ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 武人

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 今日は、鎌倉時代の1183年(文治5)に、源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川の館を襲い(衣川合戦)、源義経が自害した日(閏)ですが、新暦では6月15日となります。
 源義経(みなもと の よしつね)は、平安時代末期の源平合戦で大きな戦功をあげた武将でした。1159年(平治元)に、河内源氏の源義朝の九男(母は常盤)として生まれましたが、幼名は牛若丸と言います。
 同年12月に平治の乱が起き、戦いに敗れた父・義朝は、翌年敗死しました。平氏に捕えられ京の鞍馬寺に入れられましたが、1174年(承安4)頃ひそかに奥州平泉の藤原秀衡の下に赴いて庇護を受けます。
 1180年(治承4)に兄の源頼朝が挙兵すると、平泉を出奔して駆けつけ、黄瀬川で頼朝との対面を果たしました。1183年(寿永2)に頼朝の代官として京へ向かい、翌年には源義仲を討って入京します。
 1184年(元暦元)に平氏との一ノ谷の戦いに勝利し、平氏追討と畿内近国の行政・軍政を担うことになりました。1185年(文治元年2月)の屋島の戦いを制し、同年3月には壇ノ浦の戦いでも勝利して、平氏を滅亡へと追い込みます。
 同年4月に京へ凱旋し、翌月平宗盛親子を鎌倉へ護送した折に、頼朝に鎌倉入りを拒否され、6月に京へと戻りました。後白河法皇には信任を得たものの、頼朝と不和になり、反逆を企てて失敗して京を逃れますが、頼朝は守護、地頭を設置して厳しくこれを追捕させます。
 奥州平泉へと逃れましたが、1187年(文治5)の秀衡の死後、その跡を継いだ泰衡に、1189年(文治5年閏4月30日)、衣川の館を急襲され、数え年31歳で自刃したとされてきました。後に、悲劇の英雄として伝説化され、文学作品の素材ともなっています。

〇源義経関係略年表(日付は旧暦です)

・1159年(平治元年12月) 源義朝の九男(母は常盤)として生まれる
・1160年(平治2年) 父・源義朝が敗死する
・1162年(応保2年)頃 母・常盤が一条長成と再婚する
・1169年(嘉応元年)頃、鞍馬寺で稚児となる
・1174年(承安4年) 鞍馬寺を出奔して金売吉次の案内で奥州平泉へ下る
・1180年(治承4年8月) 兄・頼朝が挙兵したので、平泉を出奔して駆けつけ、黄瀬川で頼朝と対面する
・1183年(寿永2年11月) 頼朝代官として上洛へと向かう
・1184年(元暦元年) 源義仲を討って入京、平氏との一ノ谷の戦いに勝利し、平氏追討と畿内近国の行政・軍政を担う
・1185年(文治元年) 屋島の戦いを制し、壇ノ浦の戦いでも勝利して、平氏を滅亡へと追い込み京へ凱旋したものの、翌月平宗盛親子を鎌倉へ護送した折に、頼朝に鎌倉入りを拒否され、京へと戻り、後白河法皇には信任を得たものの、頼朝と不和になり、反逆を企てて失敗して京を逃れますが、頼朝は守護、地頭を設置して厳しくこれを追捕させる
・1187年(文治3年) 奥州平泉へ落ち延びるものの、庇護者藤原秀衡が亡くなる
・1189年(文治5年閏4月30日) 藤原泰衡が衣川の館を襲い(衣川合戦)、数え年31歳で自害する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1358年(正平13)室町幕府初代将軍足利尊氏の命日(新暦6月7日)詳細
1886年(明治19)秋田県で秋田大火(俵屋火事)が起き、死者17名、負傷者186名、焼失戸数3,554戸を出す詳細
1926年(大正15)小説家河野多惠子の誕生日詳細
1942年(昭和17)第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)の投票で、翼賛政治体制協議会推薦者が381議席を占める詳細
1950年(昭和25)「図書館法」が公布される(図書館記念日)詳細
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 今日は、南北朝時代の明徳2/元中8年に、武将・守護大名(丹波・和泉・山城・但馬)の山名氏清が明徳の乱の内野の合戦に敗れて、戦死した日ですが、新暦では1392年1月24日となります。
 山名氏清(やまな うじきよ)は、1344年(康永3/興国5)に、守護大名山名時氏の四男として生まれました。1371年(建徳2/応安4)に、父・山名時氏が没し、長兄・師義が惣領となりましたが、分国のうち丹波を継承します。
 1376年(天授2/永和2)に、長兄・師義が死去したのち、家督は弟・時義が継承し、不満を持ちますが、翌年には侍所頭人に任じられました。1378年(天授4/永和4)に、次兄・義理と共に紀伊国の橋本正督討伐を成し遂げ、和泉守護にも任命されます。1382年(永徳2/弘和2)に、南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させ、1385年(至徳2/元中2)には、新たに設置された山城守護職に就任しました。
 1388年(元中5/嘉慶2)に、紀州遊覧から帰京中の足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で迎え撃って勝利(平尾合戦)します。1389年(元中6/康応元)に、弟・時義が死去しその後を時義の子・時熙が継いだものの、1390年(元中7/康応2)に、叔父満幸と共に、同族の時義の子時煕・氏幸兄弟を討って但馬を分国に加えられ、丹波・和泉・山城・但馬の4ヶ国守護職となり、家督にも就きました。
 1391年(元中8/明徳2)に、次兄・義理、甥の氏家(兄・氏冬の子)らと共に挙兵し、室町幕府側と対峙し、明徳の乱が始まります。しかし、1392年1月24日(明徳2/元中8年12月30日)に、京都の内野の合戦で大内義弘らの幕府軍と戦って敗れ、数え年48歳で戦死しました。
 これによって、山名氏の勢力は一挙に衰退することとなります。

