ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 学者

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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、生化学者江上不二夫が生まれた日です。
 江上不二夫(えがみ ふじお)は、1910年(明治43)11月21日に東京において生まれ、1933年(昭和8)には、東京帝国大学理学部化学科を卒業しました。1934年(昭和9)にフランス政府の招聘留学生としてストラスブール大学、パリ生物物理化学研究所に学びましたが、1937年(昭和12)には帰国し、東京帝国大学理学部助手となります。
 1942年(昭和17)に、名古屋帝国大学理学部化学科第三講座(有機化学)助教授となり、東京大学より「スルファターゼ模型に関する研究」で理学博士を得ました。1943年(昭和18)に同大学理学部教授に昇進し、1953年(昭和28)には、「生体酸化環元の研究」で中日文化賞、翌年には、日本化学会賞を受賞しています。
 1957年(昭和32)にタカジアスターゼから核酸分解酵素の1種であるリボヌクレアーゼ T1を分離・精製に成功し、国際的に知名度を高め、1958年(昭和33)には、東京大学理学部教授となりました。1961年(昭和36)に国際生化学連合の評議員(~1970年)となり、1966年(昭和41)に「リボヌクレアーゼT1に関する研究」で、朝日賞、1967年(昭和42)には、『生命を探る』で、毎日出版文化賞を受賞、国際生化学会議を日本に誘致して事務局長を務めています。
 1968年(昭和43)に埼玉大学理工学部教授を併任、日本生化学会会長となり、1969年(昭和44)には、日本学術会議会長(~1972年)となりました。1971年(昭和46)に三菱化成生命科学研究所初代所長となって、“生命の起源”の研究に打ち込み、「リボヌクレアーゼに関する研究」で日本学士院賞を受賞、レジオン・ドヌール勲章も受章し、1977年(昭和52)には、国際生命の起源学会会長に就任します。
 1980年(昭和55)には、三菱化成生命科学研究所名誉所長となりましたが、1982年(昭和57)7月17日に、東京において、71歳で亡くなりました。尚、兄は東洋史学・考古学者で「騎馬民族説」を唱えた江上波夫です。

〇江上不二夫の主要な著作

・『生体の化学』(1946年)
・『生化学研究の進み方』(1950年)
・『核酸および核蛋白質』(1951年)
・『生命を探る』(1967年)
・『生物化学概説』(1975年)

☆江上不二夫関係略年表

・1910年(明治43)11月21日 東京において、生まれる
・1933年(昭和8) 東京帝国大学理学部化学科を卒業する
・1934年(昭和9) フランス政府の招聘(しょうへい)留学生としてストラスブール大学、パリ生物物理化学研究所に学ぶ
・1937年(昭和12) 帰国し、東京帝国大学理学部助手となる
・1942年(昭和17) 名古屋帝国大学理学部化学科第三講座(有機化学)助教授となり、東京大学より「スルファターゼ模型に関する研究」で理学博士を得る
・1943年(昭和18) 名古屋帝国大学理学部教授となる
・1953年(昭和28) 「生体酸化環元の研究」で、中日文化賞を受賞する
・1954年(昭和29) 日本化学会賞を受賞する
・1957年(昭和32) タカジアスターゼから核酸分解酵素の1種であるリボヌクレアーゼ T1を分離・精製に成功し、国際的に知名度を高める
・1958年(昭和33) 東京大学理学部教授となる
・1961年(昭和36) 国際生化学連合の評議員となる(~1970年)
・1966年(昭和41) 「リボヌクレアーゼT1に関する研究」で、朝日賞を受賞する
・1967年(昭和42) 『生命を探る』で、毎日出版文化賞を受賞、国際生化学会議を日本に誘致して事務局長を務める
・1968年(昭和43) 埼玉大学理工学部教授併任となり、日本生化学会会長となる
・1969年(昭和44) 日本学術会議会長(~1972年)となる
・1971年(昭和46) 三菱化成生命科学研究所初代所長となり、「リボヌクレアーゼに関する研究」で日本学士院賞を受賞、レジオン・ドヌール勲章を受章する
・1977年(昭和52) オパーソン博士の後を継いで、国際生命の起源学会会長となる
・1980年(昭和55) 三菱化成生命科学研究所名誉所長となる
・1982年(昭和57)7月17日 東京において、71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

