ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 平安時代

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 今日は、平安時代前期の794年(延暦13)に、桓武天皇が山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布した日ですが、新暦では12月4日となります。
 平安京(へいあんきょう)は、桓武天皇の794年(延暦13)の平安遷都から1869年(明治2)の東京遷都まで、1075年ほど(内福原遷都の期間あり)都の置かれたところでした。山背国(山城国)葛野郡宇太村(現在の京都府京都市)に造営され、唐の長安をモデルとして、規模は南北38町 (約5.31km) 、東西32町 (約4.57km) で、北部中央に宮城(大内裏)が設けられています。
 朱雀(すざく)大路を中心に左京と右京に分かれ、各京は9条4坊に分けられ、さらにこれを小路によって碁盤の目のように整然と区画していました。しかし、右京南部は低湿地のため発展せず、開発が遅れ、左京に都の中心が移ります。
 その後、1180年代の鎌倉幕府の成立とともに政治都市としての生命を失い、1467年からの応仁・文明の乱で大部分を焼失しました。しかし、1580年代からの豊臣秀吉による新都市建設によって、今日の京都へと発展しています。

〇平安遷都(へいあんせんと)とは?

 奈良時代末期の混乱した政治状況の下で、桓武天皇は遷都を計画し、最初は、784年(延暦3)に平城京から長岡京を造営して遷都しましたが、793年(延暦12年1月)の和気清麻呂の建議もあり、翌年10月22日に再遷都し、長岡京から山背国葛野郡宇太村の新京に移ったものです。同年11月8日に、桓武天皇は詔を発して「平安京」と命名し、山背国は山城国と改められました。
 造営にあたり、まず藤原小黒麻呂らに新京の地相調査を命じ、その報告をまって早速造都に着手、唐の都長安を模し、規模は平城京より大きく、南北38町(5.31km)、東西32町(4.57km)に及びます。遷都の理由は、寺院勢力が集まる大和国から脱しての政治と仏教の分断、人心の刷新などとされてきました。遷都の時点では、宮殿が出来た程度と考えられ、造都工事は大規模な蝦夷征討と並行して継続したため民力は疲弊、事業が行き詰まり、805年(延暦24)に藤原緒嗣(おつぐ)の建議で、造都・征夷の二大事業は中止されています。
 尚、平安遷都1100年を記念して、1895年(明治28)に創建された平安神宮の例祭・時代祭は、10月22日に開催されてきました。

〇『日本紀略』の平安遷都にかかわる部分の抜粋

<原文>

(延暦十二年の条)
正月甲午。遣大納言藤原小黒麻呂・左大辨紀古佐美等、相山背国葛野郡宇太村之地。為遷都也。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕遷于新京。
壬戌。天皇自南京、遷北京。
丁卯。遷都詔曰。云云、葛野乃大宮地者、山川毛麗久、四方国乃百姓毛参出来事毛便之弖、云云。
十一月丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯形勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。

 ※縦書きの原文を横書きにし、旧字を新字にして句読点を付してあります。

<読み下し文>

(延暦十二年の条)
正月甲午、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を遣わし、山背国葛野郡宇太村[1]の地を相せしむ[2]。都を遷さむが為なり。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕[3]にて新京に遷る。
壬戌。天皇は南の京[4]より、北の京へ遷る。
丁卯。……都を遷す。詔して曰く、「云云。葛野の大宮地は、山川も麗しく、四方の国の百姓も參出で來る事も便り[5]にして、云云。」
十一月丁丑。詔したまわく、云々。「山勢[6]実に前聞[7]に合ふ」、云々。「此の国は山河襟帯[8]し、自然に城をなす[9]。此の形勝[10]に因りて、新号[11]を制むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし」と、また子来の民[12]、謳歌の輩[13]、異口同辞[14]に、号して平安京と曰ふ。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝[15]の旧都[16]にして、今輦下[17]に接す、昔の号を追いて、改めて大津と称すべし、云々。」