〇山名氏清関係略年表(日付は旧暦です)

・1344年(康永3年/興国5年) 守護大名山名時氏の四男として生まれる
・1370年(建徳元年/応安3年) 父・山名時氏は長兄・師義に家督を譲る
・1371年(建徳2年/応安4年) 父・山名時氏が没し、長兄・師義が惣領となりましたが、分国のうち丹波を継承する
・1376年(天授2年/永和2年) 長兄・師義が死去したのち、家督は弟・時義が継承する
・1377年(天授3年/永和3年) 侍所頭人に任じられる
・1378年(天授4年/永和4年) 次兄・義理と共に紀伊国の橋本正督討伐を成し遂げ和泉守護にも任命される
・1382年(永徳2年/弘和2年閏1月) 南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させる
・1385年(至徳2年/元中2年12月) 新たに設置された山城守護職に就任する
・1388年(元中5年/嘉慶2年8月17日) 紀州遊覧から帰京中の足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で迎え撃って勝利する(平尾合戦)
・1389年(元中6年/康応元年) 弟・時義が死去しその後を時義の子・時熙が継ぐ
・1390年(元中7年/康応2年3月) 氏清・満幸の叔父甥に命じて、同族の時義の子時煕・氏幸兄弟を討たせ、氏清は但馬を分国に加えられて家督となる
・1391年(元中8年/明徳2年) 次兄・義理、甥の氏家(兄・氏冬の子)らと共に挙兵し、明徳の乱が始まる
・1392年1月24日(明徳2/元中8年12月30日) 明徳の乱における京都の内野の合戦で大内義弘らの幕軍と戦って敗れ、数え年48歳で戦死する

☆明徳の乱(めいとくのらん)とは?

 南北朝時代の1392年1月13日(元中8/明徳2年12月19日)に山名氏(山名氏清、山名満幸等)が室町幕府に対して起こした反乱です。
 山名氏は、この頃一族で11か国の守護職をして勢力を振るい、六分一殿と呼ばれていて、室町幕府3代将軍足利義満はその勢力を抑えるため、山名氏の内紛に乗じて、山名満幸を丹波に追放しました。しかし、満幸は妻の父氏清と結び、山陰の兵を率いて挙兵することになります。それに対し、室町幕府側は大内・細川・畠山らの兵を集めて戦い、山名氏清を敗死させ、満幸を敗走させます。
 これによって、山名氏の勢力は衰退することになり、翌年10月27日の足利義満による南北朝の合一(明徳の和約)の実現へと向かい、室町幕府の将軍の権威が確立します。 

