ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 文学者

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 今日は、平成時代の1992年(平成4)に、小説家・詩人井上光晴の亡くなった日です。
 井上光晴(いのうえ みつはる)は、大正時代の1926年(大正15)5月15日に、福岡県久留米市でにおいて、職人だった父・井上雪雄と母・たか子の長男として生まれましたが、4歳の時に、母が家出し、7歳の時に、祖母に連れられ軍港・佐世保に住み着きました。12歳の時に、佐世保の沖・崎戸炭鉱へと移って働き、16歳の時に、専検(専門学校入学者検定試験)に合格し、上京して陸軍の電波兵器技術養成所に入ります。
 1945年(昭和20)に電波兵器技術養成所を卒業後、多摩陸軍技術研究所勤務しましたが、敗戦後、日本共産党長崎地方委員会の創設に参加しました。1947年(昭和22)にガリ版詩集『むぎ』、翌年には、大場康二郎との共著詩集『すばらしき人間群』を刊行、1949年(昭和24)には、日本共産党九州地方常任委員などを務めます。
 1950年(昭和25)に『書かれざる一章』を「新日本文学」に発表して作家デビューをしましたが、1953年(昭和28)に日本共産党を離党し、1955年(昭和30)に上京して、「週刊新潮」記者等となりました。1958年(昭和33)に吉本隆明や奥野健男らと「現代批評」というグループを結成、創作活動に専念し、1960年(昭和35)に「現代批評」に、『虚構のクレーン』を発表、1963年(昭和38)には、原爆被爆者に焦点をあてた『地の群れ』を発表し、作家としての地位を確立します。
 1969年(昭和44)に新日本文学会を退会し、1970年(昭和45)に季刊誌「辺境」を個人編集、1977年(昭和52)には、「文学伝習所」第一期を佐世保にて開講し、以後九州や北海道はじめ、山形、群馬、新潟、長野など各地で開講して後進の育成に力を注ぎました。1979年(昭和54)に野間宏らと「使者」を創刊、1984年(昭和59)に「文学伝習所」を函館にも開設し、「函館文学」を刊行、1989年(平成元)には、文芸誌「兄弟」が創刊されます。1992年(平成4)5月30日に、東京都調布市において、大腸癌により、66歳で亡くなっています。

〇井上光晴の主要な著作

・『書かれざる一章』(1950年)
・『病める部分』(1951年)
・『双頭の鷲(わし)』(1952年)
・『長靴島』(1953年)
・長編小説『虚構のクレーン』(1960年)
・『地の群れ』(1963年) 
・『他国の死』(1965年)
・『赤い手毱(てまり)』(1966年)
・小説『黒い森林』(1967年)
・『心優しき叛逆者(はんぎゃくしゃ)たち』(1973年)
・時代小説『丸山蘭水楼の遊女たち』(1976年)
・『井上光晴詩集』(1976年)
・長編小説『憑(つ)かれた人』(1981年)
・『西海原子力発電所』(1986年)
・長編『地下水道』(1987年)
・作品集『サラダキャンプ、北へ』(1987年)
・『虫』(1988年)
・『暗い人』第1部・第2部・第3部(1988年・1989年・1991年)
・『輸送』(1989年)
・『十八歳の詩集』(1998年)

