今日は、南北朝時代の1356年(正平11/延文元)に、二条良基が日本初の連歌選集『菟玖波集』を編纂し、序文が書かれた日ですが、新暦では4月26日となります。
『菟玖波集』(つくばしゅう)は、二条良基、救済撰による、わが国最初の連歌集でした。南北朝時代の1356年(正平11/延文元年3月25日)の序文(近衛道嗣の真名序・二条良基の仮名序)を持ち、その後しばらくして完成し、翌年准勅撰連歌集となります。
古代から南北朝時代に至る連歌(付句2,000余、発句約120)を20巻に編集したものでした。作者は公家、武家、僧侶ほか各階層にわたって、500人以上にも及び、上位入集者は、救済(127句)、二品法親王尊胤(90句)、二条良基(87句)、佐々木道誉(81句)、足利尊氏(68句)です。
連歌の文学的地位を高め、その後の発展の重要な礎石となり、後の『新撰菟玖波集』と共に連歌史上最も重要なものとされてきました。
古代から南北朝時代に至る連歌(付句2,000余、発句約120)を20巻に編集したものでした。作者は公家、武家、僧侶ほか各階層にわたって、500人以上にも及び、上位入集者は、救済(127句)、二品法親王尊胤(90句)、二条良基(87句)、佐々木道誉(81句)、足利尊氏(68句)です。
連歌の文学的地位を高め、その後の発展の重要な礎石となり、後の『新撰菟玖波集』と共に連歌史上最も重要なものとされてきました。
〇二条良基(にじょう よしもと)とは?
南北朝時代に活躍した公卿、歌人であり連歌の大成者です。1320年(元応2)に、関白だった父・二条道平、母・西園寺婉子(洞院公賢の娘)の嫡子として生まれました。
1327年(嘉暦2)に、8歳で元服し、正五位下侍従となり、1328年(嘉暦3)に従四位上に昇叙し、さらに、従三位に昇叙、翌年には、権中納言に転任します。しかし、1332年(正慶元)に、元弘の乱が発生して後醍醐天皇は隠岐島に配流され、内覧であった父・道平は倒幕への関与が疑われて幽閉され、良基も権中納言兼左近衛中将の地位を追われました。
翌年には、鎌倉幕府が滅亡し、京都に復帰して 建武の新政を開始した後醍醐天皇に仕え、権中納言に還任し、従二位に昇叙しています。1335年(建武2)に父・道平が急逝、1336年(延元元/建武3)に権大納言となりますが、後醍醐天皇は足利尊氏によって政権を追われ、吉野へ逃れて南朝(吉野朝廷)を成立させたものの、それに従わず京都に留まりました。
北朝の光明天皇に仕え、1337年(延元2/建武4)に正二位に昇叙し、翌年には、左近衛大将を兼任します。1339年(延元4/暦応2)に母・西園寺婉子が亡くなりましたが、翌年に内大臣に任命され、1342年(興国3/康永元)には、東宮(興仁親王、のちの崇光天皇)傅を兼ね、翌年には、右大臣に転任しました。
1345年(興国6/貞和元)最初の連歌論書である『僻連抄』が著され、翌年には、光明天皇の関白及び藤氏長者に任命されます。1347年(正平2/貞和3)に従一位に昇叙し、左大臣に転任したものの、翌年に東宮傅を辞任、1349年(正平4/貞和5)には、左大臣も辞任しました。
1356年(正平11/延文元)に救済と共に連歌撰集である『菟玖波集』20巻を編集し、自分の句を87句入集させています。1363年(正平18/貞治2)に頓阿と共著『愚問賢註』を著し、1366年(正平21/貞治5)に『年中行事歌合』を主催して、その判詞を執筆、翌年に『新玉津島歌合』においても主要な役割を演じ、1372年(文中元/応安5)には、連歌式目として『応安新式』を制定しました。
1376年(天授2/永和2)に准三宮宣下され、1381年(弘和元/永徳元)に太政大臣に任命され、1382年(弘和2/永徳2)に後小松天皇の即位と共に摂政となり、一方で、『新後拾遺和歌集』の仮名序も執筆しています。1383年(弘和3/永徳3)に内舎人随身を賜りましたが、1387年(元中4/至徳4)には、太政大臣と摂政を辞任し、松田貞秀に『近来風体抄』を書き与えました。