☆南北朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元年1月) 建武の新政が行われる
・1335年(建武2年7月) 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2年10月) 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(建武2年12月11日) 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都が占領される
・1336年(延元元/建武3年8月) 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1336年(延元元/建武3年11月) 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1337年(延元元/建武3年12月) 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4年3月) 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ヶ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年5月) 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる
・1338年(延元3/暦応元年8月) 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2年8月16日) 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2年) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4年1月) 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5年9月) 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元年10月) 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1351年(正平6/観応2年8月) 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統)
・1352年(正平7/観応3年2月) 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・1352年(正平7/観応3年2月26日) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3年7月) 観応半済令が出される
・1353年(正平8/観応4年6月) 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1355年(正平10/観応6年1月) 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1356年(正平11/延文元年8月23日) 足利義詮が従三位に昇叙する
・1358年(正平13/延文3年4月) 足利尊氏が亡くなる
・1359年(正平13/延文3年12月18日) 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる 
・1361年(正平16/延文6年) 細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・1361年(正平16/康安元年) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2年) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1362年(正平17/貞治元年7月) 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される
・1363年(正平18/貞治2年) 大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめる
・1363年(正平18/貞治2年1月28日) 足利義詮が権大納言に転任する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一する
・1363年(正平18/貞治2年7月29日) 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元
・1365年(正平20/貞治4年2月) 三条坊門万里小路の新邸に移る
・1366年(正平21/貞治5年8月) 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)
・1367年(正平22/貞治6年1月5日) 足利義詮が正二位に昇叙する
・1367年(正平22/貞治6年11月) 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1367年(正平22/貞治6年12月7日) 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる
・1368年(正平23/応安元年3月11日) 南朝の後村上天皇が亡くなる 
・1368年(正平23/応安元年6月17日) 「応安半済令」が出される
・1369年(正平23/応安元年12月30日) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4年)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1372年(応安5/建徳3年) 足利義満が判始の式を行なう
・1378年(天授4/永和4年) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元年閏4月14日) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2年1月26日) 足利義満が左大臣となる
・1382年(弘和2年/永徳2年閏1月) 山名氏清が南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させる
・1382年(弘和2/永徳2年) 足利義満が開基として相国寺の建立を開始する
・1383年(弘和3/永徳3年1月14日) 足利義満が准三后宣下を受ける
・1386年(元中3/至徳3年) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1388年(元中5/嘉慶2年) 足利義満が東国の景勝遊覧に出かける
・1390年(元中7/明徳元年閏3月) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2年12月) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される
・1392年(元中9/明徳3年10月27日) 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)小説家・評論家斎藤緑雨の誕生日(新暦1868年1月24日)詳細
1881年(明治14)画家・歌人・随筆家小杉放庵の誕生日詳細
1927年(昭和2)上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が開通(地下鉄記念日)詳細
1930年(昭和5)小説家開高健の誕生日詳細
1952年(昭和27)作曲家中山晋平の命日詳細
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 今日は、江戸時代前期の1680年(延宝8)に、江戸幕府の第4代将軍徳川家綱が亡くなった日ですが、新暦では6月4日となります。
 徳川家綱(とくがわ いえつな)は、1641年(寛永18年8月3日)に、江戸城本丸において、第3代将軍徳川家光の長男(母は於楽之方増山氏)として生まれましたが、幼名は竹千代と言いました。1644年(正保元)に名を家綱と改め、翌年には、元服し、従三位権大納言となっています。
 1650年(慶安3)に世子となって西の丸へ移りましたが、翌年4月20日には、父・家光が48歳で亡くなり、数え年11歳にして、家督を継ぐこととなりました。その直後の7月に、慶安事変(由井正雪の乱)が起こりますが、年少で病弱だったため叔父の保科正之や松平信綱らが補佐して難局を乗り切り、外様大名に配慮して、末期養子の禁を緩和しています。
 同年10月2日に、江戸城において将軍宣下を受けて、第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられ、12月には、本丸へ移りました。1657年(明暦3)に江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出したものの、これを契機に江戸の都市改造を行ない、御三家の屋敷を江戸城外に転出させるとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社を移転させています。
 1659年(万治2)に左大臣に任じられるのを辞退し、1663年(寛文3年)には、父・家光の13回忌にあたって日光へ社参しました。1664年(寛文4)に1万石以上の大名に対する領知朱印状を公布、翌年には、公家や寺社を対象とした領知目録を交付(寛文印知)、諸藩にも宗門改帳の作成を命じています。
 1666年(寛文6)に酒井忠清が大老に就任して実権を握り、翌年には、諸国巡見使の制を導入しました。1670年(寛文10)に箱根用水がつくられ、1671年(寛文11)には、河村瑞賢に命じて東回り航路、翌年には西回り航路をひらかせ、1673年(寛文13)には、「分地制限令」を制定しています。
 しかし、1680年(延宝8年5月初旬)に病に倒れて危篤状態に陥いり、末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、5月8日には、江戸城本丸において、数え年40歳で亡くなり、東叡山寛永寺に葬られました。

