ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 明治時代

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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年)に、徳川家の駿遠参70万石の駿府藩移封に伴い、旧幕臣の江原素六らによって、徳川家兵学校(後の沼津兵学校)の設立準備が開始された日ですが、新暦では7月17日となります。
 沼津兵学校(ぬまづへいがっこう)は、幕末明治維新期に、駿府藩(静岡藩)が設置・運営した兵学校でした。1868年(慶応4年5月28日)に、徳川家の駿遠参70万石の駿府藩移封に伴い、旧幕臣の江原素六、阿部邦之助、矢田堀景蔵らが図って、徳川家兵学校の設立準備が開始されます。
 同年12月に、学校の組織・規則を定めた「徳川家兵学校掟書」、「徳川家兵学校附属小学校掟書」が制定され、翌年1月に、沼津城内(静岡県沼津市)に徳川家兵学校と附属小学校が開校し、同年8月に沼津兵学校に改称されました。当初は、陸軍頭取服部綾雄が管理し、教授には頭取として西周(にしあまね)が就任、当時の第一級の知識人が教授し、14~18歳の家臣子弟を入学させます。
 将校養成を目的として、4ヶ年の資業生科、3ヶ年の本業生科を設け、歩兵、砲兵、築造の3科に渡って、講義が行われました。特に、語学と数学はすぐれ、各学科の質の高さは全国的な評価を受けます。
 1870年(明治3年)に沼津学校に改称され、翌年9月30日には、廃藩置県により、兵部省の管轄となりました。1871年(明治4年12月16日)に布達により、陸軍沼津出張兵学寮と改称され、陸軍兵学寮の分校となり、翌年には、東京に移転し、陸軍兵学寮に吸収されて廃校となっています。
 尚、初等課程として設けられた付属小学校は、日本の小学校の源流の一つになりました。

○沼津兵学校関係略年表(日付は旧暦です)

・1868年(慶応4年5月28日) 徳川家の駿遠参70万石の駿府藩移封に伴い、旧幕臣の江原素六、阿部邦之助、矢田堀景蔵らが図って、徳川家兵学校の設立準備が開始される
・1868年(明治元年12月) 学校の組織・規則を定めた「徳川家兵学校掟書」、「徳川家兵学校附属小学校掟書」が制定される
・1869年(明治2年1月) 沼津城内(静岡県沼津市)に徳川家兵学校と附属小学校が開校する
・1869年(明治2年8月) 沼津兵学校に改称される
・1870年(明治3年) 沼津学校に改称される
・1871年(明治4年9月30日) 廃藩置県により、兵部省の管轄となる
・1871年(明治4年12月16日) 布達により、陸軍沼津出張兵学寮と改称され、陸軍兵学寮の分校となる
・1872年(明治5年) 東京に移転し、陸軍兵学寮に吸収されて廃校となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1119年(元永2)第75代天皇とされる崇徳天皇の誕生日(新暦7月7日)詳細
1634年(寛永11)江戸幕府が長崎の出島の造成を命じる(新暦6月23日)詳細
1635年(寛永12)江戸幕府により、「寛永十二年五月令」(第三次鎖国令)が布告される(新暦7月12日)詳細
1927年(昭和2)「山東派兵に関する政府声明」が出されて、第一次山東出兵が始まる詳細
1953年(昭和28)小説家堀辰雄の命日(辰雄忌)詳細
1960年(昭和35)東京開催の第12回国際鳥類保護会議(ICBP)で、トキ(鴾)が国際保護鳥に指定される詳細
1987年(昭和62)土木工学者鈴木雅次の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、長野県の機械工宮下太吉が爆発物取締罰則違反容疑で逮捕され、大逆事件の検挙が始まった日です。
 大逆事件(たいぎゃくじけん)は、明治時代後期の1910年(明治43)に、明治政府が社会主義者に加えた大弾圧事件で、幸徳事件とも言われています。1908年(明治41)に、明治政府は赤旗事件前後から社会主義者への弾圧を強め,1910年(明治43)5月、長野県明科の職工宮下太吉の爆裂弾製造所持の事件を契機として、翌月から全国の社会主義者数100名を検挙、内26名を明治天皇暗殺計画容疑として、「刑法」73条の大逆罪で起訴しました。
 同年12月10日から29日まで大審院特別刑事部は16回の公判を非公開で行い、翌年1月18日には、2名を除いて証拠のないままに、幸徳秋水、森近運平、管野スガ、新村忠雄、宮下太吉、古河力作、奥宮健之、大石誠之助ら24名に大逆罪で死刑、2名に爆発物取締罰則違反で有期懲役刑が言い渡されます。同日夜に死刑宣告を受けた者の内12名は明治天皇の「仁慈」により無期懲役に減刑されたものの、幸徳秋水、宮下太吉、管野スガら12名は、世界中の抗議のうちに1月24~25日処刑されました。
 実際の事件関係者は数名で、幸徳秋水以下大部分はでっちあげの犠牲者とみられますが、以後社会主義や労働運動は徹底的に弾圧され、一時沈滞します。

