ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年09月

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 今日は、昭和時代後期の1978年(昭和53)に、小説家山岡荘八が亡くなった日です。
 山岡荘八(やまおか そうはち)は、明治時代後期の1907年(明治40)1月11日に、新潟県北魚沼郡小出町(現在の魚沼市)の山内家で生まれましたが、本名は庄蔵と言いました。高等小学校中退後、逓信講習所で学び、1924年(大正12)に卒業、印刷製本業・三誠社を創立します。
 1932年(昭和7)に萬里閣に入社し、雑誌「ギャング」を編集、『変態銀座デカメロン』を連載、1933年(昭和8)には、雑誌「大衆倶楽部」を創刊し、編集長になりました。1934年(昭和9)に雑誌「大衆倶楽部」に発表した「佐渡の紅葉山人」から、山岡荘八の筆名を用いるようになり、1938年(昭和13)には、「サンデー毎日」大衆文芸に『約束』が当選し、文壇に認められます。
 1939年(昭和14)に初の著書『からゆき軍歌』を上梓、翌年に長谷川伸の新鷹会に加わり、1942年(昭和17)には、従軍作家として各戦線で活動、『海底戦記』ほかの従軍記で第2回野間文芸奨励賞を受賞しました。太平洋戦争後は、戦争中の言動や時局小説を書いたため公職追放されたものの、1950年(昭和25)に公職追放が解除されます。
 同年に「北海道新聞」に『徳川家康』を連載開始、1953年(昭和28)に単行本の刊行が始まり、ベストセラーとなり、翌年には中部日本文化賞を受賞しました。1966年(昭和41)に文壇長者番付一位、自衛隊友の会会長となり、翌年には『徳川家康』が完結し、これにより長谷川伸賞、第2回吉川英治文学賞を受賞します。
 1973年(昭和48)に紫綬褒章を受章、1974年(昭和49)に谷口雅春や岡田光玉、朝比奈宗源らとともに「日本を守る会」(のち日本会議)を結成、1976年(昭和51)には、天皇在位五十年の奉祝実行委員長となりましたが、1978年(昭和53)9月30日に東京において、71歳で亡くなりました。

〇山岡荘八の主要な著作

・『約束』(1938年)サンデー毎日大衆文芸入選
・『海底戦記』(1942年)第2回野間文芸奨励賞受賞
・『御盾』(1943~45年)
・『徳川家康』(1950~67年)中部日本文化賞、第2回長谷川伸賞、第2回吉川英治文学賞受賞
・『千葉周作』(1952~53年)
・『新太平記』(1957~62年)
・『小説明治天皇』(1963~68年)
・『太平洋戦争』(1962~71年)
・『春の坂道』(1971年)

☆山岡荘八関係略年表

・1907年(明治40)1月11日 新潟県北魚沼郡小出町(現在の魚沼市)の山内家で生まれる
・1924年(大正12) 逓信官吏講習所を卒業、印刷製本業・三誠社を創立する
・1932年(昭和7) 萬里閣に入社し、雑誌「ギャング」を編集、『変態銀座デカメロン』を連載する
・1933年(昭和8) 雑誌「大衆倶楽部」を創刊し、編集長になる
・1934年(昭和9) 雑誌「大衆倶楽部」に発表した「佐渡の紅葉山人」から、山岡荘八の筆名を用いる
・1938年(昭和13) 「サンデー毎日」大衆文芸に『約束』が当選し、文壇に認められる
・1939年(昭和14) 初の著書『からゆき軍歌』を上梓する
・1940年(昭和15) 長谷川伸の新鷹会に加わる
・1942年(昭和17) 従軍作家として各戦線で活動、『海底戦記』ほかの従軍記で第2回野間文芸奨励賞を受賞する
・1946年(昭和21) 戦争中の言動や時局小説を書いたため公職追放される
・1950年(昭和25)10月13日 公職追放が解除される
・1950年(昭和25) 「北海道新聞」に『徳川家康』を連載開始する
・1953年(昭和28) 『徳川家康』の単行本の刊行が始まり、ベストセラーとなる
・1958年(昭和33) 中部日本文化賞を受賞する
・1963年(昭和38) 麻薬追放国土浄化連盟を福田恆存・市川房枝・田岡一雄・田中清玄らと結成、新鷹会理事となる
・1966年(昭和41) 文壇長者番付一位、自衛隊友の会会長となる
・1967年(昭和42) 『徳川家康』が完結し、長谷川伸賞を受賞、昌平黌短期大学名誉学長となる
・1968年(昭和43) 『徳川家康』により、第2回吉川英治文学賞を受賞する
・1973年(昭和48) 紫綬褒章を受章する
・1974年(昭和49) 谷口雅春や岡田光玉、朝比奈宗源らとともに「日本を守る会」(のち日本会議)を結成する
・1976年(昭和51) 天皇在位五十年の奉祝実行委員長となる
・1978年(昭和53)9月30日 東京において、71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

