ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年03月

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 今日は、明治時代後期の1906年(明治39)に、政府が全国17の私鉄を買収することを定めた「鉄道国有法」を公布した日です。
 この法律は、地方鉄道を除き、鉄道の国有を原則とすることを定めた法律でした。1880年代後半から民営鉄道は急速に路線を伸ばし、日露戦争の終わった1905年(明治38)末時点で、る民営鉄道の営業キロは5,196.2kmで、官営鉄道の営業キロ2,413.3kmのほぼ2倍となります。
 しかし、日清・日露両戦争における軍事輸送の経験や産業上の観点からも統一的な路線網の確立が要望され、また、経営不振から政府による買上げを希望する民営鉄道側の動きもあって、立案されました。
 運賃の低減や車両の共用など経済面での利益が得られ、当時13億円にも達していた日露戦争費外債を低利外債へ借換えるため、担保資産として利用する意図もあったと言われています。
 これによって、同年10月から翌年10月にかけて、下記の17社(約4,500km)が買収されました。その後、1908年(明治41)12月5日鉄道院が発足して、新たに総裁を置き、内閣の直轄となって管理運営されます。
 1920年(大正9)8月5日に法改正され、国鉄民営化に伴い、1987年(昭和62)4月1日に、「日本国有鉄道改革法等施行法」第110条の規定により廃止されます。

〇買収された民営鉄道の一覧(17社)

・北海道炭礦鉄道(329.1km)―1906年10月1日買収(30,997,000円)
・甲武鉄道(44.7km)―1906年10月1日買収(14,600,000円)
・日本鉄道(1,385.3km)―1906年11月1日買収(142,495,000円)
・岩越鉄道(79.7km)―1906年11月1日買収(2,521,000円)
・山陽鉄道(667.7km)―1906年12月1日買収(78,850,000円)
・西成鉄道(7.4km)―1906年12月1日買収(1,705,000円)
・九州鉄道(712.6km)―1907年7月1日買収(118,856,000円)
・北海道鉄道(255.9km)―1907年7月1日買収(11,452,000円)
・京都鉄道(35.7km)―1907年8月1日買収(3,341,000円)
・阪鶴鉄道(113.1km)―1907年8月1日買収(7,010,000円)
・北越鉄道(138.1km)―1907年8月1日買収(7,777,000円)
・総武鉄道(117.8km)―1907年9月1日買収(12,871,000円)
・房総鉄道(63.4km)―1907年9月1日買収(2,157,000円)
・七尾鉄道(55.4km)―1907年9月1日買収(1,491,000円)
・徳島鉄道(34.6km)―1907年9月1日買収(1,341,000円)
・関西鉄道(442.9km)―1907年10月1日買収(36,130,000円)
・参宮鉄道(42.0km)―1907年10月1日買収(5,729,000円)

〇鉄道国有法(全文)明治39年3月31日 法律17号 改正大正9年 法律47号

第1条 一般運送ノ用ニ供スル鉄道ハ総テ国ノ所有トス但シ一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道ハ此ノ限ニ在ラズ

第2条 政府ハ明治39年ヨリ明治48年迄ノ間ニ於テ本法ノ規定ニ依リ左ニ掲クル私設鉄道株式会社所属ノ鉄道ヲ買収スヘシ
一 北海道炭礦鉄道株式会社
一 北海道鉄道株式会社
一 日本鉄道株式会社
一 岩越鉄道株式会社
一 北越鉄道株式会社
一 甲武鉄道株式会社
一 総武鉄道株式会社
一 房総鉄道株式会社
一 七尾鉄道株式会社
一 関西鉄道株式会社
一 参宮鉄道株式会社
一 京都鉄道株式会社
一 西成鉄道株式会社
一 阪鶴鉄道株式会社
一 山陽鉄道株式会社
一 徳島鉄道株式会社
一 九州鉄道株式会社

