ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年06月

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 今日は、明治時代中頃の1894年(明治27)に、「(第1次)高等学校令」が公布(施行は同年9月11日)された日です。
 「高等学校令(こうとうがっこうれい)」は、近代日本の旧制高等学校について定めた勅令(明治27年6月25日勅令第75号)でしたが、1918年(大正7)12月6日にも「高等学校令」(大正7年12月6日勅令第389号)が出されていますので、こちらを「第1次高等学校令」と通称されてきました。当時の文部大臣であった井上毅の主導により制定されたもので、それまでに設立されていた第一高等中学校(東京)、第二高等中学校(京都)、第三高等中学校(仙台)、第四高等中学校(金沢)、第五高等中学校(熊本)を高等学校と改称する(第1条)ものです。
 そして、「高等学校ハ専門学科ヲ教授スル所トス但帝国大学ニ入学スル者ノ為メ予科ヲ設クルコトヲ得」(第2条)と定められ、専門学科は法学部、工学部、医学部などで4年制とされ、予科は3年制とされました。その後、「高等中学校令」により廃止されることになっていましたが、それは施行されずに廃止され、本令が存続します。
 さらに、同年の「明治27年9月27日文部省告示第8号」により山口高等学校(1904年に山口高等商業学校と改称)、1899年の「明治33年勅令第84号」により第六高等学校(岡山)、1900年の「明治34年勅令第24号」により第七高等学校造士館(鹿児島)、1907年の「明治41年勅令第68号」により第八高等学校(名古屋)が設立されました。しかし、1918年(大正7)12月6日に公布された「(第2次)高等学校令」が翌年4月1日に施行されるに至って、本令は廃止されています。
 尚、「(第2次)高等学校令」は、太平洋戦争後の1947年(昭和22)4月1日に施行された「学校教育法」(昭和22年法律第26号)により廃止され、六・三・三・四制の教育制度に替わりました。
 以下に、「(第1次)高等学校令」(明治27年6月25日勅令第75号)と「(第2次)高等学校令」(大正7年12月6日勅令第369号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「(第1次)高等学校令」(明治27年6月25日勅令第75号)

第一条 第一高等中学校、第二高等中学校、第三高等中学校、第四高等中学校及第五高等中学校ヲ高等学校ト改称ス

第二条 高等学校ハ専門学科ヲ教授スル所トス但帝国大学ニ入学スル者ノ為メ予科ヲ設クルコトヲ得

第三条 高等学校ハ其ノ附属トシテ低度ナル特別学科ヲ設クルコトヲ得

第四条 高等学校ニ於テ設クル所ノ学科及講座ノ数ハ文部大臣之ヲ定ム

附則

第五条 本令ハ明治二十七年九月十一日ヨリ施行ス但各高等学校ニ於テ学科ヲ設置スルノ時期ハ文部大臣之ヲ指定スヘシ

本令ヲ施行シ又一部ヲ施行スル所ノ高等学校ニ於テ高等中学校ノ学科ヲ履修スル年期内ニ在ル生徒ノ為ニ旧学科ヲ存スルコトヲ得

〇「(第2次)高等学校令」(大正7年12月6日勅令第369号)

第一条 高等学校ハ男子ノ高等普通教育ヲ完成スルヲ以テ目的トシ特ニ国民道徳ノ充実ニ力ムヘキモノトス

第二条 高等学校ハ官立、公立又ハ私立トス

第三条 高等学校ヲ設立スルコトヲ得ル公共団体ハ北海道及府県トス

第四条 私立高等学校ハ財団法人タルコトヲ要ス但シ特別ノ必要ニ因リ学校経営ノミヲ目的トスル財団法人カ其ノ事業トシテ之ヲ設立スル場合ハ此ノ限ニ在ラス

第五条 前条ノ財団法人ハ高等学校ニ必要ナル設備又ハ之ニ要スル資金及少クトモ高等学校ヲ維持スルニ足ルヘキ収入ヲ生スル基本財産ヲ有スルコトヲ要ス但シ其ノ基本財産ノ額ハ五十万円ヲ下ルコトヲ得ス
 基本財産中前項ニ該当スルモノハ現金又ハ国債証券其ノ他文部大臣ノ定ムル有価証券トシ之ヲ供託スヘシ

第六条 公立及私立ノ高等学校ノ設立廃止ハ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ

第七条 高等学校ノ修業年限ハ七年トシ高等科三年尋常科四年トス
 高等学校ハ高等科ノミヲ置クコトヲ得

第八条 高等学校高等科ヲ分チテ文科及理科トス

第九条 高等学校ニハ高等科ヲ卒リタル者ノ為ニ専攻科ヲ置クコトヲ得其ノ修業年限ハ一年トス
 専攻科ヲ卒リタル者ハ得業士ト称スルコトヲ得
 専攻科ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム

第十条 高等学校ニハ特別ノ必要アル場合ニ於テ予科ヲ置クコトヲ得但シ第七条第二項ノ高等学校ニ付テハ此ノ限ニ在ラス
 高等学校予科ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム

第十一条 高等学校尋常科ニ入学スルコトヲ得ル者ハ当該学校予科ヲ修了シタル者、尋常小学校ヲ卒業シタル者又ハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ之ト同等以上ノ学力アリト認メラレタル者トス

第十二条 高等学校高等科ニ入学スルコトヲ得ル者ハ当該学校尋常科ヲ修了シタル者、中学校第四学年ヲ修了シタル者又ハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ之ト同等以上ノ学力アリト認メラレタル者トス

