ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年12月

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 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、俳人中塚一碧楼が亡くなった日です。
 中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう)は、1887年(明治20)9月24日 岡山県浅口郡玉島町(現在の倉敷市玉島)にて旧家で製塩業等を営む実業家、中塚銀太の四男として生まれましたが、本名は直三(なおぞう)と言いました。1900年(明治33)に岡山中学(現在の岡山県立岡山朝日高校)に入学、中学の頃より俳句を嗜み、在学中にキリスト教の洗礼を受け、1907年(明治40)には、早稲田大学商科に進みます。
 大学では飯田蛇笏に兄事し俳句を学び、早稲田吟社にも一時参加したものの、後に中退して帰郷しました。一方、1908年(明治41)に新傾向俳句運動を展開する河東碧梧桐の「日本俳句」に投句を始め、翌年には、城崎温泉に碧梧桐を尋ね15日間にわたり師弟で俳句を作り続け、新傾向の中心作家となります。
 1910年(明治43)に結婚、兵庫県飾磨郡(現在の姫路市)で素麺問屋をしてた濱田家の婿養子となったものの、その後、離縁されて岡山に戻り、『自選俳句』を郷里にて出版、翌年には、早稲田大学に再度入学、専攻は文科となり、俳誌『試作』を刊行しました。1912年(明治45)に早稲田大学を再び退学して帰郷、俳誌『第一作』を刊行、翌年には神谷たづ子と再婚、処女句集『はかぐら』を刊行します。
 1915年(大正4)に碧梧桐を主宰として俳誌「海紅(かいこう)」を創刊、編集を担当しましたが、1922年(大正11)には、碧梧桐が去り、代わりに「海紅(かいこう)」を主宰して、自由律俳句の流れを形成しました。また、「朝日俳壇」の選者も務め、口語の導入、音数に捉われない自由さ、季語の否定などを主張、1940年(昭和15)の大政翼賛会の発足とともに「日本俳句作家協会」が設立され、常任理事に就任します。
 1942年(昭和17)に、「日本文学報国会」が発足すると俳句部会の常任理事となりましたが、太平洋戦争後の1946年(昭和21)12月31日に、東京都世田谷区上馬の自宅において、胃癌のため59歳で亡くなりました。

<代表的な句>

・「誰のことを淫らに生くと柿主が」
・「死期明らかなり山茶花の咲き誇る」
・「赤ん坊髪生えてうまれ来しぞ夜明け」
・「掌がすべる白い火鉢よふるさとよ」
・「われを愧(は)ぢてゐ枯草など焚火してゐる」
・「千鳥鳴く夜かな凍(い)てし女の手」
・「飛騨(ひだ)のかた大空秋となり」
・「鏡に映つたわたしがそのまま来た菊見」
・「乳母は桶の海鼠を見てまた歩いた」
・「胴長の犬がさみしき菜の花が咲けり」
・「秣の一車のかげでささやいて夏の日が来る」
・「単衣著の母とあらむ朝の窓なり」
・「刈粟残らずをしまつて倉の白い」
・「畠ぎつしり陸稲みのり芋も大きな葉」
・「げに蓬門炎天の一客を迎へ」

〇中塚一碧楼の主要な著作

・句集『はかぐら』(1913年)
・句集『一碧楼第二句集』(1920年)
・句集『朝』(1924年)
・句集『多摩川』(1928年)
・句集『一碧楼第五句集』(1932年)
・句集『一碧楼一千句』(1936年)
・句集『一碧楼句抄』(1949年)
・句集『杜』
・句集『若林』
・句集『上馬』
・句集『冬海』