2 前項ニ掲ケタル各会社ハ他ノ私設鉄道株式会社ト合併シ又ハ他ノ私設鉄道株式会社ノ鉄道ヲ買収スルコトヲ得ス

第3条 前条ニ掲ケタル各鉄道買収ノ期日ハ政府ニ於テ之ヲ指定ス

第4条 政府ハ兼業ニ属スルモノヲ除クノ外買収ノ日ニ於テ会社ノ現ニ有スル権利義務ヲ承継ス但シ会社ノ株主ニ対スル権利義務、払込株金ノ支出残額並収益勘定、積立金勘定及雑勘定ニ属スルモノハ此ノ限ニ在ラス

第5条 買収価額ハ左ニ掲クルモノトス
一 会社ノ明治35年後半期乃至明治38年前半期ノ6営業年度間ニ於ケル建設費ニ対スル益金ノ平均割合ヲ買収ノ日ニ於ケル建設費ニ乗シタル額ヲ20倍シタル金額
二 貯蔵物品ノ実費ヲ時価ニ依リ公債券面金額ニ換算シタル金額但シ借入金ヲ以テ購入シタルモノヲ除ク

2 前項第1号ニ於テ益金ト称スルハ営業収入ヨリ営業費、賞与金及収益勘定以外ノ諸勘定ヨリ生シタル利息ヲ控除シタルモノヲ謂ヒ益金ノ平均割合ト称スルハ明治35年後半期乃至明治38年前半期ノ毎営業年度ニ於ケル建設費合計ヲ以テ同期間ニ於ケル益金ノ合計ヲ除シタルモノノ2倍ヲ謂フ

第6条 借入金ハ建設費ニ使用シタルモノニ限リ時価ニ依リ公債券面金額ニ換算シ買収価額ヨリ之ヲ控除ス

2 会社カ鉄道及附属物件ノ補修ヲ為サス又ハ鉄道建設規程ニ依リ期限内ニ改築若ハ改造ヲ為ササル場合ニ於テハ其ノ補修、改築又ハ改造ニ要スル金額ハ前項ノ例ニ依リ買収価額ヨリ之ヲ控除ス

第7条 資本勘定ニ属スル支出ハ借入金ヲ以テシタルモノヲ除クノ外順次ニ建設費及貯蔵物品ニ対シ之ヲ為シタルモノト看做ス

2 借入金ノ支出ハ前項ノ支出ノ後ニ之ヲ為シタルモノト看做ス

第8条 会社カ明治38年前半期ノ営業年度末ニ於テ運輸開始後6営業年度ヲ経過シタル線路ヲ有セサル場合又ハ第5条第1項第1号ノ金額カ建設費ニ達セサル場合ニ於テハ政府ハ其ノ建設費以内ニ於テ協定シタル金額ヲ以テ第5条第2項第1号ノ金額ニ代フ

第9条 左ニ掲クル場合ニ於テハ政府ハ審査委員ヲシテ決定ヲ為サシムヘシ
一 権利義務ノ承継ニ関シ又ハ計算ニ関シ会社ニ於テ異議アルトキ
二 前条ノ場合ニ於テ協定調ハサルトキ

2 審査委員ノ決定ニ対シ不服アルトキハ会社ハ主務大臣ニ訴願ヲ為スコトヲ得

3 審査委員ニ関スル規定ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第10条 買収ノ執行ハ審査委員ノ審査中ト雖之ヲ停止セス