第十三条 高等学校ノ生徒定数ハ高等科四百八十人尋常科三百二十人以内トシ第七条第二項ノ高等学校ニ在リテハ専攻科ヲ除キ六百人以内トス

第十四条 高等学校ニ於テハ同科同学年ノ生徒ヲ以テ学級ヲ編制スヘシ
 一学級ノ生徒定数ハ四十人以内トス

第十五条 高等学校ニ於テハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ学科目ノ種類ニ従ヒ学級ノ異ナル生徒ヲ合シテ同時ニ之ヲ教授スルコトヲ得

第十六条 高等学校ノ教員ハ文部大臣ノ授与シタル高等学校教員免許状ヲ有スル者タルコトヲ要ス但シ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ免許状ヲ有セサル者ヲ以テ之ニ充ツルコトヲ得
 高等学校教員免許状ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム

第十七条 高等学校ノ設備、編制、学科目及其ノ程度、教科書並生徒ノ入学及懲戒、授業料入学料等ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム

第十八条 公立及私立ノ高等学校ハ文部大臣ノ監督ニ属ス

第十九条 文部大臣ハ公立及私立ノ高等学校ニ対シ報告ヲ徴シ検閲ヲ行ヒ其ノ他監督上必要ナル命令ヲ為スコトヲ得

第二十条 本令ニ依ラサル学校ハ勅定規程ニ別段ノ定アル場合ヲ除クノ外高等学校ト称シ又ハ其ノ名称ニ高等学校タルコトヲ示スヘキ文字ヲ用ウルコトヲ得ス

附則

本令ハ大正八年四月一日ヨリ之ヲ施行ス
明治二十七年勅令第七十五号高等学校令及高等中学校令ハ之ヲ廃止ス
旧令ニ依ル高等学校ハ之ヲ本令ニ依ル高等学校トス
前項ノ高等学校ニハ当分ノ内第十三条ノ規定ヲ適用セス
高等学校大学予科ハ大正十八年八月三十一日マテ之ヲ存置ス

     「文部科学省ホームページ」より

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 今日は、奈良時代の781年(天応元)に、公卿・文人石上宅嗣の亡くなった日ですが、新暦では7月19日となります。
 石上宅嗣(いそのかみ の やかつぐ)は、729年(天平元)に、中納言石上乙麻呂の子として生まれましたが、才敏で姿、ようすがすぐれ、言語、動作が閑雅であったと伝えられてきました。751年(天平勝宝3)に従五位下に昇叙し、治部少輔となり、757年(天平勝宝9)には、従五位上に昇叙し、相模守となります。
 その後、759年(天平宝字3)に三河守、761年(天平宝字5)に上総守と地方官を歴任後、761年(天平宝字5)に遣唐副使となりましたが、翌年免ぜられ、藤原田麻呂と交替しました。763年(天平宝字7)に文部大輔となったものの、同年の藤原仲麻呂(恵美押勝)を除く藤原良継らの企てに参画し失敗、翌年に大宰少弐に左遷されています。
 しかし、同年の藤原仲麻呂の乱により恵美押勝が失脚すると復権し、正五位上(越階)に昇叙、常陸守となりました。それからの道鏡政権下では順調に昇進し、765年(天平神護元)に従四位下に昇叙し、中衛中将となり、翌年に参議となって公卿に列し、同年正四位下、768年(神護景雲2)には従三位に昇叙します。
 770年(神護景雲4)に称徳天皇が亡くなると、参議として藤原永手らと共に光仁天皇を擁立するに功があり、同年、兼大宰帥、翌年には兼式部卿となりました。771年(宝亀2)に中納言となり、775年(宝亀6)に石上朝臣から物部朝臣に改姓、777年(宝亀8)には兼中務卿となります。
 779年(宝亀10)に宣勅使として唐使をもてなし、779年(宝亀10)に石上大朝臣の姓を賜わり、780年(宝亀11日)には、大納言にまで進みました。一方、詩文と書にすぐれ、淡海三船と並び称された文人で、漢詩が『経国集』に収められ、和歌は『万葉集』に採られています。
 また、晩年は私邸に阿閦寺を建立し、その境内に芸亭(うんてい)と称する書斎を設けて公開し、日本における公開図書館の発祥とされてきました。781年(天応元)には、正三位に昇叙したものの、同年6月24日に、奈良平城京において数え年53歳で亡くなり、正二位を贈られています。
 以下に、『続日本紀』巻第三十六の天応元年(781年)6月24日の条の石上宅嗣と芸亭院の記述を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第三十六の天応元年6月24日の条の石上宅嗣の死去と芸亭院の記述

<原文>
大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨。詔贈正二位。宅嗣左大臣従一位麻呂之孫。中納言従三位弟麻呂之子也。性朗悟有姿儀。愛尚経史。多所渉覧。好属文。工草隷。勝寳三年授從五位下。任治部少輔。稍遷文部大輔。歴居内外。景雲二年至參議從三位。寳龜初。出爲大宰帥。居無幾遷式部卿。拜中納言。賜姓物部朝臣。以其情願也。尋兼皇太子傅。改賜姓石上大朝臣。十一年。轉大納言。俄加正三位。宅嗣辞容閑雅。有名於時。毎値風景山水。時援筆而題之。自宝字後。宅嗣及淡海真人三船為文人之首。所著詩賦数十首。世多伝誦之。捨其旧宅。以為阿閦寺。寺内一隅。特置外典之院。名曰芸亭。如有好学之徒。欲就閲者恣聴之。仍記条式。以貽於後。其略曰。内外両門本為一体。漸極似異。善誘不殊。僕捨家為寺。帰心久矣。為助内典。加置外書。地是伽藍。事須禁戒。庶以同志入者。無滞空有。兼忘物我。異代来者。超出塵労。帰於覚地矣。其院今見存焉。臨終遺教薄葬。薨時年五十三。時人悼之。