☆中塚一碧楼関係略年表

・1887年(明治20)9月24日 岡山県浅口郡玉島町(現在の倉敷市玉島)にて旧家で製塩業等を営む実業家、中塚銀太の四男として生まれる
・1900年(明治33) 岡山中学(現在の岡山県立岡山朝日高校)に入学する
・1906年(明治39) 岡山中学を出るが、この年、キリスト教の洗礼を受ける
・1907年(明治40) 早稲田大学商科に入学するも、途中で退学し、岡山に戻る
・1908年(明治41) 日本俳句に投句を始める
・1909年(明治42) 城崎温泉に碧梧桐を尋ね15日間にわたり師弟は俳句を作り続ける
・1910年(明治43) 結婚、兵庫県飾磨郡(現在の姫路市)で素麺問屋をしてた濱田家の婿養子となり、『自選俳句』を郷里にて出版する
・1911年(明治44) 早稲田大学に再度入学、専攻は文科となり、俳誌『試作』を刊行する
・1912年(明治45) 早稲田大学を再び退学して帰郷、俳誌『第一作』を刊行する
・1913年(大正2) 神谷たづ子と再婚、処女句集『はかぐら』を刊行する
・1915年(大正4) 碧梧桐を主宰として俳誌「海紅(かいこう)」を創刊、編集を担当する
・1922年(大正11) 「海紅(かいこう)」を主宰して、自由律俳句の流れを形成する
・1940年(昭和15) 大政翼賛会の発足とともに日本俳句作家協会が設立され、常任理事に就任する
・1942年(昭和17) 日本文学報国会俳句部会の常任理事となる
・1946年(昭和21)12月31日 東京都世田谷区上馬の自宅において、胃癌のため59歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1924年(大正13)文人画家・儒学者富岡鉄斎の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)を指令する詳細
1963年(昭和38)NHK紅白歌合戦でテレビの最高視聴率81.4%を記録する詳細
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 今日は、明治時代前期の1881年(明治14)に、画家・歌人・随筆家小杉放庵の生まれた日です。
 小杉放庵(こすぎ ほうあん)は、栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)で、二荒山神社の神官だった父・小杉富三郎、母・妙の6人兄弟の末弟として生まれましたが、本名は国太郎(くにたろう)と言いました。1895年(明治28)の15歳の時、宇都宮中学一年で中退、翌年には、父につれられて日光在住の洋画家五百城文哉の内弟子に入ります。
 1898年(明治31)の18歳の時、画業を志して無断で上京、赤坂溜池の白馬会研究所に通ったものの、まもなく肺尖カタルに犯されて帰郷しました。1900年(明治33)の20歳の時、師匠の許可をえて再上京、吉田博の感化で小山正太郎の不同舎に入門します。
 1902年(明治35)に太平洋画会に入会、翌年からは国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画も描くようになり、太平洋画会第2回展に「晩鐘」他4点を出品、未醒と号しました。1906年(明治39)に独歩社発行の「新右文林」に漫画を描き、ようやく漫画家として頭角をあらわします。
 1907年(明治40)に美術雑誌「方寸」を創刊、翌年の第2回文展に「湟槃会」が初入選しました。1910年(明治43)の第4回文展で「杣」が三等賞、翌年の第5回文展で「水郷」が二等賞、翌々年の第6回文展で「豆の秋」が二等賞無鑑査となり、画壇的地歩を確定します。
 1913年(大正2)に渡欧し主にフランスに滞在、翌年シベリア経由で帰国、欧州紀行「画筆の跡」を刊行、再興日本美術院の創立に参加しました。1920年(大正9)に日本美術院を脱退、1922年(大正11)には、春陽会創立に参加、しだいに画風、題材に東洋的な傾向を示し、1929年(昭和4)には放庵と改号します。
 1935年(昭和10)に帝国美術院会員、帝国芸術院会員となりましたが、1945年(昭和20)には、太平洋戦争の空襲で東京・田端の画室を焼失、住居を新潟県赤倉に移し定住しました。1959年(昭和34)に日本芸術院会員を辞退、1961年(昭和36)には肺炎により肉体の衰えが目立ち、1964年(昭和39)4月16日に、新潟県赤倉において、84歳で亡くなっています。
 尚、歌人、随筆家としても知られ、歌集『山居』、『石』、『炉』、反戦詩画集『陣中詩篇』、随筆『帰去来』、『故郷』など多くの著作を残しました。

〇小杉放庵の主要な作品

<絵画>
・『山幸彦』(1917年)
・『泉,採薬,静意,動意』(1925年)東京大学安田講堂壁画
・『奥の細道帖』(1927~29年)
・『大宰帥大伴旅人卿讃酒像』(1935年)
・『荘子』(1940年)
・『瘤取』(1949年)出光美術館蔵
・『四季画諧』(1961年)
・『水郷』
・『西遊記』

<著作>
・随筆集『故郷』
・随筆集『帰去来』
・歌集『山居』
・歌集『石』
・歌集『炉』
・歌集『放庵歌集』
・反戦詩画集『陣中詩篇』(1904年)
・『放庵画論』
・『東洋画総論』

