ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 芸術家

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 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、日本画家山本丘人の生まれた日です。
 山本丘人(やまもと きゅうじん)は、東京市下谷区上野広小路(現在の台東区上野3丁目)において、東京音楽学校書記だった父・昇と母・ぬい(縫)の一人息子として生まれましたが、本名は正義(まさよし)と言いました。1913年(大正2)に東京府立第三中学校(現在の都立両国高校)に入学しましたが、1915年(大正4)には、東京府立工芸学校金属細工科(現在の都立工芸高等学校)へ転入、彫金を学ぶと共に、広瀬東畝、篠田柏邦に日本画の手ほどきを受けます。
 1918年(大正7)に父・昇が亡くなったものの、1919年(大正8)に府立工芸学校卒業後、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備科日本画科に入学、1921年(大正10)には、日本画科選科に編入しました。松岡映丘に師事し、1924年(大正13)に卒業後、映丘主催の画塾「木之華社」に入門します。
 1926年(大正15)に新興大和絵会第6回展に出品(以後昭和6年解散時まで毎年出品)、1928年(昭和3)に第9回帝展に「公園の初夏」が初入選し、1929年(昭和4)には、新興大和絵賞・会友に推薦されました。1930年(昭和5)の第11回帝展に「不忍池」が入選し、この作品から雅号「丘人」を使い始め、以後第14回まで連続して入選します。
 1934年(昭和9)に映丘門下の杉山寧、浦田正夫、岡田昇、松岡貞夫らと新日本画研究会「瑠爽画社」を結成、1936年(昭和11)に東京府北多摩郡小金井村(現在の小金井市)に転居、文展に「海の微風」を出品し、特選となりました。1940年(昭和15)に「瑠爽画社」が解散、1943年(昭和18)には、川崎小虎を代表として加藤栄三、東山魁夷らと「国土会」を結成します。
 1944年(昭和19)に東京美術学校日本画科助教授となり、第4回野間美術奨励賞を受賞しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に文部省主催第2回日本美術展覧会(日展)審査員として「望流」を出品、1947年(昭和22)には、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)教授となります。
 1948年(昭和23)に上村松篁ら13名とで「創造美術」を結成、1949年(昭和24)の第2回創造美術展に「草上の秋」を出品、翌年に芸術選奨美術文部大臣賞を受賞しました。1951年(昭和26)に創造美術が新制作派協会(洋画、彫刻、建築)と合同し、新制作協会日本画部となり、国土会解散、東京芸術大学、女子美術大学を辞職します。
 1964年(昭和39)に「異郷落日」に対して日本芸術院賞が贈られ、1977年(昭和52)には、文化勲章を受章、文化功労者として顕彰されました。しかし、1985年(昭和60)に病に倒れ入院し、翌年2月10日に、神奈川県において、急性心不全のため、85歳で亡くなっています。
 尚、1989年(平成元)には、静岡県駿東郡小山町に「山本丘人記念館・美術館夢呂土(むろど)」が開設されました。

〇山本丘人主要な作品

・「海の微風」(1936年)文展特選
・「到春」(1942年)
・「草上の秋」(1949年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・「冬岳」(1953年)
・「北濤」(1955年)東京国立近代美術館蔵
・「夕焼山水(ゆうやけさんすい)」(1961年)平木浮世絵財団蔵
・「異郷落日」(1964年)日本芸術院賞受賞
・「狭霧野(さぎりの)」(1970年)