<読み下し文>

大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨ず。詔して正二位を贈る。宅嗣は左大臣従一位麻呂の孫、中納言従三位弟麻呂の子なり。性郎悟にして姿儀有り[1]。経史[2]を愛尚して渉覧[3]する所多し。好みて文を属り、草隷[4]を工にす。勝寳三年從五位下を授けられ、治部少輔に任す。稍く文部大輔に遷て、内外に歴居す[5]。景雲二年參議[6]從三位に至る。寳龜の初め、出て大宰の帥[7]と爲る。居ること幾も無くして式部卿[8]に遷る。中納言[9]を拜す。姓を物部朝臣と賜ふ。其の情願[10]を以てなり也。尋て皇太子の傅を兼ぬ。改めて姓を石上大朝臣と賜ふ。十一年、大納言[11]に轉し、俄に正三位を加へらる。宅嗣、辞容[12]閑雅[13]にして時に名有り。風景山水に値うごとに、時に筆を援きてこれを題す。宝字より後、宅嗣及び淡海真人三船[14]を文人の首となす。著す所の詩賦数十首、世多くこれを伝誦[15]す。其の旧宅を捨して以て阿閦寺[16]となし、寺内の一偶に特に外典[17]の院を置く。名けて芸亭[18]と日う。もし好学の徒有りて、就きて閲せんと欲する者は、恣にこれを聴す。仍りて条式[19]を記して後に貽す。其の略に日く。「内外の両門[20]は本一体たり。漸く極れば異なるに似たれども、善く誘けば殊ならず。僕家を捨して寺となし、心を帰すること久し。内典[21]を足すけんがために外書[22]を加え置く。地は是れ伽藍[23]、事須く禁戒[24]すべし。庶くは、同志を以て入る者は、空有[25]に滞ること無くして兼ねて物我[26]を忘れ、異代[27]に来たらん者は、塵労[28]を超出して覚地[29]に帰せんことを」と。其の院今見に存せり。臨終に遺教[30]して薄葬[31]せしむ。薨ずる時年五十三。時の人これを悼む[32]。

【注釈】

[1]姿儀有り:けいし=姿が整っている。風采が立派。
[2]経史:けいし=経書と史書。
[3]渉覧:しょうらん=いろいろと回って広く見る。多方面に通じる。
[4]草隷:そうれい=草書と隷書。転じて、書道。
[5]歴居す:そうれい=歴任する。
[6]參議:さんぎ=四位以上の位階を持つ廷臣の中から、才能のある者を選び、大臣と参会して朝政を参議させたもの。
[7]大宰の帥:だざいのそち=大宰府の長官。
[8]式部卿:しきぶきょう=式部省の長官。内外文官の名帳、考課、選叙、礼儀、版位、位記などをつかさどる。
[9]中納言:ちゅうなごん=令外の官。大納言に次ぎ、大臣と政事を議し、献替の任にあたる重職で、相当位は従三位。
[10]情願:じょうがん=実状を述べて願い出ること。心から願うこと。嘆願。懇願。
[11]大納言:だいなごん=太政官の次官にあたる要職で、天皇に近侍して庶政に参画し、大臣が参内しないときは代わって政務を行った。
[12]辞容:じよう=言葉や立ち居ふるまい。
[13]閑雅:かんが=しとやかで優雅なこと。また、そのさま。
[14]淡海真人三船:おうみのまひとみふね=奈良時代の文人(学者)で、大友皇子の曽孫、文章博士・大学頭などを歴任した。
[15]伝誦:でんしょう=代々伝えてとなえること。また、口から口へととなえ伝えること。
[16]阿閦寺:あしゅくじ=781年(天応元)に石上宅嗣が平城京付近にあった私邸を寺にしたもの。
[17]外典:げてん=仏教以外の教えを説く書籍。特に儒教の経典。
[18]芸亭:うんてい=日本最初の公開図書館で、石上宅嗣が私邸を阿閦寺とし、その一隅に図書を集め、好学の士に閲読させたもの。
[19]条式:じょうしき=規則。
[20]内外の両門:ないがいのりょうもん=仏教と儒教。
[21]内典:ないてん=仏教の典籍。
[22]外書:がいしょ=仏教以外の書籍。外典。
[23]伽藍:がらん=僧が集まり住んで、仏道を修行する、清浄閑静な場所。
[24]禁戒:きんかい=禁じ戒めること。また、おきて。法度。
[25]空有:くうう=実体のないことと、あること。
[26]物我:ぶつが=物と我。外物と自己。他者と自己。
[27]異代:いだい=異なった時代。別の世代。
[28]塵労:じんろう=俗世間での苦労。煩悩。
[29]覚地:かくち=迷いを脱して真理をつかむこと。また、事情をよく理解すること。気がつかなかったことに気づくこと。
[30]遺教:いきょう=死ぬときに残したことばや教訓。
[31]薄葬:はくそう=簡略にした葬儀。
[32]悼む:いたむ=人の死を悲しみ嘆く。