☆井上光晴関係略年表

・1926年(大正15)5月15日 福岡県久留米市でにおいて、職人だった父・井上雪雄と母・たか子の長男として生まれる
・1830年(昭和5) 4歳の時に、母が家出する
・1933年(昭和8) 7歳の時に、祖母に連れられ軍港・佐世保に住み着く
・1938年(昭和13) 12歳の時に、佐世保の沖・崎戸炭鉱へと移って働く
・1942年(昭和17) 16歳の時、専検(専門学校入学者検定試験)に合格し、上京して陸軍の電波兵器技術養成所に入る
・1945年(昭和20) 電波兵器技術養成所を卒業後、多摩陸軍技術研究所勤務、敗戦後、日本共産党長崎地方委員会の創設に参加する
・1947年(昭和22) ガリ版詩集『むぎ』を刊行する
・1948年(昭和23) 大場康二郎との共著詩集『すばらしき人間群』を刊行する
・1949年(昭和24) 日本共産党九州地方常任委員などを務める
・1950年(昭和25) 『書かれざる一章』を「新日本文学」に発表して作家デビューをする
・1953年(昭和28) 日本共産党を離党する
・1955年(昭和30) 上京し、「週刊新潮」記者となる
・1958年(昭和33) 吉本隆明や奥野健男らと「現代批評」というグループを結成、創作活動に専念する
・1960年(昭和35) 「現代批評」に、『虚構のクレーン』を発表する
・1963年(昭和38) 原爆被爆者に焦点をあてた『地の群れ』を発表し、作家としての地位を確立する
・1969年(昭和44) 新日本文学会を退会する
・1970年(昭和45) 季刊誌「辺境」を個人編集する
・1977年(昭和52) 「文学伝習所」第一期を佐世保にて開講する
・1979年(昭和54) 野間宏らと「使者」を創刊する
・1984年(昭和59) 「文学伝習所」を函館に開設し、「函館文学」を刊行する
・1989年(平成元) 文芸誌「兄弟」が創刊される
・1992年(平成4)5月30日 東京都調布市において、大腸癌により、66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)俳人杉田久女の誕生日詳細
1908年(明治41)法学者・弁護士戒能通孝の誕生日詳細
1950年(昭和25)皇居前広場(人民広場)でデモ隊と占領軍が衝突し、8名が逮捕される(人民広場事件)詳細
「文化財保護法」が公布される(文化財保護法公布記念日)詳細
1968年(昭和43)「消費者保護基本法」(現在の「消費者基本法」)が公布・施行される詳細
生化学・医化学者古武弥四郎の命日詳細
2006年(平成18)映画監督・脚本家今村昌平の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1909年〈明治42〉に、文芸評論家・小説家・劇作家花田清輝の生まれた日です。
 花田清輝(はなだ きよてる〉は、福岡県福岡市東公園において、黒田藩に仕えていた武士を祖先とする花田家の一人っ子として生まれました。旧制福岡中学(現在の県立福岡高等学校)、旧制第七高等学校、九州帝国大学哲学科の聴講生を経て、1929年(昭和4)に京都帝国大学文学部に選科生として入学します。
 在学中の1931年(昭和6)に『七』で、第8回サンデー毎日大衆文芸賞を受賞、その後学費が払えずに中退し、福岡県に戻りました。1933年(昭和8)に上京し、中学上級生の実姉の嫁ぎ先、三浦義一宅に一時寄宿、翻訳などのアルバイトで暮らし、また、政友会代議士の選挙応援、論文代筆などもしています。
 1935年(昭和10)に朝鮮人ジャーナリストの依頼で満州に渡り、朝鮮人のコロニーを取材、1936年(昭和11)に中野正剛の東方会に参加、1939年(昭和14)には、東大陸社に入社して「東大陸」の実質的編集長となり、中野秀人、岡本潤らと文化再出発の会を結成し「文化組織」を創刊しました。1940年(昭和15)に「東大陸」編集を辞め、秋山清の紹介で林業新聞社に入社、翌年には、 最初の評論集「自明の理」(のち「錯乱の論理」と改題)を刊行します。
 1942年(昭和17)に「文化組織」に『復興期の精神』収録の連作エッセイを引き続き書き継ぎ、林業新聞社を退社、サラリーマン社(のちの自由国民社)に就職しました。1943年(昭和18)に「現代文学」誌に、大東塾顧問三浦義一と尾崎士郎の対談や影山正治を批判した「虚実いりみだれて」を発表、翌年には、『小林秀雄』(のち「太刀先の見切り」と改題)を「現代文学」に発表、「軍事工業新聞」社(のちの「日刊工業新聞」社)に入社しますが、戦時下にありながら、抵抗精神を韜晦した文体に託した評論活動を続けます。
 戦後の1946年(昭和21)に、「復興期の精神」を刊行し、新日本文学会に入会、1947年(昭和22)に綜合文化協会を設立、「綜合文化」を発行、1952年(昭和27)には、「新日本文学」の編集長となりました。しかし、1954年(昭和29)に新日本文学の内紛のため編集長を下ろされ、1956年(昭和31)には、「群像」3月号に『モラリスト批判』を掲載、“「モラリスト」論争”が起こります。
 1958年(昭和33)に歴史ものの長編戯曲『泥棒論語』を執筆、舞芸座によって俳優座劇場で公演され、第1回週刊読売新劇賞を受賞、1959年(昭和34)には、安部公房、千田是也、木下順二、野間宏らと「三々会」を結成して、演劇刷新運動を展開しました。1960年(昭和35)に記録芸術の会を結成して「現代芸術」を創刊、1962年(昭和37)には、小説『鳥獣戯話』で第16回毎日出版文化賞を受賞します。
 1966年(昭和41)には、新日本文学会議長に選出されたものの、1974年(昭和49)9月23日に、東京都内の慶応病院において、脳出血のため、65歳で亡くなりました。

