ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2022年02月

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 今日は、江戸時代前期の1638年(寛永15)に、島原・原城が落城し、島原の乱(島原・天草一揆)が終結、蘢城していた一揆勢が皆殺しになった日ですが、新暦では4月12日となります。
 島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代前期の1637年(寛永14年10月25日)~翌年2月28日まで、九州の島原・天草地方で起きた、日本の歴史上最大規模の一揆で、島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれてきました。
 以前この地方は,キリシタン大名有馬晴信や小西行長の領地で、住民にもキリスト教徒が多かったのですが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後、天草の領主は寺沢氏に代り、1615年(元和元)に、島原の領主が松倉氏に代わります。寺沢氏・松倉氏は、キリシタン信者に対する過酷な弾圧と農民への過重な年貢の負担を強制し、滞納する者には重罰を課しました。
 その中で、1637年(寛永14年10月25日)に、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害し、これをきっかけに島原半島一帯の農民が蜂起します。豪農益田甚兵衛の子四郎時貞(16歳)が首領に推され、商人、手工業者、船頭なども参加、さらに天草の農民も加わって、大規模な一揆となりました。
 一揆勢は、最初は島原藩兵を追い返したり、11月14日の本渡の戦いでは、富岡城代の三宅重利を自刃させるなど優勢でしたが、九州諸藩の討伐軍が來ると原城跡に約3万7千人が立て籠もります。江戸幕府は12月に鎮圧のため板倉重昌を派遣し、近隣諸藩の兵を指揮させましたが、翌年元旦の総攻撃で重昌は戦死してしまいました。
 その後、老中松平信綱が着陣して指揮を取り、十数万の包囲軍による兵糧攻めや艦砲射撃なども行います。そして、一揆勢の食糧や弾薬が尽きた頃、幕府軍の総攻撃によって陥落し、1638年(寛永15年2月28日)に終結しましたが、一揆勢はほぼ全員が殺されました。
 しかし、幕府側も40万両余の戦費と数千の武士を失うという痛手で、原因を作った松倉重次を処刑し、寺沢氏の所領を没収するなどの処置を取ります。これ以後、キリスト教への弾圧は一層きびしくなり、鎖国を促すことにもなりました。

〇「原城跡」とは?
 長崎県南島原市にあり、島原の乱(1637~38年)で、幕府軍とキリスト教徒中心の一揆勢が戦ったところで、本丸跡には首領天草四郎時貞の像が立っています。城跡には、大手門跡、板倉重昌碑、本丸跡、ホネカミ地蔵、天草四郎像、天草四郎墓などが残されてきました。
 今はほとんどが農耕地となっていて、しかも海の眺望が良く、のどかな田園地帯で、ここで島原の乱があり、約3万7千人が死んだとは思えない場所となっています。尚、1938年(昭和13)に国の史跡となり、2017年(平成29)に「続日本100名城」(188番)に選定され、2018年(平成30)には、世界遺産(文化遺産)の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成要素の一つとして、登録されました。

〇「天草四郎メモリアルホール」とは?
 熊本県上天草市の大久野島は、島原の乱(1637~38年)の首謀者である天草四郎の出身地で、「天草四郎メモリアルホール」がありますが、丘の上の協会風の建物です。江戸時代前期の一大事件はこの地方の農民たちによって引き起こされました。
 幕府、大名による過酷な弾圧は、キリシタンたちを団結させ、一揆に立ち上がらせます。その時代に、神を最高のものとして、崇めることは異端でした。
 幕府側の徹底した反撃に、最後は島原半島の原城跡に約3万7千人が立て籠もっての長期の抵抗の末、全員虐殺されます。しかし、それによってキリシタン信仰を根絶やしにすることは出来ず、陰に隠れ、連綿として受け継がれていくことになりました。
 あの江戸時代の長きにわたって、信仰を守り通したことは、驚異といっても良いと思います。館内の最後に、なんとも不思議な部屋「瞑想のホール」があって、音と光の中で、静かに回想できました。
 床には、奇妙なクッションが置いてあって、座りながらしばらくくつろいでみましたが、何とも言えない異空間が体験できます。外には、天草四郎之像とキリシタン墓がありました。

〇「キリスト教の伝来と禁教令」とは?
 1549年(天文18)に、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが、鹿児島に来航して、キリスト教は伝来します。その後、大内義隆や大内義鎮などの保護もあって、機内や九州北部を中心に広がりました。
 各地に南蛮寺(教会堂)やコレジオ(宣教師学校)、セミナリオ(神学校)なども建てられ、高山右近などのキリシタン大名(洗礼を受けた大名)も登場して、天正遣欧使節も送られたりします。しかし、豊臣秀吉により、1587年(天正15)にバテレン追放令が出されるなどして、次第にキリシタン弾圧が始まりました。
 江戸時代になると、1612年(慶長17)に幕府直轄領に禁教令が出され、翌年には全国に及ぶようになります。この後は、宣教師や信者の処刑や海外追放などの激しい迫害が始まりました。

☆島原の乱関係略年表(日付は旧暦です)

<1637年(寛永14)>
・9月30日 天草四郎(16才?)は一人で宇土町から大矢野の渡辺左太郎(姉婿)の家へ向かう。後日、父の甚平が大矢野に向かう
・10月7日 天草郡大矢野村宮津で、天草四郎は天草の盟主(総大将)『天草四郎時貞』の名をもらう
・10月9日 天草四郎が上津浦で多くの信徒を前に説教をする
・10月19日 天草四郎が南有馬村の角蔵と北有馬村の三吉に、キリシタンの教えを説く
・10月24日 湯島(談合島)島原と天草の代表が集まって、天草四郎は天草と島原の両方の盟主になる
・10月25日 天草四郎は親類の渡辺伝兵衛の家に移り、島原の代官林兵左衛門が百姓たちに殺される(島原の乱の始まり)
・10月26日 天草四郎は渡辺小左衛門たち50人といっしょに栖本の郡代の家に行き、キリシタンにもどるように説く、島原で一揆勢が立ち上がり、深江合戦後大手門の激戦になるが島原城は落とせず
・10月28日 天草で一揆が開始され、領内の神社仏閣を襲う
・10月30日 渡辺小左衛門たち組の幹部が、宇土郡の郡浦にて細川藩に捕らえられ、人質になる
・11月1日 天草四郎の母、姉、妹たちが、細川藩に捕らえられて人質になる
・11月4日 天草四郎は50人もの有力者をひきつれて、島原の有馬にわたる
・11月8日 有馬の百姓たちが、天草四郎に誓詞を差し出す
・11月13日 島原の一揆勢の一部が、天草に加勢に来る、湯島にもどって原城立て籠もりの話をし、上津浦に上陸して、天草一揆の本陣を上津浦に移す
・11月14日 午前に島子村で富岡の領主勢と戦い、島子合戦で勝利、午後に本渡合戦で唐津藩城代(富岡城の領主)三宅籐兵衛を討ち取られる
・11月19日 一揆勢が富岡城を包囲する
・11月22日 一揆勢は富岡城を攻略できずに島原に撤退する
・11月24日 一揆勢は有馬の古城、原城を修理して、立て籠もる
・12月1日 一揆勢は島原の原城跡で籠城作戦の準備をする
・12月3日 一揆勢は天草・島原の各地から海を渡って原城に入り、総数約37,000人が集結する
・12月10日 原城が幕府軍に包囲されて、両軍はじめて戦火を交える
・12月19日 幕府軍が夜中に総攻撃をしかけたが、一揆勢に追いかえされる

<1638年(寛永15)>
・1月1日 夜明けに2回目の幕府軍総攻撃が行われ、上司板倉重昌が討ち死にする
・1月4日 幕府軍の老中松平信綱と10万の大軍が島原に到着し、幕府側から和漢交渉を求め、干殺し作戦に入る 
・1月11日 オランダ船が原城を大砲で攻撃する
・1月13日 一揆勢より矢文合戦を開始する
・1月22日 囲碁をしていた時、陸から打たれた砲弾が四郎の袖に当り負傷、側近の数名が即死する
・2月1日 老中松平信綱の指図によって、人質となった四郎の母の手紙がとどいたが、無視される
・2月3日 両軍の代表が大江口で会見する
・2月10日 天草四郎は原城の一揆勢を励ましてまわる
・2月27日 幕府軍の原城総攻撃が開始される
・2月28日 原城が落城、約37,000人が虐殺され、午後に天草四郎の首実験が行われる
・3月 天草四郎らしき首が原城で獄門にされた後、長崎の出島に送られて再度獄門にされ、西坂の墓地(首塚)に埋められ、人質になっていた四郎の親類縁者や落人のすべてが処刑される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1591年(天正19)商人・茶人千利休の命日(新暦4月21日)詳細
1633年(寛永10)江戸幕府により「寛永十年二月令」(第一次鎖国令)が出される詳細
1864年(元治元)小説家二葉亭四迷の誕生日(新暦4月4日)詳細
1952年(昭和27)「日米安全保障条約(旧)」に関わり、日米両国の政府間で、「日米行政協定」が調印される詳細
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SDGs01
 今日は、昭和時代後期の1987年(昭和62)に、東京で開催された環境と開発に関する世界委員会(WCED)で「持続的開発の8原則」を含む「東京宣言」が採択された日です。
 「東京宣言(とうきょうせんげん)」は、東京で開催された環境と開発に関する世界委員会(国連環境特別委員会・ブルントランド委員会)の最終会合で、採択された「持続的開発の8原則」を含む宣言でした。その内容は、地球的規模で進行しつつある環境破壊に対処し人類社会の永続的発展を保証するため、各国政府および国民に対し「持続可能な開発」を国の政策および国際協力の最優先目標として掲げ、その実現のため成長の回復、成長の質の転換、資源基盤の保全と強化等8つの戦略・原則を政策行動の指針として採用することを求めたものです。
 環境と開発に関する世界委員会(WCED)は、ノルウェー首相のブルントラントを委員長として、1984~87年までの4年間にわたり、精力的な活動を展開してきましたが、最終年の4月には、「OurCommon Future(邦題:我ら共有の未来)」と題する報告書を公表、その内容は、①持続可能な開発とは、未来の世代が自分たち自身の欲求を満たすために能力を減少させないように現在の世代の欲求を満たすような開発である。②持続的な開発は、地球上の生命を支えている自然のシステム-大気、水、土、生物-を危険にさらすものであってはならない。③持続的開発のためには、大気、水、その他自然への好ましくない影響を最小限に抑制し、生態系の全体的な保全を図ることが必要である。④持続的開発とは、天然資源の開発、投資の方向、技術開発の方向付け、制度の改革がすべて一つにまとまり、現在および将来の人間の欲求と願望を満たす能力を高めるように変化していく過程をいう。とされ、同年12月の国連総会の場において、これを基本的に支持する決議が採択されました。この考えは、広く世界の支持を得ていき、1989年(平成元)の第44回国連総会では、1972年(昭和47)の国連人間環境会議の20周年を記念し、21世紀に向けて人類がどのように環境と開発の戦略を持つべきか議論する場として、1992年(平成4)に「環境と開発に関する国連会議(UNCED/地球サミット)」を開催することが決定されていきます。
 その後、ESD(education for sustainable development)、つまり持続可能な開発を促進するため、地球的な視野をもつ市民を育成することを目的とする教育の重要性が提唱され、近年では「SDGs(エスディージーズ)」として、関心が高まっています。
 以下に、「国連環境特別委員会東京会合宣言」の日本語訳と環境と開発に関する世界委員会報告書『Our Common Future(邦題:我ら共有の未来)』の概要を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「国連環境特別委員会東京会合宣言」(日本語訳) 1987年(昭和62)2月27日[於:東京]

