ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年05月

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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、文部省編纂『国体の本義』が発行され、全国の学校等へ配布された日です。
 『国体の本義(こくたいのほんぎ)』は、文部省教学局が天皇中心の国体護持の立場から編集・発行した国民教化用の出版物でした。1935年(昭和10)1月、帝国議会の貴族院が美濃部達吉の天皇機関説を「不敬の学説」とする議論を行ない、その排撃運動が国体明徴運動にまで発展します。
 その中で、反天皇機関説の立場で、文部省が独自に国体論の教材として編纂に着手したものでした。同年11月に、文部大臣の諮問機関として「教学刷新評議会」を設置し、国体観念に基づく教育・学問の改編方策を検討します。
 1936年(昭和11)10月の答申前に、思想局長伊東延吉の主導のもと、思想課長小川義章、国民精神文化研究所員志田延義等を中心として、省内外の委員を加えた編纂委員会が組織され、この本の編纂が開始されました。その内容は、「諸言」、「大日本国体」、「国史に於ける国体の顕現」、「結語」で構成され、『古事記』や『日本書紀』の引用を多用して、冒頭で神勅や万世一系を強調し、国体明徴運動の理論的な意味づけ、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。」と国体を定義しています。
 その上で、共産主義や無政府主義を否定するだけでなく、民主主義や自由主義も国体にそぐわないものとし、西洋近代思想を激しく排撃しました。また、共産主義、ファシズム、ナチズムなどが起こった理由として個人主義の行き詰まりを挙げています。
 1937年(昭和12)5月31日に発行し、全国の学校等へ配布、続いて、1941年(昭和16)7月21日に、『臣民の道』を刊行、これらは、太平洋戦争下の国民の精神生活を規制した基本的文献であったとされてきました。太平洋戦争後、1945年(昭和20)12月15日、占領下において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件(神道指令)」(SCAPIN-448)によって、『臣民の道』と共にその頒布が禁止されています。
 以下に、『国体の本義』の緒言の部分だけ掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『国体の本義』文部省編纂 1937年(昭和12)5月31日発行