〇幸徳秋水(こうとく しゅうすい)とは?

 明治時代に活躍した思想家・社会運動家で、本名を傳次郎といいます。1871年(明治4年9月23日)に、 高知県幡多郡中村町(現在の四万十市)の薬種業・酒造業幸徳篤明と多治の次男として生まれました。
 子供の頃から聡明で神童と呼ばれ、1887年(明治20)に政治家を志して上京し、林有造の書生となります。しかし、 同年「保安条例」により東京を追われ、大阪で同郷の中江兆民の門弟となり、「秋水」の号を贈りました。
 1891年(明治24)再び上京し、国民英学会に学び、卒業後は、いくつかの新聞社を経て、1898年(明治31)に『萬朝報』の記者となります。同年に社会主義研究会に入り、社会主義協会の会員ともなりました。
 1900年(明治33)に、旧自由党系政党の憲政党が、かつての政敵であった藩閥出身の伊藤博文と結んで立憲政友会を結成することを批判した「自由党を祭る文」を掲載しますが、名文として知られています。1901年(明治34)には、堺利彦、安部磯雄、片山潜らとともに社会民主党を結成しますが、即日禁止されました。
 また、足尾鉱毒問題で奔走する田中正造の依頼で直訴文を起草します。日露戦争を前にして『万朝報』によって非戦論を主張しますが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して退社しました。
 その後、堺利彦等と共に平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発刊、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱え、反戦論を展開します。尚、同紙上に『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られてきました。
 しかし、1905年(明治38)に筆禍事件により「新聞紙条例」違反に問われ禁錮5ヶ月に処せられ、出獄後は保養を兼ねて渡米し、無政府主義に傾き始めます。1910年(明治43)に、弾圧により平民社を解散後は、大逆事件に連座し、検挙されて、天皇暗殺計画の主謀者とされ、1911年(明治44)1月24日に、41歳で絞首刑となりました。
 著書には、『廿世紀之怪物帝国主義』 (1901年)、『社会主義神髄』 (1903年) 、『平民主義』、『基督抹殺論』などがあります。

☆大逆事件関係略年表

<1908年(明治41)> 
・明治政府は赤旗事件前後から社会主義者への弾圧を強める

<1909年(明治42)>
・11月3日 長野県の機械工宮下太吉は長野県東筑摩郡中川手村大足(現在の長野県安曇野市)の大足山中で爆裂弾の爆破実験を行なう

<1910年(明治43)>
・5月21日 宮下太吉は、爆弾の材料を中川手村明科の明科製材所の工場に移す
・5月23日 長野県松本警察署長、宮下太吉に関わる「爆発物取締罰則」違反容疑の報告書を受け取る
・5月25日 宮下太吉が「爆発物取締罰則」違反容疑で逮捕される
・5月31日 検事総長は、(旧)刑法73条(大逆罪)に該当すると判断する
・6月1日 幸徳秋水、管野スガらが湯河原で逮捕される
・11月12日 アナキストのエマ・ゴールドマンら5名が連名で駐米全権大使・内田康哉宛に抗議文を送付する
・11月22日 エマ・ゴールドマンらがニューヨークで最初の抗議集会を開催する
・12月6日 フランスの社会主義者ら、在パリ日本大使館に抗議して大デモを行う
・12月10日 幸徳秋水ほか26人に関する大逆事件の大審院第1回公判(非公開)が開廷される
・12月12日 エマ・ゴールドマンらがニューヨークの抗議集会で桂太郎首相宛の抗議文を採択する
・12月29日 大審院は16回目の公判を非公開で行ない、結審となる