734年(天平6)「得度・授戒の制」が定められる(新暦12月20日)詳細
1889年(明治22)東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座四丁目)に歌舞伎座が開場する詳細
1956年(昭和31)歌人・美術史家・書道家会津八一の命日(八一忌・秋艸忌)詳細
1903年(明治36)小説家伊藤永之介の誕生日詳細
1969年(昭和44)俳人石田波郷の命日詳細
1978年(昭和53)第20回ユネスコ総会で「体育およびスポーツに関する国際憲章」が採択される詳細
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fujitatetsuya01
 今日は、平成時代の1998年(平成10)に、気象学者藤田哲也の亡くなった日です。
 藤田哲也(ふじた てつや)は、大正時代の1920年(大正9)10月23日に、福岡県企救郡曽根村(現在の北九州市小倉南区)において、生まれました。旧制小倉中学校(現在の福岡県立小倉高等学校)を経て、1939年(昭和14)に、明治専門学校(現在の九州工業大学)工学部機械工学科へ入学します。
 1940年(昭和15) 阿蘇や姶良カルデラなどの立体図を完成(松本唯一教授の学位論文に掲載)し、1943年(昭和18)には、明治専門学校工学部機械科を卒業し、同大学で助手、続いて物理学助教授に就任しました。1945年(昭和20)に広島および長崎への原爆投下を受けて、それらの被害調査に派遣され、爆心地や炸裂高度特定し、風の地上絵を発見しました。1946年(昭和21)に桜島大噴火の調査を5名の学生を同行して実施、翌年には、脊振山頂で下降気流の観測を実施、現在のみやま市 (瀬高、山川、高田町が合併) の「江の浦」で起こった竜巻を調査しています。
 1949年(昭和24)に明治専門学校が新制で九州工業大学に変わり、その助教授となり、1950年(昭和25)には、論文「Micro-analytical study of thunder-nose」を発表しました。1953年(昭和28)に、東京大学で理学博士号を取得し、シカゴ大学の教授から招聘され、渡米して同大学の気象学客員研究員となります。
 1956年(昭和31)に米国へ家族と共に移住し、シカゴ大学研究教授(上級気象学者)となり、1957年(昭和32)には、ノースダコタ州のファーゴ市で発生した強い竜巻について、渡米後の初調査として行いました。1959年(昭和34)に第3回岡田賞(日本気象学会)を受賞、母校に天文台「愛宕ドーム」を建設、「藤田賞」を設け、1960年(昭和35)には、「Mother cloud of the Fargo tornadoes of 20 June, 1957」の論文で、竜巻の親雲の存在を確認します。
 1962年(昭和37)にシカゴ大学気象学准教授となり、1965年(昭和40)に同大学教授に昇任、九州工業大学の第2回嘉村賞を受賞、1967年(昭和42)には、アメリカ気象学会マイジンガー賞を受賞しました。1968年(昭和43)にアメリカ市民権を取得、1971年(昭和46)には、竜巻の規模を示す藤田スケール (F-Scale) を考案します。
 1975年(昭和50)にジョン・F・ケネディ国際空港で発生した航空機事故の調査を行い、ダウンバーストの研究を本格化させ、1979年(昭和54)には、ドップラー・レーダーによりダウンバーストが予測可能であることを立証しました。1982年(昭和57)にJAWSプロジェクト実施、マイクロバーストを同定し、航空事故防止法を提案、1987年(昭和62)には、アメリカ気象学会応用気象学賞を受賞、1989年(平成元)には、「マイクロ・バーストの発見による航空安全への功績」で、フランス国立航空宇宙アカデミー賞・金メダルを授与されます。
 1990年(平成2)にシカゴ大学を定年となり、日本気象学会藤原賞を受賞、1991年(平成3)にシカゴ大学名誉教授となり、勲二等瑞宝章を受章、1992年(平成4)には、第39回交通文化賞を受賞しました。1996年(平成8)には、自伝自伝『ある気象学者の一生(和文)』を出版しましたが、1998年(平成10)11月19日に、アメリカ・シカゴの自宅において、糖尿病により、78歳で亡くなっています。

