ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 天皇

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 今日は、平安時代後期の1139年(保延5)に、第76代とされる近衛天皇が生まれた日ですが、新暦では6月16日となります。
 近衛天皇(このえてんのう)は、平安時代後期の1139年(保延5年5月18日)に、鳥羽天皇の第9皇子(母は藤原長実の娘美福門院得子)として生まれましたが、生後三ヶ月で立太子しました。1142年(永治元年12月7日)の3歳の時、異母兄崇徳天皇の譲位をうけ、第76代とされる天皇として即位したものの、父・鳥羽天皇が院政を敷きます。
 1150年(久安6年)に、12歳で元服し、内覧・藤原頼長の養女の多子が入内して皇后となる一方で、関白・藤原忠通の養女の呈子も入内して、中宮となりました。これにより、摂関家の内部対立が深まり、保元の乱の遠因となったとされます。
 1153年(仁平3年)の15歳の頃から著しく病気がちであり、一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白・忠通に告げました。しかし、1155年(久寿2年7月23日)に京都において、御所としていた近衛殿で、皇子女のないままに、数え年17歳で夭折しています。
 墓所は安楽寿院南陵(京都市伏見区)とされましたが、死因は呪詛によるとの噂が流れました。尚、和歌を能くし、「千載和歌集」初出で、勅撰集へ五首入集しています。

<代表的な和歌>

・「浮雲の かかる程だに あるものを 隠れなはてそ 有明の月」(千載和歌集)
・「この寝ぬる 夜のまの風や さえぬらむ 筧の水の 今朝はこほれる」(続古今和歌集)
・「虫の音の 弱るのみかは 過ぐる秋を 惜む我が身ぞ まづ消えぬべき」(玉葉和歌集)

〇近衛天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1139年(保延5年5月18日) 鳥羽天皇の第9皇子(母は藤原長実の娘美福門院得子)として生まれる
・1139年(保延5年8月) 生後三ヶ月で立太子する
・1142年(永治元年12月7日) 3歳の時、異母兄崇徳天皇の譲位をうけ、第76代とされる天皇として即位するが、父・鳥羽天皇が院政を敷く
・1150年(久安6年) 12歳で元服し、内覧・藤原頼長の養女の多子が入内して皇后となる一方で、関白・藤原忠通の養女の呈子も入内して、中宮となる
・1153年(仁平3年) 15歳の頃から著しく病気がちであり、一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白・忠通に告げる
・1155年(久寿2年7月23日) 京都において、数え年17歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1333年(元弘3/正慶2)鎌倉幕府第16代執権北条守時が鎌倉小袋坂の戦いで自刃する(新暦6月30日)詳細
1862年(文久2)江戸幕府が蕃書調所を「洋書調所」と改称する(新暦6月15日)詳細
1869年(明治2)榎本武揚らが最後の拠点・五稜郭を開城し維新政府軍に降伏する(新暦6月27日)詳細
1901年(明治34)日本最初の社会主義政党である「社会民主党」が結成される詳細
1943年(昭和18)日本美術報国会(会長横山大観)が結成される詳細
1970年(昭和45)「全国新幹線鉄道整備法」(昭和45年法律第71号)が公布(施行は同年6月18日)される詳細
1982年(昭和57)国連環境計画特別会議で「ナイロビ宣言」が採択される詳細
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 今日は、平安時代中期の950年(天暦4年)に、第63代の天皇とされる冷泉天皇の生まれた日ですが、新暦では6月12日となります。
 冷泉天皇(れいぜいてんのう)は、京都において、村上天皇の第2皇子(母は右大臣師輔の娘藤原安子)として生まれ、2ヶ月後に外祖父師輔宅で立太子しました。967年(康保4年5月25日)に父・村上天皇の死没と共に践祚し、同年10月11日に即位礼が行われ、第63代とされる天皇として即位したものの、病弱で奇行があったため、叔父実頼が関白に就任して後見補佐します。
 しかし、藤原氏による他氏排斥事件(安和の変)が起こり、969年(安和2年3月)に源高明が失脚しました。天皇の第一皇子師貞(もろさだ)親王の立太子を急ぐ藤原伊尹(これただ)の策略により、在位2年の969年(安和2年8月13日)に、同母弟の守平親王(円融天皇)に譲位させられ、太上天皇(冷泉院)となります。
 翌年に実頼が亡くなると、天皇の外舅藤原伊尹が摂政を引き継ぎ、以降藤原氏の摂関職設置が常態化しました。984年(永観2年8月24日)に、円融天皇の息子の懐仁親王の立太子を条件に、冷泉帝の皇子・師貞親王(花山天皇)に譲位され。以後後一条天皇の即位まで約50年間、弟の円融系との皇位迭立が続きます。
 986年(寛和2年6月22日)に、息子の花山天皇が、花山寺で仏門に入り退位(次代は一条天皇)、入覚と号して花山法皇と称せられました。その後、991年(正暦2年2月12日)に円融院(円融天皇)が亡くなり、1008年(寛弘5年2月8日)には、息子の花山院(花山天皇)も亡くなります。
 退位後42年という長い上皇生活を東三条南院で暮らしてきましたが、1011年(寛弘8年10月24日)に数え年62歳で亡くなり、陵墓は桜本陵(現在の京都市左京区鹿ヶ谷法然院町)とされました。