☆小杉放庵関係略年表

・1881年(明治14)12月30日 栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)で、父・小杉富三郎、母・妙の6人兄弟の末弟として生まれる
・1886年(明治19) 6歳の頃より父(蘇翁平田派の国学者)について大学、日本外史等の素読をならう
・1888年(明治21) 8歳の時、日光小学校に入学する
・1895年(明治28) 15歳の時、宇都宮中学一年で中退する
・1896年(明治29) 16歳の時、父につれられて日光在住の洋画家五百城文哉の内弟子に入る
・1898年(明治31) 18歳の時、画業を志し上京、赤坂溜池の白馬会研究所に通い、まもなく肺尖カタルに犯されて帰郷、再び文哉宅に帰る
・1899年(明治32) 19歳の時、吉田博日光へ来遊、はじめて知る
・1900年(明治33) 20歳の時、師匠の許をえて再上京、吉田博の感化で小山正太郎の不同舎に入門、同期生に青木繁、荻原守衛らがいた
・1901年(明治34) 21歳の時、田端で自炊生活をする
・1902年(明治35) 22歳の時、太平洋画会第一回展覧会が上野公園5号館で開催、会員となる
・1903年(明治36) 23歳の時、不同舎小山正太郎の推薦で近事画報社に入る。太平洋画会第2回展に「晩鐘」他4点出品、未醒と号す
・1904年(明治37) 24歳の時、渡鮮、日露戦争画勃発して従軍、戦場の挿画や戦地の小景を画報通信、帰国後近事画報社の正社員として入社する
・1905年(明治38) 25歳の時、太平洋画会第4回展に「戦友」他数展を出品する
・1906年(明治39) 26歳の時、独歩社発行の「新右文林」に漫画を描き、ようやく漫画家として頭角をあらわす、独歩の仲人で春夫人と結婚する
・1907年(明治40) 27歳の時、美術雑誌「方寸」を創刊、石井柏亭、山本鼎、森田恒友、倉田白羊、坂本繁二郎、平福百穂らと共に同人で活躍する
・1908年(明治41) 28歳の時、第2回文展に「湟槃会」が初入選する
・1909年(明治42) 29歳の時、第7回太平洋画会展に「黄昏」を出品、押川春浪、中沢臨川ら武侠社仲間と交友あり
・1910年(明治43) 30歳の時、第8回太平洋画会展に「浦島」、「一本杉」を出品、第4回文展で「杣」が三等賞となる
・1911年(明治44) 31歳の時、第9回太平洋画会展に「河原の杉」を出品、第5回文展に「水郷」を出品し二等賞となる
・1912年(明治45) 32歳の時、第6回文展に「豆の秋」を出品、二等賞無鑑査となり、画壇的地歩を確定する
・1913年(大正2) 33歳の時、渡欧し主にフランスに滞在、イタリア、スペイン、イギリス、ドイツ、ロシア等を見学する
・1914年(大正3) 34歳の時、シベリア経由で帰国、欧州紀行「画筆の跡」を刊行、再興日本美術院の創立に参加する
・1920年(大正9) 40歳の時、院展洋画部同人と連袂脱退事件あり、倉田白羊、長谷川昇、森田恒友、山本鼎、足立源一郎らと共に日本美術院を脱退する
・1922年(大正11) 42歳の時、春陽会創立に参加する
・1923年(大正12) 43歳の時、第1回春陽会展に「泉」を出品する
・1924年(大正13) 44歳の時、第2回春陽会展に「採薬」を出品する
・1925年(大正14) 45歳の時、第3回春陽会展に「泉」を出品、東大安田講堂に壁画「泉,採薬,静意,動意」を製作する
・1927年(昭和2) 47歳の時、芭蕉「奥の細道」紀行の足跡をしたい友人岸浪百艸居と同道、東北、北陸に遊ぶ
・1929年(昭和4) 49歳の時、中国に遊び、この機会に「放庵」と改号する
・1935年(昭和10) 55歳の時、帝国美術院会員、帝国芸術院会員となる
・1945年(昭和20) 65歳の時、戦災にて田端の画室焼失、居を越後赤倉に移し定住する
・1959年(昭和34) 79歳の時、日本芸術院会員を辞退する
・1960年(昭和35) 80歳の時、小杉放庵の画集60年展を開催する
・1961年(昭和36) 81歳の時、肺炎にて肉体の衰えめだつ、春陽会展に「童話三題」を出品する
・1963年(昭和38) 83歳の時、再三の肺炎に体力を失い寡作となる
・1964年(昭和39)4月16日 新潟県赤倉において、84歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1927年(昭和2)上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が開通(地下鉄記念日)詳細
1930年(昭和5)小説家開高健の誕生日詳細
1952年(昭和27)作曲家中山晋平の命日詳細
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mikirofuu01

