ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 文学者

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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、詩人・児童文学者・伝道師山村暮鳥が亡くなった日です。
 山村暮鳥(やまむら ぼちょう)は、明治時代前期の1884年(明治17)1月10日に、群馬県西群馬郡棟高村(現在の高崎市)において、農業を営む父・木暮久七、母・志村シヤウの長男として生まれましたが、本名は志村八九十(しむら はくじゅう)と言いました。1889年(明治22)に父は祖父の確執のため家を出て、母と共に元総社村(現前橋市)の木暮家に帰り、養子となって、木暮八九十となります。
 1895年(明治28)に、父が事業に失敗したため、堤ヶ岡尋常小学校高等科を中退し、一家で上郊村に移り、松山寺の住職に、漢籍を学びました。1899年(明治32)に堤ヶ岡尋常小学校(現在の高崎市立堤ヶ岡小学校)の代用教員となり、翌年に前橋の聖マッテア教会で英語夜学校が開校され、小学校の宿直を務めながら夜学校に通います。
 1902年(明治35)に聖マッテア教会で洗礼を受け、同教会の婦人宣教師ウォールの通訳兼秘書として青森に転任、翌年には、ウォールの尽力により、東京佃島にある聖三一神学校に入学しました。1905年(明治38)に北海道旭川連帯に入隊、補充兵として満州に派遣されましたが、1906年(明治39)には、満州より帰国、聖三一神学校に復学します。
 1908年(明治41)に卒業後、秋田市秋田聖救世主教会に伝道師として着任したものの、各地に転任し、人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらいました。1910年(明治43)に自由詩社同人となり、1913年(大正2)には、萩原朔太郎、室生犀星と詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成、詩集『三人の処女』を新声社から自費出版します。
 1917年(大正6)に随筆集『小さな穀倉より』を刊行、1918年(大正7)には、水戸ステパノ教会に転任したが、健康を害して静養のため千葉県北条町に移り、大関五郎、柳橋好雄と「黎明会」を結成、雑誌「苦悩者」を創刊、詩集『風は草木にささやいた』、翻訳『ドストエフスキー書簡集』を刊行しました。1919年(大正8)に結核のため茨城県大貫海岸に転居、日本聖公会伝道師を休職、1920年(大正9)に福島県平町に移りましたが、結核とクリスチャンのため迫害され、茨城県磯浜に転居、童話集『ちるちる・みちる』を刊行、1921年(大正10)には、童謡専門雑誌「とんぼ」の顧問となり、詩集『梢の巣にて』、詩選集『穀粒』を刊行します。
 1922年(大正11)に「金の船」の「幼年詩」欄の選者となり、小説『十字架』、童謡童話集『万物の世界』、童話『葦舟の児』、童話『少年行』、童話『お菓子の城』を刊行しました。1923年(大正12)には、ほとんど病床で生活するようになり、童話『鉄の靴』を刊行したものの、翌年12月8日に、茨城県東茨城郡大洗町の借家「鬼坊裏別荘」において、肺結核に悪性腸結核を併発し、40歳で亡くなっています。
 尚、没後の1925年(大正14)に詩集『雲』、童話集『地獄の門』、『小さな世界』、『よしきり』が刊行され、1926年(大正15)には、雑誌「日本詩人」が「山村暮鳥追悼号」を出し、詩集『月夜の牡丹』が刊行されました。

〇山村暮鳥の主要な著作

・詩集『三人の処女』(1913年)
・詩集『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』(1915年)
・詩集『風は草木にささやいた』(1918年)
・童話集『ちるちる・みちる』(1920年)
・詩集『梢(こずえ)の巣にて』(1921年)
・童話『鉄の靴』(1923年)
・詩集『雲』(1925年)
・遺稿詩集『月夜の牡丹(ぼたん)』(1926年)