東京宣言

「国連環境特別委員会」は,国連総会により独立の機関として1984年に設立され,自らに以下の任務を課した。
a)環境と開発に係る重要問題を再検討し,これに対処するための革新的,具体的かつ現実的な行動提言を行うこと。
b)環境と開発に係る国際協力を強化すると共に,現在の様式や慣行を脱し,必要とされる改革に向かって政策や社会の動向に影響を与えることのできる新たな協力の形態を検討し,提言すること。
c)個人,ボランティア組織,経済界,研究機関及び政府の理解を深め,より多くの実践活動への参加を求めること。
ここ東京においてその任務を終えるにあたり,委員一同は,豊かで,公正で,そして安全な将来を築き得る,という信念を変えていない。
しかしながら,その実現の可能性は,すべての国々が持続的開発を,国内政策と国際協力の最優先目標として,また評価基準として採用することにかかっている。持続的開発とは,簡潔に言えば将来の世代のニーズを損うことなく現在の世代のニーズを満たすような人類社会の進歩への取り組み方,と定義づけることができる。西暦2000年を超えて,21世紀へと成功のうちに移行するには,社会の諸目的が,このような大規模な変換を遂げなければならない。また,いくつかの戦略を一致して強力に推進する必要がある。
「国連環境特別委員会」は,世界のすべての国々に対し,互いに協調し合い,また個々の努力を通じて,持続的開発を各国機関の諸目標に組み入れるとともに,以下の原則を政策行動の指針として採択することを求める。

1. 成長の回復

貧困は環境悪化の主たる要因であり,開発途上国の多くの人々に影響を与えるだけではなく,先進工業国を含む諸国から成る共同体全体の持続的開発を脅かすものでもある。特に,途上国においては環境の資源基盤を増強しつつ,経済成長を促す必要がある。先進工業国は世界経済の活性化に寄与することが可能であり,要求されていることでもある。是非とも必要なことは,債務危機解決のため,国際的な緊急行動をとること,開発資金の流れを大幅に増加させること,低所得一次産品輸出国の外貨獲得高を安定化させることである。

2. 成長の質の変換

成長は回復されても,その成長とは今までと異なったものでなければならない。即ち,持続可能性,公平性,社会的正義,安全性などを社会的目標として基盤に据えたものである。安全で環境保全型のエネルギーパスは,このための不可欠な要素である。教育,コミュニケーション,国際協力などはすべてこれらの目標の達成に寄与するものである。開発計画者は国の財産を評価する際,在来の経済指標のみならず天然資源の状況にも十分な考慮を払うべきである。所得の分配を改善し,自然災害や技術的リスクを低減し,保健衛生の状況を改良し,文化遺産を保護することはすべて成長の質の向上に寄与するものである。

3. 資源基盤の保全と強化

持続を可能にするには,空気,水,森林,土壌などの環境資源を保全し,遺伝子の多様性を維持し,エネルギー,水,原料を効率的に使用することが必要である。天然資源の1人当たりの消費量を減らすために生産効率の改善を加速し,環境を汚染しない製品や技術への移行をはかる必要がある。すべての国々に対し環境規制を厳正に施行し,むだの少ない技術を奨励し,新しい製品,技術,廃棄物の環境影響を予測することにより,環境汚染を未然に防止することが要請されている。

4. 持続可能な人口水準の実現

人口政策の立案にとっては,他の経済社会開発計画一例えば教育,保健衛生,貧困者の生計基盤の拡大一などが整合性をもったものとならなければならない。家族計画対策を広くいきわたらせることもまた,社会開発の一形式であり,ひいては夫婦,特に女性の自決権を認めるものである。

5. 技術の方向転換とリスク管理

技術は危険を生み出す一方で,危険を管理する手段を提供する。途上国の技術革新能力は大幅に強化される必要がある。また,すべての国々において,技術開発の方向が,環境要因を十分配慮したものになるように変えていかなければならない。新技術の普及に先立ってその潜在的影響を評価するため,国内的及び国際的メカニズムの確立が必要である。同様の制度は,河川の水路変更や森林伐採などの自然生態系への大幅な介入についても必要となる。損害賠償責任が強化される必要がある。環境と開発の問題に関する政策決定の過程には市民参加の拡大と,適切な情報への自由なアクセスが促進されなければならない。

6. 政策決定における環境と経済の統合

環境と経済は,相互に補強し合うことができるし,またそうしなければならない。持続を可能にするには,政策決定の影響に対する責任を拡大する必要がある。政策決定者は,その決定が自国の環境資源基盤に与える影響について責任を負わなければならない。この場合,環境破壊の症状にではなく破壊の原因に焦点を合わせるべきである。環境破壊を予見し未然に防ぐためには,経済・通商,エネルギー農業,その他の側面と同時に政策の環境的側面を考慮しなければならない。環境的側面についてはこういつた国内的及び国際的諸機関が,他の検討事項と同じレベルで検討されなければならない。

7. 国際経済関係の改革

長期にわたる持続的成長を達成するには,より公平で,かつ環境上の緊急課題によりょく同調した通商,資本,技術の流れを生み出すような広範囲にわたる改革が必要である。経済及び通商基盤の多角化され自立性が強化されることを通じて,途上国が機会拡大をはかるためには,市場へのアクセス,技術移転,国際金融面における抜本的な改善が必要である。

8. 国際協力の強化

国際協力に環境問題の諸要素を導入することにより・問題の緊急性が浮彫りにされ,また,相互の利益を認識するものである。資源の劣化と貧困の相互作用の問題を放置すれば,それは国境を越えて,地球的規模の環境問題と化すからである。国際開発の全分野にわたって環境の監視,評価,研究開発,そして資源管理により高い優先度を与えなければならない。そのためには,すべての国々が強い決意をもって,国際機関の機能を十分発揮させ,通商,投資などの分野の国際的ルールを確立し,遵守するとともに,国益が対立し調整のため交渉を要するような多くの問題についても,建設的な対話を行っていく必要がある。また,それは世界の平和と安全にとって本質的な重要性とは何かを認識することを求めるものである。人類の進歩には多国間協力を新しい次元に展開することこそが不可欠である。

我々が今世紀に於て,バランスをもってこれらの原則に合致する確たる前進をすることができるならば,次の世紀には全ての人類にとって,より安全で,より豊かで,より公平で,そしてより希望に満ちた未来をもたらし得ることを委員会は確信するものである。

〇環境と開発に関する世界委員会報告書『Our Common Future(邦題:我ら共有の未来)』(概要)1987年(昭和62)4月

第1章 未来への脅威 
 今日、酸性雨、熱帯林の破壊、砂漠化、温室効果による気温の上昇、オゾン層の破壊等、人類の生存の基盤である環境の汚染と破壊が地球的規模で進行している。この背後には、過度の焼畑農業による熱帯林破壊に見られるような貧困からくる環境酷使と、富裕に溺れる資源やエネルギーの過剰消費がある。

第2章 持続可能な開発に向けて 
 いまや人類は、こうした開発と環境の悪循環から脱却し、環境・資源基盤を保全しつつ開発を進める「持続可能な開発」の道程に移行することが必要である。成長の回復と質の改善、人間の基本的ニーズの充足、人口の抑制、資源基盤の保全、技術の方向転換とリスクの管理、政策決定における環境と経済の統合が主要な政策目標である。

第3章 国際経済の役割 
 世界経済の成長速度を増大させつつ、地球環境への圧力を制御し得る方向に世界経済を再編成することが求められており、開発途上国の債務問題の解決、一次産品の価格安定化による開発途上国の農業の振興、多国籍企業活動の改善、技術基盤の拡大等が必要である。

第4章 人口と人的資源 
 家族計画、女性の自立等を推進することによって、人口の増加を制御し、環境への圧力を減ずる必要がある。また、健康改善、教育の推進等により、人的資源の質の向上を図り、環境管理の能力を向上させるとともに、少数民族の保護を図ることも重要である。

第5章 食糧安全保障:潜在生産能力の維持 
 世界の食糧問題を解決するために、先進国における過剰な補助金や保護貿易主義の撤廃、土壌、水、森林等の生産基盤の保全、農業技術の普及・発展、開発途上国における土地改革や小規模農家の保護・育成を推進する必要がある。

