ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 学者

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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、東洋史学者山本達郎が生まれた日です。
 山本達郎(やまもと たつろう)は、東京において、貴族院議員・参議院議員となった父・松村真一郎はの子として生まれましたが、日本銀行総裁などを歴任した祖父の山本達雄の養子となり改姓しました。1933年(昭和8)に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業し、翌年には、東方文化学院助手となり、「鄭和の西征」で中国艦隊のインド洋遠征の実態を解明し国際的評価を受けます。
 1942年(昭和17)に、東京帝国大学文学部助教授となり、1949年(昭和24)には、文学部東洋史学科教授(南方史講座)に昇任し、毎日学術奨励金を受けました。1951年(昭和26)に東京大学より文学博士の学位を取得、翌年には、「安南史研究」で、日本学士院賞を受賞します。
 1953年(昭和28)から東洋文庫の評議員・理事を歴任し、近代中国研究委員会(現在の東洋文庫 近代中国研究班)を発足させました。1966年(昭和41)に東京大学文学部長となり、翌年には、学士院会員となっています。
 1971年(昭和46)に東京大学を定年退官し、翌年には、国際基督教大学教授となり、イェール大学客員教授、コーネル大学客員教授も務めました。1975年(昭和50)に国際哲学人文科学協議会会長となり、1986年(昭和61)に文化功労者、1998年(平成10)には、文化勲章を受章しています。
 東南アジア史研究の先駆者として知られ、国際学術交流にも努めましたが、2001年(平成13)1月24日に、東京において、心不全により90歳で亡くなりました。

〇山本達郎の主要な著作

・『印度支那諸民族に関する民族学的研究の現状』帝国学士院(1942年)
・『世界史概観』東京大学文学部内史学会編:村川堅太郎・林健太郎共著、山川出版社(1949年)
・『安南史研究』山川出版社(1950年) 
・『世界史』 村川堅太郎・江上波夫・林健太郎共著、山川出版社(1952年)
・『歴史の見方』三省堂〈社会科歴史文庫〉(1957年)

