ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 社会

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 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、大正8年米沢大火で、死者1名、焼失1,071戸(棟数にして1,385棟)を出しだ日です。
 大正8年米沢大火(たてしょうはちねんよねざわたいか)は、この日の午前11時頃、米沢市舘山口町から出火した大火でした。折からの西北の烈風(風速15m/s)に煽られて、市街中央部に延焼し、舘山口町の他に、東町、門東町、大町、柳町、美波町、紺屋町など30余の町を焼いて、ようやく4時間後の午後3時頃に鎮火します。
 この結果、死者1名、焼失1,071戸(棟数にして1,385棟)を出し、損害金額約400万円の大きな被害となりました。この時の主な焼失建物は、米沢市役所・市会議事堂・南置賜郡役所・山形煙草専売支局米沢出張所・南部小学校・市立商業学校・県立工業学校寄宿舎・上杉神社・上杉伯爵邸・米沢絹織物同業組合事務所及び陳列館・両羽電気米沢支局・米沢日報社等となります。
 尚、わずか2年前の1917年(大正6)22日の大火で、死者11名、焼失3,325棟と全市の3分の1を失ったはかりで、復旧計画が全市を挙げて着々と進行中だったところ、再び大火に襲われ、焼け残っていた建物を灰燼に帰しました。この日の大火で、大正6年の大火とあわせて、3,365戸が焼失し、米沢市の大半が失われることとなります。

〇明治・大正時代の大火一覧(焼失1,000戸以上で、戦火・地震によるものを除く)

