ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 社会

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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、鹿児島県名瀬市(現在の奄美市)で名瀬大火があり、市全体の約1/3にあたる1,365棟が焼失した日です。
 名瀬大火(なぜたいか)は、昭和時代中期の1955年(昭和30)12月3日午前4時50分頃に、鹿児島県名瀬市において起きた大火でした。名瀬市中心街にある歓楽街・屋仁川通の飲食店青柳から、タバコの火の不始末で出火し、季節風の強い北東風が吹くという悪条件の下で、火は瞬く間に燃え広がります。
 当時の名瀬市は1945年(昭和20)4月の大空襲によって市街地の90%を失った後、アメリカ軍に占領されて8年間も施政権を奪われ、2年前に返還されたばかりでした。その中で、何ら建築制限も決められない中で、中心街は狭い3mの道路を挟んで、焦土の跡に雨露をしのぐ程度に建てられた急造の木造バラック(粗末な建築物)が密集する状況となります。
 水利も悪く、市営水道には配水池がないので消火栓はあっても名ばかりで、その上晴天が続いたので川が渇れており、埋め立て工事中だったため海からの取水も満足にできる状態ではありませんでした。さらに、消防車不足で、大型消防車2台は故障、1台ある三輪ポンプ車は使用20分で故障、名瀬海上保安部など行政機関、療養所からの応援隊も含めたわずか8台の小型手挽きポンプ車で対抗せざるを得ない状況となります。
 このため消火に手間取って、火が燃え広がり、市全体の約1/3にあたる1,365棟の建物が焼失しました。これによって、死傷者は出なかったものの、罹災世帯1,462世帯、罹災人員5,851名にも及び、被害総額約16億円という大きな災害となります。
 尚、1ヶ月半前の10月18日にも名瀬市中央通で火災があり、118棟を焼失したばかりでした。

〇太平洋戦争後の日本の大火一覧(500棟以上の焼失で、地震によるものを除く)

・1947年(昭和22)4月20日 - 飯田大火(長野県飯田市)
  死者・行方不明者3名、焼失棟数3,742棟、焼損面積約48ha、罹災戸数4,010戸、罹災人員17,778名
・1949年(昭和24)2月20日 - 第一次能代大火(秋田県能代市)
  死者3名、負傷者132名、焼失家屋2,237棟、焼失面積83.6ha、罹災世帯1,755世帯、罹災人員8,790名
・1952年(昭和27)4月17日 - 鳥取大火(鳥取県鳥取市)
  死者3名、罹災家屋5,228戸、罹災面積約160ha、罹災者2万451人
・1954年(昭和29)9月26日 - 岩内大火(北海道岩内郡岩内町)
  死者35名、負傷者551名、行方不明3名、焼失戸数3,298戸、焼失面積約106ha、罹災者16,622名
・1955年(昭和30)10月1日 - 新潟大火(新潟県新潟市)
  行方不明者1名、負傷者175名、焼失棟数892棟、焼失面積約26ha、罹災世帯1,193世帯、罹災人員5,901名
・1955年(昭和30)12月3日 - 名瀬大火(鹿児島県名瀬市)
  死傷者なし、焼失家屋1,317棟、罹災世帯1,462世帯、罹災人員5,851名、被害総額約16億円 
・1956年(昭和31)3月20日 - 第二次能代大火(秋田県能代市)
  死者なし、負傷者194名、焼失家屋1,475棟、焼失面積約31.5ha、罹災世帯1,248世帯、罹災人員6,087名
・1956年(昭和31)9月10日 - 魚津大火(富山県魚津市)
  死者5名、負傷者170名(うち重傷者5名)、焼失戸数1,583戸、罹災者7,219名
・1965年(昭和40)1月11日 - 伊豆大島大火(東京都大島町)
  死者なし、全焼戸数584棟418戸、焼失面積約16.5ha、罹災世帯408世帯1,273名、被害総額20億7千万円
・1976年(昭和51)10月29日 - 酒田大火(山形県酒田市)
  死者1名、焼失棟数1,774棟、焼失面積約22.5ha、被災者約3,300名、被害総額約405億円

