ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 鎌倉時代

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 今日は、鎌倉時代の1276年(建治2)に、鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に元寇防塁(石築地)を築かせるように指示した日ですが、新暦では3月26日となります。
 元寇防塁(げんこうぼうるい)は、鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた防塁で、石築地(いしついじ)が本来の呼び名でした。1274年(文永11)に、第1回元寇(文永の役)にあった鎌倉幕府は、翌年、少弐経資に命じて、3月10日に異国警護のために元寇防塁(石築地)の築造を指示し、8月に至ってほぼ完成したとされます。
 築造は、九州の地頭御家人だけでなく、公領や荘園にも平均に割り当てられ、鎌倉幕府の支配が強化される契機ともなりました。総延長は約20kmに及んだとされ、1281年(弘安4)の第2回元寇(弘安の役)の際には、役に立ったということです。
 年代を経て風化が進み、地中に埋もれているところもありますが、今津地区(西区)、西新地区(早良区)、地行地区(中央区)、地蔵松原地区(東区)をはじめ、9地区に防塁が残されてきました。1913年(大正2)から発掘・整備が進められ、1931年(昭和6)に国の史跡に指定、1981年(昭和56)に追加指定がなされています。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼ばれてきました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係略年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1276年(建治2)>
・3月10日 鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に石塁(石築地)を築かせるように指示する
・8月 元寇防塁(石築地)が、ほぼ完成する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

710年(和銅3)元明天皇が藤原京から平城京に都を遷す(新暦4月13日)詳細
1742年(寛保2)医者・俳人井上士朗の誕生日(新暦4月14日)詳細
1771年(明和8)八重山地震(推定M7.4)による大津波(明和の大津波)で、先島諸島に大被害が出る(新暦4月24日)詳細
1900年(明治33)「治安警察法」が公布される詳細
1945年(昭和20)東京大空襲か行われ、死傷10万人以上、焼失27万余戸、罹災100余万人が出る詳細
1975年(昭和50)山陽新幹線の岡山駅~博多駅間が延伸開業し、全線開業する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1260年(文応元)に、日蓮が『立正安国論』を著し、北条時頼に提出した日ですが、新暦では8月24日となります。
 『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)は、鎌倉時代の日蓮が著した問答体の仏教書で、『安国論』とも呼ばれてきました。旅客と主人の問答9番よりなり、東国に地震、大風、大雨、飢饉、疫病等災害が続出し、多くの人々が死に、病み、飢えて苦しんだのは、邪法(法然の念仏)を信じるがためと述べ、法華経に基づく諸経・諸宗の統一を主張し、正法が確立されない限り国の安泰はないと説いたものです。
 1260年(文応元年7月16日)に、宿屋左衛門入道を介して、鎌倉幕府の前執権北条時頼に提出されましたが、本論の国家諫暁の趣旨が、かえって幕府の反感を買い、日蓮は、伊豆国に流罪となりました。日蓮真筆本(国宝)が千葉県市川市の中山法華経寺に現存する他、直弟たちによる写本があり、『開目鈔』『観心本尊鈔』とならぶ、日蓮の三大著作の一つに数えられています。

〇日蓮(にちれん)とは?

 鎌倉時代の僧侶で、日蓮宗の開祖です。1222年(貞応元年2月16日)に、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)で、有力漁民の子として生まれましたが、幼名を薬王丸、本名は蓮長と言いました。
 1233年(天福元年)に、清澄山清澄寺の道善房を師として修学に励みます。1238年(暦仁元)に出家して、是生房蓮長と称し、鎌倉、京畿、比叡山などで諸教学を学びました。
 1253年(建長5)に清澄寺に帰山し、法華信仰に立って「南無妙法蓮華経」と題目を唱え始め(立教開宗)、名を日蓮と改めます。法華仏教至上の立場から浄土教を批判したため、浄土教徒に圧迫され清澄寺を退出、鎌倉にて辻説法を開始しました。
 『立正安国論』を著し、国難を予言して北条時頼に献じましたが、その忌諱に触れ、1261年(弘長元)に伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流されます。1263年(弘長3)に赦免され、鎌倉に戻って伝道活動を再開しますが、幕府・諸宗批判を止めなかったため、1269年(文永6)に龍ノ口で処刑(龍ノ口法難)されかけたものの、免れて佐渡に流されました。
 1274年(文永11)に赦免後は、甲斐身延山に隠棲し、弟子の育成に努めます。1282年(弘安5)に病を得て下山し、武蔵国千束郡(現在の東京都大田区池上)へ行き、六老僧を定めた後、同年10月13日に、数え年61歳で没しました。