☆山本丘人関係略年表
  
・1900年(明治33)4月15日 東京市下谷区上野広小路(現在の台東区上野3丁目)において、東京音楽学校書記だった父・昇と母・ぬい(縫)の一人息子として生まれる
・1902年(明治35) 下谷区上野桜木町34番地に転居する
・1907年(明治40) 東京市下谷区根岸尋常小学校に入学する
・1913年(大正2) 東京市下谷区根岸尋常小学校を卒業。東京府立第三中学校(現在の都立両国高校)に入学する
・1915年(大正4) 東京府立工芸学校金属細工科(現在の都立工芸高等学校)へ転入、彫金を学ぶとともに、在学中に広瀬東畝、篠田柏邦に日本画の手ほどきを受ける
・1918年(大正7) 父昇死去(享年数え年53)、第1回国画創作協会第1回展を見学し感銘を受ける
・1919年(大正8) 府立工芸学校を卒業後、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備科日本画科に入学する
・1920年(大正9) 夏休みの課題コンクールに「娘之坐像」を出品。教授の松岡映丘に高く評価され、以後薫陶を受ける
・1921年(大正10) 日本画科選科に編入。この年「婦女坐像(青梅)」を制作する
・1924年(大正13) 東京美術学校を「白菊」を制作して卒業後、映丘主催の画塾、木之華社に入門する
・1925年(大正14) 第六回帝展に出品するが落選。この頃、本郷洋画研究所に通う
・1926年(大正15) 新興大和絵会第6回展に出品する(以後昭和6年解散時まで毎年出品)
・1927年(昭和2) 新興大和絵会第7回展に直垂姿の松岡映丘(画人の像)を出品する
・1928年(昭和3) 第9回帝展に「公園の初夏」が初入選する
・1929年(昭和4) 新興大和絵賞・会友に推薦される
・1930年(昭和5) 第11回帝展に「不忍池」が入選。この作品から雅号「丘人」を使い始める。以後第14回まで連続して入選する
・1932年(昭和7) 大野美代と結婚、資生堂ギャラリーにて個展開催する
・1934年(昭和9) 映丘門下の杉山寧、浦田正夫、岡田昇、松岡貞夫らと新日本画研究会「瑠爽画社」を結成、夏に伊豆へ取材旅行をする
・1936年(昭和11) 東京府北多摩郡小金井村貫井243(現・小金井市貫井南町4)に転居、文部省美術展覧会鑑査展(文展)に「海の微風」を出品し、特選となる
・1938年(昭和13) 師、松岡映丘が亡くなる(享年58歳)
・1939年(昭和14) 文展、院展作家12名による「綵尚会」(関尚美堂主催)会員となる
・1940年(昭和15) 「瑠爽画社」が解散、高島屋主催「青丘会」会員となり、岡田昇らが「一采社」を結成、顧問格となる
・1942年(昭和17) 第5回新文展に無鑑査出品する
・1943年(昭和18) 川崎小虎を代表として加藤栄三、東山魁夷らと「国土会」を結成する
・1944年(昭和19) 安田靫彦に呼ばれ、東京美術学校日本画科助教授となり、第4回野間美術奨励賞を受賞する
・1946年(昭和21) 文部省主催第2回日本美術展覧会(日展)審査員として「望流」を出品する
・1947年(昭和22) 向井万吉、広田多津、吉岡堅二、福田豊四郎らと下諏訪へ旅行、女子美術専門学校(現・女子美術大学)教授となる
・1948年(昭和23) 上村松篁、秋野不矩、吉岡堅二、福田豊四郎、加藤栄三、澤宏靭、橋本明治、高橋周桑、菊池隆志、向井久万、奥村厚一、広田多津ら13名で「創造美術」を結成する
・1949年(昭和24) 創造美術研究会を開催、第2回創造美術展に「草上の秋」を出品する
・1950年(昭和25) 「草上の秋」に対して芸術選奨美術文部大臣賞が贈られ、岡鹿之助との交友が始まる
・1951年(昭和26) 橋本明治、加藤栄三、東山魁夷、森田沙夷、杉山寧と「未更会」発足、創造美術が新制作派協会(洋画、彫刻、建築)と合同し、新制作協会日本画部となり、国土会解散、東京芸術大学、女子美術大学を辞職する
・1952年(昭和27) ヴェネツィア・ビエンナーレに「山麓」を出品する
・1954年(昭和29) 小倉遊亀、吉岡堅二らと高島屋主催「鼎会」を発足させる
・1956年(昭和31) 奥村土牛、岡鹿之助、中川一政らと兼素洞主催「雨晴会」発足させる
・1957年(昭和32) ブリジストン美術館で個展を開催する
・1959年(昭和34) 貨物船にて渡欧、4月~6月パリ到着滞在後イタリアを巡り、パリでは岡鹿之助と行動を共にする
・1960年(昭和35) 神奈川県中郡大磯町瀧之沢に転居、第25回新制作展に「夕焼け山水」出品する
・1963年(昭和38) 東山魁夷、杉山寧、高山辰雄、西山英雄らと孔雀画廊主催「五山会」を発足させる
・1964年(昭和39) 「異郷落日」に対して日本芸術院賞が贈られる
・1968年(昭和43) サカモト画廊主催「十一月会」が発足する
・1972年(昭和47) 東急百貨店(東京・渋谷)にて「山本丘人展」が開催される