〇花田清輝の主要な著作

・評論集『自明の理』(1941年)
・評論集『錯乱の論理』(1947年)
・評論集『アヴァンギャルド芸術』(1954年)
・戯曲『泥棒論語』(1958年)第1回週刊読売新劇賞受賞
・評論集『近代の超克』(1959年)
・評論集『もう一つの修羅』(1961年)
・小説『鳥獣戯話』(1960~62年)第16回毎日出版文化賞受賞
・小説『爆裂弾記』(1962年)
・小説『俳優修業』(1964年)
・戯曲『ものみな歌でおわる』(1964年)
・小説『小説平家』(1967年)
・小説『室町小説集』(1973年)
・評論集『日本のルネッサンス人』(1974年)

☆花田清輝関係略年表

・1909年〈明治42〉3月29日 福岡県福岡市東公園において、生まれる
・1929年(昭和2) 京都帝国大学文学部に選科生として入学する
・1931年(昭和6) 『七』で、第8回サンデー毎日大衆文芸賞を受賞、京都帝国大学文学部英文科を中退する
・1933年(昭和8) 福岡より上京し、中学上級生の実姉の嫁ぎ先、三浦義一宅に一時寄宿、翻訳などのアルバイトで暮らす
・1934年(昭和9) 李東華自伝完成、政友会代議士の選挙応援、論文代筆などのアルバイトで生計をたてる
・1935年(昭和10) 朝鮮人ジャーナリストの依頼で満州に渡り、朝鮮人のコロニーを取材する
・1936年(昭和11) 中野正剛の東方会に参加する
・1939年(昭和14) 東大陸社に入社して「東大陸」の実質的編集長となり、中野秀人、岡本潤らと文化再出発の会を結成し「文化組織」を創刊する
・1940年(昭和15) 「東大陸」編集を辞め、秋山清の紹介で林業新聞社に入社する
・1941年(昭和16) 第1評論集「自明の理」(のち「錯乱の論理」と改題)を刊行する
・1942年(昭和17) 「文化組織」に『復興期の精神』収録の連作エッセイを引き続き書き継ぎ、林業新聞社を退社、サラリーマン社(のちの自由国民社)に就職する
・1943年(昭和18) 「現代文学」誌に、大東塾顧問三浦義一と尾崎士郎の対談や影山正治を批判した「虚実いりみだれて」を発表する
・1944年(昭和19) 『小林秀雄』(のち「太刀先の見切り」と改題)を「現代文学」に発表、「軍事工業新聞」社(のちの「日刊工業新聞」社)に入社する
・1946年(昭和21) 「復興期の精神」を刊行し、新日本文学会に入会する
・1947年(昭和22) 綜合文化協会を設立、「綜合文化」を発行する
・1948年(昭和23) 「新日本文学」の編集員となる
・1952年(昭和27) 「新日本文学」の編集長となる
・1954年(昭和29) 新日本文学の内紛のため「新日本文学」の編集長をおろされる
・1956年(昭和31) 「群像」3月号に『モラリスト批判』を掲載、“「モラリスト」論争”が起こる
・1958年(昭和33) 歴史ものの長編戯曲『泥棒論語』を執筆、舞芸座によって俳優座劇場で公演され、第1回週刊読売新劇賞を受賞する
・1959年(昭和34) 安部公房、千田是也、木下順二、野間宏らと「三々会」を結成して、演劇刷新運動を展開する
・1960年(昭和35) 記録芸術の会を結成して「現代芸術」を創刊する
・1962年(昭和37) 小説『鳥獣戯話』で第16回毎日出版文化賞を受賞する
・1966年(昭和41) 新日本文学会議長に選出される
・1974年(昭和49)9月23日 東京都内の慶応病院において、脳出血のため、65歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1401年(応永8)第101代の天皇とされる称光天皇の誕生日(新暦5月12日)詳細
1897年(明治30)金本位制の「貨幣法」が公布される詳細
1911年(明治44)「工場法」が公布される詳細
1933年(昭和8)「米穀統制法」が公布される詳細
1939年(昭和14)詩人・建築家立原道造の命日詳細
1952年(昭和27)「文化財保護法」で、タンチョウ、トキ、オオサンショウウオ等が初の特別天然記念物に指定される詳細
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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、小説家・随筆家・登山家深田久弥の生まれた日です。
 深田久弥(ふかだ きゅうや)は、石川県江沼郡大聖寺町字中町(現在の加賀市)において、深田屋紙店を営む深田家の長男として生まれました。12歳の時に、福井県境に近い富士写ヶ岳(942m)に登ったのがきっかけで登山に興味を持ち、1918年(大正7)に旧制福井中学校(現在の福井県立藤島高等学校)へ入学し、友人と二人で白山に登頂して山岳開眼します。
 1923年(大正12)へ旧制第一高校へ進学、登山部に入部して本格的に登山に取り組み、一方で、文芸部で堀辰雄や高見順と知り合いました。1926年(大正15)に卒業後、東京帝国大学文学部哲学科入学、第9~10次「新思潮」に参加、第10次「新思潮」に発表した『武人鑑賞録』が川端康成らに認められ、「文学」同人となります。
 1927年(昭和2)に大学に在籍しつつ、改造社に入社、1929年(昭和4)に『イエスの弟子』を発表、1930年(昭和5)に「文芸春秋」に発表した『オロッコの娘』で小説家としての地位を確立、東京帝国大学を中退して、作家生活に入りました。1932年(昭和7)に『あすならう』を発表して文壇的評価を確立し、1933年(昭和8)には、小林秀雄らと「文学界」を創刊します。
 1935年(昭和10)に『津軽の野づら』連作により文壇の評価を高め、日本山岳会に入会、1937年(昭和12)には、『鎌倉夫人』、『山岳展望』を刊行しました。1941年(昭和16)に中島敦がパラオに出立する前に、自身の原稿をまとめたものを託され、翌年には、その原稿の内、『李陵』、『山月記』を「文学界」に紹介します。
 1944年(昭和19)に応召されて、中国各地を転戦、1946年(昭和21)には、中国から復員したものの、越後湯沢、金沢などを転々としました。1949年(昭和24)に錦城山岳会を結成し、理事となり、1955年(昭和30)に東京に転居、1957年(昭和32)には、『贋作家故郷へ行く』を最後に小説の筆を折ります。
 1958年(昭和33)にヒマラヤ探査行を実行、1959年(昭和34)に山岳雑誌『山と高原』(朋文堂)で毎月2山の連載を開始、1964年(昭和39)には、『日本百名山』を刊行し、翌年に第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞して人気作家に返り咲きました。1966年(昭和41)にシルクロード学術踏査等で、約4ヶ月中央アジアを旅行し、1968年(昭和43)には、日本山岳会の副会長に就任します。
 1969年(昭和44)には、山渓賞(山と渓谷社)を受賞しましたが、1971年(昭和46)3月21日に、登山中の茅ヶ岳(1,704m)にて、脳卒中により、68歳で急逝しました。