894年(寛平6)菅原道眞の建白により遣唐使の廃止が決定する(新暦11月1日)詳細
1351年(観応2)臨済宗の僧夢窓疎石(夢窓國師)の命日(新暦10月20日)詳細
1943年(昭和18)御前会議で「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を決定が決定され、「絶対国防圏」が定められる詳細
1961年(昭和36)木曽川から知多半島に水を引く愛知用水が完成する詳細


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 今日は、平安時代中期の949年(天暦3)に、第57代の天皇とされる陽成天皇が亡くなった日ですが、新暦では10月23日となります。
 陽成天皇(ようぜいてんのう)は、平安時代前期の868年(貞観10)に京都において、清和天皇の第一皇子(母は藤原長良の娘高子)として生まれましたが、名は貞明(さだあきら)と言いました。869年(貞観11)に清和天皇の皇太子となり、876年(貞観18)に9歳で父・清和天皇から譲位され、第57代とされる天皇として即位したものの、母の兄の藤原基経が摂政となり、実権を握ります。
 880年(元慶4)に父・清和上皇が亡くなり、基経が関白に任ぜられましたが、882年(元慶6)に15歳で元服した頃から基経と対立するようになりました。『日本三代実録』には、闘犬・闘鶏を好み、内裏で馬を乗り回したり、動物をひそかに飼うなど異常な行動が記され、素行に問題があったとされます。
 883年(元慶7)に天皇の乳母紀全子(きのまたこ)の産んだ源益(みなもとのみつ)を殺す事件があり、藤原基経が出仕を拒否するようになりました。それらの原因により、翌年には病気を理由に、17歳で時康親王(光孝天皇)に譲位させられ、二条院(陽成院)に移ります。
 退位後に幾度か歌合を催していて、歌才があったとされますが、残されている歌は、『後撰和歌集』に収める「筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」のみで、これは後に「小倉百人一首」にも採録されました。長寿を保ったものの、949年(天暦3年9月20日)に病により出家し、9日後の9月29日に、京都において、数え年82歳で亡くなり、墓所は神楽岡東陵(現在の京都市左京区浄土寺真如町)とされています。

<代表的な歌>

・「筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」(後撰和歌集・百人一首)

☆陽成天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・868年(貞観10年) 京都において、清和天皇の第一皇子(母は藤原長良の娘高子)として生まれる
・869年(貞観11年2月1日) 清和天皇の皇太子となる
・876年(貞観18年11月29日) 9歳で父・清和天皇から譲位され、母の兄の藤原基経が摂政となる
・880年(元慶4年) 父・清和上皇が亡くなる
・880年(元慶4年) 藤原基経が関白に任ぜられる
・882年(元慶6年1月) 15歳で元服する
・883年(元慶7年) 天皇の乳母紀全子(きのまたこ)の産んだ源益(みなもとのみつ)を殺す
・883年(元慶7年8月) 藤原基経が出仕を拒否するようになる
・884年(元慶8年2月4日) 17歳で病気を理由に、時康親王(光孝天皇)に譲位し、二条院(陽成院)に移る
・949年(天暦3年9月20日) 病により出家する
・949年(天暦3年9月29日) 京都において、数え年82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

930年(延長8)第60代の天皇とされる醍醐天皇の命日(新暦10月23日)詳細
1801年(享和元)国学者本居宣長の命日(新暦11月5日)詳細
1879年(明治12)学制」が廃止され、「教育令」が制定される詳細
1972年(昭和47)日本と中国が「日中共同声明」に調印する詳細