                        「官報」より
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 今日は、昭和時代後期の1985年(昭和60)に、小説家・翻訳家野上弥生子の亡くなった日です。
 野上弥生子は、明治時代前期の1885年(明治18)5月6日に、大分県臼杵市のフンドーキン醤油の創業家である父・小手川角三郎、母・マサの長女として生まれましたが、本名は。ヤヱといいました。
 14歳の時に上京し、明治女学校に入学します。高等科を卒業後、英語の家庭教師として知遇を得た野上豊一郎と1907年(明治40)に結婚しました。
 夫が夏目漱石門下であった縁で、漱石に師事し『ホトトギス』に「縁(えにし)」などの写生文的な短編を発表します。1911年(明治44)に『青鞜』が創刊されると、創作や翻訳を寄稿したりしました。
 1922年(大正11)に小説「海神丸」で注目されるようになり、それ以後、社会的視野にたった「真知子」(1928~30年)、「若い息子」(1932年)などを発表します。
 太平洋戦争後は、1948年(昭和23)に日本芸術院会員となり、1957年(昭和32)に「迷路」(1936~56年)で第9回読売文学賞、1964年(昭和39)に「秀吉と利休」で第3回女流文学賞を受賞しました。さらに、1965年(昭和40)に文化功労者、1971年(昭和46)に文化勲章、1981年(昭和56)に第51回朝日賞の栄誉に輝きます。
 晩年まで、創作に意欲を示していましたが、1985年(昭和60)3月30日に、東京の自宅において、99歳で亡くなりました。没後の1986年(昭和61)に、自伝的小説『森』で日本文学大賞が贈られています。

〇野上弥生子の主要な作品

<小説>
・『縁 (えにし) 』(1907年)
・『人形の望』(1914年)
・『新しき命』(1916年)
・『海神丸』(1922年)
・『大石良雄』(1926年)
・『真知子』(1928~30年)
・『若い息子』(1932年)
・『哀しき少年』
・『迷路』(1936~56年)
・『秀吉と利休』(1962~63年)
・『森』(1972~85年)未完

<随筆>
・『鬼女山房記』(1964年)
・『一隅の記』(1968年)

<翻訳>
・『伝説の時代』ギリシア・ローマ神話(1913年)
・『ハイヂ』J.シュピーリ原作(1920年)
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 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、金本位制の「貨幣法」が公布された日です。
 この法律は、日本の貨幣についての重要事項を定めた法律で、貨幣の製造、発行の権限は政府に属するものとし、純金の量目2分 (750mg) を“円”、その100分の1を“銭”、その10分の1を“厘”として定め、金本位制度の法的基礎となりました。
 欧米諸国が金本位制に移行していく中で、その必要性が痛感され、日清戦争の賠償金を得たことによって加速し、第2次松方正義内閣の下での第10回帝国議会で成立したものです。
 これによって、金貨、銀貨、ニッケル貨、青銅貨の貨幣9種が発行され、兌換銀行券(紙幣)は、銀兌換から金兌換へと改正されました。
 以後、先進諸国と対等の立場で国際取引を行うことが可能となり、日本の近代化に大きな役割を果たします。
 しかし、1917年(大正6)9月、第一次世界大戦下に金輸出禁止措置により金本位制を停止、1930年(昭和5)1月、金輸出禁止を解いて金本位制に復帰しましたが、翌年12月に再び金本位制から離脱することになりました。
 これによって、この法律の大部分が死文化していましたが、国際通貨基金(IMF)が金廃貨による管理通貨制度移行を打ち出したことに伴い、1987年(昭和62)「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」が施行され、正式に廃止されます。

〇「貨幣法」(全文) 1897年(明治30)3月29日公布 法律第16号

貨幣法

第一條 貨幣ノ製造及發行ノ權ハ政府ニ屬ス

第二條 純金ノ量目二分ヲ以テ價格ノ單位ト爲シ之ヲ圓ト稱ス

第三條 貨幣ノ種類ハ左ノ九種トス

金貨幣

二十圓
十圓
五圓

銀貨幣

五十錢
二十錢
十錢

白銅貨幣

五錢

靑銅貨幣

一錢
五厘

第四條 貨幣ノ算則ハ總テ十進一位ノ法ヲ用ヰ一圓以下ハ一圓ノ百分ノ一ヲ錢ト稱シ錢ノ十分ノ一ヲ厘ト稱ス

第五條 貨幣ノ品位ハ左ノ如シ
一 金貨幣 純金九百分參和銅一百分
二 銀貨幣 純銀八百分參和銅二百分
三 白銅貨幣 「ニッケル」二百五十分參和銅七百五十分
四 靑銅貨幣 銅九百五十分錫四十分亞鉛十分

