ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年05月

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 今日は、昭和時代後期の1980年(昭和55)に、「明日香村保存特別措置法」が公布・施行された日です。
 「明日香村保存特別措置法」(あすかむらほぞんとくべつそちほう)は、奈良県高市郡明日香村の史跡保存を目的として制定された特別措置法で、正式名称を「明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法」と言いました。明日香村全域に高松塚古墳をはじめとする重要な歴史的文化遺産が多数集積していることから、地域住民の生活と調和を図りながら歴史的風土を保存するため、に制定されます。
 同法制定以前は、「古都保存法」に基づいて歴史的風土保存区域および歴史的風土特別保存地区に指定されていました。しかし、この法律により、「古都保存法」の特例として第1種及び第2種歴史的風土保存地区を定め村全域にわたる行為規制を行なうとともに、明日香村整備計画に基づく生活環境及び産業基盤の整備等の事業や明日香村整備基金による事業を実施し、明日香村の貴重な歴史的風土の保存と住民生活の安定及び産業振興との調和を図るための特別の措置を講じています。
 以下に、「明日香村保存特別措置法」を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇「明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法」(昭和55年法律第60号)1980年(昭和55)5月26日

 (目的)

第一条 この法律は、飛鳥地方の遺跡等の歴史的文化的遺産がその周囲の環境と一体をなして、我が国の律令国家体制が初めて形成された時代における政治及び文化の中心的な地域であつたことをしのばせる歴史的風土が、明日香村の全域にわたつて良好に維持されていることにかんがみ、かつ、その歴史的風土の保存が国民の我が国の歴史に対する認識を深めることに配意し、住民の理解と協力の下にこれを保存するため、古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(昭和四十一年法律第一号)の特例及び国等において講ずべき特別の措置を定めることを目的とする。

 (明日香村歴史的風土保存計画)

第二条 内閣総理大臣は、奈良県、明日香村(奈良県高市郡明日香村をいう。以下同じ。)及び歴史的風土審議会(古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(以下「古都保存法」という。)第十六条第一項の歴史的風土審議会をいう。以下同じ。)の意見を聴くとともに、関係行政機関の長に協議して、古都保存法第五条第一項の歴史的風土保存計画として、明日香村の区域の全部について、歴史的風土の保存に関する計画(以下「明日香村歴史的風土保存計画」という。)を定めなければならない。
2 明日香村歴史的風土保存計画に定める事項は、次のとおりとする。
 一 第一種歴史的風土保存地区と第二種歴史的風土保存地区との区分の基準に関する事項
 二 第一種歴史的風土保存地区及び第二種歴史的風土保存地区内における行為の規制に関する事項
 三 歴史的風土の保存に配意した土地利用に関する事項
 四 歴史的風土の保存に関連して必要とされる施設の整備に関する事項
 五 古都保存法第十一条第一項の規定による土地の買入れに関する事項
 六 前各号に掲げるもののほか、歴史的風土の維持保存に関し特に必要と認められる事項
3 内閣総理大臣は、明日香村歴史的風土保存計画を定めたときは、これを関係行政機関の長、奈良県及び明日香村に送付するとともに、官報で公示しなげればならない。
4 前三項の規定は、明日香村歴史的風土保存計画の変更について準用する。

 (第一種歴史的風土保存地区及び第二種歴史的風土保存地区に関する都市計画)

第三条 明日香村の区域については、明日香村歴史的風土保存計画に基づき、当該区域を区分して、都市計画に第一種歴史的風土保存地区及び第二種歴史的風土保存地区を定めるものとする。
2 第一種歴史的風土保存地区は、歴史的風土の保存上枢要な部分を構成していることにより、現状の変更を厳に抑制し、その状態において歴史的風土の維持保存を図るべき地域とし、第二種歴史的風土保存地区は、著しい現状の変更を抑制し、歴史的風土の維持保存を図るべき地域とする。
3 第一種歴史的風土保存地区及び第二種歴史的風土保存地区は、それぞれ古都保存法第七条の二後段の特別保存地区とする。

 (明日香村整備基本方針等)

第四条 内閣総理大臣は、歴史的風土審議会の意見を聴くとともに、関係行政機関の長に協議して、明日香村における歴史的風土の保存と住民の生活との調和を図るため、明日香村における生活環境及び産業基盤の整備等に関する基本方針(以下「明日香村整備基本方針」という。)を定め、これを奈良県知事に示すものとする。
2 奈良県知事は、前項の規定により示された明日香村整備基本方針に基づき、明日香村の意見を聴いて、明日香村における生活環境及び産業基盤の整備等に関する計画を作成し、内閣総理大臣に承認の申請をすることができる。
3 前項に規定する計画に定める事項は、次のとおりとする。
 一 道路の整備に関する事項
 二 河川の整備に関する事項
 三 下水道の整備に関する事項
 四 都市公園の整備に関する事項
 五 住宅の整備に関する事項
 六 教育施設の整備に関する事項
 七 厚生施設の整備に関する事項
 八 消防施設の整備に関する事項
 九 農地並びに農業用施設及び林業用施設の整備に関する事項
 十 文化財の保護に関する事項
 十一 前各号に掲げるもののほか、明日香村における生活環境及び産業基盤の整備その他歴史的風土の保存と調和が保たれる地域振興に関する事項で特に必要と認められるもの
4 内閣総理大臣は、第二項の規定により申請された計画が適当なものであると認められるときは、これを承認するものとする。この場合において、内閣総理大臣は、歴史的風土審議会の意見を聴くとともに、関係行政機関の長に協議しなければならない。
5 前三項の規定は、明日香村整備計画(前項の規定により承認を受けた第二項に規定する計画をいう。以下同じ。)の変更について準用する。

