ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 大正時代

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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、詩人・児童文学者・伝道師山村暮鳥が亡くなった日です。
 山村暮鳥(やまむら ぼちょう)は、明治時代前期の1884年(明治17)1月10日に、群馬県西群馬郡棟高村(現在の高崎市)において、農業を営む父・木暮久七、母・志村シヤウの長男として生まれましたが、本名は志村八九十(しむら はくじゅう)と言いました。1889年(明治22)に父は祖父の確執のため家を出て、母と共に元総社村(現前橋市)の木暮家に帰り、養子となって、木暮八九十となります。
 1895年(明治28)に、父が事業に失敗したため、堤ヶ岡尋常小学校高等科を中退し、一家で上郊村に移り、松山寺の住職に、漢籍を学びました。1899年(明治32)に堤ヶ岡尋常小学校(現在の高崎市立堤ヶ岡小学校)の代用教員となり、翌年に前橋の聖マッテア教会で英語夜学校が開校され、小学校の宿直を務めながら夜学校に通います。
 1902年(明治35)に聖マッテア教会で洗礼を受け、同教会の婦人宣教師ウォールの通訳兼秘書として青森に転任、翌年には、ウォールの尽力により、東京佃島にある聖三一神学校に入学しました。1905年(明治38)に北海道旭川連帯に入隊、補充兵として満州に派遣されましたが、1906年(明治39)には、満州より帰国、聖三一神学校に復学します。
 1908年(明治41)に卒業後、秋田市秋田聖救世主教会に伝道師として着任したものの、各地に転任し、人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらいました。1910年(明治43)に自由詩社同人となり、1913年(大正2)には、萩原朔太郎、室生犀星と詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成、詩集『三人の処女』を新声社から自費出版します。
 1917年(大正6)に随筆集『小さな穀倉より』を刊行、1918年(大正7)には、水戸ステパノ教会に転任したが、健康を害して静養のため千葉県北条町に移り、大関五郎、柳橋好雄と「黎明会」を結成、雑誌「苦悩者」を創刊、詩集『風は草木にささやいた』、翻訳『ドストエフスキー書簡集』を刊行しました。1919年(大正8)に結核のため茨城県大貫海岸に転居、日本聖公会伝道師を休職、1920年(大正9)に福島県平町に移りましたが、結核とクリスチャンのため迫害され、茨城県磯浜に転居、童話集『ちるちる・みちる』を刊行、1921年(大正10)には、童謡専門雑誌「とんぼ」の顧問となり、詩集『梢の巣にて』、詩選集『穀粒』を刊行します。
 1922年(大正11)に「金の船」の「幼年詩」欄の選者となり、小説『十字架』、童謡童話集『万物の世界』、童話『葦舟の児』、童話『少年行』、童話『お菓子の城』を刊行しました。1923年(大正12)には、ほとんど病床で生活するようになり、童話『鉄の靴』を刊行したものの、翌年12月8日に、茨城県東茨城郡大洗町の借家「鬼坊裏別荘」において、肺結核に悪性腸結核を併発し、40歳で亡くなっています。
 尚、没後の1925年(大正14)に詩集『雲』、童話集『地獄の門』、『小さな世界』、『よしきり』が刊行され、1926年(大正15)には、雑誌「日本詩人」が「山村暮鳥追悼号」を出し、詩集『月夜の牡丹』が刊行されました。

〇山村暮鳥の主要な著作

・詩集『三人の処女』(1913年)
・詩集『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』(1915年)
・詩集『風は草木にささやいた』(1918年)
・童話集『ちるちる・みちる』(1920年)
・詩集『梢(こずえ)の巣にて』(1921年)
・童話『鉄の靴』(1923年)
・詩集『雲』(1925年)
・遺稿詩集『月夜の牡丹(ぼたん)』(1926年)

