ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年12月

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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、連合国軍最高司令部(GHQ)より、「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)が出された日です。
 これは、連合国軍最高司令部(GHQ)が、それまで行われてきた戦時色の強い教科である「修身」、「日本歴史」、「地理」の授業停止と教科書の回収を指示したものでした。
 太平洋戦争終結にあたり、日本が受諾した「ポツダム宣言」の軍国主義の除去、日本の民主化の条項において、教育分野では、軍国的思想や軍事教育を一掃し、科学的思考力や平和愛好の精神を育てることが求められます。しかし、日本政府は、学徒動員解除、学徒軍事教育の廃止措置、平常授業の再開、学徒隊廃止、教科書の軍国教育的部分を塗りつぶした「墨ぬり教科書」、集団疎開学童の復帰などの一連の平時に戻す措置を行なったものの、これらの措置においても「益々国体ノ護持ニ努ムル」という旧態依然とした教育理念が問題視されました。
 そこで、連合国軍最高司令部(GHQ)は1945年(昭和20)10月22日に、「日本教育制度ニ対スル管理政策」(SCAPIN-178)を出し、学校の教育内容から軍国主義、超国家主義を廃し、代りに基本的人権の思想に合致する諸概念の教授および実践の確立を奨励したのです。
 この指令を厳格に実施させるため、10月30日に「教員及び教育関係者の調査、除外、認可に関する件」(教育関係者の資格についての指令)、12月15日に「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件」(国家神道についての指令)、12月31日に「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(修身科・国史科・地理科の中止についての指令)が出されますが、これらが、「GHQ教育四大指令」と呼ばれることになりました。
 翌年2月12日に、文部省が修身・国史・地理教科書の回収について通達し、4月9日には 国史教科書の代用教材として『太平洋戦争史』を購入、利用するよう通達されます。
 その後、国会で「教育基本法」と「学校教育法」が成立、1947年(昭和22)3月31日に公布され、新しい教育方針のもとに4月1日から新学制が発足しました。
 これによって、従来の教育課程が廃止され、同時に新たに社会科が成立・登場することになります。同年5月に学習指導要領「社会科編(1),小学校」が、また6月に学習指導要領「社会科編(2),中学校及び高等学校第1学年」が発表され、9月から全国の小・中学校で「社会科」の授業が開始されました。

○太平洋戦争直後の「社会科」教育関係略年表

<1945年(昭和20)>
・10月22日 GHQが覚書「日本教育制度ニ対スル管理政策」を出す
・10月30日 GHQが覚書「教員及び教育関係者の調査、除外、認可に関する件」を出す
・12月15日 GHQが覚書「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件」を出す
・12月31日 GHQが覚書「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」を出す

<1946年(昭和21)>
・1月11日 文部省が修身・日本歴史・地理停止に関するGHQ指令について通達する
・2月12日 文部省が修身・国史・地理教科書の回収について通達する
・4月9日 文部省が国史教科書の代用教材として『太平洋戦争史』を購入、利用するよう通達する

<1947年(昭和22)>
・3月31日 「教育基本法」と「学校教育法」が公布される
・4月1日 新しい教育方針のもとに新学制が発足する
・5月 学習指導要領「社会科編(1),小学校」が発表される
・6月 学習指導要領「社会科編(2),中学校及び高等学校第1学年」が発表される
・9月 全国の小・中学校で「社会科」の授業が開始される

〇GHQ教育四大指令とは?

 太平洋戦争後の連合軍占領下において、1945年(昭和20)10月22日から12月31日までに、連合国軍最高司令部(GHQ)が出した教育に関する4つの指令です。
 太平洋戦争終結にあたり、日本が受諾した「ポツダム宣言」の軍国主義の除去、日本の民主化の条項において、教育分野では、軍国的思想や軍事教育を一掃し、科学的思考力や平和愛好の精神を育てることが求められました。その中で、敗戦後の日本政府は、学徒動員解除、学徒軍事教育の廃止措置、平常授業の再開、学徒隊廃止、教科書の軍国教育的部分を塗りつぶした「墨ぬり教科書」、集団疎開学童の復帰などの一連の平時に戻す措置を行ないます。しかし、これらの措置においても「益々国体ノ護持ニ努ムル」という旧態依然とした教育理念が問題視されました。
 そこで、連合国軍最高司令部(GHQ)は1945年(昭和20)10月22日に、「日本教育制度ニ対スル管理政策」(SCAPIN-178)を出し、学校の教育内容から軍国主義、超国家主義を廃し、代りに基本的人権の思想に合致する諸概念の教授および実践の確立を奨励したのです。具体的には、A、第一は軍国主義、国家主義の禁止で、第二は言論、思想、集会、信教の自由の確立。B、教師や教育関係の関係者は、できるだけ早く、公的機関で軍国主義者だったかの調査を受け、そうだったものは追放される。C、現在の教科書などから軍国主義的な一面を削除し、平和的公民養成の新教科目、新教科書を準備し、初等教育の教員養成を急げと指示しました。
 この指令を厳格に実施させるため、10月30日に「教員及び教育関係者の調査、除外、認可に関する件」(教育関係者の資格についての指令)、12月15日に「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件」(国家神道についての指令)、12月31日に「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(修身科・国史科・地理科の中止についての指令)が出されます。
 これらは、その後の軍国主義者の教職追放、教科書の編集、教科の編成、学校制度、教育行政に影響を与え、民主教育が目指されることとなりました。