<現代語訳>

大納言正三位兼式部卿の石上大朝臣宅嗣が亡くなった。(光仁天皇)詔して正二位を贈る。宅嗣は左大臣・従一位麻呂の孫で、中納言従三位・弟麻呂の子である。賢明で悟りが早く、姿が整っている。経書と史書を愛読して、多方面に通じる所も多かった。好んで文章を作り、書道が巧みであった。天平勝宝3年(751年)に從五位下を授けられ、治部少輔に任じられた。しばらくして文部大輔に遷り、内外の官職を歴任した。神護景雲2年(768年)に参議・従三位に至る。宝亀の初め、出向して大宰の帥となる。在任わずかにして式部卿に遷って、中納言を拝命した。その懇願によって、物部朝臣の姓を賜わった。次に皇太子の傅を兼任し、改めて石上大朝臣の姓を賜わった。宝亀11年(780年)に大納言に昇進し、ほどなくして正三位を加へられる。宅嗣、言葉や立ち居ふるまいがしとやかで優雅で、当時は有名であった。風景山水に出会う度に、筆を執って詩文などの主題と成した。天平宝字の頃より後、宅嗣および淡海真人三船を文人の首座となした。著作するところの漢詩や賦は数十首あり、世間の多くで口から口へと唱え伝えられている。その旧宅を喜捨して阿閦寺となし、寺内の一偶に特別に仏教以外の教えを説く書籍のための院を設置し、芸亭と命名した。もし学問を志す者が有って、閲覧を欲したならば、自由にこれを許可し、そのために規則を決めて後世に残す。その概略として言っていることは、「仏教と儒教は根本は一つである。斬新的と極端の違いはあるといっても、よく導けば異なるものではない。自分の家を喜捨して寺とし、仏門に帰依してからも久しいが、仏教の典籍の理解を助けるために、仏教以外の書籍を加えて置いておく。この地は仏道を修行する、清浄閑静な場所であって、何事においても禁じ戒めるべきである。どうか、同じ志を持って入居した者は、実体のないこととあることを論じて滞ることなく、あわせて他者と自己を忘れ、別の世代として来た者は、俗世間での苦労を超越して真理をつかまんことを」と。その院は現在も存在している。臨終にあたって簡略にした葬儀にするようにと教え残した。亡くなったのは53歳であった。当時の人はこれを悲しみ嘆いた。

☆石上宅嗣関係略年表(日付は旧暦です)

・729年(天平元年) 中納言石上乙麻呂の子として生まれる
・751年(天平勝宝3年1月25日) 従五位下に昇叙する
・751年(天平勝宝3年日付不詳) 治部少輔となる
・757年(天平勝宝9年5月20日) 従五位上に昇叙する
・757年(天平勝宝9年6月16日) 相模守となる
・757年(天平勝宝9年日付不詳) 紫微少弼となる
・759年(天平宝字3年5月17日) 三河守となる
・761年(天平宝字5年1月16日) 上総守となる
・761年(天平宝字5年10月22日) 遣唐副使となる
・762年(天平宝字6年3月1日) 遣唐副使罷ぜられ、藤原田麻呂と交替する
・763年(天平宝字7年1月9日) 文部大輔となる
・763年(天平宝字7年) 藤原仲麻呂(恵美押勝)を除く藤原良継らの企てに参画する
・764年(天平宝字8年1月21日) 大宰少弐に左遷される
・764年(天平宝字8年9月) 藤原仲麻呂の乱により恵美押勝が失脚する
・764年(天平宝字8年10月3日) 正五位上(越階)に昇叙、常陸守となる
・765年(天平神護元年1月7日) 従四位下に昇叙する
・765年(天平神護元年2月8日) 中衛中将となる
・766年(天平神護2年1月8日) 参議となる
・766年(天平神護2年10月25日) 正四位下に昇叙する
・768年(神護景雲2年正月10日) 従三位に昇叙する
・768年(神護景雲2年10月24日) 綿4000屯を賜わる
・770年(神護景雲4年8月4日) 称徳天皇が亡くなると、参議として藤原永手らと共に光仁天皇を擁立する
・770年(神護景雲4年9月16日) 兼大宰帥となる
・771年(宝亀2年3月13日) 兼式部卿となる
・771年(宝亀2年11月23日) 中納言となる
・775年(宝亀6年12月25日) 石上朝臣から物部朝臣に改姓する
・777年(宝亀8年10月13日) 兼中務卿となる
・779年(宝亀10年) 宣勅使として唐使をもてなす
・779年(宝亀10年11月18日) 物部朝臣から石上大朝臣の姓を賜わる
・780年(宝亀11年2月1日) 大納言となる
・781年(天応元年) 平城京付近にあった私邸を阿閦寺とする
・781年(天応元年4月15日) 正三位に昇叙する
・781年(天応元年6月24日) 奈良平城京において数え年53歳で亡くなり、正二位を贈られる
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、「義勇兵役法」(昭和20年法律第39号)が公布・施行された日です。
 「義勇兵役法(ぎゆうへいえきほう」は、それまでの「兵役法」の徴兵対象を拡大して新たな兵役義務を課すした法律(昭和20年法律第39号)でした。太平洋戦争の末期に戦局が悪化し、本土決戦に備えるため、防空、警防、空襲被害の復旧などに全国民を動員するために、1945年(昭和20)3月23日に、小磯国昭内閣が「国民義勇隊組織ニ関スル件」として閣議決定し、まず国民義勇隊が組織されることとなり、同年6月には、既存の「大政翼賛会」、「大日本婦人会」、「大日本翼賛壮年団」、「大日本青少年団」などを解散のうえ統合します。地域では、町内会・部落会を単位小隊とする市町村国民義勇隊となり、職場では、官公署・工場・会社などを単位小隊とする職域国民義勇隊とされました。
 さらに6月23日には、この法律を公布・施行、「大東亞戰爭ニ際シ帝國臣民ハ兵役法ノ定ムル所ニ依ルノ外本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス」(第1条)とされ、16~61歳の男子、17~41歳の女子をもって「国民義勇戦闘隊」が編成され、「義勇召集ヲ免ルル爲逃亡シ若ハ潛匿シ又ハ身體ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作爲シ其ノ他詐僞ノ行爲ヲ爲シタル者ハ二年以下ノ懲役ニ處ス」(第7条)されます。そして、軍との協力、施設防護、情報通信連絡、軍道路補修等の支援に当たらされました。
 しかし、敗戦後の8月21日に閣議で義勇隊の廃止が決定され、9月2日に解散することになり、10月24日には、「軍事特別措置法廃止等ニ関スル件」(昭和20年勅令第604号)により、法律も廃止されています。
 以下に、「義勇兵役法」(昭和20年法律第39号)の全文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「義勇兵役法」(昭和20年法律第39号)1945年(昭和20)6月23日公布・施行

