ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 平安時代

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 今日は、平安時代中期の1053年(永承9)に、藤原頼通による宇治平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)が完成した日ですが、新暦では3月26日となります。
 宇治平等院(うじびょうどういん)は、京都府宇治市宇治蓮華にある天台宗・浄土宗系の単立寺院で、山号は朝日山とされてきました。藤原道長の別荘であったものを1052年(永承7)に、その子頼通が寺に改め、翌年に阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立したもので、本尊は、定朝作の丈六の阿弥陀如来坐像(国宝)です。
 平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録されました。とりわけ、中心的な建造物である鳳凰堂(国宝)は、平安時代後期を代表する現存建築物で、堂内の木造阿弥陀如来坐像、木造雲中供養菩薩像、鳳凰堂中堂壁扉画と浄土式庭園と共に、西方極楽浄土と阿弥陀如来の世界を再現しているものと言われ、当時の宗教観を知る上にも重要なところです。また、鳳凰堂を中心にして周囲に池を巡らせた庭園は国史跡・国名勝に指定されてきました。

〇宇治平等院の文化財一覧

<国宝>
・平等院鳳凰堂 4棟(中堂 1棟、両翼廊 2棟、尾廊 1棟)
・木造阿弥陀如来坐像
・木造雲中供養菩薩像 52躯
・鳳凰堂中堂壁扉画(板絵著色) 14面 附:九品来迎図 扉画(上品上生)2面
・木造天蓋 1具
・鳳凰(鳳凰堂中堂旧棟飾) 1対
・梵鐘

<国の重要文化財>
・観音堂
・木造十一面観音立像
・養林庵書院 - 塔頭浄土院所有

<国の史跡・名勝>
・平等院庭園 - 浄土式庭園

<京都府指定有形文化財>
・平等院修造勧進状 1巻 - 塔頭浄土院所有
・平等院旧起 1巻 - 塔頭浄土院所有

<京都府指定名勝>
・養林庵書院庭園 - 塔頭浄土院所有

<宇治市指定有形文化財>
・木造地蔵菩薩立像
・木造不動明王立像及二童子像
・浄土院羅漢堂 - 塔頭浄土院所有
・養林庵書院障壁画 13面 - 塔頭浄土院所有
・木造帝釈天立像 - 塔頭浄土院所有
・木造阿弥陀如来立像 - 塔頭浄土院所有
・和漢朗詠集巻下断簡(平等院切)(禁中・古京) 1幅 - 塔頭浄土院所有
・平等院境内古図 2幅 - 塔頭最勝院所有

☆藤原頼通(ふじわら の よりみち)とは?

 平安時代の公卿・歌人です。平安時代中期の992年(正暦3年1月)に、京都において、摂政・関白・太政大臣だった、父・藤原道長の嫡男(母は左大臣源雅信の娘倫子)として生まれましたが、幼名は田鶴(たづ)と言いました。
 1003年(長保5)に元服し、正五位下に叙位、昇殿と禁色を許され、侍従に任官します。翌年には、従四位下に昇叙し、近江介を兼任、春日祭使(藤原氏の氏社奈良の春日社の大祭に朝廷から派遣される使者)に選ばれました。
 1006年 (寛弘3) に従三位、1009年(寛弘6)に権中納言、1011年(寛弘8)に正二位、1013年(長和2)に権大納言、1015年(長和4)に左近衛大将と順調に昇叙・任官します。同年に内大臣となり、後一条天皇の摂政を父・道長から譲られ、藤原氏長者ともなり、1019年(寛仁3)には関白宣下されました。
 1021年(治安元)に居邸高陽院を壮麗に造営して世の耳目を集め、1021年(治安元)に従一位に昇叙し、左大臣に転任します。1024年(万寿元)に高陽院において競馬を催したりしますが、1028年(万寿4)には、父・道長が亡くなりました。
 1035年(長元8)に関白左大臣頼通歌合を開催、1037年(長暦元)に養女嫄子(げんし)が後朱雀天皇に入内、1051年(永承6)には、平親王の女との間に生まれた寛子(かんし)が後冷泉天皇の皇后となり、天皇との姻戚関係を強め、藤原氏全盛時代を築きます。一方で、1040年(長久元)、1045年(寛徳2)、1055年(天喜3)に「荘園整理令」に着手したものの、権門擁護策に終わりました。
 後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の3代、50余年に渡って、摂政あるいは関白の座を占め、女子を天皇の後宮にいれて、外孫皇子の誕生を期待しましたが、その誕生がないままとなります。1061年(康平4)に太政大臣まで上り詰めたものの、翌年には辞し、1064年(康平7)に藤原氏長者も辞め、1067年(治暦3)には関白も辞し、准三宮を宣下されました。
 翌年には、170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位し、1072年(延久4)には、出家し法名を蓮華覚、のち、寂覚とします。1052年(永承8)に宇治の別荘を宇治平等院鳳凰堂として建立していましたが、そこに隠遁し、1074年(延久6年2月2日)に宇治において、数え年83歳で亡くなりました。
 尚、歌人としても知られ、歌壇の後援者として大きな存在で、私家集の集成や歌合類聚事業など、和歌史上の功績も大きく、『後拾遺和歌集』初出後、勅撰集入集は15首にも及んでいます。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1697年(元禄10)国学者・歌人賀茂真淵の誕生日(新暦4月24日)詳細
1774年(安永3)前野良沢・杉田玄白らによって、『解体新書』が刊行される(新暦4月18日)詳細
1806年(文化3)江戸三大大火の一つ、文化の大火が起きる(新暦4月22日)詳細
1869年(明治2)明治政府が貨幣を円形として鋳造する円貨の制度を定める(新暦4月15日)詳細
1952年(昭和27)1952年十勝沖地震(M8.2)が起こり、津波によって死者行方不明者33名を出す詳細
1972年(昭和47)「日米渡り鳥条約」が締結(1979年9月19日発効)される詳細
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 今日は、平安時代後期の1167年(仁安2)に、平清盛が厳島神社に参詣し、『平家納経』の一部とされる、自ら書写した『般若心経』1巻を奉納した日ですが、新暦では3月16日となります。
 『平家納経』(へいけのうきょう)は、平清盛が平家一門の繁栄を祈願して、安芸国の厳島神社に奉納した装飾経(装飾した写経)でした。1164年(長寛2年9月)の供養願文を持ち、『法華経』 28品、開経『無量義経』、結経『観普賢経』、さらに『阿弥陀経』、『般若心経』各1巻の32巻に願文を合せた、計33巻から成っています。
 平家の繁栄を祈り一族32人が一品一巻を分担して写経・製作したもので、各巻意匠を異にし、当代工芸技術の粋を集めていて、1167年(仁安2)には、全てが完成し、厳島神社への奉納が完了しました。平安時代に流行した装飾経の最高峰をなすものであり、大和絵の史料としても貴重であるとされています。
 1897年(明治30)に旧国宝指定され、1954年(昭和29)には、付属の経箱、経箱を納める唐櫃(からびつ)と共に、「平家納経 一具」として国宝に指定されました。