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ashiotaifuu01

 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、「足尾台風」が襲来し、主に関東地方から東北地方南部にかけて大きな被害をもたらした日です。
 足尾台風(あしおたいふう)は、この日の8時頃に房総半島の安房南端布良付近を通り、東京の北辺から栃木県足尾付近を通過、11時30分頃に新潟県より日本海へ抜け、夜半に北海道北部に達した台風でしたが、当時は正式に台風名を付けることがなく、通称で呼ばれたものでした。
 館山では最低気圧717.1mmHg(955.8hPa)を観測、最大風速(20分間平均)は、筑波山で72.1m/s、銚子で44.8m/sに及んだとされるものの、当時の風速計では正確な値が計測されていないとも言われています。また、足尾で315mmの雨量を記録して渡良瀬川が洪水となり、相模湾西岸一帯で高潮も発生しました。
 この結果、風水害は千葉県・茨城県・群馬県・神奈川県・福島県・山形県等にも及び、死者・行方不明者400名以上(栃木県219名、茨城県​118名、神奈川県60名以上など)、家屋の全壊・流出約30,000戸以上(栃木県約8,200戸、茨城県​20,164戸、神奈川県約1,000戸など)と大きなものとなります。さらに暴風により、横浜港ではドイツ郵船の「プロイセン号」が流され浅瀬に座礁、汽船「カーリー号」も防波堤に乗り上げ、各地で列車の転覆、煙突の破壊、巨樹の倒壊なども起こりました。
 尚、9月28日朝の天気図では、二つの台風がほぼ横並びになっており、東側にあった「足尾台風」は、本州通過時の進行速度が60km/hから80km/hに達し、台風経路の東側で猛烈な暴風となりましたが、2つの台風の間に「藤原の効果」が働いた結果、「足尾台風」の方が増速したためではないかと考えられ、記録に残る(1883年に日本で天気図作成開始)台風の中で「藤原効果」の見られる最古の事例と言われています。

〇藤原の効果とは?

 二つの台風が距離1,000km以内に接近すると、それぞれの力が干渉し合い進路が複雑になる現象のことで、名称は、1921年(大正10)に当時の第5代中央気象台長の藤原咲平がこの回転運動の存在をはじめて提唱したことによります。二つの台風は互いに相手の台風の風によって動き、二つの台風の重心位置をとると、この重心の周りを反時計回りに移動し接近するなど複雑な動きをするとされてきました。
 現在は、相寄り型(弱い方の熱帯低気圧が接近しながら急激に衰弱し、強い方の熱帯低気圧に取り込まれる)、指向型(片方の熱帯低気圧だけが干渉を受けて、もう片方の熱帯低気圧の回りを運動する)、追従型(片方の熱帯低気圧がまず移動し、その後ろをもう片方の熱帯低気圧が追いかける)、時間待ち型(東側の熱帯低気圧がまず北上し、その熱帯低気圧が去った後に西側の熱帯低気圧が北上する)、同行型(2つの熱帯低気圧が並行して移動する)、離反型(東側の熱帯低気圧が加速して北東へ移動し、西側の熱帯低気圧が減速しながら西へ移動する)の六つの振る舞いに分類されています。

☆藤原の効果がみられた台風の近年の主要例

・1967年(昭和42)台風14号/台風15号  指向型・追従型
・1983年(昭和58)台風5号/台風6号/台風7号  追従型・時間待ち型
・1985年(昭和60)台風12号/台風13号/台風14号  相寄り型・同行型・離反型
・1991年(平成3)台風21号/台風22号  時間待ち型・同行型
・2006年(平成18)台風7号/台風8号/台風9号  同行型・離反型?
・2007年(平成19)台風23号/台風24号  指向型・追従型・同行型
・2009年(平成21)台風17号/台風18号  指向型・離反型
・2010年(平成22)台風6号/台風7号/台風8号  相寄り型・指向型
・2011年(平成23)台風6号/台風7号  相寄り型
・2011年(平成23)台風15号/台風16号  指向型・追従型・時間待ち型
・2012年(平成24)台風14号/台風15号  指向型・追従型・時間待ち型
・2013年(平成25)台風13号/台風14号  相寄り型・追従型
・2016年(平成28)台風9号/台風10号/台風11号  指向型・時間待ち型
・2017年(平成29)台風5号/台風6号  相寄り型・指向型
・2017年(平成29)台風9号/台風10号  追従型・時間待ち型・同行型