 (特別の助成)

第五条 明日香村整備計画に基づいて、昭和五十五年度から昭和六十四年度までの各年度において明日香村が国又は奈良県から負担金又は補助金の交付を受けて行う事業(奈良県から負担金又は補助金の交付を受けて行うものにあつては、奈良県が負担し、又は補助するために要する費用の一部を国が負担し、又は補助するものに限る。)のうち、次に掲げる事業(災害復旧に係るもの、当該事業に係る経費の全額を国又は奈良県が負担するもの及び当該事業に係る経費を明日香村が負担しないものを除く。)で政令で定めるもの(以下「特定事業」という。)に係る経費に対する国の負担又は補助の割合(明日香村に対する負担又は補助のために奈良県が要する費用の一部を国が負担し、又は補助している場合にあつては、国の負担金又は補助金の当該特定事業に係る経費に対する割合)については、首都圏、近畿及び中部圏の近郊整備地帯等の整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(昭和四十一年法律第百十四号)第五条の規定の例による。
 一 次の施設の整備に関する事業
  イ 道路
  ロ 下水道
  ハ 都市公園
  ニ 教育施設
  ホ 厚生施設
  ヘ 農地並びに農業用施設及び林業用施設で政令で定めるもの
 二 前号に掲げるもののほか、生活環境及び産業基盤の整備のために必要な事業で政令で定めるもの
2 前項の規定により通常の国の負担割合を超えて国が負担し、又は補助することとなる額の交付に関し必要な事項は、政令で定める。

 (地方債についての配慮)

第六条 奈良県又は明日香村が明日香村整備計画に基づいて行う事業に要する経費に充てるために起こす地方債については、国は、奈良県又は明日香村の財政状況が許す限り起債できるよう、及び資金事情が許す限り資金運用部資金又は簡易生命保険及郵便年金特別会計の積立金をもつて引き受けるよう特別の配慮をするものとする。

 (財政上及び技術上の配慮)

第七条 国は、前二条に定めるもののほか、明日香村整備計画が円滑に達成されるよう、財政上及び技術上の配慮をしなければならない。

 (明日香村整備基金)

第八条 明日香村が、次に掲げる事業(特定事業を除く。)に要する経費の全部又は一部を支弁するため、地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第二百四十一条の基金として、明日香村整備基金を設ける場合には、国は、二十四億円を限度として、その財源に充てるために必要な資金の一部を明日香村に対して補助するものとする。
 一 歴史的風土の保存を図るために行われる事業
 二 土地の形質又は建築物その他の工作物の意匠、形態等を歴史的風土と調和させるために行われる事業
 三 住民の生活の安定向上を図り、又は住民の利便を増進させるために行われる事業で歴史的風土の保存に関連して必要とされるもの

   附 則

 (施行期日)

第一条 この法律は、公布の日から施行する。

 (経過措置)

第二条 この法律の施行の際現に存する古都保存法第五条第一項の規定により決定された歴史的風土保存計画のうち、明日香村の区域に係る部分は、第二条第三項の規定による明日香村歴史的風土保存計画の公示の日以後その効力を失う。

第三条 この法律の施行の際現に存する古都保存法第四条第一項の規定による明日香村の区域内の歴史的風土保存区域の指定は、第三条第一項の都市計画についての都市計画法(昭和四十三年法律第百号)第二十条第一項の規定による告示の日(以下「告示の日」という。)以後その効力を失う。

2 前項に規定する明日香村の区域内の歴史的風土保存区域に関しては、告示の日の前日までは、古都保存法第七条の規定を適用する。

第四条 この法律の施行の際現に存する古都保存法第六条第一項の規定により定められている明日香村の区域内の歴史的風土特別保存地区に関する都市計画は、告示の日の前日までは、なおその効力を有する。

第五条 告示の日前にした古都保存法又はこれに基づく命令の規定に違反する行為に対する罰則の適用については、なお従前の例による。

第六条 第五条の規定は、昭和五十五年度分の予算に係る国の負担金及び補助金から適用し、昭和五十四年度以前の年度分の予算に係る国の負担金及び補助金で、昭和五十五年度以後に繰り越されたものについては、なお従前の例による。

 (地方交付税法の一部改正)

第七条 地方交付税法(昭和二十五年法律第二百十一号)の一部を次のように改正する。

  第十四条の二第二号中「特別保存地区」の下に「(同法第七条の二の規定により、特別保存地区として同法の規定が適用される地区を含む。)」を加える。

 (古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法の一部改正)

第八条 古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法の一部を次のように改正する。

  第七条の次に次の一条を加える。

 (特別保存地区の特例)

 第七条の二 第二条第一項の規定に基づき古都として定められた市町村のうち、当該市町村における歴史的風土がその区域の全部にわたって良好に維持されており、特に、その区域の全部を第六条第一項の特別保存地区に相当する地区として都市計画に定めて保存する必要がある市町村については、別に法律で定めるところにより、第四条から前条までの規定の特例を設けることができる。この場合において、当該都市計画に定められた地区についてのこの法律の規定(第四条から前条までの規定を除く。)の適用については、当該地区は、第六条第一項の特別保存地区とする。

