ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 奈良時代

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 今日は、奈良時代の784年(延暦3)に、桓武天皇が人心一新のため、平城京から長岡京に遷都した日ですが、新暦では12月27日となります。
 長岡京(ながおかきょう)は、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市・長岡京市・京都市西京区)にあった桓武天皇が造営させた都でした。奈良時代の784年(延暦3年11月11日)に、平城京より遷都されましたが、785年(延暦4)に、造長岡宮使藤原種継の暗殺、廃太子早良親王の非業の死などがあり、造営工事はついに中止され、約10年間存在しただけで、794年(延暦13年10月22日)には、新京(平安京)に遷されています。
 南北は十条、東西は左右各四坊計八坊あったと考えられ、碁盤の目のような街並みが造営され、長岡宮へとつながる朱雀大路が都の中心を通り、南北方向の大路が右京・左京にそれぞれ4本ずつひかれ、東西方向の大路は、九条まで造られており、それぞれの大路に囲まれたなかは小路などで区画され、役所や市、貴族の邸宅などが身分に応じて割りあてられました。1964年(昭和39)に、宮跡の一部は国史跡に指定され、周辺の発掘調査によって、1,000枚を超える木簡が出土、墨書土器とともに重要な資料を提供しています。

〇長岡京関係略年表

<延暦3年(784年)>
・5月7日 がま2万匹ばかり、難波の市の南道より四天王寺の内に入る(長岡遷都の前ぶれ)
・5月16日 中納言藤原小黒麻呂、同藤原種継、左大弁佐伯今毛人らを派遣、遷都のため山背国乙訓郡長岡村を視る
・6月10日 造長岡宮使に藤原種継、佐伯今毛人らを任命し、長岡宮・京を造り始める

<延暦3年(784年)>
・6月13日 遷都を山背国の賀茂大神社に告げ、今年の調・庸税と宮を造る人夫の必要物資を諸国に命じて新京の長岡宮へ運ばせる
・6月23日 新京に邸宅を造るため、 正税68万束を右大臣以下の政府要人に与える
・6月28日 長岡村の百姓宅で宮内に入るもの57町に立のき料として正税約4万3千束を与える
・7月4日 阿波・讃岐・伊豫の3国に命じて、山崎橋を造る料材を出させる
・11月11日 長岡京に遷都する
・11月20日 遷都のため賀茂上・下社、松尾・乙訓神に叙位。
・11月28日 賀茂上・下社、松尾・乙訓神の4社を修理する
・12月2日、18日、29日 宮城を築いた山背国葛野郡の秦足長ら、宮を造る功労者にそれぞれ叙位と賜爵を与える

<延暦3年(784年)>
・12月13日 王臣家・諸司・寺司による山野の独占を禁止する

<延暦4年(785年)>
・1月1日 長岡新京の大極殿で初めて朝賀式。五位以上の貴族、内裏で祝宴をする
・1月14日 摂津国神下・梓江・鯵生野に堀を作り、三国川に結ぼうとする(京へ資材運搬のため)
・3月3日 嶋院で天皇と貴族、曲水の宴をする
・5月19日 4月末に皇后宮に瑞兆の赤雀が現われたのを祝い、賜爵・叙位・免租等を行う
・5月24日 諸国貢進の調・庸税の粗悪について、国司・郡司の責任を明確にする
・7月20日 宮を造る人夫に諸国の百姓31万4千人を雇う
・7月24日 国司の正税流用を禁止する
・8月23日 太政官院の垣を築いた大秦宅守に叙位する
・9月23日 藤原種継暗殺される。
・9月24日 藤原種継暗殺の犯人大伴氏ら数十人逮捕される
・9月28日 早良皇太子廃し、乙訓寺へ幽閉される
・10月4日 班田収授のため、五畿内に使を派遣し、検田する
・11月25日 安殿親王(のちの平城天皇)立太子する