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

671年(天智天皇10)第38代の天皇とされる天智天皇の命日(新暦672年1月7日)詳細
1859年(安政6)労働運動家・社会主義者・思想家・社会事業家片山潜の誕生日(新暦12月26日)詳細
1879年(明治12)小説家・随筆家永井荷風の誕生日詳細
1926年(大正15)最初の「円本」となる『現代日本文学全集』が、改造社から1冊1円で刊行開始詳細
1942年(昭和17)東京府立美術館で「第一回大東亜戦争美術展」が始まる(~12月25日まで)詳細
1997年(平成9)カナダの首都オタワにおいて、121ヶ国により、「対人地雷禁止条約」が調印される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、適性語に関わって、大蔵省専売局がタバコの名称の日本名への改名(ゴールデンバット⇒金鵄、チェリー⇒桜、カメリア⇒椿)を発表した日です。
 敵性語(てきせいご)は、敵国の言葉のことですが、日中戦争~太平洋戦争中の日本では、英語が敵性語とみなされました。英語は、「軽佻浮薄」(気分が浮ついていて、行動が軽々しいという意味)であるとして、排斥が進みます。
 特に法的に規制された事実はありませんが、1940年(昭和15)3月28日に内務省が16人の芸人に芸名の改名を命令したり、9月頃から鉄道省によって駅構内の英語表記が撤廃され始めたり、10月31日に大蔵省専売局がタバコの改名を発表するなどして、英語名を使わない風潮が醸成されていきました。1941年(昭和16)12月の太平洋戦争突入後はその運動はより顕著なものとなり、「マスゴミ」や「大政翼賛会」などにより、自主的な規制運動も進みます。
 1943年(昭和18)2月には、英語の雑誌名が禁止されて改名されたり、同年に大日本体育会により英名スポーツの名称を和名に改称、3月2日に職業野球の理事会で英米語をやめ、野球用語も全面日本語化することを決定して拍車がかかりました。しかし、太平洋戦争後は、英語名が復活したものも多数あります。

〇戦時下の敵性語一覧(日中戦争~太平洋戦争)

<地名>
・日本アルプス⇒中部山岳(ちゅうぶさんがく)
・パールハーバー⇒真珠湾(しんじゅわん)
・シンガポール⇒昭南島(しょうなんとう)

<芸名(1940年3月28日に内務省が16人に芸名の改名を命令)>
・ディック・ミネ (歌手)⇒三根 耕一
・ミス・コロンビア (歌手)⇒松原操
・リーガル千太・万吉 (漫才師)⇒柳家千太・万吉
・秋スケ (漫才師)⇒徳山英助・美助
・ミスワカナ (漫才師)⇒玉松ワカナ
・あきれたぼういず⇒新興快速舞隊
・朝吹英一とカルア (ハワイアン)⇒南海楽友
・ビクター合唱団⇒勝鬨
・コロンビア合唱団⇒日畜合唱団
・シンフォニック・コーラス⇒交響合唱団
・モアナ・グリークラブ (ハワイアン)⇒灰田兄弟と岡の楽団

<音楽関係(1940年6月に文部省が絶対音感教育採用ドレミ階名唱法をハニホ音名唱法に改正、翌年4月実施)>
・クラリネット⇒堅笛(たてぶえ)
・サクソフォーン⇒金属性先曲がり音響出し機(きんぞくせいさきまがりおんきょうだしき)
・トロンボーン⇒抜き差し曲がり金真鍮喇叭(ぬきさしまがりがねしんちゅうらっぱ)
・ヴァイオリン⇒提琴(ていきん)
・コントラバス⇒妖怪的四弦(ようかいてきよんげん)、大提琴(だいていきん)
・ピアノ⇒洋琴(ようきん)、鋼琴(こうきん)
・ビオラ⇒中提琴(ちゅうていきん)
・オルガン⇒風琴(ふうきん)
・アコーディオン⇒手風琴(てふうきん)
・フルート⇒洋笛(ようぶえ)
・トランペット⇒喇叭(らっぱ)
・ホルン⇒角笛(つのぶえ)
・ティンパニ⇒半円鍋型ぎゅう縛り高低自在太鼓(はんえんなべがたぎゅうしばりこうていじざいだいこ)
・トライアングル⇒三角鉄(さんかくてつ)
・タンバリン⇒鈴鼓
・ギター⇒六絃琴 (ろくげんきん)
・エレクトーン⇒電子琴(でんしごと)
・ハープ⇒竪琴(たてごと)
・ハーモニカ⇒口風琴(くちふうきん)
・オカリナ⇒鳩琴(きゅうきん)
・チャイム⇒鐘琴(しょうきん)
・オルゴール⇒自鳴琴(じめいきん)
・ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド⇒ハ・ニ・ホ・ヘ・ト・イ・ロ・ハ