<日蓮の主要な著作>

・『立正安国論』
・『開目鈔』
・『撰時鈔』
・『報恩鈔』
・『観心本尊鈔』
・『守護国家論』

〇日蓮著『立正安国論』抜粋

 若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らし忩で対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以「兵革の災」なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も「他方の怨賊国内を侵掠する」此の災未だ露れず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以「四方の賊来つて国を侵すの難」なり。
(中略)
 若し残る所の難、悪法の科に依って並び起り競ひ来らば、其の時何んか為んや。帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来りてその国を侵逼し、自界叛逆してその地を掠領せば、豈に驚かざらんや、豈に騒がざらんや。国を失い家を滅せば、いずれの所にか世を遁れん。
(中略)
 就中人の世に在るや、各後生を恐る。是を以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。各是非に迷ふことを悪むと雖も、而も猶仏法に帰することを哀しむ。何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪義の詞を崇ばんや、…汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。此の詞、此の言信ず可し、崇む可し。

☆北条 時頼(ほうじょう ときより)とは?

 鎌倉幕府第5代執権です。鎌倉時代の1227年(安貞元年5月14日)に、鎌倉において、六波羅探題北方に任じられた父・北条時氏(鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男)の次男(母は安達景盛の娘)として生まれましたが、幼名は戒寿と言いました。
 1230年(寛喜2)に3歳で父が亡くなったため、祖父・北条泰時に養育されることになります。1237年(嘉禎3)に11歳で元服して、五郎時頼を名乗り、左兵衛少尉に任官しました。
 1243年(寛元元)に左近将監従五位下となり、1246年(寛元4)には兄経時の病気隠退のあとを受け、第5代執権に就任します。その直後、同族名越光時らの陰謀を押えて一味を追放、翌年には、安達氏と協力して、光時と意を通じた三浦一族を挑発してこれを滅ぼしました(宝治合戦)。
 さらに、1252年(建長4)に第5代将軍藤原頼嗣を廃して宗尊親王を迎える(親王将軍の始まり)など、北条氏の権力確立に努めます。1249年(建長元)に相模守となり、引付衆を置き裁判の迅速公平を図るなど、幕政の刷新を図りました。
 一方、1253年(建長5)には、13ヶ条の新制で撫民のことを定め農民の保護に努めるなど善政を敷いたとされています。また、禅宗にも深い関心を抱き、同年に宋僧蘭渓道隆を招いて、鎌倉に建長寺を建てました。
 1256年(康元元)に病により、家督を6歳の時宗に譲り、最明寺で出家、法名を覚了房道崇としたものの、出家後も幕政に参与します。その後、諸国を回り民政を視察したという伝説が生じましたが、1263年(弘長3年11月22日)に、鎌倉の最明寺北亭において、数え年37歳で亡くなりました。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1304年(嘉元2)第89代の天皇とされる後深草天皇の命日(新暦8月17日)詳細
1885年(明治18)日本鉄道の宇都宮駅で、日本初の駅弁が発売された(駅弁記念日)詳細
1894年(明治27)領事裁判権の撤廃、相互最恵国待遇を認めた「日英通商航海条約」が締結される詳細
1919年(大正8)政治家板垣退助の命日詳細
1963年(昭和38)名神高速道路の栗東IC~尼崎ICが開通する(日本最初の高速道路の開通)詳細
1994年(平成6)三内丸山遺蹟で巨大建物の木柱等が出土、国内最大級の縄文集落跡と報道される詳細
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 今日は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3)に、久米川の戦いで、新田義貞軍が鎌倉幕府の軍勢を破った日ですが、新暦では6月24日となります。
 久米川の戦い(くめがわのたたかい)は、鎌倉幕府と倒幕勢力による内乱「元弘の乱(げんこうのらん)」における合戦の一つで、倒幕勢力の新田義貞軍が武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)で、鎌倉幕府軍を破った戦いでした。1333年(元弘3年5月8日)に、新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げます。
 その後、南下するに従い、鎌倉幕府に不満を持った武士たちが次々と集まり、まず5月11日に入間川を渡って、小手指原(現在の埼玉県所沢市)に入ったところで、迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍に対し、小手指原の戦いが行われました。幕府軍は新田軍が入間川を渡りきる前に迎撃するつもりでしたが、新田軍の動きが迅速であったため、布陣の余裕はなく、小手指原において、両者の遭遇戦の形で合戦に至ります。
 新田軍と幕府軍との激戦は、30余回もの打ち合いとなりました。兵数は幕府軍の方が勝っていたものの、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていきます。
 日没までに新田軍は300、幕府軍は500ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊し、やむなく新田軍は入間川(現在の埼玉県狭山市)、幕府軍は久米川(現在の東京都東村山市)にそれぞれ引き上げて軍勢を立て直しました。そして、幕府軍は久米川(現在の柳瀬川)で新田軍の南下を食い止めるべく、久米川の南岸(現在の東京都東村山市諏訪町)で迎え出ます。
 小手指原で勝利した新田軍はそのままの勢いで八国山に陣を張り、ここから指揮をとり麓の幕府軍と対峙しました。新田軍の奇襲から久米川の戦いは始まり、幕府軍の大将桜田貞国は新田軍を挟撃しようとしましたが、幕府軍の本陣が手薄になると、新田軍は一気に本陣を突いて勝負を決めます。
 そこで、幕府軍は分倍河原(現在の東京都府中市)まで退却、執権北条高時の弟の北条泰家を大将とする10万の援軍と合流し、迎え撃とうとしました。これを5月15日に反幕府方の新田義貞軍が攻撃したものの、今度は援軍を得ていた幕府方が優勢になり、反幕府方の新田軍は堀金(現在の埼玉県狭山市)までの退却を余儀なくされます。
 しかし、相模国の軍勢を率いた三浦義勝が新田軍の援軍に入ると、翌16日早朝には義勝を先鋒として義貞は2万の軍勢で一気に分倍河原に押し寄せ、緊張が緩んでいた幕府方に奇襲をかけて大勝し、鎌倉幕府方は敗走することになりました。ここで幕府方を圧倒したことで、反幕府方には次々と援軍が合流し、ついには60万もの大軍勢となります。その後、反幕府方は勢いに乗り、5月21日には、義貞率いる軍勢が稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入り、翌22日には鎌倉幕府を滅亡させることとなりました。
 現在でも、久米川周辺には、戦にちなんだ史跡も数多く残されていて、新田義貞が桜田貞国を破った地には「久米川古戦場跡」と刻まれた石碑が残り、久米川古戦場跡に隣接する小高い丘は、久米川の戦いで新田義貞が本陣を置いた地で、頂上付近には「将軍塚」の石碑や「元弘青石塔婆所在跡」などの史跡が点在しています。
 以下に、『太平記』巻第十の久米川の戦いに関する部分を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇『太平記』巻第十 (69)新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事より

