ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 江戸時代

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 今日は、江戸時代後期の1792年(寛政4)に、仙台藩士・林子平の海防の必要性を説いた著書『海国兵談』が発禁となり、子平は蟄居処分になった日ですが、新暦では7月4日となります。
 『海国兵談』(かいこくへいだん)は、ロシア勢力南下の情勢を踏まえて、対外的防備策として、国防、富国強兵の急務を論じた、林子平著の兵学書でした。全16巻からなり、1777年(安永6)に起稿して1786年(天明6)に脱稿、1787年(天明7)~1791年(寛政3)にかけて自費刊行されています。
 当時ロシアが千島、北海道に南進したことに危機感を抱き、警告しようとして書かれたもので、日本を守るために海防が必要であることを説いていました。第1巻では、オランダ船の装備や構造の紹介とともに、洋式軍艦を建造し海軍を充実させるよう説き、大砲を改善し沿海に配備すべきことを提言、特に江戸湾の防備が急務であると指摘、第2巻以下は従来の兵書の内容を出ていませんが、第14~16巻では武士土着論・富国策もあり、全般として国内戦の勝利よりも、対外戦の備えを論じています。
 しかし、1791年(寛政3)末に、みだりに国防を論じた罪で幕府に召喚され、翌年5月16日に蟄居処分となり、板木は没収されました。1793年(寛政5)のロシア使節の根室来航を契機に、本書は広く伝写され、嘉永年間 (1848~54) には復刻出版され、海防の論議が高まるにつれて、尊皇攘夷思想に影響を与えています。
 以下に、『海国兵談』の一部を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇林子平(はやし しへい)とは?

 江戸中期~後期の経世論家で、寛政三奇人の一人です。江戸時代中期の1738年(元文3年6月21日)に、江戸において、幕臣で御書物奉行(620石)であった岡村良通の次男として生まれましたが、本名は友直(ともなお)と言いました。しかし、3歳の頃に、故あって父は浪人の身となり、家族は伯父(父の弟)で町医者の林従吾(林道明)に預けられ、林姓を名乗ることとなります。
 1757年(宝暦7)に、兄が仙台藩に仕官することになり、仙台に居を移しましたが、1764年(明和1)に朝鮮使来聘(らいへい)を聞き、急に江戸に赴くなど、しばしば江戸に遊学し、工藤平助に兄事し、大槻玄沢、桂川甫周 ら蘭学者と交流がありました。1775年(安永4)には、長崎に行き、オランダ人からロシア南下の形勢を聞き、国防の必要を痛感、地理学・兵学を志すようになります。
 1777年(安永6)に、『海国兵談』を起稿して、1786年(天明6)に脱稿、1787年(天明7)~1791年(寛政3)にかけて自費刊行しました。一方で、1785年(天明5)に、国防の見地から『三国通覧図説』を著し、朝鮮、琉球、蝦夷、小笠原諸島の地理を記します。
 しかし、1791年(寛政3)末に、みだりに国防を論じた罪で幕府に召喚され、翌年5月16日に蟄居処分となり、板木は没収され、12月には囚人として江戸に送られました。こういう不遇の状況の中で、1793年(寛政5年6月21日)に、江戸において、病気により、56歳で亡くなっています。
 同年のロシア使節の根室来航を契機に、著書『海国兵談』は広く伝写され、嘉永年間 (1848~54) には復刻出版され、海防の論議が高まるにつれて、尊皇攘夷思想に影響を与えることとなりました。尚、後世には、高山彦九郎、蒲生君平と並んで寛政の三奇人と称されるようになります。

☆林子平著『海国兵談』(抄文)