☆山本達郎関係略年表

・1910年(明治43)6月16日 東京において、貴族院議員・参議院議員となった父・松村真一郎はの子として生まれる
・1933年(昭和8) 東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業する
・1934年(昭和9) 東方文化学院助手となり、「鄭和の西征」で中国艦隊のインド洋遠征の実態を解明し国際的評価を受ける
・1942年(昭和17) 東京帝国大学文学部助教授となる
・1949年(昭和24) 東京大学文学部東洋史学科教授(南方史講座)に昇任し、毎日学術奨励金を受ける
・1951年(昭和26) 東京大学より文学博士の学位を取得する
・1952年(昭和27) 「安南史研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1953年(昭和28) 東洋文庫の評議員となる
・1966年(昭和41) 東京大学文学部長となる
・1967年(昭和42) 学士院会員となる
・1971年(昭和46) 東京大学を定年退官する
・1972年(昭和47) 国際基督教大学教授となる
・1975年(昭和50) 国際哲学人文科学協議会会長となる
・1986年(昭和61) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 文化勲章を受章する
・2001年(平成13)1月24日 東京において、心不全により90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1699年(元禄12)商人・海運と治水の功労者河村瑞賢の命日(新暦7月12日)詳細
1884年(明治17)俳人荻原井泉水の誕生日詳細
1939年(昭和14)国民精神総動員委員会がネオン抑制、パーマネント廃止等の生活刷新案を発表詳細
1943年(昭和18)「工場法戦時特例」公布・施行、「工場就業時間制限令」廃止で、労働時間制限撤廃等を許可する詳細
1961年(昭和36)「スポーツ振興法」が公布(施行は同年9月15日)される詳細
1964年(昭和39)新潟地震(M7.5)が起こり、死者26人、負傷者447人を出す詳細
1972年(昭和47)国連人間環境会議で「人間環境宣言」が採択される詳細
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 今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、地球物理学者・航空学者・貴族院議員田中舘愛橘が亡くなった日です。
 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、江戸時代後期の1856年(安政3年9月18日)に、陸奥国二戸郡福岡村(現在の岩手県二戸市福岡)において、南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と母・喜勢(きせ・旧姓 小保内)の長男として生まれました。1862年(文久2)の6歳の時、母・喜勢を亡くし、1865年(慶応元)に下斗米軍七の武芸「実用流」に入門、翌年に福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学びます。
 1870年(明治3)に盛岡藩校修文所入学、和漢の学問を修め、1872年(明治5)には、一家で東京へ移住し、慶應義塾英語学校に入学しました。1876年(明治9)に東京開成学校へ入学、1878年(明治11)に東京大学理学部本科へ入学し、1882年(明治15)に卒業後、同校の準助教授となります。
 1888年(明治21)にイギリスのグラスゴー大学に留学、1890年(明治23)にドイツのベルリン大学へ転学し、1891年(明治24)に帰国後、帝国大学理科大学教授(理学博士)となり、同年10月28日に発生した濃尾大地震の調査で根尾谷大断層を発見しました。1894年(明治27)に万国測地協会委員、1902年(明治35)に勲四等旭日小綬章受章、1906年(明治39)に帝国学士院会員となり、勲二等旭日重光章を受章、1907年(明治40)には、万国度量衡会議常任委員となります。
 1910年(明治43)に航空事業視察のためヨーロッパへ派遣され、所沢飛行場建設に関わり、1914年(大正3)には、文部省測地学委員会委員長となりました。1916年(大正5)に勲一等瑞宝章を受章、帝国大学教授在職25年祝賀会の日に辞表を提出し、翌年に名誉教授となり、万国度量衡会議に出席します。
 1918年(大正7)に国際学術研究会議のため欧州各国へ出張、東京帝国大学航空研究所を創立し、顧問となり、1919年(大正8)には、地磁気・空中電気国際会議に出席し会長となりました。1921年(大正10)に小石川区雑司ヶ谷町へ転居、日本ローマ字会を創立、航空評議会評議員となり、1925年(大正14)には、文部省学術研究会議副議長、貴族院議員となります。
 1928年(昭和3)に航空事業に対しフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章、1930年(昭和5)には、文部省臨時ローマ字調査委員会委員となりました。1932年(昭和7)に貴族院議員に再選され、1933年(昭和8)の御講書始めに「航空発達史の概要」を御進講、1939年(昭和14)には、中央航空研究所施設委員会委員となり、貴族院議員に3選されます。
 1940年(昭和15)に帝国学士院第二部部長となり、1944年(昭和19)に文化勲章を受章し、朝日文化賞を受賞、1945年(昭和20)には、空襲の激化により、故郷の福岡町に疎開しました。太平洋戦争後の1948年(昭和23)に自著『時は移る』を発行(ローマ字、漢字かな書き併記)、1950年(昭和25)に日本物理学会名誉会員、1951年(昭和26)に福岡町名誉町民となったものの、1952年(昭和27年)5月21日に、東京の経堂の自宅において、95歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されています。
 尚、1999年(平成11)には、故郷の岩手県二戸市に「田中舘愛橘記念科学館」がオープンしました。

〇田中舘愛橘の主要な著作

・『電気ニ就テノ演説』(1899年)
・『航空機講話』(1915年)
・『羅馬字意見及び発音考』(1926年)
・『メートル法の歴史と現在の問題』(1934年)
・『ローマ字綴り方の外交及び国際関係の事項概要』(1936年)
・随筆・論文集『葛の根 田中館愛橘論文抜集』(1938年)
・『時は移る』(1948年)
・『田中館愛橘遺墨集』(1992年)
・『田中館愛橘博士歌集 地球を翔けた心の歌』(1997年)
・『献詠和歌集 田中舘愛橘博士墓前祭 昭和27年~平成18年』(2007年)