・1871年(明治4)9月12日 函館の「切見世火事」(焼失1,123戸)
・1872年(明治5)2月26日 東京の銀座大火(焼失4,879戸)
・1873年(明治6)3月22日 函館の「家根屋火災」(焼失1,314戸)
・1873年(明治6)3月22日~23日 横浜の「相生町の大火」(重軽傷者20余名、焼失1,577戸)
・1874年(明治7)4月27日 浜松明治7年の大火「小野組火事」(焼失家数1,318軒)
・1875年(明治8)4月24日 飛騨高山明治8年の大火(死亡者1名、焼失1,032戸)
・1879年(明治12)1月26日~27日 高崎明治13年の大火(消失2,500余戸)
・1879年(明治12)3月3日 高岡明治12年の大火(焼失2,000余戸)
・1879年(明治12)12月6日 明治12年函館大火(焼失2,326戸)
・1879年(明治12)12月26日 東京の日本橋大火(全焼10,613戸)
・1880年(明治13)5月15日 弘前明治13年の大火(焼失1,000余戸)
・1880年(明治13)5月21日 三条の大火「糸屋万平火事」(死者34名、焼失2,743戸)
・1880年(明治13)8月7日 新潟明治13年の大火(死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸)
・1880年(明治13)12月24日 明治13年大阪南の大火「島の内出火」(死者8名、負傷者350~60名、焼失3,388戸)
・1881年(明治14)1月26日 東京の神田の大火(全焼10,673戸)
・1881年(明治14)2月11日 東京の神田区の大火(全焼7,751戸)
・1881年(明治14)4月25日 福島明治の大火「甚兵衛火事」(死者7名、焼失1,785戸)
・1882年(明治15)5月15日 富山県氷見明治の大火(焼失1,600余戸)
・1884年(明治17)5月13日 水戸明治17年「下市の大火」(焼失1,200余戸)
・1884年(明治17)11月7日~8日 盛岡明治17年の大火(焼失1,432戸)
・1885年(明治18)5月31日~6月1日 富山明治18年の大火「安田焼」(死者9名、焼失5,925戸) 
・1886年(明治19)4月30日~5月1日 秋田明治19年の大火「俵屋火事」(死者17名、負傷者186名、焼失3,554戸) 
・1886年(明治19)12月30日 水戸明治19年「上市の大火」(焼失1,800余戸)
・1888年(明治21)1月4日 松本明治21年南深志の大火(死者5名、焼失1,553戸)
・1888年(明治21)1月31日 横浜明治21年野毛の放火による大火(重軽傷者数10人、焼失1,121戸)
・1889年(明治22)2月1日~2日 静岡明治22年の大火(焼失1,100余戸) 
・1890年(明治23)2月27日 東京の浅草大火(全焼1,469戸)
・1890年(明治23)9月5日 明治23年大阪大火「新町焼け」(死者1名、軽傷者206名、全焼2,023戸、半焼60戸)
・1893年(明治26)3月17日~18日 川越大火(焼失1,302戸、土蔵60棟焼失)
・1893年(明治26)3月29日~30日 松阪明治の大火(焼失1,460戸)
・1894年(明治27)5月26日 山形明治27年「市南の大火」(死者15名、負傷者69名、焼失1,284戸) 
・1895年(明治28)4月29日 石川県七尾の大火(焼失1,000余戸)
・1895年(明治28)6月2日~3日 新潟県新発田明治28年の大火(死者4名、負傷者24名、焼失2,410戸)
・1895年(明治28)10月3日 根室明治28年の大火(焼失1,334戸)
・1896年(明治29)4月13日~14日 福井県勝山町明治29年の大火(死者5名、負傷者2名、焼失1,124戸) 
・1896年(明治29)8月26日 函館の「テコ婆火事」(焼失2,280戸)
・1897年(明治30)4月3日 柏崎明治30年の大火「日野屋火事」(焼失1,230戸)
・1897年(明治30)4月22日 八王子大火(死者42名、焼失3,500余戸)
・1898年(明治31)3月23日 東京の本郷大火(死者2名、負傷者42名、焼失1,478戸)
・1898年(明治31)6月4日 直江津(上越市)明治31年の大火「八幡火事」(焼失1,595戸)
・1899年(明治32)8月12日 富山明治32年の大火「熊安焼」(全焼4,697戸、半焼9戸) 
・1899年(明治32)8月12日~13日 横浜明治32年の大火(死者14名、全焼3,124、半焼49戸)
・1899年(明治32)9月15日 明治32年函館大火(焼失2,294戸)
・1900年(明治33)4月18日 福井「橋南大火」(死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒)
・1900年(明治33)6月27日 高岡明治33年の大火(死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸)
・1902年(明治35)3月30日 福井明治35年「橋北の大火」(焼失3,309戸)
・1903年(明治36)4月13日 福井県武生町明治の大火(死者7名、重傷者2名、全焼1,057戸)  
・1904年(明治37)5月8日 小樽明治37年「稲穂町の火事」(焼失2,481戸)
・1906年(明治39)7月11日 直江津町(上越市)明治39年の大火「ながさ火事」(焼失1,041戸)  
・1907年(明治40)8月25日 明治40年函館大火(死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸)
・1908年(明治41)3月8日 新潟明治41年3月の大火(焼失1,198戸)
・1908年(明治41)9月4日 新潟明治41年再度の大火(全焼2,071戸、半焼18戸)
・1909年(明治42)7月31日~8月1日 大阪明治42年「北の大火」(焼失11,365戸)
・1910年(明治43)4月16日 輪島町の大火(全焼1,055軒、半焼15軒)    
・1910年(明治43)5月3日~4日 明治43年青森大火(死者26名、負傷者163名、焼失7,519戸、半焼5戸)
・1911年(明治44)4月9日 東京の吉原大火(全焼6,189戸、半焼69戸)
・1911年(明治44)5月8日 山形明治44年「市北の大火」(全焼1,340戸)
・1911年(明治44)5月16日 小樽明治44年の大火(焼失1,251戸)
・1912年(明治45)1月16日 大阪明治45年「南の大火」(死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸)   
・1912年(明治45)3月21日 東京の州崎大火(全焼1,149戸、半焼11戸)
・1912年(明治45)4月22日 松本明治「北深志の大火」(死者5名、焼失1,341戸)
・1914年(大正3)2月20日 東京神田大正2年三崎町の大火(全焼2,376戸、半焼54戸)
・1917年(大正6)5月22日 大正6年米沢大火(死者11名、焼失2,294戸)
・1919年(大正8)5月19日 大正8年米沢大火(死者1名、焼失1,071戸)
・1921年(大正10)4月6日 東京の大正浅草大火(全焼1,227戸、半焼73戸)
・1924年(大正13)5月21日 八戸大火(死者4名、被災戸数1,393棟)
・1925年(大正14)3月18日  大正日暮里大火(全半焼約2,100戸)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1221年(承久3)後鳥羽上皇の執権・北条義時追討令を受け、北条政子が御家人に結集を訴える(新暦6月10日)詳細
1560年(永禄3)桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を急襲して討ち取る(新暦6月12日)詳細
1565年(天文15)室町幕府第13代将軍足利義輝が松永久秀に攻められ自害する(新暦6月17日)詳細
1636年(寛永13)江戸幕府により「寛永十三年五月令」(第四次鎖国令)が出される(新暦6月22日)詳細
1877年(明治10)詩人・随筆家薄田泣菫の誕生日詳細
1946年(昭和21)東京の皇居前広場で食糧メーデー(飯米獲得人民大会)が開催される詳細
1995年(平成7)「地方分権推進法」(平成7年法律第96号)が公布(同年7月3日施行)される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1809年(文化6)に、間宮林蔵が樺太に単身で渡り樺太が島であることを立証した日ですが、新暦では6月29日となります。
 間宮林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期の探検家・測量家で、1780年(安永9)に、常陸国筑波郡上平柳村(現在の茨城県つくばみらい市)の農業・箍屋に生まれました。子供のころから数学の才能があり、それをを幕吏に認められて、1790年(寛政2)頃江戸に出て、地理学を学ぶことになります。
 1796年(寛政8 )普請役雇として幕府に出仕し、1800年(寛政12)蝦夷地の測量を命じられ、箱館で伊能忠敬に出会って測量術を学びました。そして、蝦夷地や択捉島を測量し、幕命により1808年(文化5)樺太に渡って探検し、樺太が島であることを確認し、間宮海峡の命名に繋がっています。
 晩年は、密貿易調査の隠密活動に従事しましたが、1844年(弘化元)に70歳で死去ししました。主な著書は『東韃紀行』、『北蝦夷図説』、『銅柱余録』などがあります。
 現在、出身地の茨城県つくばみらい市に「間宮林蔵記念館」が建てられ、遺品や事績を知ることができるようになりました。