<冷泉天皇の主要な和歌>

・「年へぬる竹の齢(よはひ)をかへしてもこのよを長くなさむとぞ思ふ」(詞花和歌集)
・「雲の上をかけ離れたるすみかにももの忘れせぬ秋の夜の月」

〇冷泉天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・950年(天暦4年5月24日) 京都において、村上天皇の第2皇子(母は右大臣師輔の娘藤原安子)として生まれ、2ヶ月後に外祖父師輔宅で立太子する
・967年(康保4年5月25日) 父・村上天皇の死没とともに践祚する
・967年(康保4年10月11日) 即位礼が行われ、第63代とされる天皇として即位する
・969年(安和2年3月) 安和の変が起こり源高明が失脚する
・969年(安和2年8月13日) 同母弟の円融天皇に譲位し、太上天皇となる
・970年(天禄元年5月18日) 藤原実頼が亡くなると、天皇の外舅藤原伊尹が摂政を引き継ぐ
・976年(貞元元年5月) 内裏が焼亡する
・977年(貞元2年) 内裏が新造される
・980年(天元3年11月) 内裏が再び火災に遭う
・982年(天元5年) 三たび内裏が焼亡する
・984年(永観2年8月24日) 円融天皇の息子の懐仁親王の立太子を条件に、冷泉帝の皇子・師貞親王(花山天皇)に譲位される
・986年(寛和2年6月22日) 息子の花山天皇が、花山寺で仏門に入り退位(次代は一条天皇)、入覚と号して花山法皇と称せられる
・991年(正暦2年2月12日) 円融院(円融天皇)が亡くなる
・1008年(寛弘5年2月8日) 息子の花山院(花山天皇)が亡くなる
・1011年(寛弘8年10月24日) 京都において、数え年62歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1636年(寛永13)武将・仙台藩の藩祖伊達政宗の命日(新暦6月27日)詳細
1790年(寛政2)老中主座・松平定信が昌平坂学問所で、朱子学以外の学問の教授を禁止する(寛政異学の禁)詳細
1925年(大正14)日本労働組合評議会が結成される詳細
1926年(大正15)北海道の十勝岳が大噴火(十勝岳1926年噴火)し、高温の岩屑なだれが発生、大被害を出す詳細
1956年(昭和31)「売春防止法」が公布(施行は1957年4月1日)される詳細
1971年(昭和46)評論家・婦人解放運動家平塚らいてう(平塚雷鳥)の命日詳細
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 今日は、鎌倉時代の1231年(寛喜3)に、第87代の天皇とされる四条天皇が生まれた日ですが、新暦では3月17日となります。
 四条天皇(しじょうてんのう)は、京都の一条室町邸において、後堀河天皇の第一皇子(母は藤原竴子)として生まれましたが、名は秀仁(みつひと)と言いました。同年4月11日に親王宣下され、10月28日には、後堀河天皇の皇太子に立てられます。
 1232年(貞永元)に鎌倉幕府により「御成敗式目」が制定され、朝廷監視が強まった時で、同年に数え年2歳で、第87代とされる天皇として即位し、九条教実が摂政となり、父・後堀河上皇が院政を敷きました。1233年(天福元)に母の藤原竴子(藻璧門院)が亡くなり、翌年には父・後堀河上皇も亡くなります。
 1235年(文暦2)に外祖父の九条道家が摂政となり、その舅の西園寺公経と共に、事実上の政務を行うこととなりました。1237年(嘉禎3)に近衛兼経が摂政となりましたが、1241年(仁治2に)に天皇が元服すると、近衛兼経が太政大臣となります。
 同年に、九条彦子(九条道家の孫娘)を女御としたものの、1242年(仁治3年1月9日)に、京都において、数え年12歳で亡くなり、陵墓は京都の月輪陵(京都市東山区今熊野)とされました。

