ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > その他

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 今日は、江戸時代後期の1829年(文政12年)に、囲碁棋士・14世本因坊秀和跡目の本因坊秀策が生まれた日ですが、新暦では6月6日となります。
 本因坊秀策(ほんいんぼう しゅうさく)は、備後国因島(現在の尾道市因島外浦町)において、桑原輪三と妻・カメの次男として生まれましたが、幼名は虎次郎と言いました。3、4歳の時に、母より囲碁の手ほどきを受け、1833年(天保4年)の5歳の時、尾道の豪商橋本竹下と出会い、棋才を見出され、以後支援を受けることとなります。
 1835年(天保6年)の7歳の時、三原城主浅野忠敬と対局、城主のすすめで本格的に囲碁指導を受けることとなり、翌年には、江戸へ出て第12世本因坊丈和の門に入りました。1839年(天保10年)の11歳の時、初段の免状を受け、翌年に因島へ初めての帰郷をはたし、浅野公より五人扶持を賜わり、1841年(天保12年)の13歳の時、大阪にて中川五段と対局、好成績が認められ二段へ昇進します。
 1842年(天保13年)の14歳の時、三段へ昇進、翌年に四段へ昇進し、この頃より秀策流とよばれる一、三、五の布石を用いるようになり、1845年(弘化2年)の17歳の時、12人扶持ちに増録されました。1846年(弘化3年)の18歳の時、大阪にて第11世幻庵因碩と対局(耳赤の一手)、江戸へ帰還して五段へ昇進、1848年(嘉永元年)の20歳の時、第14世本因坊の跡目を継承し、本因坊丈和の娘花と結婚、六段へ昇進します。
 1849年(嘉永2年)の21歳の時、初めての御城碁へ出仕して勝ち、以後12年間、御城碁無敗の19連勝を成し遂げました。1853年(嘉永6年)の25歳の時、太田雄三と30番碁をはじめ、23局終え、七段(上手)へ昇進、1857年(安政4年)の29歳の時、因島へ四度目の帰郷の折に、幼少時に使っていた碁盤に揮毫しています。
 1861年(文久元年)の33歳の時、母カメが亡くなり、追善のため百ヶ日の精進生活に入ったものの、江戸にコレラが大流行する中、翌年8月10日に、コレラによって、本因坊家において、数え年34歳で急逝しました。没後、第4世本因坊道策、第12世本因坊丈和と並んで碁聖と呼ばれることとなります。

〇本因坊秀策関係略年表(日付は旧暦です)