<延暦5年(786年)>
・1月21日 近江国滋賀郡にはじめて梵釈寺を造る
・4月11日 諸国の調・庸等の税の未納について、国司・郡司の怠慢を責める
・5月3日 左・右京および東・西の市人に物を賜う
・6月1日 諸国の正倉の火災について、国司の責任を明確にする
・7月19日 太政官院が完成する。百官はじめて朝座につく
・8月8日 蝦夷を攻めるため、この時より約2年間、東国にて兵士・武器・物資の準備を進める
・9月18日 渤海国の使、船一隻に乗って出羽国に漂着する
・9月29日 五畿内の班田長官を任命する

<延暦6年(787年)>
・閏5月11日 左右京職の税の濫用を禁止し、交替時に解由状を与えることとする
・10月8日 「水陸の便なるをもって都をこの邑に遷す」の詔あり。また賑給・減税・賜爵を行う
・11月5日 天神を河内国の交野に祀る

<延暦7年(788年)>
・9月26日 「水陸の便あって都市を長岡に建つ。しかも宮室未だ就らず、興作いよいよ多くして徴発の苦すこぶる百姓にあり」を詔して、減税を行う
・12月7日 征東大将軍紀古佐美、節刀を賜わり蝦夷へ出征する

<延暦8年(789年)>
・1月6日 五位以上、南院で節会。これより後、南院(南園)でしばしば宴が催される
・1月17日 この頃「造東大宮所」が東大宮(第2次内裏)を造る(長岡京跡左京第51次調査出土木簡No216)
・2月27日 天皇、西宮(第1次内裏)より、はじめて東宮(第2次内裏)に移る
・3月1日 造宮使、お酒食等を献上して祝う
・3月9日 軍を多賀城に集結し蝦夷を攻める
・3月16日 造東大寺司を廃止する
・7月14日 伊勢・美濃・越前の三関を廃止する
・11月9日 造宮大工物部建麻呂に叙位する
・12月28日 桓武天皇の母高野新笠没する

<延暦9年(790年)>
・1月15日 桓武天皇の母高野新笠を大枝山陵に葬る
・閏3月4日 蝦夷を攻めるため、これより約2年間、諸国に命じて武器・軍糧を準備させる
・閏3月10日 皇后藤原乙牟漏没する
・10月2日 再び鋳銭司を設置する
・11月3日 税の欠負未納を補塡する公廨稲の割合を設定する

<延暦10年(791年)>
・3月6日 吉備真備・大和長岡らによる刪定律令24条を施行する
・4月18日 山背国内の諸寺の塔を修理する
・5月29日 翌年の班田に備え、国司・王臣家・殷富百姓が下田を上田に換える等の不法を改める
・6月25日 再び山野独占の禁令を出し、山背国の百姓の山野利用の便をはかる
・8月5日 畿内の班田使を任じる。
・9月16日 平城宮の諸門を壊し運んで長岡宮に移し造らせる

<延暦11年(792年)>
・1月9日 天皇、諸院を巡行し、猪隈院にて五位以上に弓を射さす
・6月7日 諸国の兵士制を廃止する
・6月14日 健児の制を設ける
・6月10日 皇太子の病を占い、「早良親王の崇り」とでる
・6月22日 式部省の南門、激しい雷雨で倒れる
・8月9日 大雨・洪水で桂川等あふれる
・8月11日 天皇、紀伊郡赤目崎にて洪水を視る
・10月28日 京畿に限って班田を実施し、細則を一部修正する
・閏11月1日 新弾例83条を施行する

<延暦12年(793年)>
・1月15日 大納言藤原小黒痳呂、左大弁紀古佐美らを遣し、遷都のため山背国葛野郡宇太村を視る
・1月21日 宮を壊体するため天皇東院に移る
・2月2日 遷都を賀茂大神に告げる
・3月1日 葛野の行幸し、はじめて新京を巡行する
・3月12日 新京の宮城を築かせる
・6月23日 新宮の諸門を造らせる
・7月7日 馬埒殿で節会の相撲あり
・9月2日 新京の宅地を班給する