歌道に通じ、博学多識、特に連歌の興隆に果した役割は注目されましたが、1388年(元中5/嘉慶2年6月13日)に、数え年69歳で亡くなっています。
1327年(嘉暦2)に、8歳で元服し、正五位下侍従となり、1328年(嘉暦3)に従四位上に昇叙し、さらに、従三位に昇叙、翌年には、権中納言に転任します。しかし、1332年(正慶元)に、元弘の乱が発生して後醍醐天皇は隠岐島に配流され、内覧であった父・道平は倒幕への関与が疑われて幽閉され、良基も権中納言兼左近衛中将の地位を追われました。
翌年には、鎌倉幕府が滅亡し、京都に復帰して 建武の新政を開始した後醍醐天皇に仕え、権中納言に還任し、従二位に昇叙しています。1335年(建武2)に父・道平が急逝、1336年(延元元/建武3)に権大納言となりますが、後醍醐天皇は足利尊氏によって政権を追われ、吉野へ逃れて南朝(吉野朝廷)を成立させたものの、それに従わず京都に留まりました。
北朝の光明天皇に仕え、1337年(延元2/建武4)に正二位に昇叙し、翌年には、左近衛大将を兼任します。1339年(延元4/暦応2)に母・西園寺婉子が亡くなりましたが、翌年に内大臣に任命され、1342年(興国3/康永元)には、東宮(興仁親王、のちの崇光天皇)傅を兼ね、翌年には、右大臣に転任しました。
1345年(興国6/貞和元)最初の連歌論書である『僻連抄』が著され、翌年には、光明天皇の関白及び藤氏長者に任命されます。1347年(正平2/貞和3)に従一位に昇叙し、左大臣に転任したものの、翌年に東宮傅を辞任、1349年(正平4/貞和5)には、左大臣も辞任しました。
1356年(正平11/延文元)に救済と共に連歌撰集である『菟玖波集』20巻を編集し、自分の句を87句入集させています。1363年(正平18/貞治2)に頓阿と共著『愚問賢註』を著し、1366年(正平21/貞治5)に『年中行事歌合』を主催して、その判詞を執筆、翌年に『新玉津島歌合』においても主要な役割を演じ、1372年(文中元/応安5)には、連歌式目として『応安新式』を制定しました。
1376年(天授2/永和2)に准三宮宣下され、1381年(弘和元/永徳元)に太政大臣に任命され、1382年(弘和2/永徳2)に後小松天皇の即位と共に摂政となり、一方で、『新後拾遺和歌集』の仮名序も執筆しています。1383年(弘和3/永徳3)に内舎人随身を賜りましたが、1387年(元中4/至徳4)には、太政大臣と摂政を辞任し、松田貞秀に『近来風体抄』を書き与えました。
歌道に通じ、博学多識、特に連歌の興隆に果した役割は注目されましたが、1388年(元中5/嘉慶2年6月13日)に、数え年69歳で亡くなっています。
<二条良基の主要な著作>
・連歌論書『僻連抄』(1345年)
・連歌論書『連理秘抄』(1349年)
・紀行『小島 (おじま) の口ずさみ』(1353年)
・救済と共撰『菟玖波集』20巻(1356年)
・連歌論書『撃蒙抄』(1358年)
・頓阿と共著歌論書『愚問賢註(ぐもんけんちゅう)』(1363年)
・連歌論書『筑波問答』(1372年)
・連歌論書『九州問答』(1376年)
・連歌論書『連歌十様』(1379年)
・連歌論書『十問最秘抄』(1383年)
・歌論書『近来風体抄』(1387年)
・連歌論書『知連抄』(1387年)
☆二条良基関係略年表(日付は旧暦です)
・元応2年(1320年) 関白だった父・二条道平、母・西園寺婉子(洞院公賢の娘)の嫡子として生まれる
・嘉暦2年(1327年) 元服し、禁色を許され、正五位下に叙位し、侍従に任官、左近衛少将に転任、従四位下に昇叙し、左近衛中将に転任する
・嘉暦3年(1328年) 従四位上に昇叙し、さらに、従三位に昇叙する
・嘉暦4年(1329年) 権中納言に転任する
・元徳2年(1330年) 正三位に昇叙する
・正慶元年(1332年) 権中納言を辞任する