〇藤田哲也の主要な著作

・『たつまき・上』(1973年)
・自伝『ある気象学者の一生(和文)』(1996年)

☆藤田哲也関係略年表

・1920年(大正9)10月23日 福岡県企救郡曽根村(現在の北九州市小倉南区)において、生まれる
・1933年(昭和8) 小倉中学校(現在の福岡県立小倉高等学校)へ入学する
・1939年(昭和14) 小倉中学校を卒業し、明治専門学校(現在の九州工業大学)工学部機械工学科へ入学する
・1940年(昭和15) 阿蘇や姶良カルデラなどの立体図を完成する(松本唯一教授の学位論文に掲載)
・1943年(昭和18) 明治専門学校工学部機械科を卒業し、同大学で助手、続いて物理学助教授に就任する
・1945年(昭和20) 広島および長崎への原爆投下を受けて、それらの被害調査に派遣され、爆心地や炸裂高度特定し、風の地上絵を発見する
・1946年(昭和21) 桜島大噴火の調査を5名の学生を同行して実施する
・1947年(昭和22) 脊振山頂で下降気流の観測を実施、現在のみやま市 (瀬高、山川、高田町が合併) の「江の浦」で起こった竜巻を調査する
・1949年(昭和24) 明治専門学校が新制で九州工業大学に変わり、その助教授となる
・1950年(昭和25) 論文「Micro-analytical study of thunder-nose」を発表する
・1953年(昭和28) 東京大学で理学博士号を取得し、同年よりシカゴ大学の教授から招聘され、渡米して同大学の気象学客員研究員となる
・1956年(昭和31) 米国へ家族と共に移住し、シカゴ大学研究教授(上級気象学者)となる
・1957年(昭和32) ノースダコタ州のファーゴ市で発生した強い竜巻について、渡米後の初調査として行う
・1959年(昭和34) 第3回岡田賞(日本気象学会)を受賞、母校に天文台「愛宕ドーム」を建設、「藤田賞」を設ける
・1960年(昭和35)  「Mother cloud of the Fargo tornadoes of 20 June, 1957」の論文で、竜巻の親雲の存在を確認する
・1961年(昭和36) NOAA(米国海洋・大気庁)の援助で、3台の航空機を使って、回転雷雲を捕捉する
・1962年(昭和37) シカゴ大学気象学准教授となる
・1965年(昭和40) シカゴ大学教授に昇任、九州工業大学の第2回嘉村賞を受賞する
・1967年(昭和42) アメリカ気象学会マイジンガー賞を受賞する
・1968年(昭和43) アメリカ市民権を取得する。
・1971年(昭和46) 竜巻の規模を示す藤田スケール (F-Scale) を考案する
・1975年(昭和50) ジョン・F・ケネディ国際空港で発生した航空機事故の調査を行い、ダウンバーストの研究を本格化させる
・1976年(昭和51) ダウンバーストの存在を実証する。大竜巻の中に子竜巻があって、メリーゴーラウンドのようにぐるぐる回る二重構造の「親子竜巻」を論文で発表する
・1978年(昭和53) (1)NIMROD プロジェクト実施、ダウンバーストを同定し、マクロバーストとマイクロバーストに分類する
・1979年(昭和54) ドップラー・レーダーによりダウンバーストが予測可能であることを立証する
・1982年(昭和57) JAWS プロジェクト実施、マイクロバーストを同定、航空事故防止法を提案する
・1983年(昭和58) レーガン大統領の専用機エアフォースワンが着陸した6分後にダウンバーストが発生し、格納庫が破壊された事故が発生。米空軍が対策を講じる過程で、ダウンバースト論の正当性が認められる
・1984年(昭和59) 日本でも航空安全のための「ダウンバースト」対策で招聘、関係者に講演する
・1986年(昭和61) MIST プロジェクトで、「マイクロバースト」と雷雨の大規模な観測を実施する
・1987年(昭和62) アメリカ気象学会応用気象学賞を受賞する
・1989年(平成元) チャールズ・メリヤム特別貢献教授、「マイクロ・バーストの発見による航空安全への功績」で、フランス国立航空宇宙アカデミー賞・金メダルを授与される
