ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 宗教家

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 今日は、平安時代末期の1173年(承安3)に、華厳宗の学僧明恵が生まれた日ですが、新暦では2月21日となります。
 明恵(みょうえ)は、紀伊国有田郡石垣荘吉原村(現在の和歌山県有田川町)で、高倉上皇の武者所に伺候した父・平重国の子(母は湯浅宗重の第四女)として生まれましたが、得度して成弁、のち高弁と言いました。1180年(治承4)の9歳の時、両親を失い、翌年の秋に、母方の叔父の上覚を頼り、高雄神護寺(現在の京都市)に入ります。
 1188年(文治4)の17歳の時、東大寺戒壇院で受戒して法諱を成弁とし、尊勝院弁暁・聖詮について華厳・俱舎を受学し、密教を興然・実尊に、禅を栄西について学びました。1195年(建久6)に遁世して、紀州白上峰に籠って修行を積み、1198年(建久9)には高雄に戻ります。
 高雄を拠点として活動し、1202年(建仁2)にインドに渡ろうとしたものの、病気のため断念、1205年(元久2)には、釈尊を慕い『大唐天竺里程記(だいとうてんじくりていき)』をつくり、再度インドに渡って仏跡を拝せんとしましたが、春日明神の託宣により果たせませんでした。1206年(建永元)に後鳥羽院の院宣を受けて、栂尾の地を与えられ、高山寺(現在の京都市右京区)を再興して、華厳宗を唱え、南都仏教の復興を図ろうとします。
 1212年(建暦2)に、法然批判の書『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著し、翌年には、『摧邪輪荘厳記(しょうごんき)』を著してそれを補足しました。また、上覚から伝法灌頂を受け、華厳と密教との融合、学問研究と実践修行の統一を図り、『唯心観行式(ゆいしんかんぎょうしき)』、『三時三宝礼釈(らいしゃく)』、『華厳仏光三昧観秘宝蔵(けごんぶっこうざんまいかんひほうぞう)』を著しています。
 1221年(承久3)の承久の乱では、後鳥羽上皇方の敗兵をかくまったことを機縁に、北条泰時と親交し、栄西が将来したチャを栂尾に栽培して、その普及に尽くしました。女人救済にも努め、1223年(貞応2)に善妙尼寺を開創しましたが、本尊は高山寺に安置されていた釈迦如来像が遷されたものです。
 1231年(寛喜3)に、故地である紀州の施無畏寺の開基として湯浅氏に招かれたものの、翌年1月19日に、弥勒の宝号を唱えながら、数え年60歳で亡くなりました。

〇明恵の主要な著作

・『摧邪輪(ざいじゃりん)』3巻(1212年)
・『持経講式』(1214年) 
・『三時三宝礼釈』(1215年)
・『光明真言功能』(1223年以降)
・『入解脱門義(にゅうげだつもんぎ)』
・『華厳信種義(しんしゅぎ)』
・『光明真言句義釈』
・『華厳唯心義』
・『光明真言土沙勧信記』

☆明恵関係略年表(日付は旧暦です)