〇徳川家綱関係略年表(日付は旧暦です)

・1641年(寛永18年8月3日) 江戸城本丸において、第3代将軍徳川家光の長男(母は於楽之方(宝樹院)増山氏)として生まれる
・1644年(正保元年12月) 名を家綱と改める
・1645年(正保2年4月) 元服し、従三位権大納言となる
・1650年(慶安3年9月) 世子となって西の丸へ移る
・1651年(慶安4年4月20日) 父・家光が48歳で亡くなる
・1651年(慶安4年7月) 慶安事変(由井正雪の乱)が起こる
・1651年(慶安4年7月) 末期養子の禁を緩和する
・1651年(慶安4年10月2日) 江戸城において将軍宣下を受けて、第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられる
・1651年(慶安4年12月) 本丸へ移る
・1657年(明暦3年1月18日) 江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出す 
・1659年(万治2年4月) 左大臣に任じられるのを辞退する
・1663年(寛文3年) 父・家光の13回忌にあたって日光へ社参する
・1663年(寛文3年) 武家諸法度(寛文令)の口上で殉死を禁じる 
・1664年(寛文4年) 1万石以上の大名に対する領知朱印状を公布する
・1665年(寛文5年) 公家や寺社を対象とした領知目録を交付す(寛文印知)
・1665年(寛文5年) 諸藩にも宗門改帳の作成を命じる
・1666年(寛文6年) 酒井忠清が大老に就任する
・1667年(寛文7年閏2月18日) 諸国巡見使の制を導入する
・1670年(寛文10年) 箱根用水がつくられる 
・1671年(寛文11年) 河村瑞賢に命じて東回り航路をひらく 
・1672年(寛文12年) 河村瑞賢に命じて西回り航路をひらく 
・1673年(寛文13年6月) 分地制限令が制定される
・1680年(延宝8年5月初旬) 病に倒れ、危篤状態に陥る
・1680年(延宝8年5月8日) 江戸城本丸において、数え年40歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

840年(承和7)第53代の天皇とされる淳和天皇の命日(新暦6月11日)詳細
1911年(明治44)文部省編『尋常小学唱歌』第1学年用(20曲)が発行される詳細
1950年(昭和25)詩人・歌人・文芸評論家相馬御風の命日詳細
1955年(昭和30)東京都砂川町(現立川市)で米軍立川基地拡張反対総決起集会が開かれ砂川闘争が始まる詳細
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 今日は、南北朝時代の1392年(元中9/明徳3)に、武将・守護大名・室町幕府管領細川頼之の亡くなった日ですが、新暦では3月25日となります。
 細川頼之(ほそかわ よりゆき)は、鎌倉時代末期の1329年(元徳元)に、三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)で、阿波守護・侍所頭人だった父・細川頼春と母・黒沢禅尼の息子として生まれましたが、幼名は弥九郎と言いました。父・頼春は、元弘の変より足利尊氏に従い、鎌倉幕府を倒すのに貢献し、建武政権では蔵人となります。
 1350年(正平5/観応元)から翌年にかけて、父の名代として阿波に派遣され、南朝方と戦いました。1352年(正平7/文和元)に、父・頼春が京都で討ち死にすると阿波守護を継承し、1354年(正平9/文和3)には、伊予守護も兼ねます。
 1356年(正平11/延文元)に中国管領となって足利直冬党を追討、1358年(正平13/延文3)に足利尊氏がなくなって、義詮が第2代将軍となり、従兄細川清氏が執事に就任しました。しかし、1362年(正平17/貞治元)に、幕命により従兄の前幕府執事細川清氏を讃岐に討ち取り、一族の分立を淘汰して讃岐・土佐守護を兼ねます。
 1367年(正平22/貞治6)に第2代将軍義詮の遺命により、幕府の管領となって幼少の第3代将軍義満を助けることとなり、翌年には公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安大法)を施行しました。1369年(正平24/応安2)に、楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功、翌年には、今川貞世が九州探題に任じて懐良親王(後醍醐天皇の皇子)の軍勢を駆逐し、南朝勢力に大打撃を与えます。
 ところが、斯波義将らの諸大名の反発を招き、1379年(天授5/康暦元)に失脚し、剃髪して四国に下り(康暦の政変)、1381年(弘和元/永徳元)には、通堯の遺児通義と和睦し、分国統治を進めました。1389年(元中6/康応元)に第3代将軍義満の厳島神社参詣の折には、船舶の提供を手配し、讃岐の宇多津で赦免され、翌年には、備後守護となって山名時煕の反乱を討ちます。
 1391年(元中8/明徳2)に斯波義将が義満と対立して管領を辞任したことを機に、管領に就任した細川頼元を後見してふたたび幕政に参画、明徳の乱の鎮定に殊功を収めたものの、1392年(元中9/明徳3年3月2日)には、病気によって数え年64歳で亡くなりました。尚、歌や連歌の素養もあり、『新千載和歌集』他に13首が掲載されていますし、失脚して四国に落ちていく際に詠んだ漢詩「海南行」も有名です。