・1990年(平成2) シカゴ大学を定年となり、日本気象学会藤原賞を受賞する
・1991年(平成3) シカゴ大学名誉教授とな、勲二等瑞宝章を受章する
・1992年(平成4) 第39回交通文化賞を受賞する 
・1996年(平成8) 自伝自伝『ある気象学者の一生(和文)』を出版する
・1998年(平成10)11月19日 アメリカ・シカゴの自宅において、糖尿病により、78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)京阪電気鉄道株式会社が設立される詳細
1947年(昭和22)「農業協同組合法」が公布される詳細
1956年(昭和31)米原~京都の電化により東海道本線の全線電化が完成する詳細
東京駅~博多駅間の夜行特急あさかぜが運行開始される詳細
1975年(昭和50)MK鋼を発明した冶金学者三島徳七の命日詳細
1993年(平成5)「環境基本法」が公布・施行される詳細
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kimuramotoo01
 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、生物学者・遺伝学者木村資生の生まれた日であると共に、1994年(平成6)に亡くなった日でもあります。
 木村資生(きむら もとお)は、愛知県岡崎市菅生町において、鋳物業を営んでいた父・木村逸作、母・かなの子として生まれました。愛知県岡崎中学校(現在の愛知県立岡崎高等学校)、旧制第八高等学校を経て、京都帝国大学理学部生物学科に進学し、1947年(昭和22)に卒業後、京都大学農学部副手、ついで京都大学農学部助手となり、木原均の遺伝学研究室に所属します。
 1949年(昭和24)に国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の研究員となり、1953年(昭和28)にアイオワ州立大学に留学、1954年(昭和29)からウィスコンシン大学で集団遺伝学を学び、翌年に帰国しました。1956年(昭和31)に、学位論文「自然集団における遺伝子頻度の機会的変動について」で、大阪大学より理学博士を得て、1957年(昭和32)には、国立遺伝学研究所研究室長に昇進します。
 1959年(昭和34)に日本遺伝学会賞を受賞、1964年(昭和39)に国立遺伝学研究所集団遺伝部長に昇進、1965年(昭和40)には、ウェルドン賞(オックスフォード大学)を受賞しました。1968年(昭和43)に遺伝子の「分子進化の中立説」を太田朋子と「Nature」に発表、「集団遺伝学の理論の研究」により日本学士院賞、1970年(昭和45)に日本人類遺伝学会賞を受賞、1973年(昭和48)には、全米科学アカデミー外国人会員となります。
 1976年(昭和51)に文化勲章を受章、文化功労者、フランス科学アカデミー外国人会員、1977年(昭和52)に岡崎市名誉市民となり、1978年(昭和53)には、シカゴ大学名誉理学博士(D.Sc.)を得ました。1981年(昭和56)に日本遺伝学会会長(~59年)、1982年(昭和57)に日本学士院会員、1984年(昭和59)には、国立遺伝学研究所集団遺伝研究系主幹並びに教授となります。
 1986年(昭和61)にウィスコンシン大学名誉理学博士(D.Sc.)、フランス政府国家功績勲章騎士号を得、1987年(昭和62)に朝日賞、ジョン・カーティー科学進歩賞(米国科学アカデミー)を受賞、1988年(昭和63)には、国立遺伝学研究所を定年退官し名誉教授、集団遺伝研究系客員教授となり、第4回国際生物学賞を受賞しました。1992年(平成4)に英国王立協会よりダーウィン・メダルを授与され、1993年(平成5)にロンドン王立協会外国人会員(日本人で5人目)となりましたが、1994年(平成6)11月13日に、静岡県三島市の自宅廊下で転倒し頭部を強打、頭蓋内出血のため搬送先の病院において、70歳で亡くなっています。