<放送関係>
・アナウンサー⇒放送員(ほうそういん)
・マイクロホン⇒送話器(そうわき)
・アンテナ⇒空中線
・レコード⇒音盤(おんばん)
・ニュース⇒報道(ほうどう)
・臨時ニュース⇒臨時報道(りんじほうどう)

<飲食物関係>
・サイダー⇒噴出水(ふんしゅっすい)
・ビール⇒麦酒(ばくしゅ)
・フライ⇒洋天(ようてん)
・キャラメル⇒軍粮精(ぐんろうせい)
・コロッケ⇒油揚げ肉饅頭(あぶらあげにくまんじゅう)
・カレーライス⇒辛味入汁掛飯(からみいりしるかけめし)
・パン⇒麪包(めんぽう)

<タバコ関係(1940年10月31日にタバコの改名が発表される)
・ゴールデンバット⇒金鵄(きんし)
・チェリー⇒桜(さくら)
・カメリア⇒椿(つばき)

<野球関係(1943年3月2日に職業野球の理事会で英米語をやめ、野球用語も全面日本語化することを決定)>
・ベースボール⇒野球(やきゅう)
・ヒット⇒よし
・ホ-ムイン⇒生還(せいかん)
・ストライク⇒よし1本、正球
・ストライク ツー⇒よし2本
・ストライク スリー、ユー アー アウト⇒よし3本、それまで
・ボール⇒(だめ)1つ、悪球
・ファウル⇒だめ、圏外、もとえ
・アウト⇒ひけ、無為
・セーフ⇒よし、安全
・バッテリー⇒対打機関
・タイム⇒停止(ていし)
・バント⇒軽打(けいだ)
・スクイズ⇒疑投打生還
・スチールスクイズ⇒盗塁・奪走塁
・ボーク⇒疑投
・ホームラン⇒本塁打(ほんるいだ)
・ファウルグラウンド⇒圏外区域(けんがいくいき)
・フェアグラウンド⇒正打区域
・ホームチーム⇒迎戦組(げいせんぐみ)
・ビジターチーム⇒往戦組(おうせんぐみ)
・リーグ戦⇒連盟戦(れんめいせん)
・コーチ⇒助令(じょれい)
・マネージャー⇒秘書(ひしょ)  

<ゴルフ関係>
・ゴルフ⇒打球(だきゅう)、芝球(しきゅう) 
・ホ-ルインワン⇒鳳(おおとり)
・パー⇒基準数(きじゅんすう)
・キャディ⇒球童(きゅうどう)
・ブービー賞⇒幸運賞(こううんしょう)
・バンカー⇒砂窪
・バーディ⇒隼
・パター⇒短杖
・OB⇒免れ球
・ハンディキャップ⇒均率
・マッチプレー⇒区数競技
・エチケット⇒打球作法(だきゅうさほう)
・グリーン⇒球孔区域
・コース⇒打球場(だきゅうじょう)
・フェアウェイ⇒芝地(しばち)
・ティグラウンド⇒打出区域
・ラフ⇒野地
・ウッド⇒木
・アイアン⇒金
・アドレス⇒照準(しょうじゅん)

<その他スポーツ関係(1943年に大日本体育会は英名スポーツの名称を和風に改称した)>
・スポーツ⇒運動競技(うんどうきょうぎ)
・ラグビー⇒闘球(とうきゅう)
・バレーボール⇒排球(はいきゅう)
・ハンドボール⇒送球(そうきゅう)
・バスケットボール⇒籠球(ろうきゅう)
・バトミントン⇒羽球(うきゅう)
・テニス⇒庭球(ていきゅう)
・ピンポン⇒卓球(たっきゅう)
・アメリカンフットボール⇒鎧球(がいきゅう)
・サッカー⇒蹴球(しゅうきゅう)
・ホッケー⇒杖球(じょうきゅう)
・アイスホッケー ⇒氷球(ひょうきゅう)
・ウォーターポロ⇒水球(すいきゅう)
・ドッジボール⇒避球(ひきゅう)
・スキー⇒雪滑(ゆきすべり)
・スケート⇒氷滑(こおりすべり)
・レスリング⇒重技(じゅうぎ)
・ボクシング⇒拳闘(けんとう)
・クロール⇒速泳(そくえい)
・ビリヤード⇒撞球(どうきゅう)
・ボウリング⇒投球(とうきゅう)、十柱戯(じゅっちゅうぎ)
・テント⇒天幕(てんまく)
・キャンプ⇒露営(ろえい)