<1911年(明治44)>
・1月18日 2名を除いて証拠のないままに、幸徳秋水、森近運平、管野スガ、新村忠雄、宮下太吉、古河力作、奥宮健之、大石誠之助ら24名に大逆罪で死刑、2名に爆発物取締罰則違反で有期懲役刑が言い渡される
・1月19日 死刑宣告を受けた者の内12名は明治天皇の「仁慈」により無期懲役に減刑される
・1月24日 幸徳秋水、宮下太吉ら11が名が絞首刑となる
・1月25日 管野スガが絞首刑となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

967年(康保4)第62代天皇とされる村上天皇の命日(新暦7月5日)詳細
1336年(建武3)湊川の戦いで足利尊氏が楠木正成を破り、正成は一族と共に自害(新暦7月4日)詳細
1654年(承応3)第112代の天皇とされる霊元天皇の誕生日(新暦7月9日)詳細
1885年(明治18)詩人・歌人平野万里の誕生日詳細
1951年(昭和26)内閣が「人名用漢字別表」を告示し、人名用漢字92字を定める詳細
1955年(昭和30)岩波書店より新村出編『広辞苑』初版が刊行される詳細
1960年(昭和35)大修館書店が諸橋轍次著の『大漢和辞典』の最終巻を刊行する詳細
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 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、長塚節著の『土』が春陽堂から刊行された日です。
 『土』(つち)は、明治時代後期の1910年(明治43)6月13日~11月17日にかけて「東京朝日新聞」に151回にわたって連載された、長塚節著の長編小説でした。翌々年5月に春陽堂より、夏目漱石による序文『「土」に就て』が付され刊行されています。
 作者の郷里茨城県の鬼怒川沿いの農村を舞台に、貧農の勘次一家の生活を描いたものでした。農村の自然、風俗、土と闘う姿を写生的に精密に描写し、農民文学の傑作とされています。
 その後、1939年(昭和14)に日活映画として、内田吐夢監督によって映画化(主演は小杉勇)され、第1回文部大臣賞、第16回キネマ旬報ベスト・テン第1位に選ばれました。
 以下に、夏目漱石による序文『「土」に就て』を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇長塚 節(ながつか たかし)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した歌人・小説家で、1879年(明治12)4月3日に、茨城県岡田郡国生村(現在の常総市国生)の豪農の家に生まれました。その後、茨城尋常中学校(現水戸一高)に進みましたが、病気のために4年で退学し、故郷に戻って健康回復をはかることになります。
 この頃から文学に親しみ短歌をつくり始め、雑誌に投稿してしばしば入選するようになりました。1900年(明治33)に、正岡子規を訪ねて入門し、子規没後はアララギ派の中心の一人となります。
 1907年(明治40) に写生文「佐渡が島」を『ホトトギス』に発表し、高浜虚子に評価されました。1910年(明治43)には、夏目漱石の勧めで、東京朝日新聞に小説「土」が連載され、その後農民文学の不朽の名作となります。
 その翌年に喉頭結核の診断を下され、療養しながらも歌は詠み続けました。しかし、治療の甲斐なく、1915年(大正3)2月8日には、九州帝国大学医科大学(現九州大学医学部)付属病院において、36歳の若さで没しています。

<代表的な歌>
・「馬追虫の 髭のそよろに 来る秋は まなこを閉ぢて 思い見るべし」
・「歌人の 竹の里人 おとなへば やまひの牀に 絵をかきてあり」

☆長塚節の主要な著作

<歌集>
・「青草集」 (1906年)
・「初秋の歌」 (1908年)
・「濃霧の歌」 (1909年)
・「鍼(はり)の如く」(1914~15年)