第六條 貨幣ノ量目ハ左ノ如シ
一 二十圓金貨幣 四匁四分四厘四毛四(十六「グラム」六六六五)
二 十圓金貨幣 二匁二分二厘二毛二(八「グラム」三三三三)
三 五圓金貨幣 一匁一分一厘一毛一(四「グラム」一六六六)
四 五十錢銀貨幣 三匁五分九厘四毛二(十三「グラム」四七八三)
五 二十錢銀貨幣 一匁四分三厘七毛七(五「グラム」三九一四)
六 十錢銀貨幣 七分一厘八毛七(二「グラム」六九五五)
七 白銅貨幣 一匁二分四厘四毛一(四「グラム」六六五四)
八 一錢靑銅貨幣 一匁九分零厘零毛八(七「グラム」一二八〇)
九 五厘靑銅貨幣 九分五厘零毛四(三「グラム」五六四〇)

第七條 金貨幣ハ其ノ頻ニ制限ナク法貨トシテ通用ス銀貨幣ハ十圓マテ白銅貨幣及靑銅貨幣ハ一圓マテヲ限リ法貨トシテ通用ス

第八條 貨幣ノ形式ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第九條 金貨幣純分ノ公差ハ金貨幣ハ一千分ノ一銀貨幣ハ一千分ノ三トス

第十條 金銀貨幣量目ノ公差ハ左ノ如シ
一 金貨幣二十圓ハ每斤八毛六四(〇「グラム」〇三二四〇)一千枚每ニ八分三厘(三「グラム」一一二五〇)十圓ハ每斤六毛零五(〇「グラム」〇二二六九)一千枚每ニ六分二厘(二「グラム」三二五〇〇)五圓ハ每斤四毛三二(〇「グラム」〇一六二〇)一千枚每ニ四分一厘(一「グラム」五三七五〇)トス
二 銀貨幣ハ各種共每斤二厘五毛九二(〇「グラム」〇九七二〇)五十錢銀貨幣ハ一千枚每ニ一匁二分四厘(四「グラム」六五〇〇〇)二十錢銀貨幣ハ一千枚每ニ八分三厘(三「グラム」一一二五〇)十錢銀貨幣ハ一千枚每ニ四分一厘(一「グラム」五三七五〇)トス

第十一條 金貨幣ノ通用最輕量目ハ二十圓金貨幣四匁四分二厘(十六「グラム」五七五〇)十圓金貨幣二匁二分一厘(八「グラム」二八七五)五圓金貨幣一匁一分零厘五毛(四「グラム」一四三八)トス

第十二條 金貨幣ニシテ磨損ノ爲通用最輕量目ヲ下ルモノ及銀貨幣白銅貨幣又ハ靑銅貨幣ニシテ著シク磨損シタルモノ其ノ他流通不便ノ貨幣ハ其ノ額面價格ヲ以テ無手數料ニテ政府ニ於テ之ヲ引換フヘシ

第十三條 貨幣ニシテ模樣ノ認識シ者キモノ又ハ私ニ極印ヲ爲シ其ノ他故意ニ毀傷セリト認ムルモノハ貨幣タルノ效用ナキモノトス

第十四條 金地金ヲ輸納シ金貨幣ノ製造ヲ請フ者アルトキハ政府ハ其ノ請求ニ應スヘシ


附則

第十五條 從來發行ノ金貨幣ハ此ノ法律ニ依リ發行スル金貨幣ノ倍位ニ通用スヘシ

第十六條 從來發行ノ一圓銀貨幣ハ金貨幣一圓ノ割合ヲ以テ政府ノ都合ニ依リ漸次之ヲ引換フヘシ

前項引換ノ結了マテハ金貨幣一圓ノ割合ヲ以テ無制限ニ法貨トシテ其ノ通用ヲ許シ通用禁止ノ場合ニ於テハ六箇月以前ニ勅令ヲ以テ之ヲ公布スヘシ通用禁止ノ翌日ヨリ起算シ滿五箇年內ニ引換ヲ請求セサルトキハ爾後地金トシテ取扱フヘシ