 海国の武備は海辺にあり。海辺の兵法は水戦にあり。水戦の要は大銃にあり、是れ海国自然の兵制也。
 昇平久き時は人心弛む。人心弛む時は乱を忘るゝ事、和漢古今の通病なり。是を忘れざるを武備といふ。蓋し武は文と相並んで徳の名なり。備は徳にあらず事なり。変に臨て事欠さる様に物を備置を云なり。
 当世の俗習にて、異国船の入津は長崎に限りたる事にて、別の浦江船を寄する事は決して成らざる事と思へり。実に太平の鼓腹する人と云うべし。既に古は薩摩の坊の津、筑前の博多、肥前の平戸、摂州の兵庫、泉州の堺、越前の敦賀等え異国船入津して物を献じ、物を商いたること数多あり。是自序にも言し如く、海国なるゆえ何国の浦へも、心に任せて船を寄せらるゝことなれば、島国なりとて曾て油断は致されざる事也。是に因て思へば、当世長崎の港口に、石火矢台を設て備を張が如く、日本国中東西南北を論せず、悉く長崎の港の如くに備置きたき事、海国武備の大主意なるべし。さて此事、為し難き趣意にあらず。今より新制度を定て漸々に備なば、五十年にして、日本の惣海浜堂々たる厳備をなすべき事、得て期すべし。疑ふこと勿れ。此の如く成就する時は、大海を以て池と為し、海岸を以て石壁と為し、日本といふ方五千里の大城を築き立たるが如し。豈愉快ならずや。
 竊に憶へば当時長崎に厳重に石火矢の備有りて、却て、安房・相模の海港に其備なし、此事甚不審。細かに思へば、江戸の日本橋より唐・阿蘭陀まで境なしの水路なり。然るを此に備へずして、長崎のみ備るは何ぞや。小子が見を以てせば安房、相模の両国に諸侯を置て、入海の瀬戸に厳重の備を設けたき事なり。日本の惣海岸に備る事は、先ず此の港口を以て始と為べし。是海国武備の中の又肝要なる所なり。然と云とも忌諱を顧りみずして有の侭に言は不敬なり。言はざるは又不忠なり。此の故に独夫、罪を憚らずして以て書す。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1623年(元和9)囲碁名人・本因坊家初代本因坊算砂の命日(新暦6月13日)詳細
1689年(元禄2)松尾芭蕉が『おくの細道』に旅立った日の新暦換算日(旅の日)詳細
1889年(明治22)東京・上野の宮内省博物館を帝国博物館に改称し、京都・奈良にも設置する官制が出される詳細
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1951年(昭和26)世界保健機関(WHO)が日本の加盟を承認する詳細
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 今日は、江戸時代中期の1787年(天明7)に、天明大飢饉で大坂の庶民が米屋を襲撃し、天明の打ちこわしが始まった日ですが、新暦では6月27日となります。
 天明の打ちこわし(てんめいのうちこわし)は、江戸時代中期の天明年間(1781~89年)に勃発した都市騒擾事件でした。1787年(天明7年5月)に、江戸、大阪など当時の主要都市を中心に、ほぼ同時期に30ヶ所余で発生し、翌月には石巻、小田原、宇和島などへも波及しています。
 江戸では、米百俵の値段は平年178両だったものが、天明の大飢饉の影響もあって、1787年(天明7)には213両なり、平年では100文で米1升以上、収穫前の5月でも5合以上が買えましたが、徐々に高騰し最高値を記録した天明7年5月では2合5尺しか買えないようになって、庶民の怒りが爆発しました。そして、米屋や商家等に押し入って、金品を強奪したり、建物を破壊したりし、江戸では、千軒の米屋と8千軒以上の商家が襲われ、無法状態が3日間続いたと言われています。
 打ちこわし発生後、困窮した人々への支援策が具体化し、7月には幕府は寛政の改革も始まり、混乱は収拾に向かいました。
 以下に、江戸での天明の打ちこわしを記述した『蜘蛛の糸巻』(岩瀬京山著)の該当部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇岩瀬京山著『蜘蛛の糸巻』の「江戸の打ちこわし」の記述