〇平清盛(たいら の きよもり)とは?

 平安時代末期の武将・公卿です。1118年(永久6年1月18日)に、伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれ(実父は白河法皇という説あり)ましたが、通称は平相国と言いました。
 1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
 1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
 日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
 しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。

☆『平家納経』関係略年表

・1164年(長寛2年9月) 厳島神社に一部が奉納される
・1167年(仁安2年) 全てが完成し、厳島神社への奉納が完了する
・1602年(慶長7年) 福島正則が願主となって修理が行われる
・1648年(慶安元年) 浅野長晟が『平家納経』を重修(唐櫃蓋裏銘)する
・1882年(明治15年)10月 第1回内国絵画共進会にて、出展目録「廣島縣下安芸國 嚴島神社出品」に「古寫經及ヒ願文 丗三巻」名義で出品され、この機会に帝室学芸員の手で2年をかけて模写される
・1897年(明治30年)12月28日 旧国宝指定される
・1920年(大正9年)4月18日 大師会にて、厳島神社の高山昇宮司が高橋義雄と益田孝に『平家納経』副本制作を訴え、大倉喜八郎らがその場で協力を約束する
・1925年(大正14年) 田中親美が5年半をかけて副本2組を完成させ、1組を奉納、1組をさらなる副本制作の見本とする
・1954年(昭和29年)3月20日 法華経等33巻、金銀荘雲龍文銅製経箱、蔦蒔絵唐櫃が「平家納経 一具」として国宝に指定される
・1959年(昭和34年) 『薬草喩品』の表紙と見返しが安田靫彦による彩絵(だみえ)に改められる
・1985年(昭和60年) 松井正光らによる装飾金具の修復が始まる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1576年(天正4)織田信長が岐阜から近江の安土城へ移る(新暦3月23日)詳細
1784年(天明4)筑前志賀島の百姓甚兵衛により、「漢倭奴國王」の金印発見される(新暦4月12日)詳細
1904年(明治37)「日韓議定書」に調印する詳細
1942年(昭和17)第21回衆議院議員総選挙(通称:翼賛選挙)目指し、翼賛政治体制協議会が結成される詳細
1943年(昭和18)陸軍省が「撃ちてし止まむ」の戦時標語ポスター5万枚を全国に配布する詳細
1944年(昭和19)太平洋戦争下の言論弾圧(竹槍事件)の原因となる、「毎日新聞」朝刊の戦局解説記事が掲載される詳細
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 今日は、平安時代中期の935年(承平5)に、紀貫之が土佐から京に帰着し、『土佐日記』の旅を終えた日ですが、新暦では3月23日となります。
 『土佐日記】(とさにっき)は、平安時代中期の935年(承平5)頃に成立した旅行日記でした。紀貫之が土佐守の任を終わって、承平4年12月21日に土佐の国府を出立し、翌年2月16日に帰京するまでの55日間のものです。
 筆者を女性に仮託し、仮名で書かれた最初の日記文学として知られてきました。内容は、船中の焦燥。海賊の恐怖、土佐の国人や留守を依頼した隣人に対する風刺など多岐にわたりますが、中でも、土佐国で失った女児に対する追憶の情が叙述に強くみられます。
 また、和歌に関する記事の比重が高く、歌論をわかりやすく展開しているとされてきました。仮名散文が文学表現に堪えうることを明らかにし、後の平安女流文学の基礎ともなっています。

〇紀貫之(き の つらゆき)とは?