☆山村暮鳥関係略年表

・1884年(明治17)1月10日 群馬県西群馬郡棟高村(現在の高崎市)において、農業を営む父・木暮久七、母・志村シヤウの長男として生まれる
・1889年(明治22) 父は祖父の確執のため家を出て、母と共に元総社村(現在の前橋市)の木暮家に帰る。暮鳥は養子という形で引き取られ、木暮八九十となる
・1890年(明治23) 元総社尋常小学校に入学する
・1891年(明治24) 祖父が死去したため、穂高村の志村家に帰り、堤ヶ丘尋常小学校に転入する
・1895年(明治28) 父が事業に失敗したため、高等科を中退し、一家で上郊村に移り、松山寺の住職に、漢籍を学ぶ
・1899年(明治32) 堤ヶ岡尋常小学校(現在の高崎市立堤ヶ岡小学校)の代用教員となる
・1901年(明治34) 前橋の聖マッテア教会で英語夜学校が開校され、小学校の宿直を務めながら夜学校に通う
・1902年(明治35) 聖マッテア教会で洗礼を受け、同教会の婦人宣教師ウォールの通訳兼秘書として青森に転任する
・1903年(明治36) ミス・ウォールの尽力により、東京佃島にある聖三一神学校に入学する
・1904年(明治37) 「白百合」に木暮流星の筆名で短歌を発表し、キーツの詩を愛読する
・1905年(明治38) 北海道旭川連帯に入隊、補充兵として満州に派遣される
・1906年(明治39) 満州より帰国、聖三一神学校に復学する
・1907年(明治40) 雑誌「南北」を創刊し、3号まで発刊、短歌から詩へ移る
・1908年(明治41) 聖三一神学校卒業、秋田市秋田聖救世主教会に伝道師として着任する
・1909年(明治42) 秋田県湯沢町日本聖公会湯沢講義所に転任、ついで仙台日本聖公会に転任、人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらう
・1910年(明治43) 東京諸聖徒教会に転籍、自由詩社同人となる
・1911年(明治44) 水戸聖公会に転任、常陸太田講義所に転任する
・1912年(明治45) 福島県平町新田町講義所に転任、詩集の刊行を計画し島崎藤村の序を得るが、刊行を断念する
・1913年(大正2) 教父土田三秀の長女冨士と結婚、萩原朔太郎、室生犀星と詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成、詩集『三人の処女』を新声社から自費出版する
・1914年(大正3) にんぎょ詩社の機関誌「卓上噴水」が創刊される
・1916年(大正5) 暮鳥を編集人、室生犀星を発行人とする雑誌「LE PRISM」を創刊、雑誌「感情」に準同人として加わる
・1917年(大正6) 畑を借りて、野菜などを作り始め、随筆集『小さな穀倉より』を白日社から刊行する
・1918年(大正7) 水戸ステパノ教会に転任したが、健康を害して静養のため千葉県北条町に移り、大関五郎、柳橋好雄と「黎明会」を結成、雑誌「苦悩者」を創刊、詩集『風は草木にささやいた』を新潮社から、翻訳『ドストエフスキー書簡集』を白日社から刊行する
・1919年(大正8) 結核のため茨城県大貫海岸に転居、日本聖公会伝道師を休職する
・1920年(大正9) 福島県平町に移るが、結核とクリスチャンのため迫害され、茨城県磯浜に転居、童話集『ちるちる・みちる』を洛陽堂から刊行する
・1921年(大正10) 童謡専門雑誌「とんぼ」の顧問となり、詩集『梢の巣にて』を叢文閣から、詩選集『穀粒』を降文館から刊行する
・1922年(大正11) 「金の船」の「幼年詩」欄の選者となり、小説『十字架』を聖書文学会から、童謡童話集『万物の世界』を真珠書房から、童話『葦舟の児』を文翫堂から、童話『少年行』を創文社から、童話『お菓子の城』を文星閣から刊行する
・1923年(大正12) ほとんど病床で生活するようになり、童話『鉄の靴』を内外出版から刊行する