〇深田久弥の主要な著作

・『わが山山』(1934年)
・『津軽の野づら』(1935年)
・『鎌倉夫人』(1937年)
・『山岳展望』(1937年)
・『親友』(1943年)
・『知と愛』(1953年)
・『日本百名山』(1964年)第16回読売文学賞(評論・伝記賞)受賞
・『ヒマラヤの高峰』(1964~65年)

☆深田久弥関係略年表

・1903年(明治36)3月11日 石川県江沼郡大聖寺町字中町(現在の加賀市)において、深田屋紙店を営む深田家の長男として生まれる
・1915年(大正4) 12歳の時、福井県境に近い富士写ヶ岳(942m)に登ったのがきっかけで登山に興味を持つ
・1918年(大正7) 旧制福井中学校(現在の福井県立藤島高等学校)へ入学し、友人と二人で白山に登頂して山岳開眼する
・1923年(大正12) 旧制第一高校へ入学する
・1926年(大正15) 旧制第一高校を卒業し、東京帝国大学文学部哲学科入学する
・1927年(昭和2) 大学に在籍しつつ、改造社に入社する
・1929年(昭和4) 『イエスの弟子』を発表する
・1930年(昭和5) 「文芸春秋」に発表した『オロッコの娘』で小説家としての地位を確立、東京帝国大学を中退して、作家生活に入る
・1932年(昭和7) 『あすならう』を発表して文壇的評価を確立する
・1933年(昭和8) 小林秀雄らと「文学界」を創刊する
・1935年(昭和10) 『津軽の野づら』連作により文壇の評価を高め、日本山岳会に入会する
・1937年(昭和12) 『鎌倉夫人』、『山岳展望』を刊行する
・1940年(昭和15) 北畠八穂と結婚して正式に夫婦となる
・1941年(昭和16) 中島敦がパラオに出立する前に、深田に自身の原稿をまとめたもの『古潭』を託し、発表の仲介を依頼する
・1942年(昭和17) 前年託された中島の原稿のうち『李陵』『山月記』、また田中英光の『オリンポスの果実』の原稿を「文学界」に紹介する
・1943年(昭和18) 『親友』を刊行、木庭志げ子が深田の子を出産したことが北畠に露見する
・1944年(昭和19) 応召されて、中国各地を転戦する
・1946年(昭和21) 中国から復員する
・1947年(昭和22) 北畠と離婚の上、木庭志げ子と再婚する
・1949年(昭和24) 錦城山岳会を結成し、理事となる
・1955年(昭和30) 東京に転居する
・1957年(昭和32) 『贋作家故郷へ行く』を最後に小説の筆を折る
・1958年(昭和33) ヒマラヤ探査行をする
・1959年(昭和34) 山岳雑誌『山と高原』(朋文堂)で毎月2山の連載を開始する
・1964年(昭和39) 『日本百名山』を刊行する
・1965年(昭和40) 『日本百名山』が第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞し、人気作家に返り咲く
・1966年(昭和41) シルクロード学術踏査等で、約4ヶ月中央アジアを旅行をする
・1968年(昭和43) 日本山岳会の副会長に就任する
・1969年(昭和44) 山渓賞(山と渓谷社)を受賞する
・1971年(昭和46)3月21日 登山中の茅ヶ岳(1,704m)にて脳卒中により、68歳で急逝する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1582年(天正10)織田信長・徳川家康連合軍に敗れた武田勝頼が自害し甲斐武田家が滅亡(新暦4月3日)詳細
1643年(寛永20)江戸幕府が「田畑永代売買禁止令」を発布する(新暦4月29日)詳細