・1173年(承安3年1月8日) 紀伊国有田郡石垣荘吉原村(現在の和歌山県有田川町)で、平重国の子(母は湯浅宗重の第四女)として生まれる
・1180年(治承4年) 9歳の時、両親を失う
・1181年(養和元年)秋 高雄神護寺(現在の京都市)に入る
・1188年(文治4年) 17歳の時、叔父の上覚上人を師として出家し、東大寺戒壇院で受戒し、成弁となる
・1190年(建久元年) 19歳の時から記録を書き始める
・1195年(建久6年) 遁世して、紀州白上峰に籠る
・1198年(建久9年) 高雄にもどる
・1202年(建仁2年) インドに渡ろうとしたが、病気のため断念する
・1205年(元久2年) 釈尊を慕い『大唐天竺里程記(だいとうてんじくりていき)』をつくる
・1206年(建永元年) 後鳥羽院の院宣を受けて、栂尾(とがのお)の地をあたえられ、高山寺(現在の京都市右京区)を再興する
・1212年(建暦2年) 法然批判の書『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著す
・1213年(建暦3年) 『摧邪輪荘厳記(しょうごんき)』を著す
・1221年(承久3年) 承久の乱で、後鳥羽上皇方の敗兵をかくまったことを機縁に、北条泰時と親交する
・1223年(貞応2年) 女人救済にも努め、善妙尼寺を開創する
・1231年(寛喜3年) 故地である紀州の施無畏寺の開基として湯浅氏に招かれる
・1232年(貞永元年1月19日) 弥勒の宝号を唱えながら、数え年60歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1646年(正保3)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生日(新暦2月23日)詳細
1892年(明治25)詩人・歌人・フランス文学者・翻訳家堀口大学の誕生日詳細
1912年(明治45)映画監督今井正の誕生日詳細
1941年(昭和16)陸軍大臣東條英機によって、陸訓第一号「戦陣訓」が発表される詳細
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 今日は、奈良時代の746年(天平18)に、法相宗の僧玄昉が亡くなった日ですが、新暦では7月15日となります。
 玄昉(げんぼう)は、生年不詳ですが、俗姓は阿刀氏で大和(現在の奈良県)の出とされ、出家して法相宗の義淵の弟子となりました。716年(霊亀2)に学問僧に任じられ、翌年には遣唐使に学問僧として随行して入唐し、法相宗の智周について学びます。
 その後、玄宗皇帝に認められて、三品の位に准じられ、紫衣を賜りました。在唐18年の後、遣唐大使の大使多治比真人広成に随い、仏教経典・注釈書等5,000巻と諸々の仏像を携えて、735年(天平7)に帰国、日本へ法相宗を伝えた4番目の人(第四伝)とされます。
 736年(天平8)に封戸を与えられ、翌年には、僧正に任じられて紫袈裟を賜り、皇太夫人藤原宮子の看病によって功績があり、宮中の内道場の出入りを許されました。それを機会に、聖武天皇の信頼も得て、吉備真備と共に橘諸兄政権の担い手として出世し、国分寺を創設を進言するなど宮廷に権勢を得ます。
 しかし、人格に対して人々の批判も強く、740年(天平12)に藤原広嗣が吉備真備と玄昉を排除しようと九州で兵を起こしました(藤原広嗣の乱)。乱は鎮圧され、広嗣も敗死したものの、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると橘諸兄は権勢を失い、玄昉も745年(天平17)に官位を下げられ、筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収されます。
 興福寺法相宗の基を築き、慈訓、善珠などの弟子も育てましたが、746年(天平18年6月18日)に左遷先の筑紫国において亡くなり、「広嗣の霊に害された」とのうわさも広まったとされています。
 以下に、『続日本紀』巻第十六の天平18年(746年)6月18日の条に書かれている玄昉に関する記述を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第十六 天平18年(746年)6月18日の条

<原文>

己亥。僧玄昉死。玄昉俗姓阿刀氏。靈龜二年入唐學問。唐天子尊昉。准三品令着紫袈裟。天平七年隨大使多治比眞人廣成還歸。齎經論五千餘卷及諸佛像來。皇朝亦施紫袈裟着之。尊爲僧正。安置内道塲。自是之後。榮寵日盛。稍乖沙門之行。時人惡之。至是死於徙所。世相傳云。爲藤原廣嗣靈所害。
 
<読み下し文>

己亥。僧玄昉死ス。玄昉俗姓ハ阿刀氏。靈龜二年入唐シテ學問す。唐ノ天子[1]昉ヲ尊ビテ、三品[2]ニ准シテ紫ノ袈裟[3]ヲ着セ令ム。天平七年大使多治比ノ真人広成ニ随テ還帰ス。經論[4]五千餘巻及ヒ諸ノ佛像ヲ齎シテ來レリ。皇朝亦タ紫ノ袈裟[3]ヲ施シテ之を着セシム。尊テ僧正[5]ト爲ス、内道場[6]ニ安置ス。是ヨリノ後、栄耀日ニ盛ニシテ、稍ク沙門ノ行ニ乖ケリ。時ノ人之ヲ悪ム。是ニ至テ、徙所[8]ニ死ス。世相傳ヘテ云フ、藤原広嗣[9]カ霊ノ爲ニ害セルト。