・1829年(文政12年5月5日) 備後国因島(現在の尾道市因島外浦町)において、桑原輪三と妻・カメの次男(幼名は虎次郎)として生まれる
・1831~32年(天保2~3年) 3、4歳の時、母より囲碁の手ほどきを受ける
・1833年(天保4年) 5歳の時、尾道の豪商橋本竹下と出会い、竹下は秀策の棋才を見抜き、以後支援を受ける
・1835年(天保6年) 7歳の時、三原城主浅野忠敬と対局、城主のすすめで本格的に囲碁指導を受ける
・1837年(天保8年) 9歳の時、江戸へ出て十二世本因坊丈和の門に入る
・1839年(天保10年) 11歳の時、初段の免状を受ける
・1840年(天保11年) 12歳の時、因島へ初めての帰郷をはたし、浅野公より五人扶持を賜わる
・1841年(天保12年) 13歳の時、大阪にて中川五段と対局、好成績が認められ二段へ昇進する
・1842年(天保13年) 14歳の時、三段へ昇進する
・1843年(天保14年) 15歳の時、四段へ昇進し、この頃より秀策流とよばれる一、三、五の布石を用いるようになる
・1845年(弘化2年) 17歳の時、12人扶持ちに増録される
・1846年(弘化3年) 18歳の時、大阪にて十一世幻庵因碩と対局(耳赤の一手)、江戸へ帰還して五段へ昇進する
・1848年(嘉永元年) 20歳の時、十四世本因坊の跡目を継承し、本因坊丈和の娘花と結婚、六段へ昇進する
・1849年(嘉永2年) 21歳の時、初めての御城碁へ出仕し勝つ(以後12年間、御城碁無敗の19連勝を成し遂げる)
・1853年(嘉永6年) 25歳の時、太田雄三と三十番碁をはじめ、二十三局終え、七段(上手)へ昇進する
・1857年(安政4年) 29歳の時、因島へ四度目の帰郷の折に、幼少時に使っていた碁盤に揮毫する
・1861年(文久元年) 33歳の時、母カメが亡くなり、追善のため百ヶ日の精進生活に入る
・1862年(文久2年8月10日) 江戸にコレラが大流行する中、本因坊家でコレラにて、数え年34歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1763年(宝暦13)俳人小林一茶の誕生日(新暦6月12日)詳細
1911年(明治44)文学者市古貞次の誕生日詳細
1925年(大正14)改正「衆議院普通選挙法」(普通選挙法)公布で満25歳以上の全成年男子に選挙権が与えられる詳細
1951年(昭和26)子供の権利に関する宣言「児童憲章」が制定される(児童憲章制定記念日)詳細
1958年(昭和33)東京都に「多摩動物公園」が開園する詳細
1965年(昭和40)神奈川県横浜市の多摩丘陵の一画に「こどもの国」が開園する詳細
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 今日は、平成時代の2010年(平成22)に、囲碁棋士・23世本因坊坂田栄男 (本因坊栄寿) が亡くなった日です。
 坂田栄男(さかた えいお)は、大正時代の1920年(大正9)2月15日に、東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)において、生まれましたが、囲碁好きの父の影響で子供の頃から囲碁を覚えました。1929年(昭和4)に、増淵辰子六段(後に八段)に入門し、翌年に日本棋院院生となり、1935年(昭和10)に、入段後、二段となります。
 1937年(昭和12)に三段、1938年(昭和13)に四段、1940年(昭和15)に五段、1943年(昭和18)には、六段に昇段しました。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に日本棋院を脱退し囲碁新社を結成し、翌年に七段に昇段しましたが、1949年(昭和24)には、日本棋院に復帰しています。
 1951年(昭和26)に第6期本因坊戦 7番勝負で、橋本宇太郎9段(本因坊昭宇)に挑み、3勝4敗で敗れた後、翌年には、八段に昇段しました。1953年(昭和28)に、呉清源と六番碁(坂田先相先)を打ち、4勝1敗1ジゴとし、1955年(昭和30)には、九段に昇段します。
 1959年(昭和34)に日本最強決定戦、最高位戦、日本棋院選手権戦、NHK杯戦の4冠となり、実力者としての評価を固め、1961年(昭和36)には、高川格を破り、第16期本因坊を獲得、栄寿と号し、王座・日本棋院第一位・最高位・最強位・日本棋院選手権・NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作りました。1963年(昭和38)に名人位を獲得し、碁界初の名人本因坊となり、1964年(昭和39)には、名人・本因坊・日本棋院選手権・プロ十傑戦・王座・日本棋院第一位・NHK杯と、再度の7タイトル制覇を果たします。
 1967年(昭和42)に7期連続本因坊を保持、名誉本因坊の資格を得、1978年(昭和53)に日本棋院理事長となり、1979年(昭和54)には、紫綬褒章を受章しました。1982年(昭和57)にNHK杯戦での11回優勝により、名誉NHK杯選手権者の称号を得、1983年(昭和58)には、NEC杯戦に優勝してタイトル獲得数を64とします。
 1986年(昭和61)に日本棋院理事長を辞め、1988年(昭和63)に日本棋院顧問となり、1990年(平成2)に勲二等瑞宝章を受章、1992年(平成4)には、文化功労者となりました。1998年(平成10)に 二十三世本因坊を名乗ることを認められ、切れ味鋭い棋風で「かみそり坂田」とよばれてきたものの、2000年(平成12)の80歳の誕生日をもって囲碁棋士を引退しています。
 2009年(平成21)には、日本棋院名誉顧問となったものの、2010年(平成22)10月22日に、胸部大動脈瘤破裂の為に90歳で亡くなり、正四位が追贈されました。

<坂田栄男の記録>

・総タイトル数64個(2002年趙治勲に破られるまで歴代最多)
・年間30勝2敗(1964年)
・一般棋戦29連勝(1963~64年)
・同一タイトル戦17連勝(第18期本因坊戦第5局~第22期本因坊戦第3局)
・通算成績1,117勝654敗16ジゴ
・連勝記録歴代1位(29連勝)