〇間宮林蔵関係略年表(日付は旧暦です)

・1780年(安永9年) 常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくば市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれる
・1790年(寛政2年) この頃、江戸に出て、地理学を学ぶ
・1796年(寛政8年) 普請役雇として幕府に出仕する
・1799年(寛政11年) 20歳の時、村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡る
・1800年(寛政12年) 21歳の時、蝦夷地御用雇に任ぜられる
・1806年(文化3年) 択捉(えとろふ)を測量する
・1808年(文化5年) 29歳の時、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認する
・1809年(文化6年) 30歳の時  再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認する、6月アイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会う
・1810年(文化7年)  31歳の時、村上貞助の協力で、「北蝦夷島地図」、「北蝦夷分界余話」、「東韃地方紀行」を著す
・1814年(文化11年) 35歳の時、蝦夷地測量をする
・1822年(文政5年) 43歳の時、松前奉行廃止、江戸に帰り普請役となる
・1824年(文政7年) 45歳の時、安房上総御前備掛手付となり,異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視する
・1826年(文政9年) 47歳の時、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束する
・1832年(天保3年) 53歳の時、シーボルト著「日本」で日本辺界略図」の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介される
・1842年(天保13年) 63歳の時、幕府、林蔵にカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ずる
・1844年(天保15年2月26日) 江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなる 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

717年(養老元)浮浪・逃亡が増え、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」が出される(新暦6月30日)詳細
1641年(寛永18)江戸幕府が平戸のオランダ人を長崎の出島に移住させる(新暦6月25日)詳細
1875年(明治8)最初の屯田兵が北海道の琴似(現在の札幌市西区)に入植する詳細
1890年(明治23)「府縣制」(明治23年法律第35号)が公布される詳細
 「郡制」(明治23年法律第36号)が公布される詳細
1946年(昭和21)GHQから「肥料の生産、分配及び使用に関する覚書」(SCAPIN-962)が指令される詳細
1965年(昭和40)労働者の結社の自由・団結権の保護を定めた「ILO87号条約」を国内で承認する詳細
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 今日は、江戸時代中期の1787年(天明7)に、天明大飢饉で大坂の庶民が米屋を襲撃し、天明の打ちこわしが始まった日ですが、新暦では6月27日となります。
 天明の打ちこわし(てんめいのうちこわし)は、江戸時代中期の天明年間(1781~89年)に勃発した都市騒擾事件でした。1787年(天明7年5月)に、江戸、大阪など当時の主要都市を中心に、ほぼ同時期に30ヶ所余で発生し、翌月には石巻、小田原、宇和島などへも波及しています。
 江戸では、米百俵の値段は平年178両だったものが、天明の大飢饉の影響もあって、1787年(天明7)には213両なり、平年では100文で米1升以上、収穫前の5月でも5合以上が買えましたが、徐々に高騰し最高値を記録した天明7年5月では2合5尺しか買えないようになって、庶民の怒りが爆発しました。そして、米屋や商家等に押し入って、金品を強奪したり、建物を破壊したりし、江戸では、千軒の米屋と8千軒以上の商家が襲われ、無法状態が3日間続いたと言われています。
 打ちこわし発生後、困窮した人々への支援策が具体化し、7月には幕府は寛政の改革も始まり、混乱は収拾に向かいました。
 以下に、江戸での天明の打ちこわしを記述した『蜘蛛の糸巻』(岩瀬京山著)の該当部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇岩瀬京山著『蜘蛛の糸巻』の「江戸の打ちこわし」の記述