 今日は、昭和時代中期の1964年(昭和39)に、詩人・童謡作家・歌人・随筆家三木露風の亡くなった日です。
 三木露風(みき ろふう)は、明治時代前期の1889年(明治22)6月23日に、兵庫県揖西郡龍野町(現在のたつの市上霞城)に、父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれましたが、本名は 操(みさお)と言いました。1895年(明治28)の5歳の時、父母が離婚し、祖父の家に引き取られ、小学生時代から詩や俳句・短歌を新聞や雑誌に寄稿、1905年(明治38年)に17歳で処女詩集『夏姫』を刊行します。
 同年に上京し、「車前草社」(尾上柴舟主宰)に参加、「新声」誌上に短歌を掲載、北原白秋・若山牧水・前田夕暮らと交わりました。1907年(明治40)に相馬御風らと早稲田詩社を結成、同年に早稲田大学高等予科文科に入学、諸誌に詩を発表、1909年(明治42)には、詩集『廃園』を刊行します。
 1910年(明治43)に慶應義塾大学文学部に転入学したものの、翌年退学、1912年(明治45)に「朱欒」特別号『勿忘草』を刊行し、詩壇の地位を確立しました。1918年(大正7)頃から、鈴木三重吉の赤い鳥運動に参加し、童謡の作詞を手掛け、翌年創刊した「こども雑誌」の選者となり、1921年(大正10)には、童謡集『真珠島』(童謡「赤とんぼ」等収載)を出版します。
 一方で、1920年(大正9)に函館トラピスト修道院に講師として赴任、1922年(大正11)には、受洗して霊名パウロ、妻はモニカとなりました。1924年(大正13)に修道院を辞して上京、池袋近郊の戸塚に住み、1926年(大正15)に随筆『修道院生活』、『トラピスト歌集』を刊行しています。
 1928年(昭和3)に北多摩郡三鷹村(現三鷹市)に定住、自伝『我が歩める道』を刊行しました。1958年(昭和33)に龍野市名誉市民に推され、1963年(昭和38)には、紫綬褒章を受章しましたが、1964年(昭和39)12月21日に交通事故に遭い重体となり、同月29日に脳内出血により、75歳で亡くなっています。

〇三木露風の主要な著作

・詩歌集『夏姫』(1905年)
・詩集『廃園』(1909年)
・詩集『寂しき曙(あけぼの)』(1910年)
・詩集『独歩詩集』(1912年)
・詩集『白き手の猟人(かりゅうど)』(1913年)
・『露風話』(1915年)
・詩集『幻の田園』(1915年)
・詩集『良心』(1915年)
・詩集『信仰の曙(あけぼの)』(1922年)
・詩集『神と人間』(1926年)
・童謡集『真珠島』(1921年)
・詩集『象徴詩集』(1922年)
・随筆『修道院生活』(1926年)
・歌集『トラピスト歌集』(1926年)
・宗教書『日本カトリック教史』(1929年)