☆山村暮鳥関係略年表

・1884年(明治17)1月10日 群馬県西群馬郡棟高村(現在の高崎市)において、農業を営む父・木暮久七、母・志村シヤウの長男として生まれる
・1889年(明治22) 父は祖父の確執のため家を出て、母と共に元総社村(現在の前橋市)の木暮家に帰る。暮鳥は養子という形で引き取られ、木暮八九十となる
・1890年(明治23) 元総社尋常小学校に入学する
・1891年(明治24) 祖父が死去したため、穂高村の志村家に帰り、堤ヶ丘尋常小学校に転入する
・1895年(明治28) 父が事業に失敗したため、高等科を中退し、一家で上郊村に移り、松山寺の住職に、漢籍を学ぶ
・1899年(明治32) 堤ヶ岡尋常小学校(現在の高崎市立堤ヶ岡小学校)の代用教員となる
・1901年(明治34) 前橋の聖マッテア教会で英語夜学校が開校され、小学校の宿直を務めながら夜学校に通う
・1902年(明治35) 聖マッテア教会で洗礼を受け、同教会の婦人宣教師ウォールの通訳兼秘書として青森に転任する
・1903年(明治36) ミス・ウォールの尽力により、東京佃島にある聖三一神学校に入学する
・1904年(明治37) 「白百合」に木暮流星の筆名で短歌を発表し、キーツの詩を愛読する
・1905年(明治38) 北海道旭川連帯に入隊、補充兵として満州に派遣される
・1906年(明治39) 満州より帰国、聖三一神学校に復学する
・1907年(明治40) 雑誌「南北」を創刊し、3号まで発刊、短歌から詩へ移る
・1908年(明治41) 聖三一神学校卒業、秋田市秋田聖救世主教会に伝道師として着任する
・1909年(明治42) 秋田県湯沢町日本聖公会湯沢講義所に転任、ついで仙台日本聖公会に転任、人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらう
・1910年(明治43) 東京諸聖徒教会に転籍、自由詩社同人となる
・1911年(明治44) 水戸聖公会に転任、常陸太田講義所に転任する
・1912年(明治45) 福島県平町新田町講義所に転任、詩集の刊行を計画し島崎藤村の序を得るが、刊行を断念する
・1913年(大正2) 教父土田三秀の長女冨士と結婚、萩原朔太郎、室生犀星と詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成、詩集『三人の処女』を新声社から自費出版する
・1914年(大正3) にんぎょ詩社の機関誌「卓上噴水」が創刊される
・1916年(大正5) 暮鳥を編集人、室生犀星を発行人とする雑誌「LE PRISM」を創刊、雑誌「感情」に準同人として加わる
・1917年(大正6) 畑を借りて、野菜などを作り始め、随筆集『小さな穀倉より』を白日社から刊行する
・1918年(大正7) 水戸ステパノ教会に転任したが、健康を害して静養のため千葉県北条町に移り、大関五郎、柳橋好雄と「黎明会」を結成、雑誌「苦悩者」を創刊、詩集『風は草木にささやいた』を新潮社から、翻訳『ドストエフスキー書簡集』を白日社から刊行する
・1919年(大正8) 結核のため茨城県大貫海岸に転居、日本聖公会伝道師を休職する
・1920年(大正9) 福島県平町に移るが、結核とクリスチャンのため迫害され、茨城県磯浜に転居、童話集『ちるちる・みちる』を洛陽堂から刊行する
・1921年(大正10) 童謡専門雑誌「とんぼ」の顧問となり、詩集『梢の巣にて』を叢文閣から、詩選集『穀粒』を降文館から刊行する
・1922年(大正11) 「金の船」の「幼年詩」欄の選者となり、小説『十字架』を聖書文学会から、童謡童話集『万物の世界』を真珠書房から、童話『葦舟の児』を文翫堂から、童話『少年行』を創文社から、童話『お菓子の城』を文星閣から刊行する
・1923年(大正12) ほとんど病床で生活するようになり、童話『鉄の靴』を内外出版から刊行する
・1924年(大正13)12月8日 茨城県東茨城郡大洗町の借家「鬼坊裏別荘」において、肺結核に悪性腸結核を併発し、40歳で亡くなる
・1925年(大正14) 詩集『雲』、童話集『地獄の門』、『小さな世界』、『よしきり』がイデア書院から刊行、茨城文芸社主宰暮鳥一周年追悼会が催される
・1926年(大正15) 雑誌「日本詩人」が「山村暮鳥追悼号」を出し、詩集『月夜の牡丹』、紅玉堂より刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」が発せられ、太平洋戦争が始まる(太平洋戦争開戦記念日)詳細
1943年(昭和18)東条英機の大東亜戦争二週年記念講演が、全国にラジオ放送される詳細
1945年(昭和20)GHQが「救済並福祉計画ノ件」(SCAPIN-404)を指令する詳細
1958年(昭和33)国道20号線の新笹子隧道[一般有料道路笹子トンネル](全長2,953m)が開通する詳細
1990年(平成2)歌人・国文学者土屋文明の命日詳細
2008年(平成20)初めて7地域が日本ジオパークに決まり、内3地域を世界ジオパークへ推薦する詳細
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 今日は、大正時代の1912年(大正元)に、「朝日新聞」において、夏目漱石の『行人』が連載開始された日です。
 『行人』(こうじん)は、夏目漱石が「朝日新聞」に、1912年(大正元)12月6日~翌年10月29日(4月~9月まで作者の病気(胃潰瘍)のため、5ヶ月の中断あり)まで、連載した小説でした。1914年(大正3)1月7日に大倉書店より刊行されましたが、「友達」、「兄」、「帰ってから」、「塵労」の4つの編から成り立っていて、互いを理解しえない夫婦生活を通して、主人公の孤独な魂の苦悩を描いています。
 近代知識人の苦悩を描く、『彼岸過迄』に続き『こゝろ』に繋がる、後期3部作の2作目とされてきました。以下に、『行人』の冒頭部分「友達」の一を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『行人』の冒頭部分「友達」の一