〇坂田栄男関係略年表

・1920年(大正9)2月15日 東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)において、生まれる
・1929年(昭和4) 故増淵辰子八段に入門する
・1930年(昭和5) 日本棋院院生となる
・1935年(昭和10) 入段後、二段となる
・1937年(昭和12) 三段に昇段する
・1938年(昭和13) 四段に昇段する
・1940年(昭和15) 五段に昇段する
・1943年(昭和18) 六段に昇段する
・1944年(昭和19) 2ヶ月の教育召集を受ける
・1947年(昭和22) 日本棋院を脱退し囲碁新社を結成する
・1948年(昭和23) 七段に昇段する
・1949年(昭和24) 日本棋院に復帰する
・1951年(昭和26) 第6期本因坊戦 7番勝負で、橋本宇太郎9段(本因坊昭宇)に挑み、3勝4敗で敗れる
・1952年(昭和27) 八段に昇段する
・1953年(昭和28) 呉清源と六番碁(坂田先相先)を打ち、4勝1敗1ジゴとする
・1955年(昭和30) 九段に昇段する
・1959年(昭和34) 日本最強決定戦、最高位戦、日本棋院選手権戦、NHK杯戦の4冠となり、実力者としての評価を固める
・1961年(昭和36) 高川格を破り、第16期本因坊を獲得、栄寿と号し、王座・日本棋院第一位・最高位・最強位・日本棋院選手権・NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作る
・1963年(昭和38) 名人位を獲得し、碁界初の名人本因坊となる
・1964年(昭和39) 名人・本因坊・日本棋院選手権・プロ十傑戦・王座・日本棋院第一位・NHK杯と、再度の7タイトル制覇を果たす
・1967年(昭和42) 7期連続本因坊を保持、名誉本因坊の資格を得る
・1978年(昭和53) 日本棋院理事長となる
・1979年(昭和54) 紫綬褒章を受章する
・1982年(昭和57) NHK杯戦での11回優勝により、名誉NHK杯選手権者の称号を得る 
・1983年(昭和58) NEC杯戦に優勝してタイトル獲得数を64とする
・1986年(昭和61) 日本棋院理事長を辞める
・1988年(昭和63) 日本棋院顧問となる
・1990年(平成2) 勲二等瑞宝章を受章する
・1992年(平成4) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 二十三世本因坊を名乗ることを認められる
・2000年(平成12) 80歳の誕生日をもって囲碁棋士を引退する
・2009年(平成21) 日本棋院名誉顧問となる
・2010年(平成22)10月22日 胸部大動脈瘤破裂の為に90歳で亡くなり、正四位が追贈される
・2019年(平成31) 第16回囲碁殿堂入りが決まる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京する「平安遷都の日」(新暦11月22日)詳細
1894年(明治27)庄内地震(マグニチュード7.0)が起こり、死者726人、負傷者8,403人が出る詳細
1926年(大正15)明治神宮外苑に絵画館・野球場・相撲場・児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われる詳細
1937年(昭和12)詩人中原中也の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」を出す詳細
1983年(昭和58)国鉄特定地方交通線の廃止第一号として、北海道の国鉄白糠線がこの日限りで廃止となる詳細
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 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、登山家で女性初のエベレスト登頂者田部井淳子の生まれた日です。
 田部井淳子(たべい じゅんこ)は、福島県田村郡三春町の石橋家に生まれ、福島県立田村高等学校を経て、1958年(昭和33)に昭和女子大学英米文学科に入学しました。1962年(昭和37)に卒業後、日本物理学会で学会誌の編集に従事しながら、社会人の山岳会に入会し、登山活動に力を注ぐようになります。
 1965年(昭和40)に佐宗ルミエと共に、女性ペアによる初めての谷川岳一ノ倉沢積雪期登攀に成功、1967年(昭和42)には、田部井政伸と結婚しました。1969年(昭和44)に、「女子だけで海外遠征を」を合言葉に女子登攀クラブを設立し、1970年(昭和45)には、アンナプルナIII峰(7,555m)に遠征して登頂に成功します。
 1975年(昭和50)に、エベレスト日本女子登山隊 副隊長兼登攀隊長として、 世界最高峰エベレスト(8,848m)に女性世界初の登頂に成功、ネパール王国から最高勲章グルカ・ダクシン・バフ賞、文部省スポーツ功労賞、日本スポーツ賞、朝日体育賞を受賞しました。1990年(平成2)に日本に山岳環境保護団体・日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(HAT-J)が設立され、同団体の代表に就任(~2014年)します。
 1992年(平成4)にオセアニアの最高峰であるニューギニア島のジャヤ山(4,884m)の登頂に成功し、女性で世界初の7大陸最高峰登頂者となり、2度目の文部省スポーツ功労賞を受賞しました。1995年(平成7)に内閣総理大臣賞を受賞、1999年(平成11)には、旧ソ連7000メートル峰5座の登頂により、スノー・レオパードの称号を得ます。
 山岳環境保護の啓蒙活動に力を注ぎ、2000年(平成12)に九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程修了(研究テーマ:エベレストのゴミ問題)し、2007年(平成19)には、環境大臣賞(環境保全功労者表彰)、野外教育功労賞(日本野外教育学会)を受賞しました。子育てや仕事などで忙しい若い世代の女性たちにも山や自然に親しんでもらいたいと、2009年(平成21)に、20~40代の女性のための山の会MJリンクを立ち上げます。
 2016年(平成28)には、東日本大震災被災者への支援活動として東北地方の高校生らとともに富士登山に参加しましたが、同年10月20日に、埼玉県川越市において、腹膜癌によって、77歳で亡くなりました。没後の2018年(平成30)に、第1回ネパール社会貢献者表彰を贈られ、翌年には、田部井にちなんで、国際天文学連合は冥王星の山に「Tabei Montes」と命名されています。