・1924年(大正13)12月8日 茨城県東茨城郡大洗町の借家「鬼坊裏別荘」において、肺結核に悪性腸結核を併発し、40歳で亡くなる
・1925年(大正14) 詩集『雲』、童話集『地獄の門』、『小さな世界』、『よしきり』がイデア書院から刊行、茨城文芸社主宰暮鳥一周年追悼会が催される
・1926年(大正15) 雑誌「日本詩人」が「山村暮鳥追悼号」を出し、詩集『月夜の牡丹』、紅玉堂より刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」が発せられ、太平洋戦争が始まる(太平洋戦争開戦記念日)詳細
1943年(昭和18)東条英機の大東亜戦争二週年記念講演が、全国にラジオ放送される詳細
1945年(昭和20)GHQが「救済並福祉計画ノ件」(SCAPIN-404)を指令する詳細
1958年(昭和33)国道20号線の新笹子隧道[一般有料道路笹子トンネル](全長2,953m)が開通する詳細
1990年(平成2)歌人・国文学者土屋文明の命日詳細
2008年(平成20)初めて7地域が日本ジオパークに決まり、内3地域を世界ジオパークへ推薦する詳細
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shyounoeiji01
 今日は、平成時代の1993年(平成5)に、児童文学者・帝塚山学院大学学長庄野英二が亡くなった日です。
 庄野英二(しょうの えいじ)は、大正時代の1915年(大正4)11月20日に、山口県荻町(現在の萩市)において、帝塚山学院の初代校長だった父・庄野貞一の次男として生まれ、生後まもなく大阪市帝塚山へ移りました。府立の農業学校を経て、関西学院専門部文学部哲学科で学び、在学中の1935年(昭和10)に坪田譲治の『お化けの世界』を読み感動し、夏休みに上京し、坪田譲治の門をたたきます。
 1936年(昭和11)に卒業し、1937年(昭和12)に陸軍に入隊、中国を転戦、1940年(昭和15)に負傷して一時帰還、1942年(昭和17)には、ジャワ俘虜収容所に勤め、武田麟太郎、佐藤春夫と交友しました。太平洋戦争後マレーに抑留され、1946年(昭和21)に大尉で帰国復員し、翌年には、坪田譲治主宰の「童話教室」創刊号に『朝風の話』を発表し、本格的な創作活動を開始します。
 1948年(昭和23)に結婚し、帝塚山学院の教員となり、1951年(昭和26)には、民間放送の開局に伴い、ラジオの童話、小説、劇などを多数発表しました。1955年(昭和30)に第一童話集『こどものデッキ』をミネルヴァ書房より自費出版、1960年(昭和35)には、随筆集『ロッテルダムの灯』を自費出版し、翌年には、この著作で、第9回日本エッセイストクラブ賞、大阪府芸術賞を受賞します。
 1963年(昭和38)に理論社より童話『星の牧場』を刊行、翌年には、この著作で、第2回野間児童文芸賞、第4回日本児童文学者協会賞、第11回サンケイ児童出版文化賞を受賞しました。1965年(昭和40)に塚山学院高等学校長となり、少年小説『雲の中の虹』、童話集『小鳥のデッキ』を刊行、1966年(昭和41)には、帝塚山学院大学が創設され教授となり、『雲の中の虹』で第4回NHK児童文学賞(奨励賞)を受賞します。
 1968年(昭和43)に童話『うみがめ漂流記』、1972年(昭和47)に『アレン中佐のサイン』、1975年(昭和50)に短編集『鹿の結婚式』を刊行、1977年(昭和52)には、童話『アルファベット群島』を刊行し、第7回赤い鳥文学賞を受賞しました。1978年(昭和52)に全11巻の『庄野英二全集』を偕成社より刊行、1983年(昭和57)には、帝塚山学院大学学長(~1989年)となり、足立巻一、大谷晃一と同人誌『苜蓿』(もくしゅく)を創刊します。
 1990年(平成2)に第13回巌谷小波文芸賞を受賞しましたが、1993年(平成5)11月26日に、大坂府大阪市において、78歳で亡くなりました。尚、弟は、小説家の庄野潤三(じゅんぞう)です。