〇四条天皇関係略年表

・1231年(寛喜3年2月12日) 京都の一条室町邸において、後堀河天皇の第一皇子(母は藤原竴子)として生まれる
・1231年(寛喜3年4月11日) 親王宣下される
・1231年(寛喜3年10月28日) 後堀河天皇の皇太子に立てられる
・1232年(貞永元年8月10日) 鎌倉幕府により「御成敗式目」が制定され、朝廷監視が強まる
・1232年(貞永元年10月4日) 2歳の時、父・後堀河天皇の譲位に伴って践祚、九条教実が摂政となる
・1232年(貞永元年12月5日) 第87代とされる天皇として即位したが、父・後堀河上皇が院政を敷く
・1233年(天福元年9月18日) 母の藤原竴子(藻璧門院)が亡くなる
・1234年(天福2年8月6日) 父・後堀河上皇が亡くなる
・1235年(文暦2年3月28日) 九条道家が摂政となる
・1237年(嘉禎3年) 近衛兼経が摂政となる
・1241年(仁治2年1月5日) 元服し、近衛兼経が太政大臣となる
・1241年(仁治2年12月13日) 九条彦子を納れて女御とする
・1242年(仁治3年1月9日) 京都において、数え年12歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

729年(神亀6)長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害する(新暦3月16日)詳細
1386年(至徳3/元中3)室町幕府第4代将軍足利義持の誕生日(新暦3月12日)詳細
1823年(文政6)写真業創始者・写真家・画家下岡蓮杖の誕生日(新暦3月24日)詳細
1889年(明治22)黒田清隆内閣総理大臣が鹿鳴館において、地方長官らに対し超然主義演説をする詳細
1996年(平成8)小説家司馬遼太郎の命日詳細
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 今日は、平安時代中期の1008年(寛弘5)に、第68代の天皇とされる後一条天皇が生まれた日ですが、新暦では10月12日となります。
 後一条天皇(ごいちじょうてんのう)は、京都において、一条天皇の第二皇子(母は藤原道長女中宮彰子)として生まれましたが、名は敦成(あつひら)と言いました。1011年(寛弘8)に父・一条天皇が亡くなり、居貞親王(三条天皇)が第67代とされる天皇として即位すると、藤原道長の意により、その皇太子となります。
 1016年(長和5)に三条天皇の譲位により、9歳で第68代とされる天皇として即位したものの、藤原道長が摂政となり権勢を振るいました。翌年には、藤原頼通が摂政を受け継ぎ、敦明親王の辞意により、天皇の同母弟敦良親王(後の後朱雀天皇)を皇太子とします。
 1018年(寛仁2)に11歳で一条殿において元服すると、藤原道長の娘威子が中宮となり、太皇太后(一条天皇中宮彰子)、皇太后(三条天皇中宮妍子)の三后がともに道長の娘で、その栄華を極めることとなりました。1019年(寛仁3)に刀伊(女真族)が対馬、壱岐、筑前に襲来、1028年(長元元)には、下総で平忠常が乱をおこしたりしています。
 威子との間に二人の内親王が誕生したものの、皇子は出来ず、1036年(長元9年4月17日)に京都の清涼殿において、数え年29歳で亡くなった後は、同母弟敦良親王(後朱雀天皇)が皇位を継承しました。浄土寺西原において火葬された後は、菩提樹院陵(現在の京都府京都市左京区吉田神楽岡町)が墓所とされています。

