ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 室町時代

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 今日は、南北朝時代の1337年(延元2/建武4)に、金ヶ崎の戦いにおいて、越前国金ヶ崎城が落城し、恒良親王が捕われ尊良親王が自害、新田義貞が敗走した日ですが、新暦では4月7日となります。
 金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は、南北朝時代の1336年(延元元/建武3)から翌年3月にかけて、越前国金ヶ崎城(現在の福井県敦賀市)に籠城する新田義貞率いる建武政権残党軍の軍勢と、それを攻撃する斯波高経率いる室町幕府・北朝方の軍勢との間で行われた戦いでした。金ヶ崎城は、中世の山城(標高86m)で、1336年(延元元/建武3)に、後醍醐天皇の命を受けた南朝方の新田義貞が皇太子恒良親王と皇子尊良親王を奉じて北陸路に向った際、気比氏治に迎えられて入城しましたが、北朝方の越前国守護斯波高経に包囲されます。
 しかし、日本海に突出した岬の山上にあった堅固な要害だったため、攻めあぐね、兵糧攻めを行いました。翌年に足利尊氏は、高師泰を大将に各国の守護を援軍として派遣し、厳しく攻め立てます。新田義貞らは援軍を求めるため、二人の皇子と新田義顕らを残し、兵糧の尽きたこの城を脱出し、杣山城で態勢を立て直そうとしました。
 その後、義貞は金ヶ崎城を救援しようとしますが途中で阻まれ、3月3日には北朝方が金ヶ崎城に攻め込みます。そのため、兵糧攻めによる飢餓と疲労で困憊していた城兵は次々と討ち取られて3月6日に落城、尊良親王は自害、新田一族の十余人、少納言一条行房ほかは殉死、恒良親王は脱出したものの、北朝方に捕らえられました。
 尚、現在は城跡に恒良、尊良両親王を祀る金崎宮があり、月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪跡、堀切りなどが残り、1934年(昭和9)に国の史跡に指定されました。
 金ヶ崎城落城の様子を『太平記』では以下のように描いています。

〇『太平記』金崎城落事(巻第十八)

 ・・・・・・・・
瓜生・宇都宮不斜悦て、今一度金崎へ向て、先度の恥を雪め城中の思を令蘇せと、様々思案を回しけれども、東風漸閑に成て山路の雪も村消ければ、国々の勢も寄手に加て兵十万騎に余れり。義貞の勢は僅に五百余人、心許は猛けれ共、馬・物具も墓々しからねば、兎やせまし角やせましと身を揉で、二十日余りを過しける程に、金崎には、早、馬共をも皆食尽して、食事を断つ事十日許に成にければ、軍勢共も今は手足もはたらかず成にけり。爰に大手の攻口に有ける兵共、高越後守が前に来て、「此城は如何様兵粮に迫りて馬をばし食候やらん。初め比は城中に馬の四五十疋あるらんと覚へて、常に湯洗をし水を蹴させなんどし候しが、近来は一疋も引出す事も候はず。哀一攻せめて見候はばや。」と申ければ、諸大将、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻に、大手・搦手十万騎、同時に切岸の下、屏際にぞ付たりける。城中の兵共是を防ん為に、木戸の辺迄よろめき出たれ共、太刀を仕ふべき力もなく、弓を挽べき様も無れば、只徒に櫓の上に登り、屏の陰に集て、息つき居たる許也。寄手共此有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻落さん。」とて、乱杭・逆木を引のけ屏を打破て、三重に拵たる二の木戸迄ぞ攻入ける。由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申けるは、「城中の兵共数日の疲れに依て、今は矢の一をも墓々敷仕得候はぬ間、敵既に一二の木戸を破て、攻近付て候也。如何思食共叶べからず。春宮をば小舟にめさせ進せ、何くの浦へも落し進せ候べし。自余の人々は一所に集て、御自害有べしとこそ存候へ。 ・・・・・・・・