<写生文>
・「炭焼のむすめ」 (1906年)
・「佐渡ヶ島」(1907年)

<小説>
・短編「芋掘り」(1908年)
・短編「開業医」 (1909年)
・短編「おふさ」 (1909年)
・長編「土」(1910年)

☆『「土」に就て』 夏目漱石

 「土」が「東京朝日」に連載されたのは一昨年の事である。さうして其責任者は余であつた。所が不幸にも余は「土」の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。
 當初五六十囘の豫定であつた「土」は、同時に意外の長篇として發達してゐた。途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫限ぎりに打ち遣やつたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。「土」は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。
 冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」の事を忘れてゐた。所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。池邊君は其當時「朝日」の主筆だつたので「土」は始から仕舞迄眼を通したのである。其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」を根氣よく讀み通したのである。余は出版界の不景氣のために「土」の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。其時心のうちでは、隨分「土」に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」の事を丸で忘れて仕舞つた。
 すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」を讀み返す暇がなかつた。已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。余の名刺を持つて「土」の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。
 余は「彼岸過迄」を片付けるや否や前約を踏んで「土」の校正刷を讀み出した。思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」に於ても全くさうであつた。先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。
 尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。
 「土」の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」の中に收め盡したのである。彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」である。さうして「土」は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。
 人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。だから何處に何う出て來ても必ず獨特ユニークである。其獨特ユニークな點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。余は彼の獨特ユニークなのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。
 作としての「土」は、寧ろ苦しい讀みものである。決して面白いから讀めとは云ひ惡い。第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には餘り縁の遠い方言から成り立つてゐる。第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。だから全體として讀者に加速度アクセレレーシヨンの興味を與へない。だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい/\引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潛んでゐるといふ意味でも讀みづらい。然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つてくれた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。悲劇は恐しいに違ない。けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犧牲を喜こぶのである。が、「土」に至つては涙さへ出されない苦しさである。雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。たゞ土の下したへ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。
 「土」を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。余もさう云ふ感じがした。或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」を讀ましたいと思つて居る。娘は屹度厭だといふに違ない。より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧から射さして來るのだと余は固く信じて居るからである。
 長塚君の書き方は何處迄も沈着である。其人物は皆有の儘である。話の筋は全く自然である。余が「土」を「朝日」に載せ始めた時、北の方のSといふ人がわざ/″\書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。長塚君は余の「朝日」に書いた「滿韓ところ/″\」といふものをSの所で一囘讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。漱石に限らず一體「朝日」新聞の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」を書いた、長塚君としては尤もの事である。「滿韓所々ところ/″\」抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」を讀む眼はあるのである。だから此序を書くのである。長塚君はたまたま「滿韓ところ/″\」の一囘を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ/″\」のうちで、長塚君の氣に入らない一囘を以て終始するならば、到底長塚君の「土」の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。
 長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。余がかつて「土」を「朝日」に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は唯名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。余は「土」の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。

            (明治四十五年五月)

    「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1333年(元弘3)幕府方の北条泰家軍と反幕府方の新田義貞軍とで、分倍河原の戦いが始まる(新暦6月27日)詳細
1615年(慶長20)武将・安土桃山時代の大名長宗我部盛親が斬首される(新暦6月11日)詳細
1884年(明治17)群馬県陣場ヶ原に農民と自由党員が集結、警察分署と高利貸しを襲撃したが挫折する(群馬事件)詳細
1889年(明治22)大槻文彦が編纂した日本初の近代的国語辞典『言海』第一冊が発刊される詳細
1891年(明治25)建築家村野藤吾の誕生日詳細
1932年(昭和7)五・一五事件が起こり、犬養首相が暗殺される詳細
1972年(昭和47) 「沖縄返還協定」が発効する(沖縄復帰記念日)詳細
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 今日は、明治時代後期の1911年(明治44)に、山形明治44年「市北の大火」が起こり、1,340戸が全焼した日です。
 山形明治44年「市北の大火」(やまがためいじ44ねん「しほくのたいか」)は、山形県山形市北部地域で発生した大火でした。この日、薬師祭というイベントが開かれている中で午後4時半頃に、市中心部の七日町のそば屋東京庵から出火し、折からの強風に煽られて、隣接する山形自由新聞社に延焼します。
 さらに、炎は大通りで延焼し、両羽銀行(現在の山形銀行)まで焼いた上に、祭りが行われていた薬師町まで到達して、薬師堂も炎にのまれ、数千の参詣客が逃げまどう事態となりました。その後、火の勢いはいっそう増して、山形市の北部地区の広範囲を焼失し、およそ10時間後にようやく鎮火しました。
 これによって、1,340戸が全焼し、山形県庁、市役所、警察署、裁判所、銀行、図書館、中学校など重要な建物も焼失しています。