<鉄道関係>
・プラットホーム⇒乗車廊(じょうしゃろう)
・オーライ⇒発車(はっしゃ)
・ストップ⇒停車(ていしゃ)
・ゴンドラ⇒搬器(はんき)
・ロープウェイ⇒策道(さくどう)
・ケーブルカー⇒鋼索鉄道(こうさくてつどう)

<自動車関係>
・ロータリー⇒円交路
・バック⇒背背(はいはい)
・バス⇒乗合自動車(のりあいじどうしゃ)
・トラック⇒自動貨車(じどうかもつ)
・ハンドル⇒走行転把(そうこうてんば)
・アクセル⇒噴射践板(ふんしゃせんばん)
・アクセルペダル⇒加速践板(かそくせんばん)
・エンジン⇒発動機(はつどうき)
・チェンジレバー⇒変速槓棹(へんそくこうかん)
・クラッチ⇒剪断器(せんだんき)、連軸器(れんじくき)
・シリンダー⇒気筒(きとう)
・ピストン⇒吸鍔(すいつば・きゅうがく)
・ガソリン⇒揮発油(きはつゆ)
・オイル⇒潤滑油(じゅんかつゆ)
・キャブレター⇒気化器(きかき)
・ヘッドライト⇒前照灯(ぜんしようとう)
・キャタピラ⇒無限軌道(むげんきどう)
・スプリング⇒発条(はつじょう)
・ワイパー⇒前面硝子掃除機(ぜんめんがらすそうじき)
・コンデンサ⇒蓄電器(ちくでんき)
・バッテリー⇒蓄電池(ちくでんち)

<植物関係>
・カスタービン⇒支那油桐(しなあぶらぎり)
・コスモス⇒秋桜(あきざくら)
・シクラメン⇒篝火草(かがりびそう)
・チューリップ⇒鬱金香(うこんこう)
・ヒヤシンス⇒風信子(ひやしんす / ふうしんす)
・プラタナス⇒鈴懸樹(すずかけのき)
・カーネーション⇒和蘭石竹(おらんだせきちく)
・サルビア⇒緋衣草(ひごろもそう)
・ダリア⇒天竺牡丹(てんじくぼたん)
・デイジー⇒雛菊(ひなぎく)

<動物関係>
・カンガルー⇒袋鼠(ふくろねずみ)
・ライオン⇒獅子(しし)

<衣料品関係>
・ズボン⇒袴(こ)
・トランクス⇒猿股(さるまた)

<雑誌関係(1943年2月英語の雑誌名が禁止される)>
・『キング』⇒『富士』(ふじ)
・『サンデー毎日』⇒『週刊毎日』(しゅうかん まいにち)
・『エコノミスト』⇒『経済毎日』(けいざい まいにち)
・『ユーモアクラブ』⇒『明朗』(めいろう)
・『経済マガジン』⇒『経済ニツポン』(けいざい にっぽん)
・『オール讀物』⇒『文藝讀物』(ぶんげい よみもの)
・『キンダーブック』⇒『ミクニノコドモ』

<鉛筆関係(1943年頃からトンボ鉛筆は、鉛筆の濃さの表記を以下のように変えると告知した)>
・2B⇒二軟
・B⇒一軟
・HB⇒中庸
・H⇒一硬
・2H⇒二硬

<日用品関係>
・ハンカチ⇒手巾(てきん)
・スリッパ⇒上靴(じょうか)
・ライター⇒点火器(てんかき)
・マッチ⇒燐寸(りんすん)
・ファスナー⇒チャック
・ハンドバッグ⇒皆入袋
・フォーク⇒肉刺(にくさし)
・スコップ⇒円匙(えんぴ)
・ドライバー⇒柄付き螺回し(えつきらまわし)
・テーブル⇒卓子(たくし)
・スクラップブック⇒オサイク
・コンパス⇒文回し(ぶんまわし)