 平安時代前期から中期の官吏・歌人・文学者で、三十六歌仙の一人です。貞観8年(866年)または貞観14年(872年)頃に、紀望行の子として生まれたとされてきました。
 寛平4年(892年)から翌年に欠けて、「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平后宮歌合」に出詠、『新撰万葉集』に入選します。延喜5年(905年)に、『古今和歌集』の選者に任じられ、紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上し、「仮名序」を書いて、名実ともに歌界の第一人者となりました。
 延喜6年(906年)に越前権少掾(御書所預)となり、翌年には、内膳典膳となり、宇多上皇の大井川行幸にて歌や序を供奉しています。延喜13年(913年)には、『亭子院歌合』、『内裏菊合 (だいりきくあわせ) 』に出詠しました。
 延喜13年(913年)に大内記、延喜17年(917年)に従五位下となって殿上人となり、延喜17年(917年)に兼加賀介、延喜18年(918年)に兼美濃介、延長元年(923年)に大監物、延長7年右京亮となります。延長8年(930年)に土佐守となり、醍醐天皇の勅命により『新撰和歌』を任地で編纂したものの、天皇が亡くなったため、惜しくも勅撰集とはなりませんでした。
 承平4年(934年)12月には、土佐守の任を終えて、土佐国府を出立し、翌年2月15日に帰洛、その後、この紀行を参考に、『土佐日記』を書いて、初めて仮名散文による文芸の可能性を示してみせます。天慶元年(938年)に周防国に赴き、翌年には、周防国にて紀貫之家歌合を催しました。
 天慶3年(940年)に玄蕃頭、天慶6年(943年)に従五位上、天慶8年(945年)には、木工権頭(もくのごんのかみ)となっています。天慶8年(945年)または翌年に亡くなったとされますが、家集『貫之集』を残し、勅撰集入撰歌は『古今集』以下452首に及び、後に三十六歌仙の一人となりました。

☆『土佐日記】の旅程 承平4年12月21日~承平5年2月16日(日付は旧暦です)

・12月21日 国府(高知県南国市比江周辺)出立
・12月21日~26日 大津(高知県高知市大津)
・12月27日 浦戸(高知県高知市浦戸)
・12月29日 大湊(高知県南国市前浜)
・1月9日 宇多の松原(高知県香南市岸本周辺)
・1月10日 奈半の泊(高知県安芸郡奈半利町)
・1月11日 羽根(高知県室戸市羽根町)
・1月12日 室津(高知県室戸市室津)
・1月29日 土佐の泊(徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦)
・1月30日 阿波の水門(鳴門海峡)
・1月30日 沼島(兵庫県南あわじ市沼島)
・1月30日 和泉の灘(大阪府南西部)
・2月1日 黒崎の松原(大阪府泉南郡岬町淡輪)
・2月1日 箱の浦(大阪府阪南市箱作)
・2月5日 石津(大阪府堺市浜寺)
・2月5日 住吉(大阪府大阪市住吉区)
・2月6日 難波(大阪府大阪市)
・2月8日 鳥飼の御牧(大阪府摂津市鳥飼)
・2月9日 渚の院(大阪府枚方市渚元町)
・2月9日 鵜殿(大阪府高槻市鵜殿)
・2月11日 八幡の宮(石清水八幡宮)
・2月11日 山崎(京都府乙訓郡大山崎町)
・2月16日 島坂(京都府向日市上植野町御塔道)
・2月16日 京(京都府京都市)到着

☆『土佐日記】冒頭部分

 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年(承平四年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。ある人縣の四年五年はてゝ例のことゞも皆しをへて、解由など取りて住むたちより出でゝ船に乘るべき所へわたる。かれこれ知る知らぬおくりす。年ごろよく具しつる人々(共イ)なむわかれ難く思ひてその日頻にとかくしつゝのゝしるうちに夜更けぬ。
 (後略)

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1190年(文治6)武士・僧侶・歌人西行の命日(新暦3月31日)詳細
1666年(寛文6)儒学者・思想家・文献学者荻生徂徠の誕生日(新暦3月21日)詳細
1884年(明治17)日本画家・能書家安田靫彦の誕生日詳細
1948年(昭和23)「当用漢字音訓表」と「当用漢字別表」が公布され、881字がいわゆる「教育漢字」とされる詳細
1987年(昭和62)歴史学者・文学博士坂本太郎の命日詳細
2006年(平成18)兵庫県神戸市に神戸空港(愛称:マリンエア)が開港する詳細
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 今日は、平安時代中期の927年(延長5)に、律令政治の基本細則「延喜式」が完成し、藤原忠平が撰進した日ですが、新暦では2月25日となります。
 「延喜式(えんぎしき)」は、律令の施行細則を取捨・集大成したもので、「弘仁式」、「貞観式」と共に三代格式の一つとされてきました。905年(延喜5)に醍醐天皇の勅により、藤原時平・忠平らによって編集を開始し、「弘仁式」、「貞観式」とその後の式を取捨編集、927年(延長5年1月21日)に完成して撰進されます。
 その後も改訂を重ね、967年(康保4年7月9日)より施行されましたが、のちの律令政治の基本法となりました。全50巻、約3300条からなり、巻1~巻10は神祇官関係の式(そのうち神名式は神名帳ともよばれる)、巻11~巻40は太政官八省関係の式、巻41~巻49はそれ以外の官庁関係の式、巻50は雑式となっていて、全巻がほぼ完全な形で伝わっているため、古代政治を把握するうえで貴重な史料となっています。
 以下に、その構成と927年(延長5年12月26日)に、藤原忠平が天皇に奏上した完成報告書「上延喜格式表」、および延喜式の沿革と意義、編集者名、苦労を綴った「延喜式序」を掲載しておきますので、御参照下さい。

