ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年01月

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 今日は、昭和時代中期の1947年(昭和22)に、マッカーサー(連合国軍最高司令官)が、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令した日です。
 「2.1ゼネスト」は、2月1日午前零時を期して官公庁労働組合を中心に計画された数百万人規模のゼネラル・ストライキのことでした。
 太平洋戦争後の急激なインフレで労働者の生活は困窮し、民間労働者は前年の十月闘争で賃上げをかちとりましたが、官公労働者の賃金は予算に縛られ、民間労働者の水準にはるかに及ばななかったのです。
 このような情勢の中で、官公庁労働者は、1946年(昭和21)11月に全官公庁労働組合共同闘争委員会を結成し、翌月の大会において、10項目の要求(越年資金の支給・最低賃金制の確立・俸給・諸手当の現金支給・勤労所得税の撤廃・総合所得税の免税点を3万円に引き上げ・労働関係調整法の撤廃・差別待遇の撤廃・団体協約の即時締結・寒冷地手当の支給・不当馘首反対)を決めて、政府に提出しました。
 しかし、政府は越年資金を承認した他は実質的に要求を拒否したため、日本労働組合総同盟(総同盟)、全日本産業別労働組合会議(産別会議)など全国労働組合懇談会主催で12月17日、皇居前広場で開かれた生活権確保・吉田内閣打倒国民大会には、官公労働者を含む50万人(主催者発表)が参加し、内閣打倒(倒閣)実行委員会の組織が決められます。
 これに対し、1947年(昭和22)1月1日、総理大臣の吉田茂は年頭の辞で「政争の目的の為にいたずらに経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするがごときものあるにおいては、私はわが国民の愛国心に訴えて、彼等の行動を排撃せざるを得ない。」「しかれども、かかる不逞の輩がわが国民中に多数ありとは信じない。」と挨拶し、これは、いわゆる「労働組合不逞の輩」発言として労働組合側の反発を招くこととなりました。
 1月15日には、全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が結成され、1月18日にゼネスト宣言(要求受け入れの期限は2月1日として、要求を容れない場合は無期限ストに入る)が政府に通告されます。
 さらに日本社会党、日本共産党などを含めた倒閣実行委員会も発足し、吉田内閣打倒、民主人民政府樹立の政治要求など30項目のスローガンも掲げられました。
 しかし、1月31日午後、マッカーサーはスト中止を命令し、伊井弥四郎全官公庁共闘議長らにスト中止指令をラジオ放送させ、ゼネストは不発に終わります。これは、GHQ(連合国総司令部)が労働運動に正面から介入した初めての事例となり、初期占領政策の転換を示すものとなりました。

〇共同要求10項目(12月3日)

(1)越年資金の12月15日までの支給。
(2)最低賃金制の確立。
(3)俸給・諸手当の現金支給。
(4)勤労所得税の撤廃。
(5)総合所得税の免税点を3万円に引き上げ。
(6)労働関係調整法の撤廃。
(7)差別待遇の撤廃。
(8)団体協約の即時締結。
(9)寒冷地手当の支給。
(10)不当馘首反対。

〇伊井弥四郎全官公庁共闘議長によるスト中止のラジオ放送(1月31日午後9時20分)

「マッカーサー連合国最高司令官は、2月1日のゼネラルストライキを禁止されました。……このラジオ放送によって、明日のゼネストは極力防止するよう、各組合では万全の努力をつくしてください。マッカーサー連合国最高司令官の絶対命令とあれば、遺憾ながら中止せざるを得ません。声が涸れていてよく聞こえないかもしれないが、緊急しかも重要ですからよく聞いて下さい。私は今、マッカーサー連合国最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官吏、公吏、教員の皆様に、明日のゼネスト中止をお伝えいたしますが、実に、実に、断腸の思いで組合員諸君に語ることを御諒解願います。私は今、一歩後退、二歩前進という言葉を思い出します。私は声を大にして日本の働く労働者、農民のために万歳を唱え、放送を終わることにします。労働者、農民万歳! 我々は団結せねばならない!」
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 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、「第一回日英同盟協約」が調印された日です。
 これは、イギリスの首都ロンドンで、日本駐英公使林董とイギリス外相ランズダウンとの間で調印された、イギリスと日本の二国間軍事同盟でした。
 日本の朝鮮・中国における権益、英国の中国における権益を相互に認め、アジアにおけるロシアの膨張に備えることを共同の目的とし、締約国の一方が2ヵ国以上と交戦の場合、他方は参戦の義務を負うものとしたのです。
 その後、1905年(明治38)改定の第二回協約では、1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう変更されました。
 また、1911年(明治44)改定の第三回協約では、アメリカが交戦相手国の対象外に定められるなどして継続更新され、1914年(大正3)に起こった第一次世界大戦では、日本はこの協約に基づき、連合国の一員として参戦することになります。
 しかし、1921年(大正10)のワシントン海軍軍縮会議の結果調印された四カ国条約成立に伴って、1923年(大正12)に失効しました。

〇第一回日英同盟協約 (全文) [正文は英語] 1902年(明治35)1月30日

The Anglo-Japanese Alliance, January 30,1902

The governments of Great Britain and Japan, actuated solely by a desire to maintain the status quo and general peace in the Extreme East, being moreover specially interested in maintaining the independence and territorial integrity of the Empire of China and the Empire of Korea, and in securing equal opportunities in those countries for the commerce and industry of all nations, hereby agree as follows:

ARTICLE I

The High Contracting Parties, having mutually recognized the independence of China and Korea, declare themselves to be entirely uninfluenced by any aggressive tendencies in either country. Having in view, however, their special interests of which those of Great Britain relate principally to China, while Japan, in addition to the interests which she possesses in China, is interested in a peculiar degree politically as well as commercially and industrially in Korea, the High Contracting Parties recognise that it will be admissible for either of them to take such measures as may be indispensable in order to safeguard those interests if threatened either by the aggressive action of any other Power, or by disturbances arising in China or Korea, and necessitating the intervention of either of the High Contracting Parties for the protection of the lives and property of its subjects.

