ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年10月

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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、土佐藩士・自由民権家・政治家片岡健吉が亡くなった日です。
 片岡健吉(かたおか けんきち)は、江戸時代後期の1844年2月14日(天保14年12月26日)に、土佐国中島町(現在の高知市中島町)で、土佐藩上士(馬廻格・250石)片岡篤光(俊平)の嫡男(母は渋谷次兵衛篤輝の妹)として生まれましたが、幼名は寅五郎、諱は益光と言いました。1849年(嘉永2)に藩主への御目見えを許され、1861年(文久元)に御扈従、1863年(文久3)には、御郡奉行・御普請奉行・柄弦御指物附属となります。
 1865年(慶応元)に祖父・謙光(繁三郎)の跡目を継ぎ、1866年(慶応2)に外輪物頭六明組郷士隊長、1867年(慶応3)に御侍別撰小隊司令、そして京都奉行・御普請奉行・外輪物頭附属となりました。1868年(慶応4)に迅衝隊左半大隊司令及び外輪物頭に任じられ、京都に向けて出陣、現職のまま大目付に任じられ、御軍備御用を兼帯し、迅衝隊総督・板垣退助に従って戊辰戦争を戦い会津若松城攻略等数々の功を立て、陸軍参謀中老職となり、役領250石を加増されます。
 1869年(明治2)に参政・軍事掛を兼帯し、家禄400石に累進、明治維新後は新政府に出仕、1871年(明治4)には、高知藩権大参事となり、2年間のロンドン留学に出発しました。1873年(明治6年)に帰国後、海軍中佐となりましたが、政府内の征韓論派の失脚(明治六年政変)に伴い、職を辞して高知に帰ります。
 1874年(明治7)に板垣退助や植木枝盛・林有造らと共に立志社を創設、翌年には初代社長となりました。1877年(明治10)の西南戦争の最中に「国会開設の建白書」を京都行在所に提出したものの、受け入れられず不受理となり、立志社挙兵計画の嫌疑(立志社の獄)で逮捕されて、翌年には禁獄100日の判決を受けます。
 1879年(明治12)に高知県会の初代議長となりましたが、1ヶ月後、県会議員選挙の制限選挙制に反対して由比直枝や尾崎要・小谷正元と共に辞職しました。1880年(明治13)の第4回愛国社大会の議長を務め、河野広中と共に国会期成同盟の総代として「国会ヲ開設スルノ允可ヲ上願スル書」を提出しましたが拒絶されます。
 1881年(明治14)の自由党の結成に重要な役割りを果たし、高知新聞社長となり、翌年には海南自由党を結成しました。1885年(明治18)に洗礼を受けてプロテスタントとなり、高知教会長老に選ばれます。
 1887年(明治20)の三大事件建白書運動ではその中心にたって動き、建白書を元老院に出して退けられ、「保安条例」違反で退去命令が出されるものの従わず、禁錮2年6か月の刑に処され、1889年(明治22)の帝国憲法発布の大赦で出獄しました。1890年(明治23)の第1回衆議院議員総選挙で高知県から当選(以後8期連続)、副議長、議長を歴任し、自由党解散後は、憲政党、立憲政友会にも属しましたが、1903年(明治36)に退党しています。
 一方で、基督教青年会(YMCA)理事長、同志社社長兼校長、土陽新聞社長などを歴任したものの、1903年(明治36)10月31日に、高知県において、数え年61歳で亡くなっています。

