましたが、1938年(昭和13)には、コロムビアレコードに復帰、外務省音楽親善使節として渡米し、一年間にわたりハワイ、南北アメリカを視察旅行します。
 翌年にアメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、全世界に向けて15分間にわたって放送され、視察旅行から帰国しました。その後は、「誰か故郷を想わざる」、「目ン無い千鳥」、「新妻鏡」、「なつかしの歌声」などがヒット曲となります。
 太平洋戦争後は、1948年(昭和23)に、「三百六十五夜」、「湯の町エレジー」を発表し、空前の大ヒットとなりました。1959年(唱和34)に日本作曲家協会を設立して会長となり、日本レコード大賞を制定し、1960年(昭和35)には、島倉千代子唄の「白い小指の歌」で、第2回日本レコード大賞作曲賞を受賞します。
 1964年(唱和39)に日本音楽著作権協会会長となり、1965年(昭和40)に美空ひばり唄の「柔」がミリオンセラーとなり、第7回日本レコード大賞を受賞、翌年の美空ひばり唄の「悲しい酒」もミリオンセラーとなりました。1968年(昭和43)に第10回日本レコード大賞(10周年記念賞)を受賞、1974年(昭和49)には、平和への祈りを込め、広島平和音楽祭の実行委員長を引き受けています。
 1975年(昭和50)に勲三等瑞宝章を受賞、1977年(昭和52)には、第19回日本レコード大賞(審査委員会顕彰)を受賞しました。古賀メロディーと呼ばれる約4,000曲の作品を作りましたが、1978年(昭和53)7月25日に、東京・代々木の自宅において、急性心不全により73歳で亡くなり、従四位に叙せられ銀杯を下賜され、国民栄誉賞を受賞、明治大学より名誉博士号を贈られ、故郷・大川市より名誉市民の称号を受け、日本歌謡大賞(放送音楽特別功労賞)を受賞しています。
 尚、1982年(昭和57)に郷里の福岡県大川市に「古賀政男記念館」、1997年(平成9)には、東京都渋谷区の私邸が「古賀政男音楽博物館」としてオープンしました。

〇古賀政男の主要な作曲歌

・「影を慕いて」(1930年)
・「日本橋から」(1930年)
・「酒は涙か溜息か」(1931年)
・「丘を越えて」(1931年)
・「サーカスの唄」(1933年)
・「緑の地平線」(1935年)
・「二人は若い」(1935年)
・「東京ラプソディ」(1936年)
・「あゝそれなのに」(1936年)
・「青い背広で」(1937年)
・「人生の並木路」(1937年)
・「誰か故郷を想わざる」(1940年)
・「目ン無い千鳥」(1940年)
・「新妻鏡」(1940年)
・「なつかしの歌声」(1940年)
・「悲しき竹笛」(1946年)
・「三百六十五夜」(1948年)
・「湯の町エレジー」(1948年)
・「トンコ節」(1949年)
・「無法松の一生」(1958年)
・「白い小指の歌」(1960年)第2回日本レコード大賞作曲賞受賞
・「東京五輪音頭」(1963年)
・「柔」(1965年)第7回日本レコード大賞受賞
・「悲しい酒」(1966年)

☆古賀政男関係略年表

・1904年(明治37)11月18日 福岡県三瀦郡田口村三丸(現在の大川市)において、父・喜太郎、母・セツの五男として生まれる
・1911年(明治44) 田口尋常小学校に入学する
・1912年(大正元) 母、姉、弟と供に仁川に住む長兄を頼りに朝鮮へ渡り、仁川公立尋常高等小学校へ転校する
・1923年(大正12) 上京し、明治大学予科へ入学、直ちにマンドリン倶楽部を創設する
・1928年(昭和3) 夏に旅先の青根温泉付近の山中で剃刀自殺を図るが、同行していた友人の発見により未遂に終わる
・1929年(昭和4) 明治大学商学部を卒業し、明治大学マンドリン倶楽部の第14回定期演奏会で「影を慕いて」(ギター合奏曲)を発表、佐藤千夜子が特別出演する
・1931年(昭和6) 日本コロムビアレコードと契約、「酒は涙か溜息か」、「丘を越えて」を発表する
・1933年(昭和8) 松平晃が歌唱した「サーカスの唄」がヒットするが、体調を崩し伊東で静養する
・1934年(唱和9) コロムビアレコードからテイチクレコードに移籍する
・1938年(昭和13) コロムビアレコードに復帰、外務省音楽親善使節として渡米し、一年間にわたりハワイ、南北アメリカを視察旅行する
・1939年(昭和14) アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、全世界に向けて15分間にわたって放送され、視察旅行から帰国する
・1948年(昭和23) 「三百六十五夜」、「湯の町エレジー」を発表、空前の大ヒットとなる
・1959年(唱和34) 日本作曲家協会を設立して会長となり、日本レコード大賞を制定する
・1960年(昭和35) 島倉千代子唄の「白い小指の歌」で、第2回日本レコード大賞作曲賞を受賞する
・1964年(唱和39) 日本音楽著作権協会会長となる
・1965年(昭和40) 美空ひばり唄の「柔」がミリオンセラーとなり、第7回日本レコード大賞を受賞する
・1966年(昭和41) 美空ひばり唄の「悲しい酒」がミリオンセラーとなる
・1968年(昭和43) 第10回日本レコード大賞(10周年記念賞)を受賞する
・1974年(昭和49) 平和への祈りを込め、広島平和音楽祭の実行委員長を引き受ける
・1975年(昭和50) 勲三等瑞宝章を受賞する
・1977年(昭和52) 第19回日本レコード大賞(審査委員会顕彰)を受賞する
・1978年(昭和53)7月25日 東京・代々木の自宅において、急性心不全により73歳で亡くなり、従四位に叙せられ銀杯を下賜され、国民栄誉賞を受賞、明治大学より名誉博士号を贈られ、故郷・大川市より名誉市民の称号を受け、日本歌謡大賞(放送音楽特別功労賞)を受賞する
・1982年(昭和57) 郷里の福岡県大川市に「古賀政男記念館」が開館する
・1997年(平成9) 東京都渋谷区の私邸が「古賀政男音楽博物館」としてオープンする

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1840年(天保11)第119代の天皇とされる光格天皇の命日(新暦12月11日)詳細
1901年(明治34)官営八幡製鉄所が操業を開始する詳細
1937年(昭和12)「大本営令」(昭和12年軍令第1号)が公布・施行される詳細
1943年(昭和18)小説家徳田秋声の命日詳細
1966年(昭和41)陶芸家・随筆家河井寛次郎の命日詳細
2001年(平成13)JR東日本の東京近郊区間で、ICカード式自動出改札システム「Suica」の使用が開始される詳細
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