ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 教育者

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 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、啓蒙思想家・教育者・官僚・貴族院議員西村茂樹が亡くなった日です。
 西村茂樹(にしむら しげき)は、江戸時代後期の1828年(文政11年3月13日)に、江戸の佐野藩邸において、佐倉藩の支藩・佐野藩堀田家に仕える側用人・西村芳郁の子として生まれましたが、幼名は平八郎(へいはちろう)と言いました。10歳の時に佐倉藩校「成徳書院」に入学、佐倉藩が招いたた安井息軒より儒学を学び、1850年(嘉永3)に大塚同庵に師事、砲術を学び、翌年には、佐久間象山について砲術修業をします。
 1853年​(嘉永6)のペリー艦隊来航に衝撃を受け、佐倉藩主・堀田正睦に意見書を提出、老中・阿部正弘にも海防策を献じ、翌​年には、佐野藩年寄役となりました。1856年​(安政3)に佐倉藩主・堀田正睦が老中首座・外国事務取扱、貿易取調御用掛に任じられ、外交上の機密文書を担当、1868年(慶応4)には、佐倉藩年寄役となって、藩政改革を行ないます。
 1871年(明治4)に印旛県権参事となりましたが、翌年には辞し、上京して深川に家塾を開きました。1873年(明治6)に森有礼の働きかけにより、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らと共に、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」を結成、初代社長に就任、文部省に勤務し、教科書の編纂に携わります。
 1874年(明治7)に漢字廃止論者として、『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』発表、1875年(明治8)には、大槻磐渓、依田學海、平野重久らと、漢学者の集まり「洋々社」を結成、『明六雑誌』に「修身治国非二途論」を発表、文部省に出仕し、天皇・皇后への進講(~1885年)を始めました。1876年(明治9)に坂谷素らとともに道徳の振興を目的とする「東京修身学社(後の社団法人日本弘道会)」を創設、1879年(明治12)には、自身発案により、日本最大にして唯一の官撰百科事典『古事類苑』の編纂を開始します。
 1880年(明治13)に文部省編集局長となって儒教的な教科書『小学修身訓』を刊行、1882年(明治15)には、勲四等旭日小綬章を受章しました。1884年(明治17)に、「東京修身学社」を「日本講道会」と改めて会長に就任、宮内省勤務となり、正五位となり、翌年には、勲三等旭日中綬章を受章します。
 1886年(明治19)に宮中顧問官、従四位となり、1887年(明治20)には、「日本講道会」を「日本弘道会」と改称、『日本道徳論』を刊行し、儒教的倫理思想に基づく国民道徳確立を唱えてその普及に努め、銀製黄綬褒章を受章しました。1888年(明治21)に「華族女学校」第三代校長に就任、翌年に宮内省に皇室が徳育を管理するように明倫院を設置するよう建議、1890年(明治23)には、貴族院勅選議員(~1892年)となります。
 1902年(明治35)に正三位となり、勲一等瑞宝章を受章しましたが、同年8月18日に東京において、74歳で亡くなりました。

〇西村茂樹の主要な著作

・『心学講義』(1885~86年)
・編書『万国史略』(1873年)
・編書『婦女鑑』(1887年)
・『日本道徳論』(1887年)
・『国家道徳論』(1894年)
・『徳学講義』(1895~1901年)
・『自識録』(1899年)