〇片岡健吉関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1844年2月14日(天保14年12月26日) 土佐国中島町(現在の高知市中島町)で、土佐藩上士(馬廻格・250石)片岡篤光(俊平)の嫡男(母は渋谷次兵衛篤輝の妹)として生まれる
・1849年(嘉永2年7月7日) 藩主への御目見えを許される
・1860年(万延元年8月18日) 前年に乾退助らと相諮り南川原相撲場へ立ち入って不作法に及んだ事を咎められ謹慎処分を受ける
・1861年(文久元年3月17日) 御扈従に就任する
・1862年(文久2年11月27日) 御側小性を免じられ、御馬廻りへ転任する
・1863年(文久3年2月5日) 御郡奉行・御普請奉行・柄弦御指物附属となる
・1863年(文久3年4月8日) 当役を以って外輪物頭を兼ねる
・1865年(慶応元年10月22日) 祖父・謙光(繁三郎)の跡目を継ぐ
・1866年(慶応2年5月11日) 鉄砲頭を免じ御馬廻に再任される
・1866年(慶応2年8月2日) 外輪物頭六明組郷士隊長となる
・1867年(慶応3年3月6日) 文武出精を賞され褒詞を受ける
・1867年(慶応3年7月17日) 御侍別撰小隊司令に就任する
・1867年(慶応3年11月4日) 京都奉行・御普請奉行・外輪物頭附属となる
・1867年(慶応3年12月10日) 京都奉行・御普請奉行・外輪物頭附属を免じられ、御馬廻りに転任、乾退助と共に勤王論を唱導し、その意を同じくする
・1868年(慶応4年1月8日) 迅衝隊左半大隊司令及び外輪物頭に任じられる
・1868年(慶応4年1月20日) 京都に向けて出陣する
・1868年(慶応4年2月2日) 現職のまま大目付に任じられ、御軍備御用を兼帯し、迅衝隊総督・板垣退助に従って戊辰戦争を戦い会津若松城攻略等数々の功を立てる
・1868年(明治元年11月26日) 陸軍参謀中老職となり、役領250石を加増される
・1868年(明治元年11月27日) 当役まま大目付を兼帯する
・1869年(明治2年3月13日) 参政・軍事掛を兼帯し、家禄400石に累進、維新後は新政府に出仕する
・1871年(明治4年2月) 高知藩権大参事となる
・1871年(明治4年5月6日) 2年間のロンドン留学に出発する
・1873年(明治6年)10月 帰国後に海軍中佐となるが、政府内の征韓論派の失脚に伴い、職を辞して高知に帰る(明治六年政変)
・1874年(明治7年) 板垣退助や植木枝盛・林有造らと共に立志社を創設する
・1875年(明治8年)4月 立志社の初代社長となる
・1875年(明治8年)8月24日 高知県七等出仕する
・1876年(明治9年)1月 高知県七等出仕を辞める
・1877年(明治10年)6月9日 西南戦争の最中に「国会開設の建白書」を京都行在所に提出するも、受け入れられず不受理となる
・1877年(明治10年)8月18日 立志社挙兵計画の嫌疑(立志社の獄)で逮捕される
・1878年(明治11年)8月 禁獄100日の判決を受ける
・1879年(明治12年) 高知県会の初代議長となったが、1か月後、県会議員選挙の制限選挙制に反対して由比直枝や尾崎要・小谷正元と共に辞職する
・1880年(明治13年)3月 第4回愛国社大会の議長を務める
・1880年(明治13年)4月 河野広中と共に国会期成同盟の総代として「国会ヲ開設スルノ允可(いんか)ヲ上願スル書」を提出したが拒絶される
・1881年(明治14年) 自由党の結成に協力、高知新聞社長となる
・1882年(明治15年) 海南自由党を結成する
・1885年(明治18年)5月15日 高知市中島町の森武興邸(高知教会の発祥地)においてナックス宣教師の洗礼を受けてプロテスタントとなる
・1885年(明治18年)10月8日、片岡健吉・坂本直寛が高知教会長老に選ばれる
・1887年(明治20年) 三大事件建白書運動ではその中心にたって動き、建白書を元老院に出して退けられる
・1887年(明治20年)12月26日 「保安条例」違反で退去命令が出されるが従わず、禁錮2年6か月の刑に処される
・1889年(明治22年) 帝国憲法発布の大赦で出獄する
・1890年(明治23年) 第1回衆議院議員総選挙で当選する
・1893年(明治26年) 植村正久・井深梶之助(旧会津藩士)・グリナン宣教師・山田平左衛門・坂本直寛らと協力して高知県下の伝道を行なう
・1898年(明治31年) 衆議院議長となる
・1902年(明治35年)3月27日 同志社社長となる
・1903年(明治36年)10月31日 高知県において、数え年61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1884年(明治17)秩父事件が起きる詳細
1934年(昭和9)小説家・児童文学作家灰谷健次郎の誕生日詳細
1943年(昭和18)軍需会社法」が公布される詳細
1967年(昭和42)医学者佐々木隆興の命日詳細