☆田中舘愛橘関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1856年(安政3年9月18日) 陸奥国二戸郡福岡村(現在の二戸市福岡)において、南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と母・喜勢(きせ・旧姓 小保内)の長男として生まれる
・1861年(文久元年) 母キセから文字の手習い、伯父小保内定身より和漢の書を学ぶ
・1862年(文久2年) 母・喜勢が病没する
・1865年(慶応元年) 下斗米軍七の武芸「実用流」に入門する
・1866年(慶応2年) 福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学ぶ
・1870年(明治3年) 盛岡藩校修文所入学、和漢の学問を修める  
・1872年(明治5年) 一家で東京へ移住、慶應義塾英語学校に入学する
・1876年(明治9年) 東京開成学校入学する
・1878年(明治11年) 東京大学理学部本科入学する
・1880年(明治13年) メンデンホールの指導の下で、東京や富士山の重力測定をする
・1882年(明治15年) 東京大学を卒業し、準助教授となる  
・1883年(明治16年) 東京大学助教授となる
・1888年(明治21年) イギリスのグラスゴー大学に留学する
・1890年(明治23年) ドイツのベルリン大学へ転学する
・1891年(明治24年) 帰国し帝国大学理科大学教授(理学博士)となり、濃尾大地震の調査で根尾谷大断層を発見する
・1893年(明治26年) 本宿キヨ子と結婚する  
・1894年(明治27年) 長女美稲誕生、産後の病により夫人が亡くなり、万国測地協会委員となる
・1898年(明治31年) 万国測地学協会総会に出席する
・1902年(明治35年) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1904年(明治37年) 日露戦争、陸軍の気球の研究に従事する
・1906年(明治39年) 帝国学士院会員となり、勲二等旭日重光章を受章  
・1907年(明治40年) 万国度量衡会議常任委員となる
・1909年(明治42年) 臨時軍用気球研究会委員となる
・1910年(明治43年) 航空事業視察のためヨーロッパへ派遣、所沢飛行場建設に関わる
・1914年(大正3年) 文部省測地学委員会委員長となる
・1915年(大正4年) 貴族院有志に航空機の発達及び研究状況を講演『航空機講話』を発行する
・1916年(大正5年) 勲一等瑞宝章を受章、帝国大学教授在職25年祝賀会の日に辞表を提出する  
・1917年(大正6年) 東京帝国大学名誉教授となり、万国度量衡会議に出席する
・1918年(大正7年) 国際学術研究会議のため欧州各国へ出張、東京帝国大学航空研究所を創立し、顧問となる
・1919年(大正8年) 地磁気・空中電気国際会議に出席し会長となる
・1920年(大正9年) 東京帝国大学航空研究所嘱託、陸軍省航空機調査研究嘱託、外務省より航空条約事務嘱託、国際連盟協会会議、万国度量衡委員会議、万国学術研究会議出席する
・1921年(大正10年) 小石川区雑司ヶ谷町へ転居、日本ローマ字会を創立、航空評議会評議員となる
・1923年(大正12年) 万国度量衡常置委員会議及び物理学会に出席する
・1924年(大正13年) 測地学・地球物理学国際会議へ出席する
・1925年(大正14年) 文部省学術研究会議副議長、貴族院議員となる
・1926年(大正15年) 故郷の福岡町において古希の祝賀会、震災予防評議会評議員となる、太平洋学術会議副議長となる
・1927年(昭和2年) 国際航空委員会、測地学・地球物理学国際会議、度量衡会議総会へ出席する
・1928年(昭和3年) 航空事業に対しフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章する  
・1929年(昭和4年) 万国度量衡会議、国際航空連盟会議、国際気象学会へ出席する
・1930年(昭和5年) 文部省臨時ローマ字調査委員会委員となる  
・1931年(昭和6年) 万国度量衡常置委員を辞し同名誉委員となる、言語学国際会議へ出席する
・1932年(昭和7年) 貴族院議員に再選される
・1933年(昭和8年) 御講書始めに「航空発達史の概要」を御進講、測地学・地球物理学国際会議へ出席する
・1935年(昭和10年) 天文学会、国際音声学会、議員会議、気象学会、国際航空連盟会議へ出席する
・1938年(昭和13年) 随筆・論文集『葛の根』を発刊、科学振興調査会委員、航空機技術委員会委員となる  
・1939年(昭和14年) 中央航空研究所施設委員会委員となる、貴族院議員に3選される
・1940年(昭和15年) 帝国学士院第二部部長となる
・1944年(昭和19年) 文化勲章を受章し、朝日文化賞を受賞する  
・1945年(昭和20年) 故郷の福岡町に疎開する  
・1948年(昭和23年) 自著『時は移る』を発行(ローマ字、漢字かな書き併記)する
・1950年(昭和25年) 日本物理学会名誉会員となる
・1951年(昭和26年) 福岡町名誉町民となる  
・1952年(昭和27年)5月21日 東京の経堂の自宅において、95歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈される
・1999年(平成11年) 故郷の二戸市に田中舘愛橘記念科学館がオープンする  
・2002年(平成14年) 没後50年記念事業が挙行される
・2015年(平成27年) 二戸市名誉市民となる 
・2016年(平成28年) 田中舘愛橘像が落成し、二戸市のシンボルとなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