翌年天明七丁未五月、玄米両に二斗五升、麦八戸、大豆六斗。同月十日頃、白米百文に付三合五勺、豆七合。同廿八日頃、百文に付三合。御蔵米[1]三十五石に金二百五両、一両に一斗七升、銭は一両に五貫二百文。ここに至り米穀動かず[2]、米屋ども江戸中戸を閉ざす。同月廿の朝、雑人[3]ども赤坂御門外なる米屋を打毀す。同日同刻京橋伝馬町三丁目万屋佐兵衛、万佐とて聞えたる[4]米問屋を打毀す。此時おのれ[5]十九歳、毀したる跡を見たるに、破りたる米俵家の前に散乱し、米ここかしこに[6]山をなす。その中に引破りたる色々の染小袖[7]、帳面の類、破りたる金屏風[8]、毀したる障子、唐紙[9]、大家なりしに[10]内は見えすくやうに[11]残りなく打こわしけり。後に聞けば、初めは十四五人なりしに、追々加勢にて百人ばかりとぞ。同夜中、小網町、伊勢町、小船町、神田内外、蔵前、浅草辺、千住、本郷、市ケ谷、四ツ谷、同夜より翌廿二日に至りて暁まで、諸方の蜂起[12]、米屋のみにあらずとも富商人は手を下せり[13]。然れども官令寂として声なし[14]。廿二日午の刻、町奉行出馬[15]。並に御手先方十人[16]捕へ方の命あり[17]。又竹槍御免[18]、死骸酬に及ばざるの令[19]、市中に降りし故、市人[20]勢を得て、木戸木戸を締切り、相識し言葉を作り[21]、互に加勢の約をなし、拍子木をしらせとす。ここに至りて蜂起[12]もまた寂として声なし。江都[22]開発以来未だ曾てあらざる変事地妖[23]と謂ふべしと諸人言ひけり。

<現代語訳>

翌年の天明7年(1787年)5月に、玄米は一両で二斗五升、麦八戸、大豆六斗だった。同月10日頃には、白米百文に付三合五勺、豆七合、同28日頃には、百文に付三合。蔵米は三十五石で金二百五両となり、一両に一斗七升、銭は一両に五貫二百文となる。ここに至って、米価の騰貴によって、誰も米を売る者がなくなり、米屋どもは江戸中店を開かない。同月20日の朝、下賤の者共によって、赤坂御門外にある米屋が破壊された。同日の同じ時刻に京橋伝馬町三丁目の万屋佐兵衛、米商万作として知られた米問屋が破壊された。この時、私(著者岩瀬京山)は19歳で、破壊された跡を見たが、破られた米俵が家の前に散乱し、米があちこちに山をなしている。その中に、引き破られた色々の染小袖、帳面の類、破られた金屏風、壊された障子や唐紙があり、金持ちの家なのに内側が素通しに見えるほどに残りなく破壊された。後に聞けば、初めは14、5人だったが、だんだんに加勢する者が出て100人ばかりになる。同夜の中に、小網町、伊勢町、小船町、神田内外、蔵前、浅草辺、千住、本郷、市ケ谷、四ツ谷、同夜より翌22日に至って暁まで、諸方面で多くの者が一斉に暴動をおこす、米屋だけでなく、富裕な商人は襲われた。しかし、町奉行所は鎮圧には出動しなかった。22日の昼頃になって、南町奉行(山村良旺)と北町奉行(曲淵景漸)が出動した。ならびに御手先方十人に捕縛するようにとの命令があった。また、対象の町人が自衛のため竹槍を持つことが許可され、打ちこわしに参加する暴徒を殺しても届け出る必要はないと言う命令が出て、市中に知れ渡ったので、商人は勢を得て、木戸木戸を締め切り、合言葉を作って、お互いに加勢する約束をし、拍子木で知らせることとした。ここに至って多くの者の一斉に暴動もまた静かになって声も聞こえないようになった。江戸が始まって以来、未だかつてなかった変事であり、地上に起こる怪しい変異というべきだと多くの人々が言ったことだ。