・1974年(昭和49) 新制作協会日本画部全会員が退会し、新たに「創画会」が発足、日展、院展、創画会の会員により「遊星会」が発足する
・1977年(昭和52) 文化勲章を授章、文化功労者として顕彰され、上村松篁、杉山寧、高山辰雄、東山魁夷らと兼素洞主催「白虹会」を発足する
・1983年(昭和58) 軽い脳溢血を起こし静養、遊星展が終了する
・1985年(昭和60) 美代夫人が亡くなり、病に倒れ入院する
・1986年(昭和61)2月10日 神奈川県において、急性心不全のため、85歳で亡くなる
・1989年(平成元) 静岡県駿東郡小山町に「山本丘人記念館・美術館夢呂土(むろど)」が開設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細
1155年(久寿2)天台宗の僧・歌人慈円の誕生日(新暦5月17日)詳細
1710年(宝永7)江戸幕府が漢文体から和文に改訂した「武家諸法度」(宝永令)17ヶ条を発布する(新暦5月13日)詳細
1716年(享保元)江戸幕府が五街道の呼称を布達する(新暦6月4日)詳細
1994年(平成6)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(WTO設立協定)が調印(翌年1月1日発効)される詳細
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 今日は、昭和時代後期の1979年(昭和54)に、漫画家近藤日出造の亡くなった日です。
 近藤日出造(こんどう ひでぞう)は、明治時代後期の1908年(明治41)2月15日に、長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市)において、洋品小間物商を営む父・近藤三津蔵、母・くめの次男として生まれましたが、本名は秀蔵と書きました。1921年(大正10)に、稲荷山尋常高等小学校高等科を卒業後上京、日本橋三越に見習定員として就業したものの、半年後に退職して帰郷、長野市内の洋服店に仕立職人として就職します。
 1922年(大正11)に仕立職人も長続きせず、退職して家業に従事、この間に、新聞・雑誌の投稿漫画欄に入選、また、一般公募の企業漫画(国分商店のポスター)で二等を受けました。1928年(昭和3)に再度上京、紹介者を得て岡本一平の門下生となり、第四次「東京パック」に近藤秀三の名で初期作品を発表します。
 1929年(昭和4)に、九州日報の嘱託となり、斬新な筆致で政治漫画、インタビュー記事を書き、近藤日出造のペンネームを使用するようになり、1932年(昭和7)に岡本一平門下生の杉浦幸雄、矢崎茂四、漫画雑誌で知遇を得た横山隆一らと共に「新漫画派集団」を結成、翌年には、読売新聞社に嘱託として入社、新漫画派集団「漫画年鑑」を発行しました。1936年(昭和11)に「現代連続漫画全集」第4巻(アトリエ社)に、ストーリー漫画「ミスパン子」が収録され、1938年(昭和13)には、満州鉄道の招待により、横山隆一、清水崑らと共に大陸を旅行、読売新聞社を退職してフリーとなります。
 1940年(昭和15)に「新日本漫画家協会」を設立、「漫画」の編集にたずさわり、翌年に「漫画」誌の責任編集者としてその発行にあたり、1943年(昭和18)には、海軍報道班員として南方を一巡し、帰国後「大東亜漫画研究所」、「報道漫画研究会」の設立に参加しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、漫画家・新聞・雑誌関係者らと再会、「新漫画派集団」を「漫画集団」と改称し、翌年には、月刊誌「漫画」の責任編集者として復帰、表紙画を描きます。
 1947年(昭和22)に、読売新聞社に復職、1948年(昭和23)には、戦後政界の混乱期を描き、政治漫画の第一人者としての地位を固めました。1955年(昭和30)に第1回「文芸春秋漫画賞」選考委員となり、1956年(昭和31)には、日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」に司会・インタビュアーとして登場、絶妙の対話術で人気を呼びます。
 1964年(昭和39)に日本漫画家協会初代理事長に就任、1965年(昭和40)には、東京デザインカレッジの理事に就任し、新たに漫画科を創設しました。1974年(昭和49)に紫授褒章を受章、1975年(昭和50)には、「漫画で政治を大衆に近づけた功績」で、第23回菊池寛賞を受け、漫画家として初めて勲三等瑞宝章を受章します。
 1976年(昭和51)に脳卒中で倒れて入院、療養生活を送り、1977年(昭和52)には、読売新聞社を退職しました。漫画の質的向上、漫画家の地位向上のために活躍しましたが、1979年(昭和54)3月23日に、東京において、加療中に肺炎を併発し、71歳で亡くなっています。
 尚、1990年(平成2)に故郷の長野県千曲市稲荷山に「ふる里漫画館」が開館となり、日出造の作品が収蔵・常設展示されるようになりました。