        一

 梅田(うめだ)の停車場(ステーション)を下(お)りるや否(いな)や自分は母からいいつけられた通り、すぐ俥(くるま)を雇(やと)って岡田(おかだ)の家に馳(か)けさせた。岡田は母方の遠縁に当る男であった。自分は彼がはたして母の何に当るかを知らずにただ疎(うと)い親類とばかり覚えていた。
 大阪へ下りるとすぐ彼を訪(と)うたのには理由があった。自分はここへ来る一週間前ある友達と約束をして、今から十日以内に阪地(はんち)で落ち合おう、そうしていっしょに高野(こうや)登りをやろう、もし時日(じじつ)が許すなら、伊勢から名古屋へ廻(まわ)ろう、と取りきめた時、どっちも指定すべき場所をもたないので、自分はつい岡田の氏名と住所を自分の友達に告げたのである。
「じゃ大阪へ着き次第、そこへ電話をかければ君のいるかいないかは、すぐ分るんだね」と友達は別れるとき念を押した。岡田が電話をもっているかどうか、そこは自分にもはなはだ危(あや)しかったので、もし電話がなかったら、電信でも郵便でも好(い)いから、すぐ出してくれるように頼んでおいた。友達は甲州線(こうしゅうせん)で諏訪(すわ)まで行って、それから引返して木曾(きそ)を通った後(あと)、大阪へ出る計画であった。自分は東海道を一息(ひといき)に京都まで来て、そこで四五日用足(ようたし)かたがた逗留(とうりゅう)してから、同じ大阪の地を踏む考えであった。
 予定の時日を京都で費(ついや)した自分は、友達の消息(たより)を一刻も早く耳にするため停車場を出ると共に、岡田の家を尋ねなければならなかったのである。けれどもそれはただ自分の便宜(べんぎ)になるだけの、いわば私の都合に過ぎないので、先刻(さっき)云った母のいいつけとはまるで別物であった。母が自分に向って、あちらへ行ったら何より先に岡田を尋ねるようにと、わざわざ荷になるほど大きい鑵入(かんいり)の菓子を、御土産(おみやげ)だよと断(ことわ)って、鞄(かばん)の中へ入れてくれたのは、昔気質(むかしかたぎ)の律儀(りちぎ)からではあるが、その奥にもう一つ実際的の用件を控(ひか)えているからであった。
 自分は母と岡田が彼らの系統上どんな幹の先へ岐(わか)れて出た、どんな枝となって、互に関係しているか知らないくらいな人間である。母から依託された用向についても大した期待も興味もなかった。けれども久しぶりに岡田という人物――落ちついて四角な顔をしている、いくら髭(ひげ)を欲しがっても髭の容易に生えない、しかも頭の方がそろそろ薄くなって来そうな、――岡田という人物に会う方の好奇心は多少動いた。岡田は今までに所用で時々出京した。ところが自分はいつもかけ違って会う事ができなかった。したがって強く酒精(アルコール)に染められた彼(かれ)の四角な顔も見る機会を奪われていた。自分は俥(くるま)の上で指を折って勘定して見た。岡田がいなくなったのは、ついこの間のようでも、もう五六年になる。彼の気にしていた頭も、この頃ではだいぶ危険に逼せま)っているだろうと思って、その地じ)の透す)いて見えるところを想像したりなどした。
 岡田の髪の毛は想像した通り薄くなっていたが、住居(すまい)は思ったよりもさっぱりした新しい普請(ふしん)であった。
「どうも上方流(かみがたりゅう)で余計な所に高塀(たかべい)なんか築き上(あげ)て、陰気(いんき)で困っちまいます。そのかわり二階はあります。ちょっと上(あが)って御覧なさい」と彼は云った。自分は何より先に友達の事が気になるので、こうこういう人からまだ何とも通知は来ないかと聞いた。岡田は不思議そうな顔をして、いいえと答えた。