  第八条第八項を同条第九項とし、同条第七項中「第五項前段」を「第六項前段」に、「みずから行ない」を「自ら行い」に、「行なわせる」を「行わせる」に、「行なう」を「行う」に、「行なわない」を「行わない」に改め、同項を同条第八項とし、同条第四項から第六項までを一項ずつ繰り下げ、同条第三項中「第一項ただし書若しくは同項第七号又は前項」を「第一項又は第二項」に、「きかなければ」を「聴かなければ」に改め、同項を同条第四項とし、同条第二項の次に次の一項を加える。

 3 前条の法律により、市町村の区域を区分して二以上の特別保存地区が定められたときは、前二項の政令は、その区分の目的に応じてそれぞれ特別保存地区ごとに定めることができる。

  第十八条第二項中「第四項又は第五項前段」を「第五項又は第六項前段」に、「行なう」を「行う」に改める。

  第二十条中「第八条第五項前段」を「第八条第六項前段」に改める。

  第二十一条第二号中「第八条第四項」を「第八条第五項」に、「附せられ」を「付せられ」に改める。

 (首都圏、近畿圏及び中部圏の近郊整備地帯等の整備のための国の財政上の特別措置に関する法律の一部改正)

第九条 首都圏、近畿圏及び中部圏の近郊整備地帯等の整備のための国の財政上の特別措置に関する法律の一部を次のように改正する。

  第六条中第三項を第四項とし、第二項の次に次の一項を加える。

 3 特定事業で明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法(昭和五十五年法律第六十号)第五条の規定の適用を受けるものに係る国の負担割合については、当該特定事業について前条の規定により算定した国の負担割合が同法同条の規定により算定した国の負担割合を超える場合には前条の規定を、超えない場合には同法同条の規定を適用する。

 (都市計画法の一部改正)

第十条 都市計画法の一部を次のように改正する。

  第八条第一項中第十五号を第十六号とし、第十一号から第十四号までを一号ずつ繰り下げ、第十号の次に次の一号を加える。

  十一 明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法(昭和五十五年法律第六十号)第三条第一項の規定による第一種歴史的風土保存地区又は第二種歴史的風土保存地区

  第十三条第三項中「第十五号」を「第十六号」に改める。

  第十五条第一項第二号中「第十二号」を「第十三号」に、「第十五号」を「第十六号」に、「第十一号」を「第十二号」に改める。

 (総理府設置法の一部改正)

第十一条 総理府設置法(昭和二十四年法律第百二十七号)の一部を次のように改正する。

  第六条第十六号の四の次に次の二号を加える。

  十六の五 古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(昭和四十一年法律第一号)の施行に関すること。

  十六の六 明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法(昭和五十五年法律第六十号)の施行に関すること。

  第十五条第一項の表歴史的風土審議会の項中「(昭和四十一年法律第一号)」を「及び明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法」に、「行なう」を「行う」に改める。

 (建設省設置法の一部改正)

第十二条 建設省設置法(昭和二十三年法律第百十三号)の一部を次のように改正する。

  第三条中第六号の八を第六号の九とし、第六号の四から第六号の七までを一号ずつ繰り下げ、第六号の三の次に次の一号を加える。

  六の四 明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法(昭和五十五年法律第六十号)による第一種歴史的風土保存地区及び第二種歴史的風土保存地区内における歴史的風土の維持保存に関する事務を管理すること。

  第四条第三項中「第六号の六」を「第六号の七」に改め、同条第四項中「第六号の五」を「第六号の六」に、「第六号の七」を「第六号の八」に改める。

 (自治省設置法の一部改正)

第十三条 自治省設置法(昭和二十七年法律第二百六十一号)の一部を次のように改正する。

  第十二条第十八号の次に次の一号を加える。

  十八の二 明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法(昭和五十五年法律第六十号)の規定により特定事業に係る経費に対する国の負担割合の引上率を算定し、及び通知すること。

     「衆議院ホームページ」より

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 今日は、昭和時代中期の1960年(昭和35)に、大修館書店が諸橋轍次著の『大漢和辞典』の最終巻を刊行した日です。
 『大漢和辞典』(だいかんわじてん)は、大修館書店から発行された、諸橋轍次著の漢和辞典でした。1943年(昭和18)に一巻を出して、戦争で中絶、1955年(昭和30)に復刊第一巻を出し、以降5年かけて、1960年(昭和34)までに全13巻(本編12巻、索引1巻)が完結します。
 詩経・論語、史記・漢書を始めとする歴代史書、文選、さらに唐・宋の詩文から明・清の小説にいたるまで、あらゆる時代の語彙を網羅し、博捜した文献の範囲は、仏典・医書・本草学・法制・地誌・日本の漢詩文にまで及びました。収録する親文字49,964字、熟語約526,500語に及び、用語例の豊富さと出典の確かな点で高い評価を受けています。
 1990年(平成2)に、語彙索引(東洋学術研究所編)を刊行し、2000年(平成12年)に補巻が刊行され、親字802字と熟語33000余語が追加されました。あらゆる漢字資料を渉猟参酌して収録した“漢字文化の一大宝庫”とされています。
 以下に、諸橋轍次著『大漢和辞典』の序を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『大漢和辞典』序