翌年天明七丁未五月、玄米両に二斗五升、麦八戸、大豆六斗。同月十日頃、白米百文に付三合五勺、豆七合。同廿八日頃、百文に付三合。御蔵米[1]三十五石に金二百五両、一両に一斗七升、銭は一両に五貫二百文。ここに至り米穀動かず[2]、米屋ども江戸中戸を閉ざす。同月廿の朝、雑人[3]ども赤坂御門外なる米屋を打毀す。同日同刻京橋伝馬町三丁目万屋佐兵衛、万佐とて聞えたる[4]米問屋を打毀す。此時おのれ[5]十九歳、毀したる跡を見たるに、破りたる米俵家の前に散乱し、米ここかしこに[6]山をなす。その中に引破りたる色々の染小袖[7]、帳面の類、破りたる金屏風[8]、毀したる障子、唐紙[9]、大家なりしに[10]内は見えすくやうに[11]残りなく打こわしけり。後に聞けば、初めは十四五人なりしに、追々加勢にて百人ばかりとぞ。同夜中、小網町、伊勢町、小船町、神田内外、蔵前、浅草辺、千住、本郷、市ケ谷、四ツ谷、同夜より翌廿二日に至りて暁まで、諸方の蜂起[12]、米屋のみにあらずとも富商人は手を下せり[13]。然れども官令寂として声なし[14]。廿二日午の刻、町奉行出馬[15]。並に御手先方十人[16]捕へ方の命あり[17]。又竹槍御免[18]、死骸酬に及ばざるの令[19]、市中に降りし故、市人[20]勢を得て、木戸木戸を締切り、相識し言葉を作り[21]、互に加勢の約をなし、拍子木をしらせとす。ここに至りて蜂起[12]もまた寂として声なし。江都[22]開発以来未だ曾てあらざる変事地妖[23]と謂ふべしと諸人言ひけり。

<現代語訳>

翌年の天明7年(1787年)5月に、玄米は一両で二斗五升、麦八戸、大豆六斗だった。同月10日頃には、白米百文に付三合五勺、豆七合、同28日頃には、百文に付三合。蔵米は三十五石で金二百五両となり、一両に一斗七升、銭は一両に五貫二百文となる。ここに至って、米価の騰貴によって、誰も米を売る者がなくなり、米屋どもは江戸中店を開かない。同月20日の朝、下賤の者共によって、赤坂御門外にある米屋が破壊された。同日の同じ時刻に京橋伝馬町三丁目の万屋佐兵衛、米商万作として知られた米問屋が破壊された。この時、私(著者岩瀬京山)は19歳で、破壊された跡を見たが、破られた米俵が家の前に散乱し、米があちこちに山をなしている。その中に、引き破られた色々の染小袖、帳面の類、破られた金屏風、壊された障子や唐紙があり、金持ちの家なのに内側が素通しに見えるほどに残りなく破壊された。後に聞けば、初めは14、5人だったが、だんだんに加勢する者が出て100人ばかりになる。同夜の中に、小網町、伊勢町、小船町、神田内外、蔵前、浅草辺、千住、本郷、市ケ谷、四ツ谷、同夜より翌22日に至って暁まで、諸方面で多くの者が一斉に暴動をおこす、米屋だけでなく、富裕な商人は襲われた。しかし、町奉行所は鎮圧には出動しなかった。22日の昼頃になって、南町奉行(山村良旺)と北町奉行(曲淵景漸)が出動した。ならびに御手先方十人に捕縛するようにとの命令があった。また、対象の町人が自衛のため竹槍を持つことが許可され、打ちこわしに参加する暴徒を殺しても届け出る必要はないと言う命令が出て、市中に知れ渡ったので、商人は勢を得て、木戸木戸を締め切り、合言葉を作って、お互いに加勢する約束をし、拍子木で知らせることとした。ここに至って多くの者の一斉に暴動もまた静かになって声も聞こえないようになった。江戸が始まって以来、未だかつてなかった変事であり、地上に起こる怪しい変異というべきだと多くの人々が言ったことだ。