 緒  言

 我が国は、今や国運頗る盛んに、海外発展のいきほひ著しく、前途弥々多望な時に際会してゐる。産業は隆盛に、国防は威力を加へ、生活は豊富となり、文化の発展は諸方面に著しいものがある。夙に支部・印度に由来する東洋文化は、我が国に輸入せられて、惟神(かむながら)の国体に醇化せられ、更に明治・大正以来、欧米近代文化の輸入によつて諸種の文物は顕著な発達を遂げた。文物・制度の整備せる、学術の一大進歩をなせる、思想・文化の多彩を極むる、万葉歌人をして今日にあらしめば、再び「御民(みたみ)吾(われ)生ける験(しるし)あり天地(あめつち)の栄ゆる時にあへらく念(おも)へば」と謳ふであらう。明治維新の鴻業により、旧来の陋習を破り、封建的束縛を去つて、国民はよくその志を途げ、その分を竭くし、爾来七十年、以て今日の盛事を見るに至つた。
 併しながらこの盛事は、静かにこれを省みるに、実に安穏平静のそれに非ずして、内に外に波瀾万丈、発展の前途に幾多の困難を蔵し、隆盛の内面に混乱をつつんでゐる。即ち国体の本義は、動もすれば透徹せず、学問・教育・政治・経済その他国民生活の各方面に幾多の欠陥を有し、伸びんとする力と混乱の因とは錯綜表裏し、燦然たる文化は内に薫蕕(くんいう)を併せつゝみ、こゝに種々の困難な問題を生じてゐる。今や我が国は、一大躍進をなさんとするに際して、生彩と陰影相共に現れた感がある。併しながら、これ飽くまで発展の機であり、進歩の時である。我等は、よく現下内外の真相を把握し、拠つて進むべき道を明らかにすると共に、奮起して難局の打開に任じ、弥々国運の伸展に貢献するところがなければならぬ。
 現今我が国の思想上・社会上の諸弊は、明治以降余りにも急激に多種多様な欧米の文物・制度・学術を輸入したために、動もすれば、本を忘れて末に趨り、厳正な批判を欠き、徹底した醇化をなし得なかつた結果である。抑々我が国に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て国家や民放を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。従つてそこには歴史的全体より孤立して、抽象化せられた個々独立の人間とその集合とが重視せられる。かゝる世界観・人生観を基とする政治学説・社会学説・道徳学説・教育学説等が、一方に於て我が国の諸種の改革に貢献すると共に、他方に於て深く広くその影響を我が国本来の思想・文化に与へた。
 我国の啓蒙運動に於ては、先づ仏蘭西啓蒙期の政治哲学たる自由民権思想を始め、英米の議会政治思想や実利主義・功利主義、独逸の国権思想等が輸入せられ、固陋な慣習や制度の改廃にその力を発揮した。かゝる運動は、文明開化の名の下に広く時代の風潮をなし、政治・経済・思想・風習等を動かし、所謂欧化主義時代を現出した。然るにこれに対して伝統復帰の運動が起つた。それは国粋保存の名によつて行はれたもので、澎湃たる西洋文化の輸入の潮流に抗した国民的自覚の現れであつた。蓋し極端な欧化は、我が国の伝統を傷つけ、歴史の内面を流れる国民的精神を萎靡せしめる惧れがあつたからである。かくて欧化主義と国粋保存主義との対立を来し、思想は昏迷に陥り、国民は、内、伝統に従ふべきか、外、新思想に就くべきかに悩んだ。然るに、明治二十三年「教育ニ関スル勅語」の渙発せられるに至つて、国民は皇祖皇宗の肇国樹徳の聖業とその履践すべき大道とを覚り、こゝに進むべき確たる方向を見出した。然るに欧米文化輸入のいきほひの依然として盛んなために、この国体に基づく大道の明示せられたにも拘らず、未だ消化せられない西洋思想は、その後も依然として流行を極めた。即ち西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎へられ、又続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた。
 抑々社会主義・無政府主義・共産主義等の詭激なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その発現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする欧米に於ても、共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換との時期を将来してゐるといふことが出来る。久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、真に我が国独自の立場に還り、万古不易の国体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米文化の摂取醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すべきである。即ち今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。こゝに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「国体の本義」を編纂して、肇国の由来を詳にし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て国民の自覚と努力とを促す所以である。
        「国立国会図書館デジタルコレクション」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1943年(昭和18)御前会議において「大東亜政略指導大綱」が決定される詳細
1944年(昭和19)俳人・翻訳家・新聞記者嶋田青峰の命日(青峰忌)詳細
1974年(昭和49)写真家木村伊兵衛の命日詳細
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 今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)に、俳人杉田久女の生まれた日です。
 杉田久女(すぎた ひさじょ)は、鹿児島県鹿児島市で、大蔵省書記官の父・赤堀廉蔵と妻・さよの三女として生まれましたが、本名は久(ひさ)と言いました。12歳になるまで、父の転勤に伴って、沖縄県那覇市、台湾嘉義県、台北市と移住して過ごしますが、俳人赤堀月蟾の妹として幼くして句作になじみます。
 1908年(明治41)に、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属高等学校)を卒業、翌年には、旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で画家の杉田宇内と結婚し、九州の小倉へ移住しました。1911年(明治44)に長女の昌子が誕生、1916年(大正5)に次女の光子が誕生した頃から、小説家志望をあきらめ、投句を始めます。
 1917年(大正6)に「ホトトギス」1月号に初めて出句、同年5月に飯島みさ子邸での句会で初めて高浜虚子に出会い、師事するようになりました。1920年(大正9)に腎臓病を患い離婚話が持ち上がったものの、1922年(大正11)には、夫婦揃って洗礼を受けクリスチャンとなります。
 1931年(昭和6)に「谺して山ほととぎすほしいまま」で、帝国風景院賞金賞20句に入選、翌年には、女性だけの俳誌「花衣」を創刊し主宰しましたが、5号で廃刊となりました。同年10月に中村汀女・竹下しづの女などとともに「ホトトギス」同人となったものの、1936年(昭和11)には、理由不明のまま、日野草城、吉岡禅寺洞とともに「ホトトギス」同人を除名されています。
 その後も投句を続けましたが、1939年(昭和14)に「俳句研究」7月号掲載の「プラタナスと苺」42句以降発表作が途絶えました。晩年は神経を病み、太平洋戦争後の1945年(昭和20)10月、食料難により栄養障害を起こし福岡県立筑紫保養院に入院、翌年1月21日に腎臓病の悪化により、同院において、55歳で亡くなっています。
 尚、長女の石昌子によって、1952年(昭和27)に『久女句集』、1968年(昭和43)に『久女文集』が出版されました。