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 今日は、昭和時代中期の1945年(昭和20)に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が「教員及び教育関係者の調査、除外、認可に関する件」(SCAPIN-212)を発して、軍国主義教育を推進した多くの教育関係者の教育現場からの追放を指令した日です。
 「教員及び教育関係者の調査、除外、認可に関する件」(きょういんおよびきょういくかんけいしゃのちょうさ、じょがい、にんかにかんするけん)は、昭和時代前期の太平洋戦争敗戦後の連合国軍占領下で、連合国最高司令官指令(SCAPIN)として日本国政府に対して発せられた基本的施策を定める指示・訓令の一つ(SCAPIN-212)のことで、GHQ教育四大指令の一つとされてきました。
 その内容は、日本民族の敗北、戦争犯罪、苦痛、窮乏、そして現在の悲惨な状態を招来させた、軍国主義的および超国家主義的な影響を払拭するために、その関係者を日本の教育制度から排除することを指示したものです。これによって、軍国主義教育を推進した多くの教育関係者が教育現場から追放されました。
 連合国軍最高司令部(GHQ)は1945年(昭和20)10月22日に、「日本教育制度ニ対スル管理政策」(SCAPIN-178)を出し、学校の教育内容から軍国主義、超国家主義を廃し、代りに基本的人権の思想に合致する諸概念の教授および実践の確立を奨励します。この指令を厳格に実施させるために、まず10月30日に、この指令(SCAPIN-212)を出し、12月15日に「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件」(宗教指令)、12月31日に「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(修身科・国史科・地理科の中止についての指令)が出されました。
 これらは、その後の軍国主義者の教職追放、教科書の編集、教科の編成、学校制度、教育行政に影響を与え、民主教育が目指されることとなります。
 以下に、「教員及び教育関係者の調査、除外、認可に関する件」(SCAPIN-212)の英語版と日本語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

☆「教員及び教育関係者の調査、除外、認可に関する件」(SCAPIN-212) 1945年(昭和20)10月30日指令

GENERAL HEADQUARTERS
 SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS

30 October 1945 AG 350 (30 Oct 45) CIE
(SCAPIN-212)

 MEMORANDUM FOR:THE IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT.
 THROUGH:Central Liaison Office, Tokyo.
 SUBJECT:Investigation, Screening, and Certification of Teachers and Educational Officials.

 1. In order to eliminate from the educational system of Japan those militaristic and ultra-nationalistic influences which in the past have contributed to the defeat, war guilt, suffering, privation, and present deplorable state of the Japanese people; and in order to prevent the teachers and educational officials having military experience or affiliation; it is hereby directed that:
a. All persons who are known to be militaristic, ultra-nationalistic, or antagonistic to the objectives and policies of the occupation and who are at this time actively employed in the educational system of Japan, will be removed immediately and will be barred from occupying any position in the educational system of Japan.
b. All other persons now actively employed in the educational system of Japan will be permitted to retain their positions at the discretion of the Ministry of Education until further notice.
c. All persons who are members of or who have been demobilized from the Japanese military forces since the termination of hostilities, and who are not at this time actively employed in the educational system of Japan, will be barred from occupying any position in the educational system of Japan until further notice.

 2. In order to determine which of those persons who are now actively employed in or who may in the future become candidates for employment in the educational system of Japan are unacceptable and must be removed, barred, and prohibited from occupying any position in the educational system of Japan, it is hereby directed that:
a. The Japanese Ministry of Education will establish suitable administrative machinery and procedures for the effective investigation, screening, and certification of all present and prospective teachers and educational officials.
b. The Japanese Ministry of Education will submit to this Headquarters as soon as possible a comprehensive report describing all actions taken to comply with the provisions of this directive. This report will contain in addition the following specific information:
(1) A precise statement of how acceptability of the individual is to bedetermined, together with lists of specific standards which will governthe retention, removal, appointment or re-appointment of the individual.
(2) A precise statement of what administrative procedures and machinery are to be established in order to accomplish the investigation, screening, and certification of personnel, together with a statement of what provisions are to be made for review of appealed decisions and reconsideration of individuals previously refused certification.

 3. All officials and subordinates of the Japanese Government affected by the terms of this directive, and all school officials, both public and private, will be held personally accountable for compliance with the spirit as well as the letter of the policies enunciated in this directive.