【注釈】

[1]蔵米:くらまい=江戸時代幕藩領主の蔵に年貢として納められた米。特に幕府が江戸浅草御蔵に収納,旗本,御家人に支給した米をいう。
[2]米穀動かず:べいこくうごかず=米価が騰貴するので、誰も米を売る者がいない。
[3]雑人:ぞうにん=下賤の者。身分の低い者。召使いや一般の庶民のこと。
[4]万佐とて聞えたる:まんざときこえたる=米商万作として知られた。
[5]おのれ=随筆『蜘蛛の糸巻』の著者岩瀬京山のこと。
[6]ここかしこに=あちこちに。このところあのところに。この場所あの場所に。この箇所あの箇所に。
[7]染小袖:そめこそで=模様や色を染めつけた小袖。色小袖。
[8]金屏風:きんびょうぶ=地紙全体に金箔をおいた屏風。
[9]唐紙:からかみ=美しい色模様を刷り出した紙を貼った襖のこと。
[10]大家なりしに:たいけなりしに=金持ちの家なのに。
[11]内は見えすくやうに:うちはみえすくように=内側が素通しに見えるほどに。
[12]蜂起:ほうき=多くの者が一斉に暴動をおこすこと。
[13]富商人は手を下せり:ふしょうにんはてをくだせり=富裕な商人は襲われた。
[14]官令寂として声なし:かんれいせきとしてこえなし=町奉行所は鎮圧には出動しない。
[15]町奉行出馬:まちぶぎょうしゅつば=南町奉行(山村良旺)と北町奉行(曲淵景漸)が出動した。
[16]御手先方十人:おさきてかたじゅうにん=幕府の御先手組長谷川平蔵以下10人の組頭のこと。
[17]捕へ方の命あり:とらへかたのめいあり=捕縛するようにとの命令。
[18]竹槍御免:たれやりごめん=打ちこわしの対象となる町人が自衛のため竹槍を持つことの許可。
[19]死骸酬に及ばざるの令:しがいしゅうにおよばざるのれい=打ちこわしに参加する暴徒を殺しても届け出る必要はないと言う命令。
[20]市人:いちびと=市で物を売る人。また、町に住む商人。
[21]相識し言葉を作り:あいしるしことば=合言葉を作ること。
[22]江都:こうと=江戸のこと。
[23]地妖:ちよう=地上に起こる怪しい変異。地上に生じるふしぎなわざわい。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1333年(元弘3)久米川の戦いで、新田義貞軍が鎌倉幕府の軍勢を破る(新暦6月24日)詳細
1534年(天文3)戦国大名織田信長の誕生日(新暦6月23日)詳細
1698年(元禄11)儒学者・蘭学者青木昆陽の誕生日(新暦6月19日)詳細
1718年(享保3)俳人で蕉門の十哲の一人とされる立花北枝の命日(新暦6月10日)詳細
1925年(大正14)「治安維持法」が施行される詳細
1962年(昭和37)劇作家・詩人・児童文学者・小説家秋田雨雀の命日詳細
1979年(昭和54)本州四国連絡橋計画の最初として、アーチ橋の大三島橋が完成(翌日から供用開始)する詳細

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 今日は、昭和時代後期の1974年(昭和49)に、古河鉱業が被害者971人に補償金15億5,000万円を支払う調停案に双方が受諾し、足尾鉱毒事件が80年ぶりに決着した日です。
 足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)は、明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1885年(明治18)には渡良瀬川における魚類の大量死が始まりました。
 1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
 1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
 1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
 以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。その中で、1971年(昭和46)に、群馬県毛里田地区産出米からカドミウムを検出、1972年(昭和47)に、毛里田同盟会(第2代会長・板橋明治)が政府の中央公害審査会(のちに公害等調整委員会に改組)に、損害賠償を求める調停を申請しました。
 その結果、1974年(昭和49)5月11日には、毛里田同盟会と古河、第12回調定で農作物減収補償調停が成立して調印し、損害賠償額は15億5,000万円となります。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残されてきました。

〇足尾銅山】(あしおどうざん)とは?

 栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山です。室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。
 銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。
 しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大します。1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。
 ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件を引き起こしました。
 1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。1973年(昭和48)2月28日で閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。
 その後、1980年(昭和55)に、坑道を使用した足尾町「足尾銅山観光」がオープンしました。尚、2007年(平成19)には、足尾銅山が日本の地質百選に選定され、経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」としても認定されています。さらに、2008年(平成20)には、通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定されました。

☆足尾鉱毒事件関係略年表

<1877年(明治10)> 
・古河市兵衛が足尾銅山製錬所を操業する

<1881年(明治14)> 
・足尾銅山、鷹の巣直利を発見する

<1884年(明治17)> 
・横間歩大直利を発見する

<1890年(明治23)>
・8月 渡良瀬川大洪水で、栃木・群馬両県に鉱毒被害が発生する

<1891年(明治24)>
・12月 田中正造が、第2回帝国議会で鉱業停止を要求する

<1892年(明治25)>
・この頃 被害農民と古河の示談契約が進展する

<1893年(明治26)
・第1回示談契約が完結する
・6月30日 足尾銅山、粉鉱採集器を設置、3年間をその試験期間とする

<1895年(明治28)>
・3月 鉱毒被害民と古河市兵衛との間に永久示談契約が進展する

<1896年(明治29)>
・3月25日 正造、第9帝国議会において永久示談の不当性を追及する
・7月~9月 渡良瀬川で、三たび大洪水が起こり、1府5県に鉱毒被害が及ぶ
・10月  正造、有志と雲竜寺に群馬栃木両県鉱毒事務所を設置する