〇明治時代の大火一覧(焼失1,000戸以上で、戦火によるものを除く)

・1871年(明治4)9月12日 函館の「切見世火事」(焼失1,123戸)
・1872年(明治5)2月26日 東京の銀座大火(焼失4,879戸)
・1873年(明治6)3月22日 函館の「家根屋火災」(焼失1,314戸)
・1873年(明治6)3月22日~23日 横浜の「相生町の大火」(重軽傷者20余名、焼失1,577戸)
・1874年(明治7)4月27日 浜松明治7年の大火「小野組火事」(焼失家数1,318軒)
・1875年(明治8)4月24日 飛騨高山明治8年の大火(死亡者1名、焼失1,032戸)
・1879年(明治12)1月26日~27日 高崎明治13年の大火(消失2,500余戸)
・1879年(明治12)3月3日 高岡明治12年の大火(焼失2,000余戸)
・1879年(明治12)12月6日 明治12年函館大火(焼失2,326戸)
・1879年(明治12)12月26日 東京の日本橋大火(全焼10,613戸)
・1880年(明治13)5月15日 弘前明治13年の大火(焼失1,000余戸)
・1880年(明治13)5月21日 三条の大火「糸屋万平火事」(死者34名、焼失2,743戸)
・1880年(明治13)8月7日 新潟明治13年の大火(死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸)
・1880年(明治13)12月24日 明治13年大阪南の大火「島の内出火」(死者8名、負傷者350~60名、焼失3,388戸)
・1881年(明治14)1月26日 東京の神田の大火(全焼10,673戸)
・1881年(明治14)2月11日 東京の神田区の大火(全焼7,751戸)
・1881年(明治14)4月25日 福島明治の大火「甚兵衛火事」(死者7名、焼失1,785戸)
・1882年(明治15)5月15日 富山県氷見明治の大火(焼失1,600余戸)
・1884年(明治17)5月13日 水戸明治17年「下市の大火」(焼失1,200余戸)
・1884年(明治17)11月7日~8日 盛岡明治17年の大火(焼失1,432戸)
・1885年(明治18)5月31日~6月1日 富山明治18年の大火「安田焼」(死者9名、焼失5,925戸) 
・1886年(明治19)4月30日~5月1日 秋田明治19年の大火「俵屋火事」(死者17名、負傷者186名、焼失3,554戸) 
・1886年(明治19)12月30日 水戸明治19年「上市の大火」(焼失1,800余戸)
・1888年(明治21)1月4日 松本明治21年南深志の大火(死者5名、焼失1,553戸)
・1888年(明治21)1月31日 横浜明治21年野毛の放火による大火(重軽傷者数10人、焼失1,121戸)
・1889年(明治22)2月1日~2日 静岡明治22年の大火(焼失1,100余戸) 
・1890年(明治23)2月27日 東京の浅草大火(全焼1,469戸)
・1890年(明治23)9月5日 明治23年大阪大火「新町焼け」(死者1名、軽傷者206名、全焼2,023戸、半焼60戸)
・1893年(明治26)3月17日~18日 川越大火(焼失1,302戸、土蔵60棟焼失)
・1893年(明治26)3月29日~30日 松阪明治の大火(焼失1,460戸)
・1894年(明治27)5月26日 山形明治27年「市南の大火」(死者15名、負傷者69名、焼失1,284戸) 
・1895年(明治28)4月29日 石川県七尾の大火(焼失1,000余戸)
・1895年(明治28)6月2日~3日 新潟県新発田明治28年の大火(死者4名、負傷者24名、焼失2,410戸)
・1895年(明治28)10月3日 根室明治28年の大火(焼失1,334戸)
・1896年(明治29)4月13日~14日 福井県勝山町明治29年の大火(死者5名、負傷者2名、焼失1,124戸) 
・1896年(明治29)8月26日 函館の「テコ婆火事」(焼失2,280戸)
・1897年(明治30)4月3日 柏崎明治30年の大火「日野屋火事」(焼失1,230戸)
・1897年(明治30)4月22日 八王子大火(死者42名、焼失3,500余戸)
・1898年(明治31)3月23日 東京の本郷大火(死者2名、負傷者42名、焼失1,478戸)
・1898年(明治31)6月4日 直江津(上越市)明治31年の大火「八幡火事」(焼失1,595戸)
・1899年(明治32)8月12日 富山明治32年の大火「熊安焼」(全焼4,697戸、半焼9戸) 
・1899年(明治32)8月12日~13日 横浜明治32年の大火(死者14名、全焼3,124、半焼49戸)
・1899年(明治32)9月15日 明治32年函館大火(焼失2,294戸)
・1900年(明治33)4月18日 福井「橋南大火」(死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒)
・1900年(明治33)6月27日 高岡明治33年の大火(死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸)
・1902年(明治35)3月30日 福井明治35年「橋北の大火」(焼失3,309戸)
・1903年(明治36)4月13日 福井県武生町明治の大火(死者7名、重傷者2名、全焼1,057戸)  
・1904年(明治37)5月8日 小樽明治37年「稲穂町の火事」(焼失2,481戸)
・1906年(明治39)7月11日 直江津町(上越市)明治39年の大火「ながさ火事」(焼失1,041戸)  
・1907年(明治40)8月25日 明治40年函館大火(死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸)
・1908年(明治41)3月8日 新潟明治41年3月の大火(焼失1,198戸)
・1908年(明治41)9月4日 新潟明治41年再度の大火(全焼2,071戸、半焼18戸)
・1909年(明治42)7月31日~8月1日 大阪明治42年「北の大火」(焼失11,365戸)
・1910年(明治43)4月16日 輪島町の大火(全焼1,055軒、半焼15軒)    
・1910年(明治43)5月3日~4日 明治43年青森大火(死者26名、負傷者163名、焼失7,519戸、半焼5戸)
・1911年(明治44)4月9日 東京の吉原大火(全焼6,189戸、半焼69戸)
・1911年(明治44)5月8日 山形明治44年「市北の大火」(全焼1,340戸)
・1911年(明治44)5月16日 小樽明治44年の大火(焼失1,251戸)
・1912年(明治45)1月16日 大阪明治45年「南の大火」(死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸)   
・1912年(明治45)3月21日 東京の州崎大火(全焼1,149戸、半焼11戸)
・1912年(明治45)4月22日 松本明治「北深志の大火」(死者5名、焼失1,341戸)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