 FOR THE SUPREME COMMANDER:

           H.W.ALLEN,
        Colonel, A.G.D.,
     Asst Adjutant General.

     「国立国会図書館デジタルコレクション」より 
<日本語訳>

教員及び教育関係者の調査、除外、認可に関する件(SCAPIN-212)

(昭和二十年十月三十日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)

一 日本ノ教育機構中ヨリ日本民族ノ敗北、戦争犯罪、苦痛、窮乏、現在ノ悲惨ナル状態ヲ招来セシムルニ至リタル軍国主義的、極端ナル国家主義的諸影響ヲ払拭スル為ニ、而シテマタ軍事的経験或ハ軍ト密接ナル関係アル教員並ニ教育関係者ヲ雇傭スルコトニ依テ右思想ノ影響継続ノ可能性ヲ防止スル為ニ茲ニ左記ノ指令ヲ発ス

(イ)軍国主義的思想、過激ナル国家主義的思想ヲ持ツ者トシテ明カニ知ラレテヰル者、連合国軍日本占領ノ目的及政策ニ対シテ反対ノ意見ヲ持ツ者トシテ明カニ知ラレテヰル者ニシテ現在日本ノ教育機構中ニ職ヲ奉ズル者ハ凡テ直ニ之ヲ解職シ今後日本ノ教育機構ノ中如何ナル職ニモ就カシメザルコト

(ロ)右ノ外ノ者ニシテ日本教育機構中ノ一定ノ職ニ既ニ就イテヰル者ハ今後新タナル指令ノアル迄文部大臣ノ裁量ニヨリ現職ニ留マルコト差支ナシ

(ハ)日本ノ軍ニ今日猶アル者或ハ終戦後復員セシ者ニシテ今日日本ノ教育機構中ノ一定ノ職ニ現ニ就イテヰナイ者ハ凡テ今後指令アルマデ日本ノ教育機構中ノ如何ナル職ニモ就任セシメザルコト

二 日本ノ教育機構ノ中ノ一定ノ職ニ現ニ就イテヰル者或ハ将来就カントスル者ノ内如何ナル者ガ目本ノ教育機構中ノ如何ナル職ヨリモ解職セラレ阻止セラレマタ禁ゼラルベキカヲ決定スル為ニ舷ニ左記ノ指令ヲ発スル

(イ)日本文部省ハ教員並ニ教育関係官ノアラユル現任者及ビ希望者ヲ有効ニ調査シ、除外シ或ハ認可スル適切ナル行政機構及措置ヲ設定スルコト

(ロ)日本文部省ハ出来得ル限リ速カニ本指令条項ニ準拠シテ実施セラレタル諸措置ノ包括的報告ヲ本司令部ニ提出スルコト該報告ハ別ニ左記特定ノ報告ヲモ含ムベキコト
(1)如何ニシテ一個人ガ教員或ハ教育関係官トシテ認容セラルベキカヲ精確ニ知リ得ル報告、並ニ一個人ノ留任、解職、任命、再任命ヲ決定スルニ当リテノ原則トナルベキ特定ノ基準表
(2)教員及教育関係官ノ調査、除外、認可ヲ行フ為ニ如何ナル行政的措置並ニ機構ガ設定セラルルカヲ明カニスル精確ナル報告猶控訴セラレタル判決ノ再審査及ビ一度不認可トナリタル個人ノ再調査ヲ為ス場合、如何ナル規定ニ準拠スルカヲ明カニスル精確ナル報告ヲモ併セ提出スルコト

三 本指令ノ条文ノ適用ヲ受ケル日本政府ノアラユル官吏属僚及ビ官公私立ノ教育関係官ハ本指令ニ明カニサレタル方針ヲ完全忠実ニ守ル個人的責任ヲ有スル

     「文部科学省ホームページ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1850年(嘉永5)医師・蘭学者高野長英の命日詳細
1874年(明治7)評論家・イギリス文学者・翻訳家・詩人上田敏の誕生日詳細
1903年(明治36)小説家尾崎紅葉の命日(紅葉忌)詳細
1999年(平成11)上信越自動車道の中郷IC~上越JCT間が開通、藤岡JCTから長野県長野市を経て上越JCT間が全通する詳細