〇「延喜式」の構成

<神祇官関係の式(神祇式)>巻1~巻10
 巻1・巻2 - 定例祭 (通称:四時祭、四時祭式など)
 巻3 - 臨時祭 (通称:四角祭・四角祭式、四境祭・四境祭式、四角四堺祭など)
 巻4 - 大神宮
 巻5 - 斎宮
 巻6 - 斎院
 巻7 - 踐祚大嘗祭
 巻8 - 祝詞
 巻9・巻10 - 神名帳(通称:延喜式神名帳)
<太政官八省関係の式>巻11~巻40
 巻11 - 太政官
 巻12~17 - 中務省
 巻18~20 - 式部省
 巻21 - 治部省
 巻22~27 - 民部省
 巻28 - 兵部省
 巻29 - 刑部省
 巻30 - 大蔵省
 巻31~40 - 宮内省
<その他の官司関係の式>巻41~巻49
 巻41 - 弾正台
 巻42 - 京職
 巻43 - 春宮
 巻44 - 勘解由使
 巻45 - 近衛府
 巻46 - 衛門府
 巻47 - 兵衛府
 巻48 - 馬寮
 巻49 - 兵庫寮
<雑式>巻50
 巻50 - 雑式

〇上延喜格式表

 臣忠平等言。竊以天覆地載,聖帝則之育民,陰慘陽舒,明王象之馭俗。雖則朴盡雕至,馳騖之跡,古今不同。然而立法垂規,勸誡之道,夷隆一致。
 嵯峨太上皇,化周天壤,澤覃淵泉,制格式之明文,貽簡冊於昆季。六典群其綱紀,百寮無所依違。斯固納軌之楷模,經國之准的者也。貞觀先帝,繼受寶命,誕膺洪基。救百王之澆醨,導萬民於富壽。憲章所可以疊矩,凡例由其重規。暨乎年代稍遐,質文遞起,莫不變通之道,南北分岐;號令之流,淺深別泒。
 皇帝陛下,道四三皇,德六五帝,灑甘雨以遍普天之澤,扇淳風而拂率士之塵。重賞輕刑,雲鷹之翮忘鶩,省傜薄賦,野鹿之群不驚。然猶恐惠化未周,頑民陷法。遂降沖旨,彌繕隄防。增損徃策之科條,裨補前脩之殘缺。臣等謹奉綸命,忽屢薄冰。於是搜古典於周室,擇舊儀於漢家。取捨弘仁、貞觀之弛張,因脩永徽、開元之沿革。勒成二部,名曰延喜格式。但格十二卷,筆削早成,往年奏御。式五十卷,撰集纔畢,今日上聞。臣等識非老彭老聃,勤在祖述。聊窺其腠理,寧達彼膏肓。伏願洪慈,曲降照鑒,特垂允容,謹詣闕拜表以聞。臣忠平等,誠惶誠恐,頓首頓首,謹言。

 延長五年十二月廿六日

 左大臣正二位兼行左近衛大將皇太子傅臣藤原朝臣忠平
 大納言正三位兼行民部卿臣藤原朝臣清貫
 從四位上行神祇伯臣大中臣朝臣安則
 從五位上行勘解由次官兼大外記紀伊權介臣伴宿禰久永
 外從五位下行左大史臣阿刀宿禰忠行等上表