☆西村茂樹関係略年表

・1828年(文政11年3月13日) 江戸の佐野藩邸において、佐倉藩の支藩・佐野藩堀田家に仕える側用人・西村芳郁の子として生まれる
・1838年(天保9年) 10歳の時、佐倉藩校「成徳書院」に入学、佐倉藩が招いたた安井息軒より儒学を学ぶ
・1850年(嘉永3年) 大塚同庵に師事、砲術を学ぶ
・1851年(嘉永4年​) 佐久間象山に砲術を学ぶ
・1853年​(嘉永6年) ペリー艦隊来航に衝撃を受け、佐倉藩主・堀田正睦に意見書を提出、老中・阿部正弘にも海防策を献じる
・1854​年(安政元年) 佐野藩年寄役となる
・1856年​(安政3年) 佐倉藩主・堀田正睦が老中首座・外国事務取扱、貿易取調御用掛に任じられ、外交上の機密文書を担当する
・1868年(慶応4年) 佐倉藩年寄役となって、藩政改革を行なう
・1871年(明治4年) 印旛県権参事となる(~1872年)
・1872年(明治5年) 45歳で上京し、深川に家塾を開き、学制頒布に際し、もっぱら生をおさめ産をおこすことのみを説いて、ひとつも仁義・忠孝を教えた語のないのを遺憾とし、独力で国民の道徳を維持しようと志す
・1873年(明治6年) 森有礼の働きかけにより、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らと共に、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」を結成、初代社長に就任、文部省に勤務し、教科書の編纂に携わる
・1874年(明治7年) 漢字廃止論者として、『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』発表する
・1875年(明治8年) 大槻磐渓、依田學海、平野重久らと、漢学者の集まり「洋々社」を結成、『明六雑誌』に「修身治国非二途論」を発表、文部省に出仕し、天皇・皇后への進講を始める(~1885年)
・1876年(明治9年) 坂谷素らとともに道徳の振興を目的とする「東京修身学社(後の社団法人日本弘道会)」を創設する
・1879年(明治12年) 自身発案により、日本最大にして唯一の官撰百科事典『古事類苑』の編纂を開始する
・1880年(明治13年) 文部省編集局長となって儒教的な教科書『小学修身訓』を刊行する
・1882年(明治15年) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1884年(明治17年) 「東京修身学社」を「日本講道会」と改めて会長に就任、宮内省勤務となり、正五位となる
・1885年(明治18年) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1886年(明治19年) 宮中顧問官、従四位となる
・1887年(明治20年) 「日本講道会」を「日本弘道会」と改称、『日本道徳論』を刊行、銀製黄綬褒章を受章する
・1888年(明治21年) 「華族女学校」第三代校長に就任する
・1889年(明治22年) 宮内省に皇室が徳育を管理するように明倫院を設置するよう建議、大日本帝国憲法発布記念章を受章する
・1890年(明治23年) 貴族院勅選議員となる(~1892年)
・1891年(明治24年) 正四位となる
・1893年(明治26年) 勲二等瑞宝章を受章する
・1900年(明治33年) 従三位となる
・1902年(明治35年) 正三位となり、勲一等瑞宝章を受章する
・1902年(明治35年)8月18日 東京において、74歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1598年(慶長3)武将・大名・天下人豊臣秀吉の命日(新暦9月18日)詳細
1863年(文久3)公武合体派が尊皇攘夷過激派を追放した八月十八日の政変が勃発(新暦9月30日)詳細
1876年(明治9)日本画家松林桂月の誕生日詳細
1888年(明治21)官営事業(官営模範工場)の一つ三池炭鉱(福岡県)が競争入札の結果、三井財閥に払い下げが決まる詳細
1925年(大正14)小説家細井和喜蔵の命日詳細
1968年(昭和43)飛騨川バス転落事故が起き、死者104人を出す詳細
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 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、教育家・婦人ジャーナリストの先駆者羽仁もと子が生まれた日です。
 羽仁もと子(はに もとこ)は、青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)で、旧八戸藩士の松岡家に生まれましたが、本名はもとと言いました。1879年(明治12)に八戸小学校へ入学、成績優秀で文部省から表彰され、女子で唯一高等科へ進学します。
 1889年(明治22)に上京して東京府立第一高等女学校2年生に編入、翌年には洗礼を受けてキリスト教徒となりました。1891年(明治24)に第一高等女学校を卒業後、「女学雑誌」の編集長である巌本善治が校長を務める明治女学校高等科に入学します。
 1892年(明治25)に帰郷し尋常小学校や盛岡女学校の教員をし、その後結婚したものの、半年で離婚しました。1897年(明治30)に再度上京し、報知社(現・報知新聞社)に入社、1899年(明治32)には、婦人として初めて新聞記者の仕事に携わります。
 1901年(明治34)に職場で知り合った新聞記者の羽仁吉一と再婚、1903年(明治36)には、夫・吉一と共に女性雑誌「家庭之友」を創刊、長女・説子が誕生しました。1904年(明治37)に「家計簿」を創案して出版、1906年(明治39)に「主婦日記」を出版、1908年(明治41)には、雑誌「家庭の友」を「婦人之友」へと改題、婦人之友社を設立、家庭環境改善に大きな役割を果たします。
 1914年(大正3)に雑司ヶ谷に家と社屋を建てて移り、「婦人之友」の姉妹誌として、子ども向けの「子供之友」も出版しました。長女・説子が小学校を終えるのを機に、1921年(大正10)に東京・雑司ケ谷に自由学園を創設、「文部省令」によらない教育施設において、「真の自由人をつくりだすこと」を目的に、生活に立脚した「活(い)きた」教育の開発と実践を試みます。
 1925年(大正14)に学校規模の拡大により、現在の東京都東久留米市に新しい学校施設を建設して移転、1927年(昭和2)には羽仁もと子著作集を刊行しました。1928年(昭和3)に自由学園初等部を設立、1930年(昭和5)には、全国の「婦人之友」愛読者により「全国友の会」を設立されます。
 1932年(昭和7)に世界新教育会議(フランス・ニース)に出席、ヨーロッパ各国とアメリカを訪問して帰国、1935年(昭和10)には、凶作の東北6か村で農村セッツルメント運動を始めました。1938年(昭和13)に自由学園北京生活学校を開設、「幼児生活展」を全国に開催、1939年(昭和14)には、自由学園に幼児生活団を作ります。
 太平洋戦争後は、1949年(昭和24)に自由学園男子部最高学部(大学)、翌年に女子部最高学部(大学)を開学、文部省の基準によらない独自の総合的な学園構想実現へ努力しました。しかし、1955年(昭和30)10月26日に夫・吉一が75歳で亡くなり、1957年(昭和32)4月7日には、自身も東京において、脳血栓の後、心臓衰弱のため83歳で亡くなっています。