〇近藤日出造の主要な著作

<漫画>
・矢部友衛共著『漫画研究資料講座 第2輯 漫画デツサン論』(1935年)
・『家庭科学漫画』(1942年)
・『にっぽん人物画』 正・続(1964年)
・『人の顔はなにを語るか』(1970年)

<エッセイ・コラム>
・共著 東京産業報国会編『模範産業戦士訪問記』(1943年)
・『日出造膝栗毛』(1954年)
・『やァこんにちわ』第1‐2集(1954年)
・『絵のない漫画』(1956年)
・『海道うらばなし』(1958年)
・編『わが青春の懺悔録』(1958年)
・杉浦幸雄共著『この道ばかりは』(1960年)
・『孫子の兵法』(1962)
・『金 欲の皮の人間学』(1963年)

<小説>
・『恐妻会』(1955)

☆近藤日出造関係略年表

・1908年(明治41)2月15日 長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市)において、洋品小間物商を営む父・近藤三津蔵、母・くめの次男として生まれる
・1914年(大正3) 稲荷山尋常高等小学校に入学する
・1921年(大正10) 稲荷山尋常高等小学校高等科を卒業後上京、日本橋三越に見習定員として就業、半年後に三越を退職して帰郷、長野市内の洋服店に仕立職人として就業する
・1922年(大正11) 仕立職人も長続きせず、退職して家業に従事。この間、新聞・雑誌の投稿漫画欄に入選、また、一般公募の企業漫画(国分商店のポスター)で二等を受ける
・1928年(昭和3) 母方の叔父・宮沢治平を頼って再度上京。紹介者を得て岡本一平の門下生となり、師の指導を受けながら「一平全集」全15巻(先進社)発行の準備にたずさわり、第四次「東京パック」に近藤秀三の名で初期作品を発表する
・1929年(昭和4) 九州日報の嘱託となり、斬新な筆致で政治漫画、インタビュー記事を書く、「東京パック」3月号より「近藤日出造」のペンネームを使用、創刊された「月刊マンガマン」に数多くの作品を寄稿する
・1932年(昭和7) 岡本一平門下生の杉浦幸雄、矢崎茂四、漫画雑誌で知遇を得た横山隆一らと共に「新漫画派集団」を結成する
・1933年(昭和8) 読売新聞社に嘱託として入社、横山隆一の妹・英と結婚、新漫画派集団「漫画年鑑」を発行する
・1936年(昭和11) 「現代連続漫画全集」第4巻(アトリエ社)に、最初にして最後のストーリー漫画「ミスパン子」(講談社「婦人倶楽部」連載)が収録される
・1938年(昭和13) 満州鉄道の招待により、横山隆一、清水崑らと共に大陸を旅行、読売新聞社を退職してフリーとなる
・1940年(昭和15) 「新日本漫画家協会」を設立、設立委員として、機関誌、月刊・“眼で見る時局誌”「漫画」の編集にたずさわる
・1942年(昭和17) 執筆、出版事情が悪化する中、「漫画」誌の責任編集者としてその発行にあたる
・1943年(昭和18) 海軍報道班員として南方を一巡し、帰国後「大東亜漫画研究所」、「報道漫画研究会」の設立に参加する
・1945年(昭和20) 応召(九州・熊本県)、終戦で妻子の疎開先の上田市に復員後上京し、漫画家・新聞・雑誌関係者らと再会、「新漫画派集団」を「漫画集団」と改称し、再発足のため仲間を集う
・1946年(昭和21) 月刊誌「漫画」1月号より責任編集者として復帰、表紙画を描く
・1947年(昭和22) 読売新聞社に復職、10月16日号より執筆を開始する
・1948年(昭和23) 戦後政界の混乱期を描き、政治漫画の第一人者としての地位をかためる
・1951年(昭和26) サンフランシスコ対日講和会議取材に読売新聞社より派遣され、会議終了後、米国各地を取材旅行する
・1953年(昭和28) 「週刊読売」誌上に、各界第一人者との対談記事「やァこんにちわ、日出造見参」がスタートする
・1954年(昭和29) 文化人訪中団の一員として視察旅行へ行き、郭沫若ほか中国要人と会見する
・1955年(昭和30) 第1回「文芸春秋漫画賞」選考委員となる
・1956年(昭和31) 日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」に司会・インタビュアーとして登場、絶妙の対話術で人気を呼ぶ
・1957年(昭和32) 流感がもとで肺炎、心臓病を併発し、東京・聖路加病院、東大病院に入院加療する
・1958年(昭和33) 東大病院を退院し、那須高原にて静養する
・1959年(昭和34) 日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」を改題した「春夏秋冬」に、ホストとして出演する
・1960年(昭和35) 五輪ローマ大会取材のためイタリアに渡る
・1964年(昭和39) 日本漫画家協会初代理事長に就任する
・1965年(昭和40) 東京デザインカレッジの理事に就任し、新たに漫画科を創設する
・1970年(昭和45) 日本万国博覧会(大阪)に漫画集団として参加、「自由新報」に「日本安全運転」の連載を開始する
・1972年(昭和47) 月刊「漫画」復刊にたずさわった樋口信と共に、株式会社漫画社を設立、社主として就任、東京銀座・松屋にて、横山隆一、杉浦幸雄と共に「漫画御三家展」を開催する
・1973年(昭和48) 東京・大丸にて「顔・近藤日出造が描く一五〇人展」を開催する
・1974年(昭和49) 全国の原子力発電所取材記事を読売新聞に連載、紫授褒章を受章する
・1975年(昭和50) 「漫画で政治を大衆に近づけた功績」で、第23回菊池寛賞を受け、漫画家として初めて勲三等瑞宝章を受章する
・1976年(昭和51) 脳卒中で意識を失い、慈恵医大病院に入院、小康を得て中伊豆温泉病院にて療養生活を送る
・1977年(昭和52) 東京・武蔵野療園病院に転院、読売新聞社を退職する
・1978年(昭和53) 妻・英がくも膜下出血により急逝する
・1979年(昭和54)3月23日 東京において、加療中に肺炎を併発し、71歳で亡くなる
・1990年(平成2) 長野県千曲市稲荷山に「ふる里漫画館」が開館となり、日出造の作品が収蔵・常設展示される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1238年(暦仁元)僧・浄光が鎌倉大仏(木造仏)の建立を開始する(新暦5月8日)詳細
1883年(明治16)陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家北大路魯山人の誕生日詳細
1898年(明治31)東京市本郷区で本郷大火があり、1,478戸を焼失する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「国民義勇隊」結成を閣議決定する詳細
1950年(昭和25)世界気象機関(WMO)が設立される(世界気象デー)詳細
1981年(昭和56)国語審議会が当用漢字表に代わる「常用漢字表」を答申する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、写真家田沼武能が生まれた日です。
 田沼武能(たぬま たけよし)は、東京府東京市・東浅草の「田沼写真館」を営む家に生まれ、東京都立江北中学校(現在の都立江北高等学校)を経て、1946年(昭和21)に、東京写真工業専門学校(現在の東京工芸大学)へ入学し、報道写真家を志しました。1949年(昭和24)に東京写真工業専門学校(現在の東京工芸大学)を卒業後、サンニュースフォトスにスタッフカメラマンとして入社して木村伊兵衛に師事、1950年(昭和25)には、日本写真家協会の設立に参加します。
 1951年(昭和26)に木村伊兵衛の紹介で、「芸術新潮」嘱託となり、1954年(昭和29)には、東京・銀座の松屋で、最初の写真展「芸術院会員の顔」を開催しました。1959年(昭和34)にサン通信社(前身はサンニュースフォトス)と『芸術新潮』の嘱託を辞してフリーランスとなりましたが、1965年(昭和40)には、アメリカのタイム・ライフ社『LIFE』の契約写真家となります。
 1972年(昭和47)からライフワークとして世界の子供たちを撮影を開始、1975年(昭和50)には、写真集『すばらしい子供たち』を刊行し、第25回日本写真協会年度賞を受賞しました。1978年(昭和53)に写真集『遊べ子供たち』を刊行、1979年(昭和54)には、第14回モービル児童文化賞を受賞、写真展「日本の子供たち」が世界各国を巡回します。
 1984年(昭和59)に黒柳徹子のユニセフ・キャンペーンに毎年同行(~2014年)するようになり、1985年(昭和60)に第33回菊池寛賞、1988年(昭和63)には、第38回日本写真協会年度賞を受賞しました。さらに、1990年(平成2)に紫綬褒章、1994年(平成6)に第44回日本写真協会年度賞を受賞し、1993年(平成7)には、東京工芸大学写真学科教授となり、日本写真家協会会長(~2015年)にも就任します。
 2000年(平成12)に写真集『人間万歳』を刊行、2002年(平成14)に勲三等瑞宝章、2003年(平成15)に文化功労者、2004年(平成16)に東京工芸大学名誉教授、2019年(令和元)には文化勲章と数々の栄誉に輝きました。2020年(令和2)に「70年にわたる写真家活動と、写真界への多大な貢献」を理由に、2019年度朝日賞特別賞を受賞しましたが、2022年(令和4)6月1日に、東京都内の自宅において、93歳で亡くなり、従三位を追贈されています。

〇田沼武能の主要な著作

・写真集『武蔵野』(1974年)
・写真集『すばらしい子供たち』(1975年)
・写真集『遊べ子供たち』(1978年)
・写真集『世界の子供たちは、いま』(1979年)
・『未知の国すばらしい人たち カメラマン世界取材日記』(1983年)
・写真集『人間万歳』(2000年)
・『難民キャンプの子どもたち カラー版』(2005年)