〇延喜式序

 左大臣正二位行左近衛大將皇太子傅臣藤原朝臣忠平等奉敕撰
 蓋聞:「蒼精黃神之聖,觀人文以化天下。伊川嬀水之靈,則乾象而垂法度。」故百官以理,自有高枕之君,萬民以治,乃見擊壤之叟。弘仁聖主,德照龜圖,化隆鳥運。君唱臣和,風雲之契斯得,上安下樂,漁水之符克諧。爰降綸言,作諸司式四十卷。所謂國之權衡,民之轡策者也。貞觀天朝,亦降睿旨,商權古今,撰式廿卷。新舊兩存,本枝相得。然猶後式攸鐐,事多漏略。今上陛下,體元履正,御斗提衡。以為貞觀十二年以來,炎涼已久,文案差積。加以前後之式,專條既同,卷軸斯異。諸司觸事,撿閱多岐。因玆延喜五年秋八月,詔左大臣從二位兼行左近衛大將藤原朝臣時平,遣從三位守大納言兼行右近衛大將春宮大夫陸奧出羽按察使藤原朝臣定國、中納言從三位兼行民部卿藤原朝臣有穗、參議大藏卿正四位下兼行播磨權守平朝臣惟範、參議左大辨從四位上兼行讚岐權守紀朝臣長谷雄、從四位下行式部大輔兼春宮亮備前守藤原制臣菅根、從四位下行文章博士兼備中權守三善朝臣清行、民部大輔正五位下兼行勘解由次官但馬守大藏朝臣善行、權左少辨正五位下兼行勘解由次官藤原朝臣道明、從五位上行神祇大副臣大中臣朝臣安則、從五位下行大內記兼周防介三統宿禰理平、外從五位下行明法博士惟宗朝臣善經等,準據開元、永徽式例,併省兩式,削成一部。撰定未畢之間,公卿大夫,頻年薨卒。仍同十二年春二月,敕從三位守大納言兼右近衛大將行春宮大夫臣藤原朝臣忠平、從四位下守右大辨兼勘解由長官橘朝臣澄清等,共隨先業,促其裁成。至延長三年秋八月,重遣大納言正三位兼行民部卿臣藤原朝臣清貫,與前奉詔者大中臣朝臣安則,及從五位上行勘解由次官兼大外記臣伴宿禰久永、外從五位下行左大史臣阿刀宿禰忠行等,同催撰纘,責其成功。爰蒙明制,參詳斟討。搜符案於官曹,摭文記於臺閣。究本尋源,編新隸舊。至如祭祀宴饗之禮、朝會蕃客之儀,大小流例,內外常典,事存儀式,不更載斯。我后留情庶官,屬想眾務。論王道之興衰,驗時俗之厚薄,屈大陽之洪暉,照高問於螢爝,枉溟渤之巨浪,酌下言於牛涔。有利於人可舉行者,有害於物可革去者,悉以制置,垂範來裔。凡起弘仁舊式,至延喜新定,前後綴敘,筆削甫就。惣編五十卷、號曰延喜式。庶使百川之流皆歸於海,萬目之紀俱理於綱。臣等勤非簡要,道謝清通。雖猥銜慈繪,陶淳風於甲令。然恐潛嚴制,致肅霜於秋官。謹序。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1530年(享禄3)武将・戦国大名上杉謙信の誕生日(新暦2月18日)詳細
1866年(慶応2)坂本龍馬らの斡旋により薩長同盟が成立する(新暦3月7日)詳細
1922年(大正11)中国現代史学者・慶應義塾塾長石川忠雄の誕生日詳細
1946年(昭和21)GHQが「公娼廃止の指令」(SCAPIN-642)を出す詳細
1951年(昭和26)小説家宮本百合子の命日詳細
1983年(昭和58)小説家里見弴の命日詳細
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 今日は、平安時代後期の平治元年に、院近臣らの対立により発生した平治の乱が、源義朝、藤原信頼と平清盛とが六条河原などで戦うものの、平清盛側が勝利して終結した日ですが、新暦では1160年2月5日となります。
 平治の乱(へいじのらん)は、後白河院政開始後の藤原通憲(信西)の専横に対して不満をもった藤原信頼、源義朝が起した内乱でした。1156年(保元元)の保元の乱後、これに勝利した後白河天皇は、1158年(保元3)に退位して院政を開始しましたが、院近臣や武士の間で権力争いが激化していきます。
 藤原通憲(信西)と藤原信頼とが反目し、通憲は平清盛と信頼は源義朝と結んで、源平武士団の対立に結びついていきました。1160年(平治元)に清盛が熊野詣でに出かけて、京都を留守にした間隙を狙い、同年12月9日(1160年1月19日)に、藤原信頼・源義朝が院御所・三条殿を襲撃し、後白河上皇幽閉、藤原通憲(信西)の殺害という事件に発展します。
 熊野詣での途中から清盛は、紀伊の武士湯浅宗重や熊野別当湛快らの支援を得て急遽京都に引き返し、信頼に臣従するふりをして天皇と上皇を脱出させることに成功しました。同年12月26日に、源平両軍は京都の六条河原などで戦ったものの、源光保・頼政らの寝返りもあって、義朝は孤立して大敗します。
 その結果、信頼は捕らえられて殺害され、東国に逃れようとした義朝も同年12月29日に、尾張の知多半島の野間で家人長田忠致の裏切りにあって謀殺されました。翌年に義朝の子頼朝なども伊豆等へ流されて、源氏は一時衰退し、1167年(仁安2)には、平清盛が太政大臣に就任して、平氏の全盛期を迎えます。しかし、源平の対立は継続し、のちの源平合戦へと発展していきました。
 以下に、『平治物語』六波羅合戦の事と義朝敗北の事を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『平治物語』六波羅合戦の事・義朝敗北の事