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1500年(明応9)第103代の天皇とされる後土御門天皇の命日(新暦10月21日)詳細
1912年(大正元)小説家大原富枝の誕生日詳細
1943年(昭和18)「官庁ノ地方疎開ニ関スル件」が閣議決定され、官庁の地方疎開が決められる詳細
1967年(昭和42)上越線の新清水トンネルが開通する詳細


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rengoukokusaikoushireikanshirei01

 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が「新聞及言論の自由への追加措置に関する覚書」(SCAPIN-66)を指令した日です。
 「新聞及言論の自由への追加措置に関する覚書」は、昭和時代前期の太平洋戦争敗戦後の連合国軍占領下で、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって発令された、連合国最高司令官指令第68号(SCAPIN-68)の「Further Steps Toward Freedom of Press and Speech」のことでした。報道の自由とコミュニケーションの自由に関する平時および戦時の制限の実施手順を無効にすることを指令したもので、「新聞紙法」、「国家總動員法」、「新聞紙等揭載制限令」、「新聞事業令」、「言論出版集會結社臨時取締法」、「言論出版集會結社等臨時取締法施行規則」、「戦時刑事特別法」、「国防保安法」、「軍機保護法」、「不穩文書取締法」、「軍用資源祕密保護法」、「重要產業団体令及重要產業団体令施行規則」などの該当条項の廃止が指示されます。
 占領下の日本では、まず1945年(昭和20)9月10日に「言論及び新聞の自由に関する覚書」(SCAPIN-16)が出され、マス・メディアの一般的な行動基準を示し、GHQ及び連合国批判にならずまた太平洋戦争の被害に言及しない制限付きで奨励されました。続いて、9月19日にその行動基準を新聞、出版についてより具体的に示した「日本に与うる新聞遵則(プレスコード)」(SCAPIN-33)、9月22日には、ほぼ同趣旨でラジオ放送向けに「日本放送遵則(ラジオコード)」(SCAPIN-43)が発せられます。
 さらに、9月24日に「政府からの報道の分離の件」(SCAPIN-51)が出され、日本政府によるニュース報道に対する障壁を排除する方針が示されました。そして、9月27日にこの「新聞及言論の自由への追加措置に関する覚書」(SCAPIN-66)へと至りましたが、代わって、10月9日からは主要新聞・雑誌がGHQの事前検閲を受けさせられるようになります。
 しかし、1947年(昭和22)11月から雑誌が、1948年(昭和23)7月から新聞が事後検閲に戻り、1949年(昭和24)からは事後検閲も表面上は廃止となり、1952年(昭和27)4月28日の「サンフランシスコ平和条約」発効により検閲制度は失効しました。
 以下に、「新聞及言論の自由への追加措置に関する覚書」(SCAPIN-68)の英語版全文と日本語訳・現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「新聞及言論の自由への追加措置に関する覚書」(SCAPIN-66)1945年(昭和20)9月27日指令

OFFICE OF THE SUPREME COMMANDER
FOR THE ALLIED POWERS           

AG 000.76 (27 Sep 45) CI
 (SCAPIN-66)           27 September 1945

MEMORANDUM FOR:IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT
THROUGH:Central Liaison Office, Tokyo.
SUBJECT:Further Steps toward Freedom of Press and Speech