二十四節季二十四節季の8番目小満の日です詳細
720年(養老4)舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を完成し撰上する(新暦7月1日)詳細
1281年(弘安4)蒙古軍が対馬に上陸し、第2回元寇(弘安の役)が始まる詳細
1575年(天正3)長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破る(新暦6月29日)詳細
1827年(文政10)頼山陽著『日本外史』22巻が、元老中・松平定信に献呈される(新暦6月15日)詳細
1880年(明治13)三条の大火「糸屋万平火事」で、死者34名、焼失2,743戸を出す詳細
1949年(昭和24)「新宿御苑」が国民公園となり一般に利用が開放される詳細
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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、法医学者・血清学者・人類遺伝学者古畑種基が亡くなった日です。
 古畑種基(ふるはた たねもと)は、明治時代後期の1891年(明治24)6月15日に、三重県南牟婁郡相野谷村(現在の紀宝町)平尾井において、地元の開業医だった父・古畑虎之助、母・志うの次男として生まれました。旧制和歌山県立和歌山中学校(現在の県立桐蔭高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1912年(明治45)に、東京帝国大学医科大学へ入学します。
 1916年(大正5)に卒業後、同校の医学部助手となり、1921年(大正10)に欧米留学に出発、生物学的実験術式を研修し、法医学組織学を専修し、1923年(大正12)には、医学博士となりました。1924年(大正13)に欧米留学から帰国し、金沢医科大学教授兼同大学附属医学専門部教授となり、1934年(昭和9)には、Q式血液型を発見します。
 1936年(昭和11)に東京帝国大学医学部法医学教室主任教授(~1952年)となり、1943年(昭和18)に帝国学士院恩賜賞を受賞、1947年(昭和22)には、日本学士院会員に選出されました。1949年(昭和24)の下山事件で、下山国鉄総裁の死因について(死後轢断、他殺説)を主張して捜査当局と対立、1950年(昭和25)には、中尊寺の金色堂を修復するにあたり、藤原四代の遺体を調査します。
 1952年(昭和27)に東京医科歯科大学教授(~1960年)となり、1954年(昭和29)には、第1回世界人口会議(於:ローマ)に日本代表として出席、「血液型因子の人口に及ぼす遺伝的影響」について発表しました。1956年(昭和31)に法医学研究の業績が認められ、文化勲章を受章、1960年(昭和35)に東京医科歯科大学教授を辞め、科学警察研究所所長となり、1970年(昭和45)には、勲一等瑞宝章を受章しています。
 1971年(昭和46)に脳血栓で倒れ、療養に入りましたが、1975年(昭和50)5月6日に、東京において、83歳で亡くなり、正三位、勲一等旭日大綬章を追贈されました。

〇古畑種基の主要な著作

・『血液型と親子鑑定・指紋学 近代犯罪科学全集 第12篇』(1930年)
・『血液型と其の決定法 臨牀医学講座』(1936年)
・『簡明法医学』(1937年)
・『犯罪と法医学』(1938年)
・『法医学』(1939年)
・『法医学と犯罪捜査』(1939年) 
・『血液型』(1945年)
・『血液型学』(1947年)
・『犯罪と法医学』(1948年)
・『民族と血液型』(1948年)
・『法医学雑記』(1949年)
・『犯罪の科学』(1950年)
・『血と指紋とミイラの話』(1952年)
・『法医学入門』(1953年)
・『法医学の話』(1958年)
・『今だから話そう 法医学秘話』(1959年)
・『法医学ノート』(1959年)
・『血液型の話』(1962年)
・『一本の毛は語る 科学捜査物語』(1963年)
・『遺伝と疾病』(1964年)
・『血液型を考える 法医学のはなし』(1972年)