  「青空文庫」より

☆夏目漱石(なつめ そうせき)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
 成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
 1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『虞美人草』、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1887年(明治20) 幕末明治維新期の政治家・薩摩藩主忠義の父島津久光の命日 詳細
1890年(明治23) 第1回帝国議会で山形有朋の施政方針演説が行われる 詳細
1918年(大正7) 「大学令」が公布される 詳細
「(第2次)高等学校令」が公布される 詳細
1927年(昭和2) 政治雑誌「労農」が創刊される 詳細
1957年(昭和32) 「日ソ通商条約」が調印される 詳細
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kimuramotoo01
 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、生物学者・遺伝学者木村資生の生まれた日であると共に、1994年(平成6)に亡くなった日でもあります。
 木村資生(きむら もとお)は、愛知県岡崎市菅生町において、鋳物業を営んでいた父・木村逸作、母・かなの子として生まれました。愛知県岡崎中学校(現在の愛知県立岡崎高等学校)、旧制第八高等学校を経て、京都帝国大学理学部生物学科に進学し、1947年(昭和22)に卒業後、京都大学農学部副手、ついで京都大学農学部助手となり、木原均の遺伝学研究室に所属します。
 1949年(昭和24)に国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の研究員となり、1953年(昭和28)にアイオワ州立大学に留学、1954年(昭和29)からウィスコンシン大学で集団遺伝学を学び、翌年に帰国しました。1956年(昭和31)に、学位論文「自然集団における遺伝子頻度の機会的変動について」で、大阪大学より理学博士を得て、1957年(昭和32)には、国立遺伝学研究所研究室長に昇進します。
 1959年(昭和34)に日本遺伝学会賞を受賞、1964年(昭和39)に国立遺伝学研究所集団遺伝部長に昇進、1965年(昭和40)には、ウェルドン賞(オックスフォード大学)を受賞しました。1968年(昭和43)に遺伝子の「分子進化の中立説」を太田朋子と「Nature」に発表、「集団遺伝学の理論の研究」により日本学士院賞、1970年(昭和45)に日本人類遺伝学会賞を受賞、1973年(昭和48)には、全米科学アカデミー外国人会員となります。
 1976年(昭和51)に文化勲章を受章、文化功労者、フランス科学アカデミー外国人会員、1977年(昭和52)に岡崎市名誉市民となり、1978年(昭和53)には、シカゴ大学名誉理学博士(D.Sc.)を得ました。1981年(昭和56)に日本遺伝学会会長(~59年)、1982年(昭和57)に日本学士院会員、1984年(昭和59)には、国立遺伝学研究所集団遺伝研究系主幹並びに教授となります。
 1986年(昭和61)にウィスコンシン大学名誉理学博士(D.Sc.)、フランス政府国家功績勲章騎士号を得、1987年(昭和62)に朝日賞、ジョン・カーティー科学進歩賞(米国科学アカデミー)を受賞、1988年(昭和63)には、国立遺伝学研究所を定年退官し名誉教授、集団遺伝研究系客員教授となり、第4回国際生物学賞を受賞しました。1992年(平成4)に英国王立協会よりダーウィン・メダルを授与され、1993年(平成5)にロンドン王立協会外国人会員(日本人で5人目)となりましたが、1994年(平成6)11月13日に、静岡県三島市の自宅廊下で転倒し頭部を強打、頭蓋内出血のため搬送先の病院において、70歳で亡くなっています。