〇羽仁もと子関係略年表

・1873年(明治6)9月8日 青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)で、旧八戸藩士の松岡家に生まれる
・1879年(明治12) 八戸小学校へ入学する
・1889年(明治22) 上京し、東京府立第一高等女学校2年生に編入する
・1890年(明治23) 東京女子高等師範学校を目指すも不合格となり、洗礼を受けてキリスト教徒となるが無教会の立場であった
・1891年(明治24) 第一高等女学校を卒業、「女学雑誌」の編集長である巌本善治が校長を務める明治女学校高等科に入学する
・1892年(明治25) 帰郷し尋常小学校や盛岡女学校の教員をし、その後結婚するが、半年で離婚する
・1897年(明治30) 再度上京し、報知社(現・報知新聞社)に入社する
・1899年(明治32) 婦人として初めて新聞記者の仕事にたずさわる
・1901年(明治34) 職場で知り合った新聞記者の羽仁吉一と再婚する
・1903年(明治36) 夫・吉一と共に女性雑誌「家庭之友」を創刊、長女・説子が誕生する
・1904年(明治37) 「家計簿」を創案して出版する
・1905年(明治38) 二女・涼子が誕生する
・1906年(明治39) 「主婦日記」を出版する
・1908年(明治41) 羽仁夫妻が独自に出版していた雑誌「家庭女学講義」を「婦人之友」へと改題、婦人之友社を設立する
・1909年(明治42) 三女・恵子が誕生する
・1914年(大正3) 雑司ヶ谷に家と社屋を建てて移り、婦人之友の姉妹誌として、子ども向けの「子供之友」も出版する
・1915年(大正4) 「新少女」を発刊する
・1921年(大正10) 読者の子への家庭的な教育を目指して、当初は女学校として東京・旧目白(西池袋)に自由学園を創立する
・1925年(大正14) 学校規模の拡大により、現在の東京都東久留米市に新しい学校施設を建設して移転する
・1927年(昭和2) 羽仁もと子著作集を刊行する
・1928年(昭和3) 自由学園初等部を設立する
・1930年(昭和5) 全国の「婦人之友」愛読者により「全国友の会」を設立される
・1931年(昭和6) 「家庭生活合理化展覧会」を創作する
・1932年(昭和7) 世界新教育会議(フランス・ニース)に出席、ヨーロッパ各国とアメリカを訪問して帰国する
・1935年(昭和10) 凶作の東北6か村に農村セッツルメント運動を始め、自由学園に男子部が加わる
・1938年(昭和13) 自由学園北京生活学校を開設、「幼児生活展」を全国に開催する
・1939年(昭和14) 自由学園に幼児生活団を作る
・1949年(昭和24) 自由学園男子部最高学部(大学)を開学する
・1950年(昭和25) 自由学園女子部最高学部(大学)を開学する
・1951年(昭和26) 神奈川県二宮、学園創立30周年記念として「友情庵」が贈られる
・1955年(昭和30)10月26日 夫・吉一が75歳で亡くなる
・1957年(昭和32)4月7日 東京において、脳血栓の後、心臓衰弱のため83歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1775年(安永4)俳人加賀千代女(千代尼)の命日(新暦10月2日)詳細
1904年(明治37)「屯田兵条例」が廃止され、屯田兵制度が終わる詳細
1951年(昭和26)サンフランシスコ平和条約」が調印される詳細
日米安全保障条約」(旧)が調印される詳細