☆古畑種基関係略年表

・1891年(明治24)6月15日 三重県南牟婁郡相野谷村(現在の紀宝町)平尾井において、地元の開業医だった父・古畑虎之助、母・志うの次男として生まれる
・1897年(明治30) 同町平尾井の明成尋常小学校に入学する
・1900年(明治33) 和歌山市内に転居し、和歌山市広瀬小学校へ転校する
・1904年(明治37) 旧制和歌山県立和歌山中学校(現在の県立桐蔭高等学校)へ入学する
・1909年(明治42) 旧制和歌山県立和歌山中学校(現在の県立桐蔭高等学校)を卒業し、旧制第三高等学校へ入学する
・1912年(明治45) 旧制第三高等学校を卒業し、東京帝国大学医科大学へ入学する
・1916年(大正5) 東京帝国大学医科大学を卒業し、同校の医学部助手となる
・1921年(大正10) 欧米留学に出発する
・1923年(大正12) 医学博士となる
・1924年(大正13) 欧米留学から帰国し、金沢医科大学教授兼同大学附属医学専門部教授となる
・1934年(昭和9) Q式血液型を発見する
・1936年(昭和11) 東京帝国大学医学部法医学教室主任教授(~1952年)となる
・1943年(昭和18) 帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1947年(昭和22) 日本学士院会員に選出される
・1949年(昭和24) 下山事件で、下山国鉄総裁の死因について(死後轢断、他殺説)を主張して捜査当局と対立する
・1950年(昭和25) 中尊寺の金色堂を修復するにあたり、藤原四代の遺体を調査する
・1952年(昭和27) 東京医科歯科大学教授(~1960年)となる
・1954年(昭和29) 第1回世界人口会議(於:ローマ)に日本代表として出席、「血液型因子の人口に及ぼす遺伝的影響」について発表する
・1956年(昭和31) 法医学研究の業績が認められ、文化勲章を受章する
・1960年(昭和35) 東京医科歯科大学教授を辞め、科学警察研究所所長となる
・1970年(昭和45) 勲一等瑞宝章を受章する
・1971年(昭和46) 脳血栓で倒れ、療養に入る
・1975年(昭和50)5月6日 東京において、83歳で亡くなり、正三位、勲一等旭日大綬章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

763年(天平宝字7)唐代の高僧・日本律宗の開祖鑑真の命日(新暦6月25日)詳細
1408年(応永15)室町幕府3代将軍足利義満の命日(新暦5月31日)詳細
1607年(慶長12)朝鮮使節(朝鮮通信使)が初めて江戸を訪問し、江戸幕府第2代将軍秀忠と会見(新暦6月29日)詳細
1909年(明治42)「新聞紙法」が公布される詳細
1950年(昭和25)「住宅金融公庫法」(昭和25年法律第156号)が公布・施行される詳細
1983年(昭和58)農業経済学者・農政家東畑精一の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、砂防工学者・政治家赤木正雄が生まれた日です。
 赤木正雄(あかぎ まさお)は、兵庫県城崎郡中筋村引野(現在の豊岡市)において、豪農の旧家だった父・赤木甚太夫、母・たみの4女2男の末子として生まれました。1旧制豊岡中学校、旧制第一高等学校を経て、1911年(明治44)に、東京帝国大学農科大学林学科に入学します。
 治水・砂防の道を進む決心をし、1914年(大正3)に卒業後、内務省へ入省、滋賀県田上山の山腹工事、翌年には、徳島県吉野川の砂防工事に従事しました。1923年(大正12)に自費でオーストリアに留学し、ウィーン農科大学で、近代的な砂防技術を学び、1925年(大正14)に帰国後、内務省に復職します。
 1926年(大正15)に初代立山砂防工事事務所長を兼務、京都帝国大学農学部講師を兼任、1929年(昭和4)に日本大学工学部講師も兼任、1935年(昭和10)には、京都帝国大学より農学博士を授与され、全国治水砂防協会を設立しました。1936年(昭和11)に勅任官に任命され、砂防工事全体計画を作成、1938年(昭和13)に砂防専管の第3技術課初代課長に就任、1940年(昭和15)には、砂防協会を社団法人にし、第3技術課が廃止されて、1942年(昭和17)には、内務省を退官し、砂防協会の仕事に専念します。
 1946年(昭和21)に貴族院議員に勅選され、1947年(昭和22)の第1回参議院議員選挙で当選、1948年(昭和23)には、建設政務次官に就任し、昭和天皇に御進講しました。1955年(昭和30)に砂防会館建築に着手、参議院建設委員会委員長に就任しましたが、1956年(昭和31)には、参議院議員選挙全国区で落選したものの、翌年に砂防会館が竣工しています。
 1960年(昭和35)に建設事業功労者として藍綬褒章を受章、1971年(昭和46)には、文化功労者となり、文化勲章を受章、豊岡市の名誉市民ともなりました。「砂防の父」、「砂防の神様」とも呼ばれてきましたが、1972年(昭和47)9月24日に、東京都杉並区において、85歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇赤木正雄の主要な著作