1. The Japanese Government forthwith will render inoperative the procedures for enforcement of peace-time and war-time restrictions on freedom of the press and freedom of communications.
2. Only such restrictions as are specifically approved by the Supreme Commander will be permitted in censorship of newspapers and other publications, wireless and trans-oceanic telephone, cable, internal telephone and telegraph, mail, motion pictures or any other form of the written or spoken word.
3. Pending repeal of laws imposing restrictions which have given the government complete control of all channels of expression of public opinion, their enforcement shall be suspended.
4. No punitive action shall be taken by the Japanese government against any newspaper or its publisher or employees for whatever policy or opinion it may express, unless ordered by the Supreme Commander on the basis of publication of false news or reports disturbing public tranquility. The power of the government to revoke permission to publish, to arrest without prior approval of the Supreme Commander, to impose fines on publications and to curtail paper supplies as a punishment for editorial comment shall not be exercised.
5. Compulsory organizations of publishers and writers will be discontinued and voluntary organization will be encouraged.
6. No press bans will be issued by any government agency and no pressure, direct or indirect, will be exerted on any medium to compel it to conform to any editorial policy not its own.
7. Steps shall be taken to repeal such parts of existing peace-time and war-time laws as are inconsistent with the Supreme Commander's directives of 10 September 1945 relating to dissemination of news, and of 24 September 1945 relating to disassociation of press from government; subject laws including:
 a. Shimbunshi-Ho
 b. Kokka Sodoin-Ho
 c. Shimbunshi-To-Keizai-Seigenrei
 d. Shimbun-Jigyo-Rei
 e. Genron, Shuppan, Shukai, Kessha Rinji Torishimari-Ho
 f. Genron, Shuppan, Shukai, Kessha To Rinji Torishimari-Ho Shiko Kisoku
 g. Senji Keiji Tokubetsu-Ho
 h. Kokubo Hoan-Ho
 i. Gunki Hogo Ho
 j. Fuon Bunsho Torishimari-Ho
 k. Gunyo Shigen Himitsu Hogo Ho
 l. Juyo Sangyo Dantai Rei Oyobi Juyo Sangyo Dantai Rei Shiko Kisoku
8. A report will be submitted to the Supreme Commander on the first and the sixteenth day of each month describing in detail the progressive steps taken by the Japanese government to comply with this order and the orders of 10 September and 24 September.

FOR THE SUPREME COMMANDER:

             /s/ Harold Fair,
             /t/ HAROLD FAIR,
             Lt. Colonel,A.G.D.,
             Asst. Adjutant General

<日本語訳>

新聞及言論ノ自由ヘノ追加措置ニ關スル覺書
(一九四五年九月二七日)
 
一 日本帝國政府ハ直ニ新聞及通信ノ自由ニ對スル平時竝ニ戰時ノ統制實施ノ手續ヲ無效ナラシムベシ
二 新聞、其ノ他出版物、無電、國際電話、ケーブル、國內電話、電信、郵便、映畫又ハ文書乃至言語ノ如何ナル形式ヲ問ハズ發表サレタルモノノ檢閲ニ關シテハ最高司令官ニヨリ特ニ承認サレタル制限ノミガ許容サルルモノトス
三 民衆ノ意見ヲ發表スル一切ノ手段ヲ完全ニ統制セシムル權限ヲ政府ニ與ヘテ居タ各種統制法令ガ撤廢サルル迄ハ其ノ執行ヲ停止セシムルヤウ取計ラウベシ
四 日本帝國政府ハ最高司令官ノ命令ニヨル場合ノ外新聞或ハ其ノ發行人又ハ其ノ使用職員等ニ對シ其ノ如何ナル政策乃至意見ノ發表ニ關シテモ如何ナル處罰的執行ヲモ爲スコトヲ得ズ
五 出版人又ハ著作者等ヲ强制シテ組織ヲ作ルコトハ中止セラルベシ
六 如何ナル政府機關ト雖モ今後ハ新聞取締規則ヲ發布スルコトヲ得ズ又直接タルト間接タルトヲ問ハズ壓迫ヲ加ヘテ其ノ者ノ意思ニ反スル編輯政策ヲ無理强ヒスルコトハ之ヲ許サズ
七 新聞ノ頒布ニ關スル九月一〇日附ノ指令及新聞ノ政府カラノ解放ニ關スル九月二四日ノ最高司令官ノ指令ニ牴觸スル現行ノ平時乃至戰時ノ法令ノ條項ハ之ヲ廢止スルヤウ處置サルベシ。該當法律左ノ如シ
イ 新聞紙法
ロ 國家總動員法
ハ 新聞紙等揭載制限令
ニ 新聞事業令
ホ 言論出版集會結社臨時取締法
ヘ 言論出版集會結社等臨時取締法施行規則
ト 戰時刑事特別法
チ 國防保安法
リ 軍機保護法
ヌ 不穩文書取締法
ル 軍用資源祕密保護法
ヲ 重要產業團體令及重要產業團體令施行規則
八 日本帝國政府ハ本命令及ビ九月十日、九月二四日ノ命令ニ應ジテ逐次採リタル處置ニツキ每月一日及十六日ニ最高司令官宛報吿スベシ