第一條 大東亞戰爭ニ際シ帝國臣民ハ兵役法ノ定ムル所ニ依ルノ外本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス

 本法ニ依ル兵役ハ之ヲ義勇兵役ト稱ス

 本法ハ兵役法ノ適用ヲ妨グルコトナシ

第二條 義勇兵役ハ男子ニ在リテハ年齡十五年ニ達スル年ノ一月一日ヨリ年齡六十年ニ達スル年ノ十二月三十一日迄ノ者(敕令ヲ以テ定ムル者ヲ除ク)、女子ニ在リテハ年齡十七年ニ達スル年ノ一月一日ヨリ年齡四十年ニ達スル年ノ十二月三十一日迄ノ者之ニ服ス

 前項ニ規定スル服役ノ期閒ハ敕令ノ定ムル所ニ依リ必要ニ應ジ之ヲ變更スルコトヲ得

第三條 前條ニ揭グル者ヲ除クノ外義勇兵役ニ服スルコトヲ志願スル者ハ敕令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ義勇兵ニ採用スルコトヲ得

 前項ノ規定ニ係ル義勇兵ノ服役ニ關シテハ敕令ノ定ムル所ニ依ル

第四條 六年ノ懲役又ハ禁錮以上ノ刑ニ處セラレタル者ハ義勇兵役ニ服スルコトヲ得ズ但シ刑ノ執行ヲ終リ又ハ執行ヲ受クルコトナキニ至リタル者ニシテ敕令ヲ以テ定ムルモノハ此ノ限ニ在ラズ

第五條 義勇兵ハ必要ニ應ジ敕令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ召集シ國民義勇戰闘隊ニ編入ス

 本法ニ依ル召集ハ之ヲ義勇召集ト稱ス

第六條 義勇兵役ニ關シ必要ナル調査及屆出ニ付テハ命令ノ定ムル所ニ依ル

第七條 義勇召集ヲ免ルル爲逃亡シ若ハ潛匿シ又ハ身體ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作爲シ其ノ他詐僞ノ行爲ヲ爲シタル者ハ二年以下ノ懲役ニ處ス

 故ナク義勇召集ノ期限ニ後レタル者ハ一年以下ノ禁錮ニ處ス

第八條 前條ノ規定ハ何人ヲ問ハズ帝國外ニ於テ其ノ罪ヲ犯シタル者ニモ亦之ヲ適用ス

第九條 國家總動員法第四條但書中兵役法トアルハ義勇兵役法ヲ含ムモノトス

附則

本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

       「ウィキソース」より

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 今日は、江戸時代後期の1853年(嘉永6)に、江戸幕府第12代将軍徳川家慶が亡くなった日ですが、新暦では7月27日となります。
 徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、1793年(寛政5年5月14日)に、江戸城内において、第11代将軍徳川家斉の次男(母はお楽の方)として生まれましたが、幼名は敏治郎と言いました。兄竹千代が夭折したので、将軍継嗣となり、1797年(寛政9)に従二位権大納言に叙任され、元服して家慶を名乗ります。
 1816年(文化13)に右近衛大将を兼任し、1822年(文政5)には、正二位内大臣に昇叙転任しました。1824年(文政7)に四男政之助(のちの第13代将軍徳川家定)が生まれ、1827年(文政10)には、従一位に昇叙します。
 1837年(天保8)に、45歳で父・家斉から譲られ、左大臣に転任して、第12代将軍となったものの、父が大御所として実権を握り続けました。その中で、1839年(天保10)に渡辺崋山、高野長英らを処罰する事件(蛮社の獄)が起きます。
 1841年(天保12)に、父・家斉が亡くなると、家斉側近を排し、水野忠邦を重用して天保の改革を断行させ、内憂外患の危機打開を図ろうとしました。「株仲間解散令」、遭難した船に限り薪水の給与を認める「天保の薪水給与令」、「人返しの法」、江戸・大坂周辺の大名・旗本領の幕府直轄領編入を目的とした「上知令」、「無利子年賦返済令」などを立て続けに発令します。
 しかし、急激にすぎて多くの反発を招き、2年余りで挫折、忠邦は失脚、その後、阿部正弘を老中首座に起用し、海防問題の難局に対処しました。しかし、1853年(嘉永6)にアメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ(黒船来航)、難局に直面する中、同年6月22日に、江戸城内において、数え年61歳で亡くなっています。

〇徳川家慶関係略年表(日付は旧暦です)