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 今日は、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、映画監督・アニメーション演出家・プロデューサー・翻訳家高畑勲の生まれた日です。
 高畑勲(たかはた いさお)は、三重県宇治山田市(現在の伊勢市)で、高畑浅次郎の子として生まれ、1938年(昭和13)に同県津市に転居、1942年(昭和17)には、三重県立師範学校男子部付属国民学校に入学しました。1943年(昭和18)に父・浅次郎が岡山一中校長となるに伴って岡山市へ転居、岡山県立師範学校男子部付属国民学校に転入、1945年(昭和20)に太平洋戦争下の岡山空襲に遭っています。
 戦後、岡山大学付属中学校を経て、1954年(昭和29)に岡山県立岡山朝日高等学校を卒業、東京大学教養学部文科二類に入学、文学部仏文科に進みましたが、同期に大江健三郎、海老坂武らがいました。1959年(昭和34)に東京大学卒業後、東映動画(現在の東映アニメーション)に演出助手として入社します。
 テレビアニメ『狼少年ケン』で演出デビューし、1968年(昭和43)に劇場用長編初演出の『太陽の王子・ホルスの大冒険』で評価されました。一方で、東映動画労働組合で副委員長に就き、組合運動を通じ宮崎駿と知り合い親交を深めます。
 1971年(昭和46)に宮崎駿、小田部羊一と共にAプロダクションへ移籍、1973年(昭和48)には、宮崎駿、小田部羊一と共にズイヨー映像(現在の日本アニメーション)へ移りました。1974年(昭和49)からテレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』の全話を演出、1976年(昭和51)には、テレビアニメ『母を訪ねて三千里』の全話を演出します。
 1979年(昭和54)にテレビアニメ『赤毛のアン』を脚本・演出しましたが、1981年(昭和56)には、テレコム・アニメーションフィルムへ移籍しました。1982年(昭和57)に『セロ弾きのゴーシュ』(脚本・監督)を公開、1984年(昭和59)には、『風の谷のナウシカ』をプロデュースします。
 1985年(昭和60)にスタジオジブリを宮崎駿・鈴木敏夫らと共に設立、翌年には『天空の城ラピュタ』をプロデュースしました。その後、『柳川堀割物語』(1987年)、『火垂るの墓』(1988年)、『おもひでぽろぽろ』(1991年)、『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)を脚本・監督し、高い評価を得ます。
 それらの業績により、紫綬褒章(1998年)、ロカルノ国際映画祭名誉豹賞(2009年)、フランスのアヌシー国際アニメーション映画祭名誉功労賞(2014年)、フランス芸術文化勲章オフィシエ、第43回ウィンザー・マッケイ賞(2015年)など数々の栄誉に輝きました。しかし、2017年(平成29)夏頃から体調を崩して入退院を繰り返し、翌年4月5日に、肺がんのため東京都内の病院において、82歳で亡くなっています。

〇高畑勲の主要な監督作品

・『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)タシケント国際映画祭監督賞
・『パンダコパンダ』(1972年)
・『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』(1973年)
・『アルプスの少女ハイジ』(1974年、1975年、1979年)
・『母をたずねて三千里』(1976年、1980年)
・『赤毛のアン』(1979年)厚生省児童福祉文化賞
・劇場版『じゃりン子チエ』(1981年)
・『セロ弾きのゴーシュ』(1982年)第36回毎日映画コンクール大藤信郎賞
・『柳川堀割物語』(1987年)第42回毎日映画コンクール教育文化映画賞
・『火垂るの墓』(1988年)日本カトリック映画大賞、文化庁優秀映画、国際児童青少年映画センター賞、シカゴ国際児童映画祭最優秀アニメーション映画賞、シカゴ国際児童映画祭子供の権利部門第1位
モスクワ児童青少年国際映画祭グランプリ
・『おもひでぽろぽろ』(1991年)1992年芸術選奨文部大臣賞
・『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)第49回毎日映画コンクールアニメーション映画賞、1995年度アヌシー国際アニメーション映画祭長編部門グランプリ
・『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)第3回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞
・『かぐや姫の物語』(2013年)第68回毎日映画コンクールアニメーション映画賞、2015年 東京アニメアワード監督賞