第十七條 從來發行ノ五錢銀貨幣及銅貨幣ハ從前ノ通リ通用スヘシ

第十八條 此ノ法律發布以後ハ一圓銀貨幣ノ製造ヲ廢ス但シ右期日以前ニ政府ニ輸納シタル銀地金ハ此ノ限ニ在ラス

第十九條 此ノ法律ニ牴觸スル從前ノ法令ハ總テ之ヲ廢止ス

第二十條 此ノ法律ハ第十八條ヲ除ク外明治三十年十月一日ヨリ施行ス
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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、内務省がミス・コロムビア、ミス・ワカナ、ディック・ミネら16人の芸名の改名を命令した日です。
 1939年(昭和14)4月5日に公布された「映画法」が、同年10月1日に施行され、それに基づく登録制度(日本の映画の各パートに働く者は政府に登録しなければ従事できなくなる制度)が、翌年4月1日から開始されるのに先立って実施されました。
 この日、内務省警保局は、映画、芸能、レコード会社代表を招いて、山崎巌警保局長から、芸能人の芸名で、敵性語に相当するもの、ふざけたもの、皇室や英雄等の尊厳を傷つけるようなものを改名するように厳達したのです。
 このような芸名は、皇室や神社の尊厳を汚す惧れがあったり、外国人崇拝を促進し、社会不安を与え、国民の生活向上にも、時局柄にもふさわしくないとされました。
 日中戦争が泥沼化し、翌年の太平洋戦争の開戦へ向かおうとしている時期のことです。

〇3月28日に改名を命ぜられたもの(16人)

・ミス・コロムビア(日蓄の歌手)→松原操
・サワ・サツカ(日蓄の歌手)→佐塚佐和子
・デイツク・ミネ(帝蓄の歌手)→三根 耕一
・ミス・ワカナ(新興演芸の漫才師)→玉松ワカナ
・平和ラツパ(新興演芸の漫才師)
・藤原釜足(東宝の映画俳優)→藤原鶏太 ※敵性語ではないが、「藤原鎌足を冒涜している」とされた
・尼リリス(日活の映画俳優)
・熱田みや子(日活の映画俳優) ※敵性語ではないが、恐れ多い言葉とされた
・南里コンパル(松竹の映画俳優)
・エミ・石河(松竹の映画俳優)
・御剣敬子(宝塚歌劇団17期生)→御鶴敬子 ※敵性語ではないが、恐れ多い言葉とされた
・園御幸(宝塚歌劇団22期生)→園みどり ※敵性語ではないが、恐れ多い言葉とされた
・椎乃宮匂子(宝塚歌劇団26期生)→稚之花匂子 ※敵性語ではないが、恐れ多い言葉とされた
・エデ・カンタ(フリー・ランサー)
・吉野みゆき(フリー・ランサー) ※敵性語ではないが、恐れ多い言葉とされた
・星ヘルタ(フリー・ランサー)

〇上記以外にその後改名されたものの例

<敵性語に相当するもの>
・リーガル千太・万吉 (漫才師)→柳家千太・万吉
・香島ラッキー・ヤシロセブン(漫才師)→香島楽貴・矢代世文
・ヴィクトル・スタルヒン(野球選手)→須田博
・朝吹英一とカルア (ハワイアン)→南海楽友
・モアナ・グリークラブ (ハワイアン)→灰田兄弟と岡の楽団(南の楽団)
・大橋節夫とハワイアイランダース (ハワイアン)→南映楽団
・笈田敏夫とノヴェルティ・ハワイアンズ (ハワイアン)→新緑楽団
・バッキー白片(ハワイアン)→白片力
・ビクター合唱団(合唱団)→勝鬨(かちどき)合唱団
・コロンビア合唱団(合唱団)→日畜合唱団
・シンフォニック・コーラス(合唱団)→交響合唱団
・ヴォーカル・フォア(合唱団)→日本合唱団
・コンセル・ポピュレール(オーケストラ)→青年日本交響楽団

<ふざけた芸名・恐れ多い芸名とされたもの>
・あきれたぼういず→新興快速舞隊 ※敵性語ではないが、ふざけた芸名とされた
・秋スケ (漫才師)→徳山英助・美助 ※敵性語ではないが、ふざけた芸名とされた
・三笠静子(歌手・女優)→笠置シヅ子  ※皇室の三笠宮と同じ名字を遠慮するようにと

〇敵性語とは?