1834年(天保5)福井藩士・幕末の志士・思想家橋下佐内の誕生日(新暦4月19日)詳細
1901年(明治33)国木田独歩の初の作品集『武蔵野』が民友社から刊行される詳細
2010年(平成22)農林水産省により「ため池百選」が選定される詳細
2011年(平成23)東北地方太平洋沖地震が発生し、激しい揺れと大津波によって、東日本大震災と称される大被害を出す詳細
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 今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)に、文芸評論家青野季吉の生まれた日です。
 青野季吉(あおの すえきち)は、新潟県佐渡郡沢根町(現在の佐渡市)において、酒造業、廻船問屋を営む地主であった父・青野半五郎と母・ヒサの長男として生まれましたが、1894年(明治27)に母・ヒサ、1896年(明治29)に父・半五郎を亡くしました。新潟県立佐渡中学校、新潟県立高田師範学校第二部を経て、1910年(明治43)に早稲田大学文科予科一年に編入し、1912年(明治45)には、本科に進みます。
 1915年(大正4)に卒業後、読売新聞社入社し、社会部記者となったものの、1918年(大正7)に社内上層部のシベリア出兵論に反対し対立が深まり、1919年(大正8)に日本で最初にロープシンの『蒼ざめた馬』の翻訳を発表後、読売新聞社を辞職しました。1921年(大正10)に市川正一、平林初之輔、佐野文夫らと「無産階級」を発刊、1922年(大正11)に評論『心霊の滅亡』を「新潮」に発表して評論家として世に出ます。
 1923年(大正12)に「種まく人」の同人となり、『階級闘争と芸術運動』を発表、1924年(大正13)には、徳田球一とともに上海に渡り、帰国後「文芸戦線」の同人となり、プロレタリア文学理論の確立に努めました。1925年(大正14)に『無産政党と社会運動』、1926年(大正15)に最初の評論集『解放の芸術』、1927年(昭和2)に第二評論集『転換期の文学』を刊行、プロレタリア文学団体の分裂の際に労農芸術家連盟(労芸)に所属します。
 1929年(昭和4)に第三評論集『マルクス主義文学闘争』を刊行、1936年(昭和11)には、早稲田大学文学部講師となりましたが、1938年(昭和13)に第二次人民戦線事件において、「治安維持法」違反で検挙され、翌年に保釈出獄しました。戦争中の1941年(昭和16)に『文学の場所』、『文学の本願』、1942年(昭和17)に『回心の文学』、『文学の美徳』、1943年(昭和18)には、自伝『一つの石』を刊行しています。
 戦後の1946年(昭和21)に『文学と人間』、『芸術の園』などを刊行、1948年(昭和23)に日本ペンクラブの副会長となり、1949年(昭和24)には、『日本現代小説体系』の編集に参加、発足したばかりの国語審議会の委員を務めました。1950年(昭和25)に『現代文学論』で第1回読売文学賞の文芸評論賞を受賞、1951年(昭和26)に日本文藝家協会会長に就任、1952年(昭和27)には、「社会タイムス」発刊に際し、社長兼編集局長となります。
 1954年(昭和29)に『現代文学論大系』の編集に従事し、1956年(昭和31)に中国に招かれて旅行、日本芸術院会員となり、1958年(昭和33)には、回想記『文学五十年』で毎日出版文化賞を受賞しました。1960年(昭和35)に早稲田大学文学部講師を定年退職したものの、1961年(昭和36)6月23日に、東京の慶應義塾大学病院において、胃癌のため、71歳で亡くなっています。