〇木村資生の主要な著作

・『集団遺伝学概論』(1960年)
・『遺伝学から見た人類の未来』(1974年)
・編著『分子進化学入門』(1984年)
・『分子進化の中立説』(1986年)
・『生物進化を考える』(1988年)

☆木村資生関係略年表

・1924年(大正13)11月13日 愛知県岡崎市菅生町において、鋳物業を営んでいた父・木村逸作、母・かなの子として生まれる
・1942年(昭和17) 愛知県岡崎中学校(現在の愛知県立岡崎高等学校)を卒業し、旧制第八高等学校に入学する
・1947年(昭和22) 京都帝国大学理学部生物学科卒業後、京都大学農学部副手となる、ついで京都大学農学部助手となる。木原均の遺伝学研究室に所属していた。
・1949年(昭和24) 国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の研究員となる
・1953年(昭和28) アイオワ州立大学に留学する(~1954年)
・1954年(昭和29) ウィスコンシン大学で集団遺伝学を学ぶ集団遺伝学を学ぶ(~1955年)
・1956年(昭和31) 学位論文「自然集団における遺伝子頻度の機会的変動について」で、大阪大学より理学博士を得る
・1957年(昭和32) 国立遺伝学研究所研究室長となる
・1959年(昭和34) 日本遺伝学会賞を受賞する
・1964年(昭和39) 国立遺伝学研究所集団遺伝部長となる
・1965年(昭和40) ウェルドン賞(オックスフォード大学)を受賞する
・1968年(昭和43) 遺伝子の「分子進化の中立説」を太田朋子と「Nature」に発表、「集団遺伝学の理論の研究」により日本学士院賞を受賞する
・1970年(昭和45) 日本人類遺伝学会賞を受賞する
・1973年(昭和48) 全米科学アカデミー外国人会員となる
・1976年(昭和51) 文化勲章を受章、文化功労者、フランス科学アカデミー外国人会員となる
・1977年(昭和52) 岡崎市名誉市民となる
・1978年(昭和53) シカゴ大学名誉理学博士(D.Sc.)を得る
・1981年(昭和56) 日本遺伝学会会長(~59年)となる
・1982年(昭和57) 日本学士院会員となる
・1984年(昭和59) 国立遺伝学研究所集団遺伝研究系主幹並びに教授となる
・1986年(昭和61) ウィスコンシン大学名誉理学博士(D.Sc.)、フランス政府国家功績勲章騎士号を得る
・1987年(昭和62) 朝日賞、ジョン・カーティー科学進歩賞(米国科学アカデミー)を受賞する
・1988年(昭和63) 国立遺伝学研究所を定年退官し名誉教授、集団遺伝研究系客員教授となり、第4回国際生物学賞を受賞する
・1992年(平成4) 英国王立協会よりダーウィン・メダルを授与される
・1993年(平成5) ロンドン王立協会外国人会員となる(日本人で5人目)。
・1994年(平成6)11月13日 静岡県三島市の自宅廊下で転倒し頭部を強打、頭蓋内出血のため搬送先の病院において、70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1752年(宝暦2)浮世絵師・宮川派の祖宮川長春の命日(新暦12月18日)詳細
1904年(明治37)週刊「平民新聞」第53号に、日本初の翻訳された『共産党宣言』(第三章を除く)が掲載される詳細
1940年(昭和15)第4回御前会議において「支那事変処理要綱」が決定される詳細
1966年(昭和41)全日空YS-11が松山空港沖で墜落(全日空機松山沖墜落事故)し、乗員・乗客50名全員が死亡する詳細
1973年(昭和48)詩人・作詞家・作家サトーハチローの命日詳細
1997年(平成9)北陸自動車道の新潟亀田~新潟空港が開通し、米原~新潟空港間が全通する詳細
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meijijinguugaienkyougijyou0
 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、東京の明治神宮外苑に明治神宮競技場が竣功した日です。
 明治神宮競技場(めいじじんぐうがいえんきょうぎじょう)は、東京・青山の明治神宮外苑内にあった陸上競技場施設でした。内務省明治神宮造営局技師の小林政一が設計し、総工費は当時の金額で726万円で、収容人員は65,000人、楕円形のトラックは一周400m、メインスタンド側の直線部分を延長して200mの直線コースをとっています。
 1915年(大正4)に明治神宮外苑造営のために「明治神宮奉賛会」が結成され、1917年(大正6)には、明治神宮造営局に外苑の設計・施工を依頼しました。1922年(大正11)に定礎式が行われたものの、1923年(大正12)の関東大震災により一時工事が中止され、ようやく1924年(大正13)10月25日に、竣功式が行われ、第1回明治神宮競技大会(10月30日~11月3日)が開催されています。
 1930年(昭和5)に第9回極東選手権大会(5月24日~31日)が開催され、1931年(昭和6)の第六回明治神宮体育大会においては、織田幹雄(三段跳び)と南部忠平(走り幅跳び)が世界新記録を樹立しました。1934年(昭和9)に日本で初めてのアメリカンフットボールの公式試合(日本学生選抜対横浜外国人チーム)が行われ、1936年(昭和11)には、ベルリンでのIOC総会で1940年国際オリンピック大会の東京開催が決定したものの、戦争の為に中止となっています。
 1937年(昭和12)に明治神宮奉賛会が解散、1940年(昭和15)に、紀元二千六百年奉祝東亜競技大会(6月5日~9日)、1943年(昭和18)には、出陣学徒壮行会(10月21日)が開催されました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に進駐軍により接収され、「ナイルキニック・スタジアム」と呼称され、1952年(昭和27)の接収解除後は、明治神宮が神宮外苑とあわせ宗教法人となっています。
 同年に、保安隊が発足すると観閲式が行われ、大改修され、日本で初めてアンツーカー舗装が行なわれました。1954年(昭和29)にアジア大会の東京開催決定をうけ、衆議院で国立競技場建設が決議され、1956年(昭和31)には、外苑競技場惜別奉告祭(11月25日)、国立競技場起工式(12月28日)が行われます。
 1957年(昭和32)に明治神宮外苑競技場が解体され、翌年には、国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)が完成(3月30日)しました。