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 今日は、江戸時代中期の1782年(天明2)に、儒学者・教育者・漢詩人広瀬淡窓の生まれた日ですが、新暦では5月22日となります。
 広瀬淡窓(ひろせ たんそう)は、豊後国日田郡豆田魚町(現在の大分県日田市)の九州諸侯用達の商家だった父・博多屋三郎右衛門(桃秋)の長男(母はユイ)としして生まれましたが、名は寅之助と言いました。1783年(天明3)の2歳より伯父・広瀬平八(月化)夫婦に6歳まで養われ、実家に帰ってからは、父母の下で読書、習字を学びます。
 少年の頃より聡明で、1789年(寛政元)の8歳の時、軽症の痘瘡にかかったものの、長福寺の法幢に『詩経』の句読を教えられ、翌年には、『書経』、『春秋』、『古文真宝』などを学ぶようになりました。1791年(寛政3)の10歳の時、日田に来た久留米の松下筑陰の弟子となり漢詩、文章の添削、『十八史略』の指導を受けましたが、翌年には、水庖ソウにかかり6・70日床に就きます。
 1794年(寛政6)に元服し、翌年に佐伯へ遊学、1797年(寛政9)には、筑前福岡の亀井塾に入門し、亀井南冥・昭陽父子(徂徠学派)に師事しました。1799年(寛政11)の18歳の時、病に罹って亀井塾を去り、翌年から数年間の療養生活に入ります。
 1801年(享和元)の20歳の時から療養に傍ら、門人数人に句読を教えるようになり、翌年には、『孟子』などを講義するようになりました。1805年(文化2)の24歳の時、豆田町の長福寺学寮を借り講義を開始、1807年(文化4)に「成章舎」「桂林園(荘)」と場所や名前を変え、さらに1817年(文化14)に、堀田村(現・日田市淡窓町)に塾舎を移し、「咸宜園(かんぎえん)」が開かれます。
 塾生は、1819年(文政2)に37名、翌年には103名と徐々に増えていき、名声はしだいに高まり、全国から集まって、その数は延べ3,000人を超えました。その教育は、「三奪の法」(年齢や学歴、身分に関係なく優劣を入塾後の成績に委ねる)と「月旦評」(日常の学習活動と月例試験での合計点による毎月末の成績評価により昇級等を行う)による徹底した実力主義で、儒学だけでなく、数学、天文学、医学なども講義されています。
 門下からは、高野長英、大村益次郎、長三洲など逸材を輩出、『約言』 (1828年成立)、『儒林評』 (1836年成立) 、『析玄』 (1841年) など多くの著作も成しました。漢詩も能くし、詩集『遠思楼詩鈔』を著しましたが、1856年(安政3年11月1日)に、豊後国日田において、数え年75歳で亡くなりっています。
 尚、私塾「咸宜園」はその後も存続し、1897年(明治30)に閉塾するまで、計約5,000人もの門下生を送り出し、医者、教育者、政治家などとして活躍しました。