<代表的な句>

・「谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまゝ」帝国風景院賞金賞受賞
・「足袋つぐや ノラともならず 教師妻」(杉田久女句集)
・「花衣ぬぐや まつはる紐 いろ/\」
・「紫陽花に 秋冷いたる 信濃かな」
・「朝顔や 濁り初めたる 市の空」

〇主要な著作

・『久女句集』(1952年 角川書店)
・『久女文集』石昌子編(1968年 私家版)
・『杉田久女句集』石昌子編 角川書店 1969
・『杉田久女遺墨』石昌子編(1980年、東門書屋)
・『杉田久女全集』全2巻(1989年、立風書房)
・『続・杉田久女遺墨』(1992年、立風書房)
・『杉田久女随筆集』(2003年 講談社文芸文庫)

☆杉田久女関係略年表

・1890年(明治23)5月30日 鹿児島県鹿児島市で、大蔵省書記官の父・赤堀廉蔵と妻・さよの三女として生まれる
・1902年(明治35) 東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)附属高等女学校に入学する
・1908年(明治41) 東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)附属高等女学校を卒業する
・1909年(明治42)8月 旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で画家の杉田宇内と結婚し、小倉に移住する
・1911年(明治44) 長女の昌子が誕生する
・1916年(大正5) 次女の光子が誕生する、投句を始める
・1917年(大正6) 「ホトトギス」1月号に初めて「鯛を料るに俎板せまき師走かな」を出句する
・1917年(大正6)5月 飯島みさ子邸での句会で初めて高浜虚子に出会う
・1920年(大正9) 腎臓病を患い離婚話が持ち上がる
・1922年(大正11) 夫婦揃って洗礼を受けクリスチャンとなる
・1931年(昭和6) 大阪毎日新聞社、東京日日新聞社共催の「日本新名勝俳句」に応募し、「谺して山ほととぎすほしいまゝ」が帝国風景院賞金賞20句に入選する
・1932年(昭和7)3月 女性だけの俳誌「花衣」を創刊し主宰する
・1932年(昭和7)9月 俳誌「花衣」を5号で廃刊とする
・1932年(昭和7)10月 中村汀女・竹下しづの女などとともに「ホトトギス」同人となる
・1936年(昭和11)10月 理由不明のまま、日野草城、吉岡禅寺洞とともに「ホトトギス」同人を除名される
・1939年(昭和14) 全句を書き出して自選を行い俳人としての人生を総括する
・1939年(昭和14) 「俳句研究」7月号掲載の「プラタナスと苺」四二句以降発表作が途絶える
・1945年(昭和20)10月 太平洋戦争後の食料難により栄養障害を起こし福岡県立筑紫保養院に入院する
・1946年(昭和21)1月21日 腎臓病の悪化により、福岡県立筑紫保養院において、55歳で亡くなる
・1952年(昭和27) 没後、『久女句集』(角川書店)が出版される
・1968年(昭和43) 『久女文集』(私家版)が出版される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1950年(昭和25)文化財保護法」が公布される(文化財保護法公布記念日)詳細
1968年(昭和43)「消費者保護基本法」が公布される詳細
2006年(平成18)映画監督・脚本家今村昌平の命日詳細