            流布本『太平記』より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

803年(延暦22)征夷大将軍・坂上田村麻呂に志波城の築城が命令される(新暦4月1日)詳細
1297年(永仁5)鎌倉幕府により「永仁の徳政令」が出される(新暦3月30日)詳細
1945年(昭和20)「国民徴用令」等5勅令を廃止・統合し、新たに「国民勤労動員令」が公布される詳細
1946年(昭和21)憲法改正過程において、日本政府より「憲法改正草案要綱」 が発表される詳細
2005年(平成17)新交通システムの一つで、日本初の実用磁気浮上式鉄道である、愛知高速交通東部丘陵線が開業する詳細
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 今日は、南北朝時代の明徳2/元中8年に、武将・守護大名(丹波・和泉・山城・但馬)の山名氏清が明徳の乱の内野の合戦に敗れて、戦死した日ですが、新暦では1392年1月24日となります。
 山名氏清(やまな うじきよ)は、1344年(康永3/興国5)に、守護大名山名時氏の四男として生まれました。1371年(建徳2/応安4)に、父・山名時氏が没し、長兄・師義が惣領となりましたが、分国のうち丹波を継承します。
 1376年(天授2/永和2)に、長兄・師義が死去したのち、家督は弟・時義が継承し、不満を持ちますが、翌年には侍所頭人に任じられました。1378年(天授4/永和4)に、次兄・義理と共に紀伊国の橋本正督討伐を成し遂げ、和泉守護にも任命されます。1382年(永徳2/弘和2)に、南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させ、1385年(至徳2/元中2)には、新たに設置された山城守護職に就任しました。
 1388年(元中5/嘉慶2)に、紀州遊覧から帰京中の足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で迎え撃って勝利(平尾合戦)します。1389年(元中6/康応元)に、弟・時義が死去しその後を時義の子・時熙が継いだものの、1390年(元中7/康応2)に、叔父満幸と共に、同族の時義の子時煕・氏幸兄弟を討って但馬を分国に加えられ、丹波・和泉・山城・但馬の4ヶ国守護職となり、家督にも就きました。
 1391年(元中8/明徳2)に、次兄・義理、甥の氏家(兄・氏冬の子)らと共に挙兵し、室町幕府側と対峙し、明徳の乱が始まります。しかし、1392年1月24日(明徳2/元中8年12月30日)に、京都の内野の合戦で大内義弘らの幕府軍と戦って敗れ、数え年48歳で戦死しました。
 これによって、山名氏の勢力は一挙に衰退することとなります。

〇山名氏清関係略年表(日付は旧暦です)

・1344年(康永3年/興国5年) 守護大名山名時氏の四男として生まれる
・1370年(建徳元年/応安3年) 父・山名時氏は長兄・師義に家督を譲る
・1371年(建徳2年/応安4年) 父・山名時氏が没し、長兄・師義が惣領となりましたが、分国のうち丹波を継承する
・1376年(天授2年/永和2年) 長兄・師義が死去したのち、家督は弟・時義が継承する
・1377年(天授3年/永和3年) 侍所頭人に任じられる
・1378年(天授4年/永和4年) 次兄・義理と共に紀伊国の橋本正督討伐を成し遂げ和泉守護にも任命される
・1382年(永徳2年/弘和2年閏1月) 南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させる
・1385年(至徳2年/元中2年12月) 新たに設置された山城守護職に就任する
・1388年(元中5年/嘉慶2年8月17日) 紀州遊覧から帰京中の足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で迎え撃って勝利する(平尾合戦)
・1389年(元中6年/康応元年) 弟・時義が死去しその後を時義の子・時熙が継ぐ
・1390年(元中7年/康応2年3月) 氏清・満幸の叔父甥に命じて、同族の時義の子時煕・氏幸兄弟を討たせ、氏清は但馬を分国に加えられて家督となる
・1391年(元中8年/明徳2年) 次兄・義理、甥の氏家(兄・氏冬の子)らと共に挙兵し、明徳の乱が始まる
・1392年1月24日(明徳2/元中8年12月30日) 明徳の乱における京都の内野の合戦で大内義弘らの幕軍と戦って敗れ、数え年48歳で戦死する

☆明徳の乱(めいとくのらん)とは?

