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 今日は、鎌倉時代の1305年(嘉元3)に、第90代の天皇とされる亀山天皇の亡くなった日ですが、新暦では10月4日となります。
 亀山天皇(かめやまてんのう)は、1249年(建長元年5月27日)に、京都において、後嵯峨天皇の第三皇子(母は大宮院結子)として生まれましたが、名は恒仁(つねひと)と言いました。1258年(正嘉2)に10歳で立太子し、翌年には、兄の後深草天皇の譲位により、践祚、即位します。
 1265年(文永2)に元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、神社に異国降伏の祈願を行なしました。1272年(文永9)に父・後嵯峨法皇が亡くなり、治天の君の継承と皇室領荘園の問題が起こります。
 1274年(文永11)には、皇太子世仁親王(後宇多天皇)に譲位して、上皇として院政を開始しますが、同年に第1回元寇(文永の役)が起こりました。これにより炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり、敵国降伏の宸筆を納めたりしましたが、1281年(弘安4)に再度の元寇(弘安の役)に見舞われます。
 その後は、1285年(弘安8)に、公家の礼儀作法をまとめた『弘安礼節』を制定、鎌倉幕府の弘安の改革に呼応して「徳政」を進め、1286年(弘安9)には、評定制を大改革するなど意欲的に政治を行ないました。しかし、1287年(弘安10)に後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位し、その父である後深草上皇の院政が開始されて総領権を奪われます。
 1289年(正応2)に出家(法名は金剛源)して、法皇となり、1291年(正応4年)には、離宮を喜捨して禅寺としますが、これが南禅寺の起源となりました。笛・琵琶・催楽馬・神楽・朗詠など様々な芸能に通じ、『続拾遺和歌集』の選進を命じるなど和歌・漢詩文を能くし、勅撰集には計106首入集しています。
 この間、天皇家が後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統に分裂して皇位継承を争う渦中にもありましたが、1305年(嘉元3年9月15日)に、京都の亀山殿で数え年57歳で亡くなりました。

<代表的な歌>

・「世のために 身をばをしまぬ 心とも あらぶる神は てらしみるらむ」(亀山院御集)
・「あまつかぜ 空にたちつつ あらかねの 土の色にぞ 秋もみえける」(嘉元百首)
・「とほざかる 声ばかりして 夕ぐれの 雲のいづくに 雁のなくらん」(続拾遺和歌集)
・「おしなべて 月やひとへに やどるらん 花の千種の 秋の白露」(続後拾遺和歌集)
・「しづかなる ねざめ夜ぶかき 暁の 鐘よりつづく 鳥のこゑごゑ」(新後撰和歌集)

〇亀山天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1249年(建長元年5月27日) 京都において、御嵯峨天皇の第三皇子(母は大宮院結子)として生まれる
・1258年(正嘉2年8月) 10歳で立太子する 
・1259年(正元元年) 兄の後深草天皇の譲りを受けて践祚、即位する
・1265年(文永2年) 元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、神社に異国降伏の祈願を行う
・1267年(文永4年) 皇后洞院佶子が皇子・世仁(後宇多天皇)を生む
・1268年(文永5年) 後嵯峨上皇の意向をもとに世仁親王を皇太子に立てる
・1272年(文永9年2月) 後嵯峨法皇が崩御し、治天の君の継承と、皇室領荘園の問題が起こる
・1274年(文永11年1月) 皇太子世仁親王(後宇多天皇)に譲位して院政を開始する
・1274年(文永11年) 元寇(文永の役)により炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり、敵国降伏の宸筆を納める
・1275年(建治元年) 熙仁は亀山上皇の猶子となり親王宣下、ついで皇太子となる
・1276年(建治2年7月) 藤原為氏に勅撰集の編纂を命ずる
・1278年(弘安元年12月27日) 『続拾遺和歌集』として完成し、撰進される
・1281年(弘安4年) 再度の元寇(弘安の役)がある
・1285年(弘安8年) 公家の礼儀作法をまとめた『弘安礼節(こうあんれいせつ)』編纂させる
・1286年(弘安9年) 亀山上皇の嫡孫にあたる後宇多皇子の邦治(後二条天皇)が親王宣下される
・1286年(弘安9年) 評定制の改革を断行する
・1287年(弘安10年10月) 後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位し、その父である後深草上皇院政が開始されて総領権を奪われる
・1289年(正応2年9月) 出家(法名は金剛源)して、法皇となる
・1291年(正応4年) 離宮を喜捨して禅寺とする(南禅寺の起り)
・1302年(乾元元年) 後伏見上皇の願いで蹴鞠を伝授する
・1303年(乾元2年) 後伏見上皇の願いで朗詠を伝授する
・1290年(正応3年) 宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起きる
・1305年(嘉元3年9月15日) 京都の亀山殿で数え年57歳で亡くなる