<軍事関係>
・レーダー⇒電波探信儀(でんぱたんしんぎ)
・酸素マスク⇒与圧面(よあつめん)
・ミサイル⇒噴進弾(ふんしんだん)
・サーチライト⇒探照灯(たんしょうとう)
・ソナー⇒音波探知機(おんぱたんちき)

<その他>
・パーマ⇒電髪(でんぱつ)
・キス⇒接吻(せっぷん)、口づけ
・スイッチ⇒開閉器(かいへいき)
・ステンレス⇒不錆(せい)鋼・耐錆鋼・不銹(しゅう)鋼
・デート⇒逢い引き(あいびき)
・ブラウン管⇒陰極線管(いんきょくせんかん)
・アクリルガラス⇒有機硝子(ゆうきがらす)
・チェーンストア⇒連鎖店(れんさてん)
・ホステス⇒女給(じょきゅう)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1884年(明治17)秩父事件が起きる詳細
1903年(明治36)土佐藩士・自由民権家・政治家片岡健吉の命日詳細
1934年(昭和9)小説家・児童文学作家灰谷健次郎の誕生日詳細
1943年(昭和18)「軍需会社法」が公布される詳細
1964年(昭和39)関門連絡船の最後の便が就航し、この日限りで廃止される詳細
1967年(昭和42)医学者佐々木隆興の命日詳細
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tanakashyouzouhi01
 今日は、明治時代後期の1901年(明治34)に、田中正造が足尾鉱毒事件で衆議院議員を辞職した日です。
 足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)は、明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1885年(明治18)には渡良瀬川における魚類の大量死が始まりました。
 1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
 1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
 1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
 以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残っています。

〇足尾銅山(あしおどうざん)とは?

 この銅山は、室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。
 その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大しました。
 1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。
 禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件を引き起こしました。1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。
 1973年(昭和48)に閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。また、2007年(平成19)11月30日には、経済産業省から「近代化産業遺産」にも認定されました。尚、現在は足尾銅山観光などの観光地となっています。

〇田中 正造(たなか しょうぞう)とは?

 明治時代に活躍した政治家で、1841年(天保12)に、小中村(現在の栃木県佐野市)名主の家に生まれました。 その後、父の跡を継いで小中村名主となりましたが、領主に村民と共に政治的要求を突き付けたことが元になって、投獄されています。
 1870年(明治3)、江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市)の官吏となったものの、翌年、上司殺害の容疑者として逮捕、投獄されました。冤罪に終わりましたが、その後小中村に戻り、再び政治に関わるようになります。
 1880年(明治13)に、栃木県議会議員になり、1890年(明治23)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選(以後6回当選)しました。この年に渡良瀬川で大洪水があり、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。
 そして、この足尾銅山鉱毒事件に深くかかわっていくことになりました。1901年(明治34)には、明治天皇に足尾銅山鉱毒事件について直訴を行なおうとしています。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立てたのです。紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになり、この村の将来に危機を感じた田中正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住みました。
 そして、村民と共に反対運動に取り組みましたが、1907年(明治40)、政府は土地収用法の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなったのです。その後も、田中正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)9月4日に71歳で没しました。
 尚、「佐野市郷土博物館」には、田中正造展示室があり、関係資料約1万点を収蔵しています。