<1897年(明治30)>
・3月2日(~3月5日) 鉱毒被害民が、第1回大挙押出し
・3月20日 谷干城・津田仙・栗原彦三郎、被害地を視察する
・3月23日 農商務大臣榎本武揚、被害地を視察する
・3月23日(~3月30日) 鉱毒被害民、第2回大挙押出し、内閣に足尾銅山鉱毒事件調査委員会が設置される
・5月27日 東京鉱山監督署長、足尾銅山に対して鉱毒除防工事命令をする

<1898年(明治31)>
・4月30日 大蔵省、鉱毒被害民に対して地祖条例による普通荒地免租処分を通達、該当者は公民権を喪失する
・6月30日 大隅重信内閣設立(10月31日、崩壊)する
・9月6日 渡良瀬川の大洪水が起きる
・9月26日 鉱毒被害民、第3回大挙押出し
・9月28日 正造、東京府下南足立郡淵江村保木間において、総代50名を残して帰村するよう説得する

<1899年(明治32)> 
・12月22日 鉱毒議会が結成される

<1900年(明治33)>
・2月13日 未明に被害民が、第4回大挙押出しをし、川俣事件が発生する
・2月14日 正造、第14回議会において川俣事件に関連して政府を追及する
・7月9日 川俣事件で、前橋地方裁判所の予審終結、51名が起訴される
・11月28日 正造、川俣事件第15回公判で、検事論告に憤慨して欠伸をし、官吏侮辱罪に問われる
・12月22日 前橋地方裁判所、川俣事件に判決。被告51名中、有罪29名、無罪22名。検事・被告双方より控訴する

<1901年(明治34)>
・10月13日 川俣事件控訴審での、判事、検事、弁護士らによる被害地臨検が行われる
・10月23日 正造、衆議院議員を辞職する
・11月29日 神田基督教青年会館において鉱毒地救済婦人会発会式(会長・潮田千勢子)が行われる
・12月10日 正造、議会開院式より帰途の天皇に直訴状を提出しようとしてさえぎられ、麹町警察署にて取り調べ、夕刻釈放される
・12月27日 東京学生1100余名が、大挙鉱毒地視察を行う

<1902年(明治35)>
・内務省、秘密裡に栃木県谷中村、埼玉県利島・川辺両村の遊水池計画推進する
・1月 利島・川辺両村に遊水池反対運動起こる
・3月17日 内閣に鉱毒調査委員会が設置される
・6月16日 欠伸事件で有罪確定し、正造は巣鴨監獄に服役する
・9月28日 関東大洪水が起きる
・10月 埼玉県、利根川火打沼の決壊堤防を放置し、川辺・利島両村の買収を計画する
・10月16日 両村民は、自力修復して納税・兵役の義務拒絶を宣言する
・12月25日 川俣事件再審理公判、宮城控訴院にて控訴棄却・公訴不受理により消滅する
 
<1903年(明治36)>
・1月 栃木県議会、遊水池化のための谷中村買収案否決する
・6月3日 政府、鉱毒調査委員会の調査報告書を発表、谷中村瀦水池案浮上する

<1904年(明治37)>
・7月 正造、谷中村問題に専念のため、以後、同村川鍋岩五郎方に寄留する
・12月10日 災害復旧費名の谷中村買収案、栃木県会(秘密会)を通過する

<1905年(明治38)>
・3月24日 原敬、古河鉱業副社長に就任する

<1906年(明治39)>
・6月8日 正造、栃木県知事白仁武より予戒令を受ける
・7月1日 谷中村村長職務管掌鈴木豊三、村会決議を無視して同村を藤岡村に合併する

<1907年(明治40)>
・2月4日 (〜2月7日) 足尾銅山暴動事件が起きる
・6月29日 (〜7月5日) 栃木県、谷中堤内残留民家屋16戸を強制破壊する
・7月29日 谷中堤内地権者、東京救済会の勧告に従い土地収用補償金額裁決不服訴訟を提起する

<1909年(明治42)> 
・9月 渡良瀬川改修案、関係四県の県議会を通過する

<1911年(明治44)> 
・4月 谷中村民16戸137人、北海道サロマベツ原野に移住(第1次)する

<1913年(大正2)> 
・9月4日 田中正造が亡くなる

<1917年(大正6)>  
・2月 谷中残留民、渡良瀬川改修工事にともなう埋立地に移転する

<1921年(大正10)>   
・1月 萱刈り事件が起きる

<1937年(昭和12)>  
・4月 北海道移住した旧谷中村民、帰郷請願書を栃木県知事に提出する

<1947年(昭和22)> 
・9月 渡良瀬川大洪水(カスリン台風)で被害甚大となる

<1956年(昭和31)>  
・2月 足尾銅山、自溶製錬設備が完成する

<1958年(昭和33)> 
・5月 源五郎沢堆積場が決壊し、水田6,000haが鉱毒被害を受ける
・8月 群馬県の三市三郡による渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会(会長・恩田正一)が結成される