【注釈】

[1]蔵米:くらまい=江戸時代幕藩領主の蔵に年貢として納められた米。特に幕府が江戸浅草御蔵に収納,旗本,御家人に支給した米をいう。
[2]米穀動かず:べいこくうごかず=米価が騰貴するので、誰も米を売る者がいない。
[3]雑人:ぞうにん=下賤の者。身分の低い者。召使いや一般の庶民のこと。
[4]万佐とて聞えたる:まんざときこえたる=米商万作として知られた。
[5]おのれ=随筆『蜘蛛の糸巻』の著者岩瀬京山のこと。
[6]ここかしこに=あちこちに。このところあのところに。この場所あの場所に。この箇所あの箇所に。
[7]染小袖:そめこそで=模様や色を染めつけた小袖。色小袖。
[8]金屏風:きんびょうぶ=地紙全体に金箔をおいた屏風。
[9]唐紙:からかみ=美しい色模様を刷り出した紙を貼った襖のこと。
[10]大家なりしに:たいけなりしに=金持ちの家なのに。
[11]内は見えすくやうに:うちはみえすくように=内側が素通しに見えるほどに。
[12]蜂起:ほうき=多くの者が一斉に暴動をおこすこと。
[13]富商人は手を下せり:ふしょうにんはてをくだせり=富裕な商人は襲われた。
[14]官令寂として声なし:かんれいせきとしてこえなし=町奉行所は鎮圧には出動しない。
[15]町奉行出馬:まちぶぎょうしゅつば=南町奉行(山村良旺)と北町奉行(曲淵景漸)が出動した。
[16]御手先方十人:おさきてかたじゅうにん=幕府の御先手組長谷川平蔵以下10人の組頭のこと。
[17]捕へ方の命あり:とらへかたのめいあり=捕縛するようにとの命令。
[18]竹槍御免:たれやりごめん=打ちこわしの対象となる町人が自衛のため竹槍を持つことの許可。
[19]死骸酬に及ばざるの令:しがいしゅうにおよばざるのれい=打ちこわしに参加する暴徒を殺しても届け出る必要はないと言う命令。
[20]市人:いちびと=市で物を売る人。また、町に住む商人。
[21]相識し言葉を作り:あいしるしことば=合言葉を作ること。
[22]江都:こうと=江戸のこと。
[23]地妖:ちよう=地上に起こる怪しい変異。地上に生じるふしぎなわざわい。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1333年(元弘3)久米川の戦いで、新田義貞軍が鎌倉幕府の軍勢を破る(新暦6月24日)詳細
1534年(天文3)戦国大名織田信長の誕生日(新暦6月23日)詳細
1698年(元禄11)儒学者・蘭学者青木昆陽の誕生日(新暦6月19日)詳細
1718年(享保3)俳人で蕉門の十哲の一人とされる立花北枝の命日(新暦6月10日)詳細
1925年(大正14)「治安維持法」が施行される詳細
1962年(昭和37)劇作家・詩人・児童文学者・小説家秋田雨雀の命日詳細
1979年(昭和54)本州四国連絡橋計画の最初として、アーチ橋の大三島橋が完成(翌日から供用開始)する詳細

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 今日は、江戸時代中期の1703年(元禄16)に、大坂の竹本座で近松門左衞門作の人形浄瑠璃『曽根崎心中』が初演された日ですが、新暦では6月20日となります。
 『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう)は、近松門左衛門によるの世話物浄瑠璃の初作で、江戸時代中期の1703年(元禄16)に、大坂の竹本座で初演されました。摂津国西成郡曾根崎村(現在の大阪市北区曽根崎)の露天神の森で起きた相愛の若い男女の心中事件を脚色したものです。
 近松世話物浄瑠璃の初作として近世戯曲史上画期的な意義があり、心中物流行の先がけとなり、文学作品としても高く評価されてきました。大坂内本町醤油屋平野屋の手代徳兵衛は、堂島新地の遊女お初と深く契り、主人の姪との縁談を拒絶したため、主人の怒りを買い、さらに主人に返却すべき金を友人九平次にだまし取られて、ついに曾根崎天神の森でお初と心中するという物語です。
 世話物浄瑠璃の初作として、近世戯曲史上画期的な意義があり、心中物流行の先がけとなりましたが、文学作品としても高く評価されてきました。竹本座の経営不振を一挙に挽回し、負債を一気に返すほどの大当りをとったと言われ、歌舞伎でも上演されています。
 以下に、『曽根崎心中』道行きの冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照ください。

〇近松門左衛門】(ちかまつ もんざえもん)とは?