〇庄野英二の主要な著作

・第一童話集『デッキ』(1955年)
・随筆集『ロッテルダムの灯(ひ)』(1961年)第9回日本エッセイストクラブ賞、大阪府芸術賞受賞
・長編童話『星の牧場(まきば)』(1963年)第2回野間児童文芸賞、第4回日本児童文学者協会賞、第11回サンケイ児童出版文化賞受賞
・童話集『雲の中の虹』(1965年)第4回NHK児童文学賞(奨励賞)受賞
・童話集『うみがめ丸漂流記』(1968年)
・童話集『アルファベット群島』(1977年)第7回赤い鳥文学賞受賞
・小説『ユングフラウの月』(1978年)
・童話集『いななく高原』上下(1979年)
・童話集『孫太郎南海漂流記』(1980年)
・童話集『アルピエロ群島』(1981年)
・詩画集『王の悲しみ』(1984年)
・童話集『海のシルクロード』(1985年)
・詩画集『たきまくら』(1985年)
・詩画集『胡蝶蘭(こちょうらん)』(1986年)
・自伝的エッセイ『新しい靴』(1987年)
・文学的自叙伝『鶏冠詩人伝』(1990年)

☆庄野英二関係略年表

・1915年(大正4)11月20日 山口県荻町(現在の萩市)において、帝塚山学院の初代校長だった父・庄野貞一の次男として生まれ、大阪市帝塚山へ移る
・1935年(昭和10) 関西学院専門部文学部哲学科在学中に坪田譲治の『お化けの世界』を読み感動し、夏休みに上京し、坪田譲治の門をたたく
・1936年(昭和11) 関西学院専門部文学部哲学科を卒業する
・1937年(昭和12) 陸軍に入隊し、中国、南方を転戦する
・1940年(昭和15) 負傷して一時帰還する
・1942年(昭和17) ジャワ俘虜収容所に勤め武田麟太郎、佐藤春夫と交友する
・1946年(昭和21) 大尉で帰国復員する
・1947年(昭和22) 坪田譲治主宰の「童話教室」創刊号に『朝風の話』を発表し、本格的な創作活動を開始する
・1948年(昭和23) 結婚し、帝塚山学院の教員となる
・1951年(昭和26) 民間放送の開局に伴い、ラジオの童話、小説、劇などを多数発表する
・1955年(昭和30) 第一童話集『こどものデッキ』をミネルヴァ書房より自費出版する
・1960年(昭和35) 随筆集『ロッテルダムの灯』を自費出版する
・1961年(昭和36) 『ロッテルダムの灯』で、第9回日本エッセイストクラブ賞、大阪府芸術賞を受賞する
・1963年(昭和38) 理論社より童話『星の牧場』を刊行する
・1964年(昭和39) 『星の牧場』で第2回野間児童文芸賞、第4回日本児童文学者協会賞、第11回サンケイ児童出版文化賞を受賞する
・1965年(昭和40) 帝塚山学院高等学校長となり、少年小説『雲の中の虹』、童話集『小鳥のデッキ』を刊行する
・1966年(昭和41) 帝塚山学院大学が創設され教授となり、『雲の中の虹』で第4回NHK児童文学賞(奨励賞)を受賞する
・1968年(昭和43) 童話『うみがめ漂流記』を刊行する
・1972年(昭和47) 『アレン中佐のサイン』を岩波書店より刊行する
・1975年(昭和50) 短編集『鹿の結婚式』を創文社より刊行する
・1977年(昭和52) 童話『アルファベット群島』を偕成社より刊行、第7回赤い鳥文学賞を受賞する
・1978年(昭和52) 全11巻の『庄野英二全集』が偕成社より刊行する
・1983年(昭和57) 帝塚山学院大学学長となり、足立巻一、大谷晃一と同人誌『苜蓿』(もくしゅく)を創刊する
・1989年(平成元) 帝塚山学院大学学長を辞める 
・1990年(平成2) 第13回巌谷小波文芸賞を受賞する
・1993年(平成5)11月26日 大坂府大阪市において、78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)洋画家・小説家・随筆家有島生馬の誕生日詳細
1906年(明治39)南満洲鉄道株式会社が設立される詳細
1911年(明治44)政治家・外交官小村寿太郎の命日詳細
1935年(昭和10)日本ペンクラブが発足する(ペンの日)詳細
1941年(昭和16)ハル米国務長官が野村駐米大使に「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」(ハル・ノート)を手交する詳細
1957年(昭和32)東京都奥多摩町に上水道・発電用の小河内ダムが完成する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1973年(昭和48)に、児童文学者浜田広介が亡くなった日です。
 浜田広介(はまだ ひろすけ)は、明治時代後期の1893年(明治26)5月25日に、山形県東置賜郡屋代村大字一本柳(現在の高畠町)において、農業を営む父・浜田為助、母・やすの長男として生まれましたが、本名は広助と言いました。アンデルセン童話を愛読し、米沢中学校(現在の米沢興譲館高等学校)を経て、1914年(大正3)に早稲田大学高等予科へ入学、「萬朝報」の懸賞小説に短編小説『零落』が入選します。
 1917年(大正6)に「大阪朝日新聞」の懸賞新作お伽話に「黄金の稲束」が一等入選し、これを機に児童雑誌「良友」に寄稿するようになり、翌年には、「呼子鳥」を発表、早稲田大学英文科卒業後、コドモ社へ入社し、「良友」の編集者となり、『途暗し』で北村透谷賞を受賞しました。1921年(大正10)に島崎藤村の紹介で実業之日本社に入社、最初の童話集『椋鳥の夢』を新生社より刊行、1923年(大正12)には、「黒いきこりと白いきこり」、「龍の目の涙」を発表、実業之日本社で「幼年之友」の編集しましたが、関東大震災を機に退社し、文筆1本で生きる決意をします。
 1925年(大正14)に早稲田大学童話会を立ち上げ、1928年(昭和3)に友人の妹、渡部トクと結婚、「5匹のやもり」を発表、1933年(昭和8)には、「泣いた赤おに」を書きました。1940年(昭和15)に『ひらがな童話集』で、第1回児童文化賞(幼年物)、1942年(昭和17)に『竜の目の涙』で、第2回野間文芸奨励賞、1953年(昭和28)には、『ひろすけ童話集』で、第3回芸能選奨文部大臣賞(文学・評論部門)を受賞します。
 1955年(昭和30)に日本児童文芸家協会の初代理事長に推され、1957年(昭和32)に『浜田広介童話選集』で、第4回サンケイ児童出版文化賞、1961年(昭和36)には、『あいうえおのほん―字をおぼえはじめた子どもたちのための』で、第8回サンケイ児童出版文化賞を受賞しました。1963年(昭和38)に「ないた赤おに」で、第2回国際アンデルセン賞国内賞を受賞、1964年(昭和39)に鳩峰高原に「むくどりの碑」が建立され、1966年(昭和41)には、日本児童文芸家協会会長となり、母校屋代小学校に「道ばたの石の碑」が建立されています。
 1972年(昭和47)に高畠町名誉町民となり、庁舎前に「回顧の碑」が建立されたものの、1973年(昭和48)11月17日に、東京都大田区田園調布の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなりました。尚、1989年(平成元)に故郷の山形県高畠町に、「浜田広介記念館」が開館しています。