 今日は、鎌倉時代の1305年(嘉元3)に、第90代の天皇とされる亀山天皇の亡くなった日ですが、新暦では10月4日となります。
 亀山天皇(かめやまてんのう)は、1249年(建長元年5月27日)に、京都において、御嵯峨天皇の第三皇子(母は大宮院結子)として生まれましたが、名は恒仁(つねひと)と言いました。1258年(正嘉2) 10歳で立太子し、翌年には、兄の後深草天皇の譲位により、践祚、即位します。
 1265年(文永2)に元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、神社に異国降伏の祈願を行なしました。1272年(文永9)に父・後嵯峨法皇が亡くなり、治天の君の継承と皇室領荘園の問題が起こります。
 1274年(文永11)には、皇太子世仁親王(後宇多天皇)に譲位して、上皇として院政を開始しますが、同年に第1回元寇(文永の役)が起こりました。これにより炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり、敵国降伏の宸筆を納めたりしましたが、1281年(弘安4)に再度の元寇(弘安の役)に見舞われます。
 その後は、1285年(弘安8)に、公家の礼儀作法をまとめた『弘安礼節』を制定、鎌倉幕府の弘安の改革に呼応して「徳政」を進め、1286年(弘安9)には、評定制を大改革するなど意欲的に政治を行ないました。しかし、1287年(弘安10)に後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位し、その父である後深草上皇の院政が開始されて総領権を奪われます。
 1289年(正応2)に出家(法名は金剛源)して、法皇となり、1291年(正応4年)には、離宮を喜捨して禅寺としますが、これが南禅寺の起源となりました。笛・琵琶・催楽馬・神楽・朗詠など様々な芸能に通じ、『続拾遺和歌集』の選進を命じるなど和歌・漢詩文を能くし、勅撰集には計106首入集しています。
 この間、天皇家が後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統に分裂して皇位継承を争う渦中にもありましたが、1305年(嘉元3年9月15日)に、京都の亀山殿で数え年57歳で亡くなりました。

<代表的な歌>

・「世のために 身をばをしまぬ 心とも あらぶる神は てらしみるらむ」(亀山院御集)
・「あまつかぜ 空にたちつつ あらかねの 土の色にぞ 秋もみえける」(嘉元百首)
・「とほざかる 声ばかりして 夕ぐれの 雲のいづくに 雁のなくらん」(続拾遺和歌集)
・「おしなべて 月やひとへに やどるらん 花の千種の 秋の白露」(続後拾遺和歌集)
・「しづかなる ねざめ夜ぶかき 暁の 鐘よりつづく 鳥のこゑごゑ」(新後撰和歌集)

〇亀山天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1249年(建長元年5月27日) 京都において、御嵯峨天皇の第三皇子(母は大宮院結子)として生まれる
・1258年(正嘉2年8月) 10歳で立太子する 
・1259年(正元元年) 兄の後深草天皇の譲りを受けて践祚、即位する
・1265年(文永2年) 元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、神社に異国降伏の祈願を行う
・1267年(文永4年) 皇后洞院佶子が皇子・世仁(後宇多天皇)を生む
・1268年(文永5年) 後嵯峨上皇の意向をもとに世仁親王を皇太子に立てる
・1272年(文永9年2月) 後嵯峨法皇が崩御し、治天の君の継承と、皇室領荘園の問題が起こる
・1274年(文永11年1月) 皇太子世仁親王(後宇多天皇)に譲位して院政を開始する
・1274年(文永11年) 元寇(文永の役)により炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり、敵国降伏の宸筆を納める
・1275年(建治元年) 熙仁は亀山上皇の猶子となり親王宣下、ついで皇太子となる
・1276年(建治2年7月) 藤原為氏に勅撰集の編纂を命ずる
・1278年(弘安元年12月27日) 『続拾遺和歌集』として完成し、撰進される
・1281年(弘安4年) 再度の元寇(弘安の役)が起きる
・1285年(弘安8年) 公家の礼儀作法をまとめた『弘安礼節(こうあんれいせつ)』編纂させる
・1286年(弘安9年) 亀山上皇の嫡孫にあたる後宇多皇子の邦治(後二条天皇)が親王宣下される
・1286年(弘安9年) 評定制の改革を断行する
・1287年(弘安10年10月) 後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位し、その父である後深草上皇院政が開始されて総領権を奪われる
・1289年(正応2年9月) 出家(法名は金剛源)して、法皇となる
・1291年(正応4年) 離宮を喜捨して禅寺とする(南禅寺の起り)
・1302年(乾元元年) 後伏見上皇の願いで蹴鞠を伝授する
・1303年(乾元2年) 後伏見上皇の願いで朗詠を伝授する
・1290年(正応3年) 宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起きる
・1305年(嘉元3年9月15日) 京都の亀山殿で数え年57歳で亡くなる