☆田沼武能関係略年表

・1929年(昭和4)2月18日 東京府東京市・東浅草の「田沼写真館」を営む家に生まれる
・1946年(昭和21) 東京写真工業専門学校(現在の東京工芸大学)へ入学し、報道写真家を志す
・1949年(昭和24) 東京写真工業専門学校(現在の東京工芸大学)を卒業後、サンニュースフォトスにスタッフカメラマンとして入社する
・1950年(昭和25) 日本写真家協会の設立に参加する
・1951年(昭和26) 木村伊兵衛の紹介で、「芸術新潮」嘱託となる
・1954年(昭和29) 東京・銀座の松屋で、最初の写真展「芸術院会員の顔」を開催する
・1959年(昭和34) サン通信社(前身はサンニュースフォトス)と『芸術新潮』の嘱託を辞してフリーランスとなる
・1965年(昭和40) アメリカのタイム・ライフ社『LIFE』の契約写真家となる
・1972年(昭和47) ライフワークとして世界の子供たちを撮影を開始する
・1974年(昭和49) 師匠であった木村伊兵衛が死去した際、そのデスマスクを撮影する
・1975年(昭和50) 写真集『すばらしい子供たち』が刊行され、第25回日本写真協会年度賞を受賞する
・1978年(昭和53) 写真集『遊べ子供たち』が刊行される
・1979年(昭和54) 写真集『すばらしい子供たち』や『遊べ子供たち』などで、第14回モービル児童文化賞を受賞、写真展「日本の子供たち」が世界各国を巡回する
・1984年(昭和59) 黒柳徹子のユニセフ・キャンペーンに毎年同行(~2014年)するようになる
・1985年(昭和60) 第33回菊池寛賞を受賞する
・1988年(昭和63) 第38回日本写真協会年度賞を受賞する
・1990年(平成2) 紫綬褒章を受章する
・1994年(平成6) 第44回日本写真協会年度賞を受賞する
・1993年(平成7) 東京工芸大学写真学科教授となり、日本写真家協会会長(~2015年)に就任する
・2000年(平成12) 写真集『人間万歳』を刊行する
・2002年(平成14) 勲三等瑞宝章を受章する
・2003年(平成15) 文化功労者となる
・2004年(平成16) 東京工芸大学名誉教授となる
・2019年(令和元) 文化勲章を受章する
・2020年(令和2) 「70年にわたる写真家活動と、写真界への多大な貢献」を理由に、2019年度朝日賞特別賞を受賞する
・2022年(令和4)6月1日 東京都内の自宅において、93歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1212年(建暦2)第86代の天皇とされる後堀河天皇の誕生日(新暦3月22日)詳細
1825年(文政8)江戸幕府が「異国船打払令」を出す(新暦4月6日)詳細
1889年(明治22)日本画家奥村土牛の誕生日詳細
1908年(明治41)米国移民に関する「日米紳士協約」第七号が締結され、日本からの移民が制限される詳細
1935年(昭和10)貴族院で菊地武夫議員が美濃部達吉の「天皇機関説」を非難し、天皇機関説問題の端緒となる詳細
1938年(昭和13)石川達三著の南京従軍記『生きてゐる兵隊』を掲載した雑誌『中央公論』3月号が発禁処分となる詳細
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 今日は、明治時代中頃の1893年(明治26)に、洋画家・歌人・詩人・随筆家中川一政の生まれた日です。
 中川一政(なかがわ かずまさ)は、東京市本郷区駒込西片町(現在の東京都文京区西片)において、刀剣鍛冶松戸家を営む父・中川政朝、母・スワの子として生まれましたが、1902年(明治35)に母・スワが亡くなりました。1903年(明治36)に東京市北豊島郡巣鴨村向原(現在の豊島区東池袋)に転居、1907年(明治40)には、本郷区誠之尋常高等小学校を卒業し、神田錦町の錦城中学校に入学します。
 在学中の1908年(明治41)に『少年世界』の表紙図案に入選、与謝野晶子撰歌集『白光』に歌3首が収録され、1910年(明治43)に『スバル』や『創作』に短歌が紹介され、1911年(明治44)には、『萬朝報』の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載されました。1912年(明治45)に錦城中学校を卒業、『萬朝報』の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載され、1913年(大正2)には、中村星湖の推薦で『早稲田文学』に短歌「逝春」を発表しています。
 1914年(大正3)に処女作油彩「酒倉」が画会第14回展に出品され、岸田劉生の推薦で入選、画家を志すようになり、1915年(大正4)には、巽画会第15回展に「霜のとける道」ほかを出品し、最高位二等賞銀牌を受賞、草土社を結成しました。1916年(大正5)に同人誌『貧しき者』を創刊し、詩や随想を発表、1917年(大正6)から二科会展に連続して入賞し、1921年(大正10)には、詩集『見なれざる人』を出版、二科会第8回展に「静物」などを出品し、二科賞を受賞しています。
 1922年(大正11)に萬鉄五郎、岸田劉生らと春陽会設立に参加、1924年(大正13)に短歌雑誌『日光』の同人となり、1925年(大正14)には、訳著『ゴオホ』を出版、東京府和田堀之内村永福寺隣(現在の杉並区永福)に転居しました。1926年(大正15)に初の画集『中川一政畫集』を出版、1928年(昭和3)に東京朝日新聞に連載の片岡鉄兵「生ける人形」の挿画を担当、1930年(昭和5)には、随筆『美術の眺め』を出版します。
 1931年(昭和6)に個展「中川一政水墨展」を開催、佐藤春夫、日夏耿之介と同人文芸誌『古東多万』を創刊、1933年(昭和8)に都新聞に連載の尾﨑士郎「人生劇場 青春篇」の挿画を担当、1937年(昭和12)には、小川芋銭、小杉放菴らと「墨人倶楽部」を結成しました。1938年(昭和13)に第2回文部省美術展覧会(新文展)第二部審査員を委嘱され、1939年(昭和14)に初の中国旅行で鹿島龍蔵と北京、ハルピン、熱河、大同を巡り、1940年(昭和15)には、藤田嗣治、小杉放菴、木村荘八らと邦画一如会を結成します。
 1948年(昭和23)に武者小路実篤を中心に結成された生成会に同人として参加、1949年(昭和24)に神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構え、1953年(昭和28)には、初の洋行で、約5か月にわたりブラジル、フランス、イタリア、イギリスを歴訪しました。1958年(昭和33)に訪中団団長として中国を訪問、1960年(昭和35)に全国知事会の依頼で「漁村凱風」を制作、東宮御所に献納され、1961年(昭和36)には、宮中歌会始の召人となります。
 1964年(昭和39)に日中文化交流協会代表団として訪中し、中国建国15周年を祝う国慶節式典に参列、1965年(昭和40)には、ソ連文化省の招きでソ連を訪問し、同国の美術演劇事情を視察しました。1975年(昭和50)に『中川一政全集』(全5巻)、『腹の虫』を出版、文化勲章を受章し、文化功労者となり、1982年(昭和57)には、日中文化交流協会代表団の顧問として訪中します。
 1984年(昭和59) 東京都名誉都民となり、1986年(昭和61)には、母の故郷である石川県松任市(現在の白山市)に「松任市立中川一政記念美術館」が開館、松任市名誉市民となりました。1989年(平成元)には、神奈川県真鶴町に「真鶴町立中川一政美術館」が開館しましたが、1991年(平成3)2月5日に、東京において、97歳で亡くなっています。