<延暦13年(794年)>
・6月13日 副将軍坂上田村麻呂ら、蝦夷を坆めて勝利を得る
・7月1日 東・西の市を新京に移。
・8月13日 右大臣藤原継縄ら「続日本紀」を撰修する
・10月22日 新京(平安京)に遷る

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(貞和4)第95代の天皇とされる花園天皇(持明院統)の命日(新暦12月2日)詳細
1477年(文明9)大内軍が京から撤収し、応仁の乱が終結する(新暦12月16日)詳細
1890年(明治23)浅草に12階建ての凌雲閣が完成し、日本初の電動式エレベーターが一般公開される詳細
1911年(明治44)新派俳優・興行師川上音二郎の命日詳細
1944年(昭和19)太平洋戦争末期の本土決戦に備えて、松代大本営が着工される 詳細
1955年(昭和30)下中弥三郎・茅誠司・平塚らいてう・湯川秀樹らによって、世界平和アピール七人委員会が結成される詳細
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 今日は、奈良時代の759年(天平宝字3)に、鑑真が唐律招提(後の唐招提寺)を建立した日ですが、新暦では8月29日となります。
 唐招提寺(とうしょうだいじ)は、鑑真が、奈良時代の759年(天平宝字3)に開創した寺院で、南都六宗の1つである律宗の総本山です。奈良市街から離れた西の京にあり、田畑に囲まれた静かなたたずまいの中に堂宇が並び、金堂、平城宮の朝集殿を移築した講堂、経蔵、宝蔵などは奈良時代の建物で国宝に指定されています。
 その堂宇の中にすばらしい仏像群が鎮座し、乾漆鑑真和上坐像、乾漆盧舎那仏坐像、木心乾漆千手観音立像、木造梵天・帝釈天立像などは、奈良時代の天平仏でいずれも国宝となっています。それらを巡ってみると、12年の歳月と6回目の渡航によって伝戒の初志を貫徹しようとした盲目の僧鑑真の苦労と共に当時を思い起こさせてくれました。
 また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

〇鑑真(がんじん)とは?

 来日して帰化した唐代の高僧・日本律宗の開祖です。688年(持統天皇2)に唐の揚州江陽県に生まれましたが、俗姓は淳于(じゅんう)と言いました。
 14歳のとき、揚州大雲寺の智満(ちまん)について出家、18歳で南山律の道岸(どうがん)によって菩薩戒を受け、20歳で長安に入ります。実際寺で恒景(こうけい)を戒和上として具足戒を受け、その後、諸宗を学び、揚州に帰ったのちは大明寺にあって律を講じ、名声が響くようになりました。
 733年(天平5)に日本僧の栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)が授戒伝律の師を求めて入唐、742年(天平14)にその要請を受けて、来日を決意します。しかし、5回(743~748年)渡航に失敗し、その間に失明することになりました。
 それでも、6回目に成功し、753年(天平勝宝5)に薩摩国坊津に到着、翌年平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受けます。755年(天平勝宝7)に東大寺大仏殿前に戒壇を設け、授戒について一任され、翌年には大僧都に任じられ、その後、大和上の称が与えられました。
 759年(天平宝字3)には、唐招提寺を開いて戒律研鑽の道場としましたが、763年(天平宝字7年5月6日)に、奈良において、数え年76歳で亡くなっています。

☆唐招提寺関係略年表(日付は旧暦です)

