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 今日は、奈良時代の759年(天平宝字3)に、鑑真が唐律招提(後の唐招提寺)を建立した日ですが、新暦では8月29日となります。
 唐招提寺(とうしょうだいじ)は、鑑真が、奈良時代の759年(天平宝字3)に開創した寺院で、南都六宗の1つである律宗の総本山です。奈良市街から離れた西の京にあり、田畑に囲まれた静かなたたずまいの中に堂宇が並び、金堂、平城宮の朝集殿を移築した講堂、経蔵、宝蔵などは奈良時代の建物で国宝に指定されています。
 その堂宇の中にすばらしい仏像群が鎮座し、乾漆鑑真和上坐像、乾漆盧舎那仏坐像、木心乾漆千手観音立像、木造梵天・帝釈天立像などは、奈良時代の天平仏でいずれも国宝となっています。それらを巡ってみると、12年の歳月と6回目の渡航によって伝戒の初志を貫徹しようとした盲目の僧鑑真の苦労と共に当時を思い起こさせてくれました。
 また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

〇鑑真(がんじん)とは?

 来日して帰化した唐代の高僧・日本律宗の開祖です。688年(持統天皇2)に唐の揚州江陽県に生まれましたが、俗姓は淳于(じゅんう)と言いました。
 14歳のとき、揚州大雲寺の智満(ちまん)について出家、18歳で南山律の道岸(どうがん)によって菩薩戒を受け、20歳で長安に入ります。実際寺で恒景(こうけい)を戒和上として具足戒を受け、その後、諸宗を学び、揚州に帰ったのちは大明寺にあって律を講じ、名声が響くようになりました。
 733年(天平5)に日本僧の栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)が授戒伝律の師を求めて入唐、742年(天平14)にその要請を受けて、来日を決意します。しかし、5回(743~748年)渡航に失敗し、その間に失明することになりました。
 それでも、6回目に成功し、753年(天平勝宝5)に薩摩国坊津に到着、翌年平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受けます。755年(天平勝宝7)に東大寺大仏殿前に戒壇を設け、授戒について一任され、翌年には大僧都に任じられ、その後、大和上の称が与えられました。
 759年(天平宝字3)には、唐招提寺を開いて戒律研鑽の道場としましたが、763年(天平宝字7年5月6日)に、奈良において、数え年76歳で亡くなっています。

☆唐招提寺関係略年表(日付は旧暦です)

・753年(天平勝宝5) 鑑真が薩摩国坊津に到着する
・754年(天平勝宝6) 鑑真が平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受ける
・755年(天平勝宝7) 鑑真は、東大寺大仏殿前に戒壇を設け、授戒について一任される
・756年(天平勝宝8) 鑑真は、大僧都に任じられ、その後、大和上の称が与えられる
・759年(天平宝字3) 鑑真が新田部親王の邸跡(平城京右京五条二坊)を朝廷から賜り、戒律を学ぶ修行道場として創建される
・760年(天平宝字4)頃 平城宮改修の際、平城宮の東朝集殿が移されて講堂が建立される
・763年(天平宝字7年5月6日) 鑑真が、数え年76歳で亡くなる
・781年(天応元年) 鑑真和上の弟子・如宝が金堂を建立しましたが、この年に伐採されたヒノキが使われていた
・810年(弘仁元) 『日本紀略』によると東塔が建立されたする
・1140年(保延6) 金堂・講堂・宝蔵・御影堂・阿弥陀院などの伽藍が建立されていた
・1243年(寛元元) 中興の祖・覚盛が舎利会を創設する
・1244年(寛元2) 覚盛が入寺して再興を始める
・1249年(建長元) 覚盛が亡くなると法華寺の尼僧が遺徳を偲んで、団扇、宝扇を供えたことから覚盛の命日にうちわまきが行われるようになる
・1698年(元禄11) 戒壇院が再興される
・1802年(享和2) 火災によって東塔・五重塔など重要な伽藍が焼失する
・1900年(明治33) 独立して律宗総本山となる
・1998年(平成10) ユネスコ世界文化遺産(古都奈良の文化財)に登録される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

701年(大宝元)藤原不比等らによる「大宝律令」の編纂が完了する(新暦9月9日)詳細
1872年(明治5)「学制」が公布される(新暦9月5日)詳細
1935年(昭和10)岡田啓介内閣によって「国体明徴に関する政府声明」(第1次国体明徴声明)が出される詳細
1937年(昭和12)豊田正子が小学生の時に書いた作文をまとめた『綴方教室』が刊行される詳細
1967年(昭和42)「公害対策基本法」が公布・施行される詳細
1987年(昭和62)建設省が「日本の道100選」を選定し、前年分と合わせて104本となる詳細