<1968年(昭和43)>  
・3月 経済企画庁が、渡良瀬川の流水の水質基準を銅0.06ppmと決定する

<1971年(昭和46)>
・2月 群馬県毛里田地区産出米からカドミウムを検出する

<1972年(昭和47)> 
・3月 毛里田同盟会(第2代会長・板橋明治)政府の中央公害審査会(のちに公害等調整委員会に改組)に、損害賠償を求める調停を申請する
・11月 足尾銅山が、閉山計画を発表する

<1973年(昭和48)>  
・2月 足尾銅山の採掘中止(閉山)、ただし製錬事業は拡大の方針となる

<1974年(昭和49)>  
・5月11日 毛里田同盟会と古河、第12回調定で農作物減収補償調停が成立して調印、損害賠償額は15億5,000万円となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1183年(寿永2)倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る(新暦6月2日)詳細
1333年(元弘3)小手指原の戦いで、新田義貞軍が鎌倉幕府軍を破る(新暦6月23日)詳細
1473年(文明5)武将・守護大名・室町幕府管領細川勝元の命日(新暦6月6日)詳細
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1955年(昭和30)宇高連絡船の紫雲丸と第3宇高丸が衝突し紫雲丸が沈没して死者167名を出す(紫雲丸事故)詳細
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 今日は、明治時代後期の1911年(明治44)に、山形明治44年「市北の大火」が起こり、1,340戸が全焼した日です。
 山形明治44年「市北の大火」(やまがためいじ44ねん「しほくのたいか」)は、山形県山形市北部地域で発生した大火でした。この日、薬師祭というイベントが開かれている中で午後4時半頃に、市中心部の七日町のそば屋東京庵から出火し、折からの強風に煽られて、隣接する山形自由新聞社に延焼します。
 さらに、炎は大通りで延焼し、両羽銀行(現在の山形銀行)まで焼いた上に、祭りが行われていた薬師町まで到達して、薬師堂も炎にのまれ、数千の参詣客が逃げまどう事態となりました。その後、火の勢いはいっそう増して、山形市の北部地区の広範囲を焼失し、およそ10時間後にようやく鎮火しました。
 これによって、1,340戸が全焼し、山形県庁、市役所、警察署、裁判所、銀行、図書館、中学校など重要な建物も焼失しています。

〇明治時代の大火一覧(焼失1,000戸以上で、戦火によるものを除く)