〇広瀬淡窓の主要な著作

・『淡窓詩話(しわ)』
・詩集『遠思楼詩鈔(えんしろうししょう)』
・『懐旧楼筆記』
・『約言』(1828年成立)
・『析言』
・『自新録』
・『儒林評』(1836年成立)
・『万善簿(まんぜんぼ)』
・『析玄(せきげん)』(1841年)

〇咸宜園(かんぎえん)とは?

 現在の大分県日田市で、江戸時代後期の1805年(文化2)に、儒学者・廣瀬淡窓が長福寺の学寮で開塾したのが始まりです。その後、1807年(文化4)に「成章舎」「桂林園(荘)」と場所や名前を変え、さらに1817年(文化14)に、現在地に「咸宜園」が開かれました。全寮制で、身分、学歴を問わずに広く門戸が開放され、儒学だけでなく、数学、天文学、医学なども講義されたのです。明治維新後も存続し、1897年(明治30)に閉塾するまで、約5,000人もの門下生を送り出し、医者、教育者、政治家などとして活躍しました。その中には、高野長英(蘭学者・蘭医)、岡研介(蘭医)、大村益次郎(兵部大輔・日本陸軍の創始者)、上野彦馬(日本最初期の写真家)、横田国臣(法律家・検事総長)、清浦奎吾(政治家・内閣総理大臣)などの著名な人々がいます。今でも建物の一部、秋風庵・遠思楼が現存し、江戸時代後期の大規模な私塾の跡として貴重なので、1932年(昭和7)に「咸宜園跡」として国の史跡になっています。また、2015年(平成27)には「近世日本の教育遺産群」のひとつとして日本遺産にも指定されました。2010年(平成22)には、隣接地に「咸宜園教育研究センター」が開館し、咸宜園や廣瀬淡窓、門下生等に関する調査研究と展示を行っていて、見学できます。

☆広瀬淡窓関係略年表(日付は旧暦です)