【注釈】

[1]唐の天子:とうのてんし=当時の唐の皇帝玄宗のこと。
[2]三品:さんぼん=中国・日本の位階の第三位。三位。
[3]紫の袈裟:むらさきのけさ=紫色の法衣。勅許などによって高位・高徳の僧に着用が許された。紫衣。
[4]経論:きょうろん=仏の教えを記した経と、経の注釈書である論。
[5]僧正:そうじょう=僧官僧綱の最上位。また、その人。
[6]内道場:ないどうじょう=宮中に設けられた仏事を行う堂宇。内寺。
[7]沙門:しゃもん=出家して修行に専念する人。求道者。
[8]徙所:としょ=移動先。移転先。この場合は、左遷先。
[9]藤原広嗣:ふじわらのひろつぐ=奈良時代の公卿。天平10年に大宰少弐となったが、橘諸兄と対立、その顧問である吉備真備・玄昉らを除こうとして反乱を起こしたが、敗れる(藤原広嗣の乱)。
 
<現代語訳>

6月18日。僧の玄昉が死んだ。玄昉は俗姓を阿刀氏と言い。靈龜2年(716年)に入唐して学問を学んだ。唐の天子(玄宗)は玄昉を尊く思い、三品に准じさせて紫の袈裟の着用を許した。天平7年(735年)に大使多治比真人広成(遣唐大使)に随って帰還した。仏教経典・注釈書5千余巻と諸々の仏像とを持ち帰った。朝廷も同様に紫の袈裟を下賜して着用を許した。尊んで僧正に任命し、内道場への出入りを許した。これより後、栄耀が日々に盛んになり、次第に僧侶としての行いに背いた。時の人々はこれを悪く思うようになった。ここに至って、左遷された地で死ぬこととなった。世間の言い伝えでは、「藤原広嗣の霊の為に殺されたのだ。」という。


☆玄昉関係略年表(日付は旧暦です)

・716年(霊亀2年) 学問僧に任じられる
・717年(養老元年) 遣唐使に学問僧として随行して入唐する
・735年(天平7年) 遣唐使の帰国に随い、経論5000巻の一切経と諸々の仏像を携えて帰国する
・736年(天平8年) 封戸を与えられる
・737年(天平9年) 僧正に任じられて内道場の出入りを許される
・740年(天平12年) 藤原広嗣が吉備真備と玄昉を排除しようと九州で兵を起こす(藤原広嗣の乱)
・741年(天平13年7月15日) 千手経1000巻を発願、書写・供養する
・745年(天平17年) 筑紫観世音寺別当に左遷される
・746年(天平18年6月18日) 筑紫国において亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1723年(享保8)徳川吉宗が人材登用のための「足高の制」を制定(新暦7月19日)詳細
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 今日は、鎌倉時代の1206年(建永元)に、浄土宗の僧重源が亡くなった日ですが、新暦では7月12日となります。
 重源(ちょうげん)は、平安時代後期の1121年(保安2)に、紀季重(きのすえしげ)の子として生まれましたが、名は刑部左衛門尉重定と称していました。1133年(長承2年)の13歳の時、真言宗の醍醐寺に入って出家、金剛王院源運に密教を学びます。
 また、高野山に登り、法然(源空)に就いて浄土教を研究すると共に、四国や大峯を修行して歩いたとされてきました。1167年 (仁安2) ~1176年 (安元2) に3回宋に留学したと言われ、3回目に栄西と出会い、天台山、阿育王山に登ったと伝えられ、いっしょに帰国しています。
 その後、1171年(承安元)頃に建立が始まった博多の誓願寺の本尊を制作する際に、周防国徳地から用材を調達、1176年(安元2)には高野山延寿院に梵鐘を施入した記録が残されました。1180年(治承4)に東大寺が平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分を焼失すると、翌年に被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就きます。
 諸国を回って勧進に努め、宋人陳和卿の協力を得て大仏の鋳造を行い、1184年(寿永3)にほぼ完成させ、翌年には、大仏の開眼供養が行われました。さらに諸堂の建立にあたり、1186年(文治2)に東大寺建立祈願のため、東大寺の僧綱以下衆徒を率いて伊勢へ参宮、大般若経を転読供養するなど努力を重ね、1195年(建久6)に大仏殿を完成させ、この功をもって大和尚位に叙せられます。
 引き続いて、大仏殿の脇侍や四天王像、戒壇院、鎮守八幡宮、南大門を造立し、1203年(建仁3)には、東大寺総供養を迎えました。その一方で、1186年(文治2)に南都の明遍、貞慶ら学匠とともに京都大原勝林院において、大原問答に列し、1190年(建久元)には、法然を東大寺に招き半作の大仏殿において「観経曼陀羅」「浄土五祖像」をかけ供養・讃歎したと伝えられています。
 また、周防阿弥陀寺、播磨浄土寺、伊賀新大仏寺をはじめ、各地に堂宇を建立すると共に、備前の船坂山を開き、播磨の魚住泊の修築、摂津渡辺橋・長柄橋などの架橋、河内狭山池の改修、湯屋の勧進を行うなど、社会救済事業にも尽くしましたが、1206年(建永元年6月5日)に、奈良の東大寺において、数え年86歳で亡くなりました。