・1871年(明治4)9月12日 函館の「切見世火事」(焼失1,123戸)
・1872年(明治5)2月26日 東京の銀座大火(焼失4,879戸)
・1873年(明治6)3月22日 函館の「家根屋火災」(焼失1,314戸)
・1873年(明治6)3月22日~23日 横浜の「相生町の大火」(重軽傷者20余名、焼失1,577戸)
・1874年(明治7)4月27日 浜松明治7年の大火「小野組火事」(焼失家数1,318軒)
・1875年(明治8)4月24日 飛騨高山明治8年の大火(死亡者1名、焼失1,032戸)
・1879年(明治12)1月26日~27日 高崎明治13年の大火(消失2,500余戸)
・1879年(明治12)3月3日 高岡明治12年の大火(焼失2,000余戸)
・1879年(明治12)12月6日 明治12年函館大火(焼失2,326戸)
・1879年(明治12)12月26日 東京の日本橋大火(全焼10,613戸)
・1880年(明治13)5月15日 弘前明治13年の大火(焼失1,000余戸)
・1880年(明治13)5月21日 三条の大火「糸屋万平火事」(死者34名、焼失2,743戸)
・1880年(明治13)8月7日 新潟明治13年の大火(死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸)
・1880年(明治13)12月24日 明治13年大阪南の大火「島の内出火」(死者8名、負傷者350~60名、焼失3,388戸)
・1881年(明治14)1月26日 東京の神田の大火(全焼10,673戸)
・1881年(明治14)2月11日 東京の神田区の大火(全焼7,751戸)
・1881年(明治14)4月25日 福島明治の大火「甚兵衛火事」(死者7名、焼失1,785戸)
・1882年(明治15)5月15日 富山県氷見明治の大火(焼失1,600余戸)
・1884年(明治17)5月13日 水戸明治17年「下市の大火」(焼失1,200余戸)
・1884年(明治17)11月7日~8日 盛岡明治17年の大火(焼失1,432戸)
・1885年(明治18)5月31日~6月1日 富山明治18年の大火「安田焼」(死者9名、焼失5,925戸) 
・1886年(明治19)4月30日~5月1日 秋田明治19年の大火「俵屋火事」(死者17名、負傷者186名、焼失3,554戸) 
・1886年(明治19)12月30日 水戸明治19年「上市の大火」(焼失1,800余戸)
・1888年(明治21)1月4日 松本明治21年南深志の大火(死者5名、焼失1,553戸)
・1888年(明治21)1月31日 横浜明治21年野毛の放火による大火(重軽傷者数10人、焼失1,121戸)
・1889年(明治22)2月1日~2日 静岡明治22年の大火(焼失1,100余戸) 
・1890年(明治23)2月27日 東京の浅草大火(全焼1,469戸)
・1890年(明治23)9月5日 明治23年大阪大火「新町焼け」(死者1名、軽傷者206名、全焼2,023戸、半焼60戸)
・1893年(明治26)3月17日~18日 川越大火(焼失1,302戸、土蔵60棟焼失)
・1893年(明治26)3月29日~30日 松阪明治の大火(焼失1,460戸)
・1894年(明治27)5月26日 山形明治27年「市南の大火」(死者15名、負傷者69名、焼失1,284戸) 
・1895年(明治28)4月29日 石川県七尾の大火(焼失1,000余戸)
・1895年(明治28)6月2日~3日 新潟県新発田明治28年の大火(死者4名、負傷者24名、焼失2,410戸)
・1895年(明治28)10月3日 根室明治28年の大火(焼失1,334戸)
・1896年(明治29)4月13日~14日 福井県勝山町明治29年の大火(死者5名、負傷者2名、焼失1,124戸) 
・1896年(明治29)8月26日 函館の「テコ婆火事」(焼失2,280戸)
・1897年(明治30)4月3日 柏崎明治30年の大火「日野屋火事」(焼失1,230戸)
・1897年(明治30)4月22日 八王子大火(死者42名、焼失3,500余戸)
・1898年(明治31)3月23日 東京の本郷大火(死者2名、負傷者42名、焼失1,478戸)
・1898年(明治31)6月4日 直江津(上越市)明治31年の大火「八幡火事」(焼失1,595戸)
・1899年(明治32)8月12日 富山明治32年の大火「熊安焼」(全焼4,697戸、半焼9戸) 
・1899年(明治32)8月12日~13日 横浜明治32年の大火(死者14名、全焼3,124、半焼49戸)
・1899年(明治32)9月15日 明治32年函館大火(焼失2,294戸)
・1900年(明治33)4月18日 福井「橋南大火」(死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒)
・1900年(明治33)6月27日 高岡明治33年の大火(死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸)
・1902年(明治35)3月30日 福井明治35年「橋北の大火」(焼失3,309戸)
・1903年(明治36)4月13日 福井県武生町明治の大火(死者7名、重傷者2名、全焼1,057戸)  
・1904年(明治37)5月8日 小樽明治37年「稲穂町の火事」(焼失2,481戸)
・1906年(明治39)7月11日 直江津町(上越市)明治39年の大火「ながさ火事」(焼失1,041戸)  
・1907年(明治40)8月25日 明治40年函館大火(死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸)
・1908年(明治41)3月8日 新潟明治41年3月の大火(焼失1,198戸)
・1908年(明治41)9月4日 新潟明治41年再度の大火(全焼2,071戸、半焼18戸)
・1909年(明治42)7月31日~8月1日 大阪明治42年「北の大火」(焼失11,365戸)
・1910年(明治43)4月16日 輪島町の大火(全焼1,055軒、半焼15軒)    
・1910年(明治43)5月3日~4日 明治43年青森大火(死者26名、負傷者163名、焼失7,519戸、半焼5戸)
・1911年(明治44)4月9日 東京の吉原大火(全焼6,189戸、半焼69戸)
・1911年(明治44)5月8日 山形明治44年「市北の大火」(全焼1,340戸)
・1911年(明治44)5月16日 小樽明治44年の大火(焼失1,251戸)
・1912年(明治45)1月16日 大阪明治45年「南の大火」(死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸)   
・1912年(明治45)3月21日 東京の州崎大火(全焼1,149戸、半焼11戸)
・1912年(明治45)4月22日 松本明治「北深志の大火」(死者5名、焼失1,341戸)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

840年(承和7)第53代の天皇とされる淳和天皇の命日(新暦6月11日)詳細
1680年(延宝8)江戸幕府第4代将軍徳川家綱の命日(新暦6月4日)詳細
1911年(明治44)文部省編『尋常小学唱歌』第1学年用(20曲)が発行される詳細
1968年(昭和43)富山県神通川流域のイタイイタイ病が、政府によって認定された公害病の第1号となる詳細
1950年(昭和25)詩人・歌人・文芸評論家相馬御風の命日詳細
1955年(昭和30)東京都砂川町(現立川市)で米軍立川基地拡張反対総決起集会が開かれ砂川闘争が始まる詳細
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