☆高畑勲関係略年表

・1935年(昭和10)10月29日 三重県宇治山田市(現在の伊勢市)で、高畑浅次郎の子として生まれる
・1938年(昭和13) 三重県津市に転居する
・1942年(昭和17) 三重県立師範学校男子部付属国民学校に入学する
・1943年(昭和18) 父の転勤に伴い岡山県立師範学校男子部付属国民学校に転入する
・1954年(昭和29) 岡山県立岡山朝日高等学校を卒業、東京大学教養学部文科二類に入学する
・1956年(昭和31)4月 東京大学文学部仏文科に進むが、同期に大江健三郎、海老坂武らがいた
・1959年(昭和34)3月 東京大学を卒業する
・1959年(昭和34)4月 東映動画に演出助手として入社する
・1968年(昭和43) 劇場用長編初演出『太陽の王子・ホルスの大冒険』で評価をうける
・1971年(昭和46)6月10日 宮崎駿、小田部羊一と共にAプロダクションへ移籍する
・1973年(昭和48) 宮崎駿、小田部羊一と共にズイヨー映像(現・日本アニメーション)へ移籍する
・1974年(昭和49) テレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』全話を演出する
・1976年(昭和51) テレビアニメ『母を訪ねて三千里』全話を演出する
・1978年(昭和53) 宮崎駿の『未来少年コナン』に(絵コンテ・演出)参加する
・1979年(昭和54) テレビアニメ『赤毛のアン』を脚本・演出する
・1981年(昭和56) テレコム・アニメーションフィルムへ移籍する
・1982年(昭和57) 『セロ弾きのゴーシュ』(脚本・監督)を公開する
・1983年(昭和58) 『NEMO/ニモ』の準備作業をするが米国側と意見が合わず演出を降板する
・1984年(昭和59) 『風の谷のナウシカ』(プロデューサー)を公開する
・1985年(昭和60) スタジオジブリを宮崎駿・鈴木敏夫らと共に設立する
・1986年(昭和61) 『天空の城ラピュタ』(プロデューサー)を公開する
・1987年(昭和62) 『柳川堀割物語』(脚本・監督)を公開する
・1988年(昭和63) 『火垂るの墓』(脚本・監督)を公開する
・1989年(平成元) 『魔女の宅急便』(音楽演出)を公開する
・1991年(平成3) 『おもひでぽろぽろ』(脚本・監督)を公開する
・1994年(平成6) 『平成狸合戦ぽんぽこ』(原作・脚本・監督)を公開する
・1995年(平成7) 若手演出家養成のための第1期東小金井村塾を主催する
・1998年(平成10) 秋の紫綬褒章を受章する
・1999年(平成11) 『ホーホケキョ となりの山田くん』(脚本・監督)を公開する
・2009年(平成21) ロカルノ国際映画祭名誉豹(ひょう)賞を受賞する
・2012年(平成24) ドキュメンタリー映画『いわさきちひろ 〜27歳の旅立ち〜』(出演)を公開する
・2013年(平成25) 『かぐや姫の物語』(原案・脚本・監督)を公開する
・2014年(平成26) フランスのアヌシー国際アニメーション映画祭で名誉功労賞を受賞する
・2015年(平成27) フランス芸術文化勲章オフィシエを受章、第43回ウィンザー・マッケイ賞を受賞する
・2017年(平成29)夏頃 体調を崩し入院する
・2018年(平成30)4月5日 肺がんのため東京都内の病院において、82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1779年(安永8)第118代の天皇とされる後桃園天皇の命日(新暦12月6日)詳細
1815年(文化12)江戸幕府大老・彦根藩第15代藩主井伊直弼の誕生日(新暦11月29日)詳細
1961年(昭和36)小説家・劇作家・評論家長与善郎の命日詳細
1976年(昭和51)酒田大火で、1,774棟が焼失する詳細