〇青野季吉の主要な著作

・評論『心霊の滅亡』(1922年)
・『「調べた」芸術』(1925年)
・『自然生長と目的意識』(1926年)
・『解放の芸術』(1926年)
・評論集『解放の芸術』(1926年)
・評論集『転換期の文学』(1927年)
・評論集『マルクス主義文学闘争』(1929年)
・評論集『文芸と社会』(1936年)
・『現代文学論』(1950年)第1回読売文学賞の文芸評論賞受賞
・回想記『文学五十年』(1957年)毎日出版文化賞受賞

☆青野季吉関係略年表

・1890年(明治23)2月24日 新潟県佐渡郡沢根町(現在の佐渡市)において、酒造業、廻船問屋を営む地主であった父・青野半五郎と母・ヒサの長男として生まれる
・1894年(明治27) 母・ヒサが亡くなる
・1896年(明治29) 沢根町尋常小学校に入学するが、父・半五郎が亡くなる
・1902年(明治35) 新潟県立佐渡中学校へ入学する
・1907年(明治40) 新潟県立佐渡中学校を卒業して上京する
・1908年(明治41) 脚気のため帰郷し、新潟県立高田師範学校第二部へ入学する
・1909年(明治42) 新潟県立高田師範学校第二部を卒業し、神原郡袋津小学校に勤務する
・1910年(明治43) 早稲田大学文科予科一年に編入する
・1912年(明治45) 早稲田大学文科本科に進む
・1915年(大正4) 早稲田大学文科英文科卒業後、読売新聞社入社し、社会部記者となる
・1918年(大正7) 社内上層部のシベリア出兵論に反対し対立が深まる
・1919年(大正8) 日本で最初にロープシンの『蒼ざめた馬』の翻訳を発表、読売新聞社を辞職する
・1921年(大正10) 市川正一、平林初之輔、佐野文男らと「無産階級」を発刊する
・1922年(大正11) 評論『心霊の滅亡』を「新潮」に発表して評論家として世に出る
・1923年(大正12) 「種まく人」の同人となり、『階級闘争と芸術運動』を発表する
・1924年(大正13) 徳田球一とともに上海に渡り、帰国後「文芸戦線」の同人となる
・1925年(大正14) 『無産政党と社会運動』を刊行する
・1926年(大正15) 最初の評論集『解放の芸術』を刊行する
・1927年(昭和2) 第二評論集『転換期の文学』を刊行、プロレタリア文学団体の分裂の際に労農芸術家連盟(労芸)に所属する
・1929年(昭和4) 第三評論集『マルクス主義文学闘争』を刊行する
・1936年(昭和11) 早稲田大学文学部講師となる
・1938年(昭和13) 第二次人民戦線事件において、「治安維持法」違反で検挙される
・1939年(昭和14) 保釈出獄する 
・1941年(昭和16) 『文学の場所』、『文学の本願』を刊行する
・1942年(昭和17) 『回心の文学』、『文学の美徳』を刊行する
・1943年(昭和18) 自伝『一つの石』を刊行する
・1946年(昭和21) 『文学と人間』、『芸術の園』などを刊行する
・1948年(昭和23) 日本ペンクラブの副会長となる
・1949年(昭和24) 『日本現代小説体系』の編集に参加、発足したばかりの国語審議会の委員を務める
・1950年(昭和25) 『現代文学論』で第1回読売文学賞の文芸評論賞を受賞する
・1951年(昭和26) 日本文藝家協会会長に就任する
・1952年(昭和27) 「社会タイムス」発刊に際し、社長兼編集局長となる
・1954年(昭和29) 『現代文学論大系』の編集に従う
・1956年(昭和31) 中国に招かれて旅行、日本芸術院会員となる
・1958年(昭和33) 回想記『文学五十年』で毎日出版文化賞を受賞する
・1960年(昭和35) 早稲田大学文学部講師を定年退職する
・1961年(昭和36)6月23日 東京の慶應義塾大学病院において、胃癌のため、71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1610年(慶長15)絵師長谷川等伯の命日(新暦3月19日)詳細
1704年(元禄17)俳人・蕉門十哲の一人内藤丈草の命日(新暦3月29日)詳細