☆三木露風関係略年表

・1889年(明治22)6月23日 兵庫県揖西郡龍野町8番屋敷(現在のたつの市上霞城)に、父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれる
・1893年(明治26)4月 町立龍野幼稚園に入園する
・1895年(明治28)2月 父母が離婚し、祖父の家に引き取られる
・1895年(明治28)6月 龍野尋常小学校入学、母が東京帝国大学(現在の東京大学)病院付属看護婦養成所に入所する
・1899年(明治32)4月 伊水高等小学校へ入学する
・1902年(明治35) 『少国民』4月1日号に「朝めし前」(散文)が掲載され、以後常連になる
・1903年(明治36)4月 県立龍野中学校首席で合格する
・1903年(明治36)11月 『文庫』にはじめて短歌2首が採られる
・1904年(明治37)11月 私立閑谷黌へ転校、寄宿舎に入舎、『文庫』掲載の詩「書写山」が河井酔茗の目にとまる
・1905年(明治38) 岡山の文芸誌『白虹』の同人となる
・1905年(明治38)7月 私立閑谷黌を退学、『夏姫』を刊行する
・1905年(明治38)8月 上京し、『車前草社』(尾上柴舟主宰)に参加、『新声』誌上に短歌を掲載。北原白秋・若山牧水・前田夕暮らと交わる
・1907年(明治40)2月 『芸苑』に「高麗琴」5編を発表する
・1907年(明治40)4月 相馬御風らと早稲田詩社を結成する
・1907年(明治40)9月 早稲田大学高等予科文科に入学、諸誌に詩を発表する
・1909年(明治42)9月 『廃園』刊行、祖父に献じる
・1910年(明治43)9月 慶應義塾大学文学部に転入学(翌年退学)、『寂しき曙』を刊行する
・1911年(明治44)1月 祖父・制が亡くなる
・1912年(明治45)1月 『朱欒』特別号『勿忘草』を刊行、詩壇の地位を確立する
・1913年(大正2)9月 『白き手の猟人』を刊行する
・1914年(大正3)1月 栗山なかと結婚。東京池袋に寓居する
・1914年(大正3)2月 季刊『未来』を発行する
・1915年(大正4)7月 『幻の田園』を刊行する
・1915年(大正4)9月 『露風詩話』を刊行する
・1915年(大正4)11月 『良心』を刊行する
・1918年(大正7)11月 雑司ヶ谷亀原に転居する
・1919年(大正8)7月 創刊した『こども雑誌』の選者となる
・1920年(大正9)5月 函館トラピスト修道院に講師として赴任する
・1921年(大正10)12月 童謡集『真珠島』を刊行する
・1922年(大正11) 受洗し、霊名パウロ、妻はモニカとなる
・1924年(大正13)6月 修道院を辞して上京、池袋近郊の戸塚に住む
・1926年(大正15)1月 『修道院生活』を刊行する
・1926年(大正15)6月 『トラピスト歌集』を刊行する
・1928年(昭和3)7月 北多摩郡三鷹村(現三鷹市)に定住する
・1928年(昭和3)8月 自伝『我が歩める道』を刊行する
・1940年(昭和15) 郷里池畔に「ふるさと」の詩碑が建立される
・1958年(昭和33)12月 龍野市名誉市民に推される
・1962年(昭和37)1月 母かたが亡くなる
・1963年(昭和38)11月 紫綬褒章を受章する
・1964年(昭和39)11月 「小説新潮」に詩「紅葉」を発表する
・1964年(昭和39)12月21日 交通事故に遭う
・1964年(昭和39)12月29日 交通事故による脳内出血のため亡くなる
・1965年(昭和40)1月 勲四等瑞宝章が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)民俗学者・植物学者南方熊楠の命日詳細
1965年(昭和40)作曲家・指揮者山田耕筰の命日(山田耕筰忌)詳細
1993年(平成5)「生物の多様性に関する条約」が発効する詳細
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 今日は、平安時代末期の治承4年に、平清盛が平重衡に命じ東大寺・興福寺等を焼き払った(南都焼討)日ですが、新暦では、1181年1月15日となります。
 南都焼討(なんとやきうち)は、平清盛の命により、平重衡らの平氏軍が、奈良(南都)の東大寺・興福寺等の仏教寺院を焼き討ちにした事件でした。治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の一つとされ、平氏政権に対して反抗的な態度を取り続ける奈良(南都)勢力の東大寺・興福寺等に対する戦闘です。
 平清盛の命を受けた平重衡を総大将とした平氏軍は、治承4年12月25日に奈良(南都)へ向かい、28日には奈良坂・般若寺に城郭を築いて待ちかまえる衆徒を突破して奈良へ攻め入りました。激戦が繰り広げられた後、夜になって火がかけられ、その戦火が興福寺や東大寺等にも拡大し、奈良の大仏や多くの寺院が焼失、『平家物語』では、大仏殿の二階に逃げ込んだ人たちはじめ、計3千5百余人が焼死したとしています。
 また、奈良(南都)勢力の戦死者は千余人と記されました。この戦火によって、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院の多くが焼失しましたが、春日神社や新薬師寺などは免れたとされます。
 以下に、この事件を記した『平家物語』巻第五の奈良炎上の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「平家物語」巻第五 奈良炎上