 東洋の文化は、その大半が漢字漢語によって表現せられている。それは文芸に於ても思想に於ても、将た又道徳宗教に於ても皆然りである。それ故、漢字漢語の研究を外にして東洋の文化を云為することは不可能である。そこでこの宝庫を開く一つの方法として辞書の編著が考慮せられ、中国に於ても我が国に於ても早くその作品を見た。しかし実情から言えば、我が国従来の漢辞典は幾多の進歩があったとは言え、大体文字語彙の数が少なく、中国の辞典は康熙字典・佩文韻府等、大量のものはあるが、或るものは文字の解義だけで語彙はなく、或るものは語彙はあってもその解釈がないという状態である。これでは学界の要求を充たすわけには行かない。誰かこの欠を補ってくれる人はないものか、若し他にないとすれば、自分はその器ではないとしても進んでその任に当たってみよう、これが私の大漢和辞典の編著を企てた直接の動機である。
 この志を立てたのは、今から数えれば可なり古い事である。書肆と一応の契約を結んだのは昭和二年であるが、実際の着手は更に三四年以前に遡ると思う。爾来拮据精励、ともかくも昭和十八年には第一巻を発行した。続いて二巻三巻と刊行する予定であったが、二十年二月二十五日の劫火によって一切の資料を焼失した。半生の志業はあえなくも茲に烏有に帰したわけである。しかし当時は上下を挙げて国難に当って居った時であるから、別に悔みもせず、又落胆もしなかった。不幸中の幸とも言おうか、全巻一万五千頁の校正刷りが三部残って居った。そこで一部は手元に、一部は私の管理していた静嘉堂文庫に、他の一部は故岩崎小弥太男の好意によって甲州の山奥に蔵した。かくて再挙の時を待っていたが、時事は日に日に非なるものが重なった。そしてその年の八月十五日、遂に終戦の哀詔を拝することとなったのである。
 祖国が既にかかる一大変故に遭遇したのであるから、一箇の私の事業などはいかなる運命になっても仕方がないと一時は諦めたが、その後、時の経つにつれて又別の考えが起って来た。それは著者としての責任感である。私は既にこの書の刊行を天下に公約した。現に第一巻を購入した多くの人々もある。それらの人々に対して、たとえ幾多の困難があるにしても、このままに事業を中止することは許されない。且つ又、従来この書に対しては深い同情を寄せて下さった多くの人々もあった。それらの人々に対しても同様である。一面又、亡友その他嘗ての協力者に対する已み難い心情もあった。川又武君は事業の当初から殆ど二十年に亘り精根を尽してくれた人である。又、渡辺実一君・真下保爾君・佐々木新二郎君も同様、長きは十年、短きも五七年、終始事業のため精励してくれた。然るにこの四君は終戦と相前後して約一年の間に共々世を去った。これは事業完遂の行程に於て私の受けた最も傷心の事柄であった。この四人は共に大東文化学院の出身である。外にも同学院の出身者で私に協力してくれた人々は少なくない。この事業の前半は、それらの人々が中心となって分担したのである。従って私としては、これらの諸君の志を達成する意味に於ても、全巻の刊行を仕上げなければならぬ。
 かかる心情のもとに私は、自らを鼓舞し自らを鞭撻しつつ残稿の整理を始めたが、折も折、二十一年には私の右眼は全く失明した。左眼も殆ど文字を弁じ得ない状態に陥った。心はあせっても整理は遅々として進まない。しかしかかる間にも私は又、常に私を励まし私を助けてくれる数名の心友をもっていた。その一人は六十年来の旧友であり、この事業のためにも今日に至るまで二十数年助力してくれた近藤正治君であり、他は私の最も信頼している東京文理科大学出身の小林信明君・渡辺末吾君・鎌田正君・米山寅太郎君、その他の人々である。当時私は退官の身であり、且つこの書の刊行の見込みも立たなかった時である。それにも拘わらず上記の諸君は、いかなる困難があっても協力は惜しまない、せめて原稿だけは完全に整理して、やむなくば知己を後年に待とうとさえ言ってくれた。そして今、現に全力を尽して事に当って居るのである。
 かくて私も愈々再挙の決意を固めて居ったが、その矢先、甲州の疎開地から帰京した大修館の鈴木社長が、上京早々、これ又再挙の事を申し出た。そして言うには、自分は社運を賭してもこの事業を完遂する。それがためには、大学在学中の長男と仙台二高在学中の次男とは共に退学、これに当らしめる。三男も今は若いが、他日大学卒業の後にはこの事業に当らしめると。つまり一家の血肉を捧げて事業の完遂に当るというのである。私は深くその誠意と決意に心を動かされた。偶々井上巽軒博士の紹介によって、土橋八千太翁と相知るの機縁を得た。翁は時既に八十を超えた高齢であるに拘わらず、これ亦進んで整理に協力する事を申し出てくれた。爾来三四年、翁の好意によって補正を得た事も少なくないのである。
 さて愈々事を進めてみると、原稿整理の外に又色々の困難が起って来た。その主なるものの一つは、文字の製作である。この辞書には約五万の親文字を収めているが、以前に用いた活字は既述の如く全部焼失したので、これを改めて木版に彫り、更に活字を作るとすれば、少なくとも十年二十年の歳月を要する。更に現実の問題として、木版の製作者にその人を得る事が出来なかった。かかる困難の時に際して、ここに又幸にも一人の協力者を得た。それは写真植字の発明家である石井茂吉君である。同君は他に幾多の有利な事業を抱えて居る身ではあるが、この辞典の事業が永遠のものであるという観点から、自分一生の仕事として全力を挙げて協力しようと申し出てくれた。かくて終戦後又十年、上記幾多の人々の好意と協力とによって着々事務も進捗し、今日ここに本書刊行の運びとなったわけである。思えば私は身の不徳にも拘わらず、幸にも多くの知己を得た。私の事業は決して私一箇の事業ではない、蔭に隠れた幾百の人々の力の総合である。特に上記諸人の協力に負うの多い事は、茲に明記して感謝を捧げねばならぬ。
 事業完成までには尚お四年の歳月を要する。過去十年殆ど失明同様の状態にあった私は、幸今春、名医の手術によって隻眼を開いた。今後は一息の存する限り、本書の完成に努力しよう。そして芸林の榛莽を披き辞海の遺珠を拾うに力めよう。それが私の素志を貫く所以であり、且つ又学界に公約した義務を果す所以である。ただ何分にも微力の身であるから、成果の上には幾多の不足もあろう、欠点もあろう、それらについては江湖有識の諸君子の教正を仰ぎ得れば幸甚である。更に後来、五十年百年、継続して本辞書に手入れをする適当の学者が出て、完全なる漢和辞典を大成してくれる事ともなれば、独り私の望外の喜びであるのみならず、これこそ東洋文化宣揚のため学界の一大慶事であると思う。私は切にその事を希望して已まない。