〇明治神宮外苑競技場関係略年表

・1915年(大正4) 明治神宮奉賛会が設立される
・1917年(大正6) 明治神宮奉賛会が明治神宮造営局に外苑の設計・施工を依頼する
・1919年(大正8) 明治神宮外苑競技場の設計が終了する
・1922年(大正11) 定礎式が行われる
・1923年(大正12) 関東大震災により一時工事が中止(翌年再開)する
・1924年(大正13) 明治神宮外苑競技場竣功式(10月25日)が行われ、第1回明治神宮競技大会(10月30日~11月3日)が開催される
・1930年(昭和5) 第9回極東選手権大会(5月24日~31日)が開催される
・1931年(昭和6) 第六回明治神宮体育大会において織田幹雄(三段跳び)と南部忠平(走り幅跳び)が世界新記録を樹立する
・1934年(昭和9) 日本で初めてのアメリカンフットボールの公式試合(日本学生選抜対横浜外国人チーム)が行われる
・1936年(昭和11) ベルリンでのIOC総会で1940年国際オリンピック大会の東京開催が決定する
・1937年(昭和12) 明治神宮奉賛会が解散する
・1940年(昭和15) 紀元二千六百年奉祝東亜競技大会(6月5日~9日)が開催される
・1943年(昭和18) 出陣学徒壮行会(10月21日)が開催される
・1945年(昭和20) 進駐軍により接収され、「ナイルキニック・スタジアム」と呼称される
・1952年(昭和27) 接収解除され、明治神宮が神宮外苑とあわせ宗教法人となり、保安隊が発足して、観閲式が行われ、大改修され、日本で初めてアンツーカー舗装が行なわれる
・1953年(昭和28) サッカー、1954 FIFAワールドカップ・予選、日本対韓国戦が行われるも一分一敗で日本が敗退する
・1954年(昭和29) アジア大会の東京開催決定をうけ、衆議院で国立競技場建設が決議される
・1956年(昭和31) 外苑競技場惜別奉告祭(11月25日)、国立競技場起工式(12月28日)が行われる
・1957年(昭和32) 明治神宮外苑競技場が解体(1月~4月)される
・1958年(昭和33) 国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)が完成(3月30日)する