〇重源関係略年表(日付は旧暦です)

・1121年(保安2年) 紀季重(きのすえしげ)の子として生まれる
・1133年(長承2年) 13歳の時、真言宗の醍醐寺に入り、出家する
・1167年(仁安2年) 入宋し栄西と出会い、天台山、阿育王山に登ったと伝えられる
・1168年(仁安3年) 栄西とともに帰国する
・1171年(承安元年)頃 建立が始まった博多の誓願寺の本尊を制作する際に、周防国徳地から用材を調達する
・1176年(安元2年) 高野山延寿院に梵鐘を施入する
・1180年(治承4年) 東大寺が平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分を焼失する
・1181年(養和元年) 被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就く
・1184年(寿永3年6月) 宋人陳和卿の協力を得て大仏の鋳造をほぼ完成する
・1185年(文治元年8月28日) 大仏の開眼供養が行われる
・1186年(文治2年4月) 東大寺建立祈願のため、東大寺の僧綱以下衆徒を率いて伊勢へ参宮、大般若経を転読供養する
・1186年(文治2年) 南都の明遍、貞慶ら学匠とともに京都大原勝林院において、大原問答に列する
・1190年(建久元年) 大部荘が与えられ、宋人の鋳物師陳和卿(ちんなけい)にあてがわれる
・1190年(建久元年) 法然を東大寺に招き半作の大仏殿において「観経曼陀羅」「浄土五祖像」をかけ供養・讃歎したと伝えられる
・1195年(建久6年) 大仏殿を再建する
・1197年(建久8年) 鉄製多宝塔(国宝として現存)を鋳造し、阿弥陀寺創建の由来を刻みこむ
・1203年(建仁3年) 東大寺総供養を行なう
・1206年(建永元年6月5日) 奈良の東大寺において、数え年86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1886年(明治19)陶芸家・人間国宝富本憲吉の誕生日詳細
1963年(昭和38)関西電力黒部川第四発電所ダム(黒部ダム)の完工式が行われる詳細
1972年(昭和47)国連人間環境会議が開始される(環境の日・国際環境デー)詳細


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 今日は、平安時代後期の1155年(久寿2)に、天台宗の僧・歌人慈円の生まれた日ですが、新暦では5月17日となります。
 慈円(じえん)は、京都において、摂政関白の父・藤原忠通の子(母は藤原仲光女加賀)として生まれました。2歳の時に母を亡くし、10歳の時に父を亡くし、1165年(永万元)には、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のりました。1167年(仁安2)に天台座主・明雲について受戒し、1170年(嘉応2)には、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられます。
 1176年(安元2)に比叡山の無動寺で千日入堂を果し、1178年(治承2)に法性寺座主に任ぜられ、1181年(養和元)には、師覚快の入滅に遭い、この頃慈円と名を改めました。1182年(養和2)に覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継ぎ、全玄より伝法灌頂をうけ、1186年(文治2)には、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就いています。
 1189年(文治5)に後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこない、1192年(建久3)には、38歳で天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開きました。1196年(建久7)に兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居しましたが、1201年(建仁元)には、再び座主に補せられています。
 1202年(建仁2)に再び、座主を辞し、翌年大僧正に任ぜられたものの、すぐにそれも辞しました。1204年(元久元)に自坊白川坊に大懺法院を建立しましたが、翌年には祇園東方の吉水坊に移し、1206年(建永元)には、そこに熾盛光堂を造営し、大熾盛光法を修しています。
 1212年(建暦2)に後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就きましたが、翌年一旦座主職を辞し、同年11月に四度目の座主に復帰したものの、1214年(建保2)にはそれも辞しました。その間、日本最初の歴史哲学書として有名な『愚管抄』を著わし、歌も能くし、後鳥羽上皇に重んじられて和歌所寄人ともなり、家集『拾玉集』も成しています。
 1222年(貞応元)に青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をしましたが、1225年(嘉禄元年9月25日)に近江国東坂本で、数え年71歳で亡くなりました。尚、『千載和歌集』以降の勅撰集には269首が入集、内『新古今和歌集』には92首が採られ、『小倉百人一首』にも入っています。