〇田部井淳子の主要な著作

・『エベレスト・ママさん 山登り半生記』(1978年)
・『七大陸最高峰に立って』(1992年)
・『山の頂の向こうに』(1995年)
・『エプロンはずして夢の山』(1996年)
・『さわやかに山へ』(1997年)
・『山を楽しむ』(2002年)
・『はじめての山歩き 花、木、自然に会いに』(2002年)
・『山からの贈り物』(2007年)
・『いつでも山を 田部井淳子の実践エイジング登山』(2008年)
・『再発! それでもわたしは山に登る』(2016年)

☆田部井淳子関係略年表

・1939年(昭和14)9月22日、福島県田村郡三春町の石橋家に生まれる
・1958年(昭和33) 福島県立田村高等学校を卒業し、昭和女子大学英米文学科に入学する
・1962年(昭和37) 昭和女子大学英米文学科卒業後、日本物理学会で学会誌の編集に従事しながら、社会人の山岳会に入会し、登山活動に力を注ぐ
・1965年(昭和40) 佐宗ルミエと共に、女性ペアによる初めての谷川岳一ノ倉沢積雪期登攀に成功する
・1967年(昭和42) 田部井政伸と結婚する
・1969年(昭和44) 『女子だけで海外遠征を』を合言葉に女子登攀クラブを設立する
・1970年(昭和45) アンナプルナIII峰(7,555m)に遠征して登頂に成功する
・1975年(昭和50) エベレスト日本女子登山隊 副隊長兼登攀隊長として、 世界最高峰エベレスト(8,848m)に女性世界初の登頂に成功、ネパール王国から最高勲章グルカ・ダクシン・バフ賞、文部省スポーツ功労賞、日本スポーツ賞、朝日体育賞を受賞する
・1980年(昭和55) タンザニアのキリマンジャロ山(5,895m)の登頂に成功する
・1985年(昭和60) イスモイル・ソモニ峰、スィーナー峰(旧:レーニン峰)、コルジェネフスカヤの3峰を1シーズンで完登する
・1987年(昭和62) アルゼンチンのアコンカグア山(6,959m)の登頂に成功する
・1988年(昭和63) アラスカのマッキンレー山(今日のデナリ6,190m)の登頂に成功、埼玉県民栄誉賞、川越市民栄誉賞、三春町名誉町民、エイボンスポーツ賞を受賞する
・1989年(平成元) ロシアのエリブルース山(5,642m)の登頂に成功する
・1990年(平成2) 日本に山岳環境保護団体・日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(HAT-J)が設立され、同団体の代表に就任(~2014年)する
・1991年(平成3) 南極大陸のビンソン山(4,892m)の登頂に成功、福島県民栄誉賞第1号を受賞する
・1992年(平成4) オセアニアの最高峰であるニューギニア島のジャヤ山(4,884m)の登頂に成功し、女性で世界初の7大陸最高峰登頂者となり、2度目の文部省スポーツ功労賞を受賞する
・1994年(平成6) ハン・テングリの登頂に成功する
・1995年(平成7) 内閣総理大臣賞を受賞する
・1996年(平成8) チョ・オユーの登頂に成功する
・1999年(平成11) 旧ソ連7000メートル峰5座の登頂により、スノー・レオパードの称号を得る
・2000年(平成12) 九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程修了 (研究テーマ:エベレストのゴミ問題)
・2001年(平成13) ムスターグ・アタの登頂に成功する
・2006年(平成18) (財)ソロプチミスト日本財団千嘉代子賞を受賞する
・2007年(平成19) 環境大臣賞(環境保全功労者表彰)、野外教育功労賞(日本野外教育学会)を受賞する
・2008年(平成20) 2008 Mountain Hero Award(ワシントンにあるThe Mountain Instituteより受賞)を受賞する
・2009年(平成21) 20~40代の女性のための山の会MJリンクを立ち上げ、日本放送協会放送文化賞を受賞する
・2010年(平成22) テンジン・ヒラリー賞(ネパール政府観光省より)を受賞する
・2012年(平成24) ファウスト特別賞を受賞する
・2013年(平成25) さいたま輝き荻野吟子賞を受賞する