 南北朝時代の1392年1月13日(元中8/明徳2年12月19日)に山名氏(山名氏清、山名満幸等)が室町幕府に対して起こした反乱です。
 山名氏は、この頃一族で11か国の守護職をして勢力を振るい、六分一殿と呼ばれていて、室町幕府3代将軍足利義満はその勢力を抑えるため、山名氏の内紛に乗じて、山名満幸を丹波に追放しました。しかし、満幸は妻の父氏清と結び、山陰の兵を率いて挙兵することになります。それに対し、室町幕府側は大内・細川・畠山らの兵を集めて戦い、山名氏清を敗死させ、満幸を敗走させます。
 これによって、山名氏の勢力は衰退することになり、翌年10月27日の足利義満による南北朝の合一(明徳の和約)の実現へと向かい、室町幕府の将軍の権威が確立します。 

☆南北朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元年1月) 建武の新政が行われる
・1335年(建武2年7月) 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2年10月) 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(建武2年12月11日) 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都が占領される
・1336年(延元元/建武3年8月) 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1336年(延元元/建武3年11月) 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1337年(延元元/建武3年12月) 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4年3月) 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ヶ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年5月) 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる
・1338年(延元3/暦応元年8月) 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2年8月16日) 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2年) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4年1月) 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5年9月) 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元年10月) 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1351年(正平6/観応2年8月) 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統)
・1352年(正平7/観応3年2月) 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・1352年(正平7/観応3年2月26日) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3年7月) 観応半済令が出される
・1353年(正平8/観応4年6月) 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1355年(正平10/観応6年1月) 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1356年(正平11/延文元年8月23日) 足利義詮が従三位に昇叙する
・1358年(正平13/延文3年4月) 足利尊氏が亡くなる
・1359年(正平13/延文3年12月18日) 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる 
・1361年(正平16/延文6年) 細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・1361年(正平16/康安元年) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2年) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1362年(正平17/貞治元年7月) 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される
・1363年(正平18/貞治2年) 大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめる
・1363年(正平18/貞治2年1月28日) 足利義詮が権大納言に転任する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一する
・1363年(正平18/貞治2年7月29日) 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元
・1365年(正平20/貞治4年2月) 三条坊門万里小路の新邸に移る
・1366年(正平21/貞治5年8月) 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)
・1367年(正平22/貞治6年1月5日) 足利義詮が正二位に昇叙する
・1367年(正平22/貞治6年11月) 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1367年(正平22/貞治6年12月7日) 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる
・1368年(正平23/応安元年3月11日) 南朝の後村上天皇が亡くなる 
・1368年(正平23/応安元年6月17日) 「応安半済令」が出される
・1369年(正平23/応安元年12月30日) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4年)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1372年(応安5/建徳3年) 足利義満が判始の式を行なう
・1378年(天授4/永和4年) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元年閏4月14日) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2年1月26日) 足利義満が左大臣となる
・1382年(弘和2年/永徳2年閏1月) 山名氏清が南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させる
・1382年(弘和2/永徳2年) 足利義満が開基として相国寺の建立を開始する
・1383年(弘和3/永徳3年1月14日) 足利義満が准三后宣下を受ける
・1386年(元中3/至徳3年) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1388年(元中5/嘉慶2年) 足利義満が東国の景勝遊覧に出かける
・1390年(元中7/明徳元年閏3月) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2年12月) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される
・1392年(元中9/明徳3年10月27日) 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)小説家・評論家斎藤緑雨の誕生日(新暦1868年1月24日)詳細
1881年(明治14)画家・歌人・随筆家小杉放庵の誕生日詳細
1927年(昭和2)上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が開通(地下鉄記念日)詳細
1930年(昭和5)小説家開高健の誕生日詳細
1952年(昭和27)作曲家中山晋平の命日詳細
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 今日は、戦国時代の1568年(永禄11)に、武田信玄軍と今川氏真・北条氏政軍との間で薩埵峠の戦いが始まった日ですが、新暦では12月30日となります。
 薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい)は、戦国時代の1568年(永禄11年12月)から翌年にかけてて、駿河国薩埵峠(現在の静岡県静岡市清水区)で、武田信玄軍と今川氏真・北条氏政軍との間で行われた合戦でした。1560年(永禄3)の桶狭間の戦いで、織田信長に今川義元が敗れて討ち取られると、今川氏当主の地位は嫡男の今川氏真が継ぎますが、勢力が衰退していきます。その中で、甲斐国の武田信玄は、それまでの同盟関係を破棄し、1568年(永禄11年12月)に、駿河国へ攻め込みました。これに対して今川氏真は、これを迎え討つべく、庵原安房守を大将とする1万5千の軍勢を薩埵峠に向かわせましたが、12日より峠の東側で始まった戦いでは、今川方に内通者が出るなどして、薩埵峠を突破されます。そして、翌13日には駿府の今川館も陥落し、氏真は重臣の朝比奈泰朝の拠る遠江国掛川城へと落ち延びることとなりました。今川氏と同盟関係にあった北条氏康は、嫡男である北条氏政に命じて4万5千の兵を駿河へ向かわせ、翌年の1月18日から薩埵峠を挟んで、武田軍と対峙することとなりました。にらみ合いは3ヶ月に及びましたが、4月には、武田軍は穴山信君を江尻城に残して甲斐国に撤退、その後北条軍も幾つかの城を傘下に収めた後、相模国に兵を撤退させて、戦いは終わっています。