<代表的な歌>

・「おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣(そま)に 墨染の袖」(小倉百人一首)
・「散りはてて 花のかげなき 木このもとに たつことやすき 夏衣かな」(新古今和歌集)
・「初瀬川 さよの枕に おとづれて 明くる檜原に 嵐をぞきく」(玉葉和歌集)
・「旅の世に また旅寝して 草まくら 夢のうちにも 夢をみるかな」(千載和歌集)
・「せめてなほ うき世にとまる 身とならば 心のうちに 宿はさだめむ」(拾玉集)

〇慈円の主要な著作

・歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』7巻
・家集『拾玉集』

☆慈円関係略年表(日付は旧暦です)

・1155年(久寿2年4月15日) 京都において、摂政関白の父・藤原忠通の子(母は藤原仲光女加賀)として生まれる
・1156年(久寿3年) 2歳の時、母が亡くなる
・1164年(長寛2年2月19日) 10歳の時、父が亡くなる
・1165年(永万元年) 覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のる
・1167年(仁安2年) 天台座主・明雲について受戒する
・1170年(嘉応2年) 一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる
・1176年(安元2年) 比叡山の無動寺で千日入堂を果す
・1178年(治承2年) 法性寺座主に任ぜられる
・1180年(治承4年) 隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思いとどまる
・1181年(治承5年) 9歳の親鸞を得度させる
・1181年(養和元年11月) 師覚快の入滅に遭い、この頃慈円と名を改める
・1182年(養和2年) 覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継ぐ
・1182年(寿永元年) 全玄より伝法灌頂をうける
・1186年(文治2年) 平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就く
・1188年(文治4年) 西行勧進の「二見浦百首」に出詠する
・1189年(文治5年) 後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう
・1190年(建久元年) 姪の任子が後鳥羽天皇に入内する
・1192年(建久3年) 38歳で天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる
・1192年(建久3年) 無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開く
・1195年(建久6年) 上洛した源頼朝と会見、意気投合し、盛んに和歌の贈答をする
・1196年(建久7年11月) 兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居する
・1198年(建久9年1月) 譲位した後鳥羽天皇は院政を始める
・1201年(建仁元年2月) 再び座主に補せられる
・1201年(建仁元年6月) 千五百番歌合に出詠する
・1201年(建仁元年7月) 後鳥羽院の和歌所寄人となる
・1202年(建仁2年) 源通親が急死し、兼実の子良経が摂政となる
・1202年(建仁2年7月) 座主を辞す
・1203年(建仁3年3月) 大僧正に任ぜられる
・1203年(建仁3年6月) 大僧正の職を辞する
・1204年(元久元年12月) 自坊白川坊に大懺法院を建立する
・1205年(元久2年) 大懺法院を祇園東方の吉水坊に移す
・1206年(建永元年) 良経は頓死する
・1206年(建永元年) 吉水坊に熾盛光堂(しじょうこうどう)を造営し、大熾盛光法を修する
・1207年(承元元年) 兄兼実が死去する
・1212年(建暦2年1月) 後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く
・1213年(建暦3年) 一旦座主職を辞する
・1213年(建暦3年11月) 四度目の座主に復帰する
・1214年(建保2年6月) 座主職を辞する
・1219年(建保7年1月) 鎌倉で第3代将軍実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が次期将軍として鎌倉に下向する
・1221年(承久3年5月) 後鳥羽院が北条義時追討の宣旨を発し、挙兵する(承久の乱)
・1222年(貞応元年) 青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をする
・1225年(嘉禄元年9月25日)  近江国東坂本で、数え年71歳で亡くなる
・1237年(嘉禎3年)  慈鎮和尚の諡号を賜わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細