新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事

(前略)
路次に両日逗留有て、同十一日の辰刻に、武蔵国小手差原に打臨給ふ。爰にて遥に源氏の陣を見渡せば、其勢雲霞の如くにて、幾千万騎共可云数を不知。桜田・長崎是を見て、案に相違やしたりけん、馬を扣て不進得。義貞忽に入間河を打渡て、先時の声を揚、陣を勧め、早矢合の鏑をぞ射させける。平家も鯨波を合せて、旗を進めて懸りけり。初は射手を汰て散々に矢軍をしけるが、前は究竟の馬の足立也。何れも東国そだちの武士共なれば、争でか少しもたまるべき、太刀・長刀の鋒をそろへ馬の轡を並て切て入。二百騎・三百騎・千騎・二千騎兵を添て、相戦事三十余度に成しかば、義貞の兵三百余騎被討、鎌倉勢五百余騎討死して、日已に暮ければ、人馬共に疲たり。軍は明日と約諾して、義貞三里引退て、入間河に陣をとる。鎌倉勢も三里引退て、久米河に陣をぞ取たりける。両陣相去る其間を見渡せば三十余町に足ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継せ、両陣互に篝を焼て、明るを遅と待居たり。夜既に明ぬれば、源氏は平家に先をせられじと、馬の足を進て久米河の陣へ押寄る。平家も夜明けば、源氏定て寄んずらん、待て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯を固め甲の緒を縮め、相待とぞみへし。両陣互に寄合せて、六万余騎の兵を一手に合て、陽に開て中にとり篭んと勇けり。義貞の兵是を見て、陰に閉て中を破れじとす。是ぞ此黄石公が虎を縛する手、張子房が鬼を拉ぐ術、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱て、不被破不被囲して、只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける。されば千騎が一騎に成までも、互に引じと戦けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ、加治・長崎二度の合戦に打負たる心地して、分陪を差して引退く。
(後略)