〇木村資生の主要な著作

・『集団遺伝学概論』(1960年)
・『遺伝学から見た人類の未来』(1974年)
・編著『分子進化学入門』(1984年)
・『分子進化の中立説』(1986年)
・『生物進化を考える』(1988年)

☆木村資生関係略年表

・1924年(大正13)11月13日 愛知県岡崎市菅生町において、鋳物業を営んでいた父・木村逸作、母・かなの子として生まれる
・1942年(昭和17) 愛知県岡崎中学校(現在の愛知県立岡崎高等学校)を卒業し、旧制第八高等学校に入学する
・1947年(昭和22) 京都帝国大学理学部生物学科卒業後、京都大学農学部副手となる、ついで京都大学農学部助手となる。木原均の遺伝学研究室に所属していた。
・1949年(昭和24) 国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の研究員となる
・1953年(昭和28) アイオワ州立大学に留学する(~1954年)
・1954年(昭和29) ウィスコンシン大学で集団遺伝学を学ぶ集団遺伝学を学ぶ(~1955年)
・1956年(昭和31) 学位論文「自然集団における遺伝子頻度の機会的変動について」で、大阪大学より理学博士を得る
・1957年(昭和32) 国立遺伝学研究所研究室長となる
・1959年(昭和34) 日本遺伝学会賞を受賞する
・1964年(昭和39) 国立遺伝学研究所集団遺伝部長となる
・1965年(昭和40) ウェルドン賞(オックスフォード大学)を受賞する
・1968年(昭和43) 遺伝子の「分子進化の中立説」を太田朋子と「Nature」に発表、「集団遺伝学の理論の研究」により日本学士院賞を受賞する
・1970年(昭和45) 日本人類遺伝学会賞を受賞する
・1973年(昭和48) 全米科学アカデミー外国人会員となる
・1976年(昭和51) 文化勲章を受章、文化功労者、フランス科学アカデミー外国人会員となる
・1977年(昭和52) 岡崎市名誉市民となる
・1978年(昭和53) シカゴ大学名誉理学博士(D.Sc.)を得る
・1981年(昭和56) 日本遺伝学会会長(~59年)となる
・1982年(昭和57) 日本学士院会員となる
・1984年(昭和59) 国立遺伝学研究所集団遺伝研究系主幹並びに教授となる
・1986年(昭和61) ウィスコンシン大学名誉理学博士(D.Sc.)、フランス政府国家功績勲章騎士号を得る
・1987年(昭和62) 朝日賞、ジョン・カーティー科学進歩賞(米国科学アカデミー)を受賞する
・1988年(昭和63) 国立遺伝学研究所を定年退官し名誉教授、集団遺伝研究系客員教授となり、第4回国際生物学賞を受賞する
・1992年(平成4) 英国王立協会よりダーウィン・メダルを授与される
・1993年(平成5) ロンドン王立協会外国人会員となる(日本人で5人目)。
・1994年(平成6)11月13日 静岡県三島市の自宅廊下で転倒し頭部を強打、頭蓋内出血のため搬送先の病院において、70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1752年(宝暦2)浮世絵師・宮川派の祖宮川長春の命日(新暦12月18日)詳細
1904年(明治37)週刊「平民新聞」第53号に、日本初の翻訳された『共産党宣言』(第三章を除く)が掲載される詳細
1940年(昭和15)第4回御前会議において「支那事変処理要綱」が決定される詳細
1966年(昭和41)全日空YS-11が松山空港沖で墜落(全日空機松山沖墜落事故)し、乗員・乗客50名全員が死亡する詳細
1973年(昭和48)詩人・作詞家・作家サトーハチローの命日詳細
1997年(平成9)北陸自動車道の新潟亀田~新潟空港が開通し、米原~新潟空港間が全通する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1974年(昭和49)に、実験物理学者菊池正士の亡くなった日です。
 菊池正士(きくち せいし)は、明治時代後期の1902年(明治35)8月25日に、東京において、数学者・教育者・貴族院議員・枢密顧問官として活躍し男爵だった父・菊池大麓(だいろく)の四男として生まれました。東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1923年(大正12)に、東京帝国大学理学部物理学科へ入学します。
 1926年(大正15)に卒業し、理化学研究所(西川正治研究室)に入り、1928年(昭和3)には、雲母の単結晶による電子線回折の実験に成功、菊池線と名づけられ、世界的に認められました。1929年(昭和4)にドイツ留学に出発し、ボルン、ハイゼンベルクのもとで量子力学の理論を学び、1931年(昭和6)に帰国、服部報公会賞を受賞します。
 1932年(昭和7)に論文「Zur Theorie des Comptoneffektes(コンプトン効果に就て)」で、東京大学より理学博士を得、第1回帝国学士院メンデンホール記念賞を受賞、翌年には、大阪大学理学部助教授となりました。1934年(昭和9)に教授に昇進し、サイクロトロンを建設、原子核実験の新しい展開に寄与、戦時下において、1941年(昭和16)に海軍技師となりレーダーの研究に従事します。
 太平洋戦争後、1950年(昭和25)にベーテによって、米カリフォルニア大学、コーネル大学に招かれ、原子核実験を続け、1952年(昭和27)に帰国後、大阪大学に200万電子ボルト・サイクロトロンを再建しました。1951年(昭和26)に文化勲章を受章、1952年(昭和27)に文化功労者となり、1954年(昭和29)には、東京大学教授を兼任します。
 1955年(昭和30)に東大原子核研究所初代所長、1957年(昭和32)に東大宇宙線観測所長、学士院会員、1958年(昭和33)には、原子力委員となりました。1959年(昭和34)に日本原子力研究所(現在の日本原子力研究開発機構)理事長(~1964年)、1966年(昭和41)に東京理科大学学長(~1970年)、1968年(昭和43)には、原子力委核融合専門部会長として核融合研究開発の基本計画をまとめます。
 1972年(昭和47)に勲一等瑞宝章を受章しましたが、1974年(昭和49)11月12日に、東京において、72歳で亡くなり、正三位を追贈されました。