第6章 種と生態系:開発のための資源 
 農産物の品種改良や衣料品の開発のために欠くことのできない資源であり、かつ、倫理的、文化的にも重要な生物種が急速に損なわれつつある。特に、地球上の種の半分が存在するとされている熱帯林では、貴重な野生生物が絶滅に瀕している。このため、各国政府と国際機関は、保護区域の拡大、種の保存のための条約の締結や財源の確保等を推進する必要がある。

第7章 エネルギー:環境と開発のための選択 
 環境保全を図りつつ、開発途上国を中心に今後大幅に増大するエネルギー需要に対応するために、化石燃料の使用に伴う環境汚染の防止、原子力エネルギーの安全性向上、再生可能エネルギーの使用、エネルギー効率の向上、省エネルギー対策を促進する必要がある。

第8章 工業:小をもって多を生産する 
 近年の工業の構造変化や技術開発により、開発途上国の工業化による汚染の拡大、化学物質による新たな汚染、事故のリスクの増大等の問題が生じている。このため、環境上の目標の設定と規制の実施、経済的手段の効果的利用、計画段階での環境配慮、産業界の対応能力の強化、有害物質管理能力の向上、国際協力による途上国への技術、財政、行政面での支援等が必要である。

第9章 都市の挑戦 
 特に途上国においては、都市の人口集中が著しく、住宅、衛生、環境汚染等、様々な問題が生じていることから、大都市への人口集中の抑制や地方都市の整備、市民や住民組織の協力促進、低所得者に焦点を当てた住宅政策等が不可欠であり、これらを促進するために、途上国間の協力と先進国の支援が必要である。

第10章 共有財産の管理 
 海洋、宇宙、南極は人類の究極の共有財産である。海洋については、漁業資源の保護と有害廃棄物の海洋投棄の規制の為の条約の整備、宇宙については、リモートセンシングの促進、限られた静止衛星軌道の効率的利用、宇宙の廃棄物の管理を始めとする利用体制の整備、南極については、南極条約の拡充が必要である。

第11章 平和、安全保障、開発及び環境 
 砂漠化による難民の発生や資源をめぐる争いにも見られるように、環境問題は国際紛争の大きな原因である。一方、戦争は環境に対する最大の脅威であるとともに人類の発展のために振り向けられるべき資源を浪費する。このような問題に対処するために国際社会は、国際的共有財産の共同管理、環境悪化の早期発見、軍縮の促進と軍事費の環境保全対策の振り向け等に努めるべきである。

第12章 共有の未来のための認識と行動 
 持続可能な開発の道程に移行するため、環境悪化の結果への対応を中心とした従来の取組を強化するとともに、環境問題の原因に焦点を当てた取組を国際協力の下に開始すべく、組織及び法制度を大胆に変革する必要がある。すなわち、各国の環境行政機構やUNEPの強化、全地球的モニタリングやリスク評価の推進、NGO、学会、産業界等の参加の促進、環境保全と持続可能な開発に関する世界宣言と条約の準備、多国間援助や二国間援助の改善と強化、国際的な活動に対する資金の確保等に努めることが重要である。

☆ESDに関する世界の動きと国内の取組

・1972年 ストックホルムで「国連人間環境会議」開催 「人間環境宣言」廃棄物の海洋投棄禁止条約(ロンドン条約)採択、「国連環境計画」(UNEP)の設立決定
・1973年 国連環境計画(UNEP)発足、絶滅野生動植物の輸出入禁止条約(ワシントン条約)採択
・1974年 海洋汚染防止条約(IMCO条約)採択、第6回国連特別総会(資源と開発がテーマ)、第3次国連海洋法会議が開幕(カラカス)、世界人口会議(ブカレスト)・世界食糧会議(ローマ)、OECD第1回環境大臣会議
・1975年 第7回国連特別総会(開発と経済協力がテーマ)
・1976年 第4回国連貿易開発会議(UNCTAD)総会、国連人間居住(ハビタット)会議(バンクーバー)
・1977年 国連水会議(マルデルプラータ)、国連砂漠化防止会議(ナイロビ)、環境教育政府間会議(トビリシ)
・1982年 UNEP理事会特別会合(ストックホルム会議10周年記念)(ナイロビ)
・1983年 「環境と開発に関する世界委員会」発足
・1985年 オゾン層保護全権会議(ウィーン)ウィーン条約採択
・1987年 ブルントラント委員会最終会合(東京)にて東京宣言を出す、報告書「我ら共通の未来」発表、オゾン層保護条約外交会議(モントリオール)、モントリオール議定書採択
・1988年 IPCC(気候変動政府間パネル)設立
・1990年 世界気候会議(ジュネーブ)
・1992年 国連環境開発会議(地球サミット)(リオデジャネイロ)、アジェンダ21とリオ宣言、森林原則宣言の採択、気候変動枠組み条約と生物多様性条約の調印
・1993年 世界人権会議(ウィーン)
・1994年 国際人口開発会議(カイロ)
・1995年 社会開発サミット(コペンハーゲン)、世界女性会議(北京)
・1997年 COP3第三回気候変動枠組み条約締約国会議(京都)
・2000年 COP6第六回気候変動枠組み条約締約国会議(ハーグ)
・2001年 POPs(残留有機汚染物質)規制条約が採択、COP6追加会合(ボン)  
・2002年9月 ヨハネスルクサミットにおいて、我が国よりESDの10年を提案し、持続可能な開発に関する世界首脳会議実施計画に盛り込まれる
・2002年12月 第57回国連総会にて、我が国より2005年から2014年までを「国連ESDの10年」とする旨の決議案を提出し、満場一致で採択される
・2005年9月 「国連ESDの10年」の推進機関であるユネスコが「国連ESDの10年国際実施計画案」を策定する
・2005年12月 「国連持続可能な開発のための教育の10年」関係省庁連絡会議を内閣に設置する
・2006年3月 「国連持続可能な開発のための教育の10年」に関する実施計画を策定する
・2007年7月 第4回世界環境教育会議が、南アフリカ・ダーバンにて開催する
・2007年11月 第四回環境教育国際会議が、インド・アーメダバードにて開催する  
・2008年12月 ESD国連フォーラム2008を国連大学にて開催する
・2009年3月 国連ESDの10年の中間年に、ドイツ・ボンにおいてESD世界会議を開催する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1594年(文禄3)豊臣秀吉による吉野の花見が開宴される(新暦4月17日)詳細
1754年(宝暦4)江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手(新暦3月20日)詳細
1875年(明治8)日本初の近代的植物園・小石川植物園が開園する詳細
1946年(昭和21)GHQより「社会救済に関する覚書」(SCAPIN-775)が出される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1649年(慶安2)に、江戸幕府が「慶安御触書」を発布したとされてきた日ですが、新暦では4月7日となります。
 慶安御触書(けいあんおんふれがき)は、江戸幕府が農村を対象に公布したとされる32条からなる触書でした。しかし、幕府の出したものではなく、甲斐の甲府藩領で江戸時代中期に発布されていたものが流布し、美濃国岩村藩で江戸時代後期(文政年間)に出版され、これが各地に広がったといわれています。
 19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録『徳川実紀』や明治時代前期に司法局が編纂した幕府法令集『徳川禁令考』に収録されているので、幕府の法令だと誤られたとの説が有力です。しかし、一部の地域では流布していたとも考えられ、内容については、農民の日常生活、農業経営、農民の心得などを細かく規制したものとなっていました。
 以下に、「慶安御触書」を全文、現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「慶安御觸書」 (全文) 1649年(慶安2年2月26日)発布 

 慶安御觸書

慶安二丑年二月廿六日

  諸國郷村江被仰出

一 公儀[1]御法度[2]を怠り、地頭[3]代官[4]之事をおろかに不存、扨又[5]名主、組頭[6]をハ眞の親とおもふへき事。

一 名主・組頭[6]を仕者、地頭[3]代官[4]之事を大切に存、年貢を能濟。公儀[1]御法度[2]を不背、小百姓[7]身持[8]能仕樣に可申渡、扨又[5]手前之身上[9]不成、萬不作法[10]に候得ハ、小百姓[7]に公儀[1]御用之事申付候而もあなとり、不用物に候間、身持[8]を能致し、不便[11]不仕樣に常々心掛可申事。

一 名主心持、我と中惡者成共、無理成儀を申かけす、又中能者成共依怙贔屓[12]なく小百姓[7]を懇[13]にいたし、年貢割役等之割、少も無高下[14]、ろく[15]に可申渡、扨又[5]小百姓[7]ハ名主・組頭[6]之申付候事、無違背[16]念を入可申事。

一 耕作に情を入田畑之植樣、同拵に念を入、草はへさる樣に可仕、草を能取、切々作之間江鍬入仕候得ハ、作も能出來取實[17]も多有之付、田畑之堺ニ大豆ニ豆なと植、少もとりとも可仕事。大豆以下恐有誤脱

一 朝おきを致し、朝草を苅、晝ハ田畑耕作にかゝり、晩にハ繩をない、たわらをあみ、何にてもそれそれの仕事、無油斷[18]可仕事。

一 酒・茶を買のみ申間敷候。妻子同前之事。

一 里方[19]ハ居屋敷之廻りに竹木を植、下葉共取、薪を買候ハぬ樣に可仕事。

一 萬種物、秋初ニ念を入ゑり候て、能種を置可申候、惡種を蒔候得ハ作毛[20]惡敷候事。

一 正月十一日前に毎年鍬のさきをかけ[21]、かまを打直し能きれ候樣ニ可仕、惡きくわにてハ田畑おこし候にはか[22]ゆき候ハす、かまもきれかね候得ハ、同前之事。

一 百姓ハこへはい[23]調置き候儀、專一[24]ニ候間、せつちん[25]をひろく作り、雨降り候時分、水不入樣に仕へし、それニ付、夫婦かけむかい[26]のものニ而馬をも持事ならすこへため申候もならさるものハ庭之内ニ三尺に二間程にほり候而其中へはきため[27]又ハ道之芝草[28]をけつり入、水をなかし入、作りこゑを致し、耕作へ入可申事。