☆主要な戦国合戦一覧(1493年~1573年)

・1525年(大永5) 岩槻城の戦い[武蔵国 - 埼玉県岩槻市] ○北条軍×●上杉軍 
・1532年(天文元) 山科本願寺の戦い[山城国 - 京都府京都市] ○柳本軍×●山科本願寺軍 
・1542年(天文11) 第1次小豆坂の戦い[三河国 - 愛知県岡崎市] ○織田軍×●今川軍 
・1546年(天文15) 河越城の戦い[武蔵国 - 埼玉県川越市] ○北条軍×●上杉軍 
・1548年(天文17) 第2次小豆坂の戦い[三河国 - 愛知県岡崎市] ○今川・松平軍×●織田軍 
・1548年(天文17) 上田原の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍 
・1548年(天文17) 塩尻峠の闘い[信濃国 - 長野県岡谷市・塩尻市] ○武田軍×●小笠原軍 
・1550年(天文19) 砥石城の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍 
・1551年(天文20) 坂戸城の戦い[越後国 - 新潟県南魚沼市] ○長尾景虎×●長尾政景 
・1555年(天文24) 厳島の戦い[安芸国 - 広島県廿日市市] ○毛利軍×●陶軍 
・1560年(永禄3) 桶狭間の戦い[尾張国 - 愛知県名古屋市・豊明市] ○織田軍×●今川軍 
・1560-61年(永禄3-4) 小田原城の戦い[相模国、上野国、武蔵国] △北条軍×△上杉・長尾軍 
・1561年(永禄4) 第4次川中島の戦い[信濃国 - 長野県長野市] △武田軍×△上杉軍 
・1563年(永禄6) 三河一向一揆[三河国 - 愛知県] ○徳川軍×●三河一向一揆 
・1563-64年(永禄6-7) 第2次国府台合戦[下総国 - 千葉県市川市] ○北条軍×●里見軍 
・1565年(永禄8) 永禄の変[山城国 - 京都府] ○三好・松永軍×●足利義輝軍 
・1567年(永禄10) 稲葉山城の戦い[美濃国 - 岐阜県岐阜市] ○織田軍×●斎藤軍 
・1568年(永禄11) 薩埵峠の戦い[駿河国 - 静岡県静岡市] ○武田軍×●今川・北条軍 
・1569年(永禄12) 三増峠の戦い[相模国 - 神奈川県愛甲郡愛川町] ○武田軍×●北条軍 
・1570-74年(元亀元-天正2) 長島一向一揆[伊勢国- 三重県桑名市] ○織田軍×●長島一向一揆 
・1570-80年(元亀元-天正8) 石山合戦[摂津国 - 大阪府大阪市] ○織田軍×●石山本願寺軍 
・1570年(元亀元) 金ヶ崎の戦い[越前国 - 福井県敦賀市] ○朝倉軍×●織田軍 
・1570年(元亀元) 姉川の戦い[近江国 - 滋賀県長浜市] ○織田軍×●浅井・朝倉軍 
・1571年(元亀2) 比叡山焼き討ち[山城国・近江国 - 京都府京都市・滋賀県大津市] ○織田軍×●比叡山延暦寺 
・1572年(元亀3) 三方ヶ原の戦い[遠江国 - 静岡県浜松市] ○武田軍×●徳川・織田軍 