 江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作者です。江戸時代前期の1653年(承応2)に、越前国において、吉江藩士の父・杉森信義(のぶよし)の二男として生まれましたが、名は信盛(通称は平馬)と言いました。父が浪人となったため、15、16歳の頃に家族と共に京都に移り、堂上貴族の一条恵観、正親町公通らに仕えます。
 後に近江の近松寺に遊学し、近松の姓の由来になったともされてきました。京都の宇治加賀掾のもとで修業、1685年(貞享2)に竹本義太夫(筑後掾)のために『出世景清』を書いて名声を博し、以後二人の協力関係が始まったとされます。
 1693年(元禄6)から歌舞伎の坂田藤十郎に作品を提供、『傾城仏の原』(1699年)、『傾城壬生大念仏』(1702年)などの傑作を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招きましたが、1709年(宝永6)の藤十郎没後は歌舞伎を離れました。一方、1703年(元禄16)に義太夫のために執筆した『曾根崎心中』で世話浄瑠璃を確立し、宝永2年(1705年)には竹本座座付作者となり、『冥途の飛脚』(1711年)を書いています。
 1714年(正徳4)に義太夫が没した後も、『国性爺合戦』(1715年)、『心中天の網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)などの代表作を書きました。時代物、世話物ともに優れ、従来の古浄瑠璃と一線を画した功績は大きかったのですが、1725年1月6日(享保9年11月22日)に、大坂において、数え年72歳で亡くなっています。
 後世には、井原西鶴、松尾芭蕉と並ぶ江戸文学界の巨頭とされるようになりました。

<主要な作品>

・『出世景清』(1685年・大坂竹本座初演)
・『傾城阿波の鳴門』(1695年・京の早雲座初演)
・『傾城仏の原』(1699年・京の都万太夫座上演)
・『傾城壬生大念仏』(1702年・京の都万太夫座上演)
・『曾根崎心中』(1703年初演)
・『薩摩歌』(1704年・大坂竹本座初演?)
・『用明天王職人鑑』(1705年・大坂竹本座初演)
・『心中重井筒』(1707年・大坂竹本座初演)
・『丹波与作待夜の小室節』(1707年・大坂竹本座初演)
・『けいせい反魂香 (はんごんこう) 』(1708年・大坂竹本座初演)
・『心中刃は氷の朔日』(1709年・大坂竹本座初演)
・『心中万年草』(1710年・大坂竹本座初演)
・『堀川波鼓』(1711年以前・大坂竹本座初演)
・『冥途の飛脚』(1711年初演?)
・『長町女腹切』(1712年秋・大坂竹本座初演)
・『嫗山姥』(1712年・大坂竹本座初演)
・『阿波鳴門物』(1712年・大坂竹本座初演)
・『国性爺合戦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『大経師昔暦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『生玉心中』(1715年・大坂竹本座初演)
・『鑓の権三重帷子』(1717年・大坂竹本座初演)
・『山崎与次兵衛寿の門松』(1718年・大坂竹本座初演)
・『日本振袖始』(1718年・大坂竹本座初演)
・『博多小女郎波枕』(1718年・大坂竹本座初演)
・『平家女護島』(1719年・大坂竹本座初演)
・『双生隅田川』(1720年・大坂竹本座初演)
・『心中天の網島』(1720年・大坂竹本座初演)
・『女殺油地獄』(1721年・大坂竹本座初演)
・『信州川中島合戦』(1721年・大坂竹本座初演)
・『心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)』(1722年・大坂竹本座初演)
・『関八州繫馬』(1724年・大坂竹本座初演)