・1793年(寛政5年5月14日) 江戸城において、第11代将軍徳川家斉の次男(母はお楽の方)として生まれる
・1793年(寛政5年) 兄竹千代が夭折する
・1797年(寛政9年3月1日) 従二位権大納言に叙任、元服して家慶を名乗る
・1816年(文化13年4月2日) 右近衛大将を兼任する
・1822年(文政5年3月5日) 正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将の兼任元の如し
・1824年(文政7年4月8日) 四男政之助(のちの第13代将軍徳川家定)が生まれる
・1827年(文政10年3月18日) 従一位に昇叙し、内大臣右近衛大将元の如し
・1837年(天保8年9月2日) 左大臣に転任し、征夷大将軍・源氏長者宣下、右近衛大将は同日、世子徳川家定が兼任する
・1839年(天保10年) 渡辺崋山、高野長英らを処罰する(蛮社の獄)
・1841年(天保12年閏1月7日) 父・家斉が亡くなる
・1841年(天保12年5月15日) 享保・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、天保の改革が始まる
・1841年(天保12年12月13日) 最初の「株仲間解散令」が出される
・1842年(天保13年) 遭難した船に限り薪水の給与を認める「天保の薪水給与令」を発令する
・1843年(天保14年) 「人返しの法」が制定される
・1843年(天保14年) 江戸・大坂周辺の大名・旗本領の幕府直轄領編入を目的とした「上知令」を発令する
・1843年(天保14年) 「無利子年賦返済令」を発令する
・1853年(嘉永6年6月3日) アメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れる(黒船来航)
・1853年(嘉永6年8月21日) 正一位太政大臣を贈られる
・1853年(嘉永6年6月22日) 江戸城において、数え年年61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)戦時緊急措置法」が公布される(本土決戦に備えて政府に委任立法権を規定)詳細
1965年(昭和40)日本と大韓民国との間で、「日韓基本条約」が調印される詳細
1972年(昭和47)自然環境保全法」(昭和47年法律第85号)が制定・公布される詳細


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 今日は、江戸時代前期の1635年(寛永12)に、江戸幕府が改訂した「武家諸法度」(寛永令)19ヶ条を発布し、毎年4月の外様大名の参勤交代の義務化等をした日ですが、新暦では8月3日となります。
 「武家諸法度(ぶけしょはっと)」は、江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法で、最初のものは、1615年(慶長20年7月7日)に13ヶ条発布されました。しかし、その後状況の推移を踏まえ、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)として、一応の完成をみたものです。以下に、「武家諸法度(寛永令)」の全文を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。 

〇武家諸法度(ぶけしょはっと)とは?

 江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法です。天皇、公家に対する「禁中並公家諸法度」、寺家に対する「諸宗本山本寺諸法度」(寺院法度)と並んで、幕府による支配身分統制の基本となりました。
 1615年(慶長20)に大坂城落城による豊臣氏滅亡直後に伏見城に諸大名を集め、徳川秀忠の命という形で発布したのが最初となり、改元された年号を取って元和令とも呼ばれています。元々は1611年(慶長16)に徳川家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条に、家康の命によって金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草した10ヶ条を加えたもので、漢文体(宝永令から和文に改訂)となっていました。
 内容としては、一般的な規範や既に慣習として成立していた幕命などを基本法とし、「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事」を最初として、品行を正し、科人を隠さず、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、居城修理の申告を求め、私婚禁止、朝廷への参勤作法、衣服と乗輿の制、倹約、国主の人選について規定し、各条に注釈を付けています。
 その後、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)となり、一応の完成をみましたが、以後も時勢に応じて、寛文令(1663年)、天和令(1683年)、宝永令(1710年)と部分改訂が行われてきました。第8代将軍徳川吉宗のとき、宝永令を廃止して第5代将軍徳川綱吉の時の15ヶ条(天和令)への全面的な差し戻しをしてからは、幕末までほぼこれによることになります。
 将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ、違反者は厳罰に処されてきました。特に初期には、この違反を理由に、たびたび大名の改易が起きています。

〇「武家諸法度(寛永令)」 (全文) 1635年(寛永12年6月21日)発布 19ヶ条

<原文>

一、文武弓馬之道專可相嗜事、左文右武、古法也、不可不兼備矣、弓馬是武家之要樞也、號兵爲凶器、不得已而用之、治不忘亂、何不勵修錬乎     
一、大名、小名在江戸交替所相定也、毎年四月中可致參勤、從者員數近來甚多、且國郡之費且人民之勞也、向後以其相應、可減少之、但上洛之節者、任敎令、公役者可隨分限事
一、新儀之城郭搆營堅禁止之、居城之隍壘石壁以下敗壞之時者、達奉行所、可受其旨也、櫓塀門等之分者、如先規可修補事
一、於江戸幷何國、縱令何等之事雖有之、在國之輩者守其所、可相待下知事
一、雖於何所行刑罰、役者之外不可出向、但可任撿使之左右事
一、企新儀、結徒黨、成誓約之儀制禁事
一、諸國主幷領主等不可致私諍論、平日須加謹愼也、若有可及遲滯之儀、達奉行所、可受其旨事
一、國主、城主、壹万石以上幷近習、物頭者、私不可結婚姻事
一、音信贈答嫁娶之儀式或饗應或家宅營作等、當時甚至華麗、自今以後、可爲簡略、其外万事可用儉約事
一、衣裳之科不可混亂、白綾公卿以上、白小袖諸大夫以上聽之、紫袷、紫裏、練、無紋之小袖、猥不可着之、至諸家中郎從諸卒者、綾羅錦繡之飾服、非古法、令制禁事
一、乘輿者、一門之歴々、國主、城主、壹万石以上幷國大名之息、城主曁侍從以上之嫡子、或歳五十以上或醫陰兩道、病人免之、其外禁濫吹、但免許之輩者各別也、至于諸家中者、於其國撰其人、可乘之、公家、門跡、諸出世之衆制外之事
一、本主之障有之者不可相拘、若有反逆殺害人之告者、可返之、向背之族者或返之、或可追出事
一、陪臣質人所獻之者、可及追放死刑時、可伺 上意、若於當座、有難遁儀、斬戮之者、其子細可言上事
一、知行所務淸廉沙汰之、不致非法、國郡不可令衰弊事
一、道路驛馬舟梁等無斷絶、不可令致往還之停滯事
一、私關所、新法之津留、制禁事
一、五百石積以上之船停止事
一、諸國散在之寺社領、自古至*今所附來、向後不可取放事
一、万事如江戸之法度、於國々所々可遒行事
  右條々、准當家先例之旨、今度潤色而定之訖、堅可相守者也