一 百姓ハ分別[29]もなく、末の考[30]もなきものニ候故、秋ニ成候得ハ、米雜穀[31]をむさと[32]妻子ニもくハせ候、いつも正月二月三月時分[33]の心をもち、食物を大切ニ可仕候ニ付、雜穀[31]專一[24]ニ候間、麥粟稗菜大根其外何に而も雜穀[31]を作り、米を多く喰つふし候ハぬ樣に可仕候、飢饉[34]之時を存出し候得ハ、大豆の葉、あつきの葉、さゝけの葉[35]、いもの落葉なと、むさと[32]すて候儀ハ、もつたいなき[36]事に候。

一 家主子共下人[37]等迄、ふたん[38]は成程[39]踈飯をくふへし、但田畑をおこし、田をうへ、いねを苅、又ほねをり[40]申時分ハ、ふたん[38]より少喰物を能仕、たくさんにくハせつかひ可申候、其心付[40]あれは情を出すものに候事。

一 何とそいたし[41]、牛馬之能を持候樣ニ可仕、能牛馬ほとこへをたくふむものに候、身上不成ものハ是非不及、先如此心かけ可申候、幷春中牛馬に飼候ものを、秋さき支度可仕候、又田畑江かりしき[43]成共、其外何こへ成とも能入候得ハ、作にとりみ有之候事。

一 男ハ作をかせき、女房ハおはた[44]をかせき、夕なへ[45]を仕、夫婦ともにかせき可申。然ハみめかたちよき[46]女房成共、夫の事をおろかに存、大茶をのみ[47]、物まいり[48]遊山[49]すきする女房を離別すへし、乍去子供多く有之て、前廉[50]恩をも得たる[51]女房ならハ格別[52]なり。又みめさま惡候共、夫の所帶[53]を大切ニいたす女房をハ、いかにも懇可仕事。

一 公儀[1]御法度[2]何に而も不相背、中ニも行衛不知牢人[54]、郷中ニ不可抱置、夜盗同類又ハ公儀[1]御法度[2]に背候徒者[55]なと、郷中江隱居、訴人有之、而公儀江召連參、御詮議[56]中久々相詰候得ハ、殊外[57]郷中の草臥[58]候、又ハ名主組頭長百姓[59]幷一郷之惣百姓[60]ににくまれ候ハぬ樣に、物毎正直に徒成る心持申間敷候事。

一 百姓は、衣類之儀、布[61]、木綿より外ハ帶衣裏ニも仕間敷事。

一 少ハ商心も有之而、身上[9]持上ケ候樣に可仕候。其子細ハ、年貢之爲に雜穀[31]を賣候事も、又ハ買候にも、商心なく候得ハ、人にぬかるゝものに候事。

一 身上[9]成候者のハ格別、田畑をも多く持不申、身上[9]なりかね候ものハ、子共多く候ハゝ人にもくれ、又奉公をもいたさせ、年中之口すき[62]のつもりを能々考可申事。

一 屋敷之前の庭を奇麗ニ致し、南日向を受へし是ハ稻麥をこき[63]、大豆をうち、雜穀[31]を拵候時、庭惡候得ハ、土砂ましり候而、賣候事も直段安く、事の外しつゝい[64]に成候事。

一 作の功者成人に聞、其田畑の相應したるたねをまき候樣に、毎年心かけ可申事。付り、しつきみ[65]ニ作り候て能き物有之、しつきみ[65]を嫌候作も有、作ニ念入候得ハ下田[66]も上田[67]の作毛[20]ニ成候事。

一 所にハよるへく候得共、麥田に可成所をハ、少成共見立[68]可申候、以來ハれんれん麥田に成候得ハ、百姓之ため大き成德分[69]に候、一郷麥田を仕立候得ハ、隣郷も其心付有之物に候事。

一 春秋灸[70]をいたし煩候ハぬ樣ニ常ニ心掛へし何程作ニ情を入度と存候而も、煩候得ハ、其年之作をはつし、身上[9]つふし申ものニ候間、其心得專一[24]なり、女房子共も同前之事。

一 たは粉のみ申間敷候。是ハ食にも不成、結句[71]以來煩ニ成ものニ候。其上隙もかけ代物[72]も入、火の用心も惡候。万事ニ損成ものニ候事。

一 年貢出し候儀、反別ニかけてハ一反ニ付何ほと、高にかけてハ一石に何程、割付差紙[73]地頭[3]代官[4]よりも出し候、左候得ハかうさくに入情を能作り、取實[17]多く在之ハ、其身の德に候、惡候得ハ入不知身上のひけ[74]に候事。

一 御年貢皆濟[75]之砌、米五升六升壹升ニつまり、何共可仕樣無之時、郷中をかりあるき候得共、皆濟時分互ニ米無之由かさゝるニよつて、米五升壹斗ニ子共又ハ牛馬もうられす、農道具着物なと、うらむとおもへハ、金子壹分ニ而仕立候を五六升にうるもにかにか敷[76]事に候、又賣物抔不申ものは、高利[77]にて米を借り候ハ彌しつゝい成る事に候、地頭[3]代官[4]より割付出候而其積りを仕、不足に付てハまへかと[50]かり候て可濟、前廉[50]ハ借物の利足もやすく、うる物もおもふまゝ成へし、尤可納米をもはやく納へし、手前[78]に置候ほと鼠も喰、盗人火事其外万事ニ付大き成損ニて候、籾をハ能干候て米にするへし、なまひ[79]なれはくたけ候て米立候、能々[80]心得可有事。

一 身持[8]を惡敷いたし、其外之年貢不足ニ付、たとへハ米を二俵ほとかり、年貢ニ出し、其利分年々積り候得ハ、五年ニ本利之米拾五俵ニ成ル、其時ハ身躰をつふし[81]、妻子をうり、我身をもうり、子孫共に永くくるしむ事に候、此儀を能々[80]かんかへ、身持[8]を可仕候、まいかと米二俵之時分ハ少之樣ニ存候得共、年々之利分積り候得ハ如斯候、扨又何とそいたし米を二俵ほともとめ出し候得ハ、右之利分くハへ、拾年目ニ米百十七俵持候て、百姓之ためニ其うとく[82]成事無之哉。

一 山方[83]ハ山のかせき、浦方[84]ハ浦々のかせき、それそれに心を付、毎日無油斷[18]身をおしますかせき可申候、雨風又ハ煩隙入[85]候事も可有之間、かせきにてもうけ候物を、むさと[32]遣候ハぬ樣に可仕事。

一 山方[83]浦方[84]にハ人居も多、不慮[86]成かせきも在之、山方[83]に而ハ薪材木を出しからるいを賣出し、浦方[84]に而ハ鹽を燒魚を取商賣仕ニ付、いつもかせきハ可有之と存、以來之分別もなく、儲候物をも當座[87]にむさと[32]つかひ候故、きゝん[34]の事なとハ里方之百姓より一入迷惑仕、餓死するものも多く有之と相聞候間、飢饉[34]之年之苦勞常々不可忘事。

一 獨身之百姓隙入候而又煩、田畑仕付兼候時ハ、五人組[88]惣百姓[60]助合、作あらし候ハぬ樣に可仕候、次に獨身之百姓田をかき苗を取、明日ハ田を可植と存候處を、地頭[3]代官所、又ハ公儀[1]之御役にさゝれ[89]、五日も三日も過候得ハ、取置候苗も惡敷成、其外之苗も節立、植時過候故其年之作毛[20]惡敷故、實もすくなく、百姓たをれ候、田植時はかりニ不限、畑作ニもそれそれの植時蒔時ののひ候得ハ作も惡敷候、名主組頭[6]此考を仕、獨身百姓右申すことく役にさゝれ[89]候時ハ、下人[37]共抔よき百姓ニさしかへ、獨身の百姓を介抱[90]可申事。

一 夫婦かけむかい[26]の百姓にて身上[9]も不成、郷中友百姓に日ころいやしめられ候ても、身上[9]を持上米金をたくさんに持候得ハ、名主おとな百姓[91]をはしめ、言葉ニても能あいしらい<[93]に居候者をも上座へなをし馳走[94]仕るものニ候、又前かと身上[9]能百姓もふへん[11]仕す親子親類名主組頭[6]迄も言葉を不掛、いやしむる[95]者に候間、成程[39]身持[8]を能可仕事。

一 一村之内にて耕作ニ入情を身持[8]よく致し身上[9]好もの一人あれハ其まねを仕郷中之ものみなよくかせくものに候、一郡之内ニ左樣なる在所一村有之ハ一郡皆身持[8]をかせき候左候得ハ一國之民皆豐に成其後ハ隣國迄も其ひゝきあり[96]、地頭[3]ハ替もの、百姓ハ末代其所之名田[97]を便とするものに候間、能く身持[8]を致し、身上[9]能成候者、百姓之多きなる德分[68]にては無之哉、扨又[5]一郷ニ徒なる無法もの[1]一人あれは、郷中皆其氣にうつり、百姓中間の言事不絶、公儀[1]之御法度[2]なと背き候得ハ、其者を奉行所へ召連參、上下之造作[99]、番等以下之苦勞、一郷之費[100]大き成事、物毎出来候はぬ樣ニ、みなみなよく入念、此趣ハ名主たるもの心に有之、能々[79]小百姓[7]ニおしへ申へし。
  附隣郷之者共中能、他領之者公事[101]抔仕間敷事る。

一 親に能々[79]孝行之心深くあるへし、おやニ孝行之第一ハ、其身無病ニて煩候ハぬ樣ニ、扨又[5]大酒を買のみ、喧嘩すき不仕樣に、身持[8]を能いたし、兄弟中よく、兄ハ弟をあわれみ、弟ハ兄に隨ひ、たかいにむつましけれハ、親殊之外悦ものニ候、此趣を守り候得ハ、佛神之御惠もありて、道ニも叶、作も能出來、とりみ[17]も多く有之ものニ候、何程親に孝行の心有之も、手前ふへん[11]ニ而ハ成かたく候間、なる程[95]身持[8]を能可仕候、身上不成候得ハ、ひんくの煩も出來、心もひかみ、又ハ盗をも仕、公儀[1]御法度[2]をも背、しはりからめられ、籠に入又ハ死罪[102]はり付[103]なとニかゝり候時ハ、親之身ニ成てハ、何程悲しく可有之候、其上妻子兄弟一門之ものニもなけきをかけ恥をさらし候間、能々[79]身持[8]を致しふへん[11]不仕樣ニ毎日毎夜心掛申へき事。