 ・1782年(天明2年4月11日) 豊後国日田郡豆田魚町の広瀬家に生まれる。父・三郎右衛門(桃秋)、母ユイの長男。寅之助と名付けられる
・1783年(天明3年) 2歳より伯父・広瀬平八(月化)夫婦に6歳まで養われる
・1787年(天明7年)、6歳の時、魚町の実家に帰り、父母の下で読書、習字を学ぶ
・1789年(寛政元年) 8歳の時、軽症の痘瘡にかかる。長福寺の法幢に『詩経』の句読を学ぶ
・1790年(寛政2年) 9歳の時、『詩経』『書経』『春秋』『古文真宝』を学ぶ。『蒙求』『漢書』『文選』の講義を聴く
・1791年(寛政3年) 10歳の時、日田に来た久留米の松下筑陰の弟子となり漢詩、文章の添削、『十八史略』の指導を受ける
・1792年(寛政4年) 11歳の時、水庖ソウにかかり6・70日病む
・1794年(寛政6年) 13歳の時、日田代官(西国筋郡代)羽倉権九郎に『孝経』を講義する
・1794年(寛政6年6月) 元服する
・1795年(寛政7年) 14歳の時、佐伯へ遊学する
・1797年(寛政9年) 16歳の時、筑前福岡の亀井塾に入門し、亀井南冥・昭陽父子(徂徠学派)に師事する
・1799年(寛政11年) 18歳の時、病にかかり、亀井塾を去る
・1800年(寛政12年) 19歳の時、療養生活となる(以後数年)
・1801年(享和元年) 20歳の時、門人数人に句読を教える
・1802年(享和2年) 21歳の時、『孟子』を講義。羽倉に四書を講義する
・1804年(文化元年) 23歳の時、亀井塾の学友から教えを乞い、眼科医を目指すも、意欲が薄れる
・1805年(文化2年3月) 24歳の時、豆田町の長福寺学寮を借り講義を開始、自身も長福寺学寮に転居する
・1805年(文化2年6月) 実家の土蔵に塾を移す
・1805年(文化2年8月) 豆田町大坂屋林左衛門の持ち家を借家して転居し開塾し、「成章舎」と名付ける
・1806年(文化3年) 25歳の時、成章舎で講義開始する
・1807年(文化4年) 26歳の時、塾生の人数が増えたため、豆田裏町(現在は日田市城町の一画)に塾舎を新築し、桂林園と名付ける
・1810年(文化7年) 29歳の時、塾生が30名を超え、合原ナナと結婚する
・1813年(文化10年) 32歳の時、日記を書き始め、『史記』を輪講する
・1817年(文化14年) 36歳の時、堀田村(現・日田市淡窓町)に塾舎を移し「咸宜園」と名付け、塾生と一緒に生活するようになる
・1818年(文政元年) 37歳の時、頼山陽が日田に来遊し、数度面会する
・1819年(文政2年) 38歳の時、咸宜園の塾生37名になる
・1820年(文政3年) 39歳の時、月旦評によれば塾生は103名になる
・1824年(文政7年) 43歳の時、風邪のため休講が100日を越し、『自新録』を脱稿する
・1825年(文政8年) 44歳の時、正月に体調を崩す、『敬天説』脱稿、田能村竹田が淡窓を訪ねる
・1828年(文政11年) 47歳の時、『敬天説』を改稿して『約言』を脱稿する
・1830年(文政13年) 49歳の時、『伝家録』を脱稿。塾を末弟・広瀬旭荘に委ねる
・1842年(天保13年) 61歳の時、幕府から永世名字帯刀を許さる
・1848年(嘉永元年) 67歳の時、「万善簿」一万善を達成
・1853年(嘉永6年) 72歳の時、『宜園百家詩』続編編集。『辺防策(論語百言解)』を草す
・1855年(安政2年) 74歳の時、塾を広瀬青邨に委ねる
・1856年(安政3年) 75歳の時、『淡窓小品』完成する
・1856年(安政3年10月) 墓碑の碑文を撰文。書は旭荘が手掛ける
・1856年(安政3年11月1日) 数え年75歳で亡くなり、遺体は自ら墓地に選定していた中城村の広瀬三右衛門別邸跡地(長生園)に埋葬される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1925年(大正14)陸軍現役将校学校配属令」が発せられ、中学校以上の公立学校で軍事教練開始詳細
1967年(昭和42)日本近代文学館」が開館する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、日本を代表する刑法学者・京都大学総長瀧川幸辰が亡くなった日です。
 瀧川幸辰(たきがわ ゆきとき)は、1891年(明治24)2月24日に、岡山県岡山市で生まれました。神戸第一中学校、北野中学校を経て、1909年(明治42)に旧制第三高等学校に入学します。
 卒業後、1912年(大正元)21歳の時に、京都帝国大学法科大学独法科に入学し、ドイツ刑法を学び、1915年(大正4)に司法官試補に任官して修習を積んで、京都帝国大学を卒業しました。母校の助手となりましたが、1917年(大正6)に判事に任官し、京都地方裁判所・同区裁判所に勤務します。
 翌年、母校の助教授に就任し、刑法総論・各論などを担当しました。1922年(大正11)海外留学し、主としてドイツに滞在して学び、1924年(大正13)に帰国後、母校の教授に就任します。
 1932年(昭和7)に『刑法読本』を出し、翌年の中央大学法学部での「トルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」と題する講演が契機となり、その刑法学説が自由主義的な内容であったため、当時の文部大臣鳩山一郎から休職処分を下されたのち退官する「滝川事件」が起きました。法学部教授会がこれに反対、学生も抗議しましたが、結局政府の力に押切られ、思想および学問の自由、大学の自治への弾圧事件として知られます。
 退官後は大学に属さず、立命館大学で講師をするなどしながら法律研究を行い、1939年(昭和14)には弁護士登録して、刑事専門の弁護士として活躍しました。太平洋戦争後、京都大学に復帰して法学部長となり、1948年(昭和23)には、日本刑法学会創立とともに初代理事長となります。
 1951年(昭和26)に法学博士となり、1953年(昭和28)には京都大学総長に就任し、1957年(昭和32)まで勤めて退官しました。刑法に関する著書を刊行し、多くの随筆集も出しましたが、1962年(昭和37)11月16日に、京都において、71歳で亡くなっています。