〇「海南行」(かいなんこう)

<原文>
 人生五十愧無功
 花木春過夏已中
 満室蒼蝿掃難尽
 去尋禅榻臥清風

<書き下し文>
 人生五十功無きを愧(は)ず
 花木(かぼく)春過ぎて夏已(すで)に中ばなり
 満室の蒼蝿(そうよう)掃(はら)えども去り難し
 起って禅榻(ぜんとう)を尋ねて清風に臥(が)せん

<現代語訳>
 人生50にもなって、何の功績もないのが恥ずかしい。
 花や木は、春が過ぎ去り、夏は既に半ばになっている。
 部屋中に青蠅が飛び交っており、いくら追い払っても逃げ去らない。
 座禅に使う腰掛をもってきて、清らかな風の吹くところで寝転がろうか。

〇『太平記』巻第四十 

細河右馬頭自西国上洛事

爰に細河右馬頭頼之、其比西国の成敗を司て、敵を亡し人をなつけ、諸事の沙汰の途轍、少し先代貞永・貞応の旧規に相似たりと聞へける間、則天下の管領職に令居、御幼稚の若君を可奉輔佐と、群議同赴に定りしかば、右馬頭頼之を武蔵守に補任して、執事職を司る。外相内徳げにも人の云に不違しかば、氏族も是を重んじ、外様も彼命を不背して、中夏無為の代に成て、目出かりし事共也。

☆細川頼之関係略年表(日付は旧暦です)

・1329年(元徳元年) 三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)で、父・細川頼春と母・黒沢禅尼の息子として生まれる
・1350年(正平5/観応元年) 父の名代として阿波にある南朝方と戦う
・1352年(正平7/文和元年) 父・頼春が京都で討ち死にすると阿波守護を継ぐ
・1354年(正平9/文和3年) 伊予守護を兼ねる
・1356年(正平11/延文元年) 中国管領となって足利直冬党を追討する
・1358年(正平13/延文3年) 足利尊氏がなくなって、義詮が第2代将軍となり、従兄細川清氏が執事に就任する
・1362年(正平17/貞治元年) 従兄の前幕府執事細川清氏を幕命により讃岐に討ち取り、一族の分立を淘汰して讃岐・土佐守護を兼ねる
・1367年(正平22/貞治6年) 室町幕府第2代将軍義詮の遺命により、幕府の管領となって幼少の将軍義満を助ける
・1368年(正平23/応安元年) 公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安大法)を施行、武蔵守となる
・1369年(正平24/応安2年) 楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功する
・1370年(建徳元/応安3年) 今川貞世が九州探題に任じて懐良親王(後醍醐天皇の皇子)の軍勢を駆逐する
・1371年(建徳2/応安4年) 相模守となる
・1379年(天授5/康暦元年) 失脚し、剃髪して四国に下る(康暦の政変)
・1381年(弘和元/永徳元年) 通堯の遺児通義と和睦し、分国統治を進める
・1389年(元中6/康応元年) 義満の厳島神社参詣の折には船舶の提供を手配し、讃岐の宇多津で赦免される
・1390年(元中7/明徳元年) 備後守護となって山名時煕の反乱を討つ
・1391年(元中8/明徳2年) 斯波義将が義満と対立して管領を辞任したことを機に、管領に就任した細川頼元を後見してふたたび幕政に参画し、明徳の乱の鎮定に殊功を収める
・1392年(元中9/明徳3年3月2日) 病気によって数え年64歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、南北朝時代の1386年(至徳3/元中3)に、室町幕府第4代将軍足利義持が生まれた日ですが、新暦では3月12日となります。
 足利義持(あしかが よしもち)は、京都において、第3代将軍の父・足利義満の子(母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子)として生まれました。1394年(応永元)に9歳で元服し、第4代将軍となり、正五位下に叙されたものの、実権は父・義満が握り続けます。
 1395年(応永2)に従四位、1396年に正四位下へ昇叙し、参議となり、1397年(応永4)に従三位に昇叙、権中納言となり、1400年(応永7)には幕府評定始に出るようになりました。さらに、1402年(応永9)に正二位から従一位に昇叙、1406年(応永13)には、権大納言兼右大将に上ります。
 1408年(応永15年5月6日)に父・足利義満が亡くなると、管領斯波義将らの支持を得てその地位を保全し、朝廷が太上法皇(太上天皇)の尊号を与えようとしましたがそれを拒否しました。1409年(応永16)に内大臣となり、北山第から新築成った三条坊門第に移り、1411年(応永18)には、明と国交を断絶し、冊封関係も消滅させ、独自の政策を進めます。
 1416年(応永23)に関東に起った上杉禅秀の乱に参画した弟義嗣を1418年(応永25)に殺害しました。1423年(応永30)に鎌倉公方の足利持氏を制圧、子義量(よしかず)に将軍職を譲って、等持院で出家します。
 1425年(応永32)に義量が19歳で急死すると、再び政務をとるようになりましたが、1428年(正長元年1月18日)に京都において、数え年43歳で亡くなり、太政大臣を追贈されました。