【注釈】

[1]山背国葛野郡宇太村:やましろこくかどのぐんうたむら=現在の京都府京都市上京区辺り。
[2]相せしむ:そうせしむ=物事の姿・ありさまなどを見て、そのよしあし・吉凶などを判断させること。
[3]車駕:しゃが=天子が行幸の際に乗るくるま。
[4]南の京:みなみのきょう=奈良の平城京のこと。
[5]便り:たより=都合のよいこと。便利なこと。
[6]山勢:さんせい=山の姿。山のようす。山容。
[7]前聞:ぜんぶん=以前に聞いた事柄。昔からのいいつたえ、知識。
[8]山河襟帯:さんがきんたい=周囲に山が聳え立ち、河が帯のように巡ること。
[9]自然に城をなす:しぜんにしろをなす=自然の要害(城)を形成すること。
[10]形勝:けいしょう=敵を防ぐのに都合のよい地勢・地形。要害。
[11]新号:しんごう=新しい名称。
[12]子来の民:しらいのたみ=天使の徳を慕って集まってくる民。
[13]謳歌の輩:おうかのともがら=天使の徳を褒めたたえる人々。
[14]異口同辞:いくどうじ=口をそろえて。
[15]先帝:せんてい=先の天皇。ここでは桓武天皇の曽祖父である天智天皇のこと。
[16]旧都:きゅうと=昔の都。ここでは大津京のこと。
[17]輦下:れんか=天皇のおひざもと。都の意味。

<現代語訳>

(延暦12年の条)
1月15日、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を派遣して、山背国葛野郡宇太村の地を調査させた。都を遷そうとする為である。

(延暦13年の条)
冬の10月22日。行幸の際に乗る車で新しい京に遷る。
10月23日。天皇は南の京(平城京)より、北の京へ遷都された。
10月28日。……都を遷す。(桓武天皇が)詔して言うことには、「次のごとく、葛野郡大宮の地は、山川の自然も美しく、諸国の人々がやって来るにも便利な所であると、しかじか。」
11月8日の(桓武天皇の)詔には、次のごとく、「山背国の山容は以前に聞いていたとおりである。」また次のごとく、「此の国は山河が周りを取り囲み、自然の要害を形成している。この地勢に因んで、新しい名前を制定する。すなわち、“山背国”を改めて“山城国”と書き表すことにしよう。」と、また、天皇の徳を慕って集まった人々やそれを褒めたたえる人々が、口をそろえて、“平安京”と呼んでいる。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝(天智天皇)の旧都(大津京)であり、今新都に隣接している、昔の名称を使って、改めて大津と称することと、しかじか。」

〇『日本後紀』の平安京造営の停止の部分の抜粋

<原文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是日。中納言近衞大將從三位藤原朝臣内麻呂侍殿上。有勅。令參議右衞士督從四位下藤原朝臣緒嗣。與參議左大辨正四位下菅野朝臣眞道相論天下徳政。于時緒嗣議云。方今天下所苦。軍事與造作也。停此兩事。百姓安之。眞道□執異議。不肯聽焉。帝善緒嗣議。即從停廢。有識聞之。莫不感歎。

<読み下し文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是の日、中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂、殿上[18]に侍す。勅有りて、参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下菅野朝臣真道とをして、天下の徳政[19]を相論[20]せしむ。時に緒嗣、議して云はく、「方今、天下の苦しむ所は軍事[21]と造作[22]と也。此の両事を停めば百姓安んぜむ」と。真道、異議を確執[23]して肯へて聴かず。帝[24]、緒嗣の議を善しとし、即ち停廃[25]に従ふ。

【注釈】

[18]殿上:でんじょう=内裏の殿舎。
[19]徳政:とくせい=徳のある政治。免税・大赦などの目立った恩恵を施す政治。仁政。
[20]相論:そうろん=自己の言い分を主張しあうこと。言い争うこと。議論すること。
[21]軍事:ぐんじ=蝦夷征討を指す。 
[22]造作:ぞうさく=平安京造営事業のこと。 
[23]確執:かくしつ=自分の意見を強く主張し、譲らないこと。
[24]帝:みかど=天皇。この場合は桓武天皇のこと。
[25]停廃:ちょうはい=予定していた事柄をとりやめること。中止。