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 今日は、昭和時代後期の1981年(昭和56)に、日本で7番目の地下鉄として、京都市営地下鉄が開業(烏丸線北大路駅~京都駅間)した日です。
 京都市営地下鉄(きょうとしえいちかてつ)は、京都市交通局が運営する地下鉄で、現在烏丸線と東西線の2つの路線があります。1968年(昭和43)に京都市内の交通渋滞の緩和をめざして地下鉄計画が始まり、1974年(昭和49)にまず烏丸線が着工されました。7年後の1981年(昭和56)5月29日に、初めて烏丸線の北大路駅~京都駅間が開業します。
 その後、1988年(昭和63)に京都駅~竹田駅間、1990年(平成2)に北山駅~北大路駅間と烏丸線が延伸開業していきました。1997年(平成9)に東西線の初めとして醍醐駅~二条駅間が開業、1997年(平成9)に烏丸線の国際会館駅~北山駅間が開業し、烏丸線が全線開通します。
 さらに、2004年(平成16)に東西線の六地蔵駅~醍醐駅間、2008年(平成20)に東西線の二条駅~太秦天神川駅間が延伸開業しました。現在では、烏丸線(国際会館駅~竹田駅)、東西線(六地蔵駅~太秦天神川駅)の2路線31.2kmが、京都市交通局によって運行されています。
 烏丸線では、竹田駅から近鉄京都線と相互直通運転が、東西線では、京阪京津線の電車が浜大津駅から御陵駅を経て太秦天神川駅まで直通運転され、利便性の向上が図られてきました。

〇京都市営地下鉄関係略年表

・1968年(昭和43) 京都市内の交通渋滞の緩和をめざして地下鉄計画が始まる
・1971年(昭和46) 都市交通審議会の答申で東西線の計画が具体化される
・1974年(昭和49) 烏丸線を起工(着工)する
・1981年(昭和56)5月29日 初めて烏丸線の北大路駅~京都駅間が開業する
・1988年(昭和63)6月11日 烏丸線の京都駅~竹田駅間が延伸開業する
・1988年(昭和63)8月28日 近鉄京都線新田辺駅まで相互直通運転を開始する
・1990年(平成2)10月24日 烏丸線の北山駅~北大路駅間が延伸開業する
・1997年(平成9)5月22日 東西線の開業に先立って御池駅を烏丸御池駅に改称する
・1997年(平成9)10月12日 東西線の初めとして醍醐駅~二条駅間が開業する
・1997年(平成9)6月3日 烏丸線の国際会館駅~北山駅間が開業、烏丸線が全線開通する
・2000年(平成12)3月15日 烏丸線の国際会館駅~近鉄奈良駅間直通急行の運転開始する
・2004年(平成16)11月26日 東西線の六地蔵駅~醍醐駅間が延伸開業する
・2008年(平成20)1月16日 東西線の二条駅~太秦天神川駅間が延伸開業、京阪京津線が太秦天神川駅まで乗り入れ区間を延伸する
・2012年(平成24)3月20日 ダイヤ改正し、昼間時間帯の急行を60分間隔での運転に減便する
・2013年(平成25)3月23日 交通系ICカードの全国相互利用を開始する
・2014年(平成26)12月20日 烏丸御池駅で可動式ホーム柵の稼働を開始する

〇「地下鉄」とは?

 地下鉄道の略語で、地下にトンネルを掘り、そこに敷設された都市高速電気鉄道のことですが、一部地上を走る部分も含めて言う場合が多くありました。日本での法規上は、大阪市営地下鉄を除き「鉄道事業法」に基づくものです。大都市部では、鉄道用地取得が困難なため、やむを得ず地下に建設したもので、建設費はかかりますが、用地買収の手数が少く、道路との交差がないので高速運行が可能で、市街地景観も維持でき、沿線の騒音も小さいなどの利点があります。
 日本最初の地下鉄は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、東京市の上野駅~浅草駅間(2.2km)の開通によるものでした。この路線は、1939年(昭和14)までに延伸されて、浅草駅~渋谷駅間が全通し、1941年(昭和16)に設立された帝都高速度交通営団に引き継がれ、営団地下鉄銀座線となります。一方、大阪市では、1933年(昭和8)に、梅田(仮駅)~心斎橋駅間(3.1km)が開通しました。
 太平洋戦争後は、東京でも大阪でも新しい路線の建設や延伸が行われ、他の都市でも、1957年(昭和32)の名古屋市の名古屋駅~栄町駅間(2.4km)の開通を皮きりに広がって行きます。その後、札幌市(1971年)、横浜市(1972年)、神戸市(1977年)、京都市(1981年)、福岡市(1981年)、仙台市(1987年)などで開業し、2001年(平成13)時点の営業キロ数は672.9kmに達しました。それからも各地で新路線や延伸が進み、現在は、15事業者49路線で、営業キロ数は796.4kmとなっています。