〇菊池正士の主要な著作

・『原子物理学概論』(1947年)
・『物理学の概説』(1947年)
・『原子論より素粒子論へ』(1948年)
・『物質の構造』(1948年)
・『粒子と波』(1948年)
・『原子核物理学』(1949年)
・『現代自然科學講座12・原子核の光分解』(1952年)
・『原子核の世界』第二版(1973年)

☆菊池正士関係略年表

・1902年(明治35)8月25日 東京において、数学者・教育者・貴族院議員・枢密顧問官として活躍し男爵だった父・菊池大麓(だいろく)の四男として、生まれる
・1915年(大正4) 東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を卒業する
・1920年(大正9) 東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業し、旧制第一高等学校へ入学する
・1923年(大正12) 旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部物理学科へ入学する
・1926年(大正15) 東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、理化学研究所(西川正治研究室)に入る
・1928年(昭和3) 雲母の単結晶による電子線回折の実験に成功、菊池線と名づけられ、世界的に認められる
・1929年(昭和4) ドイツ留学に出発し、ボルン、ハイゼンベルクのもとで量子力学の理論を学ぶ
・1931年(昭和6) ドイツ留学から帰国、服部報公会賞を受賞する
・1932年(昭和7) 論文「Zur Theorie des Comptoneffektes(コンプトン効果に就て)」で、東京大学より理学博士を得、第1回帝国学士院メンデンホール記念賞を受賞する
・1933年(昭和8) 大阪大学理学部助教授となる
・1934年(昭和9) 大阪大学理学部教授となり、サイクロトロンを建設、原子核実験の新しい展開に寄与する
・1941年(昭和16) 海軍技師となりレーダーの研究に従事する
・1950年(昭和25) ベーテによって、米カリフォルニア大学、コーネル大学に招かれ、原子核実験を続ける
・1952年(昭和27) 帰国後、大阪大学に200万電子ボルト・サイクロトロンを再建する
・1951年(昭和26) 文化勲章を受章する
・1952年(昭和27) 文化功労者となる
・1954年(昭和29) 東京大学教授を兼任する
・1955年(昭和30) 東大原子核研究所初代所長となる
・1957年(昭和32) 東大宇宙線観測所長、学士院会員となる
・1958年(昭和33) 原子力委員となる
・1959年(昭和34) 日本原子力研究所(現在の日本原子力研究開発機構)理事長となる
・1964年(昭和39) 日本原子力研究所理事長を辞任する
・1966年(昭和41) 東京理科大学学長(~1970年)となる
・1968年(昭和43) 原子力委核融合専門部会長として核融合研究開発の基本計画をまとめる
・1972年(昭和47) 勲一等瑞宝章を受章する
・1974年(昭和49)11月12日 東京において、72歳で亡くなり、正三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1871年(明治4)岩倉使節団が欧米視察のために、横浜港を出港する(新暦12月23日)詳細