<現代語訳>

(延暦24年の条)
12月7日。……この日、中納言近衛大将従三位の藤原朝臣内麻呂が、内裏の殿舎に待していた。桓武天皇の命令を受けて、参議右衛士督従四位下の藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下の菅野朝臣真道が、徳のある政治について議論することになった。この時に、緒嗣は、「現在、天下の民衆が苦しんでいる原因は、蝦夷征討と平安京造営事業である。この二つの事業を停止すれば民衆は安んじるでしょう。」と建議した。真道は、異議を強く主張し、同意しなかったが、桓武天皇は、緒嗣の建議を善しとして、二事業は中止されることとなった。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1629年(寛永6)幕府の「勅許の紫衣」の無視・反対(紫衣事件)等で、後水尾天皇が退位する(新暦12月22日)詳細
1892年(明治25)文芸評論家・推理小説家・翻訳家平林初之輔の誕生日詳細
1894年(明治27)戯作者・新聞記者仮名垣魯文の命日詳細
1895年(明治28)ロシア・フランス・ドイツの勧告(三国干渉)により、清国との間で「奉天半島還付条約」に調印する詳細
1896年(明治29)神宮司庁蔵版『古事類苑』の刊行が開始される詳細
1933年(昭和8)東京の府中町に東京競馬場(東京競馬倶楽部運営)が開場する詳細
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 今日は、平安時代中期の1020年(寛仁4)に、菅原孝標女が『更級日記』を書き始めた日ですが、新暦では9月30日となります。
 『更級日記』(さらしなにっき)は、菅原孝標女著の日記文学で、平安時代後期の1060年(康平3)頃に成立したと考えられてきました。1020年(寛仁4)の13歳の秋、父・菅原孝標の任国上総から帰京する旅行記に始まり、少女時代から1058年(康平元)に夫・橘俊通(たちばなとしみち)の亡くなった後までの40年間の身の変化と心境の推移とを回想して記してあります。
 全1巻で、特に『源氏物語』への強い憧憬を記しており、非現実的な物語的世界への憧れと浄土欣求の心情が描き出されました。平安時代中期の下級貴族の娘の生活記録としても貴重で、平安女流日記文学の代表作の一つとなっています。

〇菅原孝標女(すがわらの たかすえの むすめ)とは?

 平安時代中期の1008年(寛弘5)に、菅原道真の玄孫(5世の孫)となる父・菅原孝標、母・藤原倫寧の娘の子として生まれましたが、本名は伝わっていません。1017年(寛仁元)の10歳の時、父の任国である上総に下向し、1020年(寛仁4)の13歳の時、父に従って上総国から帰京する旅から、『更級日記』を書き始めます。
 以後、父は官途に恵まれず、一家は不如意な生活が続きましたが、1021年(治安元)の14歳の時、叔母から『源氏物語』全巻をもらい、耽読しました。1024年(万寿元)に姉が二女を残して亡くなり、以後、二人の遺児を世話することとなります。
 1039年(長暦3)の32歳の時、後朱雀天皇の祐子内親王に仕えたものの、翌年には、橘俊通(たちばなとしみち)と結婚しました。しかし、1041年(長久2)の34歳の時、夫の下野国(栃木県)赴任に同行せず、再出仕して、右中弁源資通(すけみち)と春秋の優劣を語るなどの交流も生まれます。
 1045年(寛徳2)に一男(仲俊)を出産し、その他にも二女をもうけました。1057年(天喜5)の50歳の時、夫の俊通は信濃守に任ぜられ、任国に赴任しましたが、再び京に留まり、翌年には、夫は京に戻ったものの、発病して亡くなります。
 その後、養育した甥なども離散し、子供達も独立して、孤独になりました。1059年(康平2)以降に亡くなったと思われますが、没年は不詳です。
 尚、物語『みづから悔ゆる』、『朝倉』の作者と伝えられていますが、現存していません。他に、『夜の寝覚(夜半の寝覚)』、『浜松中納言物語』の作者とする説も有力であって、物語作者として活躍したことが推測されています。また、和歌については、『新古今集』以下の勅撰集に、15首が入集しました。