・753年(天平勝宝5) 鑑真が薩摩国坊津に到着する
・754年(天平勝宝6) 鑑真が平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受ける
・755年(天平勝宝7) 鑑真は、東大寺大仏殿前に戒壇を設け、授戒について一任される
・756年(天平勝宝8) 鑑真は、大僧都に任じられ、その後、大和上の称が与えられる
・759年(天平宝字3) 鑑真が新田部親王の邸跡(平城京右京五条二坊)を朝廷から賜り、戒律を学ぶ修行道場として創建される
・760年(天平宝字4)頃 平城宮改修の際、平城宮の東朝集殿が移されて講堂が建立される
・763年(天平宝字7年5月6日) 鑑真が、数え年76歳で亡くなる
・781年(天応元年) 鑑真和上の弟子・如宝が金堂を建立しましたが、この年に伐採されたヒノキが使われていた
・810年(弘仁元) 『日本紀略』によると東塔が建立されたする
・1140年(保延6) 金堂・講堂・宝蔵・御影堂・阿弥陀院などの伽藍が建立されていた
・1243年(寛元元) 中興の祖・覚盛が舎利会を創設する
・1244年(寛元2) 覚盛が入寺して再興を始める
・1249年(建長元) 覚盛が亡くなると法華寺の尼僧が遺徳を偲んで、団扇、宝扇を供えたことから覚盛の命日にうちわまきが行われるようになる
・1698年(元禄11) 戒壇院が再興される
・1802年(享和2) 火災によって東塔・五重塔など重要な伽藍が焼失する
・1900年(明治33) 独立して律宗総本山となる
・1998年(平成10) ユネスコ世界文化遺産(古都奈良の文化財)に登録される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

701年(大宝元)藤原不比等らによる「大宝律令」の編纂が完了する(新暦9月9日)詳細
1872年(明治5)「学制」が公布される(新暦9月5日)詳細
1935年(昭和10)岡田啓介内閣によって「国体明徴に関する政府声明」(第1次国体明徴声明)が出される詳細
1937年(昭和12)豊田正子が小学生の時に書いた作文をまとめた『綴方教室』が刊行される詳細
1967年(昭和42)「公害対策基本法」が公布・施行される詳細
1987年(昭和62)建設省が「日本の道100選」を選定し、前年分と合わせて104本となる詳細
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 今日は、奈良時代の717年(養老元)に、美濃国の醴泉によって、元号を「霊亀」から「養老」へ改元した日ですが、新暦では12月24日となります。
 養老改元(ようろうかいげん)は、第44代とされる元正天皇(女帝)が、717年(霊亀3年9月)に美濃国(現在の岐阜県)に行幸した折りに、当耆郡(多芸郡)にいたり、多度山(養老山)の美泉を見、駕に随う国司らに物を与え、不破・当耆・方県・務義諸郡の百姓に減税などの恩恵を施しましたが、その時に訪れた美泉に感銘を受け、同年11月17日に詔を出し、元号を「霊亀」から「養老」へ改元したことでした。行幸時に、美泉を観られ、水を飲み体を洗った者が若返ったと知り、「老いを養う」こんなめでたい美泉はないと言われたとされます。
 この美泉は、養老の滝か、あるいは養老神社境内の菊水泉であったと伝えられてきました。行幸の際に行宮が造られたとされますが、その場所は不明です。
 以下に、このことを記した『続日本紀』養老元年(717年)11月17日の条を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇元正天皇(げんしょうてんのう)とは?