☆日本で営業中の「地下鉄」(日本地下鉄協会の分類)一覧

・札幌市営地下鉄(札幌市交通局)3路線48.0km 46駅 日本唯一のゴムタイヤ式地下鉄
・仙台市地下鉄(仙台市交通局)2路線28.7km 29駅 
・埼玉高速鉄道線(埼玉高速鉄道)1路線14.6km 8駅 総延長の97%が地下区間
・都営地下鉄(東京都交通局)4路線109.0km 98駅
・東京メトロ(東京地下鉄) 9路線195.1km 141駅 
・りんかい線(東京臨海高速鉄道)1路線12.2km 8駅  
・東葉高速線(東葉高速鉄道)1路線16.2km 9駅  
・横浜市営地下鉄(横浜市交通局)3路線53.4km 40駅
・みなとみらい線(横浜高速鉄道)1路線4.1km 6駅  
・名古屋市営地下鉄(名古屋市交通局)6路線93.2km 87駅
・京都市営地下鉄(京都市交通局)2路線31.2km 31駅  
・大阪市営地下鉄(大阪市交通局)8路線129.9km 100駅
・神戸市営地下鉄(神戸市交通局)4路線30.6km 25駅
・アストラムライン(広島高速交通)1路線0.3km 2駅 総延長の10%が地下区間
・福岡市地下鉄(福岡市交通局)3路線29.8km 35駅

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1889年(明治22)小説家・随筆家・俳人内田百閒の誕生日詳細
1942年(昭和17)歌人・詩人与謝野晶子の命日(白櫻忌)詳細
1952年(昭和27)国際通貨基金(IMF)と世界銀行が日本の加盟を承認する詳細
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 今日は、江戸時代前期の1635年(寛永12)に、江戸幕府が「寛永十二年五月令」(第三次鎖国令)を布告し、海外渡航の全面禁止、在外邦人の帰国禁止などをした日ですが、新暦では7月12日となります。
 「寛永十二年五月令(かんえいじゅうにねんごがつれい)」は、江戸幕府の鎖国政策の一環をなす法令の三番目のもので、「第三次鎖国令」とも呼ばれてきました。内容は、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を全面禁止など全17条から成り、長崎奉行に通達されたものです。
 それ以前の1633年(寛永10年2月28日)に、「第一次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止など)、1634年(寛永11)に「第二次鎖国令」(第一次鎖国令の再通達、長崎に出島の建設を開始)が出されていて、この後、1636年(寛永13年5月19日)に「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)、1639年(寛永16年7月5日)に「第五次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出され、1641年(寛永18年4月)の平戸オランダ商館の出島移転によって整いました。これにより、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航と日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策が続けられることとなります。
 この状態は、ペリーの来航による1854年(嘉永7)の「日米和親条約」締結まで続くこととなりました。
 以下に、「寛永十二年五月令」(第三次鎖国令)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「寛永十二年五月令」(第三次鎖国令)全17条 1635年(寛永12年5月28日)発布