    「ウィキソース」より

☆新田義貞の挙兵から鎌倉幕府滅亡までの略年表(日付は旧暦です)

<1333年(元弘3)>
・5月8日 新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げる
・5月9日 義貞挙兵の報を受けた幕府の評定が鎌倉で行われる
・5月10日 桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする武蔵・上野の幕府方が迎撃に向かう
・5月11日 小手指原の戦い(現在の埼玉県所沢市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月12日 久米川の戦い(現在の東京都東村山市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月15・16日 分倍河原の戦い(現在の東京都府中市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月16日 関戸の戦い(現在の東京都多摩市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月18日 反鎌倉幕府方は大軍で鎌倉に対し攻撃を開始する
・5月21日 新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入る
・5月22日 東勝寺で北条高時・金沢貞顕、長崎円喜・長崎高資・安達時顕ら一族・家臣が自害し、鎌倉幕府が滅亡する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1534年(天文3)戦国大名織田信長の誕生日(新暦6月23日)詳細
1698年(元禄11)儒学者・蘭学者青木昆陽の誕生日(新暦6月19日)詳細
1718年(享保3)俳人で蕉門の十哲の一人とされる立花北枝の命日(新暦6月10日)詳細
1925年(大正14)「治安維持法」が施行される詳細
1962年(昭和37)劇作家・詩人・児童文学者・小説家秋田雨雀の命日詳細
1979年(昭和54)本州四国連絡橋計画の最初として、アーチ橋の大三島橋が完成(翌日から供用開始)する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1183年(文治5)に、源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川の館を襲い(衣川合戦)、源義経が自害した日(閏)ですが、新暦では6月15日となります。
 源義経(みなもと の よしつね)は、平安時代末期の源平合戦で大きな戦功をあげた武将でした。1159年(平治元)に、河内源氏の源義朝の九男(母は常盤)として生まれましたが、幼名は牛若丸と言います。
 同年12月に平治の乱が起き、戦いに敗れた父・義朝は、翌年敗死しました。平氏に捕えられ京の鞍馬寺に入れられましたが、1174年(承安4)頃ひそかに奥州平泉の藤原秀衡の下に赴いて庇護を受けます。
 1180年(治承4)に兄の源頼朝が挙兵すると、平泉を出奔して駆けつけ、黄瀬川で頼朝との対面を果たしました。1183年(寿永2)に頼朝の代官として京へ向かい、翌年には源義仲を討って入京します。
 1184年(元暦元)に平氏との一ノ谷の戦いに勝利し、平氏追討と畿内近国の行政・軍政を担うことになりました。1185年(文治元年2月)の屋島の戦いを制し、同年3月には壇ノ浦の戦いでも勝利して、平氏を滅亡へと追い込みます。
 同年4月に京へ凱旋し、翌月平宗盛親子を鎌倉へ護送した折に、頼朝に鎌倉入りを拒否され、6月に京へと戻りました。後白河法皇には信任を得たものの、頼朝と不和になり、反逆を企てて失敗して京を逃れますが、頼朝は守護、地頭を設置して厳しくこれを追捕させます。
 奥州平泉へと逃れましたが、1187年(文治5)の秀衡の死後、その跡を継いだ泰衡に、1189年(文治5年閏4月30日)、衣川の館を急襲され、数え年31歳で自刃したとされてきました。後に、悲劇の英雄として伝説化され、文学作品の素材ともなっています。

〇源義経関係略年表(日付は旧暦です)