 六波羅合戦の事

 悪源太は、そのまま六波羅へ寄せらるるに、一人当千の兵ども、真前に進んで戦ひけり。金子十郎家忠(いへただ)は、保元の合戦にも、為朝(ためよし)の陣に駆け入り、高間の三郎兄弟を組んで討ち、八郎御曹子の矢先を逃れて名を上げけるが、今度も真つ先駆けて戦ひけり。矢種も皆射尽くし、弓も引き折り、太刀をも討ち折りければ、折れ太刀をひつ下げて、「あはれ太刀がな。今一つ合戦せん」と思ひて、駆け回(まは)るところに、同国の住人足立右馬允遠元(とほもと)馳せ来れば、「これ御覧候へ、足立殿。太刀を討ち折つて候ふ。御帯(は)き副(そ)へ候はば、御恩に蒙(かうぶ)り候はん」と申しければ、折節帯き副へなかりしかども、「御辺の乞ふがやさしきに」とて、前を討たせける郎等の太刀を取つて、金子にぞ与へける。家忠大きに喜んで、また駆け入つて敵数多(あまた)討つてけり。
 足立が郎等申しけるは、「日来より御前途に立つまじき者と思し召せばこそ、戦の中にて太刀を取つて人には給はるらめ。これほどは最後の御供とこそ存ぜしかども、これほどに見限られ奉ては、先立ち申しにしかじ」とて、すでに腹を斬らんと、上帯を押をし切ければ、遠元(とほもと)馬より飛むで下り、「汝が恨むるところもつとも理(ことはり)なり。しかれども金子が所望の黙(もだ)し難さに、御辺が太刀を取りつるなり。戦をするも主のため、討ち死にする傍輩に太刀を請はれて、与へぬものや侍らん。漢朝の季札(きさつ)も除君に剣を請はれては、惜しまずとこそ承(うけたまは)れ。しばらく待て」と言ふところに、敵三騎来て、足立を討たんと駆け寄せたり。遠元先づ真つ先に進みたる武者を、よつぴいてひやうど射る。その矢過(あやま)たず内兜に立て、馬より真倒に落ちければ、残り二騎は馬を惜しみて駆けざりけり。遠元やがて走り寄つて、帯たる太刀を引き切つておつ取り、「汝が恨み真中、くわ、太刀取らするぞ」とて、郎等に与へ、うち連れてこそまた駆けれ。
 悪源太のたまひけるは、「今日六波羅へ寄せて、門の中へ入らざるこそ口惜しけれ。進めや、者ども」とて、究竟(きうきやう)の兵五十余騎、錏(しころ)を傾(かたぶ)けて駆け入れば、平家の侍防ぎかね、ばつと引てぞ入りにける。義平(よしひら)先づ本意を遂げぬと喜んで、喚おめ)き叫んで駆け入り給へり。清盛は、北の台の西の妻戸の間に、戦下知して居ゐ)給ひけるが、妻戸の扉に、敵の射る矢雨の降る如くに当たりければ、清盛怒つてのたまひけるは、「防ぐ兵に恥ある侍がなければこそ、ここまで敵は近づくらめ。出で出で、さらば駆けん」とて、紺の直垂(ひたたれ)に黒糸縅の鎧着、黒漆(くろうるし)の太刀を履き、黒母衣(くろほろ)の矢負ひ、塗り籠め藤の弓持つて、黒き馬に黒鞍置(を)かせて乗り給へり。上より下まで大人しやかに、出たたれけるが、鐙(あぶみ)踏む張り大音上げて、「寄せての大将軍は誰人ぞ。かう申すは太宰大弐清盛なり。見参せん」とて、駆け出られければ、御曹子これを聞き給ひ、「悪源太義平ここにあり。得たりやおう」と叫びて駆く。平家の侍これを見て、筑後守父子・主馬判官、館親子・難波・妹尾をはじめとして、究竟の兵五百余騎、真前に馳せ塞がつて戦ひけり。
 源平互ひに入り乱れて、ここを最後ともみ合ふたり。孫子が秘せしところ、子房が伝ふところ、互ひに知れる道なれば、平家の大勢、陽に開いて囲まんとすれども囲まれず、陰に閉ぢて討たんとすれども討たれず、千変万化して、義平(よしひら)三方をまくりたて、面(おもて)も振らず斬つて回(まは)り給ひしかども、源氏は今朝よりの疲れ武者、息をもつかず攻め戦ひ、平家は新手(あらて)を入れ替へ入れ替へ、城にかかつて馬を休め、駆け出で駆け出で戦ひければ、源氏終(つゐ)に討ち負けて、門より外へ引き退き、やがて河をかけ渡し、河原を西へぞ引きたりける。