〇後一条天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1008年(寛弘5年9月11日) 京都において、一条天皇の第二皇子(母は藤原道長女中宮彰子)として生まれる
・1008年(寛弘5年10月16日) 親王宣下される
・1011年(寛弘8年6月13日) 三条天皇の皇太子となる
・1011年(寛弘8年6月22日) 父・一条天皇が亡くなる
・1011年(寛弘8年10月16日) 居貞親王(三条天皇)が、第67代とされる天皇として即位する
・1015年(長和4年) 疫病が流行する
・1016年(長和5年1月29日) 三条天皇の譲位により、9歳で受禅し、藤原道長が摂政となる
・1016年(長和5年2月7日) 第68代とされる天皇として即位する
・1017年(寛仁元年3月16日) 藤原頼通が摂政となる
・1017年(寛仁元年8月9日) 敦明親王の辞意により、天皇の同母弟敦良親王(後の後朱雀天皇)を皇太子とする
・1018年(寛仁2年1月3日) 11歳で一条殿において元服する
・1018年(寛仁2年10月16日) 藤原道長の娘威子を中宮とする
・1019年(寛仁3年4月) 刀伊(女真族)が対馬、壱岐、筑前に襲来する
・1019年(寛仁3年12月22日) 藤原頼通が関白となる
・1021年(治安元年10月) 春日社に行幸し、大和国添上郡を寄進する 
・1027年(万寿4年12月) 藤原道長が亡くなる 
・1028年(長元元年6月) 下総で平忠常が乱をおこす
・1036年(長元9年4月17日) 京都の清涼殿において、数え年29歳で亡くなる
・1036年(長元9年5月19日) 浄土寺西原において火葬される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