☆明治神宮外苑(めいじじんぐうがいえん)とは?

 東京都新宿区霞ヶ丘町・港区北青山(一部)に所在する緑地です。明治時代は、青山練兵場でしたが、1912年(明治45)に明治天皇が亡くなった時に、葬場殿が設けられ、大葬儀が行われました。その後、明治神宮が国費で造営(内苑)されるにあたって、記念施設として民間の献金により外苑として造成されます。
 1918年(大正7)6月1日に明治神宮外苑地鎮祭で着工されたものの、当初計画では聖徳記念絵画館、葬場殿址記念物、憲法記念館、陸上競技場の4施設のみとするものでした。1923年(大正12)の関東大震災により、造営作業は中断し、敷地を被災者に開放 救護施設を建設、翌年には計画が変更され、野球場、水泳場、相撲場も設けられることになります。
 1924年(大正13)10月25日に、先行して明治神宮競技場が竣功(戦後に国立競技場として建替)、第1回明治神宮競技大会(内務省主催)が開催されました。1926年(大正15)10月22日には、絵画館、野球場、相撲場、児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われます。
 翌日から野球場開場記念試合として東京六大学紅白試合が行われ、その後は東京六大学リーグ戦の会場となりました。1931年(昭和6)に水泳場、1933年(昭和8)に相撲場併用バスケットボール場設備が出来、1936年(昭和11)には絵画館壁画が完成しています。
 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)の東京大空襲の際に、野球場をはじめ、苑内樹木が被災、戦後はGHQによって接収され、メイジパークとして米将兵の運動場ともなりました。1952年(昭和27)にGHQの接収が解除され、米軍施設を引き継ぎ、中央広場は軟式球場として公開されます。
 1952年(昭和27)に「宗教法人法」の施行に伴い明治神宮外苑は宗教法人となりましたが、1956年(昭和31)に1964年の東京オリンピック開催のため、外苑競技場は国(文部省)に譲渡され、国立競技場に建て替えられました。その後、諸施設が設けられ、洋風庭園としても整備され、現在は面積約30万㎡で、聖徳記念絵画館、明治記念館、明治神宮野球場、明治神宮外苑アイススケート場、日本青年館などのスポーツ、文化施設があります。
 絵画館前へ通ずるイチョウ並木は、東京におけるもっとも美しい街路樹の一つとされ、1982年(昭和57)には「新東京百景」にも選定されました。

<現在の明治神宮外苑の主な施設>

・聖徳記念絵画館 - 1926年竣工。明治天皇にまつわる幕末・明治期の政局を描いた絵画を中心に展示されている
・明治記念館 - 明治神宮による結婚式場として有名、大日本帝国憲法の草案を作った建物も残っている
・明治神宮野球場 - 東京ヤクルトスワローズの本拠地、また全日本大学野球選手権大会の舞台
・明治神宮外苑軟式グラウンド - 絵画館の正面にある野球場。
・明治神宮外苑にこにこパーク - 山やログハウスなど緑豊かな有料児童遊園(大人200円、子供50円)
・明治神宮外苑アイススケート場 - 一年中利用できる室内アイススケート場
・神宮外苑フットサルクラブ - 神宮外苑によるフットサルコート
・明治神宮外苑テニスクラブ - 神宮外苑によるテニスクラブ、1957年設立、室内と屋外の2つがある
・明治神宮外苑ゴルフ練習場 - 神宮外苑によるゴルフ練習場
・明治神宮バッティングドーム - 神宮にある全12打席のバッティングセンター
・日本青年館 - 宿泊・会議などもできる施設
・日本文化芸術研究センター - 2010年7月、京都造形芸術大学と東北芸術工科大学が共同で設置したサテライトキャンパス
・三井ガーデンホテル神宮外苑の杜プレミア - 2019年11月22日に開業した三井ガーデンホテルの1つ