☆『曽根崎心中』道行きの冒頭

 この世の名残り、夜も名残り。死に行く身をたとふればあだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く夢の夢こそ哀れなれ。 あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め。寂滅為楽と響くなり。 鐘ばかりかは、草も木も空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の面、北斗は冴えて影うつる星の妹背の天の河。梅田の橋を鵲の橋と契りていつまでも、われとそなたは女夫星。必ず添ふとすがり寄り、二人がなかに降る涙、川の水嵩も勝るべし。 心も空も影暗く、風しん/\と更くる夜半、星が飛びしか稲妻か、死に行く身に肝も冷えて、 「アヽ怖は。いまのはなんの光ぞや」 「ヲヽあれこそ人魂よ。あはれ悲しやいま見しは、二つ連れ飛ぶ人魂よ。まさしうそなたとわしの魂」 「そんなら二人の魂か。はやお互は死にし身か。死んでも二人は一緒ぞ」 と、抱き寄せ肌を寄せ、この世の名残りぞ哀れなる。初は涙を押しぬぐひ、 「ほんに思へば昨日まで、今年の心中善し悪しを余所にいひしが、今日よりはお前もわしも噂の数。まことに今年はこなさんも二十五の厄の年、わしも十九の厄年とて、思ひ合ふたる厄祟り、縁の深さの印かや。未来は一つ蓮ぞ」 と、うちもたれてぞ泣きゐたる。 徳兵衛、初が手を取りて、 「いつはさもあれこの夜半は、せめてしばしば長からで、心も夏の短夜の、明けなばそなたともろともに浮名の種の草双紙。笑はゞ笑へ口さがを、なに憎まうぞ悔やまうぞ。人には知らじわが心。望みの通りそなたとともに一緒に死ぬるこのうれしさ。冥途にござる父母にそなたを逢はせ嫁姑、必ず添ふ」 と、抱きしむれば、初はうれしさ限りなく、 「エヽありがたい忝い。でもこなさんは羨ましい。わしが父さん母さんはまめでこの世の人なれば、いつ逢ふことの情けなや、初が心中取沙汰を明日は定めて聞くであろ、せめて心が通ふなら夢になりとも見て下され。これからこの世の暇乞ひ、懐しの母さまや、名残り惜しやの父さまや」 と、声も惜しまずむせび泣き。 「いつまでかくてあるべきぞ。死におくれては恥の恥。いまが最期ぞ。観念」 と、脇差するりと抜放つ、馴染み重ねて幾年月、いとし可愛としめて寝し、今この肌にこの刃と 思へば弱る切先に、女は目を閉ぢ悪びれず、 「はやう殺して/\」 と、覚悟の顔の美しさ。哀れをさそふ晨朝の、寺の念仏の切回向。 『南無阿弥陀仏、/\/\』 南無阿弥陀仏を迎へにて、哀れこの世の暇乞。長き夢路を曾根崎の、森の雫と散りにけり。

   「アートウィキ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1073年(延久5)第71代天皇とされる後三条天皇の命日(新暦6月15日)詳細
1858年(安政5)伊東玄朴ら蘭医83名の醸金で、江戸の上野にお玉ヶ池種痘所が設立される(新暦6月17日)詳細
1875年(明治8)日露が「樺太・千島交換条約」に調印する詳細
1936年(昭和11)第69帝国議会の衆議院で斎藤隆夫議員が軍部革正(粛軍)を要請する質問演説(粛軍演説)をする詳細
1988年(昭和63)文芸評論家山本健吉の命日詳細
1991年(平成3)考古学者末永雅雄の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1829年(文政12年)に、囲碁棋士・14世本因坊秀和跡目の本因坊秀策が生まれた日ですが、新暦では6月6日となります。
 本因坊秀策(ほんいんぼう しゅうさく)は、備後国因島(現在の尾道市因島外浦町)において、桑原輪三と妻・カメの次男として生まれましたが、幼名は虎次郎と言いました。3、4歳の時に、母より囲碁の手ほどきを受け、1833年(天保4年)の5歳の時、尾道の豪商橋本竹下と出会い、棋才を見出され、以後支援を受けることとなります。
 1835年(天保6年)の7歳の時、三原城主浅野忠敬と対局、城主のすすめで本格的に囲碁指導を受けることとなり、翌年には、江戸へ出て第12世本因坊丈和の門に入りました。1839年(天保10年)の11歳の時、初段の免状を受け、翌年に因島へ初めての帰郷をはたし、浅野公より五人扶持を賜わり、1841年(天保12年)の13歳の時、大阪にて中川五段と対局、好成績が認められ二段へ昇進します。
 1842年(天保13年)の14歳の時、三段へ昇進、翌年に四段へ昇進し、この頃より秀策流とよばれる一、三、五の布石を用いるようになり、1845年(弘化2年)の17歳の時、12人扶持ちに増録されました。1846年(弘化3年)の18歳の時、大阪にて第11世幻庵因碩と対局(耳赤の一手)、江戸へ帰還して五段へ昇進、1848年(嘉永元年)の20歳の時、第14世本因坊の跡目を継承し、本因坊丈和の娘花と結婚、六段へ昇進します。
 1849年(嘉永2年)の21歳の時、初めての御城碁へ出仕して勝ち、以後12年間、御城碁無敗の19連勝を成し遂げました。1853年(嘉永6年)の25歳の時、太田雄三と30番碁をはじめ、23局終え、七段(上手)へ昇進、1857年(安政4年)の29歳の時、因島へ四度目の帰郷の折に、幼少時に使っていた碁盤に揮毫しています。
 1861年(文久元年)の33歳の時、母カメが亡くなり、追善のため百ヶ日の精進生活に入ったものの、江戸にコレラが大流行する中、翌年8月10日に、コレラによって、本因坊家において、数え年34歳で急逝しました。没後、第4世本因坊道策、第12世本因坊丈和と並んで碁聖と呼ばれることとなります。