右之如くニ物毎入念、身持[8]をかせき申へく候。身持[8]好成、米金雜穀[31]をも持候ハゝ、家をもよく作り、衣類食物以下ニ付心之儘なるへし、米金雜穀[31]を澤山ニ持候とて、無理ニ地頭[3]代官[4]よりも取事なく、天下泰平之御代[104]なれは、脇よりおさへとる者も無之、然ハ子孫迄うとく[81]に暮し、無間[105]きゝん[34]之時も、妻子下人等をも心安くはこくみ[106]候、年貢さへすまし候得ハ、百姓程心易きものハ無之、よくよく此趣を心かけ、子々孫々迄申傳へ、能々[79]身持[8]をかせき可申もの也。

 慶安二年丑二月廿六日

     『徳川禁令考』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
 
【注釈】

[1]公儀:こうぎ=幕府または将軍のこと。
[2]御法度:ごはっと=法令。
[3]地頭:じとう=知行地を持つ旗本のこと。
[4]代官:だいかん=幕府直轄地を支配する地方官のこと。
[5]扨又:さてまた=ところでまた。なおまた。
[6]組頭:くみがしら=名主を補佐する村役人。
[7]小百姓:こびゃくしょう=村役人以外の一般の百姓のこと。
[8]身持:みもち=孝行。行状。暮らし向き。財産。
[9]身上:しんしょう=暮らし向き。財産。身代。
[10]無作法:ぶさほう=礼儀作法を知らないこと。乱暴なふるまい。
[11]不便:ふべん=物事が思うようにうまくいかないこと。貧しいこと。困窮。
[12]依怙贔屓:えこひいき=一方に肩入れすること。
[13]懇:ねんごろ=親切。ていねい。
[14]高下:こうげ=上げ下げ。区別。差別。
[15]ろく:水平。平等。まっすぐ。
[16]違背:いはい=命令・規則などに背くこと。違反。
[17]取實:とりみ=収穫。実り。
[18]油断:ゆだん=手抜かり。注意を怠ること。
[19]里方:さとかた=平野部の地域。平坦地。農村。
[20]作毛:さくもう=農作物のこと。作物の実り。作柄。
[21]鍬のさきをかけ:くわのさきをかけ=摩耗した鍬の先端に新たに刃金を付け直して修理すること。
[22]はか:仕事の進み具合。
[23]こへはい:こえはい=肥灰。苗草にあたる青草と山野の草木を焼いた肥料のこと。
[24]専一:せんいつ=一つの仕事に心がけること。第一。随一。
[25]せっちん:雪隠。便所。厠。
[26]かけむかい:差し向かい。夫婦二人きりの生活。
[27]はきため:ごみ捨て場。ごみため。
[28]芝草:しそう=しばくさ。しば。
[29]分別:ふんべつ=物事の道理。明白。確かなこと。
[30]末の考:すえのかんがえ=先々に対する思慮。
[31]雑穀:ざっこく=米と麦を除く、稗、粟、黍、蕎麦などの穀類の総称。
[32]むざと:無分別に。むやみに。無駄に。惜しげもなく。
[33]正月二月三月時分:しょうがつにがつさんがつじぶん=収穫のない時期の意味。
[34]飢饉:ききん=天候異変などで、農作物の収穫が少なく、食糧が欠乏すること。
[35]さゝけの葉:ささげのは=大角豆(マメ科の一年生植物)の葉。
[36]もったいなき:惜しい。残念。不届きな。
[37]下人:げにん=奉公人。使用人。
[38]ふたん:ふだん=不断。日頃。平常。
[39]成程:なるほど=できるだけ。可能な範囲で。
[40]ほねをり:苦労すること。精を出して働くこと。努力。
[41]心付:こころつき=注意すること。気を配ること。
[42]何とぞいたし:なにとぞいたし=どうかして。なんとかして。
[43]かりしき:施肥の一つ。刈り取った芝草の堆肥。
[44]おはた:苧の機織。からむし。麻織物。
[45]夕なへ:ゆうなべ=夜なべ。夜の仕事。
[46]みめかたち:顔立ちと姿。容貌風姿。
[47]大茶をのみ:おおちゃをのみ=人を招いて茶のみ話をする。
[48]物まいり:ものまいり=寺社に参詣すること。
[49]遊山:ゆさん=行楽。見物。気晴らしに遊ぶこと。
[50]前廉:まえかど=前々。以前。まえもって。あらかじめ。
[51]恩をも得たる:おんをもえたる=世話になる。
[52]格別:かくべつ=とりわけ。特別。例外とするさま。別として。ともかくとして。
[53]所帯:しょたい=家屋。財産。暮らし向き。
[54]牢人:ろうにん=職を離れた者。
[55]徒者:いたづらもの=不義をする者。ならず者。
[56]詮議:せんぎ=罪人の取り調べ。吟味。
[57]殊外:ことのほか=格別。はなはだ。
[58]草臥:くたぶれ=疲弊すること。
[59]長百姓:おさびゃくしょう=年寄、村内の有力百姓。
[60]總百姓:そうびゃくしょう=すべての百姓。
[61]布:ぬの=麻布のこと。
[62]口すき:くちすき=生計。
[63]こき:稲などを脱穀すること。
[64]しつゝい:しっつい=浪費。損失。
[65]しつきみ:しっけみ=湿り気。
[66]下田:げでん=田を等級分けした下級の土地。
[67]上田:じょうでん=田を等級分けした上級の土地。
[68]見立:みたて=見込みを付ける。選ぶ。判断する。
[69]徳分:とくぶん=分け前。取り高。もうけ。
[70]灸:きゅう=もぐさによる漢方療法の一つ、もぐさを焼いて病を治療すること。
[71]結句:けっく=結局。とどのつまり。
[72]代物:だいもつ=代金。代銭。
[73]差紙:さしがみ=指令。年貢割付状のこと。
[74]ひけ:価額などを減ずること。
[75]年貢皆済:ねんぐかいさい=年貢を残らず納めること。
[76]にかにか敷:にがにがしき=苦々しき。甚だ不愉快な。
[77]高利:こうり=通常より高い利率。
[78]手前:てまえ=自分のもと。自分の所。
[79]なまい:干し方が十分でないこと。
[80]能々:よくよく=念には念を入れ。充分に。
[81]身躰をつふし:しんたいをつぶし=生計が成り立たないこと。
[82]うとく:有徳。富裕。裕福。
[83]山方:やまかた=山村。山間地方。
[84]浦方:うらかた=漁村。海岸地方。
[85]隙入:ひまいり=時間をとられる。手間取る。
[86]不慮:ふりょ=思いがけないこと。意外なこと。
[87]当座:とうざ=その場。当面。しばらくの間。
[88]五人組:ごにんぐみ=庶民の隣保組織で相互扶助と相互監視を目的とした。
[89]さゝれ:さされ=名指しされること。指名されること。
[90]介抱:かいほう=世話をする。保護する。
[91]おとな百姓:おとなびゃくしょう=村内の有力な百姓。
[92]あいしらい:あしらい。扱い。応対する。もてなす。
[93]末座:まつざ=末席。下座。
[94]馳走:ちそう=饗応すること。もてなし。振る舞い。
[95]いやしむる:卑しむる。見下げる。さげすむ。
[96]ひゝきあり:ひびきあり=影響がある。
[97]名田:みょうでん=先祖から代々受け継がれてきた田地。
[98]無法もの:むほうもの=無法者。道理を外れた者。無茶な者。
[99]造作:ぞうさ=面倒。厄介。手数。出費。費用。
[100]費:ついえ=出費。無駄。損失。
[101]公事:くじ=争い事。争論。
[102]死罪:しざい=七種の死刑の一つで、斬首の後死骸は試し切りされる。
[103]はり付:はりつけ=柱に罪人を縛り付け、槍などで突き刺す刑。
[104]御代:みよ=治世のこと。よく治まっている世の中。太平の世。
[105]無間:むげん=無間地獄のこと。八大地獄の一つで、最悪のもので、絶え間のない責苦が続くところ。
[106]はこくみ:はぐくみ=育むこと。大切に守り、大きくする。養い育てる。 

<現代語訳>

慶安御觸書

慶安2丑年(1649年)2月26日

  諸国郷村へ被仰出

一 幕府の法令を守らなかったり、領主の旗本や天領の代官のことをおろそかに思ったりせず、なおまた、村の名主や組頭をほんとうのの親と思いなさい。

一 名主や組頭をしている者は、領主の旗本や天領の代官のことを大切に思い、年貢をよく納め、幕府の法令にそむかないで、一般の百姓の暮らし向きをよくする樣にすべきことを申し渡す。なおまた、自身の身代が成らずに何事につけても乱暴にふるまったならば、一般の百姓に幕府の御用の事を申し付けても、あなどって言うことを聞かないものなので、暮らし向きをよくして、不都合なことをしない樣に、常々心がけるようにすべきことである。

一 名主の心得として、自分と仲の悪い者であっても、無理な事を申し渡さず、また仲の良い者といえどもえこひいきなく、一般の百姓にも親切にして、年貢や割役等の割り当ては、少しも差別なく、平等に申し渡すべきである。なおまた、一般の百姓は名主や組頭の申し付たことに違反がないよう、念を入れるべきように申すことである。

一 耕作に精を出し、田畑の植栽は同様になるように念を入れ、草を生やさないよう、草をよく取り、こまごまと作の間に鍬を入れるべきである。そうすれば、作柄も良くなり、収穫も多くなる。田畑の畦に、大豆や(小?)豆などを植えて、多少でも収穫できるようにすべきことである。大豆以下おそらく誤脱がある