☆足尾鉱毒事件関係略年表

・1877年(明治10) 古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手、足尾銅山製錬所が操業する
・1885年(明治18) 渡良瀬川における魚類の大量死が始まる
・1890年(明治23) 渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなる
・1891年(明治24) 田中正造が第2回帝国議会で鉱業停止を要求する
・1895年(明治28) 鉱毒被害民と古河市兵衛との間に永久示談契約が進展する
・1896年(明治29) 田中正造が第9帝国議会において永久示談の不当性を追及、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所を設ける
・1897年(明治30) 鉱毒被害民が第1回大挙押出しを行う
・1900年(明治33) 鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕され、2日後と4日後、田中正造は国会で事件に関する質問を行なう
・1901年(明治34) 田中正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みる
・1902年(明治35) 時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て
・1903年(明治36) 政府は鉱毒調査委員会の調査報告書を発表、谷中村瀦水池案が浮上する
・1904年(明治37) 田中正造は、実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組む
・1906年(明治39) 谷中村村長職務管掌鈴木豊三が、村会決議を無視して同村を藤岡村に合併する
・1907年(明治40) 政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかける
・1911年(明治44) 谷中村民16戸137人が北海道サロマベツ原野に移住する
・1913年(大正2) 田中正造は71歳で没し、運動は途切れることになる
・1973年(昭和48) 足尾銅山が閉山する
・2011年(平成23) 発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)「蓄銭叙位令」が出される (新暦12月7日)詳細
765年(天平神護元)第47代天皇とされる淳仁天皇が、配流先の淡路島で亡くなる(新暦11月10日)詳細
1669年(寛文9)日高アイヌの総酋長シャクシャインの命日 (新暦11月16日)詳細
1871年(明治4)詩人・英文学者土井晩翠の誕生日(新暦12月5日)詳細
1873年(明治6)明治六年政変が起き、西郷隆盛が参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途に就く詳細
2004年(平成16)新潟県中越地震(マグニチュード6.8)が起こり、死者68人、重軽傷者4,805人が出る詳細
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 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、明治新政府が「芸娼妓解放令」を発布し、遊女の人身売買を禁止し、芸娼妓などの年季奉公人を解放した日ですが、新暦では11月2日となります。
 「芸娼妓解放令」(げいしょうぎかいほうれい)は、明治新政府による芸妓・娼妓・奉公人の人身売買の禁止、年季奉公の制限と前借金の無効宣言をした「明治5年太政官布告第295号」の通称で、正式名称は、「人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件」と言いました。続いて、同年10月9日(11月9日)に出された「前借金無効の司法省達」(明治5年司法省達第22号)により、「娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス」として、過去の借金を返すよう求めることはできないと定めていたため「牛馬切りほどき令」とも言われます。
 同年7月のマリア・ルーズ号事件に際し、ペルー側が日本の娼妓制度を人身売買と弁じたことにより、急遽この布告を発布して表面をとりつくろおうとしたものでした。同令は、女性の基本的人権への認識や解放後の更生対策を伴わなかったため、翌年の「東京府令第145号」をはじめとする貸座敷(娼妓の営業に妓楼の座敷を貸した)制度の発足で有名無実化し、公娼制度の実態は変わっていません。
 しかしこの後、婦人矯風会や救世軍などの団体が廃娼をとなえる「廃娼運動」の一つのきっかけを与えることになりました。この太政官布告は、1898年(明治31)の「民法施行法」第9条により廃止され、1900年(明治33)10月2日に、「娼妓取締規則」が公布されています。
 以下に、「芸娼妓解放令」(明治5年太政官布告第295号)と「前借金無効の司法省達」(明治5年司法省達第22号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「芸娼妓解放令」(明治5年10月2日太政官布告第295号)

人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件

一、人身ヲ売買シ終身又ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意ニ任セ虐使致シ候ハ人倫ニ背キ有マシキ事ニ付古来制禁ノ処従来年期奉公等種種ノ名目ヲ以テ奉公住為致其実売買同様ノ所業ニ至リ以ノ外ノ事ニ付自今可為厳禁事
一、農商工ノ諸業練習ノ為弟子奉公為致候儀ハ勝手ニ候得共年限満七箇年ニ不可過事。但雙方和談ヲ以テ更ニ期ヲ延ルハ勝手タルヘキ事
一、平常ノ奉公人ハ一箇年宛タルヘシ、尤奉公人取次候者ハ証文可相改事
一、娼妓芸妓等年期奉公人一切解放可致右ニ付テノ貸借訴訟総テ不取上候事
右之通被定候条屹度可相守事。

〇「前借金無効の司法省達」(明治5年10月9日司法省達第22号)

本月二日大政官第二百九拾五号ニ而被仰出候次第ニ付左之件々可得心事

一、人身ヲ売買スルハ古来制禁ノ処年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ其実売買同様ノ所業ニ至ルニ付娼妓芸妓等雇入ノ資本金ハ贓金ト看做ス故ニ右ヨリ苦情ヲ唱フル者ハ取糺ノ上其金額ヲ可取揚事
一、同上ノ娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ故ニ従来同上ノ娼妓芸妓ヘ貸ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事。但シ本月二日以来ノ分ハ此限ニ非ス
一、人ノ子女ヲ金銭上ヨリ養女ノ名目ニ為シ娼妓芸妓ノ所業ヲ為サシムル者ハ其実際上則チ人身売買ニ付従前今後可及厳重ノ所置事