〇中川一政の主要な作品

<絵画>

・「酒倉」(1914年)巽(たつみ)画会展入選
・「監獄の横」(1917年)
・「板橋風景」(1919年)東京国立近代美術館蔵
・「静物」(1921年)二科会第8回展二科賞受賞
・「少年像」(1942年)
・「漁村凱風」(1960年)東宮御所蔵
・「福浦」(1965年)
・「箱根駒ケ岳(こまがたけ)」(1982年)

<著作>

・詩集『見なれざる人』(1921年)
・画文集『中川一政画集』(1926年)
・随筆『美術の眺め』(1930年)
・歌集『向ふ山』(1943年)
・随筆『うちには猛犬がいる』(1963年)
・『腹の虫』(1975年)

☆中川一政関係略年表

・1893年(明治26)2月14日 東京市本郷区駒込西片町(現在の東京都文京区西片)において、刀剣鍛冶松戸家を営む父・中川政朝、母・スワの子として生まれる
・1902年(明治35) 母・スワ(享年33歳)が亡くなる
・1903年(明治36) 東京市北豊島郡巣鴨村向原(現在の豊島区東池袋)に転居する
・1907年(明治40) 本郷区誠之尋常高等小学校を卒業し、神田錦町の錦城中学校に入学する
・1908年(明治41) 『少年世界』の表紙図案に入選、与謝野晶子撰歌集『白光』に歌3首が収録される
・1910年(明治43) 『スバル』や『創作』に短歌が紹介される
・1911年(明治44) 『萬朝報』の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載される
・1912年(明治45) 錦城中学校を卒業、『萬朝報』の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載される
・1913年(大正2) 中村星湖の推薦で『早稲田文学』に短歌「逝春」を発表する
・1914年(大正3) 処女作油彩「酒倉」が画会第14回展に出品され、岸田劉生の推薦で入選、画家を志す
・1915年(大正4) 巽画会第15回展に「霜のとける道」ほかを出品し、最高位二等賞銀牌を受賞、草土社を結成する
・1916年(大正5) 同人誌『貧しき者』を創刊し、詩や随想を発表する
・1917年(大正6) 二科会第4回展に「風景〔杉と茶畑〕」を出品し、入選、同人雑誌『観照』特別号として「中川一政詩集」が刊行される
・1918年(大正7) 二科会第5回展に「冬〔初冬〕」《夏》を出品し、入選する
・1919年(大正8) 二科会第6回展に「下板橋の川辺(冬)〔板橋風景〕」ほかを出品し入選する
・1920年(大正9) 初の個展(油彩)を開き、二科会第7回展に「自画像」ほかを出品し入選、千家元麿、宮崎丈二らと雑誌『詩』を創刊する
・1921年(大正10) 詩集『見なれざる人』を出版、二科会第8回展に「静物」などを出品し、二科賞を受賞する
・1922年(大正11) 小杉放庵、萬鉄五郎、石井鶴三、木村荘八、岸田劉生らと春陽会設立に参加する
・1923年(大正12) 伊藤暢子(伊藤為吉の娘)と結婚する
・1924年(大正13) 短歌雑誌『日光』の同人となる
・1925年(大正14) 訳著『ゴオホ』を出版、東京府和田堀之内村永福寺隣(現在の杉並区永福)に転居する
・1926年(大正15) 初の画集『中川一政畫集』を出版する
・1928年(昭和3) 東京朝日新聞に連載の片岡鉄兵「生ける人形」の挿画を担当する
・1930年(昭和5) 随筆『美術の眺め』を出版する
・1931年(昭和6) 個展「中川一政水墨展」を開催、佐藤春夫、日夏耿之介と同人文芸誌『古東多万』を創刊する
・1933年(昭和8) 都新聞に連載の尾﨑士郎「人生劇場 青春篇」の挿画を担当する
・1937年(昭和12) 小川芋銭、小杉放菴、菅楯彦、矢野橋村、津田青楓らと「墨人倶楽部」を結成する
・1938年(昭和13) 第2回文部省美術展覧会(新文展)第二部審査員を委嘱される
・1939年(昭和14) 初の中国旅行で鹿島龍蔵と北京、ハルピン、熱河、大同を巡る
・1940年(昭和15) 父・政朝が死去(享年79歳)、藤田嗣治、石井柏亭、鍋井克之、津田青楓、牧野虎雄、小杉放菴、石井鶴三、木村荘八らと邦画一如会を結成する
・1945年(昭和20) 疎開先の富山県高岡に約1か月滞在し、山形県酒田を経て宮城県黒川郡宮床村(現在の大和町宮床)で終戦を迎える
・1948年(昭和23) 武者小路実篤を中心に結成された生成会に同人として参加、文芸雑誌『心』が創刊される
・1949年(昭和24) 神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構える
・1953年(昭和28) 初の洋行で、約5か月にわたりブラジル、フランス、イタリア、イギリスを歴訪、東京新聞夕刊文化欄に旅行記を41回にわたり連載する
・1957年(昭和32) 『鉄斎』を武者小路実篤、梅原龍三郎、小林秀雄とともに監修、出版する
・1958年(昭和33) 「光琳生誕三〇〇年記念展」が北京で開催され、訪中団団長として訪問、東京新聞夕刊文化欄に「中国遊記」を7回にわたり連載する
・1960年(昭和35) 全国知事会の依頼で「漁村凱風」を制作、東宮御所に献納される
・1961年(昭和36) 宮中歌会始の召人となる
・1962年(昭和37) ミュンヘンのバイエルン独日協会の招きで渡欧、ミュンヘン市立美術館で「東洋美術の考え」を講演する
・1963年(昭和38) 「現代日本油絵展」が北京、上海で開催され、訪中洋画家団団長として訪問、随筆『うちには猛犬がゐる』を出版する
・1964年(昭和39) 日中文化交流協会代表団として訪中し、中国建国15周年を祝う国慶節式典に参列する
・1965年(昭和40) ソ連文化省の招きでソ連を訪問し、同国の美術演劇事情を視察、東京新聞夕刊文化欄に「私のソ連・欧州旅行」を8回にわたり連載する
・1967年(昭和42) 『中川一政画集』、随筆『遠くの顔』、『近くの顔』画文集、『中川一政書蹟』を出版、書展「中川一政書展」を開催する
・1975年(昭和50) 『中川一政全集』(全5巻)、『腹の虫』を出版、文化勲章を受章し、文化功労者となる
・1982年(昭和57) 日中文化交流協会代表団の顧問として訪中する
・1984年(昭和59) 東京都名誉都民となる
・1986年(昭和61) 母の故郷である石川県松任市(現在の白山市)に「松任市立中川一政記念美術館」が開館、松任市名誉市民となる
・1989年(平成元) 神奈川県真鶴町に「真鶴町立中川一政美術館」が開館する
・1991年(平成3)2月5日 東京において、97歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