・1573年(天正元) 槇島城の戦い[山城国 - 京都府京都市・宇治市] ○織田軍×●足利義昭軍 
・1573年(天正元) 一乗谷城の戦い[越前国 - 福井県福井市] ○織田軍×●朝倉軍 
・1573年(天正元) 小谷城の戦い[近江国 - 滋賀県長浜市] ○織田軍×●浅井軍 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細
1947年(昭和22)「児童福祉法」が公布される詳細
1963年(昭和38)映画監督・脚本家小津安二郎の命日詳細
1989年(平成元)漫画家田河水泡の命日詳細
2015年(平成27)「気候変動に関する国際連合枠組み条約第21回締約国会議」(COP21)で「パリ協定」を採択する詳細
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 今日は、戦国時代の1557年(弘治3)に、戦国武将の毛利元就が、長男毛利隆元・次男吉川元春・三男小早川隆景に「三子教訓状(十四箇条の遺訓)」を記した日ですが、新暦では12月15日となります。
 「三子教訓状」(さんしきょうくんじょう)は、戦国武将の毛利元就が、長男毛利隆元・次男吉川元春・三男小早川隆景に書いた書状で、「十四箇条の遺訓」とも呼ばれてきました。これは、大内氏を打倒した後もなお、その旧領国周防国で頻発する反毛利氏の一揆を鎮圧するため、再度周防国へ出兵し、富田(現在の山口県周南市)の勝栄寺で書いたもので、「毛利」の家名を大切にし、長くその存続を図るよう諭した14箇条で、後世に「三本の矢の教え」の逸話の元になったとされています。
 この時点では、まだ毛利氏の統治は不安定で、内外に課題が山積していて、この危機的な状況を三人の子供にはっきりと認識させ、兄弟結束して毛利家維持に努めていくことの必要性を説き、元就の政治構想を息子たちに伝えた意見書とされてきました。この書状は現存していて、これを含む「毛利家文書」(1,593点)として、1973年(昭和48)に国の重要文化財に指定され、山口県防府市の毛利博物館に収蔵されています。
 以下に、「三子教訓状(14箇条の遺訓)」の現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

「三子教訓状(14箇条の遺訓)」(現代語訳) 1557年(弘治3年11月25日)

第一条
何度も繰り返して申すことだが、毛利の苗字を末代まで廃れぬように心がけよ。

第二条
元春と隆景はそれぞれ他家(吉川家・小早川家)を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬし、毛利を忘れることがあっては、全くもって正しからざることである。これは申すにも及ばぬことである。

第三条
改めて述べるまでもないことだが、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表せぬ程である。