・2015年(平成27) みんゆう県民大賞(福島民友新聞社)を受賞する
・2016年(平成28)10月20日 埼玉県川越市において、腹膜癌によって、77歳で亡くなる
・2018年(平成30) 第1回ネパール社会貢献者表彰を贈られる
・2019年(平成31) 田部井にちなんで、国際天文学連合は冥王星の山に「Tabei Montes」と命名する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1311年(応長元) 鎌倉幕府第10代執権北條師時の命日(新暦11月3日) 詳細
1868年(明治元) 戊辰戦争で鶴ヶ城が開城され、会津藩が新政府軍に降伏する(新暦11月6日) 詳細
1945年(昭和20)  GHQが「日本に与うる放送遵則(ラジオコード)」(SCAPIN-43)を出す 詳細
GHQが「公衆衛生対策に関する覚書」(SCAPIN-48)を出す 詳細
1968年(昭和43) 第3宮古島台風により宮古島で最大瞬間風速79.8mを記録する 詳細
1980年(昭和55) 文芸評論家・音楽評論家河上徹太郎の命日 詳細
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 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、新聞記者・政治評論家陸羯南が亡くなった日です。
 陸羯南(くが かつなん)は、江戸時代後期の1857年(安政4年10月14日)に、陸奥国弘前(現在の青森県弘前市)において、弘前藩の御茶坊主頭だった父・中田謙斎と母・なほの子として生まれましたが、幼名は巳之太郎、のち実(みのる)と言いました。1871年(明治4)頃から、藩校の教官・工藤他山の私塾・思斉堂に学びはじめ、1873年(明治6)には、旧藩校の後身・東奥義塾へ進みます。
 1874年(明治7)に宮城師範学校に転校しましたが、1876年(明治9)には、宮城師範学校校長の松林義規に逆らい退校処分を受けて上京し、フランス法律学専修の司法省法学校に合格しました。1879年(明治12)に、賄征伐(調理場荒らし)のいたずらの譴責がこじれ、羯南は犯人でなかったが、義憤から原敬・福本日南・加藤恒忠・国分青崖らと退校し、故郷青森に帰り『青森新聞』編集長となったものの、翌年に「讒謗律」に触れ罰金刑を受けます。
 1881年(明治14)に上京し、新設の農商務省などのフランス語の翻訳を下請けして食いつなぎ、1883年(明治16)には、太政官御用掛となり、新設の文書局に勤めました。1885年(明治18)に文書局が廃止され内閣官報局ができ、その編輯課長に昇進したものの、1888年(明治21)には依願退職し、谷干城,杉浦重剛らの支援を受けて新聞『東京電報』を創刊します。
 1889年(明治22)に改組して、新聞『日本』を創刊し、社主兼主筆となり、1890年(明治23)には、東邦協会の設立に参画して評議員となり、国家経済会設立の発起人ともなりました。1892年(明治25)に隣りに移り住んだ正岡子規を支援し、紙面を提供、1895年(明治28)には、三国干渉に対し受け入れ論の東京日々新聞と論戦します。
 1896年(明治29)に各社新聞同盟を結成し、「新聞紙条例」撤廃の運動を主導、翌年には、「新聞紙条例」の緩和に成功しました。1898年(明治31)に創立された東亜同文会の幹事長になり、1900年(明治33)には、近衛篤麿・富田鉄之助らと、日露開戦やむなしと議し、国民同盟会に相談役として参画します。
 1901年(明治34)に近衛に従い清国・韓国を視察、近衛から日本新聞への資金援助を得、1902年(明治35)には、『日本人』誌の三宅雪嶺の外遊中、その社説執筆を分担しました。1903年(明治36)に米欧旅行に出発、翌年帰国し、その後の静養中に肺結核を発症、1905年(明治38)の夏からは三宅雪嶺が『日本新聞』の社説を書くようになります。
 1906年(明治39)に健康不良と経営悪化から、『日本新聞』を伊藤欽亮に譲渡しましたが、引き続き社説欄を担当したものの、1907年(明治40年)9月2日に、神奈川県鎌倉市において、肺結核により、51歳で亡くなりました。