741年(天平13)聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す(新暦3月5日)詳細
940年(天慶3)平将門が下野の豪族藤原秀郷と平貞盛らの軍勢により、猿島の北山で討たれる(新暦3月25日)詳細
1896年(明治29)日本画家徳岡神泉の誕生日詳細
1945年(昭和20)近衛文麿が昭和天皇に対して、上奏文(近衛上奏文)を出す詳細
1951年(昭和26)奄美大島日本復帰協議会(議長:泉芳朗)が結成される詳細
1967年(昭和42)小説家山本周五郎の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、日本画家小松均の生まれた日です。
 小松均(こまつ ひとし)は、山形県北村山郡亀井田村深堀(現在の大石田町豊田)において、曹洞宗延命寺の住職であった父・小松梅男、母・フヨの長男として生まれましたが、翌年に父が亡くなったため、同郡白鳥村で農業を営む母方の伯父、細谷金四郎宅に母子共に身を寄せました。1910年(明治43)に母が再婚後も細谷家で養われ、1916年(大正5)には、富並尋常高等小学校を卒業し、伯父の農業を手伝うようになります。
 1919年(大正8)頃、神奈川県川崎市に出、洋服屋の小僧となり、のち東京・神田の書籍店、菊屋に移りましたが一旦帰郷し、下駄屋に丁稚奉公し、1920年(大正9)に再び上京し、万玄社に勤め、新聞配達をするかたわら、画家を志して川端画学校に通って岡村葵園に学びました。1923年(大正13)の第5回中央美術展に「嫁して行く村の乙女」を出品し入選、第4回国画創作協会展に「晩秋の野に死骸を送る村人たち」を出品して入選します。
 1924年(大正14)に京都府京都市の東山に転居、土田麦僊の山南塾に入り、東山洋画研究所でデッサンを学び、第11回日本美術院試作展に「倉のある雪の日の子守子」が入選、1926年(大正15)には、第5回国画創作協会展に「秋林」「夕月」を出品し国画賞を受賞、奨学金を受け、会友となりました。1928年(昭和3)に第7回国画創作協会展に「雪」「八瀬」を出品、福田豊四郎、吉岡堅二らとともに新樹社を設立、京都府愛宕郡大原村(現在の京都市左京区大原)に転居します。
 1929年(昭和4)の第10回帝展に「渓流」を出品し初入選、1930年(昭和5)の第11回帝展に「櫟林」を出品し特選、1931年(昭和6)の第12回帝展に「山路」を出品し入選し、日本画家としての評価を得ました。1934年(昭和9)に福田豊四郎や吉岡堅二らとともに山樹社を結成、1935年(昭和10)に満州に渡り、1937年(昭和12)には、津田青楓、中川一政、矢野橋村、菅楯彦らと墨人会を結成し、第1回展を大阪・朝日会館で開催します。
 1938年(昭和13)に傷病兵慰問のため、中国に渡り、上海・鎮江・蘇州・杭州・南京を巡り、1939年(昭和14)に麦僊の山南塾再興を企て、山南会をおこし、1940年(昭和15)には仏画の大作制作を志しました。1945年(昭和20)に仏画の大作を描き続けながら、終戦を迎え、翌年には、第31回院展に「牡丹」を出品、日本美術院賞を受け、同人となり、大原で自給自足の生活をしながら、その自然を題材に制作を続けます。
 1965年(昭和40)の第50回院展に「吾が窓より(夏山)」を出品して文部大臣賞、1975年(昭和50)に故郷の最上川を題材とした連作で芸術選奨文部大臣賞、1979年(昭和54)には、第64回院展に「雪の最上川」を出品、内閣総理大臣賞を受賞しました。1980年(昭和55)に勲四等旭日小綬章を受章し、出生地の大石田町の名誉町民となり、1981年(昭和56)には、16歳まで過ごした村山市の名誉市民となります。
 さらに、1986年(昭和61)に文化功労者となり、1987年(昭和62)には、第2回関西大賞大画仙賞を受賞しました。1988年(昭和63)には、「ぼくの むら」で、第35回サンケイ児童出版文化賞美術賞を受賞しましたが、1989年(平成元)8月23日に、京都府京都市左京区大原の自宅において、87歳で亡くなっています。尚、没後の1990年(平成2)に京都市の旧宅に「小松均美術館」が開館しました。