☆「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)

(昭和二十年十二月三十一日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官第八号民間情報教育部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府宛覚書)

一 昭和二十年十二月十五日附指令第三号国家神道及ビ教義ニ対スル政府ノ保障ト支援ノ撤廃ニ関スル民間情報教育部ノ基本的指令ニ基キ且日本政府ガ軍国主義的及ビ極端ナ国家主義的観念ヲ或ル種ノ教科書ニ執拗ニ織込ンデ生徒ニ課シカカル観念ヲ生徒ノ頭脳ニ植込マソガ為メニ教育ヲ利用セルニ鑑ミ茲ニ左ノ如キ指令ヲ発スル

(イ)文部省ハ曩ニ官公私立学校ヲ含ム一切ノ教育施設ニ於イテ使用スベキ修身日本歴史及ビ地理ノ教科書及ビ教師用参考書ヲ発行シ又ハ認可セルモコレラ修身、日本歴史及ビ地理ノ総テノ課程ヲ直チニ中止シ司令部ノ許可アル迄再ビ開始セザルコト

(ロ)文部省ハ修身、日本歴史及ビ地理夫々特定ノ学科ノ教授法ヲ指令スル所ノ一切ノ法令、規則又ハ訓令ヲ直チニ停止スルコト

(ハ)文部省ハ本覚書附則(イ)ニ摘要セル方法ニ依リテ設置スル為メニ(一)(イ)ニ依リ影響ヲ受クベキアラユル課程及ビ教育機関ニ於テ用ヒル一切ノ教科書及ビ教師用参考書ヲ蒐集スルコト

(ニ)文部省ハ本覚書附則(ロ)ニ摘要セル措置ニ依リテ本覚書ニ依リ影響ヲ受クベキ課程ニ代リテ挿入セラルベキ代行計画案ヲ立テ之ヲ当司令部ニ提出スルコト之等代行計画ハ茲ニ停止セラレタル課程ノ再開ヲ当司令部ガ許可スル迄続イテ実施セラルベキコト

(ホ)文部省ハ本覚書附則(ハ)ニ摘要セル措置ニ依リ修身、日本歴史及ビ地理ニ用フベキ教科書ノ改訂案ヲ立テ当司令部ニ提出スベキコト

二 本指令ノ条項ニ依リ影響ヲ受クベキ日本政府ノ総テノ官吏、下僚、傭員及ビ公私立学校ノ総テノ教職員ハ本指令ノ条項ノ精神並ニ字句ヲ遵守スル責任ヲ自ラ負フベキコト

三 附則略

      「文部科学省ホームページ」より
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 今日は、昭和時代前期の1930年(昭和5)に、小説家開高健の生まれた日です。
 開高健(かいこう たけし)は、大阪府大阪市天王寺区平野町で、教育者であった父・開高正義、母・文子の長男として生まれました。
 旧制天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)を経て、旧制大阪高等学校文科甲類(英語)に入学、続いて大阪市立大学法文学部法学科(現・法学部)に入学します。在学中の1950年(昭和25年)に同人誌「えんぴつ」に参加し、翌年、謄写版で長編小説「あかでみあめらんこりあ」を刊行しました。
 詩人の牧羊子と結婚、1953年(昭和28)に卒業し、翌年(昭和29)寿屋(ことぶきや)(現在のサントリー)宣伝部に入社します。PR誌『洋酒天国』、『サントリー天国』を編集する一方で、コピーライターとして洋酒トリスの名作宣伝コピーを次々と発表しました。
 その中で、1957年(昭和32)『新日本文学』に発表した『パニック』が評価され、同年末に『文学界』に掲載の『裸の王様』で、翌年第38回芥川賞を受賞し、作家に専念するため寿屋を退職します。その後、『日本三文オペラ』(1959年)、『ロビンソンの末裔』(1960年)、『片隅の迷路』(1962年)と社会性のある問題作を発表しました。
 1964年(昭和39)に、朝日新聞社臨時特派員として戦時下のベトナムを取材し、ルポルタージュ『ベトナム戦記』(1965年)を書き、また、小田実らとベ平連 (「ベトナムに平和を! 市民連合」) を起し、精力的に平和運動を進めます。その中で、ベトナム戦争の苦悩に迫った『輝ける闇(やみ)』(1968年)を執筆し、毎日出版文化賞を受賞しました。
 それからも、1979年(昭和54)に『玉、砕ける』で川端康成文学賞、1981年(昭和56)に菊池寛賞、1987年(昭和62)に『耳の物語』で日本文学大賞を樹脂要するなど数々の栄誉に輝きます。しかし、1989年(平成元)12月9日に、東京において、58歳で亡くなりました。
 尚、業績を記念して、1992年(平成4)に開高健賞が創設(2003年から開高健ノンフィクション賞)され、2003年(平成15)に茅ケ崎市の仕事場兼自宅が「茅ケ崎市開高健記念館」として開館しています。