 義朝敗北の事

 平家追つ駆けて攻めければ、三条河原にて鎌田兵衛申しけるは、「頭殿(かうのとの)は思し召す旨あつて落ちさせ給ふぞ。よくよく防ぎ矢仕れ」と言ひければ、平賀四郎義宣(よしのぶ)、引つ返し散々に戦はれければ、義朝返(かへ)り見給ひて、「あつぱれ、源氏は鞭差しまでも、愚(をろ)かなる者はなきものかな。あたら兵、平賀討たすな。義宣討たすな」とのたまへば、佐々木の源三・須藤刑部・井沢四郎を始めとして、我も我もと真つ先に馳せ塞がつて防ぎけるが、佐々木源三秀義は、敵二騎斬つて落とし、我が身も手負ひければ、近江を指して落ちにけり。須藤形部俊通(としみち)も、六条河原にて、滝口と共に討ち死にせんと進みしを、止(とど)め給ひしかども、ここにて敵三騎討ち取つて、終(つゐ)に討たれてけり。井沢四郎宣景のぶかげ)は、二十四差したる失をもつて、今朝の戦ひに敵十八騎討落とし、今の合戦によき敵四騎射殺したれば、箙(ゑびら)に二つぞ残りたる。その後打ち物になつて振る舞ひけるが、痛手負ふて引きにけり。東近江に落ちて傷療治し、弓うち切り杖につき、山伝ひに甲斐の井沢へぞ行きにける。
 かやうに面々戦ふ間に、義朝(よしとも)落ち延び給ひしかば、鎌田を召して、「汝に預(あづ)けし姫はいかに」とのたまへば、「私の女に申し置(を)き参らせて候ふ」と申せば、「戦に負けて落つると聞き、いかばかりの事か思らん。中々殺して帰(かへ)れ」とのたまへば、鞭を上げて、六条堀川の宿所に馳せ来てみければ、戦に恐れて人一人もなきに、持仏堂の中に人音しければ、行きて見るに、姫君仏前に経うち読みておはしけるが、政家(まさいへ)を御覧じて、「さてそも、戦はいかに」と問ひ給へば、「頭殿(かうのとの)は打ち負けさせ給ひて、東国の方へ御落ち候ふが、姫君の御事をのみ、悲しみ参らつさせ給ひ候ふ」と申せば、「さては我らもただ今敵に探し出だされ、これこそ義朝の娘(むすめ)よなど沙汰せられ、恥を見んこそ心憂けれ。あはれ、貴きも賎しきも、女の身ほど悲しかりける事はなし。兵衛佐殿は十三になれども、男なれば戦に出でて、御供申し給ふぞかし。わらは十四になれども、女の身とて残し置(を)かれ、我が身の恥を見るのみならず、父の骸(むくろ)を汚さん事こそ悲しけれ。兵衛、先づ我を殺して、頭殿の見参に入れよ」とくどき給へば、「頭殿もその仰せにて候ふ」と申せば、「さてはうれしき事かな」とて、御経を巻き納め、仏に向かひ手を合はせ、念仏申させ給へば、政家つと参り、殺し奉らんとすれども、御産屋(うぶや)の内より抱き取り奉りし養君にて、今まで負ふし立て参らせたれば、いかでか哀れに泣かるべき。涙に暮れて、刀の立ち所も思えずして、泣き居(ゐ)たりければ、姫君、「敵や近付くらん、疾と)く疾く」と勧め給へば、力なく三刀刺して御首を取り、御死骸をば深く納めて馳せ帰り、頭殿の見参に入れたりければ、ただ一目御覧じて、涙にむせび給ひけるが、東山のほとりに知り給へる僧の所へ、この御首を遣はして、「弔(とぶら)ひて賜(た)び給へ」とてぞ落ちられける。
 さるほどに、平家の軍兵馳せ散つて、信頼(のぶより)・義朝(よしとも)の宿所を始めて、謀反の輩(ともがら)の家々に、押(を)し寄せ押し寄せ火をかけて、焼き払ひしかば、その妻子眷属(けんぞく)、東西に逃げ惑ひ、山野に身をぞ隠しける。方々に落ち行く人々は、我が行く前は知らねども、跡の煙(けぶり)を返(かへ)り見て、敵は今や近付くらむ、急げ急げと身を揉みけり。比叡山には、信頼・義朝討ち負けて、大原口へ落つると沙汰しければ、西塔法師これを聞きて、「いざや落人討ち止とど)めん」とて、二三百人千束が崖(がけ)に待ちかけたり。義朝この由聞き及び、「都にてともかくもなるべき身の、鎌田が由なき申し状によつて、ここまで落ちて山徒の手にかかり、甲斐(かひ)なき死をせんずるこそ口惜しけれ」とのたまへば、斉藤別当申しけるは、「ここをば実盛さねもり)通(とを)し参らせ候はん」とて、馬より下り、兜を脱いで手に引つ提げ、乱れ髪を面に振りかけ、近付き寄つて言ひけるは、「右衛門督、左馬頭殿以下、御許(おもと)の人々は、皆大内・六波羅にて討ち死にし給ひぬ。これは諸国の借り武者どもが、恥をも知らず妻子を見んために、本国に落ち下り候ふなり。討ち止めて、罪作りに何かし給はん。具足を召されむためならば、物の具をば参らせ候はん。通して給はれ」と申しければ、「げにも大将たちにてはなかりけり。葉武者は討ちて何かせん。具足をだに脱ぎ捨てば、通されよかし」と詮議しければ、実盛重ねて、「衆徒は大勢おはします。我らは小勢なり。草摺を切つてもなほ及び難し。投げんに従ひ奪ひ取り給へ」と言へば、面(おもて)に進める若大衆、「もつともしかるべし」とて相あひ)集まる。後陣の老僧も、我劣らじと一所に寄つて、競(きほ)ひ争ふところに、実盛兜をかつぱと投げたりけり。我取らんとひしめきければ、敢へて敵の体をも見つくろはざりけるところに、三十二騎の兵、打ち物を抜きて、兜の錏(しころ)を傾(かたぶ)け、がはと駆け入り蹴散らして通りければ、大衆にはかに長刀を取り直なを)し、余すまじとて追つ駆ければ、実盛大童(わらは)にて、大の中差(なかざし)取つて継がひ、「敵も敵によるぞ。義朝の郎等に武蔵国住人、長井斉藤別当実盛ぞかし。留めんと思うはば寄れや。手柄のほど見せん」とて、取つて返せば、大衆の中に弓取りは少しもなし、敵はじとや思ひけん、皆引きてぞ帰りける。
 義朝(よしとも)八瀬(やせ)の松原を過ぎられけるに、後ろより、「やや」と呼ぶ声(こゑ)しければ、何者やらんと見給へば、はるかに前へぞ延べぬらんと思えつる信頼(のぶより)卿追ひ付きて、「もし戦に負けて東国へ落ちん時は、信頼をも連れて下らんとこそ聞こえしか。心変はりかや」とのたまへば、義朝余りの憎さに腹を据へかねて、「日本一の不覚人、かかる大事を思ひ立つて、一つ戦だにせずして、我が身も滅び人をも失ふにこそ。面(おもて)つれなふ物をのたまふものかな」とて、持たれたる鞭をもつて、信頼の弓手(ゆんで)の頬先を、したたかに打たれけり。信頼この返事をばし給はず、まことに臆したる体にて、しきりに鞭目を押(を)し撫で押し撫でぞせられける。乳母子の式部大夫助吉(すけよし)これを見て、「何者なれば、督殿をばかうは申すぞ。和人(わひと)ども心の剛ならば、など戦には勝たずして、負けては国へ下るぞ」と言ひければ、義朝、「あの男に物な言はせそ。討ちて捨てよ」とのたまひければ、鎌田兵衛、「何条ただ今さる事の候ふべき。敵や続き候ふらん。延べさせ給へ」とて行くところに、また横河(よかは)法師上下四五百人、信頼・義朝の落つるなる、討ち止めんとて、竜華越に逆茂木引き、掻楯(かいだて)かいて待ち懸けたり。
 三十余騎の兵、各々(をのをの)馬より飛び下り飛び下り、手々に逆茂木をばものともせず、引き伏せ引き伏せ通(とを)るところに、衆徒の中より、差し詰め引き詰め散々に射たりければ、陸奥六郎義隆(よしたか)の首の骨を射られて、馬よりさかさまに落ちられてけり。中宮大夫進朝長(ともなが)も、弓手(ゆんで)の股をしたたかに射られて、鐙(あぶみ)を踏みかね給ひければ、義朝、「大夫は失に当たりつるな。常に鎧突(づ)きをせよ。裏かかすな」とのたまへば、その矢引つかなぐつて捨て、「さも候はず、陸奥六郎殿こそ痛手おはせ給ひ候つれ」とて、さらぬ体にて馬をぞ速められける。六郎殿討たれ給へば、首を取らせて義朝のたまひけるは、「弓矢取る身の習(なら)ひ、戦に負けて落つるは、常の事ぞかし。それを僧徒の身として、助くるまでこそなからめ、結句討ち止めんとし、物の具剥がんなどするこそ奇怪なれ。憎い奴ばら、後代の例(ためし)に一人も残さず討てや者ども」と、下知せられければ、三十余騎轡(くつばみ)を並べ、駆け入り割り付け追ひ回(まは)し、攻め詰め攻め詰め斬り付けられければ、山徒立ち所に三十余人討たれにければ、残る大衆、大略手負ひて、はうはう谷々へ帰(かへ)るとて、「この落人討ち止(とど)めんと言ふ事は、誰が言ひ出だせる事ぞ」とて、あれよこれよと論じけるほどに、同士戦をしいだして、また多(おほ)くぞ死にける。誠に出家の身として、落人討ち止め、物具奪ひ取らんなどして、わづかの落ち武者に駆けたてられ、多くの人を討たせ、また同士戦し出だして、数多(あまた)の衆徒を失ふ事、僧徒の法にも恥辱なり、武芸のためにも瑕瑾(かきん)なり。されば冥慮にも背き、神明にも放たれ奉りぬとぞ思えし。
 この敵をも追ひ散らしければ、竜華のふもとに皆下り居ゐて、馬を休められけるが、義朝(よしとも)、後藤兵衛真基(さねもと)を召して、「汝に預あづ)け置(を)きし姫はいかに」とのたまへば、「私の女によくよく申し含めて候へば、別の御事は候ふまじ」と申しけり。「さては心安けれども、汝これより都へ帰り上り、姫を育てて尼にもなし、義朝が後世菩提弔(とぶら)はせよ」とのたまへば、「先いづくまでも御供仕り、ともかくもならせ給はん御有様を見とつけ参らせてこそ帰り上り候はんずれ」と申せども、「存ずる旨あり。疾(と)く疾く」とのたまへば、力及ばず都へ帰り、姫君につき奉り、ここかしこに隠し置き参らせて、源氏の御代になりしかば、一条二位中将能保(よしやす)卿の北の方になし奉りけるなり。真基も鎌倉殿の御時に世に出でけるとぞ聞こえし。