第四条
隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。

第五条
この間も申したとおり、隆元は、元春・隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、彼は長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。元春・隆景がそのまま毛利本家にいたならば、家臣の福原や桂と上下になって、何としても、隆元の命令に従わなければならぬ筈である。ただ今、両人が他家を相続しているとしても内心には、その心持ちがあってもいいと思う。

第六条
この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う。しかし、そう願いはするけれども、末世のことまでは、何とも言えない。せめて三人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共になくしてしまうだろう。

第七条
亡き母、妙玖に対するみんなの追善も供養も、これに、過ぎたるものはないであろう。

第八条
五龍城主の宍戸隆家に嫁いだ一女のことを自分は不憫に思っているので、三人共どうか私と同じ気持ちになって、その一代の間は三人と同じ待遇をしなければ、私の気持ちとして誠に不本意であり、そのときは三人を恨むであろう。

第九条
今、虫けらのような分別のない子どもたちがいる。それは、七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶などである。これらのうちで、将来、知能も完全に心も人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ、いずれの遠い場所にでも領地を与えてやって欲しい。もし、愚鈍で無力であったら、いかように処置をとられても結構である。何の異存もない。しかしながら三人と五龍の仲が少しでも悪くなったならば、私に対する不幸この上もないことである。

第十条
私は意外にも、合戦で多数の人命を失ったから、この因果は必ずあることと心ひそかに悲しく思っている。それ故、各々方も充分にこのことを考慮せられて謹慎せられることが肝要である。元就一生の間にこの因果が現れるならば三人には、さらに申す必要もないことである。

第十一条
私、元就は二十歳のときに兄の興元に死に別れ、それ以来、今日まで四十余年の歳月が流れている。その間、大浪小浪に揉まれ毛利家も、よその家も多くの敵と戦い、さまざまな変化を遂げてきた。そんな中を、私一人がうまく切り抜けて今日あるを得たことは、言葉に尽し得ぬ程不思議なことである。我が身を振り返ってみて格別心がけのよろしきものにあらず、筋骨すぐれて強健なものにもあらず、知恵や才が人一倍あるでもなく、さればとて、正直一徹のお陰で神仏から、とりわけご加護をいただくほどの者でもなく、何とて、とくに優れてもいないのに、このように難局を切り抜け得られたのはいったい何の故であるのか、自分ながら、その了解にさえ苦しむところであり、言葉に言い表せないほど不思議なことである。それ故に、今は一日も早く引退して平穏な余生を送り、心静かに後生の願望をも、お祈りしたいと思っているけれども、今の世の有様では不可能であるのは、是非もないことである。

第十二条
十一歳のとき、猿掛城のふもとの土居に過ごしていたが、その節、井上元兼の所へ一人の旅の僧がやってきて、念仏の秘事を説く講が開かれた。大方様も出席して伝授を受けられた。その時、私も同様に十一歳で伝授を受けたが、今なお、毎朝祈願を欠かさず続けている。それは、朝日を拝んで念仏を十遍ずつとなえることである。そうすれば、行く末はむろん、現世の幸せも祈願することになるとのことである。また、我々は、昔の事例にならって、現世の願望をお日様に対してお祈り申し上げるのである。もし、このようにすることが一身の守護ともなればと考えて、特に大切なことと思う故、三人も毎朝怠ることなくこれを実行して欲しいと思う。もっとも、お日様、お月様、いずれも同様であろうと思う。

第十三条
私は、昔から不思議なほど厳島神社を大切にする気持ちがあって、長い間、信仰してきている。折敷畑の合戦の時も、既に始まった時に、厳島から使者石田六郎左衛門尉が御供米と戦勝祈祷の巻物を持参して来たので、さては神意のあることと思い、奮闘した結果、勝つことが出来た。その後、厳島に要害を築こうと思って船を渡していた時、意外にも敵の軍船が三艘来襲したので、交戦の結果、多数の者を討ち取って、その首を要害のふもとに並べて置いた。その時、私が思い当たったのは、さては、それが厳島での大勝利の前兆であろうということで、いざ私が渡ろうとする時にこのようなことがあったのだと信じ、なんと有難い厳島大明神のご加護であろうと、心中大いに安堵することができた。それ故、皆々も厳島神社を信仰することが肝心であって、私としてもこの上なく希望するところである。