〇開高健の主要な著作

・小説『あかでみあめらんこりあ』(1951年)
・小説『名の無い街で』(1953年)
・小説『パニック』(1957年)
・小説『裸の王様』(1957年)第38回芥川賞
・小説『日本三文オペラ』(1959年)
・小説『ロビンソンの末裔』(1960年)
・小説『片隅の迷路』(1962年)
・小説『青い月曜日』(1965年)
・ルポルタージュ『ベトナム戦記』(1965年)
・エッセイ集『饒舌(じょうぜつ)の思想』(1966年)
・小説『輝ける闇(やみ)』(1968年)毎日出版文化賞受賞
・小説『夏の闇』(1972年)
・作家論集『紙の中の戦争』(1972年)
・短編集『歩く影たち』(1975年)
・紀行『オーパ』(1978年)
・紀行『もっと遠く!南北両アメリカ大陸縦断記・北米篇』(1981年)
・紀行『もっと広く! 南北両アメリカ大陸縦断記・南米篇』(1981年)
・小説『破れた繭』(1986年)
・小説『夜と陽炎 (かげろう) 』(1986年)
・小説『耳の物語』(1987年)日本文学大賞
・小説『珠玉』(1990年)
・小説『花終る闇』(1990年)
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 今日は、1993年(平成5)に、「生物の多様性に関する条約」が発効した日です。
 この条約は、英語でConvention on Biological Diversity(CBD)といい、野生生物を生息環境とともに保全し、生物の多様性の維持をはかる国際条約で、「生物多様性条約」とも略されてきました。
 環境保護団体の要請を受け、1987年(昭和62)から国連環境計画(UNEP)が準備を開始、1992年(平成4)5月22日に、ケニアのナイロビで開催された合意テキスト採択会議においてコンセンサス採択され、同年6月にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された「環境と開発に関する国連会議(地球サミット)」において、日本を含む180ヶ国によって調印されます。
 1993年(平成5)5月に日本が条約を締結、同年12月29日に条約が発効し、現在では、193ヶ国とEUが締約(アメリカ合衆国は未締結)しました。
 この条約の目的は、\己の多様性の保全、∪己多様性の構成要素の持続可能な利用、0篥岨餮擦陵?僂ら生ずる利益の公正で衡平な配分とされ、その達成のため、2000年(平成12)1月には「バイオセーフティに関するカルタヘナ議定書」が採択され、2004年(平成16)に発効しています。
 また、2002年(平成14)のCOP6(ハーグ)では、「2010年目標」が採択されました。さらに、2010年(平成22)に第10回締約国会議(於:愛知県名古屋市)において、条約の戦略計画である「愛知目標」が採択され、5つの分野にわたり20の目標が設定され、それにあわせて、2011年から2020年までは「国連生物多様性の10年」と定められています。
 尚、議定書により課された任務を遂行するなどのため、条約事務局がカナダのモントリオールに置かれました。
 参考のために、以下に「生物多様性条約」の前文のみ掲載しておきます。

〇生物多様性条約(前文のみ)