〇浜田広介の主要な著作

・小説『途暗し』(1918年)北村透谷賞受賞
・処女童話集『椋鳥の夢』(1921年)
・「ないた赤おに」(1933年)第2回国際アンデルセン賞国内賞受賞
・『ひらがな童話集』(1940年)第1回児童文化賞(幼年物)受賞
・『竜の目の涙』(1942年)第2回野間文芸奨励賞受賞
・『ひろすけ童話集』(1953年)第3回芸能選奨文部大臣賞(文学・評論部門)受賞
・『浜田広介童話選集』(1957年)第4回サンケイ児童出版文化賞受賞
・『あいうえおのほん―字をおぼえはじめた子どもたちのための』(1961年)第8回サンケイ児童出版文化賞受賞

☆浜田広介関係略年表

・1893年(明治26)5月25日 山形県東置賜郡屋代村大字一本柳(現在の高畠町)において、農業を営む父・浜田為助、母・やすの長男として生まれる
・1914年(大正3) 米沢中学校(現在の米沢興譲館高等学校)を卒業し、早稲田大学高等予科へ入学、「萬朝報」の懸賞小説に短編小説『零落』が入選する
・1917年(大正6) 「大阪朝日新聞」の懸賞新作お伽話に「黄金の稲束」が一等入選し、これを機に児童雑誌「良友」に寄稿する
・1918年(大正7) 「呼子鳥」を「良友」に発表、早稲田大学英文科を卒業後、コドモ社へ入社し、「良友」の編集者となり、『途暗し』で北村透谷賞を受賞する
・1919年(大正8) 「良友」を編集しながら、同誌に「椋鳥の夢」「光の星」「花びらの旅」「お月様と鯉の子」「一つの願い」などを次々と発表する
・1920年(大正9) コドモ社を退社する
・1921年(大正10) 島崎藤村の紹介で実業之日本社に入社し、最初の童話集『椋鳥の夢』を新生社より刊行する
・1923年(大正12) 「黒いきこりと白いきこり」「龍の目の涙」を発表、実業之日本社で「幼年之友」の編集をするが、関東大震災を機に退社し、文筆1本で生きる決意をする
・1925年(大正14) 早稲田大学童話会を立ち上げる
・1928年(昭和3) 友人の妹、渡部トクと結婚、「5匹のやもり」を発表する
・1933年(昭和8) 「泣いた赤おに」を書く
・1940年(昭和15) 『ひらがな童話集』で、第1回児童文化賞(幼年物)を受賞する
・1942年(昭和17) 『竜の目の涙』で、第2回野間文芸奨励賞を受賞する
・1953年(昭和28) 『ひろすけ童話集』で、第3回芸能選奨文部大臣賞(文学・評論部門)を受賞する
・1955年(昭和30) 日本児童文芸家協会の初代理事長に推される
・1957年(昭和32) 『浜田広介童話選集』で、第4回サンケイ児童出版文化賞を受賞する
・1961年(昭和36) 『あいうえおのほん―字をおぼえはじめた子どもたちのための』で、第8回サンケイ児童出版文化賞を受賞する
・1963年(昭和38) 「ないた赤おに」で、第2回国際アンデルセン賞国内賞を受賞する
・1964年(昭和39) 鳩峰高原に「むくどりの碑」が建立される
・1966年(昭和41) 日本児童文芸家協会会長となり、母校屋代小学校に「道ばたの石の碑」が建立される
・1972年(昭和47) 高畠町名誉町民となり、庁舎前に「回顧の碑」が建立される
・1973年(昭和48)11月17日 東京都大田区田園調布の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなる
・1989年(平成元) 故郷の山形県高畠町に記念館が建てられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