1901年(明治34)奥村五百子らによって愛国婦人会が創立される詳細
1906年(明治39)日本社会党[明治期]が結成され、日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生する詳細
1933年(昭和8)国際連盟総会のリットン調査団報告書採択に抗議し日本全権大使松岡洋右が退場、連盟脱退宣言をする詳細
1934年(昭和9)小説家・脚本家・映画監督直木三十五の命日(南国忌)詳細
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nakanoyoshio01
 今日は、昭和時代後期の1985年(昭和60)に、評論家・英文学者・平和運動家中野好夫が亡くなった日です。
 中野好夫(なかの よしお)は、明治時代後期の1903年(明治36)8月2日に、愛媛県松山市道後町において、伊予鉄道に勤務する父・中野容次郎と母・しんの長男として生まれましたが、翌年に父が徳島鉄道に転じたので、徳島県徳島市に転居しました。旧制徳島県立徳島中学校、旧制第三高等学校を経て、1923年(大正12)に東京帝国大学文学部英文科に入学します。
 1926年(大正15)に卒業後、千葉県成田町成田中学校の英語教師となりましたが、胸の疾患で入院して退職、1928年(昭和3)には、東京都郁文館中学に英語教師として再び就職、「演劇改造」の同人に加わり、劇作、劇評をしました。1929年(昭和4)に東京府立女子師範学校、次いで、府立第二高等学校の英語教師を務め、1931年(昭和6)にルーカスの『批評論』を翻訳刊行、1934年(昭和9)には、『バニャン』を刊行、東京女子師範学校助教授となります。
 1935年(昭和10)に東京女子大学講師を兼任、東京帝国大学文学部助教授となり、1940年(昭和15)に評伝『アラビアのロレンス』、1943年(昭和18)に『文学評論集』を刊行しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に『反省と出発』、1947年(昭和22)に『教養と文化』、『エリザベス朝演劇河和』を刊行し、1948年(昭和23)には、東京大学文学部教授となります。
 1949年(昭和24)に「戦争と平和に関する日本の科学者の生命」を起草委員の一人として作成、1950年(昭和25)には、日本英米文学会の会長(~1952年)となりました。1953年(昭和28)に東京大学文学部教授を辞任、雑誌「平和」の編集責任者(~1955年)を勤め、1954年(昭和29)には、渡米して帰国後、南米、ラテン・アメリカ、ヨーロッパを訪ねます。
 1958年(昭和33)に東京女子大学講師を辞め、、1960年(昭和35)に沖縄資料センターを東京に設立、1961年(昭和36)には、『最後の沖縄県知事』を刊行し、1964年(昭和39)には、中央大学文学部教授(~1968年)となりました。1965年(昭和40)に『私の憲法勉強』を刊行、1967年(昭和42)には、日本マスコミ市民会議の常任理事、「明るい革新都政をつくる会」のメンバーとなって美濃部革新都政誕生に貢献、『シェイクスピアの面白さ』を刊行し、第21回毎日出版文化賞を受賞しています。
 1968年(昭和43)に『沖縄問題を考える』の代表編者として刊行、1969年(昭和44)に『戦後資料沖縄』を編纂して刊行、1970年(昭和45)には、「沖縄資料センター設立並びに運営につくした功績」により、沖縄タイムス社から感謝状を受けました。1971年(昭和46)に東京女子大学大学院講師となり、1974年(昭和49)には、『蘆花徳冨健次郎』(全3巻、1972年~74年)で第1回大佛次郎賞を受賞しています。
 1978年(昭和53)に第14回琉球新報賞受賞を受賞、1983年(昭和58)には、「著作と実践を通しての平和と民主化への貢献」により、昭57年度朝日賞を受賞しました。その他に、憲法擁護や第五福竜丸の保存運動、原水禁運動の統一などに力を尽くしてきましたが、1985年(昭和60)2月20日に、東京都において、肝臓がんにより、81歳で亡くなっています。