<代表的な和歌>

・「浅みどり花もひとつに霞みつつおぼろにみゆる春の夜の月」(新古今集)
・「天のとを雲ゐながらもよそにみて昔の跡をこふる月かな」(新勅撰集)
・「月も出でで闇に暮れたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ」(更級日記)

☆菅原孝標女関係略年表

・1008年(寛弘5) 菅原道真の玄孫となる父・菅原孝標、母・藤原倫寧の娘の子として生まれる
・1017年(寛仁元) 10歳のとき,父の任国である上総に下向する
・1020年(寛仁4) 13歳の時、父に従って上総国から上京して『更級日記』を書き始める
・1021年(治安元) 14歳の時、叔母から『源氏物語』全巻をもらい、耽読する
・1024年(万寿元) 姉が二女を残して亡くなり、二人の遺児の世話をする
・1039年(長暦3) 32歳の時、後朱雀天皇の祐子内親王に仕える
・1040年(長久元) 33歳の時、橘俊通と結婚する
・1041年(長久2) 34歳の時、夫の下野国(栃木県)赴任に同行せず、再出仕する
・1042年(長久3) 右中弁源資通(すけみち)と春秋の優劣を語る
・1045年(寛徳2) 一男(仲俊)を設ける
・1057年(天喜5) 50歳の時、夫の俊通は信濃守に任ぜられ、任国に赴任したが、作者は再び京に留まる
・1058年(康平元) 51歳の時、夫・橘俊通は京に戻ったが、発病して亡くなる
・1059年(康平2)以降 亡くなる(没年不詳)
・1060年(康平3)頃 『更級日記』が成立する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

740年(天平12)藤原広嗣の乱が起きる(新暦9月28日)詳細
1161年(応保元)第80代の天皇とされる高倉天皇の誕生日(新暦9月23日)詳細
1189年(文治5)奥州合戦で平泉が陥落して逃走中の藤原泰衡が殺され、奥州藤原氏が滅亡する(新暦10月14日)詳細
1950年(昭和25)ジェーン台風が四国に上陸、近畿地方を横断し、甚大な被害をもたらす詳細
1953年(昭和28)民俗学者・国文学者・詩人・歌人折口信夫(釈迢空)の命日詳細
1981年(昭和56)「女子差別撤廃条約」が発効する詳細
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 今日は、平安時代中期の950年(天暦4年)に、第63代の天皇とされる冷泉天皇の生まれた日ですが、新暦では6月12日となります。
 冷泉天皇(れいぜいてんのう)は、京都において、村上天皇の第2皇子(母は右大臣師輔の娘藤原安子)として生まれ、2ヶ月後に外祖父師輔宅で立太子しました。967年(康保4年5月25日)に父・村上天皇の死没と共に践祚し、同年10月11日に即位礼が行われ、第63代とされる天皇として即位したものの、病弱で奇行があったため、叔父実頼が関白に就任して後見補佐します。
 しかし、藤原氏による他氏排斥事件(安和の変)が起こり、969年(安和2年3月)に源高明が失脚しました。天皇の第一皇子師貞(もろさだ)親王の立太子を急ぐ藤原伊尹(これただ)の策略により、在位2年の969年(安和2年8月13日)に、同母弟の守平親王(円融天皇)に譲位させられ、太上天皇(冷泉院)となります。
 翌年に実頼が亡くなると、天皇の外舅藤原伊尹が摂政を引き継ぎ、以降藤原氏の摂関職設置が常態化しました。984年(永観2年8月24日)に、円融天皇の息子の懐仁親王の立太子を条件に、冷泉帝の皇子・師貞親王(花山天皇)に譲位され。以後後一条天皇の即位まで約50年間、弟の円融系との皇位迭立が続きます。
 986年(寛和2年6月22日)に、息子の花山天皇が、花山寺で仏門に入り退位(次代は一条天皇)、入覚と号して花山法皇と称せられました。その後、991年(正暦2年2月12日)に円融院(円融天皇)が亡くなり、1008年(寛弘5年2月8日)には、息子の花山院(花山天皇)も亡くなります。
 退位後42年という長い上皇生活を東三条南院で暮らしてきましたが、1011年(寛弘8年10月24日)に数え年62歳で亡くなり、陵墓は桜本陵(現在の京都市左京区鹿ヶ谷法然院町)とされました。