第十四条
これまでしきりにいっておきたいと思っていたことを、この際ことごとく申し述べた。もはや、これ以上何もお話しすることはない。ついでとはいえ言いたいことを全部言ってしまって、本望この上もなく大慶の至りである。めでたいめでたい。

   「ウィキペデイア」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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erizenirei01
 今日は、室町時代の1505年(永正2)に、室町幕府より「撰銭令」が出された日ですが、新暦では11月5日となります。
 撰銭令(えりぜにれい)は、悪銭の内、特に粗悪銭の流通禁止、及びその他の銭についても撰銭を禁止するなどの銭貨流通に関して出された法令でした。平安時代末期に始まった銭の流通は、室町・戦国時代に経済が発展すると共に、輸入中国銭の不足をきたし、私鋳銭の大量鋳造が行われるようになります。
 この中で、高利貸営業、商取引、年貢公事・反銭の銭納等で、撰銭行為による諸問題が発生するようになりました。これを回避し、銭貨流通を円滑化する為に、室町幕府、戦国大名、社寺などによって、何度もこの法令が出されています。
 その内容は、標準貨幣(中国銭)の設定、選択してよい銭とだめな銭の種別、良悪貨幣の混用の限度、良貨に対する悪貨の割引通用率などとなっていますが、なかなか効果が上がらずに推移しています。このような事態は、江戸時代に銅銭が豊富に鋳造・通用するまで続きました。
 以下に、1505年(永正2)に室町幕府発令の「撰銭令」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「撰銭令」 1505年(永正2年10月10日)室町幕府発令

 定む  撰銭[1]の事(京銭[2]・打平[3]等を限る)  
右、唐銭[4]に於ては、善悪をいとはず、少瑕[5]を求めず悉く以て諸人相互いに取り用ふべし。次に悪銭売買[6]の事同じく停止の上は、彼といひ、これといひ[7]、若し違犯の輩有らば、其の身を死罪に行ひ、私宅に至りては結封[8]せらるべきの由、仰せ下さるゝ所也。よって下知くだんの如し。

 永正弐年[9]十月十日  散位 三善朝臣
            豊前守 平朝臣

   『蜷川家文書』より

【注釈】

[1]撰銭:えりぜに=貨幣を授受するとき、良貨を撰(えら)び、悪貨を排除すること。
[2]京銭:きょうせん=南京銭の略。室町時代に明から流入した粗悪銭のこと。
[3]打平:うちひらめ=品質の劣った小型の銭を槌で打って大きくた悪銭。
[4]唐銭:とうせん=中国(宋・元・明)からの渡来銭。
[5]少瑕:しょうか=わずかの傷。小さな欠点。
[6]悪銭売買:あくせんばいばい=粗悪銭を表示した以外の値段で売買する。
[7]彼といひ、これといひ:かれといい、これといい=どちらも。
[8]結封:けっぷう=封をして差し押さえる。
[9]永正弐年:えいしょうにねん=1505年。室町幕府第11代将軍足利義澄の時代。

<現代語訳>

 定む 撰銭について(京銭・打平等に限って)
右のことについて、中国(宋・元・明)からの渡来銭については、良し悪しに関係なく、わずかな傷を気にせず、すべて誰もがお互いに流通するようにせよ。次に、悪銭売買が禁止された以上、(撰銭・悪銭売買)どちらも、もし違反するものがあれば、その者は死刑とし、その私宅においては、封をして差し押さえるよう、将軍(第11代足利義澄)の命令であるので、以上のように通達する。

 永正2年(1505年)10月10日  散位 三善朝臣
               豊前守 平朝臣

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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