717年(養老元)美濃国の醴泉によって、元号を「霊亀」から「養老」へ改元(養老改元)する(新暦12月24日)詳細
1716年(享保元)江戸城内で御城将棋が開催され、以降この日に御城碁と共に定例化される詳細
1905年(明治38)日本と大韓帝国との間で、「第二次日韓協約」が調印される詳細
1951年(昭和26)神奈川県鎌倉市に「神奈川県立近代美術館」が開館する詳細
1986年(昭和61)将棋棋士・14世名人木村義雄の命日詳細
1990年(平成2)長崎県の雲仙普賢岳で198年ぶりの噴火(雲仙普賢岳1990年噴火)が始まる詳細
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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、小説家・経済学者南條範夫の生まれた日です。
 南條範夫(なんじょう のりお)は、東京府東京市京橋区南紺屋町(現在の東京都中央区銀座)において、代々の医師の家に生まれましたが、本名は古賀英正(こが ひでまさ)と言いました。中国山東省の青島(チンタオ)中学、旧制山口高校を経て1930年(昭和5)東京帝国大学法学部を卒業しましたが、再度経済を学び、1933年(昭和8)に同大学経済学部を卒業し、助手となります。
 1936年(昭和11)に満鉄調査部東京支社に入り、1937年(昭和12)に宮崎正義が率いる日満財政研究会に、法学部助手だった戒能通孝らとともに参加、1940年(昭和15)には、東亜経済懇談会参事、中央大学経済学部講師となりました。1941年(昭和16)に日本出版文化協会海外課長、ついで企画課長となり、1943年(昭和18)に上海で法幣の価値維持工作に従事、1944年(昭和19)には、三井本社研究室次長となります。
 太平洋戦争後、1946年(昭和21)に日本経済再建委員会常務理事、1949年(昭和24)には、國學院大學政経学部教授となりました。1951年(昭和26)に都市不燃化同盟常務理事となりましたが、一方で小説を書くようになり、『出べそ物語』で、週刊朝日懸賞小説に入選します。
 1952年(昭和27)に立正大学教授となり、『マルフーシャ』が、「サンデー毎日」の懸賞小説に入選、1953年(昭和28)には、歴史小説『子守の殿』で、第1回オール讀物新人杯を受賞しました。1956年(昭和31)に首都圏整備委員会専門委員となり、『燈台鬼』で第35回直木三十五賞を受賞して一躍人気作家となり、1959年(昭和34)には、武家社会の非情さをえがいた短編集『残酷物語』で残酷ものブームを起こします。
 大学では、金融論を講義し、1960年(昭和36)には、『日本金融資本論』を刊行しました。1975年(昭和50)に紫綬褒章を受章しましたが、1979年(昭和54)には、國學院大學を定年退官となり、小説執筆に専念することとなります。
 1982年(昭和57)に『細香日記』で第16回吉川英治文学賞を受賞、また、勲三等瑞宝章も受章し、高齢となっても執筆を続けてきたものの、2004年(平成16)10月30日に、東京において、肺炎のために、95歳で亡くなりました。

〇南條範夫の主要な著作

・『燈台鬼(とうだいき)』(1956年)第35回直木三十五賞受賞
・短編集『残酷物語』(1959年)
・『日本金融資本論』(1961年) 
・『抛銀 (なげがね) 商人』(1962年) 
・『細香日記』(1982年)第16回吉川英治文学賞受賞