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1637年(寛永14)島原の乱(島原・天草一揆)が起きる(新暦12月11日)詳細
1907年(明治40)第1回文部省美術展覧会(通称:文展)が東京上野で開催される詳細
1909年(明治42)写真家土門拳の誕生日詳細
1946年(昭和21)GHQが「石油製品の配給に関する覚書」(SCAPIN-1294)を出す詳細
1951年(昭和26)戦後初の国内民間航空会社日本航空が、東京~大阪~福岡間で運航開始する(民間航空記念日)詳細
1991年(平成4)「再生資源の利用の促進に関する法律」(リサイクル法)が施行(公布は前年4月26日)される詳細

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iwabuchisuimon01
 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、岩淵水門完成により、荒川放水路が上流から下流までが繋がり、注水が開始されて通水式が行われた日です。
 荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、荒川の水量を調節し、東京の下町を洪水から守るためにつくられた迂回路で、東京都北区岩淵で分流させた水路でした。水路は、足立区、葛飾区、江戸川区などを通り、下流で綾瀬川、中川と並行して東京湾に注いでいます。
 1910年(明治43)8月に、荒川が氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生、翌年に政府は、根本的な首都の水害対策の必要性を受け、利根川や多摩川に優先して荒川放水路の建設を決定しました。1913年(大正2)に工事に着手しましたが、1917年(大正6)9月30日の台風により、記録的な高潮に見舞われ、工事用機械や船舶が流出、1923年(大正12)9月1日の関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成したばかりの橋梁の崩落などが起きています。
 ようやく、着工から11年を経て、1924年(大正13)10月12日に、岩淵水門完成により、上流から下流までが繋がり、注水が開始されて通水式が行われました。1930年(昭和5)に浚渫工事など関連作業がすべて完了し、1965年(昭和40)には、荒川放水路が荒川の本流とされ、旧本流を隅田川と呼ぶようになっています。

〇荒川放水路関係略年表

・1910年(明治43)8月 荒川が氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生する
・1911年(明治44) 政府は根本的な首都の水害対策の必要性を受け、利根川や多摩川に優先して荒川放水路の建設を決定する
・1913年(大正2) 荒川放水路の工事に着手する
・1917年(大正6)9月30日 台風により、記録的な高潮に見舞われ、工事用機械や船舶が流出する
・1923年(大正12)9月1日 関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成したばかりの橋梁の崩落などが起きる
・1924年(大正13)10月12日 岩淵水門完成により、上流から下流までが繋がり、注水が開始されて通水式が行われる
・1930年(昭和5) 浚渫工事など関連作業がすべて完了する
・1947年(昭和22) カスリーン台風により荒川流域は大きな被害を受けたものの、9mの堤防すれすれまで達したが氾濫は免れる
・1964年(昭和39) 東京都が記録的な渇水に見舞われ、利根川より緊急的に導水を図り対処する
・1965年(昭和40) 荒川放水路が本流とされ、旧本流を隅田川と呼ぶようになる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1694年(元禄7)俳聖松尾芭蕉の命日で、「芭蕉忌」とされる(新暦11月28日)詳細
1881年(明治14)「国会開設の勅諭」が出される詳細
1937年(昭和12)国民精神総動員中央連盟が発足し、国民精神総動員運動が始まる詳細
1940年(昭和15)新体制運動推進のために大政翼賛会が発足する詳細
1943年(昭和18)東條内閣が「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を閣議決定する詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本史授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1266)を出す詳細
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