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 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、写真家秋山庄太郎の生まれた日です。
 秋山庄太郎(あきやま しょうたろう)は、東京市神田区(現・東京都千代田区神田)で、青果仲買業を営む父・石塚富三の子として生まれましたが、すぐ富三の姉の秋山まさの養子となりました。13歳の時カメラを買ってもらって初めて写真を撮り、1938年(昭和13)に旧制東京府立第八中学校(現在の東京都立小山台高等学校)卒業後、第一早稲田高等学院に入学、写真部に入ります。
 早稲田大学商学部へ進み、1943年(昭和18)には、学生時代に女性や子供や花を撮った写真集『翳(かげ)』を卒業記念に自費出版し、卒後東京田辺製薬に入社しました。同年に、召集され中国の戦地に赴きましたが、中国大陸各地を転戦するなどして終戦を迎えます。
 戦後の1946年(昭和21)にローライフレックスを購入し、東京都京橋区銀座(現・中央区銀座)で稲村隆正らと写真館「秋山写真工房」を開設したものの、客がこず1年ほどで閉鎖となり、近代映画社写真部に入社しました。同年に林・石津良介らと写真集団「銀龍社」を結成、1950年(昭和25)には、日本写真家協会の創立会員となります。
 1953年(昭和28)に、「銀龍社」が発展、二科会写真部を創立して会員となりました。1955年(昭和30)に、東京都港区麻布今井町(現・港区六本木)にスタジオを構え、原節子などの女優を中心に撮影、1958年(昭和33)には、日本広告写真家協会創立会員となります。
 翌年の雑誌『週刊文春』の表紙撮影を皮切りに、1970年代にかけて『週刊サンケイ』『週刊現代』『週刊ポスト』などの各雑誌の表紙撮影を長期にわたって行いました。1966年(昭和41)に日本写真専門学院(現・日本写真芸術専門学校)の講師に就任、1971年(昭和46)には、株式会社秋山写真工房を設立し初代社長となり、日本広告写真家協会会長、日本写真家協会常務理事にも就きます。
 1974年(昭和49)には、講談社出版文化賞を受賞、1979年(昭和54)に、日本写真専門学院の院長に就任、1980年(昭和55)に、「花の会」を高橋扶臣男らと結成し会長となり、1982年(昭和57)には、日本写真専門学院が日本写真芸術専門学校となり初代校長となりました。1986年(昭和61)に、紫綬褒章受章、1990年(平成2)に日本写真家協会名誉会長、1993年(平成5)に勲四等旭日小綬章受章、1994年(平成6)には、全日本写真連盟副会長に就任、日本デザイナー学院校長就任するなど数々の栄誉にも輝きます。
 1997年(平成9)には、日本写真協会副会長に就任しましたが、2003年(平成15)1月16日に、心筋梗塞のため倒れ、東京都中央区の病院において、82歳で亡くなりました。

〇秋山庄太郎の主要な著作

・作品集『翳(かげ)』(1943年)
・作品集『おんな・おとこ・ヨーロッパ』(1960年)
・作品集『花・女』(1970年)
・作品集『薔薇(ばら)』(1974年)
・作品集『蝸牛の軌跡』(1974年)
・作品集『作家の風貌―159人』(1978年)
・作品集『花舞台』(1987年)
・作品集『薔薇よ!―Rose 365』(1997年)
・作品集『昭和の美女』

☆秋山庄太郎関係略年表

・1920年(大正9)6月8日 東京市神田区(現・東京都千代田区神田)に生まれる
・1938年(昭和13) 旧制東京府立第八中学校(現:東京都立小山台高等学校)卒業、第一早稲田高等学院に入学し写真部に入る
・1943年(昭和18) 早稲田大学商学部を卒業し、東京田辺製薬に入社。大学卒業の記念に自費出版にて処女作品集『翳』を発表、この資金作りのため愛用のローライコードを手放す
・1943年(昭和18) 召集され中国の戦地に赴く
・1946年(昭和21) 終戦後6500円でローライフレックスを購入し、東京都京橋区銀座(現・中央区銀座)で稲村隆正らと写真館「秋山写真工房」を開設する
・1947年(昭和22) 借金が嵩み秋山写真工房を解散、林忠彦の推薦で近代映画社写真部に入社する
・1947年(昭和22) 林・石津良介らと写真集団「銀龍社」を結成する
・1950年(昭和25) 日本写真家協会の創立会員となる
・1951年(昭和26) 近代映画社を退社し独立。フリーカメラマンとなる。林忠彦と「二人展」(東京銀座・松島ギャラリー)を開き、注目を集める
・1953年(昭和28) 林忠彦・早田雄二・大竹省二と共に二科会写真部の創立会員となる
・1955年(昭和30) 東京都港区麻布今井町(現・港区六本木)にスタジオを構え、原節子などの女優を中心に撮影する
・1956年(昭和31) 女性写真家集団の「ギネ・グルッペ」を結成する
・1958年(昭和33) 日本広告写真家協会創立会員となる
・1959年(昭和34) 雑誌『週刊文春』の表紙撮影を開始する
・1961年(昭和36) 日本広告写真家協会展・ADC賞を受賞する
・1966年(昭和41) 日本写真専門学院(現・日本写真芸術専門学校)の講師となった。この頃より花の写真をメインに手がけるようになる
・1971年(昭和46) 株式会社秋山写真工房を設立し初代社長となった。日本広告写真家協会会長、日本写真家協会常務理事に就任する
・1972年(昭和47) 日本写真家協会監事となる
・1974年(昭和49) 講談社出版文化賞を受賞する
・1979年(昭和54) 日本写真専門学院の院長に就任。日本広告写真家協会会長を辞任し名誉会長となる
・1980年(昭和55) 「花の会」を高橋扶臣男らと結成し会長となる
・1982年(昭和57) 日本写真専門学院が日本写真芸術専門学校となり初代校長となる
・1986年(昭和61) 紫綬褒章を受章する
・1990年(平成2) 日本写真家協会名誉会長となる
・1993年(平成5) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1994年(平成6) 全日本写真連盟副会長に就任。日本デザイナー学院校長就任する
・1997年(平成9) 日本写真協会副会長に就任する
・2003年(平成15)1月16日 心筋梗塞のため倒れ、東京都中央区の病院に搬送されたが、82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1799年(寛政11)絵師長沢蘆雪の命日(新暦7月10日)詳細
1945年(昭和20)御前会議採択の「今後採るべき戦争指導の基本大綱」で本土決戦方針を決定する詳細
1985年(昭和60)大鳴門橋が開通する(大鳴門橋開通記念日)詳細