 敵国の言葉のことですが、日中戦争~太平洋戦争中の日本では、英語が敵性語とみなされました。
 英語は、「軽佻浮薄」(気分が浮ついていて、行動が軽々しいという意味)であるとして、排斥が進み、特に法的に規制された事実はありませんが、1940年(昭和15)3月28日に内務省が16人の芸人に芸名の改名を命令したり、9月頃から鉄道省によって駅構内の英語表記が撤廃され始めたり、10月31日に大蔵省専売局がタバコの改名を発表するなどして、英語名を使わない風潮が醸成されていきます。
 1941年(昭和16)12月の太平洋戦争突入後はその運動はより顕著なものとなり、「マスゴミ」や「大政翼賛会」などにより、自主的な規制運動も進みます。1943年(昭和18)2月には、英語の雑誌名が禁止されて改名されたり、同年に大日本体育会により英名スポーツの名称を和名に改称、3月2日に職業野球の理事会で英米語をやめ、野球用語も全面日本語化することを決定して拍車がかかりました。
 しかし、太平洋戦争後は、英語名が復活したものも多数あります。
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 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、歌人島木赤彦の亡くなった日で、「赤彦忌」とも呼ばれています。
 島木赤彦は、明治時代前期の1876年(明治9)12月16日に、長野県諏訪郡上諏訪村(現在の諏訪市元町)に旧諏訪藩士の父・塚原浅茅と妻・さいの四男として生まれましたが、本名は、俊彦と言いました。
 代用教員を務めた後、1894年(明治27)に、長野県尋常師範学校(現在の信州大学教育学部)に入学します。在学中に文学に親しみ、短歌や俳句などを作り、諸雑誌に投稿したりしていましたが、1897年(明治30)には久保田家の養嗣子となりました。
 翌年、師範学校を卒業し、小学校の教員となりながらも作歌を続け、1903年(明治36)には、岩本木外らと『比牟呂』を創刊、翌年には伊藤左千夫の門に入ります。1908年(明治41)に『アララギ』が創刊されると『比牟呂』をこれに合併し、有力歌人として活動、1913年(大正2)には、中村憲吉との共著で第一歌集『馬鈴薯の花』を出しました。
 翌年に上京して、私立淑徳高等女学校の講師をしながら、伊藤左千夫、長塚節没後の『アララギ』の編集にあたります。斎藤茂吉とともに短歌における写生道と鍛錬道を強調し、「万葉集」の研究にもいそしみました。
 『アララギ』の歌壇的進出に大きく寄与しすると共に、歌集や歌論なども発表しましたが、1926年(大正15)3月27日に、長野県諏訪郡下諏訪町の自宅において、49歳で亡くなります。

<代表的な短歌>

「或(あ)る日わが庭のくるみに囀(さへず)りし小雀(こがら)来らず冴(さ)え返りつつ」
「信濃路(しなのじ)はいつ春にならむ夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ」
「隣室に書(ふみ)よむ子らの声きけば心に沁(し)みて生きたかりけり」

〇島木赤彦の主要な作品

・第一歌集『馬鈴薯の花』 中村憲吉との共著 (1913年)
・第二歌集『切火(きりび)』(1915年)
・第三歌集『氷魚(ひお)』(1920年)
・『赤彦童謡集』 (1922年)
・第四歌集『太虗集(たいきょしゅう)』(1924年)
・歌論『歌道小見』 (1924年)
・『万葉集の鑑賞及び其批評』 上巻のみで未完(1925年)
・第五歌集『蔭集(しいんしゅう)』(1926年)
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