840年(承和7)第53代の天皇とされる淳和天皇の命日(新暦6月11日)詳細
1680年(延宝8)江戸幕府第4代将軍徳川家綱の命日(新暦6月4日)詳細
1911年(明治44)文部省編『尋常小学唱歌』第1学年用(20曲)が発行される詳細
1968年(昭和43)富山県神通川流域のイタイイタイ病が、政府によって認定された公害病の第1号となる詳細
1950年(昭和25)詩人・歌人・文芸評論家相馬御風の命日詳細
1955年(昭和30)東京都砂川町(現立川市)で米軍立川基地拡張反対総決起集会が開かれ砂川闘争が始まる詳細
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 今日は、明治時代後期の1895年(明治28)に、三国干渉により、閣議で、日本が遼東半島の全面放棄の勧告を受諾することを決めた日です。
 三国干渉(さんごくかんしょう)は、明治時代後期の1895年(明治28)4月23日に、ロシア、ドイツ、フランス三国の公使が外務省を訪れ、遼東半島(奉天半島)を日本が所有することは、清国の首府を危うくし、朝鮮の独立を有名無実とし、極東の平和に障害となるから、その領有を放棄すべしとの勧告です。日清戦争後の講和に関わる1895年(明治28)4月17日調印(4月20日批准)の「下関条約」(日清講和条約)の結果、一旦は日本への割譲が決定した遼東半島(奉天半島)でしたが、6日後の4月23日にこのロシア・フランス・ドイツ三国の勧告が行われました。
 翌24日、大本営の置かれていた広島で急遽御前会議が開催されて対策が協議されたものの、当時の日本の国力では三国に対抗できないと判断され、5月4日に遼東半島(奉天半島)の放棄を決定、翌日3国に通告、10日には明治天皇が「遼東半島還付ノ詔勅」でその旨を国民に告げます。そして、日清両国は同年11月8日に「奉天半島還付条約」に調印(12月3日公布)し、①日本は清国に遼東半島(奉天半島)を返還する、②清国は1895年11月16日に返還の代償金として日本側に銀三千万両を支払う、③代償金の受け渡しの日から3ヶ月以内に日本軍が遼東半島(奉天半島)から撤退することを約しました。
 その後、1898年(明治31)3月に、ロシアは清と「旅順港・大連湾租借に関する露清条約」を結び、遼東半島(奉天半島)に鉄道を繋げ、軍港を建設することになり、のちの日露戦争の伏線となります。