〇本因坊秀策関係略年表(日付は旧暦です)

・1829年(文政12年5月5日) 備後国因島(現在の尾道市因島外浦町)において、桑原輪三と妻・カメの次男(幼名は虎次郎)として生まれる
・1831~32年(天保2~3年) 3、4歳の時、母より囲碁の手ほどきを受ける
・1833年(天保4年) 5歳の時、尾道の豪商橋本竹下と出会い、竹下は秀策の棋才を見抜き、以後支援を受ける
・1835年(天保6年) 7歳の時、三原城主浅野忠敬と対局、城主のすすめで本格的に囲碁指導を受ける
・1837年(天保8年) 9歳の時、江戸へ出て十二世本因坊丈和の門に入る
・1839年(天保10年) 11歳の時、初段の免状を受ける
・1840年(天保11年) 12歳の時、因島へ初めての帰郷をはたし、浅野公より五人扶持を賜わる
・1841年(天保12年) 13歳の時、大阪にて中川五段と対局、好成績が認められ二段へ昇進する
・1842年(天保13年) 14歳の時、三段へ昇進する
・1843年(天保14年) 15歳の時、四段へ昇進し、この頃より秀策流とよばれる一、三、五の布石を用いるようになる
・1845年(弘化2年) 17歳の時、12人扶持ちに増録される
・1846年(弘化3年) 18歳の時、大阪にて十一世幻庵因碩と対局(耳赤の一手)、江戸へ帰還して五段へ昇進する
・1848年(嘉永元年) 20歳の時、十四世本因坊の跡目を継承し、本因坊丈和の娘花と結婚、六段へ昇進する
・1849年(嘉永2年) 21歳の時、初めての御城碁へ出仕し勝つ(以後12年間、御城碁無敗の19連勝を成し遂げる)
・1853年(嘉永6年) 25歳の時、太田雄三と三十番碁をはじめ、二十三局終え、七段(上手)へ昇進する
・1857年(安政4年) 29歳の時、因島へ四度目の帰郷の折に、幼少時に使っていた碁盤に揮毫する
・1861年(文久元年) 33歳の時、母カメが亡くなり、追善のため百ヶ日の精進生活に入る
・1862年(文久2年8月10日) 江戸にコレラが大流行する中、本因坊家でコレラにて、数え年34歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1763年(宝暦13)俳人小林一茶の誕生日(新暦6月12日)詳細
1911年(明治44)文学者市古貞次の誕生日詳細
1925年(大正14)改正「衆議院普通選挙法」(普通選挙法)公布で満25歳以上の全成年男子に選挙権が与えられる詳細
1951年(昭和26)子供の権利に関する宣言「児童憲章」が制定される(児童憲章制定記念日)詳細
1958年(昭和33)東京都に「多摩動物公園」が開園する詳細
1965年(昭和40)神奈川県横浜市の多摩丘陵の一画に「こどもの国」が開園する詳細
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 今日は、江戸時代後期の1800年(寛政12)に、商人・測量家・地理学者伊能忠敬が、第1次測量(蝦夷地測量)のために、江戸を出発した日(閏月)ですが、新暦では6月11日となります。
 伊能忠敬(いのう ただたか)は、江戸時代後期の商人・測量家・地理学者です。江戸時代中期の1745年(延享2年1月11日)に、上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)の名主小関五郎左衛門家で生まれました。
 1762年(宝暦12)18歳のときに佐原の伊能家の養子となり、養子となり、名を忠敬と改めます。酒造、米穀取引などの家業に尽力し、名主や村方後見として郷土のためにも尽くしました。
 1794年(寛政6)に50歳で隠居し、翌年江戸へ出て、幕府天文方高橋至時に師事し、暦学天文を学びます。その後、1800年(寛政12)、至時の推挙で幕府から奥州道中と蝦夷地東南沿岸測量を任されました。
 それから全国の測量へと発展し、1816年(文化13)に終了するまでに、10次に渡って日本全国の測量を行いました。これによって、「大日本沿海與地全図」を作成しましたが、その精密さで高い評価を受けたものの、1818年(文政元年4月13日)に、江戸において、71歳で没しています。
 尚、千葉県香取市の小野川沿いには、旧居(国指定史跡)が残され、1998年(平成10)には、近くに「伊能忠敬記念館」も建てられました。