 昭和三十年十一月三日 文化の日

     遠人村舎に於て
         諸橋轍次識す

☆『大漢和辞典』関係略年表

・1925年(大正14) 大修館書店社長鈴木一平、諸橋轍次博士に、漢和辞典編纂を依頼する
・1927年(昭和2) 著作者諸橋轍次、発行者大修館書店社長鈴木一平との間に出版に関する契約が成立する
・1929年(昭和4) この頃、諸橋博士が漢和辞典編纂に本格的に着手する
・1931年(昭和6) 編纂基礎作業の結果、当初の計画に収まらぬ膨大な分量になることが判明。著者・発行者が協議を重ねた末、今日の姿にみる大規模な漢和辞典の編纂刊行に踏み切る
・1933年(昭和8) 本辞典の組版のため、東京市神田区錦町3丁目24番地に大修館書店付属特設組版工場を新設する
・1934年(昭和9) 編纂風景『大漢和辞典』編纂所を東京市豊島区雑司ヶ谷より杉並区天沼1丁目263番地に移転し、原稿の整理、浄書を進める
・1937年(昭和12) 全原稿の棒組み(校正刷りの第1段階として、頁の形にレイアウトしないままに組んであるもの)を完了する
・1942年(昭和17) 刊行の準備にかかったが、統制機関と種々折衝の結果、ようやく1万部発行の許可を受ける
・1943年(昭和18) 東京会館において『大漢和辞典』出版記念会を催し予約募集を発表、『大漢和辞典』巻1を刊行する
・1944年(昭和19) 諸橋博士が、『大漢和辞典』編纂の功により、朝日文化賞を受賞する
・1945年(昭和20) 戦災により、本社の事務所、倉庫、特設付属工場の一切を消失する
・1946年(昭和21) 大修館書店社長鈴木が諸橋博士に『大漢和辞典』の再挙を申し入れる
・1950年(昭和25) 新しく編纂・刊行方法などについて協議が調い、出版契約を更新する
・1951年(昭和26) 原字製作を、写真植字の発明者、写真植字機研究所長石井茂吉氏に依頼する
・1953年(昭和28) 大修館書店本社内に写真植字部がせ新設される
・1954年(昭和29) 写真植字による組版を本社写真植字部および写真植字機研究所において開始する
・1955年(昭和30) 日本工業倶楽部において『大漢和辞典』刊行発表会を開き、『大漢和辞典』巻1を刊行、諸橋轍次が紫綬褒章を受章する
・1957年(昭和32) 大修館書店社長鈴木一平が『大漢和辞典』の出版発行の努力により、菊池寛賞を受賞する
・1960年(昭和35)5月25日 『索引』の刊行をもって『大漢和辞典』全13巻の刊行を完了する