   「法令全書」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1554年(天文23)禅僧・連歌師・俳人山崎宗鑑の命日(新暦10月28日)詳細
1855年(安政2)安政江戸地震が起き、江戸を中心に甚大な被害が出る(新暦11月11日)詳細
1900年(明治33)「娼妓取締規則」(明治33年内務省令第44号)が公布される詳細
1932年(昭和7)国際連盟現地調査団が満州事変や満州国について「リットン報告書」を発表する詳細
1943年(昭和18)勅令「在学徴集延期臨時特例」公布で、理工科系以外の学生の徴兵猶予を撤廃する詳細
1985年(昭和60)関越トンネルの開通により、関越自動車道(練馬~長岡)がつながる詳細
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、満蒙開拓団の中で、瑞穂村開拓団集団自決が起き、495人が亡くなった日です。
 瑞穂村開拓団集団自決(みずほむらかいたくだんしゅうだんじけつ)は、満州国北安省(現在の中華人民共和国黒龍江省)において、満蒙開拓団の一つである、瑞穂村開拓団において発生した、集団自決事件でした。1931年(昭和6)の満州事変を契機として、翌年には、中国東北部に日本の傀儡国家「満州国」が建国され、「王道楽土」、「五族協和」のスローガンの下で、国策により満蒙開拓団が送り出されます。
 1934年(昭和9)の第3次試験移民としていまの黒龍江省、ソ連国境に近い草原地帯に入植したのが、瑞穂村開拓団で、日本全国22県からの出身者で構成され、当時の総員は1,056人でした。1945年(昭和20)8月9日に、ソ連が対日参戦し、8月15日に日本は敗戦を迎えましたが、関東軍は開拓団を守ることが任務の一つであったにもかかわらず、ごく一部を除き、残された民間人を見捨てて逃亡し、満蒙開拓団の多くは、満蒙の地に捨て置かれた、「棄民」となります。
 ソ連軍が迫り、原住民の襲撃もある中で、9月17に切羽詰まった瑞穂村開拓団1,056人の内、495人が一斉に青酸カリで集団自決したもので、ほとんどが女子、子供でした。生き残った人も辛酸をなめ、1946年(昭和21)5月に、ハルピンで生存が確認されたのはわずか71人だったとされます。
 尚、東京都多摩市にある拓魂公苑に、「瑞穂村開拓団殉難者之碑」が建立されました。

〇満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)とは?

 昭和時代前期の1931年(昭和6)の満州事変以後、1945年(昭和20)の太平洋戦争敗戦まで、「満州国」(中国東北部)や内モンゴル地区に、国策として送り込まれた農業移民団のことで、集団で開拓にあたります。関東軍司令部付東宮鉄男、同軍参謀石原莞爾、農業教育家加藤完治、農林次官石黒忠篤らの積極的な建議で、まず1932年(昭和7)から第一次として関東軍と拓務省の主導による試験移民が4年間にわたって入植しました。
 それを踏まえて、1936年(昭和11)5月11日には、日本陸軍の関東軍司令部によって「満州農業移民百万戸移住計画」が策定されます。同年8月11日に、拓務省が「二十カ年百万戸送出計画」を作成し、廣田内閣による国策の一つとして、生産の担い手として20年間で計100万戸の農家を送る計画が決定しました。
 この計画の眼目は、①日満両国の関係強化、②対ソ作戦上の後備勢力として、③満州国の産業を開発するため、④日本文化による満州国の文化向上を具体的に助けるものとして、⑤過剰人口の解決策の5点です。集団移民に対しては一戸あたり1,000円、農業自由移民に対しては500円、その他の自由移民に対しては概ね200円の政府補助金が与えられることになりました。
 そして、満蒙開拓移民は武装し組織的な軍事訓練を受け、治安維持や国境警備をも受け持たされたとされます。1939年(昭和14)12月22日は、「満洲開拓政策基本要綱」を阿部内閣が閣議決定・発表し、また満州国政府も,同要綱を商議決定の上発表します。これによって基本方針は、「満洲開拓政策ハ日満両国ノ一体的重要国策トシテ東亜新秩序建設ノ為ノ道義的新大陸政策ノ拠点ヲ培養確立スルヲ目途トシ特ニ日本内地人開拓農民ヲ中核トシテ各種開拓民並ニ原住民等ノ調和ヲ図リ日満不可分関係ノ強化、民族協和ノ達成、国防力ノ増強及産業ノ振興ヲ期シ兼テ農村ノ更生発展ニ資スルヲ以テ目的トス」とされました。
 そして、基本要領は、この根本方針を実現するための実施事項として、①開拓用地は原則として未利用地開発主義をとり、国営とすること、②開拓民は原住民を包容融合するようにすること、③満蒙開拓青少年義勇軍を結成すること、など26項目を指示し、さらに推進されていったのです。太平洋戦争敗戦までに、日本各地から約27万人が海を渡ったとされますが、ソ連軍侵攻後、関東軍は撤退して置き去りにされ、逃避行は悲惨を極め、約8万人の死者を出し、子供たちが取り残された中国残留孤児の悲劇も起きました。
 尚、満蒙開拓に送り込まれた27万人のうち、長野県出身者が約3万4千名で最も多く、全体の12.5%を占め、第2位の山形県の2.4倍でした。長野県内でも南部地域の比重が高く、長野県下伊那郡阿智村には、2013年(平成25)に「満蒙開拓平和記念館」が作られ、歴史・資料の記録・保存・展示・研究が行われています。