「生物の多様性に関する条約」

 前文

 締約国は、生物の多様性が有する内在的な価値並びに生物の多様性及びその構成要素が有する生態学上、遺伝上、社会上、経済上、科学上、教育上、文化上、レクリエーション上及び芸術上の価値を意識し、生物の多様性が進化及び生物圏における生命保持の機構の維持のため重要であることを意識し、生物の多様性の保全が人類の共通の関心事であることを確認し、諸国が自国の生物資源について主権的権利を有することを再確認し、諸国が、自国の生物の多様性の保全及び自国の生物資源の持続可能な利用について責任を有することを再確認し、生物の多様性がある種の人間活動によって著しく減少していることを懸念し、生物の多様性に関する情報及び知見が一般的に不足していること並びに適当な措置を計画し及び実施するための基本的な知識を与える科学的、技術的及び制度的能力を緊急に開発する必要があることを認識し、生物の多様性の著しい減少又は喪失の根本原因を予想し、防止し及び取り除くことが不可欠であることに留意し、生物の多様性の著しい減少又は喪失のおそれがある場合には、科学的な確実性が十分にないことをもって、そのようなおそれを回避し又は最小にするための措置をとることを延期する理由とすべきではないことに留意し、更に、生物の多様性の保全のための基本的な要件は、生態系及び自然の生息地の生息域内保全並びに存続可能な種の個体群の自然の生息環境における維持及び回復であることに留意し、更に、生息域外における措置も重要な役割を果たすこと及びこの措置は原産国においてとることが望ましいことに留意し、伝統的な生活様式を有する多くの原住民の社会及び地域社会が生物資源に緊密にかつ伝統的に依存していること並びに生物の多様性の保全及びその構成要素の持続可能な利用に関して伝統的な知識、工夫及び慣行の利用がもたらす利益を衡平に配分することが望ましいことを認識し、生物の多様性の保全及び持続可能な利用において女子が不可欠の役割を果たすことを認識し、また、生物の多様性の保全のための政策の決定及び実施のすべての段階における女子の完全な参加が必要であることを確認し、生物の多様性の保全及びその構成要素の持続可能な利用のため、国家、政府間機関及び民間部門の間の国際的、地域的及び世界的な協力が重要であること並びにそのような協力の促進が必要であることを強調し、新規のかつ追加的な資金の供与及び関連のある技術の取得の適当な機会の提供が生物の多様性の喪失に取り組むための世界の能力を実質的に高めることが期待できることを確認し、更に、開発途上国のニーズに対応するため、新規のかつ追加的な資金の供与及び関連のある技術の取得の適当な機会の提供を含む特別な措置が必要であることを確認し、この点に関して後発開発途上国及び島嶼(しょ)国の特別な事情に留意し、生物の多様性を保全するため多額の投資が必要であること並びに当該投資から広範な環境上、経済上及び社会上の利益が期待されることを確認し、経済及び社会の開発並びに貧困の撲滅が開発途上国にとって最優先の事項であることを認識し、生物の多様性の保全及び持続可能な利用が食糧、保健その他増加する世界の人口の必要を満たすために決定的に重要であること、並びにこの目的のために遺伝資源及び技術の取得の機会の提供及びそれらの配分が不可欠であることを認識し、生物の多様性の保全及び持続可能な利用が、究極的に、諸国間の友好関係を強化し、人類の平和に貢献することに留意し、生物の多様性の保全及びその構成要素の持続可能な利用のための既存の国際的な制度を強化し及び補完することを希望し、現在及び将来の世代のため生物の多様性を保全し及び持続可能であるように利用することを決意して、次のとおり協定した。

 (以下略)

  「環境省ホームページ」より
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 今日は、昭和時代後期の1981年(昭和56)に、小説家・推理作家横溝正史の亡くなった日です。
 横溝正史(よこみぞ せいし)は、明治時代後期の1902年(明治35)5月24日に、兵庫県神戸市東川崎(現在の神戸市中央区)で、父・横溝宜一郎、母・波摩の三男として生まれましたが、本名は「まさし」と読みました。
 1920年(大正9)に神戸二中(現在の兵庫県立兵庫高等学校)を卒業後、第一銀行神戸支店に入職し、翌年、雑誌『新青年』の懸賞に応募した『恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)』が入選作となります。1924年(大正13)に、大阪薬学専門学校(後の大阪大学薬学部)卒業後、実家の生薬屋「春秋堂」に薬剤師として従事しました。
 1926年(大正15)に江戸川乱歩の招きで上京、博文館に入社し、翌年に『新青年』の編集長に就任、その後『文芸倶楽部』、『探偵小説』等の編集に携わりつつ、創作や翻訳活動を続けます。1932年(昭和7)に退社して専業作家となり、『面影双紙』(1933年)、『鬼火』(1935年)、『真珠郎』(1936~37年)など、ロマン的色彩の濃い探偵小説を発表、江戸川乱歩と並称されるようになりました。
 一方、肺結核が悪化し療養を余儀なくされ、戦時中は探偵小説自体が制限される中で、『人形佐七捕物帳』(1938~39年)など時代小説に新境地を開拓します。
 太平洋戦争後は、本格推理小説を目指し、『本陣殺人事件』(1946年)で第1回探偵作家クラブ賞を受賞、続いて、『獄門島』(1947~48年)、『八つ墓村』(1949~50年)、『犬神家の一族』(1950~51年)など、日本的風土を背景に名探偵金田一耕助が活躍するシリーズを次々に発表し、人気を博しました。これらの作品は、1971年(昭和46)から、角川文庫から刊行されてベストセラーとなり、次々と映画化もされ、一大ブームを巻き起こします。
 晩年まで執筆を続けましたが、1981年(昭和56)12月28日に、東京において、79歳で亡くなっています。
 尚、1980年(昭和55)から角川書店の主催による長編推理小説新人賞、横溝正史ミステリ大賞が設けられました。