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 今日は、平安時代中期の950年(天暦4年)に、第63代の天皇とされる冷泉天皇の生まれた日ですが、新暦では6月12日となります。
 冷泉天皇(れいぜいてんのう)は、京都において、村上天皇の第2皇子(母は右大臣師輔の娘藤原安子)として生まれ、2ヶ月後に外祖父師輔宅で立太子しました。967年(康保4年5月25日)に父・村上天皇の死没と共に践祚し、同年10月11日に即位礼が行われ、第63代とされる天皇として即位したものの、病弱で奇行があったため、叔父実頼が関白に就任して後見補佐します。
 しかし、藤原氏による他氏排斥事件(安和の変)が起こり、969年(安和2年3月)に源高明が失脚しました。天皇の第一皇子師貞(もろさだ)親王の立太子を急ぐ藤原伊尹(これただ)の策略により、在位2年の969年(安和2年8月13日)に、同母弟の守平親王(円融天皇)に譲位させられ、太上天皇(冷泉院)となります。
 翌年に実頼が亡くなると、天皇の外舅藤原伊尹が摂政を引き継ぎ、以降藤原氏の摂関職設置が常態化しました。984年(永観2年8月24日)に、円融天皇の息子の懐仁親王の立太子を条件に、冷泉帝の皇子・師貞親王(花山天皇)に譲位され。以後後一条天皇の即位まで約50年間、弟の円融系との皇位迭立が続きます。
 986年(寛和2年6月22日)に、息子の花山天皇が、花山寺で仏門に入り退位(次代は一条天皇)、入覚と号して花山法皇と称せられました。その後、991年(正暦2年2月12日)に円融院(円融天皇)が亡くなり、1008年(寛弘5年2月8日)には、息子の花山院(花山天皇)も亡くなります。
 退位後42年という長い上皇生活を東三条南院で暮らしてきましたが、1011年(寛弘8年10月24日)に数え年62歳で亡くなり、陵墓は桜本陵(現在の京都市左京区鹿ヶ谷法然院町)とされました。

<冷泉天皇の主要な和歌>

・「年へぬる竹の齢(よはひ)をかへしてもこのよを長くなさむとぞ思ふ」(詞花和歌集)
・「雲の上をかけ離れたるすみかにももの忘れせぬ秋の夜の月」

〇冷泉天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・950年(天暦4年5月24日) 京都において、村上天皇の第2皇子(母は右大臣師輔の娘藤原安子)として生まれ、2ヶ月後に外祖父師輔宅で立太子する
・967年(康保4年5月25日) 父・村上天皇の死没とともに践祚する
・967年(康保4年10月11日) 即位礼が行われ、第63代とされる天皇として即位する
・969年(安和2年3月) 安和の変が起こり源高明が失脚する
・969年(安和2年8月13日) 同母弟の円融天皇に譲位し、太上天皇となる
・970年(天禄元年5月18日) 藤原実頼が亡くなると、天皇の外舅藤原伊尹が摂政を引き継ぐ
・976年(貞元元年5月) 内裏が焼亡する
・977年(貞元2年) 内裏が新造される
・980年(天元3年11月) 内裏が再び火災に遭う
・982年(天元5年) 三たび内裏が焼亡する
・984年(永観2年8月24日) 円融天皇の息子の懐仁親王の立太子を条件に、冷泉帝の皇子・師貞親王(花山天皇)に譲位される
・986年(寛和2年6月22日) 息子の花山天皇が、花山寺で仏門に入り退位(次代は一条天皇)、入覚と号して花山法皇と称せられる
・991年(正暦2年2月12日) 円融院(円融天皇)が亡くなる
・1008年(寛弘5年2月8日) 息子の花山院(花山天皇)が亡くなる
・1011年(寛弘8年10月24日) 京都において、数え年62歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1636年(寛永13)武将・仙台藩の藩祖伊達政宗の命日(新暦6月27日)詳細
1790年(寛政2)老中主座・松平定信が昌平坂学問所で、朱子学以外の学問の教授を禁止する(寛政異学の禁)詳細
1925年(大正14)日本労働組合評議会が結成される詳細
1926年(大正15)北海道の十勝岳が大噴火(十勝岳1926年噴火)し、高温の岩屑なだれが発生、大被害を出す詳細
1956年(昭和31)「売春防止法」が公布(施行は1957年4月1日)される詳細
1971年(昭和46)評論家・婦人解放運動家平塚らいてう(平塚雷鳥)の命日詳細
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 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、和辻哲郎著の『古寺巡礼』が発刊された日です。
 『古寺巡礼』(こじじゅんれい)は、和辻哲郎の著作で、奈良付近の古寺を見物したときの印象記とされてきました。1918年(大正7)5月に、友人達と共に、奈良近辺の古寺を巡ったときの感想や印象を日記形式で記したものです。
 同年8月~翌年1月まで、岩波書店の雑誌『思潮』に6回連載され、1919年(大正8)5月23日に、岩波書店から単行本としての初版が出版されました。鋭い感受性により、建築、仏像などが芸術的、文化史的対象として扱われ、広く青年たちに愛読されます。
 しかし、1923年(大正12)の関東大震災で版が焼け、翌年9月に新版が出されました。さらに、太平洋戦争後の1947年(昭和22)3月に、岩波書店から改訂版が出版されています。
 以下に、和辻哲郎『古寺巡礼』改訂版序を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇和辻哲郎『古寺巡礼』改訂版序