  条々 長崎
一、異国江日本の船[1]これを遣わすの儀、堅く停止の事。
一、日本人異国江遣わし申す間敷候。若忍び候而乗渡る者これ有るに於てハ、其者ハ死罪、其船船主共ニ留置き言上仕るべき事。
一、異国江渡り住宅仕りこれ有る日本人来り候ハゝ死罪申し付くべき事。
一、伴天連[2]の宗旨[3]これ有る所江ハ両人より申し遣わし、穿鑿[4]を遂ぐべき事。
一、伴天連[2]訴人褒美の事。
  上の訴人には銀子百枚[5]、其より下には其の忠にしたがひ相計るべき事。
一、異国船申分これ有りて、江戸え言上の間、番船の事、此の以前の如く大村方[6]え申越すべき事。
一、伴天連[2]の宗旨[3]改め候南蛮人[7]、其の外悪名の者これ有る時は、前々の如く大村の篭に入置くべき事。
一、伴天連[2]の儀、船中の改迄、念入り申付くべき事。
一、諸色[8]一所え買取り申す儀、停止の事。
一、武士の面々[9]、長崎におひて異国船の荷物、唐人[10]より直に買取り候儀、停止の事。
一、異国船荷物の書立て[11]、江戸え注進候て、返事これなき以前にも、前々の如く商売申付くべき事。
一、異国船つみ来たり候白糸[12]、直段[13]を立て候て、残らず五ケ所[14]其の外書付の所割符[15]仕るべき事。
一、糸の外諸色[8]の儀、糸の直段極り候あての上、相対次第商売仕るべし。但し、唐船[16]者小船の事に候間、見計い[17]申付くべき事。
 付、荷物の代銀直段[13]立て候ての上、廿日切たるべき事。
一、異国船もどり候事、九月廿日切りたるべし。若しおそく来たり候船は、着き候てより五十日切たるべきなり。唐船[16]は見計い[17]、かれうた[18]より跡に出船申付くべき事。
一、異国船売残しの荷物預ケ置き候儀も、又預り候儀も停止の事。
一、五ケ所[14]惣代の者、長崎え参着の儀、七月五日切きたるべし。其よりもおそく参り候者には、割符[15]をはづし申すべき事。
一、平戸え着き候船も、長崎の糸の直段[13]の如くたるべし、長崎にて直段[13]立ち候はぬ以前に、商売停止の事。
 右、此の旨守らるべき者なり。仍て執達[20]件の如し。
    寛永十二年
 
    『徳川禁令考』より

【注釈】

[1]日本の船:にほんのふね=第一次鎖国令では、奉書船以外となっていたのが日本の船(全面禁止)となる。
[2]伴天連:ばてれん=キリスト教が日本に伝来した当時のカトリックの宣教師。
[3]宗旨:しゅうし=ある宗教・宗派の教義の中心となる趣旨。
[4]穿鑿:せんさく=吟味。取り調べ。
[5]銀子百枚:ぎんひゃくまい=一枚は銀43匁で、百枚は金83両となる。
[6]大村方:おおむらかた=大村藩のこと。
[7]南蛮人:なんばんじん=日本に渡来したポルトガル人・スペイン人などの称。
[8]諸色:しょしき=いろいろの品物。諸品。
[9]武士の面々:ぶしのめんめん=武士の人々。
[10]唐人:からびと=外国人。異人。
[11]書立て:かきたて=箇条書。一つ書き。目録書。
[12]白糸:しろいと=中国産の上質な生糸のこと。
[13]直段:ねだん=売買の相場。あたい。代価。価格。
[14]五ケ所:ごかしょ=江戸、京都、大坂。堺、長崎の五ヶ所の特権商人のこと。
[15]割符:わっぷ=輸入生糸配分について五ヶ所の商人の糸割符仲間に与えた証明目録。
[16]唐船:からぶね=中国の船。また、中国風の船。
[17]見計い:みはからい=見て見当をつける。
[18]かれうた=ガレオタ船のこと。ポルトガル船を指す。
[19]惣代:そうだい=仲間あるいは地域集団の代表者。
[20]執達:しったつ=上位の者の意向・命令などを下位の者に伝えること。通達。