・元弘3年(1333年) 権中納言に還任、従二位に昇叙する
・建武2年(1335年) 父・道平が急逝する
・延元元年・建武3年(1336年) 権大納言に転任、後醍醐天皇は足利尊氏によって政権を追われ、吉野へ逃れて南朝(吉野朝廷)を成立させたものの、それに従わず京都に留まる
・延元2年・建武4年(1337年) 正二位に昇叙しする
・延元3年・暦応元年(1338年) 左近衛大将を兼任する
・延元4年・暦応2年(1339年) 母・西園寺婉子が亡くなる
・興国元年・暦応3年(1340年) 内大臣に任命される
・興国3年・康永元年(1342年) 東宮(興仁親王、のちの崇光天皇)傅を兼ね。左近衛大将を辞職する
・興国4年・康永2年(1343年) 右大臣に転任する
・興国6年・貞和元年(1345年) 最初の連歌論書である『僻連抄』を著わす
・正平元年・貞和2年(1346年) 関白宣下、内覧宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下される
・正平2年・貞和3年(1347年) 従一位に昇叙し、左大臣に転任する
・正平3年・貞和4年(1348年) 東宮傅を辞任する
・正平4年・貞和5年(1349年) 左大臣を辞任する
・正平11年・延文元年(1356年) 救済と共に『菟玖波(つくば)集』を編集する
・正平13年・延文3年(1358年) 関白を辞任し、内覧宣下される
・正平18年・貞治2年(1363年) 関白宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下され、頓阿と共著『愚問賢註(ぐもんけんちゅう)』を著す
・正平21年・貞治5年(1366年) 『年中行事歌合(うたあわせ)』を主催して、その判詞を執筆する
・正平22年・貞治6年(1367年) 『新玉津島歌合』においても主要な役割を演じ、関白を辞すも内覧宣下される
・文中元年・応安5年(1372年) 連歌式目として『応安(おうあん)新式』を制定する
・天授2年・永和2年(1376年) 准三宮宣下される
・弘和元年・永徳元年(1381年) 太政大臣に任命される
・弘和2年・永徳2年(1382年) 摂政宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下され、『新後拾遺(しんごしゅうい)和歌集』の仮名序を執筆する
・弘和3年・永徳3年(1383年) 内舎人随身を賜る
・元中4年・至徳4年(1387年) 太政大臣を辞任、摂政を辞し、内覧宣下され、松田貞秀(さだひで)に『近来風体抄(きんらいふうていしょう)』を書き与える
・元中5年・嘉慶2年(1388年) 摂政宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下され、6月13日に数え年69歳で亡くなり、後普光園院摂政太政大臣と号する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
850年(嘉祥3) | 第56代の天皇とされる清和天皇(源氏の祖)の誕生日(新暦5月10日) | 詳細 |
1906年(明治39) | 島崎藤村が長篇小説『破戒』を「緑陰叢書」第1篇として自費出版し、自然主義文学の出発点となる | 詳細 |
1919年(大正8) | 建築家・工学博士で、「日本近代建築の父」と呼ばれた辰野金吾の命日 | 詳細 |
1928年(昭和3) | 全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成される | 詳細 |
1939年(昭和14) | 「軍用資源秘密保護法」が公布(施行は同年6月26日)される | 詳細 |
2005年(平成17) | 愛知県において、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)が開幕する | 詳細 |