764年(天平宝字8)孝謙太上天皇の寵臣・道鏡を除こうとする謀叛(藤原仲麻呂の乱)が発覚する(新暦10月10日)詳細
972年(天禄3)僧侶・民間浄土教の先駆者空也の命日(新暦10月20日)詳細
1900年(明治33)東京の上野・新橋両駅に日本初の公衆電話が設置される(公衆電話の日)詳細
1940年(昭和15)内務省が「部落会町内会等整備要領」を通達し、隣組(隣保班)が制度化される詳細
1949年(昭和24)明治大学考古学研究室が、相沢忠洋が発見した群馬県岩宿遺蹟の発掘調査を開始する詳細
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 今日は、奈良時代の774年(宝亀5)に、第51代の天皇とされる平城天皇が生まれた日ですが、新暦では9月25日となります。
 平城天皇(へいぜいてんのう)は、桓武天皇の第一皇子(母は皇后藤原乙牟漏)として生まれましたが、はじめ名は小殿(おて)とされたものの、783年(延暦2)には、安殿(あて)と改名されました。785年(延暦4)に、藤原種継暗殺事件に関与したとして皇太子を廃された叔父の早良親王に代わって立太子し、788年(延暦7)に元服します。
 790年(延暦9)に罹病し、792年(延暦11)に占いによりこの病が早良親王の祟りであるとされ、翌年には、春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂されました。藤原式家縄主と藤原薬子(式家種継の子)の間の長女を妃とした以後、薬子を寵愛し、東宮坊宣旨として臥処に出入りさせるなどしたので、醜聞を嫌った桓武天皇により薬子は宮廷から一時追放されます。
 806年(延暦25)に父・桓武天皇が亡くなったため第51代とされる天皇として即位し、賀美能親王(のちの嵯峨天皇)を皇太弟に立て、薬子を尚侍(ないしのかみ)として復権させました。即位当初は政治に意欲的に取り組み、造都と蝦夷征討で疲弊した国家財政緊縮のため、808年(大同3)に中央官司の大規模な整理統合を実施、また、民情把握のため畿内七道に観察使を置いて地方政治に関する献策を行わせるなど政治の刷新に努めます。
 しかし、809年(大同4)に病により賀美能親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、平城旧京の故右大臣中臣清麻呂宅に移りました。810年(大同5)に平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図りましたが、嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪、それに怒って兵を発し、薬子と共に東国に入ろうとしたものの、遮られて平城京に戻り、薬子は自殺します(薬子の変)。
 これにより、直ちに剃髪入道して政治に関与せず、平城旧京に留まり、822年(弘仁13年)には、空海から戒を受け、灌頂を授かりました。しかし、824年(天長元年7月7日)に、奈良において、数え年51歳で亡くなり、大和)国添下郡の楊梅(やまもも)陵(現在の奈良市佐紀町)に葬られます。尚、詩歌を能くし、『凌雲集』、『経国集』に漢詩を残し、『古今和歌集』にも和歌が収載されました。

<平城天皇の代表的な歌>

・「故郷(ふるさと)と なりにし奈良の 都にも 色はかはらず 花は咲きけり」(古今和歌集)

〇平城天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年8月15日) 奈良において、桓武天皇の第一皇子(母は皇后藤原乙牟漏)として生まれる
・783年(延暦2年) 安殿(あて)と改名する
・784年(延暦3年11月11日) 長岡京に遷都される
・785年(延暦4年11月25日) 藤原種継暗殺事件に関与したとして皇太子を廃された叔父の早良親王に代わり、立太子する
・788年(延暦7年1月15日) 元服する
・790年(延暦9年) 罹病する
・792年(延暦11年) 占いによりこの病が早良親王の祟りであるとされる
・793年(延暦12年) 春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂される
・794年(延暦13年10月22日) 平安京に遷都される
・806年(延暦25年3月17日) 父・桓武天皇が亡くなったため践祚する
・806年(延暦25年5月18日) 第51代とされる天皇として即位式を行い、賀美能親王(のちの嵯峨天皇)を皇太弟に立てる
・808年(大同3年) 官司の統廃合を行い、緊縮財政に努める
・809年(大同4年4月1日) 病により賀美能親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となる
・809年(大同4年12月) 平城旧京の故右大臣中臣清麻呂宅に入御する
・810年(大同5年9月6日) 平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図る
・810年(弘仁元年9月10日) 嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪する
・810年(弘仁元年9月11日) 薬子の官位を剥奪に怒って兵を発し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、遮られて平城京に戻る(薬子の変)
・822年(弘仁13年) 空海から戒を受け、灌頂を授かる
・824年(天長元年7月7日) 奈良において、数え年51歳で亡くなる
・824年(天長元年7月12日) 大喪儀が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

952年(天暦6)第61代の天皇とされる朱雀天皇の命日(新暦9月6日)詳細
1716年(享保元)俳人山口素堂の命日(新暦9月30日)詳細
1808年(文化5)フェートン号事件が起きる(新暦10月4日)詳細
1940年(昭和15)立憲民政党が解党して、戦前の日本で全政党が解散に至る(大政翼賛会へ合流)詳細
1945年(昭和20)「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送)がラジオで流されて、太平洋戦争敗戦が国民に伝えられる詳細
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