1898年(明治31)幕末の漂流民・幕臣・英語教育者・啓蒙家ジョン万次郎(中浜万次郎)の命日詳細
1945年(昭和20)GHQ「美術品、記念物、及文化的並に宗敎的地域、施設の保護に関する政策及手続に関する覚書」 が出る詳細
1946年(昭和21)「財産税法」が公布(施行は11月20日)される詳細
1986年(昭和61)小説家島尾敏雄の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1906年(明治39)に、考古学者で「騎馬民族説」を唱えた江上波夫が生まれた日です。
 江上波夫(えがみ なみお)は、山口県下関市において生まれましたが、東京で育ち、東京師範学校付属小学校、旧制東京府立第五中学校を経て、1924年(大正13)に旧制浦和高等学校に入学しました。1927年(昭和2)に同校卒業後、東京帝国大学文学部東洋史学科で学びます。
 1930年(昭和5)に卒業後、東亜考古学会の留学生として中国の北京に渡り、水野清一らと共に長城地帯をはじめ各地の調査研究を行ない、1931年(昭和6)には、東方文化学院 (後の東京大学東洋文化研究所) 研究員となりました。1935年(昭和10)に内蒙古(内モンゴル)の横断踏査に出発、1937年(昭和12)に『蒙古高原横断記』を発表、1941年(昭和16)には、横断踏査を終えています。
 1942年(昭和17)に文部省の民族研究所設立準備委員会幹事となり、1945年(昭和20)には、民族研究所の第二部長となりました。太平洋戦争後、1947年(昭和22)に東京大学文学部講師となり、翌年には、東京大学東洋文化研究所教授となり、日本の国家形成について「騎馬民族征服説」を発表します。
 1956年(昭和31)に東京大学イラン・イラク遺跡調査団長を務め、1958年(昭和33)に共著『日本民族の起源』を刊行、1962年(昭和37)には、東京大学東洋文化研究所所長となりました。1964年(昭和39)に『日本における民族の形成と国家の起源』をまとめ、1967年(昭和42)には、東京大学を退官し、名誉教授となり、『騎馬民族国家』を発表、翌年にはその著作で、毎日出版文化賞を受賞します。
 1969年(昭和44)に紫綬褒章を受章、1971年(昭和46)に上智大学教授となり、1972年(昭和47)には、市民との連合による「東アジアの古代文化を考える会」会長となりました。1973年(昭和48)に多摩美術大学講師、多摩美術大学文様研究所研究所員として勤め、1974年(昭和47)に日本学術会議会員、1977年(昭和52)には、勲三等旭日中綬章を受章、古代オリエント博物館長となるります。
 1980年(昭和55)に水中考古学を提唱、水中文化財の発見・所在の確認を行い、1982年(昭和57)に日本オリエント学会会長、1983年(昭和58)に文化功労者、1984年(昭和59)には、日本水中考古学会会長となりました。1990年(平成2)にアジア史学会設立に参加し、会長となり、内モンゴルのオロンスム遺跡を再訪、1991年(平成3)に文化勲章、1992年(平成4)には、モンゴル政府より、モンゴル北極星勲章を受章しましたが、2002年(平成14)11月11日に、神奈川県において、96歳で亡くなっています。
 尚、2003年(平成15)には、横浜市に寄贈した考古・歴史・美術・民族資料約2,500点、文献資料約25,000点の整理と準備が終わり、「横浜ユーラシア文化館」が開館しました。