・『アルス土木工学大講座第12 渓流及砂防工学』(1939年)
・『高等土木工学第16巻 渓流及砂防工学』(1941年)
・自伝『砂防一路』(1967年)
・『明治大正日本砂防工事々績ニ徴スル工法論』(1974年)
・『砂防工事』(1975年)

☆赤木正雄関係略年表

・1887年(明治20)3月24日 兵庫県城崎郡中筋村引野(現在の豊岡市)において、豪農の旧家だった父・赤木甚太夫、母・たみの4女2男の末子として生まれる
・1906年(明治39) 豊岡中学校を卒業する
・1908年(明治41) 旧制第一高等学校に入学する
・1911年(明治44) 旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学農科大学林学科に入学する
・1914年(大正3) 東京帝国大学農科大学林学科を卒業し、内務省へ入省、滋賀県田上山の山腹工事に従事する
・1915年(大正4) 徳島県吉野川の砂防工事に従事する
・1923年(大正12) オーストリアに留学し、ウィーン農科大学で、近代的な砂防技術を学ぶ
・1925年(大正14) 留学から帰国し、内務省に復職する
・1926年(大正15) 初代立山砂防工事事務所長を兼務、京都帝国大学農学部講師を兼任する
・1929年(昭和4) 日本大学工学部講師を兼任する
・1935年(昭和10) 京都帝国大学より農学博士を授与され、全国治水砂防協会を設立する
・1936年(昭和11) 勅任官に任命され、砂防工事全体計画を作成する
・1938年(昭和13) 砂防専管の第3技術課初代課長に就任する
・1940年(昭和15) 砂防協会を社団法人にし、第3技術課が廃止される
・1942年(昭和17) 内務省を退官する
・1946年(昭和21) 貴族院議員に勅選される
・1947年(昭和22) 第1回参議院議員選挙で当選する
・1948年(昭和23) 建設政務次官に就任し、昭和天皇に御進講する
・1955年(昭和30) 砂防会館建築に着手、参議院建設委員会委員長に就任する
・1956年(昭和31) 参議院議員選挙全国区で落選する
・1957年(昭和32) 砂防会館が竣工する
・1960年(昭和35) 建設事業功労者として藍綬褒章を受章する
・1971年(昭和46) 豊岡市の名誉市民、文化功労者となり、文化勲章を受章する
・1972年(昭和47)9月24日 東京都杉並区において、85歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(寿永4)壇ノ浦の戦いが行われ、平家一門が滅亡する(新暦4月25日)詳細
1847年(弘化4)信濃国で善光寺地震(推定マグニチュード7.4)が起き、甚大な被害をもたらす(新暦5月8日)詳細
1891年(明治24)「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)が公布される詳細
1932年(昭和7)小説家梶井基次郎の命日詳細
1974年(昭和49)建築家吉田五十八の命日詳細
1983年(昭和58)千代田IC~鹿野ICの開通によって、中国自動車道(吹田~下関)が全通する詳細
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mutoukiyoshi01
 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、建築家・建築構造学者武藤清の亡くなった日です。
 武藤清(むとう きよし)は、明治時代後期の1903年(明治36)1月29日に、茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)において生まれました。龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)、旧制第二高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科に入学します。
 在学中の1923年(大正12)に、関東大震災を経験し、耐震建築の研究を志すようになり、1925年(大正14)に卒業後、大学に残って、佐野利器の元で建築構造の研究を行いました。1927年(昭和2)に東京帝国大学工学部助教授となり、1931年(昭和6)には、臨時帝室博物館造営課の嘱託を勤め、1933年(昭和8)には、世界的な耐震計算法である「横力分布係数法」を完成します。
 1935年(昭和10)に東京帝国大学工学部教授に昇任し、1938年(昭和13)には、「材端に剛域を有するラーメンの地震力に依る応力の略算法」で、日本建築学会賞(学術賞)を受賞し、太平洋戦争末期には松代大本営の造営に関与しました。1960年(昭和35)に東京大学工学部長となり、1961年(昭和36)には、「わが国地震工学の国際的高揚」で、日本建築学会賞(学術高揚)を受賞します。
 1962年(昭和37)に千葉工業大学建築学科創設に携わり、講師を務め、1963年(昭和38)に東京大学を退官後、鹿島建設副社長に就任、国際地震工学会初代会長ともなりました。1964年(昭和39)に「耐震構造に関する研究」で、日本学士院恩賜賞を受賞、1966年(昭和41)には、『超高層建築へのアプローチ』を刊行します。
 コンピューターによるシミュレーション法を開発し、その成果は「柔構造」理論として、1968年(昭和43)には、霞が関ビルを36階建てに自ら構造設計し、日本最初の超高層建築を実現させ、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰を受けました。1969年(昭和44)に武藤構造力学研究所所長となり、1970年(昭和45)に「耐震工学に関する研究」で、日本建築学会大賞を受賞、1975年(昭和50)には、日本学士院会員となっています。
 1979年(昭和54)に文化功労者となり、1980年(昭和55)に「複合隙間壁体構造を用いた柔構造物の発明」で、全国発明表彰(恩賜発明賞)を受賞、1983年(昭和58)には、文化勲章を受章しました。1984年(昭和59)に米国地震工学会特別賞を受賞しましたが、1989年(平成元)3月12日に、東京都新宿区の自宅において、急性心不全のため、86歳で亡くなっています。