〇三国干渉関係略年表

<1895年(明治28)>
・4月8日 ロシア帝国政府は「日本の旅順併合は、清国と日本が良好な関係を結ぶことにたいして永久的な障害となり、東アジアの平和の不断の脅威となるであろう、というのが、ヨーロッパ列強の共通の意見である——ということを、友好的な形式で日本へ申し入れる」ことを、列国に提議する
・4月17日 「下関条約」(日清講和条約)に調印し、遼東半島(奉天半島)の日本への割譲が決定する
・4月20日 「下関条約」(日清講和条約)が批准される
・4月23日 ロシア、ドイツ、フランス三国の公使が外務省を訪れ、「露仏独三国の遼東半島遷付勧告」を行い、遼東半島の領有を放棄せよと迫る
・4月24日 大本営の置かれていた広島で急遽御前会議が開催されて対策が協議され、当時の日本の国力では三国に対抗できないと判断される
・4月29日 イギリス外相のキンバーリー伯爵は駐英日本公使の加藤高明に対し、三国干渉について、イギリスは日本に援助できない旨を伝える
・5月4日 閣議で、日本が遼東半島の全面放棄の勧告を受諾することを決める
・5月5日 ロシア、ドイツ、フランス三国に、遼東半島の全面放棄を通告する
・5月10日 明治天皇が「遼東半島還付ノ詔勅」でその旨を国民に告げる
・11月8日 日清両国は「奉天半島還付条約」に調印(12月3日公布)し、①日本は清国に遼東半島(奉天半島)を返還する、②清国は1895年11月16日に返還の代償金として日本側に銀三千万両を支払う、③代償金の受け渡しの日から3ヶ月以内に日本軍が遼東半島(奉天半島)から撤退することを約する
・11月16日 遼東半島(奉天半島)返還の代償金として清国から日本側に銀三千万両が支払われる

<1898年(明治31)>
・3月27日 ロシアは清と「旅順港・大連湾租借に関する露清条約」を結び、遼東半島(奉天半島)に鉄道を繋げ、軍港を建設することになる

<1904年(明治37)>
・2月6日~翌年9月5日 日露戦争が戦われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1550年(天文19)室町幕府12代将軍足利義晴の命日(新暦5月20日)詳細
1881年(明治14)「小学校教則綱領」が制定される詳細
1913年(大正2)函館大正2年大火で、1,532戸が焼失する詳細
1949年(昭和24)GHQにより「国税行政の再編成に関する覚書」 (SCAPIN-2001) が出される詳細
1950年(昭和25)現行の「生活保護法」が公布・施行される詳細
1976年(昭和51)30件の郷土芸能が初の重要無形民俗文化財に指定される詳細
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