〇江上波夫の主要な著作

・『蒙古高原横断記』(1937年) 
・『蒙古高原──錫林郭爾、烏蘭察布に於ける地質・古生物、人類の調査』(1943年)
・『ユウラシア古代北方文化』(1948年)
・共著『日本民族の起源』(1958年)
・『日本における民族の形成と国家の起源』(1964年)
・『騎馬民族国家』(1967年)
・詩集『幻人詩抄』(1975年)

☆江上波夫関係略年表

・1906年(明治39)11月6日 山口県下関市において、生まれる
・1919年(大正8) 東京師範学校付属小学校を卒業する
・1924年(大正13) 旧制東京府立第五中学校を卒業する
・1927年(昭和2) 旧制浦和高校を卒業する
・1930年(昭和5) 東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業、東亜考古学会の留学生として中国の北京に渡る
・1931年(昭和6) 東方文化学院 (後の東京大学東洋文化研究所) 研究員となる
・1935年(昭和10) 内蒙古(内モンゴル)の横断踏査に出発する
・1937年(昭和12) 『蒙古高原横断記』を発表する
・1941年(昭和16) 内蒙古(内モンゴル)の横断踏査を終える
・1942年(昭和17) 文部省の民族研究所設立準備委員会幹事となる
・1945年(昭和20) 民族研究所の第二部長となります
・1947年(昭和22) 東京大学文学部講師となる
・1948年(昭和23) 東京大学東洋文化研究所教授となり、日本の国家形成について「騎馬民族征服説」を発表する
・1956年(昭和31) 東京大学イラン・イラク遺跡調査団長を務める
・1958年(昭和33) 共著『日本民族の起源』を刊行する
・1962年(昭和37) 東京大学東洋文化研究所所長となる
・1964年(昭和39) 『日本における民族の形成と国家の起源』をまとめる
・1967年(昭和42) 東京大学を退官し、名誉教授となり、『騎馬民族国家』を発表する
・1968年(昭和43) 「騎馬民族国家」で、毎日出版文化賞を受賞する
・1969年(昭和44) 紫綬褒章を受章する
・1971年(昭和46) 上智大学教授となる
・1972年(昭和47) 市民との連合による「東アジアの古代文化を考える会」会長となる
・1973年(昭和48) 多摩美術大学講師、多摩美術大学文様研究所研究所員として勤める
・1974年(昭和47) 日本学術会議会員となる
・1977年(昭和52) 勲三等旭日中綬章を受章、古代オリエント博物館長となる
・1980年(昭和55) 水中考古学を提唱、水中文化財の発見・所在の確認を行う
・1982年(昭和57) 日本オリエント学会会長となる
・1983年(昭和58) 文化功労者となる
・1984年(昭和59) 日本水中考古学会会長となる
・1990年(平成2) アジア史学会設立に参加し、会長となり、内モンゴルのオロンスム遺跡を再訪する
・1991年(平成3) 文化勲章を受章する
・1992年(平成4) モンゴル政府より、モンゴル北極星勲章を受章する
・2002年(平成14)11月11日  神奈川県において、96歳で亡くなる
・2003年(平成15) 横浜市に寄贈した考古・歴史・美術・民族資料約2,500点、文献資料約25,000点の整理と準備が終わり、「横浜ユーラシア文化館」が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1717年(享保2)地理学者・儒学者長久保赤水の誕生日(新暦12月8日)詳細
1937年(昭和12)「日独伊防共協定」が調印される詳細
1938年(昭和13)北海道の北炭夕張炭鉱(天竜坑)で爆発事故が起こり、死者161人、負傷者21人を出す詳細
1943年(昭和18)大東亜会議において「大東亜共同宣言」が出される詳細
1945年(昭和20)GHQが「持株会社の解体に関する覚書」により、四大財閥の解体を指令する詳細
1975年(昭和50)俳人・随筆家・小説家・編集者石川桂郎の命日(桂郎忌)詳細
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