 都にはまた、「南都三井寺同心して、あるひは宮受け取り参らせ、あるひは御迎ひに参る条、これもつて朝敵なり。しからば奈良をも攻めらるべし」と聞こえしかば、大衆大きに蜂起す。関白殿より、「存知の旨あらば、幾度も奏聞にこそ及ばめ」とて、右官の別当忠成を下されたりけるを、大衆起こつて、「乗り物より捕つて引き落とせ、髻切れ」とひしめく間、忠成色を失ひて逃げ上る。次に右衛門の督親雅を下されたりけれども、これをも、「髻切れ」とひしめきければ、取るものも取り敢へず、急ぎ都へ上られけり。その時は勧学院の雑色二人が髻切られてけり。南都にはまた大きなる球打の玉を作りて、これこそ入道相国の首と名付けて、「打て、踏め」などぞ申しける。「言葉の洩らし易きは、災を招く仲立ちなり。言葉の慎まざるは、敗れを取る道なり」と言へり。懸けまくも忝く、この入道相国は、当今の外祖にておはします。それをかやうに申しける南都の大衆、およそは天魔の所為とぞ見えし。
 入道相国、且つ且つ先づ南都の狼藉を鎮めんとて、妹尾の太郎兼康を、大和の国の検非所に補せらる。兼康五百余騎で馳せ向かふ。「相構へて、衆徒は狼藉をいたすとも、汝らはいたすべからず。物の具なせそ、弓箭な帯せそ」とて遣はされたりけるを、南都の大衆、かかる内儀をば知らずして、兼康が余勢六十余人搦め捕つて、一々に首を斬つて、猿沢の池の傍にぞ掛け並べたりける。入道相国大き怒りて、「さらば南都をも攻めよや」とて、大将軍には、頭の中将重衡、中宮の亮通盛、都合その勢四万余騎、南都へ発向す。南都にも老少嫌はず七千余人、兜の緒を締め、奈良阪、般若寺、二箇所の道を掘り切つて、掻楯掻き、逆茂木曳いて待ちかけたり。平家四万余騎を二手に分かつて、奈良阪、般若寺、二箇所の城郭に押し寄せて、時をどつとぞ作りける。大衆は徒立ち打ち物なり。官軍は馬にて駆け回まはし駆け回し攻めければ、大衆数を尽くして討たれにけり。卯の刻より矢合はせして、一日戦ひ暮らし、夜に入りければ、奈良阪、般若寺、二箇所の城郭ともに敗れぬ。落ち行く衆徒の中に、坂の四郎永覚と言ふ悪僧あり。これは力の強さ、弓矢打ち物取つては、七大寺十五大寺にも勝れたり。萌黄威の鎧に、黒糸威の腹巻二両重ねてぞ着たりける。帽子兜に五枚兜の緒を締め、茅の葉の如くに反つたる白柄の大長刀、黒漆の大太刀、左右の手に持つままに、同宿十余人前後左右に立て、転害の門より討つて出でたり。これぞしばらく支へたる。多くの官兵ら馬の脚薙がれて、多く亡びにけり。されども官軍は大勢にて、入れ替へ入れ替へ攻めければ、永覚が防ぐところの同宿皆討たれにけり。永覚心は猛う思へども、後ろ疎らになりしかば、力及ばず、ただ一人南を指してぞ落ち行きける。
 夜戦になつて、大将軍頭の中将重衡、般若寺の門の前にうつ立つて、暗さは暗し、「火を出だせ」とのたまへば、播磨の国の住人、福井の庄の下司、次郎大夫友方と言ふ者、楯を割り松明にして、在家に火をぞかけたりける。頃は十二月二十八日の夜の、戌の刻ばかりのことなれば、折節風は激し、火元は一つなりけれども、吹き迷ふ風に、多くの伽藍に吹きかけたり。およそ恥をも思ひ、名をも惜しむほどの者は、奈良阪にて討ち死にし、般若寺にして討たれにけり。行歩に適へる者は、吉野十津川の方へぞ落ち行きける。歩みも得ぬ老僧や、尋常なる修学者、稚児ども女童部は、もしや助かると、大仏殿の二階の上、山階寺の内へ、我先にとぞ逃げ入りける。大仏殿の二階の上には、千余人登り上がり、敵の続くを上せじとて、橋を引きてげり。猛火は正しう押しかけたり。喚き叫ぶ声、焦熱、大焦熱、無限阿鼻、炎の底の罪人も、これには過ぎじとぞ見えし。
 興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金堂におはします自然涌出の観世音、瑠璃を並べし四面の廊、朱丹を交へし二階の楼、九輪空に輝きし二基の塔、たちまちに煙となるこそ悲しけれ。東大寺は常在不滅、実報寂光の生身の御仏と思し召し準へて、聖武皇帝、手づから自ら磨きたて給ひし金銅十六丈の盧遮那仏、烏瑟高く顕はれて、半天の雲に隠れ、白毫新たに拝まれさせ給へる満月の尊容も、御首は焼け落ちて大地にあり、御身は沸き合ひて山の如し。八万四千の相好は、秋の月早く五重の雲に隠れ、四十一地の瓔珞は、夜の星むなしう十悪の風にただよひ、煙は中天に満ち満ちて、炎は虚空に隙もなし。まのあたり見奉る者はさらに眼をあてず、かすかに伝へ聞く人は、肝魂を失へり。法相三論の法文聖教、すべて一巻も残らず。我が朝は申すに及ばず、天竺震旦にもこれほどの法滅あるべしとも思えず。優填大王の紫磨金を磨き、毘首羯磨が赤栴檀を刻みしも、わづかに等身の御仏なり。いはんやこれは南閻浮提の内には、唯一無双の御仏、永く朽損の期あるべしとも思はざりしに、今毒縁の塵に交はつて、久しく悲しみを残し給へり。梵釈四王、竜神八部、冥官冥衆も、驚き騒ぎ給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日大明神、いかなることをか思しけん、されば春日の野露も色変はり、三笠山の嵐の音も怨むる様にぞ聞こえける。炎の中にて焼け死ぬる人数を数へたれば、大仏殿の二階の上には一千七百余人、山階寺には八百余人、ある御堂には五百余人、ある御堂には三百余人、具に記いたりければ、三千五百余人なり。戦場にして討たるる大衆千余人、少々は般若寺の門に斬り懸けさせ、少々は首ども持つて都へ上られけり。明くる二十九日、頭の中将重衡、南都滅して北京へ帰り入らる。およそは入道相国ばかりこそ、憤いきどほり晴れて喜ばれけれ。中宮、一院、上皇は、「たとひ悪僧をこそ亡ぼさめ、多くの伽藍を破滅すべきやは」とぞ御嘆きありける。日頃は衆徒の首大路を渡いて、獄門の木に懸けらるべしと、公卿詮議ありしかども、東大寺興福寺の滅びぬる浅ましさに、何の沙汰にも及ばず。ここやかしこの溝や堀にぞ捨て置きける。聖武皇帝の宸筆の御記文にも、「我が寺興福せば、天下も興福すべし。我が寺衰微せば、天下も衰微すべし」とぞ遊ばされたる。されば天下の衰微せんこと、疑ひなしとぞ見えたりける。浅ましかりつる年も暮れて、治承も五年になりにけり。