    寛永十二年六月廿一日

                   『近世法制史料叢書 第二』より

    *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

一、文武弓馬ノ道[1]、専相嗜ベキ事。文ヲ左ニシ武ヲ右ニスルハ、古ノ法也。兼備セサルヘカラス、弓馬ハ是レ武家ノ要枢也。兵ヲ号ンデ凶器トナス、已ムヲ得スシテ之ヲ用フ。治ニ乱ヲ忘レズ、何ゾ修錬ヲ励マサランヤ。
一、大名・小名[2]在江戸交替[3]相定ムル所ナリ。毎歳夏四月[4]中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費[5]、且ハ人民ノ労ナリ。向後[6]ソノ相応[7]ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限[8]ニ随フベキ事。
一、新規ノ城郭構営[9]ハ堅クコレヲ禁止ス。居城ノ隍塁[10]・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ。櫓・塀・門等ノ分ハ、先規ノゴトク修補[11]スベキ事。
一、江戸ナラビニ何国ニ於テタトヘ何篇[12]ノ事コレ有ルトイヘドモ、在国ノ輩ハソノ処ヲ守リ、下知相待ツベキ事。
一、何所ニ於テ刑罰ノ行ハルルトイヘドモ、役者ノ外出向スベカラズ。但シ検使[13]ノ左右ニ任セルベキ事。
一、新儀ヲ企テ徒党ヲ結ビ[14]誓約ヲ成スノ儀、制禁ノ事。
一、諸国主[15]ナラビニ領主等私ノ諍論致スベカラズ。平日須ク謹慎ヲ加フルベキナリ。モシ遅滞ニ及ブベキノ儀有ラバ、奉行所ニ達シソノ旨ヲ受クベキ事。
一、国主[15]・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ[16]婚姻ヲ結ブベカラザル事。
一、音信[17]・贈答・嫁娶リ儀式、或ハ饗応[18]或ハ家宅営作等、当時甚ダ華麗ノ至リ、自今以後簡略タルベシ。ソノ外万事倹約ヲ用フルベキ事。
一、衣装ノ品混乱スベカラズ。白綾[19]ハ公卿以上、白小袖[20]ハ諸大夫以上コレヲ聴ス。紫袷・紫裡・練・無紋ノ小袖[20]ハ猥リニコレヲ着ルベカラズ。諸家中ニ至リ郎従・諸卒ノ綾羅錦繍[21]ノ飾服ハ古法ニ非ズ、制禁セシムル事。
一、乗輿ハ、一門ノ歴々・国主[15]・城主・一万石以上ナラビニ国大名ノ息、城主オヨビ侍従以上ノ嫡子、或ハ五十歳以上、或ハ医・陰ノ両道、病人コレヲ免ジ、ソノ外濫吹[22]ヲ禁ズ。但シ免許ノ輩ハ各別ナリ。諸家中ニ至リテハ、ソノ国ニ於テソノ人ヲ撰ビコレヲ載スベシ。公家・門跡[23]・諸出世ノ衆ハ制外ノ事。
一、本主ノ障リコレ有ル者相抱エルベカラズ。モシ反逆・殺害人ノ告ゲ有ラバコレヲ返スベシ。向背[24]ノ族ハ或ハコレヲ返シ、或ハコレヲ追ヒ出スベキ事。
一、陪臣ノ質人ヲ献ズル所ノ者、追放・死刑ニ及ブベキ時ハ、上意ヲ伺フベシ。モシ当座ニ於テ遁レ難キ儀有ルニオイテコレヲ斬戮[25]スルハ、ソノ子細言上スベキ事。
一、知行所務清廉[26]ニコレヲ沙汰シ、非法致サズ、国郡衰弊[27]セシムベカラザル事。
一、道路・駅馬・舟梁等断絶無ク、往還ノ停滞ヲ致サシムベカラザル事。
一、私ノ関所・新法ノ津留メ[28]制禁ノ事。
一、五百石以上ノ船[29]、停止ノ事。
一、諸国散在寺社領、古ヨリ今ニ至リ附ケ来ル所ハ、向後[6]取リ放ツ[30]ベカラザル事。
一、万事江戸ノ法度[31]ノゴトク、国々所々ニ於テコレヲ遵行[32]スベキ事。
 右條々ハ、當家先例之旨ニヨル、今度潤色[33]而シテ之ヲ定メルニイタル、堅ク相守ルベキ者也。