 第44代とされる天皇です。飛鳥時代の680年(天武天皇9年)に飛鳥で、天武天皇と持統天皇の子である父・草壁皇子(母は元明天皇)の長女として生まれましたが、名は氷高(ひだか)または新家(にいのみ)と言いました。707年(慶雲4)に同母弟・文武天皇が亡くなり、その子の首皇子(後の聖武天皇)が幼かったため、母の阿閉皇女が元明天皇として即位します。
 715年(和銅8)に一品に昇叙し、715年(霊亀元)には、皇太子である甥の首皇子(後の聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇から譲位を受け、第44代とされる天皇として即位しました。その治世の前半は母・元明上皇と藤原不比等、その死後は長屋王が政権を担当しています。
 その中で、養老への改元、「養老律令」の編纂開始(717年)、国内の治安をはかるため初めて按察使を任命(719年)、隼人反乱に際し大伴旅人を派遣(720年)、『日本書紀』の奏上(720年)、田地の不足を解消するために「百万町歩開墾計画」を命じ(722年)、「三世一身法」の制定(723年)など、律令体制の強化・浸透をはかりました。724年(神亀元)に首皇子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となりましたが、後見的な立場に就いています。
 728年(天平元)に長屋王の変が起き、長屋王が自害し、光明立后が実現しました。740年(天平12)に藤原広嗣の乱が起きると、聖武天皇を護り、743年(天平15)に聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、天皇を擁護する詔を出したりしています。しかし、747年(天平19)暮れに発病し、翌年4月21日に奈良平城京において、数え年69歳で亡くなり、佐保山陵に火葬(2年後に奈保山西陵に改葬)されました。尚、『万葉集』に少なくとも五首の歌が収載されています。 

<代表的な歌>
・「橘(たちばな)のとをの橘弥(や)つ代にも吾(あれ)は忘れじこの橘を」(万葉集)
・「玉敷かず君が悔いていふ堀江には玉敷き満てて継ぎてかよはむ」(万葉集)
・「霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我を音し泣くも」(万葉集)
 
☆『続日本紀』養老元年(717年)11月17日の条「美濃国の醴泉によって養老と改元する」 

<原文>

癸丑。天皇臨軒。詔曰。朕以今年九月。到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛處。無不除愈。在朕之躬。甚有其驗。又就而飮浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自餘痼疾。咸皆平愈。昔聞。後漢光武時。醴泉出。飮之者。痼疾皆愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。盖水之精也。寔惟。美泉即合大瑞。朕雖庸虚。何違天賜。可大赦天下。改靈龜三年。爲養老元年。

<読み下し文>

癸丑[1]。天皇[2]、軒に臨みて[3]、詔して曰はく、「朕、今年九月を以って、美濃国不破[4]行宮[5]に到る。留連[6]すること数日なり。因りて当耆郡[7]多度山[8]の美泉[9]を覧て、自ら手面を盥ひしに、皮膚滑らかなるが如し、亦、痛き処を洗ひしに、除き愈えずといふこと無し。朕が躬[10]に在りては、甚だその験有りき。又、就きて[11]飮み浴る者、或は白髪黒に反り、、或は頽髪[12]更に生ひ、或は闇き目明らかになるが如し。自余[13]の痼疾[14]、咸く皆平愈[15]せり。昔聞かく、後漢の光武[16]の時に、醴泉[17]出でたり。これを飮みし者は、痼疾[14]皆愈えたり、と聞く。符瑞書[18]に曰はく、醴泉[17]は美泉[9]なり。以って老を養ふべし。盖し水の精なり。といふ。寔に惟みるに、美泉[9]は即ち大瑞[19]に合へり。朕、庸虚[20]なりと雖も、何ぞ天の賜ひ物に違はむ。天下に大赦[21]して、霊亀三年を改めて、養老元年とすべし。」と。・・ 