  流布本『平家物語』巻第五より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1981年(昭和56)小説家・推理作家横溝正史の命日詳細
1986年(昭和61)山陰本線余部鉄橋で列車転落事故が起きる詳細
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 今日は、鎌倉時代の弘安元年に、藤原為氏が『続拾遺和歌集』(二十一代集の12番目)を撰上した日ですが、新暦では1279年2月9日となります。
 『続拾遺和歌集』(しょくしゅういわかしゅう)は、第12勅撰和歌集で、1276年(建治2年)7月に亀山上皇の命によって、藤原為氏が編纂を開始しました。『万葉集』や三代集(『古今和歌集』・『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』)の時代の歌は除外し、一条朝正暦年間(990~995年)以後の歌から選定し、『拾遺和歌集』の体裁に従っています。
 弘安元年12月27日(1279年2月9日)に、撰上され奏覧となりましたが、20巻で1,459首が収載され、構成は序はなく、1巻(春上)・2巻(春下)・3巻(夏)・4巻(秋上)・5巻(秋下)・6巻(冬)・7巻(雑春)・8巻(雑秋)・9巻(羇旅)・10巻(賀)・11巻(恋一)・12巻(恋二)・13巻(恋三)・14巻(恋四)・15巻(恋五)・16巻(雑上)・17巻(雑中)・18巻(雑下)・19巻(釈教)・20巻(神祇)となっていました。主な歌人は、藤原為家(43首)、後嵯峨院(33首)、藤原定家(29首)、西園寺実氏(28首)、藤原俊成(22首)、藤原信実(21首)、藤原為氏(21首)、亀山院(20首)、一条実経(20首)、藤原基家(20首)で、二条派中心ではあるものの、関東武士の歌も多いのが特徴とされています。
 尚、御家人の作が多いことから、警固の時などにたく篝火(かがり)になぞらえ、「鵜舟集(うぶねしゅう)」の異名を以て揶揄されたと伝えられています。

〇勅撰和歌集とは?