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 今日は、昭和時代中期の1956年(昭和31)に、大阪市浪速区に現在の通天閣(二代目)が完成した日です。
 通天閣(つうてんかく)は、大阪市浪速区の新世界中心部に建つ展望塔で、現在のものは二代目として再建したものでした。太平洋戦争後、地元民の熱意により、1955年(昭和30)8月17日に起工、1年2ヶ月余で完成し、鉄骨造(一部鉄骨鉄筋コンクリート造)で、高さ:103m、幅:24m、脚間:24m、重量:1000トンとなっています。
 大阪の観光名所となり、公式キャラクターは「ビリケン」で、市民に親しまれてきました。また、この建造物は2007年(平成19)5月15日に、国の登録有形文化財となっています。
 初代は、1903年(明治36)に行われた、第5回内国勧業博覧会の跡地に、パリのエッフェル塔に倣って造られ、1912年(明治45)7月3日に完成しました。当時の高さは約75mあり、東洋一の高さを誇り、大阪市初の人専用のエレベーターが設置されます。
 隣接して造られた「ルナパーク」(娯楽場、映画館、演芸場など)のホワイトタワー(白塔)と4人乗り索道飛行船(日本初の旅客用ロープウェイ)によって結ばれ、新世界の名所となりました。1938年(昭和13)に吉本興業に買収された後、1943年(昭和18)に火災に遭い、太平洋戦争中の金属回収のために撤去されています。
 尚、全国の有名なタワー20で構成される「全日本タワー協議会」というのがあり、通天閣も加盟していて、「スタンプラリー」が実施されるようになりました。スタンプを集めると認定証と記念品がもらえますので、チャレンジしてみても面白いのではないでしょうか。

〇「全日本タワー協議会」とは?

 1961年(昭和36)に、東京タワー、通天閣、名古屋テレビ塔の3つで発足しましたが、現在は、日本国内の20のタワーで運営されている協議会で、全国を4つのブロックに分けて活動しています。
 2006年(平成18)から、10月1日を「展望の日」と定め、各加盟タワーにおいて、来場者へ特典プレゼントを贈呈するなどのイベントが行われるようになりました。
 また、2010年(平成22)の「展望の日」から、「All-Japan20タワーズスタンプラリー」を実施していて、各加盟タワーを訪問してスタンプを集め、ブロック全てのスタンプを集めた来場者にはブロック認定証と記念品が、20タワー全てのスタンプを集めた来場者には完全制覇認定証と特別記念品が贈られています。

☆全日本タワー協議会加盟タワー一覧

<イースト>
・さっぽろテレビ塔(北海道)
・五稜郭タワー(北海道)
・銚子ポートタワー(千葉県)
・千葉ポートタワー(千葉県)
・東京タワー(東京都)
・横浜マリンタワー(神奈川県)

<セントラル>
・名古屋テレビ塔(愛知県)
・東山スカイタワー(愛知県)
・東尋坊タワー(福井県)
・ツインアーチ138(愛知県)
・クロスランドタワー(富山県)

<カンサイ>
・通天閣(大阪府)
・京都タワー(京都府)
・神戸ポートタワー(兵庫県)
・空中庭園展望台(大阪府)

<ウエスト>
・福岡タワー(福岡県)
・ゴールドタワー(香川県)
・海峡ゆめタワー(山口県)
・夢みなとタワー(鳥取県)
・別府タワー(大分県)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1860年(万延元)教育者・柔道家・講道館柔道の創始者嘉納治五郎の誕生日(新暦12月10日)詳細
1876年(明治9)萩の乱がおきる詳細
1891年(明治24)濃尾地震が起き、死者7,273人を出す詳細
1962年(昭和37)小説家・劇作家・評論家正宗白鳥の命日詳細


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kinoshitayuuji01

 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、詩人・俳人木下夕爾が生まれた日です。
 木下夕爾(きのした ゆうじ)は、広島県深安郡上岩成村(現在の福山市御幸町)で、小地主で精米所と雑貨店を営む父・木下常一の次男として生まれましたが、本名は優二と書きました。1920年(大正9)の6歳の時、父を亡くし、1927年(昭和2)に広島県立府中中学校へ入学、13歳の時に、堀口大学の詩誌「若草」に投稿して特選を取っています。
 1933年(昭和8)に上京して第一早稲田高等学院文科へ入学、堀口大学に大いなる影響を受けました。しかし、養父の結核発病に伴い家業を継ぐために、2年で中退して、1935年(昭和10)に愛知高等薬学校(現在の名古屋市立大学)に入学しなおします。
 1938年(昭和13)に卒業後、帰郷して薬局を営み、その傍ら詩作に励んで、1939年(昭和14)に処女詩集『田舎の食卓』を刊行、翌年には第6回文芸汎論詩集賞を受賞、続けて、同年に詩集『生れた家』も刊行しました。太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に詩集『昔の歌』を刊行しましたが、一方で俳誌「春燈」の創刊号に句作を発表、主宰者の久保田万太郎の激賞を受け主要同人となります。
 1949年(昭和24)に雑誌「木靴」を創刊、1956年(昭和31)に句集『南風妙』を刊行、1958年(昭和33)には詩集『笛を吹くひと』を刊行するなど創作活動を続けました。1959年(昭和34)に広島県詩人協会会長となり、句集『遠雷』も刊行、1961年(昭和36)には、広島春燈会を結成して句誌「春雷」を主宰すめなど、詩作、句作の両分野で活躍します。
 また、備後地方の各学校、市町村などの校歌や団体歌を数多く作ったものの、1965年(昭和40)8月4日に、福山市御幸町の自宅において、50歳で亡くなりました。尚、没後の1966年(昭和41)に、『定本・木下夕爾詩集』が刊行され、翌年に第18回読売文学賞を受賞しています。