☆南條範夫関係略年表

・1908年(明治41)11月14日 東京府東京市京橋区南紺屋町(現在の東京都中央区銀座)において、代々の医師の家に生まれる
・1930年(昭和5) 東京帝国大学法学部を卒業する
・1933年(昭和8) 東京帝国大学経済学部を卒業、助手となる
・1936年(昭和11) 満鉄調査部東京支社に入る
・1937年(昭和12) 宮崎正義が率いる日満財政研究会に、法学部助手だった戒能通孝らとともに参加する
・1940年(昭和15) 東亜経済懇談会参事、中央大学経済学部講師となる
・1941年(昭和16) 日本出版文化協会海外課長、ついで企画課長となる
・1943年(昭和18) 上海で法幣の価値維持工作に従事する
・1944年(昭和19) 三井本社研究室次長となる
・1946年(昭和21) 日本経済再建委員会常務理事
・1949年(昭和24) 國學院大學政経学部教授となる
・1951年(昭和26) 都市不燃化同盟常務理事となり、『出べそ物語』で、週刊朝日懸賞小説に入選する
・1952年(昭和27) 立正大学教授となり、『マルフーシャ』が、「サンデー毎日」の懸賞小説に入選する
・1953年(昭和28) 歴史小説『子守の殿』で、第1回オール讀物新人杯を受賞する
・1956年(昭和31) 首都圏整備委員会専門委員となり、『燈台鬼』で第35回直木三十五賞を受賞する
・1959年(昭和34) 武家社会の非情さをえがいた短編集『残酷物語』で残酷ものブームをおこす
・1975年(昭和50) 紫綬褒章を受章する
・1979年(昭和54) 國學院大學を定年退官となり、小説執筆に専念する
・1982年(昭和57) 『細香日記』で第16回吉川英治文学賞を受賞、勲三等瑞宝章を受章する
・2004年(平成16)10月30日 東京において、肺炎のために、95歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

735年(天平7)皇族政治家・『日本書紀』の編纂責任者舎人親王の命日(新暦12月2日)詳細
1918年(大正7)武者小路実篤が宮崎県児湯郡木城村(現在の木城町)に「新しき村」を建設する詳細
1951年(昭和26)天野貞祐文相の「教育勅語」に代わる国民道徳の基本としての「国民実践要領」の大綱が明らかになる詳細
1971年(昭和46)言語学者・民俗学者・アイヌ語研究者金田一京助の命日詳細
1973年(昭和48)関門橋(山口県下関市・福岡県北九州市門司区)が開通する詳細
1986年(昭和61)小説家・劇作家円地文子の命日詳細
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kinoshitaj01
 今日は、平成時代の2006年(平成18)に、劇作家木下順二の亡くなった日です。
 木下順二(きのした じゅんじ)は、大正時代の1914年(大正3)8月2日に、東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれましたが、第二女子師範附属小学校を経て郷里熊本市に戻りました。旧制熊本中学(現在の県立熊本高等学校)、旧制第五高等学校を経て、1936年(昭和11)に東京帝国大学文学部英文科に入学します。
 中野好夫のもとでシェイクスピアを専攻し、1939年(昭和14)に卒業後、大学院へ進み、法政大学講師となり、1941年(昭和16)には、修士課程を修了しました。1943年(昭和18)には、民話を素材に、『鶴女房』『二十二夜待ち』『彦市(ひこいち)ばなし』などを書きます。
 太平洋戦争後、1946年(昭和21)に明治大学講師(演劇)となり、1947年(昭和22)には、山本安英らと劇団「ぶどうの会」を結成しました。1949年(昭和24)に『夕鶴』で毎日演劇賞、1954年(昭和29)に『風浪』で第1回岸田演劇賞を受賞、1955年(昭和30)には、アジア諸国会議や世界平和大会に参加するなど良心的、進歩的な活動にも参加します。
 1959年(昭和34)に『日本民話選』で第6回産経児童出版文化賞、『ドラマの世界』で第13回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)、1966年(昭和41)には、『無限軌道』で、第20回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞するなど、リアリズム演劇でも、戦後の演劇界を代表する存在となりました。1967年(昭和42)に山本安英らと「ことばの勉強会」を開始し、1979年(昭和54)には、『子午線の祀り』で第30回読売文学賞、翌年には、この上演により第21回毎日芸術賞を受賞しています。
 1984年(昭和59)に日本芸術院会員に選ばれたが辞退、1985年(昭和60)に『ぜんぶ馬の話』で第36回読売文学賞(随筆部門)、1986年(昭和61)に「夕鶴」「子午線の祀り」など、長年にわたる劇作活動で朝日賞、1990年(平成2)には、『木下順二集』ほかで第31回毎日芸術賞を受賞しました。1992年(平成4)に『絵巻平家物語』を刊行し、第39回産経児童出版文化賞大賞、1995年(平成7)に『馬の文化叢書』でJRA賞馬事文化賞を受賞しましたが、1998年(平成10)には、東京都名誉都民に選ばれたものの辞退するなど、国家的名誉は一切受けず、元号法制化、小選挙区制度等の反対運動に参加するなどしています。
 2000年(平成12)に趣味で収集した国内有数の“馬の本”コレクション約3000冊を馬事文化財団に寄贈しましたが、2006年(平成18)10月30日に、東京都文京区において、肺炎により、92歳で亡くなりました。