〇小松均の主要な著作

・『おのれの子・作品集』(1943年)
・『おのれの子・素描集』(1946年)

☆小松均関係略年表

・1902年(明治35)1月19日 山形県北村山郡亀井田村深堀(現在の大石田町豊田)において、曹洞宗延命寺の住職であった父・小松梅男、母・フヨの長男として生まれる
・1903年(明治36) 父・小松梅男が死去したため、山形県北村山郡白鳥村で農業を営む母方の伯父、細谷金四郎宅に母子は身を寄せる
・1910年(明治43) 母が再婚、均はその後も細谷家で養われる
・1914年(大正3) 白鳥小学校を卒業し、富並尋常高等小学校に入学し、往復16キロの山路を学校に通う
・1916年(大正5) 富並尋常高等小学校を卒業し、伯父の農業を手伝う
・1919年(大正8) この頃、神奈川県川崎市に出、洋服屋の小僧となり、のち東京・神田の書籍店、菊屋に移り、この頃から画学生に憧がれたが一旦帰郷し、下駄屋に丁稚奉公する
・1920年(大正9) 再び上京し、万玄社に勤め、新聞配達をするかたわら、画家を志して川端画学校に通って岡村葵園に学ぶ
・1923年(大正13) 第5回中央美術展に、再婚の際の母の姿をテーマに「嫁して行く村の乙女」を出品し入選、第4回国画創作協会展に、父の死を追想して描いた「晩秋の野に死骸を送る村人たち」を出品して入選する
・1924年(大正14) 京都府京都市の東山に転居、土田麦僊の山南塾に入り、東山洋画研究所でデッサンを学ぶ、第11回日本美術院試作展に「倉のある雪の日の子守子」が入選する
・1926年(大正15) 第5回国画創作協会展に「秋林」「夕月」を出品し国画賞を受賞、奨学金を受け、会友となる
・1928年(昭和3) 第7回国画創作協会展に「雪」「八瀬」を出品、福田豊四郎、吉岡堅二らとともに新樹社を設立、京都府愛宕郡大原村(現在の京都市左京区大原)に転居する
・1929年(昭和4) 第10回帝展に「渓流」を出品し初入選する
・1930年(昭和5) 第11回帝展に「櫟林」を出品し特選となる
・1931年(昭和6) 第12回帝展に「山路」を出品し入選する
・1934年(昭和9) 福田豊四郎や吉岡堅二らとともに山樹社を結成する
・1935年(昭和10) 満州に渡る
・1937年(昭和12) 津田青楓、中川一政、矢野橋村、菅楯彦らと墨人会を結成し、第1回展を大阪・朝日会館で開催する
・1938年(昭和13) 傷病兵慰問のため、中国に渡り、上海・鎮江・蘇州・杭州・南京を巡る
・1939年(昭和14) 麦僊の山南塾再興を企て、山南会をおこす
・1940年(昭和15) 法隆寺金堂壁画模写事業が始まったのに刺激され、仏画の大作制作を志す
・1945年(昭和20) 仏画の大作を描き続けながら、終戦を迎える
・1946年(昭和21) 第31回院展に「牡丹」を出品、日本美術院賞を受け、同人となる
・1965年(昭和40) 第50回院展に「吾が窓より(夏山)」を出品、文部大臣賞を受賞する
・1973年(昭和48) 画業50年記念展を大阪阪神百貨店で開催する
・1975年(昭和50) 故郷の最上川を題材とした連作で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1979年(昭和54) 第64回院展に「雪の最上川」を出品、内閣総理大臣賞を受賞する
・1980年(昭和55) 勲四等旭日小綬章を受章し、出生地の大石田町の名誉町民となる
・1981年(昭和56) 16歳まで過ごした村山市の名誉市民となり、小松均展を高知県立郷土文化会館で開催する
・1984年(昭和59) 画業65年記念、小松均展を神戸大丸、新潟伊勢丹、仙台十字屋で開催する
・1986年(昭和61) 自然への感応・15年の足跡 小松均展を東京池袋、西武アート・フォーラムで開催、文化功労者となる
・1987年(昭和62) 第2回関西大賞大画仙賞を受賞する
・1988年(昭和63) 「ぼくの むら」で、第35回サンケイ児童出版文化賞美術賞を受賞する
・1989年(平成元)8月23日 京都府京都市左京区大原の自宅において、87歳で亡くなる
・1990年(平成2) 京都市の旧宅に小松均美術館が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

823年(弘仁14)嵯峨天皇から空海が教王護国寺(東寺)を下賜される(新暦3月5日)詳細
1926年(大正15)共同印刷の労働組合がにストライキを決議し、争議に突入する(共同印刷争議)詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣により、「空襲対策緊急強化要綱」が閣議決定される詳細
1946年(昭和21)GHQが極東国際軍事裁判所の設置を命令、「極東国際軍事裁判所条例」が制定される詳細
1960年(昭和35)「新日米安全保障条約」に調印する詳細
1976年(昭和51)電気通信工学者・大阪大学総長・八木アンテナ社長・参議院議員八木秀次の命日詳細
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