〇瀧川幸辰の主要な著作

・『刑法読本』(1932年)
・『犯罪論序説』(1938年)
・『刑法講義』(弘文堂書房)
・『刑法講義 改訂版』(弘文堂書房)
・『刑法における構成要件の機能』(刑法雑誌1巻2号、1950年)
・『犯罪論序説 改訂版』(有斐閣)
・『刑法講話』(日本評論社)
・『刑法各論 増補』(世界思想社)
・『瀧川幸辰刑法著作集・全5巻』(世界思想社)
・『激流』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(明治元)詩人・評論家北村透谷の誕生日(新暦12月29日)詳細
1972年(昭和47)第17回ユネスコ総会(於:パリ)において「世界遺産条約」が採択される詳細
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 今日は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、本草学者・儒学者・教育者貝原益軒の亡くなった日ですが、新暦では10月5日となります。
 貝原 益軒(かいばら えきけん)は、江戸時代前期の1630年(寛永7年11月14日)に、越前国福岡城内(現在の福岡県福岡市)において、黒田藩の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれましたが、名は篤信(あつのぶ)、字は子誠(しせい)と言いました。幼時に父の転職で各地に転居し民間で生活し、1648年(慶安元)、18歳で福岡藩に仕えます。
 しかし、1650年(慶安3)に第2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなり、医者として身を立てようとして医学修業に励みました。1656年(明暦2)、27歳のときに第3代藩主・黒田光之に許され、藩医として帰藩、翌年から京都へ藩費遊学します。
 松永尺五、木下順庵、中村斎、向井元升、黒川道祐、松下見林らと交わり、本草学や朱子学等を学び、1664年(寛文4)35歳の時に福岡へ戻りました。150石の知行を得て、藩内での朱子学の講義や朝鮮通信使への対応に当たります。
 君命で『黒田家譜』や『筑前国続風土記』(1703年成立)を編纂したのをはじめ、晩年に至るまで、経学、医学、民俗、歴史、地理、教育など幅広い分野で、98部247巻の著述をしました。博物学的実証主義に立って窮理の道を重視、民生日用の学を重んじて、庶民を啓蒙し、本草学史上で開拓的な意味をもつ『大和本草(やまとほんぞう)』(1709年)や医書『養生訓』(1713年)、子女の教育を説いた『和俗童子訓』(1710年)などで有名です。
 晩年には朱子学への疑問をまとめた『大疑録』も著しましたが、1714年(正徳4年8月27日)に、数え年85歳で亡くなりました。

〇貝原益軒の主要な著作

・『近思録備考』(1668年)
・『和漢名数』(正1678年、続1695年)
・本草書『花譜』(1694年)
・『黒田家譜』
・語源辞書『日本釈名』(1700年)
・『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』(1703年成立)
・本草書『菜譜(さいふ)』(1704年)
・本草書『大和本草(やまとほんぞう)』(1709年)
・教育書『和俗童子訓』(1710年)
・思想書『自娯集』(1712年)
・医書『養生訓』(1713年)
・教育書『大和俗訓』
・思想書『慎思録(しんしろく)』
・思想書『大疑録(たいぎろく)』
・『君子訓』
・紀行文『和州巡覧記』
・教育書『五常訓』
・教育書『家道訓』
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