〇横溝正史の主要な著作

・『恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)』(1921年)
・『面影双紙』(1933年)
・『鬼火』(1935年)
・『蔵の中』(1935年)
・『真珠郎』(1936~37年)
・『夜光虫』(1936~37年)
・『人形佐七捕物帳』(1938~39年)
・『本陣殺人事件』(1946年)第1回探偵作家クラブ賞
・『蝶々殺人事件』(1946~47年)
・『獄門島』(1947~48年)
・『夜歩く』(1948~49年)
・『八つ墓村』(1949~50年)
・『犬神家の一族』(1950~51年)
・『女王蜂』(1951~52年)
・『悪魔が来りて笛を吹く』(1951~53年)
・『悪魔の手毬唄』(1957~59年)
・『蝙蝠男』(1964年)
・『仮面舞踏会』(1974年)
・『病院坂の首縊りの家』(1975~77年)
・『悪霊島』(1979~80年)
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 今日は、昭和時代後期の1987年(昭和62)に、小説家・児童文学者椋鳩十の亡くなった日です。
 椋鳩十(むく はとじゅう)は、明治時代後期の1905年(明治38)1月22日に、長野県下伊那郡喬木村阿島で、牧場経営兼牛乳販売業の父・久保田金太郎、母・たきの次男として生まれましたが、本名は久保田彦穂と言いました。
 長野県立飯田中学(現在の県立飯田高等学校)卒業後上京し、1924年(大正13)に法政大学文学部国文科へ入学します。在学中、佐藤惣之助の『詩の家』同人となり、詩集『駿馬』(1926年)、『夕の花園』(1927年)を発表し、1930年(昭和5)卒業後、鹿児島県の中種子高等小学校代用教員となります。
 しかし、3ヶ月で解雇され、加治木町立実科高等女学校の国語教師に着任し、その一方で作家活動を続け、 1933年(昭和8)に最初の小説『山窩調』を自費出版し、椋鳩十のペンネームを使いはじめました。
 その後、児童文学を書き始め、1938年(昭和13)の『少年倶楽部』1に、初の動物物語である『山の太郎熊』を掲載します。
 太平洋戦争後は、1947年(昭和22)から19年間、鹿児島県立図書館長を務め、1960年(昭和35)から、『母と子の20分間読書』運動を推進しました。その一方で、児童文学を書き続け、短編集『片耳の大鹿(おおしか)』(1951年)で、文部大臣奨励賞、『大空に生きる』(1961年)で小川未明文学奨励賞、『孤島の野犬』(1963年)でサンケイ児童出版文化賞・国際アンデルセン賞国内賞の受賞などの栄誉に輝きます。
 1967年(昭和42)から鹿児島女子短期大学教授を務め、1971年(昭和46)に『マヤの一生』『モモちゃんとあかね』で第1回赤い鳥文学賞も受賞しています。
 1987年(昭和62)に喬木村名誉村民第1号になりましたが、同年12月27日に鹿児島県において、82歳で亡くなりました。

〇椋鳩十の主要な作品

・詩集『駿馬』(1926年)
・詩集『夕の花園』(1927年)
・小説『山窩調』(1933年)
・『山の太郎熊』 (1938年)
・『動物ども』(1943年)
・短編集『片耳の大鹿(おおしか)』(1951年)文部大臣奨励賞
・『大空に生きる』(1961年)小川未明文学奨励賞受賞
・『孤島の野犬』(1963年)サンケイ児童出版文化賞・国際アンデルセン賞国内賞
・『大造じいさんとガン』(1968年)
・『マヤの一生』(1970年)赤い鳥文学賞
・『モモちゃんとあかね』(1970年)赤い鳥文学賞
・『ネズミ島物語』(1973年)
・『けむり仙人』(1974年)
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