〇伊能忠敬関係略年表(日付は旧暦です)

・1745年(延享2)1月11日 上総国山辺郡小関村の名主五郎左衛門家で生まれる 
・1751年(宝暦元) 母(みね)が亡くなり、婿養子だった父は実家の武射郡小堤村の神保家に戻る 
・1755年(宝暦5) 実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる 
・1762年(宝暦12)  下総国香取郡佐原村の酒造業を営む伊能家に婿養子に入り、名を忠敬と改める
・1781年(天明元)  佐原村本宿組名主となる 
・1783年(天明3)  天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する 
・1794年(寛政6)12月  隠居して家督を長男景敬に譲る 
・1795年(寛政7)  江戸に出て幕府天文方高橋至時に師事して暦学天文を学ぶ 
・1800年(寛政12)閏4月19日  第1次測量(奥州街道‐蝦夷地太平洋岸‐奥州街道)180日間 
・1801年(享和元)  第2次測量(三浦半島‐伊豆半島‐房総半島‐東北太平洋沿岸‐津軽半島‐奥州街道)230日間 
・1802年(享和2)  第3次測量(奥州街道‐山形‐秋田‐津軽半島‐東北日本海沿岸‐直江津‐長野‐中山道)132日間  
・1803年(享和3)  第4次測量(東海道‐沼津‐太平洋沿岸‐名古屋‐敦賀‐北陸沿岸‐佐渡‐長岡‐中山道)219日間 
・1805年(文化2)  第5次測量(東海道‐紀伊半島‐大阪‐琵琶湖‐瀬戸内海沿岸‐下関‐山陰沿岸‐隠岐‐敦賀‐琵琶湖‐東海道)幕府直轄事業となる  
・1808年(文化5)  第6次測量(東海道‐大阪‐鳴門‐高知‐松山‐高松‐淡路島‐大阪‐吉野‐伊勢‐東海道)  
・1809年(文化6)  第7次測量(中山道‐岐阜‐大津‐山陽道‐小倉‐九州東海岸‐鹿児島‐天草‐熊本‐大分‐小倉‐萩‐中国内陸部‐名古屋‐甲州街道)  
・1811年(文化8)  第8次測量(甲府‐小倉‐鹿児島‐屋久島‐種子島‐九州内陸部‐長崎‐壱岐‐対馬‐五島‐中国内陸部‐京都‐高山‐飯山‐川越)913日間 
・1815年(文化12)  第9次測量(東海道‐三島‐下田‐八丈島‐御蔵島‐三宅島‐神津島‐新島‐利島‐大島‐伊豆半島東岸‐八王子‐熊谷‐江戸)忠敬は参加せず 
・1816年(文化13)  第10次測量(江戸府内)   
・1818年(文化15)4月13日 江戸において死去するが、喪を秘して地図製作は続行される
・1821年(文政4) 『大日本沿海輿地全図』が完成し、3ヶ月後に喪が公表される 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1068年(治暦4)第70代の天皇とされる後冷泉天皇の命日(新暦5月22日)詳細
1870年(明治3)哲学者西田幾多郎の誕生日(新暦5月19日)詳細
1901年(明治34)数学者岡潔の誕生日詳細
1912年(明治45)小説家源氏鶏太の誕生日詳細
1928年(昭和3)田中義一内閣が中国・国民革命軍の北伐再開に対応して第二次山東出兵を決定する詳細
2007年(平成19)漆芸家高橋節郎の命日詳細
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