・1159年(平治元年12月) 源義朝の九男(母は常盤)として生まれる
・1160年(平治2年) 父・源義朝が敗死する
・1162年(応保2年)頃 母・常盤が一条長成と再婚する
・1169年(嘉応元年)頃、鞍馬寺で稚児となる
・1174年(承安4年) 鞍馬寺を出奔して金売吉次の案内で奥州平泉へ下る
・1180年(治承4年8月) 兄・頼朝が挙兵したので、平泉を出奔して駆けつけ、黄瀬川で頼朝と対面する
・1183年(寿永2年11月) 頼朝代官として上洛へと向かう
・1184年(元暦元年) 源義仲を討って入京、平氏との一ノ谷の戦いに勝利し、平氏追討と畿内近国の行政・軍政を担う
・1185年(文治元年) 屋島の戦いを制し、壇ノ浦の戦いでも勝利して、平氏を滅亡へと追い込み京へ凱旋したものの、翌月平宗盛親子を鎌倉へ護送した折に、頼朝に鎌倉入りを拒否され、京へと戻り、後白河法皇には信任を得たものの、頼朝と不和になり、反逆を企てて失敗して京を逃れますが、頼朝は守護、地頭を設置して厳しくこれを追捕させる
・1187年(文治3年) 奥州平泉へ落ち延びるものの、庇護者藤原秀衡が亡くなる
・1189年(文治5年閏4月30日) 藤原泰衡が衣川の館を襲い(衣川合戦)、数え年31歳で自害する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1358年(正平13)室町幕府初代将軍足利尊氏の命日(新暦6月7日)詳細
1886年(明治19)秋田県で秋田大火(俵屋火事)が起き、死者17名、負傷者186名、焼失戸数3,554戸を出す詳細
1926年(大正15)小説家河野多惠子の誕生日詳細
1942年(昭和17)第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)の投票で、翼賛政治体制協議会推薦者が381議席を占める詳細
1950年(昭和25)「図書館法」が公布される(図書館記念日)詳細
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 今日は、鎌倉時代の1212年(建暦2)に、鴨長明が随筆『方丈記』を書き上げた日ですが、新暦では4月22日となります。
 『方丈記』(ほうじょうき)は、鴨長明著の随筆で、鎌倉時代の1212年(建暦2)に成立したと考えられてきました。人生の無常、有為転変の相と日野山閑居のさまを描写しています。
 また、文中で1177年(安元3)の安元の大火、1180年(治承4)の治承の竜巻、と福原への遷都、1181~82年(養和年間)の養和の飢饉、1185年(元暦2)の大地震などの天変地異や政治的事件等についても記載されていて、歴史資料としても注目されてきました。仏教的無常観と深い自照性をもち、代表的な隠者文学とされ、その文章は、簡明な和漢混淆文で、そ完成形として高く評価されています。
 吉田兼好著『徒然草』、清少納言著の『枕草子』と共に、日本三大随筆の一つと言われてきました。
 以下に、『方丈記』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『方丈記』の冒頭部分

 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。
 (後略)

☆鴨長明(かものちょうめい)とは?

 平安時代後期から鎌倉時代に活躍した歌人・随筆家です。1155年(久寿2)頃に、京都下鴨神社禰宜であった父・鴨長継の次男として生まれましたが、名は「ながあきら」と読みました。
 1161年(応保元)に7歳で従五位下に叙爵され、二条天皇中宮高松院の北面に伺候するなどしましたが、1172年(承安2)頃に父を亡くし、後ろ盾をなくします。その後、琵琶を中原有安に、和歌を俊恵 (しゅんえ) に学び、1181年(養和元)頃に歌集『鴨長明集』を編纂しました。
 勅撰集『千載和歌集』(1187年成立)に1首入集し、初めて勅撰歌人となり、以降、石清水宮若宮社歌合、新宮撰歌合、和歌所撰歌合、三体和歌、俊成卿九十賀宴、元久詩歌合などに出詠します。その中で、後鳥羽院に歌才を認められ、1200年(正治2)『正治二年院第二度百首』の歌人に選ばれ、翌年には『新古今和歌集』編纂のための和歌所寄人となりました。
 しかし、1204年(元久元)に河合社(ただすのやしろ)の禰宜の職に就くことに失敗し、1204年(元久元)に50歳で出家、法名を蓮胤 (れんいん) と号して、後に日野の外山に隠棲します。そこで、日本の三大随筆の一つとされる『方丈記』(1212年成立)、歌論書『無名抄』(1211年以後成立?)、仏教説話集『発心集(ほっしんしゅう)』(1215年頃成立?)を著しました。
 歌人としても、『千載和歌集』以下の勅撰集に25首が入集していますが、1216年(建保4)閏6月10日(8日とも)に京都において、数え年62歳?で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)物部守屋の仏教排斥により、仏像・寺院等が焼打ちされる(新暦5月4日)詳細
1827年(文政10)医学者・蘭学者大槻玄沢の命日(新暦4月25日)詳細
1946年(昭和21)連合国最高司令官に対し、「米国教育使節団第一次報告書」が提出される詳細
1959年(昭和34)砂川闘争に関して、砂川事件第一審判決(伊達判決)が出される詳細
1985年(昭和60)小説家・翻訳家野上弥生子の命日詳細
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