<冷泉天皇の主要な和歌>

・「年へぬる竹の齢(よはひ)をかへしてもこのよを長くなさむとぞ思ふ」(詞花和歌集)
・「雲の上をかけ離れたるすみかにももの忘れせぬ秋の夜の月」

〇冷泉天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・950年(天暦4年5月24日) 京都において、村上天皇の第2皇子(母は右大臣師輔の娘藤原安子)として生まれ、2ヶ月後に外祖父師輔宅で立太子する
・967年(康保4年5月25日) 父・村上天皇の死没とともに践祚する
・967年(康保4年10月11日) 即位礼が行われ、第63代とされる天皇として即位する
・969年(安和2年3月) 安和の変が起こり源高明が失脚する
・969年(安和2年8月13日) 同母弟の円融天皇に譲位し、太上天皇となる
・970年(天禄元年5月18日) 藤原実頼が亡くなると、天皇の外舅藤原伊尹が摂政を引き継ぐ
・976年(貞元元年5月) 内裏が焼亡する
・977年(貞元2年) 内裏が新造される
・980年(天元3年11月) 内裏が再び火災に遭う
・982年(天元5年) 三たび内裏が焼亡する
・984年(永観2年8月24日) 円融天皇の息子の懐仁親王の立太子を条件に、冷泉帝の皇子・師貞親王(花山天皇)に譲位される
・986年(寛和2年6月22日) 息子の花山天皇が、花山寺で仏門に入り退位(次代は一条天皇)、入覚と号して花山法皇と称せられる
・991年(正暦2年2月12日) 円融院(円融天皇)が亡くなる
・1008年(寛弘5年2月8日) 息子の花山院(花山天皇)が亡くなる
・1011年(寛弘8年10月24日) 京都において、数え年62歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1636年(寛永13)武将・仙台藩の藩祖伊達政宗の命日(新暦6月27日)詳細
1790年(寛政2)老中主座・松平定信が昌平坂学問所で、朱子学以外の学問の教授を禁止する(寛政異学の禁)詳細
1925年(大正14)日本労働組合評議会が結成される詳細
1926年(大正15)北海道の十勝岳が大噴火(十勝岳1926年噴火)し、高温の岩屑なだれが発生、大被害を出す詳細
1956年(昭和31)「売春防止法」が公布(施行は1957年4月1日)される詳細
1971年(昭和46)評論家・婦人解放運動家平塚らいてう(平塚雷鳥)の命日詳細
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 今日は、平安時代前期の承和7年に、藤原緒嗣らが『日本後紀』を撰上した日ですが、新暦では、841年1月5日となります。
 『日本後紀』(にほんこうき)は、平安時代前期に成立した官撰の正史で、『続日本紀』に続く、「六国史」の三番目のものでした。元々は全40巻で、桓武天皇から淳和天皇まで(792~833年)の43年間を扱う漢文編年史でしたが、室町時代の応仁・文明の戦乱で散逸し、現存するのは10巻分のみです。
 819年(弘仁10)に、嵯峨天皇の勅命により、藤原冬嗣(ふゆつぐ)、藤原緒嗣(おつぐ)、藤原貞嗣(さだつぐ)、良岑安世(よしみねのやすよ)が編纂を開始したものの、3人が相次いで亡くなり、終始編纂に従事したのは緒嗣のみで、841年1月5日(承和7年12月9日)にようやく完成し、仁明天皇に撰上されました。内容では、天皇や官人について批判した伝記の記述に特色があるとされ、書中に和歌が12首あることも明らかにもなっています。
 現存しない他の30巻については、『日本紀略』、『類聚国史』等の引用文(逸文)によって部分的復元がなされてきました。
 以下に、『日本後紀』の成立について記した『日本後紀』序〔逸文〕を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本後紀』序(逸文)