〇陸羯南の主要な著作

・『予算論』(1890年)
・『近時政論考』(1891年)
・『行政時言』(1891年)
・『予算弁妄』(1891年)
・『原政及国際論』(1893年)

☆陸羯南関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1857年(安政4年10月14日) 陸奥国弘前(現在の青森県弘前市)において、弘前藩の御茶坊主頭だった父・中田謙斎と母・なほの子として生まれる
・1871年(明治4年)頃 藩校の教官・工藤他山の私塾・思斉堂に学びはじめる
・1873年(明治6年) 旧藩校の後身・東奥義塾へ進む
・1874年(明治7年) 宮城師範学校に転校する
・1876年(明治9年) 宮城師範学校校長の松林義規に逆らい退校処分を受けて上京し、フランス法律学専修の司法省法学校に合格する
・1879年(明治12年) 賄征伐(調理場荒らし)のいたずらの譴責がこじれ、羯南は犯人でなかったが、義憤から原敬・福本日南・加藤恒忠・国分青崖らと退校し、故郷青森に帰り『青森新聞』編集長となる
・1880年(明治13年) 「讒謗律」に触れ罰金刑を受ける
・1881年(明治14年) 上京し、新設の農商務省などのフランス語の翻訳を下請けして食いつなぐ
・1883年(明治16年) 太政官御用掛となり、新設の文書局に勤める
・1884年(明治17年) 依田學海らの媒酌で、今居てつと結婚する
・1885年(明治18年) 文書局が廃止され内閣官報局ができ、その編輯課長に昇進する
・1888年(明治21年) 春に内閣官報局を依願退職し、谷干城,杉浦重剛らの支援を受けて新聞『東京電報』を創刊する
・1889年(明治22年) 新聞『日本』を創刊し、社主兼主筆となる
・1890年(明治23年) 東邦協会の設立に参画して評議員となり、国家経済会設立の発起人ともなる
・1892年(明治25年) 隣りに移り住んだ正岡子規を支援し、紙面を提供する
・1895年(明治28年) 三国干渉に対し受け入れ論の東京日々新聞と論戦する
・1896年(明治29年) 各社新聞同盟を結成し、「新聞紙条例」撤廃の運動を主導する
・1897年(明治30年) 「新聞紙条例」の緩和に成功する
・1898年(明治31年) 創立された東亜同文会の幹事長になる
・1900年(明治33年) 近衛篤麿・富田鉄之助らと、日露開戦やむなしと議し、国民同盟会に相談役として参画する
・1901年(明治34年) 近衛に従い清国・韓国を視察、近衛から日本新聞への資金援助を得る
・1902年(明治35年) 『日本人』誌の三宅雪嶺の外遊中、その社説執筆を分担する
・1903年(明治36年) 米欧旅行に出発する
・1904年(明治37年) 米欧旅行から帰国、その後の静養中に肺結核を発症する
・1905年(明治38年) 夏からは三宅雪嶺が『日本新聞』の社説を書くようになる
・1906年(明治39年) 健康不良と経営悪化から、『日本新聞』を伊藤欽亮に譲渡したが、引き続き社説欄を担当する
・1907年(明治40年)9月2日 神奈川県鎌倉市において、肺結核により、51歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1828年(文政11)越前福井藩主・政治家松平慶永(春嶽)の誕生日(新暦10月10日)詳細
1871年(明治4)社会統計学者・社会運動家高野岩三郎の誕生日(新暦10月15日)詳細
1913年(大正2)思想家・美術指導者岡倉天心の命日詳細