☆平治の乱関係略年表(日付は旧暦です)

<平治元年> 

・12月4日 平清盛が熊野詣に出発する
・12月9日 三条殿および信西邸が焼き討ちに合う
・12月10日 信西の子ら解官、流刑となる
・12月14日 源義朝らが昇進、任官する
・12月15日 信西の遺骸が源光保に発見される
・12月17日 信西の首が梟首される、同日、平清盛が帰京する
・12月中旬 内大臣・藤原公教を中心に、二条天皇六波羅行幸の計画が練られる
・12月25日 平清盛、藤原信頼に名簿を提出する(臣下の礼を取る)、同日夜、後白河上皇の内裏脱出と、二条天皇の六波羅行幸が実行される
・12月26日 六波羅合戦で平清盛側が勝利する、同日、藤原信頼が仁和寺に出頭する
・12月27日 藤原信頼が処刑される
・12月29日 尾張国の知多半島の野間で家人長田忠致の裏切りにあって源義朝が殺害される、平重盛、平頼盛ら乱平定功労者に恩賞が与えられる

<平治2年>

・時期不明 藤原経宗・藤原惟方、後白河上皇が御所としていた藤原顕長邸の桟敷の回りに板を打ち付けて視界をさえぎるという狼藉を行なう
・1月26日 近衛天皇の皇后であった藤原多子が二条天皇のもとに入内する
・2月9日 源頼朝が捕縛される
・2月20日 後白河上皇の命により藤原経宗・藤原惟方が平清盛の郎党によって内裏で捕縛される
・2月22日 信西の子らが赦免される
・2月28日 藤原経宗・藤原惟方が解官される
・3月11日 藤原経宗・藤原惟方・源師仲・源頼朝・源希義が流刑に処される
・6月14日 源光保が流刑に処される
・6月20日 平清盛、正三位に叙される
・7月9日 藤原公教が死去する
・8月11日 平清盛、参議となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1265年(文永2)藤原為家らが第11勅撰和歌集である『続古今和歌集』を撰進する(新暦1266年2月2日)詳細
1841年(天保12)お雇い外国人であるイギリス人技師R・H・ブラントンの誕生日詳細
1887年(明治20)「保安条例」が公布・施行される詳細
1888年(明治21)小説家・劇作家・実業家菊池寛の誕生日詳細
1960年(昭和35)哲学者・倫理学者・文化史家・評論家和辻哲郎の命日詳細
2004年(平成16)詩人石垣りんの命日詳細
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