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 今日は、奈良時代の772年(宝亀3)に、法相宗の僧道鏡が亡くなった日ですが、新暦では5月13日となります。
 道鏡(どうきょう)は、700年(文武天皇4年)?に、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)で、弓削櫛麻呂の息子として生まれたとされますが、はっきりしません。若い頃に、法相宗の高僧・義淵の弟子となったとされ、また東大寺の僧として華厳宗の名僧良弁に仕え、葛城山中で如意輪法を修し、梵文(サンスクリット)に通じたと言われます。
 その後、禅行が聞こえて宮中内道場に入り禅師となり、761年(天平宝字5年)に行幸中の近江国保良宮で、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病し、信任を得ました。763年(天平宝字7年)に慈訓に代わって少僧都に任じられ、764年(天平宝字8年9月)に藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されると、大臣禅師に任ぜられて政権を握ります。
 同年10月に、孝謙上皇は淳仁天皇を廃して称徳天皇として重祚すると、翌年の称徳天皇弓削寺行幸の際、太政大臣禅師に任ぜられました。765年(天平宝字9年)に貴族の墾田をいっさい禁じたものの、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許し、翌年に法王に任じられ、767年(神護景雲元年)には阿波国の王臣の功田、位田を収めて口分田として班給するなど権力をふるって貴族を抑圧します。
 769年(神護景雲3)に豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」と称徳天皇に神託を奏上する「宇佐八幡宮神託事件」が起こり、和気清麻呂が天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮、神託が虚偽であることを上申したことにより、「穢麻呂(きたなまろ)」に改名させられて大隅に流刑とされました。しかし、天皇に就くことはできず、称徳天皇が道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、行幸していた時に発病し、770年(神護景雲4年8月4日)平城宮において亡くなると状況が一変します。
 同年には、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて配流させられ、772年(宝亀3年4月7日)に下野国で亡くなり、庶人として葬られました。
 以下に、『続日本紀』神護景雲三年(769年)九月己丑(25日)条の「宇佐八幡宮神託事件」の記事を掲載(現代語訳・注釈付)しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』神護景雲三年(769年)九月己丑(25日)条(宇佐八幡宮神託事件の記事)

<原文>

神護景雲三年九月己丑条
 (上略)始大宰主神習宜阿曾麻呂、希旨。方媚事道鏡。因矯八幡神教言。令道鏡即皇位。天下太平。道鏡聞之。深喜自負。天皇召清麻呂於床下。勅曰。昨夜夢。八幡神使来云。大神為令奏事。請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聴彼神命。臨発。道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。蓋為告我即位之事。因重募以官爵。清麻呂行詣神宮。大神詫宣曰。我国家開闢以来。君臣定矣。以臣為君。未之有也。天之日嗣必立皇緒。無道之人。宜早掃除。清麻呂来帰。奏如神教。於是、道鏡大怒。解清麻呂本官。出為因幡員外介。未之任所。尋有詔。除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。

<読み下し文>

神護景雲三年九月己丑条
 (上略)始め大宰の主神[1]習宜阿曽麻呂、旨を希いて方に道鏡に媚び事え[2]、因りて八幡の神教[3]と矯り[4]て言う。「道鏡をして皇位に即かしめば天下太平ならん」と。道鏡これを聞き、深く喜びて自負[5]す。天皇、清麻呂を床下[6]に召し、勅して日く。「昨夜夢みるに、八幡の神使来りて云う、『大神事を奏せしめんが為に尼法均を請う』と。宜しく汝清麻呂、相代わりて往きて彼の神命[7]を聴くべし」と。発するに臨みて道鏡清麻呂に語りて日く。「大神の使を請う所以は、蓋し我が即位の事を告げんが為ならん」と。因りて重く募るに官爵を以てす。清麻呂、行きて神宮に詣る。大神託宣[8]して日く。『我が国家、開闢[9]より以来、君臣定まれり。臣を以て君となすことは未だこれ有らず。天之日嗣[10]は必ず皇緒[11]を立てよ。無道[12]の人は宜しく早く掃除[13]すべし』と。清麻呂来り帰りて、奏すること神教の如し。是に於て道鏡大いに怒り、清麻呂の本官を解きて出だして因幡員外介となす。未だ任所にゆかず、尋いで詔有りて除名[14]し、大隅に配す。其の姉法均は還俗[15]せしめて備後に配す。