 天皇の綸旨や上皇・法皇の院宣下命に基づいて編集、奏覧された和歌集のことです。醍醐天皇の勅命によって編纂され、905年(延喜5)に奏上された『古今和歌集』に始まり、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれました。
 初めの3集(『古今和歌集』・ 『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』)を三代集、8集(『古今和歌集』から『新古今和歌集』)までを八代集、残り13集(『新勅撰集』から『新続古今和歌集』)を十三代集ともいいます。平安時代から鎌倉時代初期にかけて最も盛んでしたが、次第に衰え、室町時代に入って跡が絶えました。尚、14世紀末に南朝側で編纂された『新葉和歌集』は準勅撰和歌集とされています。
 勅撰集を作成するには、まず撰和歌所を設置し、勅撰の下命があり、撰者の任命がされました。その後、資料が集成され、撰歌と部類配列が行われ、加除訂正の後、目録や序が作成されて清書されます。そして、奏覧され、祝賀の竟宴という過程によって行われました。
 収載されたのは、ほとんどが短歌でしたが、わずかに長歌、旋頭歌、連歌を加えた集もあります。巻数は最初の『古今和歌集』の20巻が継承されましたが、『金葉和歌集』と『詞花和歌集』は10巻となっています。部立(歌の種類別区分の仕方)は各集ごとに小異がありますが、基本的には、最初の『古今和歌集』の部立が受け継がれました。
 勅撰集に歌が選ばれるのは、歌人にとって最高の名誉とされ、和歌を発達させた文学史的意義は大きいとされています。

〇「二十一代集」(勅撰和歌集)一覧

1.『古今和歌集』905年成立(醍醐天皇下命・紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑撰)20巻・1,100首
2.『後撰和歌集』957-959年成立(村上天皇下命・大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城撰)20巻・1,425首
3.『拾遺和歌集』1005-07年成立(花山院下命・花山院、藤原公任撰)20巻・1,351首
4.『後拾遺和歌集』1086年成立(白河天皇下命・藤原通俊撰)20巻・1,218首
5.『金葉和歌集』1126年(三奏本)成立(白河院下命・源俊頼撰)10巻・650首(三奏本)
6.『詞花和歌集』1151年頃成立(崇徳院下命・藤原顕輔撰)10巻・415首
7.『千載和歌集』1188年成立(後白河院下命・藤原俊成撰)20巻・1,288首
8.『新古今和歌集』1205年成立(後鳥羽院下命・源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、飛鳥井雅経、寂蓮撰)20巻・1,978首
9.『新勅撰和歌集』1235年成立(後堀河天皇下命・藤原定家撰)20巻・1,374首
10.『続後撰和歌集』1251年成立(後嵯峨院下命・藤原為家撰)20巻・1,371首
11.『続古今和歌集』1265年成立(後嵯峨院下命・藤原為家、藤原基家、藤原行家、藤原光俊、藤原家良撰)20巻・1,915首
12.『続拾遺和歌集』1278年成立(亀山院下命・二条為氏撰)20巻・1,459首
13.『新後撰和歌集』1303年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・1,607首
14.『玉葉和歌集』1312年成立(伏見院下命・京極為兼撰)20巻・2,800首
15.『続千載和歌集』1320年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・2,143首
16.『続後拾遺和歌集』1326年成立(後醍醐天皇下命・二条為藤、二条為定撰)20巻・1,353首
17.『風雅和歌集』1349年成立(花園院監修下命・光厳院撰)20巻・2,211首
18.『新千載和歌集』1359年成立(後光厳天皇下命・二条為定撰)20巻・2,365首
19.『新拾遺和歌集』1364年成立(後光厳天皇下命・二条為明、頓阿撰)20巻・1,920首
20.『新後拾遺和歌集』1384年成立(後円融天皇下命・二条為遠、二条為重撰)20巻・1,554首
21.『新続古今和歌集』1439年成立(後花園天皇下命・飛鳥井雅世撰)20巻・2,144首
準.『新葉和歌集』1381年成立(長慶天皇下命・宗良親撰)20巻・1,426首

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

966年(康保3)三蹟の一人とされる能書家・歌人小野道風の命日(新暦967年2月9日)詳細
1980年(昭和55)経済学者山田盛太郎の命日詳細
1987年(昭和62)小説家・児童文学者椋鳩十の命日詳細
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