   『日本管理法令研究』3巻より

<現代語訳>

連合国軍最高司令官の事務所

AG 000.76 (27 Sep 45) CI       1945年9月27日
(SCAPIN-51)

覚書:大日本帝国政府。
経由:東京中央連絡事務所。
件名:新聞及言論の自由への追加措置に関する件。

1. 日本政府は直ちに、報道の自由と通信の自由に対する平和時と戦時の制限を施行するための手続きを無効にする。
2. 新聞やその他の出版物、無線および大洋横断電話、ケーブル、内線電話および電信、郵便、映画、またはその他の形式の書面または口頭による言論への検閲では、最高司令官によって特別に承認された制限のみが許可される。
3. 政府に世論の表明のすべての手段の完全な統制を与えた権限を課す法令の廃止を待つ間、それらの執行は停止されるものとする。
4. 虚偽のニュースや公共の静けさを乱す報告の公表として、最高司令官から命令されない限り、日本政府は、新聞、その発行者、または従業員に対して、いかなる方針または意見を表明しても罰則を科してはならない。出版の許可を取り消す、最高司令官の事前の承認なしに逮捕する、出版物に罰金を科す、編集コメントの罰として紙の供給を削減する政府の権限は行使されないものとする。
5. 出版社と作家の強制的な組織は廃止され、自主的な組織が奨励される。
6. いかなる政府機関によっても報道禁止は発令されず、直接的または間接的を問わず、いかなる媒体に対しても、それ自身によらない編集方針に準拠するように強制する圧力はかけられない。
7. ニュースの普及に関する1945年9月10日の最高司令官の指令(SCAPIN-16)、および政府からの報道機関の分離に関する1945年9月24日の指令(SCAPIN-51)と矛盾する、既存の平時および戦時法のそのような部分を廃止するための措置を講じなければならない。以下を含む対象法令:
 a. 新聞紙法
 b. 国家總動員法
 c. 新聞紙等揭載制限令
 d. 新聞事業令
 e. 言論出版集會結社臨時取締法
 f. 言論出版集會結祉等臨時取締法施行規則
 g. 戦時刑事特別法
 h. 国防保安法
 i. 軍機保護法
 j. 不穩文書取締法
 k. 軍用資源祕密保護法
 l. 重要產業団体令及重要產業団体令施行規則
8. 毎月1日と16日に最高司令官に報告書が提出され、この命令と9月10日と24日の命令を遵守するために日本政府が講じた逐次的な措置が詳細に説明されるものとする。

最高司令官の代わりに:
         /s/s/ハロルドフェア、
         /t/ハロルドフェア、
         大佐、A.G.D.、
         副司令官

   ※英語版原文より筆者が訳しました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1925年(大正14)日本初の地下鉄・銀座線(上野~浅草2.2km)の起工式が行われる詳細
1940年(昭和15)日独伊三国同盟」が調印される 詳細
1946年(昭和21)労働関係調整法」が公布される詳細
1958年(昭和33)狩野川台風が神奈川県に上陸し、死者・行方不明1,269人を出す詳細


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iwanaitaika01

 今日は、昭和時代中期の1954年(昭和22)に、北海道の岩内大火で、3,298戸が焼失した日です。
 岩内大火(いわうちたいか)は、北海道岩内郡岩内町において、午後8時15分頃に相生20番地の西口アパートから発火し、折からの洞爺丸台風(昭和29年台風15号)の暴風下(37.6m/s)において、瞬く間に燃え広がりました。各所に飛火し、港内に繋留した発動機船を焼き遂に全町火の海と化し、焼くべきものがなくなって、ようやく翌日午前6時頃に鎮火します。
 この結果、市街地の8割(32万坪)が焼失し、死者35名、行方不明3名、負傷者551名、焼失家屋3,298戸、罹災者16,622名、損害額は当時の金額で推定98億900万円と甚大なものとなりました。これは、国内の戦後における大火の中でも、1952年(昭和27)4月17日の鳥取大火、1947年(昭和22)4月20日の飯田大火に次ぐ大惨事とされています。
 この大火を知った世間では「岩内はもう駄目だ、町はつぶれてしまう。」という話が流れたものの、大火後直ちに単なる復興ではなく、より良い町づくりを目指して都市計画が立てられ、道路拡幅や公園(防火地帯、避難場所、児童遊園地、公共庭園など多目的)が設置されました。それから1年で奇跡的に復興し、3年後には前にもまして立派な近代都市に生まれかわったと言われています。

〇洞爺丸台風とは?