〇中野好夫の主要な著作

・翻訳『雨』サマセット・モーム作(1940年) 
・翻訳『ガリヴァ旅行記』ジョナサン・スウィフト作(1940年) 
・『文学試論集』全三冊(1942~52年)
・『エリザベス朝演劇講話』(1947年)
・翻訳『ベニスの商人』シェークスピア作(1948年)
・『人間の名において』(1954年)
・『ぼらのへそ』(1958年)
・評伝『アラビアのロレンス』(1963年)
・『シェイクスピアの面白さ』(1967年)第21回毎日出版文化賞受賞
・『スウィフト考』(1969年)
・『人間の死にかた』(1969年)
・『蘆花徳冨健次郎(ろかとくとみけんじろう)』全三部(1972~74年)第1回大仏次郎賞受賞
・翻訳『ローマ帝国滅亡史』ギボン作(1976~85年)未完

☆中野好夫関係略年表

・1903年(明治36)8月2日 愛媛県松山市道後町において、伊予鉄道に勤務する父・中野容次郎と母・しんの長男として生まれる
・1904年(明治37) 父が徳島鉄道に転じたので、徳島県徳島市に転居する
・1910年(明治43) 徳島市立寺島尋常小学校に入学する
・1916年(大正5) 旧制徳島県立徳島中学校へ入学する
・1920年(大正9) 旧制徳島中学校4年修了で、京都に出て旧制第三高等学校文科甲類に入学する
・1923年(大正12) 東京帝国大学文学部英文科に入学する
・1926年(大正15) 東京帝国大学文学部英文科を卒業し、千葉県成田町成田中学校の英語教師となるが、胸の疾患で入院する
・1928年(昭和3) 東京都郁文館中学に英語教師として就職、「演劇改造」の同人に加わり、劇作、劇評をする
・1929年(昭和4) 東京府立女子師範学校、次いで、府立第二高等学校の英語教師を務める
・1930年(昭和5) 土井晩翠の娘・信と結婚する
・1931年(昭和6) ルーカスの『批評論』を翻訳刊行する
・1934年(昭和9) 『バニャン』を刊行、東京女子師範学校助教授となる
・1935年(昭和10) 東京女子大学講師を兼任、東京帝国大学文学部助教授となる
・1939年(昭和14) 「知識人のある傾向について」を「思想」に発表する
・1940年(昭和15) 評伝『アラビアのロレンス』を刊行、妻・信が亡くなる
・1942年(昭和17) 中村勝麻呂の娘・静と再婚する
・1943年(昭和18) 『文学評論集』を刊行する
・1946年(昭和21) 『反省と出発』を刊行する
・1947年(昭和22) 『教養と文化』、『エリザベス朝演劇河和』を刊行する
・1948年(昭和23) 東京大学文学部教授となり、『怒りの花束』、『英米文学論』を刊行する
・1949年(昭和24) 「戦争と平和に関する日本の科学者の生命」を起草委員の一人として作成、『南極のスコット』を刊行する
・1950年(昭和25) 日本英米文学会の会長(~1952年)となる
・1951年(昭和26) 『良識と寛容』を刊行する
・1952年(昭和27) 『私の平和論』を刊行する
・1953年(昭和28) 東京大学文学部教授を辞任、雑誌「平和」の編集責任者(~1955年)を勤める
・1954年(昭和29) 渡米して帰国後、南米、ラテン・アメリカ、ヨーロッパを訪ね、『人間の名において』を刊行する
・1956年(昭和31) 『私の消極哲学』を刊行する
・1957年(昭和32) バーチェット『十七度線の北』を翻訳刊行、『平和と良識』を刊行する
・1958年(昭和33) 東京女子大学講師を辞め、『ぼらのへそ』を刊行する
・1960年(昭和35) 沖縄資料センターを東京に設立する
・1961年(昭和36) 『最後の沖縄県知事』を刊行する
・1964年(昭和39) 中央大学文学部教授(~1968年)となる
・1965年(昭和40) 『私の憲法勉強』を刊行する
・1967年(昭和42) 日本マスコミ市民会議の常任理事、「明るい革新都政をつくる会」のメンバーとなって美濃部革新都政誕生に貢献、『シェイクスピアの面白さ』を刊行し、第21回毎日出版文化賞を受賞する
・1968年(昭和43) 『沖縄問題を考える』の代表編者として刊行する
・1969年(昭和44) 『戦後資料沖縄』を編纂して刊行する
・1970年(昭和45) 「沖縄資料センター設立並びに運営につくした功績」により、沖縄タイムス社から感謝状を受け、新崎盛暉と共著で『沖縄・70年前後』を刊行する
・1971年(昭和46) 東京女子大学大学院講師となる
・1972年(昭和47) 『沖縄と私』、『蘆花徳富健次郎 第一部・第二部』を刊行する
・1973年(昭和48) 『忘れえぬ日本人』を刊行する
・1974年(昭和49) 『蘆花徳富健次郎 第三部』を刊行、『蘆花徳冨健次郎』(全3巻、1972年~74年)で第1回大佛次郎賞を受賞する
・1976年(昭和51) 『沖縄戦後史』、『風雨前後』を刊行、ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅰを翻訳刊行する
・1978年(昭和53) 第14回琉球新報賞受賞を受賞、ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅱを翻訳刊行する
・1981年(昭和56) ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅲを翻訳刊行する
・1983年(昭和58) 「著作と実践を通しての平和と民主化への貢献」により、昭57年度朝日賞を受賞する
・1985年(昭和60)2月20日 東京都において、肝臓がんにより、81歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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