〇足利義持関係略年表(日付は旧暦です)

・1386年(至徳3/元中3年2月12日) 京都において、第3代将軍の父・足利義満の子(母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子)として生まれる
・1394年(応永元年12月17日) 9歳で元服し、左近衛中将に任官、併せて征夷大将軍宣下、正五位下に叙される
・1395年(応永2年6月3日) 従四位に昇叙する
・1396年(応永3年4月20日) 正四位下に昇叙する 
・1396年(応永3年9月12日) 参議となる
・1397年(応永4年1月5日) 従三位に昇叙する
・1397年(応永4年3月29日) 権中納言となる
・1398年(応永5年1月5日) 正三位に昇叙する
・1400年(応永7年1月5日) 従二位に昇叙する
・1400年(応永7年1月11日) 幕府評定始に出る
・1401年(応永8年3月24日) 権大納言に転任する
・1402年(応永9年1月6日) 正二位に昇叙する
・1402年(応永9年11月19日) 従一位に昇叙する
・1406年(応永13年8月17日) 権大納言兼右近衛大将に上る
・1407年(応永14年1月5日) 右馬寮御監を兼務する
・1408年(応永15年5月6日) 父・足利義満が亡くなる
・1408年(応永15年5月9日) 朝廷が義満に太上法皇(太上天皇)の尊号を与えようとしたが、拒否する
・1409年(応永16年3月23日) 内大臣に転任する
・1409年(応永16年10月) 北山第から新築成った三条坊門第に移る
・1411年(応永18年) 明と国交を断絶し、冊封関係も消滅する
・1411年(応永18年7月) 飛騨国司の姉小路尹綱が反乱を起こして同国守護の佐々木高光に討たれる
・1412年(応永19年) 北朝の称光天皇を擁立する
・1412年(応永19年5月) 右近衛大将を辞任する
・1413年(応永20年10月22日) 淳和奨学両院別当を兼務する
・1414年(応永21年6月8日) 宿老・斯波義将の甥・斯波満種が不興を買い、加賀守護職を召し上げられて高野山に隠退する
・1414年(応永21年11月29日) 細川宮内少輔が東大寺の所領を横領したとして自害させられる
・1415年(応永22年) 河内で楠木氏が反乱を起こす
・1416年(応永23年10月) 関東で上杉禅秀の乱が起こる
・1417年(応永24年) 土岐持頼が義嗣に与力したとして所領数か所が召し上げられる
・1418年(応永25年1月24日) 義嗣が義持の密命を受けた富樫満成に殺害される
・1419年(応永26年8月29日) 内大臣を辞任する
・1423年(応永30年) 鎌倉公方の足利持氏を制圧する
・1423年(応永30年3月18日) 将軍職を義量(よしかず)に譲る
・1423年(応永30年4月25日) 等持院で出家する
・1425年(応永32年2月27日) 義量が19歳で急死すると再び政務をとる
・1428年(正長元年1月18日) 京都において、数え年43歳で亡くなり、太政大臣を追贈される

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