【注釈】

[1]主神:かんづかさ=正七位下相当で、諸々の祭祀を司る者。
[2]媚び事え:こびつかえ=気に入られるように目上の人に振る舞う。目上の相手の機嫌をとる。
[3]神教:しんきょう=神の教え。神のお告げ。
[4]矯りて:いつわりて=無理に曲げて。いつわって。
[5]自負:じふ=自分の才能や、学問、功業などをすぐれていると信じて誇ること。また、その心。
[6]床下:しょうか=床の近く。ねどこの下。また、ねどこ。
[7]神命:しんめい=神の命令。神勅。
[8]託宣:たくせん=神のことば。神のおつげ。神託。
[9]開闢:かいびゃく=天と地が初めてできた時。世界の始まりの時。
[10]天之日嗣:あまのひつぎ=皇位を継承すること。また、皇位。
[11]皇緒:こうしょ=天皇の血統、天皇の位のこと。
[12]無道:ぶどう=考え、行動などが道理にはずれていること。人の道にそむいた暴悪非道なふるまいをすること。また、そのさま。非道。
[13]掃除:そうじ=社会の害悪などを取り除くこと。
[14]除名:じょめい=官人が罪を犯したとき、その者を官の籍から除いたこと。位階や勲等を奪い、調・庸や雑徭を課した。
[15]還俗:げんぞく=一度出家した者がもとの俗人に戻ること。法師がえり。

<現代語訳>

神護景雲3年(769年)9月己丑条
 (上略)初め、大宰府の主神の習宣阿曽麻呂は、道鏡に気に入られようと振る舞って仕えた。そこで、宇佐八幡宮の神のお告げであるといつわって、「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」と言った。道鏡はこれを聞き、深く喜ぶとともに自信を持った。天皇は清麻呂を玉座近くに招じて、「昨夜の夢に八幡神の使いがきて『大神は天皇に奏上することがあるので、尼の法均を遣わせることを願っています』と告げた。そなた清麻呂は法均に代わって八幡大神のところへ行き、その神託を聞いてくるように」と詔した。出発するのに臨んで道鏡は、清麻呂に語って言うのに、「大神が使者の派遣を要請するのは、おそらく私の即位の事を告げるためであろう」と、そのようであれば、重く用いて官爵を上げてやると持ち掛けた。清麻呂は出かけて行って神宮に詣でた。大神は託宣して言うには、「わが国家は、天と地が初めてできた時以来、君臣の秩序は定まっている。臣下の者を君主と成すことは、いまだかつてなかったことだ。皇位には必ず、天皇の血統を立てよ。道理にはずれている者は早く取り除け」と。清麻呂は帰京して、神のお告げのように天皇に奏上した。これによって、道鏡は大いに怒って、清麻呂の官職を解いて、因幡員外介として左遷した。清麻呂がまだ任地へ行かないうちに、続いて詔があって、官職を剥奪し除籍して、大隅国へ配流した。その姉の法均は俗人に戻させられて、備後国へ配流された。

☆道鏡関係略年表(日付は旧暦です)

・700年(文武天皇4年)? 河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に弓削櫛麻呂の息子として生まれる
・747年(天平19年1月) 正倉院文書に東大寺良弁大徳御所使沙弥とあり、良弁の弟子でようやく得度したばかりであったらしい
・761年(天平宝字5年) 近江国保良宮で、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病する
・763年(天平宝字7年) 慈訓に代わって少僧都に任じられる
・764年(天平宝字8年9月) 藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅される
・764年(天平宝字8年9月20日) 大臣禅師に任ぜられて政権を握る
・764年(天平宝字8年10月9日) 孝謙上皇は淳仁天皇を廃して称徳天皇として重祚する
・765年(天平宝字9年閏10月) 称徳天皇弓削寺行幸の際、太政大臣禅師に任ぜられる
・765年(天平宝字9年) 貴族の墾田をいっさい禁じたが、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許す
・766年(天平神護2年10月) 法王に任じられる
・767年(神護景雲元年) 阿波国の王臣の功田、位田を収めて口分田として班給するなど貴族を抑圧する
・769年(神護景雲3年5月) 豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」と称徳天皇に神託を奏上する(宇佐八幡宮神託事件)
・769年(神護景雲3年8月) 和気清麻呂が天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮、神託が虚偽であることを上申したが、大隅国への流罪とされる
・769年(神護景雲3年10月) 称徳天皇は道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、ここに行幸する
・770年(神護景雲4年2月) 称徳天皇は再び由義宮に行幸する
・770年(神護景雲4年8月4日) 平城宮において、称徳天皇が亡くなる
・770年(神護景雲4年8月21日) 造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて配流させられる
・772年(宝亀3年4月7日) 下野国で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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