☆満蒙開拓関係略年表

<1931年(昭和6)>
・9月18日 中華民国奉天郊外の柳条湖事件を契機に、満州事変が起こる

<1932年(昭和7)>
・3月1日 満洲国が建国される
・9月15日 「日満議定書」が締結される
・10月3日 拓務省第一次農業移民416人が、満蒙開拓団第一陣として満洲へ出発する

<1933年(昭和8)>
・5月31日 河北省塘沽において日本軍と中国軍との間の塘沽停戦協定により、満州事変の軍事的衝突は停止される

<1936年(昭和11)>
・5月11日 日本陸軍の関東軍司令部によって「満州農業移民百万戸移住計画」が策定される
・8月11日 拓務省が「二十カ年百万戸送出計画」を作成する
・8月25日 「国策ニ関スル閣議決定」によって、廣田内閣による七大国策の一つ「対満重要策ノ確立」として決定される

<1937年(昭和12)>
・7月7日 盧溝橋事件が起き、日中全面戦争へ突入する
・11月30日 「満州に対する青少年移民送出に関する件」が閣議決定され、「満州青年移民実施要項」が作られる

<1938年(昭和13)>
・1月 満州青年移民の募集が開始される

<1939年(昭和14)>
・5月11日 満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐってノモンハン事件が起きる
・6月7日 満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会・大行進が明治神宮外苑競技場で開催される
・12月22日 「満洲開拓政策基本要綱」を阿部内閣が閣議決定し、発表する

<1941年(昭和16)>
・4月13日 日ソ間の領土領域の不可侵を約した「日ソ中立条約」が締結される
・12月8日 米英両国に宣戦布告し、太平洋戦争が始まる
・12月31日 「満洲開拓第2期5箇年計画要綱」を東条内閣が閣議決定する

<1943年(昭和18)>
・11月22日 「満洲国緊急農地造成計画ニ対スル協力援助ニ関スル件」を東条内閣が閣議決定する

<1945年(昭和20)>
・8月8日 「日ソ中立条約」を破棄したソ連軍が満州に攻め込む
・8月15日 正午に戦争終結の詔書が放送(玉音放送)され、日本が太平洋戦争に敗れる
・8月18日 満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡する
・9月17日 瑞穂村開拓団集団自決によって、495人が亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1062年(康平4)源頼義が安倍貞任を厨川の柵で破り、前九年の役が終結する(新暦10月22日)詳細
1867年(慶応3)俳人・歌人正岡子規の誕生日(新暦10月14日)詳細
1868年(明治元)日本初の洋式燈台である観音崎灯台が起工する(新暦11月1日)詳細
1938年(昭和13)俳人村上鬼城の命日(鬼城忌)詳細
1945年(昭和20)枕崎台風が枕崎に上陸、日本を縦断し、死者・行方不明者3,758人が出る詳細
1964年(昭和39)日本初の旅客用モノレールとなる東京モノレール(羽田空港~浜松町)が開業する詳細
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