【注釈】

[1]癸丑:みずのとうし・きちゅう=干支の組み合わせの50番目で、この場合は11月17日を指す。
[2]天皇:てんのう=この場合は、第44代とされる元正天皇(女帝)を指す。
[3]軒に臨みて:のきにのぞみて=宮殿の軒先まで出る。
[4]美濃国不破:みのこくふわ=現在の岐阜県不破郡のこと。
[5]行宮:あんぐう=天皇の行幸時などに、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設のこと。
[6]留連:りゅうれん=たちさりかねて、とどまる。
[7]当耆郡:たぎのこおり・だぎぐん=多芸郡。美濃国(現在の岐阜県美濃地方)にあった郡。
[8]多度山:たどさん=養老山のことか。
[9]美泉:びせん=醴泉(れいせん)。あまい味のある泉。美味な泉。
[10]躬:きゅう=み。からだ。
[11]就きて:つきて=これに関連して。このことに関して。
[12]頽髪:たいはつ=衰えた髪の毛。禿げ髪。
[13]自余:じよ=このほか。その他。
[14]痼疾:こしつ=長くなおらない病気。持病。
[15]平愈:へいゆ=病気がなおること。平復。全快。全治。
[16]後漢の光武:ごかんのこうぶ=後漢王朝を創始した初代皇帝の光武帝(在位25~57年)のこと。
[17]醴泉:れいせん=あまい味のある泉。美味な泉。中国で、太平の世にわき出たという。甘泉。
[18]符瑞書:ふずいしょ=瑞兆に関して書かれた書物
[19]大瑞:だいずい=非常にめでたいことのあるというしるし。
[20]庸虚:ようきょ=凡愚。平凡でおろかなこと。とりたてて利口とはいえないこと。
[21]大赦:たいしゃ=国家に吉凶のあったとき、天皇が八虐以下の故殺・謀殺・私鋳銭・強窃二盗の罪を許したこと。

<現代語訳>

11月17日。(元正)天皇は、宮殿の軒先まで出て、詔して言った、「私は、今年9月に、美濃国不破の行宮に至り。立ち去りかねて留まること数日となった。その時に、多芸郡の多度山(養老山)の美味な泉を見て、自ら手や顔を洗ったところ、皮膚が滑らかになるようだった。また、痛い部分を洗うと、痛みが除かれないことはなかった。私の体にとっては、とてもその効能が有った。また、このことに関して、飲んだり浴びたりして治る者、あるいは、白髪が黒くなり、、あるいは、禿げ髪にさらに生えたり、あるいは、見えない眼がみえるよになるといった如くで、その他の長くなおらない病気も、ことごとく皆治ったいう。昔に聞くと、後漢の光武帝の時代に、醴泉が涌きだしたという。これを飮んだ者は、長くなおらない病気も皆治ったという。瑞兆に関して書かれた書物に言うことには、「醴泉は美味な泉である。これによって、老を養うことができる。まさしく水の精霊であろう。」とある。ほんとうに考えてみると、美味な泉はすなわち非常にめでたいことのあるというしるしに違いない。私は、凡愚であると言っても、どうして天の恵みを無視することが出来ようか。国中に大赦を行って、霊亀三年を改めて、養老元年とする。」と。・・ 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1716年(享保元)江戸城内で御城将棋が開催され、以降この日に御城碁と共に定例化される詳細
1905年(明治38)日本と大韓帝国との間で、「第二次日韓協約」が調印される詳細
1951年(昭和26)神奈川県鎌倉市に「神奈川県立近代美術館」が開館する詳細
1986年(昭和61)将棋棋士・14世名人木村義雄の命日詳細
1990年(平成2)長崎県の雲仙普賢岳で198年ぶりの噴火(雲仙普賢岳1990年噴火)が始まる詳細
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 今日は、奈良時代の747年(天平19)に、東大寺大仏の鋳造が開始された日ですが、新暦では11月6日となります。
 東大寺大仏(とうだいじだいぶつ)は、正式には盧舎那仏像と呼び、像高14.87mあり、東大寺金堂(大仏殿)の本尊となってきました。聖武天皇により奈良時代の743年(天平15年10月5日)に「大仏造立の詔」が発っせられ、745年(天平17)から実際の造像が開始されています。
 747年(天平19年9月29日)から大仏の鋳造が始まり、749年(天平勝宝元年10月24日)に鋳造が終了、752年(天平勝宝4年)に大仏開眼供養会が実施されましたが、参列者は1万数千人に及びました。これには、約500トンの銅が使用され、のべ260万人が関わったとされる大工事だったとされています。
 しかし、平安時代後期の1180年(治承4)の平重衡の兵火によって焼失し、東大寺も伽藍の主要部を失い、重源らが奔走して、東大寺と大仏を再興しました。さらに、戦国時代の1567年(永禄10)に、松永久秀の兵火によって焼失したものの、復興事業はなかなか進まず、ようやく江戸時代になって、公慶が江戸幕府から大仏再興のための勧進の許可を得て、1691年(元禄4)に再興されています。従って、台座蓮弁の一部のみが当初のもので、胴部は鎌倉時代、頭部は江戸時代元禄期の鋳造とされてきました。
 尚、1958年(昭和33)2月8日に、「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として、国宝に指定されています。