一 朝は早起きをして草を刈り、昼は田畑の耕作をし、夜は縄をない、俵を編み、どんな仕事でも手を抜かないようにせよ。

一 酒・茶を買って飲んではならない。妻子も同様である。

一 農村の者は屋敷の周りに竹や木を植え、下草などを刈って使い、薪を買ったりしないようにすべきことである。

一 すべての種物は、秋の初めに念を入れて選び、良い種を取り置くべきで、悪い種を蒔いたならば、作柄も悪くなることである。

一 1月11日前に毎年鍬の先の刃金を付け直し、鎌を打直し、よく切れるようにしておくべきである、惡い鍬では田畑を起こす時に能率が悪く、鎌も切れなければ同様である。

一 百姓は肥料を用意しておくことである。第一には、便所を広く作り、雨が降りやすい季節には、水が入らないように設え、それについては、夫婦二人きりの生活のものであって、馬をも持つ事ができないで、堆肥もできないものは、庭の内に三尺に二間程に穴を掘って、その中へごみをため、または道の芝草を刈って入れ、水を流し入れて、堆肥を作成し、田畑へ入れるようにすべきことである。

一 百姓は分別もなく、先々のことも考えない者であるから、秋になると米・雑穀をおしげもなく妻子へ食べさせてしまうことになる。常に(食物の少ない)正月・二月・三月の頃の気持ちを持って、食物を大切にするべきだ。ついては、雑穀が第一であるから、麦・粟・稗・菜・大根、その他何でも雜穀を作り、米を多く食べないようにしなければならない。飢饉の時を考えれば、大豆の葉・小豆の葉・ささげの葉・いもの落葉なども惜しげもなく捨てることは、もったいないことである。

一 家主・子共・下人などまで普段はなるべく粗食を食べるべきである、ただ田畑を起こし、田植えをし、稲を刈り、また苦労をして働いた時は、普段より少しは食物を良くし、たくさん食べさせるようにすべきである、その気配りがあれば、仕事に精を出すものであることだ。

一 なんとかして、牛馬のよいものを持つ樣にするべきだ、よい牛馬ほど肥を多く作るものである、身代が成らないものはいうまでもなく、まずこのように心がけるべきように申すことだ、ならびに春中の牛馬の飼料を、秋先に用意をすべきで、また田畑へ堆肥を入れ、その外どんな肥料でもよく入れたならば、作柄や収穫が良くなることである。

一 男は農業に精を出し、女房は苧の機織で稼ぎ、夜なべ仕事をして、夫婦共に稼ぐようにすべきである。したがって、見てくれの良い女房でも、夫の事をおろかにし、おおいに人を招いて茶飲み話をし、社寺への参詣や行楽を好む女房は離縁しなさい。しかし、子供が多くあり、以前から世話になっている女房ならば別である。また、見た目は悪くても、夫の家庭を大切にする女房は、とにかく大切にすることである。

一 幕府の法令は何にしても違反してはならない。中でもわけのわからない牢人を村中に抱え置いてはいけない。夜盗も同類で、または幕府の法令に違反するならず者など、村中に隱れて居て、訴人があったならば、公儀へ召し連れてきて、取り調べされる中、長々と久々相詰候得ハ、ことのほか村中が疲弊してしまう、または名主や組頭、有力な百姓ならびに一村のすべての百姓ににくまれない樣に、物ごと正直に徒成る心持を申しておくことである。

一 百姓の衣類については、麻布・木綿以外は帶や衣の裏地にも使ってはならない。

一 少しは商売の心構えを持って、財産を増やすようにせよ。その理由は、年貢を納めるために雑穀を売る時に、また買う時にも、商売の心得がなかったら人に出し抜かれるからである。

一 身代がある者は別で、田畑をも多く持っているならよいが、身代がない者は子供が多くいるならば、他人に養子に出し、また(商店等に)奉公もさせて、一年間の生計をよくよく考えるべきことである。

一 屋敷の前の庭をきれいにし、南向きの陽が差すようにし、これは、稲や麦を脱穀し、大豆をうち、雜穀をこしらえようとするとき、庭がきたなくて、土砂が混じったならば、売ろうとする時も直段が安く、存外な損失になるということである。

一 作付けの上手な人に聞き、その田畑に相応した種を蒔くように、毎年心がけるべきことである。
  付属、湿り気に作ってもよい物もあり、湿り気を嫌って作ってもよい物もあり、作に念を入れたならば、下田も上田の作柄になることである。

一 場所にはよる事だけれど、麦田になるような場所を少しでも見つけるべきだ。その後は連年に渡って麦田になったならば、百姓のために大き利益になり、一つの村で、麦田を仕立てたならば、隣の村もそれに気を配るようにになることである。

一 春秋は灸を施療し、病気にならないように常に心掛けるべきだ。どんなに、耕作に精を出しても、病気になってしまえば、その年の耕作をだめにし、身代をつぶしてしまうものだから、その心得が第一であり、女房や子供も同様のことである。

一 たばこを吸ってはならない。これは食の足しにもならず、結局、後に病気になるだけなのである。その上、時間もかかり、代金もいり、火の用心にも悪い。すべてに損となるものである。

一 年貢を出すことについては、反別にかけては一反に付何ほど、石高にかけては一石に何ほどという年貢割付状を領主の旗本や天領の代官よりも出すところだ。そのようであれば、耕作に精を出してよく作り、収穫が多くあれば、自身の利得であり、収穫が悪かったならば、収入が減り身代の減少となることである。

一 年貢を残らず納めることのおり、米五升、六升、壹升に困り、どうしようもできない時、村中を借り歩いても、みな年貢納入時期は互いに米が無いという理由で、貸すことができないことにより、米五升、壹斗に子共または牛馬も売ることができず、農機具、着物などを売ろうと思えば、一分のお金で仕立てたものを五六升のために売るのも苦々しいことである。また売り物を持っていない者は、高い利息で米を借りたならば、より一層の損失になる事である。領主の旗本や天領の代官より年貢の割付が出されたならば、その年貢米の量を考えて、不足については早い時期から借りて済ますべきである。早い時期ならば借物の利息も安く、売る物も思うままになるであろう。もっとも納入すべき年貢米は早く納めるべきだ、自分の所に置いておくほど鼠にも食われ、盗人や火事、その他何事につけても大きな損失になる。籾はよく乾燥して米にするべきだ、生乾きならば砕けて、欠米になってしまう、よくよく心得ておくべきことである。

一 暮らし向きを悪くするその他の年貢不足に付いて、例えば、米を2俵ほど借りて年貢に出し、その利息分が年々積ったならば、5年で元利の米が15俵に成ってしまう、その時は、生計が成り立たなくなり、妻子を売り、我身をも売り、子孫共に永く苦しむ事になってしまう。このことをよくよく考え、暮らし向きを考えるべきではないか、前々の米2俵の時分は少しの樣に考えてしまうけれど、年々の利息分が積ったならばこのようになる。なおまた何とかして米を2俵ほど捻出したならば、右の利息分に加え10年目には米117俵を持つようになって、百姓はこれによって裕福なっていくのではないか。

一 山村では山での稼ぎ、漁村では浜辺での稼ぎ、それぞれに心がけ、毎日手抜かりなく、骨身をおしまず稼ぐべきである。天災または病気など思いがけなくお金が必要になることもあるはずで、稼いで儲けたものをむやみに使ってしまわないようにするべきことである。

一 山村・漁村には人の住まいも多く、臨時の稼ぎもある。山村においては薪や材木を出し、穀類を売り出し、漁村においては塩を作り、魚を取り、商売することができるので、いつも稼ぎはあると思い、この後の考えもなく儲けた物をも、すぐ無駄に使ってしまうから、飢饉の時などは農村の百姓よりいっそう困窮し、餓死するものも多くあると聞いているので、飢饉の年の苦労は、常々忘すれないようにするべきことである。

一 独身の百姓は手間取ったり、また病気になって田畑の仕事ができない時は五人組や村中すべての百姓が助け合って田畑を荒らさないようにすべきである。次に独身の百姓が田を起こし、苗を取り、明日は田植えをしようと考えているところを領主の旗本や天領の代官所または幕府の賦役に指名され、五日も三日も過ぎてしまえば、取り置いた苗も悪くなってしまい、その外の苗も節立って植え時を過ぎてしまうので、その年の作柄が悪くなり、そのために収穫も少なく、百姓が困窮してしまう。田植時ばかりに限らず、畑作にもそれぞれの植時や蒔時が延びてしまえば、作柄も悪くなってしまう。名主や組頭はこれを考えて、独身の百姓は、右に述べたような役に指名された時は、下人共など都合のよい百姓に差し替えて、独身の百姓の保護をすべきことである。

一 夫婦二人きりの百姓で身代も出来ず、村中の仲間の百姓に日頃さげすまれていても、身代を持ち上げ、米や金をたくさんに持ったならば、名主、村内の有力な百姓をはじめ言葉にてもよくあしらい、下座にいた者も上座へと席替えしてもてなすもので、また前々から身代のよい百姓も困窮すると、親子、親類、名主、組頭までも言葉をかけず、さげすまれるものなので、できるだけ身代をよくすべきことである。

一 一村の内で耕作に精を込め、暮らし向きを良くし、身代をよくする者が一人あればそのまねをし、村中の者がみなよく稼ぐものである。一郡の内にそのようなところが一村でも有れば、一郡みな身代を稼ぐものである。そのように考えれば、一国の民はみな豊になり、その後は隣国までもその影響があり、領主の旗本は交代するものだが、百姓は末代その所の先祖から代々受け継がれてきた田地を利用するものであるから、良い暮らし向きをして、身代がよくなれば、百姓にとって多くの利益ではないだろうか。なおまた一村に役に立たない無法者が一人あれば、村中みなそれに影響され、百姓仲間の不満が絶えず、幕府の法令などに背いたならば、その者を奉行所へ召し連れてくると、上役人や下役人の手数や、見張り役以下の苦労であり、一村の損失が大きくなることであるから、このような事が起こらない樣に、みなみなよく念を入れるべきで、この趣旨は名主であるものが心がけて、よくよく一般の百姓に教え伝えるべきである。
  付属、隣村の者共は仲良くし、他領の者とは争い事などもしてはならない。