〇木下順二の主要な著作

・脚本『赤い陣羽織』(1947年)
・脚本『夕鶴(ゆうづる)』(1949年)毎日演劇賞受賞
・脚本『山脈(やまなみ)』(1949年)
・脚本『暗い火花』(1950年)
・脚本『蛙(かえる)昇天』(1951年)
・脚本『風浪(ふうろう)』(1954年)岸田演劇賞受賞
・脚本『沖縄』(1961年)
・脚本『オットーと呼ばれる日本人』(1962年)
・小説『無限軌道』(1965年)
・脚本『神と人とのあいだ』2部(1972年)
・脚本『子午線の祀り』(1978年)読売文学賞受賞
・評論的な作品『戯曲の日本語』(1982年)
・小説『本郷』(1983年)
・脚本『巨匠』(1991年)
・『絵巻平家物語』(1992年)産経児童出版文化賞大賞受賞
・評論『“劇的”とは』(1995年)

☆木下順二関係略年表

・1914年(大正3)8月2日 東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれる
・1925年(大正14) 小学4年時、郷里熊本の小学校に転校する
・1933年(昭和8) 第五高等学校へ入学する 
・1936年(昭和11) 第五高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部英文科に入学する
・1939年(昭和14) 東京帝国大学英文科を卒業し、大学院へ進み、法政大学講師となる
・1941年(昭和16) 東京大学大学院文学部英文科修士課程を修了する
・1943年(昭和18) 民話を素材に、『鶴女房』『二十二夜待ち』『彦市(ひこいち)ばなし』などを書く
・1946年(昭和21) 明治大学講師(演劇)となる
・1947年(昭和22) 山本安英らと劇団「ぶどうの会」を結成する
・1949年(昭和24) 『夕鶴』で毎日演劇賞を受賞する
・1954年(昭和29) 『風浪』で第1回岸田演劇賞を受賞する
・1955年(昭和30) アジア諸国会議に参加する
・1959年(昭和34) 『日本民話選』で第6回産経児童出版文化賞、『ドラマの世界』で第13回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞する
・1966年(昭和41) 『無限軌道』で、第20回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞する
・1967年(昭和42) 山本安英らと「ことばの勉強会」を開始する
・1979年(昭和54) 『子午線の祀り』で第30回読売文学賞を受賞する
・1980年(昭和55) 『子午線の祀り』上演により第21回毎日芸術賞を受賞する
・1984年(昭和59) 日本芸術院会員に選ばれたが辞退する
・1985年(昭和60) 『ぜんぶ馬の話』で、第36回読売文学賞(随筆部門)を受賞する
・1986年(昭和61) 「夕鶴」「子午線の祀り」など、長年にわたる劇作活動で、朝日賞を受賞する
・1990年(平成2) 『木下順二集』ほかで第31回毎日芸術賞を受賞する
・1992年(平成4) 『絵巻平家物語』を刊行し、第39回産経児童出版文化賞大賞を受賞する
・1995年(平成7) 『馬の文化叢書』でJRA賞馬事文化賞を受賞する
・1998年(平成10) 東京都名誉都民に選ばれるが辞退する
・2000年(平成12) 趣味で収集した国内有数の“馬の本”コレクション約3000冊を馬事文化財団に寄贈する
・2006年(平成18)10月30日 東京都文京区において、肺炎により、92歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1850年(嘉永5)医師・蘭学者高野長英の命日詳細
1874年(明治7)評論家・イギリス文学者・翻訳家・詩人上田敏の誕生日詳細
1890年(明治23)「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」が発布される詳細
1903年(明治36)小説家尾崎紅葉の命日(紅葉忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」を出す詳細
1999年(平成11)上信越自動車道の中郷IC~上越JCT間が開通、藤岡JCTから長野県長野市を経て上越JCT間が全通する詳細
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