  寛永十二年六月廿一日

【注釈】

[1]文武弓馬ノ道:ぶんぶきゅうばのみち=学問や武術。
[2]小名:しょうみょう=領地・禄高の少ない大名のことで江戸時代初期に用いられた。
[3]在江戸交替:ざいえどこうたい=在は大名の領地(国元)をいい、江戸との参勤交代の意味。
[4]夏四月:なつしがつ=旧暦では夏は4月~6月まで。
[5]国郡ノ費:こくぐんのついえ=領国の財政の無駄。
[6]向後:きょうこう=今後。
[7]相応:そうおう=大名の格式、家格に応じての意味。
[8]分限:ぶんげん=その人の社会的身分、地位。
[9]新儀ノ城郭構営:しんぎのじょうかくこうえい=新たに築城すること。
[10]隍塁:こうるい=濠と土塁。
[11]修補:しゅうほ=修理。
[12]何篇:いずれのへん=変事。
[13]検使:けんし=殺傷・変死の現場に出向いて調べること。また、その役人。
[14]徒党ヲ結ビ:ととうをむすび=仲間、団体、一味などを集めて団結する。
[15]国主:こくしゅ=国持大名のことだが、ここでは諸大名の意味。
[16]私ニ:わたくしに=私的に。公儀の許可なく、勝手に。
[17]音信:いんしん=便りをすること。便り。また、手紙や訪問によってよしみを通じること。
[18]饗応:きょうおう=酒や料理をとりそろえてもてなすこと。馳走すること
[19]白綾:しらあや=白地の綾織物。
[20]小袖:こそで=袖口の小さく縫いつまっている衣服。
[21]綾羅錦繍:りょうらきんしゅう=あやぎぬとうすぎぬと錦(にしき)と刺繍のある布。
[22]濫吹:らんすい=無能の者が才能のあるように装うこと。また、過分な地位にあること。
[23]門跡:もんぜき=皇族・貴族の子弟が出家して、入室している特定の寺格の寺家・院家。また、その寺家・院家の住職。
[24]向背:きょうはい=従うこととそむくこと。従ったりそむいたりすること。
[25]斬戮:ざんりく=斬殺、殺戮。
[26]清廉:せいれん=心が清く私欲のないこと。行ないがいさぎよく、私利私欲をはかる心がないこと。また、そのさま。
[27]衰弊:すいへい=勢いなどがおとろえ弱ること。
[28]津留メ:つどめ=領主が米穀その他の物資の他領との移出入を制限・停止したこと。多くが港で行なわれた。
[29]五百石以上ノ船:ごひゃっこくいじょうのふね=米500石(約75トン)以上を積むことが出来る船。
[30]取リ放ツ:とりはなつ=取り上げる。剝奪する。
[31]法度:はっと=法令。
[32]遵行:じゅんぎょう=従い行う。遵守。
[33]潤色:じゅんしょく=補うこと。加筆すること。

<現代語訳>  

一、学問や武術をみがくことにひたすら励むべきこと。文武両道に励むことは、昔からの法である。文武両道を兼備しなければならない。武術は武家の要となることである。兵をさけんで凶器となる、やむを得ずしてこれを用いる。治に乱を忘れない、どうして修錬を励まないでいいことがあろうか。
一、大小の大名は、国元と江戸との間を交代勤務することを定める。毎年夏の4月中に参勤せよ。従者の数が近年非常に多く、領国の財政の無駄や領民の負担となる。今後はその大名の格式、家格に応じて人数を減少せよ。ただし、上洛の際は定めの通り、役一、目は身分にふさわしいものにすること。
一、新たに築城することは厳禁する。居城の濠や土塁、石垣などが壊れた時は、奉行所に申し出て指示を仰ぐこと。櫓、塀、門などは先の規則(元和令)に従って修理すること。
一、江戸を゜はじめいかなる国において、どのような事件が起こったとしても、両国にいる者はその場所を守り、幕府からの命令を待つこと。
一、どこかで刑罰が執行されもといっても、担当者以外は出向いてはならない。ただし、検使の指図には任せること。
一、新たなものを企て、仲間を集め、誓約を取り交わすようなことは禁止すること。
一、諸国の大名や領主等は私闘をしてはならない。日頃から謹んでおくこと。もし、うまくいかないことが起きた場合は、奉行所に届け出て、その指示を受けるべきこと。
一、国持・城持・一万石以上の大名、ならびに近習・物頭は、公儀の許可なく、勝手に結婚してはならないこと。
一、よしみを通じたり、品物などの贈答、結婚の儀式、酒や料理をとりそろえてのもてなしや屋敷の建設などが最近華美になってきているので、今後は簡略化すること。その他もすべてにおいて倹約に心掛けること。
一、衣装の身分によるしきたりを乱れさせてはならない。白地の綾織物は公卿以上、白地の小袖は大夫以上に許す。紫袷・紫裡・練・無紋の小袖は、みだりにこれを着用してはならない。諸々の家中の下級武士が綾羅や錦の刺繍のある服を着用するのは古くからのしきたりには無いので、禁止とすること。
一、輿を使える者は、徳川一門、国持・城持・一万石以上の大名、ならびに国持大名の息子、城持大名、侍従以上の嫡子、あるいは50歳以上の者、あるいは医者、陰陽道の者、病人はこれを許可するが、その他が身分を装って使用することは禁止する。ただし許可を得た者は特別とする。諸家中においては、その国内で使える人を選んで定めること。公家・門跡・その他身分の高い者は、その定めの例外とすること。
一、元の主人から障害があるとされた者を家来として召し抱えてはならない。もし反逆者・殺人者とわかったならば元の主人へ返せ。動静がはっきりしない者は元の主人へ返すか、またはこれを追放すべきこと。
一、幕府に人質を出している家臣を追放・死刑に処する際には、公儀の意向を伺うこと。もし急遽回避することができない事態に至り、これを斬殺した際には、その詳細を報告すべきこと。
一、領地での政務は心清く私欲なく行い、違法なことをせず、国郡の勢いを衰え弱らせてはならないこと。
一、道路、駅の馬、船や橋などを途絶えさせることなく、往来を停滞させてはならないこと。
一、私設の関所を設置したり、新法を制定して物資の他領との移出入を制限・停止してはならないこと。
一、500石積み以上の船を造ってはならないこと。
一、諸国に散在する寺社の領地で昔から現在まで所有しているところは、今後取り上げてはならないこと。
一、全て江戸幕府の法令のごとく、どこにおいてもこれを遵守すべきこと。
  右の条文は、当家先例の趣旨に従い、この度加筆訂正してこれを定めるに至る、堅く守るべきものである。

  寛永12年(1635年)6月21日

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