一 親にはよくよく孝行の心が深くあるべきである。親に孝行の第一は、その身無病にて苦悩のない樣に。なおまた、大酒を買って飲み、喧嘩好きにならない樣に、暮らし向きをよくして、兄弟仲良く、兄は弟に慈愛の心で接し、弟は兄に従い、互いに睦ましければ、親はことのほか喜ぶものである。この趣旨を守ったならば、仏や神の恩恵もあって、道理にもかない、作柄もよく出来、収穫も多くあるものである。どれだけ、親に孝行の心があっても、自分が困窮していてはできないことになってしまうので、できるだけ暮らし向きをよくするようにすべきである。身代が成せないならば、貧苦の苦悩も出来て、心もひがみ、または盗みをもし、幕府の法令をも犯し、取り捕まって、牢屋に入れられ、または死罪・磔などにかかった時は、親の身になれば、どれだけか悲しいことである。その上、子や兄弟、一門のものも嘆かせ、恥を晒してしまうので、よくよく暮らし向きを考え、困窮しないように、毎日毎夜心がけるべきことである。

 右のように物事に念を入れ、暮らし向きが良くなるように稼ぐようにせよ。身代も良くなり、米・金・雜穀をも持てれば、家をも立派に作り、衣類・食物などについても心のままになるであろう。米・金・雜穀をたくさんに持っていても、無理に領主の旗本や天領の代官に取られることもなく、天下泰平の世の中であるので、他から強奪する者も無い、そうすれば子孫まで裕福に暮し、無間地獄のような飢饉の時も、妻子や下人等をも安心して養い育てることができる。年貢さえ納めてしまえば、百姓ほど気楽なものはない。よくよくこの趣旨を心がけ、子孫代々までにも語り継ぎ、よくよく暮らし向きを考えて稼ぐべきものである。 

 慶安2年(1649年)丑2月26日

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下の1942年(昭和17)に、「戦時災害保護法」(昭和17年法律第71号)が公布された日です。
 「戦時災害保護法(せんじさいがいほごほう)」は、「戦時災害ニ因リ危害ヲ受ケタル者並ニ其ノ家族及遺族」である国民を保護する目的で制定(第1条)されました。政府は戦時下で、国民に危険な防空活動を義務づけたのですが、その士気高揚と民心安定を図るため、空襲で被災した者には、その代償として、直接または間接の戦争被害救済を規定したものです。
 その救済内容は、持ち家全焼は1,000円以内、遺族500円、救助中の死亡に1,000円を支給するなどという、当時としては、手厚いものでした。1945年(昭和20)度支給額は7億8,600万円で、傷病軍人や遺族向けの「軍事扶助法」による支給額2億2,800万円の3倍に当たります。
 しかし、太平洋戦争後の占領下において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)指示により、1946年(昭和21)9月9日に、民間人の救済は生活保護などで対応するとして廃止され、空襲被害者への援護制度が全て消滅しました。
 以下に、「戦時災害保護法」(昭和17年法律第71号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「戦時災害保護法」(昭和17年法律第71号) 1942年(昭和17)2月25日公布

戦時災害保護法(法律第七十一號)

  第一章 総則

第一条 戦時災害ニ因リ危害ヲ受ケタル者並ニ其ノ家族及遺族ニシテ帝国臣民タルモノハ本法ニ依リ之ヲ保護ス
第二条 本法ニ於テ戦時災害卜称スルハ戦争ノ際ニ於ケル戦闘行為ニ因ル災言及之ニ起因シテ生ズル災害ヲ謂フ
第三条 保護ハ救助、扶助及給与金ノ支給ノ三種トス
第四条 保護ハ保護ヲ受クベキ者ノ住所地(救助ニ付テハ現在地)ヲ管轄スル地方長官之ヲ行フ

  第二章 救助

第五条 救助ハ戦時災害ニ罹リ現ニ応急救助ヲ必要トスル者ニ対シ之ヲ為ス
第六条 救助ノ種類左ノ如シ
 一 収容施設ノ供与
 二 焚出其ノ他ニ依ル食品ノ給与
 三 被服、寝具其ノ他生活必需品ノ給与及貸与
 四 医療及助産
 五 学用品ノ給与
 六 埋葬
 七 前各号ニ掲グルモノノ外地方長官ニ於テ必要卜認ムルモノ救助ハ地方長官ニ於テ必要アリト認メタル場合ニ於テハ前項ノ規定ニ拘ラズ要救助者(埋葬ニ付テハ埋葬ヲ行フ者)ニ対シ金銭ヲ給シテ之ヲ為スコトヲ得救助ノ程度、方法及期間ニ関シ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム
第七条 地方長官ハ勅令ヲ以テ定ムル者ヲシテ救助ノ実施ニ従事セシムルコトヲ得 
第八条 地方長官ハ要救助者ヲシテ救助ノ実施ニ協カセシムルコトヲ得
第九条 救助ヲ行フ為特ニ必要アリト認ムルトキハ地方長官ハ一時勅令ヲ以テ定ムル施設ヲ管理シ、土地、家屋若ハ物資ヲ使用シ、勅令ヲ以テ定ムル者ヲシテ物資ヲ保管セシメ又ハ物資ヲ収用スルコトヲ得
第十条 前条ノ規定ニ依リ管理、使用若ハ収用シ又ハ保管セシムル準備ノ為必要アルトキハ地方長官ハ当該官吏ヲシテ施設、土地、家屋、物資ノ所在スル場所又ハ物資ヲ保管セシムル場所ニ立入リ検査ヲ為サシムルコトヲ得
 地方長官ハ前条ノ規定ニ依リ物資ヲ保管セシメタル者ヨリ必要ナル報告ヲ徴シ又ハ当該官吏ヲシテ当該物資ノ所在スル場所ニ立入リ検査セシムルコトヲ得
 前二項ノ規定ニ依リ立入ル場合ニ於テハ其ノ旨予メ其ノ施設、土地、家屋又ハ場所ノ管理ニ通知スベシ
 当該官史第一項又ハ第二項ノ規定ニ依リ立入ル場合ハ其ノ身分ヲ示ス証票ヲ携帯スベシ
 第十四条第一項ノ規定ニ依リ市町村長又ハ之ニ準ズルモノ第一項及第二項ニ規定スル職権ノ委任ヲ受ケタルトキハ第一項、第二項及前項中当該官吏トアルハ当該吏員トス
第十一条 第七条ノ規定ニ依リ救助ノ実施ニ従事セシムル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ其ノ実費ヲ弁償ス
第十二条 第七条又ハ第八条ノ規定ニ依リ救助ノ実施ニ従事又ハ協カスル者之ガ為傷痍ヲ受ケ、疾病ニ罹リ又ハ死亡シタル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ扶助金ヲ給ス
第十三条 第九条ノ規定ニ依リ施設ヲ管理シ、土地、家屋若ハ物資ヲ使用シ、物資ヲ保管セシメ又ハ物資ヲ収用スル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ其ノ損失ヲ補償ス
 前項ノ規定ニ依リ補償ヲ受クペキ者補償ノ額ニ付不服アルトキハ其ノ金額ノ決定ノ通知ヲ受ケタル日ヨリ六月以内ニ通常裁判所ニ出訴スルコトヲ得
第十四条 地方長官ハ命令ノ定ムル所ニ依リ本法ニ定ムル救助ニ関スル職権ノ一部ヲ市町村長又ハ之ニ準ズルモノニ委任スルコトヲ得
 行政執行法第五条及第六条ノ規定並ニ之ニ基キテ発スル命令ハ前項ノ規定ニ依リ地方長官ガ市町村長又ハ之ニ準ズルモノニ委任シタル第七条乃至第十条ノ規定ニ依ル職権ニ基キテ為ス処分ニ依リテ負フ義務ノ履行ヲ市町村長又ハ之ニ準ズルモノガ強制スル場合ニ之ヲ準用ス
第十五条 地方長官ハ救助ノ為必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ道府県、市町村又ハ之ニ準ズルモノヲシテ救助ニ要スル費用ヲ一時繰替支弁セシムルコトヲ得

  第三章 扶助

第十六条 扶助ハ左ノ各号ノ一ニ該当スル者ニシテ当該ノ傷痍、疾病、身体障害又ハ死亡ノ為生活スルコト困難卜為リタルモノニ対シ之ヲ為ス但シ傷痍、疾病又ハ死亡が其ノ者又ハ扶助ヲ受クベキ者ノ故意又ハ重大ナル過失ニ因レルモノナルトキハ扶助ヲ為サザルコトヲ得
 一 戦時災害ニ因リ傷痍ヲ受ケ又ハ疾病ニ罹リタル者
 二 戦時災害ニ因ル傷痍又ハ疾病ノ治癒シタル場合ニ於テ仍身体ニ著シキ障害ヲ存スル者
 三 前二号ニ掲グル者ノ配偶者(届出ヲ為サザルモ事実上婚姻ト同様ノ関係ニ在ル者ヲ含ム以下同ジ)若ハ直系尊属ニシテ前二号ニ掲グル者ト同一ノ家若ハ世帯ニ在ルモノ又ハ前二号ニ掲グル者ノ直系尊属ニシテ前二号ニ掲グル者が傷痍ヲ受ケ若ハ疾病ニ罹リタル時ヨリ引続キ同一ノ家若ハ世帯ニ在ルモノ
 四 戦時災害ニ因リ死亡シタル者ノ配偶者若ハ直系尊属ニシテ戦時災害ニ因リ死亡シタル者ノ死亡ノ時之卜同一ノ家若ハ世帯ニ在リ且引続キ其ノ家若ハ世帯ニ在ルモノ又ハ戦時災害ニ因リ死亡シタル者ノ直系尊属ニシテ戦時災害ニ因リ死亡シクル者ノ戦時災害ニ罹リタル時之ト同一ノ家若ハ世帯ニ在リ且引続キ其ノ家若ハ世帯ニ在ルモノ
 前項ノ規定ニ依リ扶助ヲ受ケ又ハ受クベキ者本法ニ依リ救助ヲ受クルトキハ救助ヲ受クルノ間其ノ省ニ対シ扶助ヲ為サズ扶助ハ生活ニ必要ナル限度ヲ超ユルコトヲ得ズ
第十七条 扶助ノ種類左ノ如シ
 一 生活扶助
 二 療養扶助
 三 出産扶助
 四 生業扶助
第十八条 扶助ハ戦時災害ニ因リ危害ヲ受ケタル時ヨリ勅令ヲ以テ定ムル期間ヲ経過シタルトキハ之ヲ為サズ
 扶助ノ程度及方法ニ関シ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム
第十九条 扶助ヲ受クル者死亡シタル場合ニ於テハ命令ノ定ムル所ニ依リ埋葬ヲ行ヒ又ハ埋葬ヲ行フ者ニ対シ埋葬費ヲ給スルコトヲ得
第二十条 扶助ヲ受クル者六年ノ徴役又ハ禁錮以上ノ刑ニ処セラレタル場合ニ於テハ其ノ者ニ対ジ扶助ヲ為サズ六年末満ノ微役又ハ禁銀ニ処セラレタル場合ニ於テハ其ノ刑ノ執行ヲ終リ又ハ執行ヲ受クルコトナキニ至ル迄ノ間亦同ジ第二十一条 扶助ヲ受ケ又ハ受クベキ者左ニ掲グル事由ノ一ニ該当スルトキハ其ノ者ニ対シ扶助ヲ為サザルコトヲ得
 一 正当ノ理由ナクシテ扶助ニ関シ地方長官ノ為ス指示ニ従ハザルトキ
 二 正当ノ理由ナクシテ扶助ニ関スル検診又ハ調査ヲ拒ミタルトキ
 三 素行著シク不良ナルトキ又ハ著シク怠惰ナルトキ