1945年(昭和20)東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号の甲板上において降伏文書に調印する詳細
連合国最高司令官の事務所からの最初の指令(SCAPIN-1)が出される詳細
1990年(平成2)「児童の権利に関する条約」が国際条約として発効する詳細
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shimahideo01
 今日は、明治時代後期の1901年(明治34)に、機械工学者・鉄道技術者島秀雄が生まれた日です。
 島秀雄(しま ひでお)は、大阪府大阪市において、鉄道技術者で弾丸列車計画を推進した父・島安次郎の子として生まれました。東京府立第四中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部機械工学科に入学し、1925年(大正14)に卒業後、鉄道省へ入省します。
 1928年(昭和3)に幹線用蒸気機関車C53形のシリンダー・弁装置を設計、1930年(昭和5)には、設計主任となり、蒸気機関車や電車、気動車等の開発に携わりました。1931年(昭和6)に商工省(当時)の主導で開始された国内自動車メーカー共同による標準形式自動車の開発にも鉄道省から参画し、1933年(昭和8)には、後のいすゞ車の原型となるTX型を完成させます。
 1936年(昭和11)に海外の鉄道事情視察の命を受け、翌年にかけてアジア・欧州・南米・北米と外遊し、1939年(昭和14)には、弾丸列車計画のメンバーに招集されました。1941年(昭和16)に浜松工場長に転出し、1942年(昭和17)には、鉄道省に復帰して工作局車両第2課長(翌年の改組で資材局動力車課長)となります。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に電車用動力台車設計研究会(のち高速台車振動研究会と改称)を発足させ、基礎研究を開始、1948年(昭和23)に国有鉄道理事工作局長に就任、1949年(昭和24)に80系電車を開発、翌年には、6両の長大編成を組んだ80系電車による電車列車「湘南電車」の運行を実現しました。1951年(昭和26)の桜木町事故をきっかけに設計主任を辞任し、加賀山之雄総裁と共に国鉄を退職、新扶桑金属工業(のち住友金属工業)顧問となり、1953年(昭和28)には、鉄道友の会初代会長となります。
 1955年(昭和30)に十河国鉄総裁に請われ、理事・技師長として国鉄に復帰、1956年(昭和31)には、産業計画会議常任委員(委員長・松永安左エ門)に就任し、東海道新幹線建設構想を推進しました。1960年(昭和35)に毎日工業技術賞を受賞、1963年(昭和38)に新幹線の開業が見通せたとき、予算超過の責任をとる形で国鉄を退職、住友金属工業顧問となり、鉄道友の会会長に再就任(1970年まで)、1964年(昭和39)には、計画に携わった東海道新幹線が開業します。
 1965年(昭和40)に朝日賞、1966年(昭和41)にエルマー・A・スペリー賞、1969年(昭和44)には、ジェイムズ・ワット国際メダル受賞、文化功労者として顕彰されるなど数々の栄誉にも輝きました。また、同年に宇宙開発事業団の初代理事長に就任(1979年まで)、1971年(昭和46)に勲一等瑞宝章、1994年(平成6)には、鉄道関係者として初めて文化勲章を受章しましたが、1998年(平成10)3月18日に東京において、96歳で亡くなっています。