<現代語訳>

一、異国へ日本の船を派遣することは厳重に禁止すること。
一、日本人を異国へ派遣してはならない。もしこっそり隠れて乗り渡る者があれば、その者は死罪、その船・船主共に留め置いて、幕府へ報告すべきこと。
一、異国へ渡って住み着いていた日本人が帰国したならば死罪に処するべきこと。
一、バテレンの宗旨がある所へは両奉行を派遣して調べること。
一、バテレンを密告した者には褒美を与えること。
 地位の高いバテレンを密告した者には銀百枚、それより地位が下の者の場合にはその忠義心によって褒美の額を考慮すること。
一、外国船について言い分があって、江戸へ言上する場合は、番船の事については、以前のように大村藩へ申し入れること。
一、バテレンの宗旨を取り調べる南蛮人やその他不届きな者がある時は、以前のように大村藩の牢へ入れ置くこと。
一、バテレンについては船の中の取り調べも入念にするよう申し付けるべきこと。
一、諸品を一ヶ所で買い取ることは停止すること。
一、武士の人々が長崎において、外国船の荷物を外国人より直接に買い取ることは停止すること。
一、外国船の荷物の目録書を江戸へ注進し、返事が来る前でも、以前のように商売が出来るべきこと。
一、外国船で輸入した生糸は価格を決定して、残らず五ヶ所(江戸・京都・大坂・堺・長崎)その他書付のところの商人へ分配すること。
一、生糸の他の諸品について、生糸の直段を決めた上、当事者同士の成り行きで商売してもよいこと。ただし、中国船は小船であったならば、見当をつけて申し付けるべきこと。
 付、商品代金については、銀の相場が立ったならば、20日を限度として取り引きすること。
一、外国船が帰国できるのは9月20日を期限とすること。もし、遅く到着した船は着いてから50日を期限とすること。中国船は見当をつけ、ポルトガル船より後に出船申し付けるべきこと。
一、外国船が売残した荷物を預り置くことも、また預ることも停止すること。
一、五ヶ所(江戸・京都・大坂・堺・長崎)の商人の代表者の長崎への来着については7月5日を限度とし、それより遅く到着した者は分配対象から外すべきこと。
一、平戸の港に入港した船も、長崎の生糸の直段に従うようにせよ。長崎において直段を決定しない以前の取引は停止すること。
 右の条文について守るべきものであること、通達する。
    寛永12年(1635年)

☆「鎖国」完成までの略年表(日付は旧暦です)

・1612年(慶長17年3月) 幕領に禁教令を出す
・1616年(元和2年8月) 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する
・1620年(元和6年) 平山常陳事件で英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる
・1623年(元和9年11月) イギリスが業績不振のため平戸商館を閉鎖する
・1624年(寛永元年3月) スペインとの国交を断絶、来航を禁止する
・1628年(寛永5年) タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える
・1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
・1634年(寛永11年) 「第2次鎖国令」(第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始)が出される
・1635年(寛永12年5月) 「第3次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出される
・1636年(寛永13年5月19日) 「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)が出される
・1637年(寛永14年) 島原の乱が始まり、幕府に武器弾薬をオランダが援助する
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1641年(寛永18年4月) オランダ商館を平戸から出島に移す
・1643年(寛永20年) ブレスケンス号事件でオランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される
・1644年(正保元年) 中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続ける
・1647年(正保4年) ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航、徳川幕府は再びこれを拒否、以後、ポルトガル船の来航が絶える
・1673年(延宝元年1月) リターン号事件でイギリスとの交易の再開を拒否、以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1119年(元永2)第75代天皇とされる崇徳天皇の誕生日(新暦7月7日)詳細
1634年(寛永11)江戸幕府が長崎の出島の造成を命じる(新暦6月23日)詳細
1953年(昭和28)小説家堀辰雄の命日(辰雄忌)詳細
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houjyoumasamurabettteiato01