<代表的な句>
・「家々や 菜の花いろの 灯をともし」(遠雷)
・「つくねんと 木馬よ春の 星ともり」(遠雷)
・「遠雷や はづして光る 耳かざり」
・「しその葉に 秋風にほひ そめにけり」
・「にせものと きまりし壺の 夜長かな」
・「入日いま 大きく赤し 山つつじ」

〇木下夕爾の主要な著作

・処女詩集『田舎の食卓』(1939年)第6回文芸汎論詩集賞受賞
・詩集『生れた家』(1940年)
・詩集『昔の歌』(1946年)
・詩集『晩夏』(1949年)
・『児童詩集』(1955年)
・句集『南風妙』(1956年)
・詩集『笛を吹くひと』(1958年)
・句集『遠雷』(1959年)
・『定本・木下夕爾詩集』(1966年)第18回読売文学賞受賞

☆木下夕爾関係略年表

・1914年(大正3)10月27日 広島県福山市御幸町で木下常一の次男として生まれる
・1920年(大正9) 6歳の時に父を亡くす
・1927年(昭和2) 広島県立府中中学校へ入学する
- - 堀口大学の詩誌「若草」に投稿して特選となる
・1932年(昭和7) 広島県立府中中学校を卒業する
・1933年(昭和8) 第一早稲田高等学院文科へ入学する
- - 堀口大学に大いなる影響を受ける
・1935年(昭和10) 第一早稲田高等学院を中退、愛知高等薬学校(現名古屋市立大学)に入学する
・1938年(昭和13) 名古屋薬学専門学校(現名古屋市立大学)を卒業、帰郷して薬局を営む
・1939年(昭和14)10月 処女詩集『田舎の食卓』を刊行する
・1940年(昭和15) 『田舎の食卓』で、第6回文芸汎論詩集賞を受賞する
・1946年(昭和21) 俳誌「春燈」の創刊号に句作を発表、主宰者の久保田万太郎の激賞を受け主要同人となる
・1949年(昭和24)3月 雑誌「木靴」を創刊する
・1956年(昭和31) 句集『南風妙』を刊行する
・1958年(昭和33) 詩集『笛を吹くひと』を刊行する
・1959年(昭和34) 広島県詩人協会会長となり、句集『遠雷』を刊行する
・1961年(昭和36)1月 広島春燈会を結成、句誌「春雷」を主宰する
・1962年(昭和37)6月17日 福山市沼隈町中山南上横倉の福泉坊境内に、自筆の「入日いま 大きく赤し 山つつじ」の句碑が建てられる 
・1965年(昭和40)8月4日 福山市御幸町の自宅において、50歳で亡くなる
・1966年(昭和41)8月7日 福山市御幸町上岩成の生家近くに、桑田三舟揮毫の「家々や 菜の花いろの 灯をともし」の句碑が建てられる
・1966年(昭和41)11月20日 『定本・木下夕爾詩集』が刊行される
・1967年(昭和42)2月 『定本・木下夕爾詩集』が第18回読売文学賞を受賞する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日文字・活字文化振興法」により制定された「文字・活字文化の日」です詳細
1876年(明治9)秋月の乱がおこる詳細
1903年(明治36)幸徳秋水と堺利彦が平民社を設立する詳細
1977年(昭和52)日本画家前田青邨の命日詳細


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