 この書は大正七年の五月、二三の友人とともに奈良付近の古寺を見物したときの印象記である。大正八年に初版を出してから今年で二十八年目になる。その間、関東大震災のとき紙型をやき、翌十三年に新版を出した。当時すでに書きなおしたい希望もあったが、旅行当時の印象をあとから訂正するわけにも行かず、学問の書ではないということを標榜ひょうぼうして手を加えなかった。その後著者は京都に移り住み、曾遊そうゆうの地をたびたび訪れるにつれて、この書をはずかしく感ずる気持ちの昂じてくるのを経験した。そのうち閑ひまを得てすっかり書きなおそうといく度か考えたことがある。しかしそういう閑を見いださないうちに著者はまた東京へ帰った。そうしてその数年後、たしか昭和十三四年のころに、この書が、再び組みなおすべき時機に達したとの通告をうけた。著者はその機会に改訂を決意し、筆を加うべき原稿を作製してもらった。旅行当時の印象はあとからなおせないにしても、現在の著者の考えを注の形で付け加えることができるであろうと考えたのである。しかし仕事はそう簡単ではなかった。幼稚であるにもせよ最初の印象記は有機的なつながりを持っている。部分的の補修はいかにも困難である。従って改訂のための原稿は何年たってもそのままになっていた。そのうちに社会の情勢はこの書の刊行を不穏当とするようなふうに変わって来た。ついには間接ながらその筋から、『古寺巡礼』の重版はしない方がよいという示唆を受けるに至った。その時には絶版にしてからすでに五六年の年月がたっていたのである。そういうわけでこの書は今までにもう七八年ぐらいも絶版となっていた。
 この間に著者は実に思いがけないほど方々からこの書に対する要求に接した。写したいからしばらく借してくれという交渉も一二にとどまらなかった。近く出征する身で生還は保し難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい、という申し入れもかなりの数に達した。この書をはずかしく感じている著者はまったく途方に暮れざるを得なかった。かほどまでにこの書が愛されるということは著者として全くありがたいが、しかし一体それは何ゆえであろうか。著者がこの書を書いて以来、日本美術史の研究はずっと進んでいるはずであるし、またその方面の著書も数多く現われている。この書がかつてつとめたような手引きの役目は、もう必要がなくなっていると思われる。著者自身も、もしそういう古美術の案内記をかくとすれば、すっかり内容の違ったものを作るであろう。つまりこの書は時勢おくれになっているはずなのである。にもかかわらずなおこの書が要求されるのは何ゆえであろうか。それを考えめぐらしているうちにふと思い当たったのは、この書のうちに今の著者がもはや持っていないもの、すなわち若さや情熱があるということであった。十年間の京都在住のうちに著者はいく度も新しい『古寺巡礼』の起稿を思わぬではなかったが、しかしそれを実現させる力はなかった。ということは、最初の場合のような若い情熱がもはや著者にはなくなっていたということなのである。
 このことに気づくとともに著者は現在の自分の見方や意見をもってこの書を改修することの不可をさとった。この書の取り柄が若い情熱にあるとすれば、それは幼稚であることと不可分である。幼稚であったからこそあのころはあのような空想にふけることができたのである。今はどれほど努力してみたところで、あのころのような自由な想像力の飛翔にめぐまれることはない。そう考えると、三十年前に古美術から受けた深い感銘や、それに刺戟されたさまざまの関心は、そのまま大切に保存しなくてはならないということになる。
 こういう方針のもとに著者は自由に旧版に手を加えてこの改訂版を作った。文章は添えた部分よりも削った部分の方が多いと思うが、それは当時の気持ちを一層はっきりさせるためである。
 昭和二十一年七月

   「青空文庫」より

☆和辻 哲郎(わつじ てつろう)とは?

 大正時代から昭和時代に活躍した哲学者・倫理学者・文化史家・評論家です。明治時代前期の1889年(明治22)3月1日に、兵庫県神崎郡砥堀村(現在の姫路市)において、倫理学者で医師の父・和辻瑞太郎の次男として生れました。
 旧制姫路中学校(現在の兵庫県立姫路西高校)、第一高等学校を経て、1909年(明治42)に東京帝国大学文科大学哲学科へ入学します。在学中に谷崎潤一郎、小山内薫らと第2次「新思潮」の同人となり、1912年(明治45)に卒業後、同大学院へ進学しました。
 『ニイチェ研究』 (1913年) 、『ゼエレン・キェルケゴオル』 (1915年) など実存主義者の研究を発表し、日本におけるその先駆者となります。1917年(大正6)に奈良を旅行し、古寺を巡り、その旅行記を『古寺巡礼』(1919年)として出版して、日本文化の探求へも進み、『日本古代文化』(1920年)、『日本精神史研究』(1926年)などを出しました。
 また、東洋大学講師、法政大学教授を経て、1925年(大正14)には京都帝国大学助教授となり京都市左京区に転居します。1927年(昭和2)から翌年にかけて、ドイツ留学し、1931年(昭和6)には京都帝国大学教授となりました。
 翌年、『原始仏教の実践哲学』で京都大学より文学博士号を取得、1934年(昭和9)には東京帝国大学文学部倫理学講座教授に就任し、東京市本郷区に転居します。その後、『風土』(1935年)、『孔子』(1938年)などを出版し、思想史・文化史的研究にすぐれた業績を上げました。
 太平洋戦争後は、雑誌『世界』の創刊に関わり、1949年(昭和24)に大学を定年退官し、日本学士院会員となります。翌年日本倫理学会を創設し会長に就任(死去まで)、1951年(昭和26)に『鎖国』で読売文学賞、1953年(昭和28)に『日本倫理思想史』で毎日出版文化賞、1955年(昭和30)に文化勲章と数々の栄誉にも輝きました。
 人と人との関係たる間柄の学としての独自の倫理学を築き、晩年は皇太子妃となる正田美智子のお妃教育の講師も務めたものの、1960年(昭和35)12月26日に、東京において、71歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