<原文>

臣緒嗣等、討論綿書、披閲曩索、文史之興、其来尚矣、無隠毫釐之疵、咸載錙銖之善、炳戒於是森羅、徽猷所以昭晢、史之為用、蓋如斯歟、伏惟前後太上天皇、一天両日、異体同光、並欽明文思、済世利物、問養馬於牧童、得烹鮮於李老、民俗未飽昭華、薛羅早収渙汗、弘仁十年太上天皇(嵯峨)、勅大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣・正三位行中納言兼民部卿藤原朝臣緒嗣、参議従四位上行皇后宮大夫兼伊勢守藤原朝臣貞嗣、参議左衛門督従四位下兼守右大弁行近江守良岑朝臣安世等、監修撰集、未了之間、三臣相尋薨逝、緒嗣独存、後太上天皇(淳和)詔、副左近衛大将従三位兼守権大納言行民部卿清原真人夏野・中納言従三位兼行中務卿直世王・参議正四位下守右近衛大将兼行春宮大夫藤原朝臣吉野・参議従四位上守刑部卿小野朝臣岑守・従五位下勲七等行大外記兼紀伝博士坂上忌寸今継・従五位下行大外記島田朝臣清田等、続令修緝、属之譲祚、日不暇給、今上陛下、稟乾坤之秀気、含宇宙之滴精、受玉璽而光宅、臨瑶図而治平、仁孝自然、聿修鴻業、聖綸重畳、筆削遅延、今更詔左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣・正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常・正三位行中納言臣藤原朝臣吉野・中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房・参議民部卿正四位下勲六等臣朝野宿禰鹿取、令遂功夫、仍令前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭・従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣等、銓次其事以備釈文、錯綜群書、撮其機要、瑣事細語、不入此録、接先史後、綴叙已畢、但事縁例行、具載曹案、今之所撰、棄而不取、自延暦十一年正月丙辰、迄于天長十年二月乙酉、上下卌二年、勒以成卌巻、名曰日本後紀、其次第、列之如左、庶令後世視今、猶今之視古、臣等才非司馬、識異董狐、代匠傷手、流汗如漿、謹詣朝堂、奉進以聞、謹序
      承和七年十二月九日
               左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣
               正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常
               正三位行中納言臣藤原朝臣吉野
               中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房
               参議民部卿正四位下勲六等臣朝野禰祢鹿取
               前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭
               従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣

<現代語訳>

 臣緒嗣らが、先人が著した書物を調べ、古来の書索を閲覧しますと、史書が作られるようになって久しいことが判ります。そこにおいては些細な悪行についても隠すことがなく、小さな善行についてもすべて記載し、明らかな戒めとすべき事柄が限りなく含まれ、これにより正しい道が照らし出されており、史書の有用性は、ここにあります。
 伏して思いますに、前後太上天皇(嵯峨太上天皇と淳和太上天皇)は、一天における二つの太陽と同然でして、体を異にしつつ同じ光輝を発して、共に身心を慎み、道理に明らかで文徳が輝き思慮深い、という徳をもち、世を済い万物に利益を与え、中国古代の聖帝である黄帝が牧童に学んだ、と伝える牧馬の法に同じとする政治の要諦を身につけ、大国を治めるのは小魚を煮るのと同じだと説く老子の政治哲学を体得しておられます。しかし、人民が嵯峨・淳和両天皇の盛世を満喫しないうちに、お二人は退位されてしまいました。
 弘仁十年(819年)に嵯峨天皇は、大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣・正三位行中納言兼民部卿藤原朝臣緒嗣・参議従四位上行皇后宮大夫兼伊勢守藤原朝臣貞嗣・参議左衛門督従四位下兼守右大弁行近江守良岑朝臣安世らに勅して、国史の編修を監督・指導させることになりましたが、作業が終了しない間に三臣が相ついで死去し、緒嗣独り存命する事態になりました。そこで、淳和天皇が詔りして、左近衛大将従三位兼守権大納言行民部卿清原真人夏野・中納言従三位兼行中務卿直世王・参議正四位下守右近衛大将兼行春宮大夫藤原朝臣吉野・参議従四位上守刑部卿小野朝臣岑守・従五位下勲七等行大外記兼紀伝博士坂上忌寸今継・従五位下行大外記島田朝臣清田らを副えて、編修作業を継続させることになりました。しかし、淳和天皇の譲祚に至りましても完成できませんでした。
 今上陛下(仁明天皇)は、天地の間の優れた気を受け継ぎ、宇宙の精気を身に有して、皇位に即いて四方に徳を及ぼし、太平をもたらし、仁と孝の徳を本性として天下を治める大事業に当たられ、国史の編修を促す勅を重ねて出されましたが、作業は遅れてしまいました。ここで、さらに左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣・正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常・正三位行中納言臣藤原朝臣吉野・中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房・参議民部卿正四位下勲六等臣朝野宿禰鹿取らに詔りして、作業を遂行させることになりました。そこで、前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭・従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣らに、資料を排列して整った文章を準備させました。錯雑する種々の書物に関しましては要点のみを採り、煩瑣な細事はこのたびの史書では省き、先史である『続日本紀』に続けて本文の叙述を完了いたしました。ただし国史編修の慣行に従い、詳しい記事を曹案(文案)に記しましたが、本文の編修に当たっては棄てて採りませんでした。延暦十一年(792年)正月丙辰(一日)から天長十年(833年)二月乙酉(二十八日)まで四十二年間の歴史を記述して四十巻にまとめ、『日本後紀』と名づけることにいたします。巻次の目録は、左記のとおりです。願わくは、この『日本後紀』により、いまの人が古の社会を視るがごとく後世の人がいまの社会を視るようになればと思います。編修に当たった私たちは、司馬遷の才能をもたず、識見は董狐(中国春秋時代の史官)に及びません。優れた能力を有する大匠でない私たちは、努力したもののみずからを傷つけ、汗を流すのみで、十分な成果をあげることができませんでした。謹んで朝廷に参内して奉進し、上奏して序文といたします。
  承和七年(840年)十二月九日
               左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣
               正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常
               正三位行中納言臣藤原朝臣吉野
               中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房
               参議民部卿正四位下勲六等臣朝野宿禰鹿取
               前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭
               従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣

  森田悌『日本後紀上 全現代語訳』(講談社学術文庫)より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1159年(平治元)院近臣らの対立により発生した平治の乱が起きる(新暦1160年1月19日)詳細
1916年(大正5)小説家夏目漱石の命日(漱石忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「農地改革に関する覚書」(SCAPIN-411)を指令する詳細
1975年(昭和50)第30回国際連合総会において、「障害者の権利に関する宣言」が採択される(障害者の日)詳細
1993年(平成5)屋久島・白神山地・法隆寺・姫路城の4ヶ所が日本初の世界遺産に決定する詳細
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 今日は、平安時代後期の1062年(康平4)に、源頼義が安倍貞任を厨川の柵で破り、前九年の役が終結した日ですが、新暦では10月22日となります。
 前九年の役(ぜんくねんのえき)は、陸奥国の豪族安倍氏が起こした反乱でしたが、1056年(天喜4)の源頼義の再征~1064年(康平6)の京都凱旋までの年数(九年)を数えてこう呼ばれてきました。当時陸奥6郡(伊沢、江刺、和賀、稗貫、斯波、岩手の6郡)を支配していて、勢力を誇っていた安倍頼良 (頼時) が、国府に貢賦を納めず、徭役も務めないので、陸奥守・藤原登任と秋田城介・平重成が挙兵し、玉造郡鬼切部で戦闘(鬼切部の戦い)が勃発するも、安倍氏に敗れ、藤原登任は解任されます。
 朝廷では、代わりに源頼義を陸奥守に任じてこれを追討させ、頼良 (頼時) は一時帰服し、1052年(永承7)の後冷泉天皇の祖母・上東門院の病気平癒の願いを込めた大赦の際に、安倍氏も赦されました。しかし、1056年(天喜4年)に、大赦により一時停戦となっていたものの、今度は安倍氏と源氏との間で戦いが再開(阿久利川事件)されます。
 1057年(天喜5)に、頼義は津軽の俘囚で頼時の親族である安倍富忠を味方に引き入れることに成功、頼時は富忠の兵の攻撃を受けた傷が元で亡くなりました。頼義は陸奥国府多賀城から出陣(黄海の戦い)したものの、安倍氏が圧勝します。その結果、1059年(康平2)頃には、安倍氏が衣川の南に勢力を伸ばすようになりました。
 1062年(康平5)に源頼義の陸奥守の任期が再度切れ、後任で公家の高階経重が着任しましたが、郡司たちは従わず、経重は何もできないまま帰洛し、そのまま解任され、頼義が再々任されます。その中で、出羽の俘囚清原光頼、武則らの応援を得て参戦し、1062年(康平5年9月17日)に、厨川柵(現在の岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(現在の盛岡市安倍館町)が陥落(厨川の戦い)し、安倍氏が滅亡して、前九年の役が終結しました。
 この戦いは、後の後三年の役(1086~89年)と共に、源氏が東国に勢力を築く端緒となったとされます。

〇前九年の役関係略年表(日付は旧暦です)

・1051年(永承6年) 安倍頼時が貢租を怠った懲罰のために、陸奥守・藤原登任と秋田城介・平重成が挙兵し、玉造郡鬼切部で戦闘(鬼切部の戦い)が勃発するも、安倍氏に敗れる
・1051年(永承6年) 朝廷は源頼義を陸奥守に任じて安倍氏を追討させ、頼良は一時帰服する
・1052年(永承7年) 後冷泉天皇の祖母・上東門院の病気平癒の願いを込めた大赦の際に、安倍氏も赦される
・1053年(天喜元) 源頼義が鎮守府将軍となる
・1056年(天喜4年) 大赦により一時停戦となっていたものの、今度は安倍氏と源氏との間で戦いが再開される(阿久利川事件)
・1057年(天喜5年5月) 頼義は津軽の俘囚で頼時の親族である安倍富忠を味方に引き入れることに成功、頼義は陸奥国府多賀城から出陣(黄海の戦い)するも、安倍氏に敗れる
・1059年(康平2年)頃 安倍氏が衣川の南に勢力を伸ばす
・1062年(康平5年) 源頼義の陸奥守の任期が再度切れ、後任で公家の高階経重が着任したが、郡司たちは従わず、経重は何もできないまま帰洛し、そのまま解任される
・1062年(康平5年9月17日 厨川柵(現在の岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(現在の盛岡市安倍館町)が陥落(厨川の戦い)し、安倍氏が滅亡して、前九年の役が終結する
・1063年(康平5年12月17日) 源頼義は騒乱鎮定を上奏する
・1063年(康平6年2月25日) 一番の功労者源頼義は、伊予守に任ぜられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)俳人・歌人正岡子規の誕生日(新暦10月14日)詳細
1868年(明治元)日本初の洋式燈台である観音崎灯台が起工する(新暦11月1日)詳細
1938年(昭和13)俳人村上鬼城の命日(鬼城忌)詳細
1945年(昭和20)枕崎台風が枕崎に上陸、日本を縦断し、死者・行方不明者3,758人が出る詳細
1964年(昭和39)日本初の旅客用モノレールとなる東京モノレール(羽田空港~浜松町)が開業する詳細
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