〇東大寺(とうだいじ)とは?

 奈良時代創建の東大寺は、聖武天皇が741年(天平13年2月14日)に出した「国分寺建立の詔」によって、国ごとに建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられ、盧舎那仏(東大寺大仏)を本尊としています。何度か戦火にあって焼失していますが、転害門、正倉院、法華堂などは創建当初の建物が残され、いずれも国宝に指定されています。
 特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。
 しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊したのです。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。
 しかし、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、鎌倉文化も凝縮されています。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。
 また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。

☆東大寺大仏関係略年表

・740年(天平12年) 聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心する
・741年(天平13年2月14日) 聖武天皇が「国分寺・国分尼寺建立の詔」を発する
・743年(天平15年10月15日) 聖武天皇が近江国紫香楽宮にて「大仏造立の詔」を発する
・744年(天平16年11月13日) 紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる
・745年(天平17年8月23日) 平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される
・746年(天平18年10月6日) 聖武天皇が金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸、盧舎那仏の燃灯供養を行う
・747年(天平19年9月29日) 大仏の鋳造が開始される
・749年(天平勝宝元年10月24日) 大仏の鋳造が終了する
・752年(天平勝宝4年4月9日) 大仏開眼供養会が盛大に開催される
・855年(斉衡2年) 地震で被災し、首が落下する
・861年(貞観3年) 大仏修復が終わり、朝廷が大法会を開催して大仏の修理落成供養を行なう
・1180年(治承4年) 平重衡の兵火によって大仏が焼失する
・1185年(文治元年) 重源らが奔走して大仏を修復し、開眼法要が営まれる
・1195年(建久6年) 大仏殿の落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われる
・1567年(永禄10年) 松永久秀の兵火によって大仏が焼失する
・1610年(慶長15年) 仮堂で復興していた東大寺大仏殿が大風で倒壊する
・1685年(貞享元年) 公慶は江戸幕府から大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得る
・1691年(元禄4年) 公慶らによって大仏が再興される
・1692年(元禄5年) 再興された大仏の開眼供養が行われる
・1709年(宝永6年) 再建された大仏殿が落慶する
・1958年(昭和33年)2月8日 「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