811年(弘仁2)武将・征夷大将軍坂上田村麻呂の命日(新暦6月17日)詳細
1663年(寛文3)江戸幕府が改訂した「武家諸法度」(寛文令)21ヶ条を発布する(新暦6月28日)詳細
1832年(天保3)蘭学者・政治家・外交官寺島宗則の誕生日(新暦6月21日)詳細
1948年(昭和23)憲法学者美濃部達吉の命日詳細
1969年(昭和44)ウィーンにおいて、「条約法に関するウィーン条約」が締結され.る(1980年1月27日発効)詳細
1981年(昭和56)編集者・児童文学者・評論家・翻訳家吉野源三郎の命日詳細
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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、金属工学者荒田吉明が生まれた日です。
 荒田吉明(あらた よしあき)は、京都府において生まれ、1949年(昭和24)に大阪帝国大学工学部溶接工学科を卒業しました。1951年(昭和26)に大阪大学工学部助手となり、1953年(昭和28)に講師、1957年(昭和32)に大阪大学大学院工学研究科博士課程終了(学位論文「鉄炭素系の炭化物」)、1964年(昭和39)に教授となります。
 1965年(昭和40)にオハイオ州立大学客員教授、1972年(昭和47)に大阪大学溶接工学研究所教授、1977年(昭和52)に大阪大学溶接工学研究所長(1981年まで)となりました。「超高エネルギ密度熱源と高度加工への適用」という画期的な新分野を開拓し、1980年(昭和55)にゴールドシュミット・クラーモント賞、1982年(昭和57)に大阪大学溶接工学研究所超高エネルギー密度熱源センター長となり、ポーランド国家勲章を受章、1985年(昭和60)には、日本学士院賞を受賞します。
 1987年(昭和62)にワルシャワ工科大学名誉博士号、1988年(昭和63)に大阪大学を退官し、学内に「荒田記念館」が建設され、近畿大学教授、日本学士院会員、米国レーザー学会フェローとなり、1990年(平成2)に天津大学ゴールドキー、1992年(平成4)にアーサー・シャーロウ賞、1993年(平成5)に米国金属学会フェロー、1994年(平成6)に国際溶接学会「荒田吉明賞」を受賞するなど国際的に高く評価されました。国内でも、1995年(平成7)に文化功労者、2004年(平成16)に瑞宝重光章、2005年(平成17)に国際常温核融合学会賞、2006年(平成18)に文化勲章受章など数々の栄誉に輝きます。
 2008年(平成20)に大阪大学で固体内核融合の実験を報道関係者に広く公開、2009年(平成21)に静岡県産業経済会館でJCF9(第9回常温核融合研究会)にて、前年の公開実験の再現に成功したと発表しましたが、2018年(平成30)6月5日に、腎不全のため94歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇荒田吉明の主要な著作

・『プラズマ工学』(1965年)
・『新エネルギー創生を目指して』(2007年)

☆荒田吉明関係略年表

・1924年(大正13)5月22日 京都府において、生まれる
・1949年(昭和24) 大阪帝国大学工学部溶接工学科を卒業する
・1951年(昭和26) 大阪大学工学部助手となる
・1953年(昭和28) 大阪大学工学部講師となる
・1957年(昭和32) 大阪大学大学院工学研究科博士課程終了(学位論文「鉄炭素系の炭化物」)
・1964年(昭和39) 大阪大学工学部教授となる
・1965年(昭和40) オハイオ州立大学客員教授となる
・1972年(昭和47) 大阪大学溶接工学研究所教授となる
・1977年(昭和52) 大阪大学溶接工学研究所長(1981年まで)となる
・1980年(昭和55) ゴールドシュミット・クラーモント賞を受賞する
・1982年(昭和57) 大阪大学溶接工学研究所超高エネルギー密度熱源センター長となり、ポーランド国家勲章を受章する
・1985年(昭和60) 「超高エネルギ密度熱源の開発と熱加工への適用」で、日本学士院賞を受賞する
・1987年(昭和62) ワルシャワ工科大学名誉博士号を得る
・1988年(昭和63) 大阪大学を退官し、学内に「荒田記念館」が建設され、近畿大学教授、日本学士院会員、米国レーザー学会フェローとなる
・1990年(平成2) 天津大学ゴールドキーを得る
・1992年(平成4) アーサー・シャーロウ賞を受賞する
・1993年(平成5) 米国金属学会フェローとなる
・1994年(平成6) 国際溶接学会「荒田吉明賞」を受賞する
・1995年(平成7) 文化功労者となる
・2004年(平成16) 瑞宝重光章を受章する
・2005年(平成17) 国際常温核融合学会賞を受賞する
・2006年(平成18) 文化勲章を受章する
・2008年(平成20) 大阪大学で固体内核融合の実験を報道関係者に広く公開する
・2009年(平成21) 静岡県産業経済会館でJCF9(第9回常温核融合研究会)にて、2008年の公開実験の再現に成功したと発表する
・2018年(平成30)6月5日 腎不全のため94歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1737年(元文2)江戸幕府第10代将軍徳川家治の誕生日(新暦6月20日)詳細
1859年(安政6)小説家・演劇評論家・劇作家・英文学者坪内逍遥の誕生日(新暦6月22日)詳細
1939年(昭和14)全国学校教職員及び学生生徒御親閲式で、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が発布される詳細
1945年(昭和20)「戦時教育令」を公布し、各学校、職場に学徒隊を結成させる詳細
1989年(平成元)考古学者相沢忠洋の命日詳細
1992年(平成4)「生物の多様性に関する条約」が採択される(国際生物多様性の日)詳細
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