〇武藤清の主要な著作

・共著『構造力学』高等建築学第5巻(1934年)
・『耐震設計シリーズ』全5巻(1963~67年)
・『超高層建築へのアプローチ』(1966年)

☆武藤清関係略年表

・1903年(明治36)1月29日 茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)において、生まれる
・1925年(大正14) 東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、大学に残って、佐野利器の元で建築構造の研究を行う
・1927年(昭和2) 東京帝国大学工学部助教授となる
・1931年(昭和6) 臨時帝室博物館造営課の嘱託を勤める
・1933年(昭和8) 世界的な耐震計算法である「横力分布係数法」を完成する
・1935年(昭和10) 東京帝国大学工学部教授となる
・1938年(昭和13) 「材端に剛域を有するラーメンの地震力に依る応力の略算法」で、日本建築学会賞(学術賞)を受賞する
・1960年(昭和35) 東京大学工学部長となる
・1961年(昭和36) 「わが国地震工学の国際的高揚」で、日本建築学会賞(学術高揚)を受賞する
・1962年(昭和37) 千葉工業大学建築学科創設に携わり、講師を務める
・1963年(昭和38) 東京大学を退官後、鹿島(かじま)建設副社長に就任、国際地震工学会初代会長となる
・1964年(昭和39) 「耐震構造に関する研究」で、日本学士院恩賜賞を受賞する
・1966年(昭和41) 『超高層建築へのアプローチ』を刊行する
・1968年(昭和43) 霞が関ビルを36階建てに自ら構造設計し、日本最初の超高層建築を実現させ、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰を受ける
・1969年(昭和44) 武藤構造力学研究所所長となる
・1970年(昭和45) 「耐震工学に関する研究」で、日本建築学会大賞を受賞する
・1975年(昭和50) 日本学士院会員となる
・1979年(昭和54) 文化功労者となる
・1980年(昭和55) 「複合隙間壁体構造を用いた柔構造物の発明」で、全国発明表彰(恩賜発明賞)を受賞する
・1983年(昭和58) 文化勲章を受章する
・1984年(昭和59) 米国地震工学会特別賞を受賞する
・1989年(平成元)3月12日 東京都新宿区の自宅において、急性心不全のため、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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