  第四章 給与金ノ支給

第二十二条 戦時災害ニ因リ死亡シタル者アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ其ノ遺族ニ対シ給与金ヲ給ス戦時災害ニ因リ傷痍ヲ受ケ又ハ疾病ニ罹リ之が為身体ニ著シキ障害ヲ存スル者アルトキ其ノ者ニ対シ亦同ジ
第二十三条 戦時災害ニ因リ住宅(水上生活者ノ居住ノ用ニ供スル舟ヲ含ム)又ハ家財ノ滅失又ハ毀損アリタル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ其ノ所有者ニ対シ給与金ヲ給ス
第二十四条 業務ノ性質上戦時災害ニ因ル危害ヲ顧ミルコト能ハズシテ業務ニ従事スルコトヲ要スル者当該業務ニ従事中戦時災害ニ因リ傷痍ヲ受ケ若ハ疾病ニ罹リ又ハ死亡シタル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ本人又ハ其ノ遺旅ニ対シ給与金ヲ給ス
 此ノ場合ニ於テハ第二十二条ノ給与金ハ之ヲ給セズ前項ノ業務ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
第二十五条 正当ノ理由ナクシテ給与金ノ支給ニ関スル検診又ハ調査ヲ拒ミクルトキハ其ノ者ニ対シ給与金ヲ給セザルコトヲ得

  第五章 雑則

第二十六条 本法ニ依ル保護ハ他ノ法令ノ適用ニ付テハ貧困ノ為ニスル公費ノ救助又ハ扶助ニ非ザルモノトス
第二十七条 本法ニ依リ給与ヲ受ケタル金品ヲ標準トシテ祖税其ノ他ノ公課ヲ課セズ
第二十八条 本法ニ依ル給与金品ハ既ニ給与ヲ受ケタルトニ拘ラズ之ヲ差押フルコトヲ得ズ
第二十九条 本法ヲ朝鮮、台湾又ハ樺太ニ施行スル場合ニ於テ必要アルトキハ勅令ヲ以テ特別ノ定ヲ為スコトヲ得

  第六章 罰則

第三十条 第七条ノ規定ニ依ル命令ニ従ハザル者ハ六月以下ノ徴役又ハ五百円以下ノ罰金ニ処ス
第三十一条 詐偽其ノ他ノ不正ノ手段ニ依リ保証ヲ受ケ又ハ受ケシメタル者ハ六月以下ノ徴役又ハ五百円以下ノ罰金ニ処ス
第三十二条 第十条第一項若ハ第二項ノ定ニ依ル当該官吏若ハ当該吏員ノ立入検査ヲ拒ミ、妨ゲ若ハ忌避シ又ハ同条第二項ノ規定ニ依ル報告ヲ為サズ若ハ虚偽ノ報告ヲ為シタル者ハ五百円以下ノ罰金ニ処ス
  
  附 則

 本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
 
      「法令全書」より

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 今日は、明治時代後期の1906年(明治39)に日本社会党[明治期]の第1回党大会が開催され、結成届けを提出して受理されて日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生した日です。
 日本社会党[明治期](にほんしゃかいとう)は、明治時代に結成された日本で最初の合法社会主義政党でした。2月24日の第1回党大会(於:東京京橋区・平民病院)で、党則第1条を「本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す」とし、評議員は、片山潜・幸徳秋水・堺利彦・西川光二郎・田添鉄二・大杉栄ら13人、党員は200人として発足し、結党以前から刊行されていた『光』が機関紙となります。
 その後、東京市電値上反対運動や普通選挙運動、足尾鉱毒事件などの闘いを展開しました。同年6月23日に、幸徳秋水がアメリカから急遽帰国すると議会政策派と直接行動派の対立を招き、翌年1月15日に創刊された日刊『平民新聞』紙上で、論争が展開されます。
 同年2月17日に開催された第2回党大会で、議会政策派(田添鉄二・片山潜ら)と無政府主義的直接行動派(幸徳秋水・山川均・大杉栄ら)と中間派(堺利彦ら)ら3派が論争、採決の結果、20票対2票で、党則第1条の文言を「本党は社会主義の実行を目的とす」と改めました。その結果、2月22日に内務大臣は「安寧秩序ニ妨害アリト認ムル」として、「治安警察法」の適用による結社禁止を命令し、これに伴い解散となります。

〇日本社会党[明治期]関係略年表

<1905年(明治38)>
・11月20日 西川光次郎、山口孤劔らか凡人社を設立して、半月刊誌『光』を発刊する

<1906年(明治39)>
・1月7日 西園寺公望内閣が誕生し、内務大臣は原敬となり、「社会主義もまた世界の一大風潮であり、みだりに弾圧すべきでなく、その穏健なものは善導して、国家の推運に貢献さすべきである」との社会主義取り締まりの新方針を発表する
・1月14日 『光』派の社会主義者は、「普通選挙の期成を図るを目的とする」を綱領に日本平民党の結社届を提出して、受理される
・1月28日 堺利彦らは、日本社会党の結社届を提出して、受理される
・2月24日 堺利彦・西川光二郎らは、第1回党大会を開催、日本平民党と日本社会党が合同して、日本社会党の結成届けを提出して受理され、日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生する
 ①党則第1条を「本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す」とする
 ②評議員は、片山潜・幸徳秋水・堺利彦・西川光二郎・田添鉄二・大杉栄ら13人、党員は200人となる
・3月1日 東京市内の東京市街鉄道、東京電車鉄道、東京電気鉄道の3会社が各3銭均一の電車賃を3社共通5銭均一に値上げする申請を府知事と警視総監に提出、値上げ反対の世論が高まる
・3月15日、日本社会党の直接行動派は、東京市電値上げ反対運動を組織して、1,600人が市庁・電鉄会社を襲撃し、軍隊が出動して鎮圧され、西川光二郎・大杉栄ら10人が逮捕・起訴されたものの、市電の値上げは撤回され、市街鉄道を市有化する決議案が東京市会で可決される
・6月23日 幸徳秋水は、アメリカから急遽帰国する
・6月28日 幸徳秋水は、日本社会党の帰国歓迎会で、議会主義か直接行動かの問題を提示し、党内対立のきっかけとなる

<1907年(明治40)>
・1月15日 日刊『平民新聞』が創刊される
・2月5日 幸徳秋水は、日刊『平民新聞』で、「真に社会革命を断行し労働者階級の地位、生活を向上し保存せんと欲せば、議会の勢力よりもむしろ全力を労働者の団結訓練に注がねばならぬ。労働者自身も議員、政治家などに頼らず、自身の直接行動でその目的を貫く覚悟がなければならぬ」と直接行動を主張する
・2月7日 足尾銅山で大暴動がおこり、事務所など65棟が破壊され、軍隊が出動し、600人を検挙する
・2月10日 堺利彦は、日刊『平民新聞』で「社会党運動の方針」を発表し、「議会をして真に平民労働者の噴火口たらしめるためには、我々は実力を持って政府と政党に肉薄して、普通選挙権を獲得しなければならぬ。そこに直接行動の必要がある」と直接行動を議会主義には必要な手段であるという併用論を主張する
・2月12日 福田英子・菅野スガらは、「治安警察法」第5条改正案(女子の政治結社・集会への参加を認める)を衆議院に提出、衆議院で可決され、貴族院で否決される
・2月14日 田添鉄二は、日刊『平民新聞』で「議会政策論」を発表し、直接行動を批判する
・2月17日 第2回党大会で、議会政策派(田添鉄二・片山潜ら)と無政府主義的直接行動派(幸徳秋水・山川均・大杉栄ら)と中間派(堺利彦ら)ら3派が論争、採決の結果、20票対2票で、綱領の「本党は国法の範囲内に於いて社会主義を主張し」という文言を「本党は社会主義の実行を目的とす」と改める
・2月20日 日刊『平民新聞』第28号が告発される
・2月22日 内務大臣は「安寧秩序ニ妨害アリト認ムル」として、「治安警察法」の適用による結社禁止を命令し、これに伴い解散となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1704年(元禄17)俳人・蕉門十哲の一人内藤丈草の命日(新暦3月29日)詳細
1933年(昭和8)国際連盟総会のリットン調査団報告書採択に抗議し日本全権大使松岡洋右が退場、連盟脱退宣言をする詳細
1934年(昭和9)小説家・脚本家・映画監督直木三十五の命日(南国忌)詳細
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