930年(延長8)第60代の天皇とされる醍醐天皇の命日(新暦10月23日)詳細
949年(天暦3)第57代の天皇とされる陽成天皇の命日(新暦10月23日)詳細
1801年(享和元)国学者本居宣長の命日(新暦11月5日)詳細
1879年(明治12)「学制」が廃止され、「教育令」が制定される詳細
1972年(昭和47)日本と中国が「日中共同声明」に調印する詳細
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 今日は、奈良時代の774年(宝亀5)に、第51代の天皇とされる平城天皇が生まれた日ですが、新暦では9月25日となります。
 平城天皇(へいぜいてんのう)は、桓武天皇の第一皇子(母は皇后藤原乙牟漏)として生まれましたが、はじめ名は小殿(おて)とされたものの、783年(延暦2)には、安殿(あて)と改名されました。785年(延暦4)に、藤原種継暗殺事件に関与したとして皇太子を廃された叔父の早良親王に代わって立太子し、788年(延暦7)に元服します。
 790年(延暦9)に罹病し、792年(延暦11)に占いによりこの病が早良親王の祟りであるとされ、翌年には、春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂されました。藤原式家縄主と藤原薬子(式家種継の子)の間の長女を妃とした以後、薬子を寵愛し、東宮坊宣旨として臥処に出入りさせるなどしたので、醜聞を嫌った桓武天皇により薬子は宮廷から一時追放されます。
 806年(延暦25)に父・桓武天皇が亡くなったため第51代とされる天皇として即位し、賀美能親王(のちの嵯峨天皇)を皇太弟に立て、薬子を尚侍(ないしのかみ)として復権させました。即位当初は政治に意欲的に取り組み、造都と蝦夷征討で疲弊した国家財政緊縮のため、808年(大同3)に中央官司の大規模な整理統合を実施、また、民情把握のため畿内七道に観察使を置いて地方政治に関する献策を行わせるなど政治の刷新に努めます。
 しかし、809年(大同4)に病により賀美能親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、平城旧京の故右大臣中臣清麻呂宅に移りました。810年(大同5)に平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図りましたが、嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪、それに怒って兵を発し、薬子と共に東国に入ろうとしたものの、遮られて平城京に戻り、薬子は自殺します(薬子の変)。
 これにより、直ちに剃髪入道して政治に関与せず、平城旧京に留まり、822年(弘仁13年)には、空海から戒を受け、灌頂を授かりました。しかし、824年(天長元年7月7日)に、奈良において、数え年51歳で亡くなり、大和)国添下郡の楊梅(やまもも)陵(現在の奈良市佐紀町)に葬られます。尚、詩歌を能くし、『凌雲集』、『経国集』に漢詩を残し、『古今和歌集』にも和歌が収載されました。

<平城天皇の代表的な歌>

・「故郷(ふるさと)と なりにし奈良の 都にも 色はかはらず 花は咲きけり」(古今和歌集)

〇平城天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年8月15日) 奈良において、桓武天皇の第一皇子(母は皇后藤原乙牟漏)として生まれる
・783年(延暦2年) 安殿(あて)と改名する
・784年(延暦3年11月11日) 長岡京に遷都される
・785年(延暦4年11月25日) 藤原種継暗殺事件に関与したとして皇太子を廃された叔父の早良親王に代わり、立太子する
・788年(延暦7年1月15日) 元服する
・790年(延暦9年) 罹病する
・792年(延暦11年) 占いによりこの病が早良親王の祟りであるとされる
・793年(延暦12年) 春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂される
・794年(延暦13年10月22日) 平安京に遷都される
・806年(延暦25年3月17日) 父・桓武天皇が亡くなったため践祚する
・806年(延暦25年5月18日) 第51代とされる天皇として即位式を行い、賀美能親王(のちの嵯峨天皇)を皇太弟に立てる
・808年(大同3年) 官司の統廃合を行い、緊縮財政に努める
・809年(大同4年4月1日) 病により賀美能親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となる
・809年(大同4年12月) 平城旧京の故右大臣中臣清麻呂宅に入御する
・810年(大同5年9月6日) 平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図る
・810年(弘仁元年9月10日) 嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪する
・810年(弘仁元年9月11日) 薬子の官位を剥奪に怒って兵を発し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、遮られて平城京に戻る(薬子の変)
・822年(弘仁13年) 空海から戒を受け、灌頂を授かる
・824年(天長元年7月7日) 奈良において、数え年51歳で亡くなる
・824年(天長元年7月12日) 大喪儀が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

952年(天暦6)第61代の天皇とされる朱雀天皇の命日(新暦9月6日)詳細
1716年(享保元)俳人山口素堂の命日(新暦9月30日)詳細
1808年(文化5)フェートン号事件が起きる(新暦10月4日)詳細
1940年(昭和15)立憲民政党が解党して、戦前の日本で全政党が解散に至る(大政翼賛会へ合流)詳細
1945年(昭和20)「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送)がラジオで流されて、太平洋戦争敗戦が国民に伝えられる詳細
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