〇島秀雄の主要な著作

・『自動車工学実験法』(1934年)
・『D51から新幹線まで―技術者のみた国鉄』(1977年)
・編書『東京駅誕生―お雇い外国人バルシァーの論文発見』

☆島秀雄関係略年表

・1901年(明治34)5月20日 大阪府大阪市において、鉄道技術者で弾丸列車計画を推進した父・島安次郎の子として生まれる。
・1925年(大正14) 東京帝国大学工学部機械工学科卒業後、鉄道省へ入省する
・1928年(昭和3) 幹線用蒸気機関車「C53形(設計主任:伊東三枝)」のシリンダー・弁装置を設計する
・1930年(昭和5) 設計主任となり、蒸気機関車や電車、気動車等の開発に携わる
・1931年(昭和6) 商工省(当時)の主導で開始された国内自動車メーカー共同による標準形式自動車の開発にも鉄道省から参画する
・1933年(昭和8) 後のいすゞ車の原型となるTX型を完成させる
・1936年(昭和11) 海外の鉄道事情視察の命を受け、アジア・欧州・南米・北米の外遊へ出発する
・1937年(昭和12) アジア・欧州・南米・北米の外遊から帰国する
・1939年(昭和14) 弾丸列車計画のメンバーに招集される
・1941年(昭和16) 浜松工場長に転出する
・1942年(昭和17) 鉄道省に復帰して工作局車両第2課長となる
・1943年(昭和18) 鉄道の組織改組で資材局動力車課長となる
・1945年(昭和20) 三男を猩紅熱で亡くす
・1946年(昭和21) 父・安次郎が亡くなり、電車用動力台車設計研究会(のち高速台車振動研究会と改称)を発足させ、基礎研究を開始する
・1948年(昭和23) 国有鉄道理事工作局長に就任する
・1949年(昭和24) 80系電車を開発する
・1950年(昭和25) 16両の長大編成を組んだ80系電車による電車列車「湘南電車」の運行を実現する
・1951年(昭和26) 桜木町事故をきっかけに設計主任を辞任し、加賀山之雄総裁と共に国鉄を退職、新扶桑金属工業(のち住友金属工業)顧問となる
・1953年(昭和28) 鉄道友の会初代会長となる(1955年まで)。
・1955年(昭和30) 十河国鉄総裁に請われ、理事・技師長として国鉄に復帰する
・1956年(昭和31) 産業計画会議常任委員(委員長・松永安左エ門)に就任する
・1958年(昭和33) 産業計画会議が、国鉄分割民営化を政府に勧告、島秀雄が常任委員であったことから物議を醸す
・1960年(昭和35) 毎日工業技術賞を受賞する
・1963年(昭和38) 新幹線の開業が見通せたとき、予算超過の責任をとる形で国鉄を退職、住友金属工業顧問となり、鉄道友の会会長に再就任(1970年まで)する
・1964年(昭和39) 計画に携わった東海道新幹線が開業する
・1965年(昭和40) 朝日賞を受賞する
・1966年(昭和41) エルマー・A・スペリー賞(en:Elmer A. Sperry Award)を受賞する
・1969年(昭和44) 宇宙開発事業団の初代理事長に就任、ジェイムズ・ワット国際メダル受賞、文化功労者として顕彰される
・1971年(昭和46) 勲一等瑞宝章を受章する
・1979年(昭和52) 宇宙開発事業団理事長を辞める
・1994年(平成6) 鉄道関係者として初めて文化勲章を受章する
・1998年(平成10)3月18日 東京において、96歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

626年(推古天皇34)古代の大臣・中央豪族蘇我馬子の命日(新暦6月19日)詳細
1875年(明治8)フランスのパリで、「メートル条約」が締結される詳細
1886年(明治19)洋画家・紙絵作家高村(旧姓長沼)智恵子の誕生日詳細
1933年(昭和8)大阪市営地下鉄1号線(現在の大阪メトロ御堂筋線)の梅田~心斎橋間が開業する詳細
1942年(昭和17)東条英機首相の提唱により翼賛政治会が結成され、初代総裁に阿部信行(元首相)が就任する詳細
1978年(昭和53)千葉県成田市に新東京国際空港(現在の成田国際空港)が開港する詳細
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