 昭和時代中期の1954年(昭和29)9月21日に、ヤップ島の北の海上で発生した、昭和29年台風第15号(国際名:Marie)のことです。25日早朝に台湾の東の海上で北東に向きを変え、東シナ海をほとんど一直線に時速80kmで北東進して、26日午前2時頃に大隅半島に上陸しました。
 九州東部を縦断後、中国地方を時速100kmで横断、午前8時頃山陰沖から日本海に進んで、再び発達しながら北海道の西側を北東に進み、午後9時には最盛期を迎え北海道寿都町沖を通過、27日0時過ぎには稚内市付近に達します。この台風による降水量は、九州と中国地方では200mmを超えた所があったものの、他の地方ではそれほどでもありませんでしたが、西日本や東北、北海道の各地で30m/s以上の暴風が吹いて大きな被害を出しました。
 これによって、函館港沖で座礁転覆し乗客乗員1,139人が死亡し、大惨事となった洞爺丸をはじめ、計5隻の青函連絡船が沈没するなど、船舶被害は5,581隻に達します。また、北海道岩内郡岩内町でフェーンによる大火(岩内大火)が発生し、焼失家屋3,298戸(全家屋の約8割)、焼失面積32万坪、罹災者16,622人、死者35人、行方不明3人に達しました。
 被害は九州から北海道まで全国に及び、風水害、高潮害、塩害、波浪害、山崩れ、火災など各種の災害により、全国で死者1,361人、行方不明者400人、住家の全・半壊・流出207,542戸、住家の床上・下浸水103,533戸、耕地被害82,963haという大きな被害となります。特に、洞爺丸沈没によって大きな被害が出たので、その後気象庁は、この台風を洞爺丸台風と命名しました。

☆太平洋戦争後の日本の大火(500棟以上の焼失で、地震によるものを除く)

・1947年(昭和22)4月20日 - 飯田大火(長野県飯田市)
  死者・行方不明者3名、焼失棟数3,742棟、焼損面積約48ha、罹災戸数4,010戸、罹災人員17,778名
・1949年(昭和24)2月20日 - 第一次能代大火(秋田県能代市)
  死者3名、負傷者132名、焼失家屋2,237棟、焼失面積83.6ha、罹災世帯1,755世帯、罹災人員8,790名
・1952年(昭和27)4月17日 - 鳥取大火(鳥取県鳥取市)
  死者3名、罹災家屋5,228戸、罹災面積約160ha、罹災者2万451人
・1954年(昭和29)9月26日 - 岩内大火(北海道岩内郡岩内町)
  死者35名、負傷者551名、行方不明3名、焼失戸数3,298戸、焼失面積約106ha、罹災者16,622名
・1955年(昭和30)10月1日 - 新潟大火(新潟県新潟市)
  行方不明者1名、負傷者175名、焼失棟数892棟、焼失面積約26ha、罹災世帯1,193世帯、罹災人員5,901名
・1956年(昭和31)3月20日 - 第二次能代大火(秋田県能代市)
  死者なし、負傷者194名、焼失家屋1,475棟、焼失面積約31.5ha、罹災世帯1,248世帯、罹災人員6,087名
・1956年(昭和31)9月10日 - 魚津大火(富山県魚津市)
  死者5名、負傷者170名(うち重傷者5名)、焼失戸数1,583戸、罹災者7,219名
・1965年(昭和40)1月11日 - 伊豆大島大火(東京都大島町)
  死者なし、全焼戸数584棟418戸、焼失面積約16.5ha、罹災世帯408世帯1,273名、被害総額20億7千万円
・1976年(昭和51)10月29日 - 酒田大火(山形県酒田市)
  死者1名、焼失棟数1,774棟、焼失面積約22.5ha、被災者約3,300名、被害総額約405億円

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)哲学者・評論家・思想家三木清の命日詳細
1954年(昭和29)洞爺丸台風が襲来し、青函連絡船洞爺丸が転覆、岩内町で大火が起きる詳細
1959年(昭和34)伊勢湾台風が襲来する(死者 4,697名、行方不明者 401名、負傷者 38,921名)詳細
1962年(昭和37)若戸大橋が開通する詳細


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