 今日は、鎌倉時代の1273年(文永10)に、鎌倉幕府第7代執権北条政村の亡くなった日ですが、新暦では6月13日となります。
 北条政村(ほうじょう まさむら)は、1205年(元久2年6月22日)に、第2代執権北条義時の五男(母は伊賀朝光の娘)として生まれました。1213年(建暦3)に元服し、相模四郎政村を名乗り、1224年(元仁元)に父・義時が亡くなると、兄光宗らの陰謀(伊賀氏の変)に巻き込まれたものの、事なきを得ます。
 常陸大掾・式部少丞・右馬助・右馬権頭などを歴任し、1237年(嘉禎3)には、従五位上に叙せられました。1239年(延応元)に幕府の評定衆となり、翌年には、評定衆筆頭に就きます。
 1244年(寛元2)に従四位下に昇叙、1249年(建長2)に引付頭人を兼務、1256年(建長8)には連署となりました。1264年(文永元)に、第6代執権北条長時が亡くなると、第7代執権に就き、1266年(文永3)に、将軍宗尊(むねたか)親王を廃する難局を乗り切ります。
 1268年(文永5)に、執権職を時宗に譲り、再び連署となり、侍所別当を兼務し、蒙古襲来直前の多難な時期にもかかわらず、よく時宗を補佐しました。一方、和歌に優れ、宗尊親王家百首に出詠し、自邸で探題当座千首会を開くなどし、『新勅撰和歌集』、『続千載和歌集』等の勅撰和歌集に40首入集しています。
 しかし、1273年(文永10)に、病気によって出家して常盤院覚崇を称し、同年5月27日には、鎌倉において、数え年69歳で亡くなりました。

<代表的な歌>

・「たかし山 夕越え暮れて 麓なる 浜名の橋を 月に見るかな」(続古今和歌集)
・「今日いくか 野山のあらし 身にしめて 故郷とほく 別れ来ぬらむ」(玉葉和歌集)
・「来し方ぞ 月日にそへて 偲ばるる 又めぐりあふ 昔ならねば」(続拾遺和歌集)

〇北条政村関係略年表(日付は旧暦です)

・1205年(元久2年6月22日) 第2代執権北条義時の五男(母は伊賀朝光の娘)として生まれる
・1213年(建暦3年) 元服し、相模四郎政村を名乗る
・1224年(元仁元年) 父・義時が亡くなると、兄光宗らの陰謀(伊賀氏の変)に巻き込まれる
・1230年(寛喜2年1月13日) 常陸大掾に任官する
・1230年(寛喜2年閏1月4日) 式部少丞に転任する
・1230年(寛喜2年10月15日) 従五位下に叙位される
・1236年(嘉禎2年3月4日) 右馬助に遷任される
・1236年(嘉禎2年4月14日) 右馬権頭に転任する
・1237年(嘉禎3年9月15日) 従五位上に昇叙する
・1238年(嘉禎4年8月28日) 正五位下に昇叙する
・1239年(延応元年10月) 幕府の評定衆と就る
・1240年(仁治元年4月5日) 右馬権頭を辞任する
・1240年(仁治元年) 評定衆筆頭と就る
・1244年(寛元2年6月22日) 従四位下に昇叙する
・1249年(建長2年12月9日) 引付頭人(一番)を兼務する
・1251年(建長3年2月) 常盤(ときわ)の別業(べつぎょう)で和歌会を催す
・1256年(建長8年3月30日) 連署となる
・1256年(建長8年4月5日) 陸奥守に任官する
・1257年(正嘉元年6月12日) 相模守に遷任される
・1264年(文永元年8月11日) 第6代執権北条長時が死去し、第7代執権となる
・1265年(文永2年2月21日) 従四位上に昇叙する
・1265年(文永2年3月28日) 左京権大夫に転任する
・1266年(文永3年3月2日) 正四位下に昇叙する
・1266年(文永3年6月) 将軍宗尊(むねたか)親王を廃する
・1268年(文永5年3月5日) 執権職を時宗に譲り、再び連署と就り、侍所別当を兼務する
・1273年(文永10年5月18日) 出家して、常盤院覚崇を称する
・1273年(文永10年5月27日) 鎌倉において、数え年69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

743年(天平15)墾田永年私財法」が出される(新暦6月23日)詳細
1235年(文暦2)藤原定家によって「小倉百人一首」が完成された(百人一首の日)詳細
1938年(昭和13)「日独防共協定」締結による同盟強化に伴い、大日本青少年独逸派遣団が出発する詳細
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