ARTICLE II

If either Great Britain or Japan, in the defence of their respective interests as above described, should become involved in war with another Power, the other High Contracting Party will maintain a strict neutrality, and use its efforts to prevent other Powers from joining in hostilities against its ally.

ARTICLE III

If in the above event any other Power or Powers should join in hostilities against the Ally, the other High Contracting Party will come to its assistance and will conduct the war in common, and make peace in mutual agreement with it.

ARTICLE IV

The High Contracting Parties agree that neither of them will, without consulting the other, enter into separate arrangements with another Power to the prejudice of the interests above described.

ARTICLE V

Whenever, in the opinion of either Great Britain or Japan, the above-mentioned interests are in jeopardy, the two Governments will communicate with one another fully and frankly.

ARTICLE VI

The present Agreement shall come into effect immediately after the date of its signature, and remain in force for five years from that date. In case neither of the High Contracting Parties should have notified twelve months before the expiration of the said five years the intention of terminating it, it shall remain binding until the expiration of one year from the day on which either of the High Contracting Parties shall have denounced it. But if, when the date fixed for its expiration arrives, either Ally is actually engaged in war, the alliance shall, ipso fact, continue until peace is concluded.

<外務省による日本語訳文>

第一回日英同盟協約(第一囘同盟協約,日英協約)

明治三十五年一月三十日倫敦ニ於テ調印(英文)

同年二月十二日官報彙報欄掲載

(譯文)

日本國政府及大不列顛國政府ハ偏ニ極東ニ於テ現狀及全局ノ平和ヲ維持スルコトヲ希望シ且ツ淸帝國及韓帝國ノ獨立ト領土保全トヲ維持スルコト及該二國ニ於テ各國ノ商工業ヲシテ均等ノ機會ヲ得セシムルコトニ關シ特ニ利益關係ヲ有スルヲ以テ茲ニ左ノ如ク約定セリ

第一條 兩締約國ハ相互ニ淸國及韓國ノ獨立ヲ承認シタルヲ以テ該二國孰レニ於テモ全然侵略的趨向ニ制セラルヽコトナキヲ聲明ス然レトモ兩締約國ノ特別ナル利益ニ鑑ミ卽チ其利益タル大不列顛國ニ取リテハ主トシテ淸國ニ關シ又日本國ニ取リテハ其淸國ニ於テ有スル利益ニ加フルニ韓國ニ於テ政治上竝ニ商業上及工業上格段ニ利益ヲ有スルヲ以テ兩締約國ハ若シ右等利益ニシテ別國ノ侵略的行動ニ因リ若クハ淸國又ハ韓國ニ於テ兩締約國孰レカ其臣民ノ生命及財產ヲ保護スル爲メ干渉ヲ要スヘキ騷擾ノ發生ニ因リテ侵迫セラレタル場合ニハ兩締約國孰レモ該利益ヲ擁護スル爲メ必要缺クヘカラサル措置ヲ執リ得ヘキコトヲ承認ス

第二條 若シ日本國又ハ大不列顛國ノ一方カ上記各自ノ利益ヲ防護スル上ニ於テ別國ト戰端ヲ開クニ至リタル時ハ他ノ一方ノ締約國ハ嚴正中立ヲ守リ倂セテ其同盟國ニ對シテ他國カ交戰ニ加ハルヲ妨クルコトニ努ムヘシ

第三條 上記ノ場合ニ於テ若シ他ノ一國又ハ數國カ該同盟國ニ對シテ交戰ニ加ハル時ハ他ノ締約國ハ來リテ援助ヲ與へ協同戰鬪ニ當ルヘシ講和モ亦該同盟國ト相互合意ノ上ニ於テ之ヲ爲スヘシ

第四條 兩締約國ハ孰レモ他ノ一方ト協議ヲ經スシテ他國ト上記ノ利益ヲ害スヘキ別約ヲ爲ササルヘキコトヲ約定ス

第五條 日本國若クハ大不列顛國ニ於テ上記ノ利益カ危殆ニ迫レリト認ムル時ハ兩國政府ハ相互ニ充分ニ且ツ隔意ナク通告スヘシ

第六條 本協約ハ調印ノ日ヨリ直ニ實施シ該期日ヨリ五箇年間効力ヲ有スルモノトス若シ右五箇年ノ終了ニ至ル十二箇月前ニ締約國ノ孰レヨリモ本協約ヲ廢止スルノ意思ヲ通告セサル時ハ本協約ハ締約國ノ一方カ廢棄ノ意思ヲ表示シタル當日ヨリ一箇年ノ終了ニ至ル迄ハ引續キ效力ヲ有スルモノトス然レトモ右終了期日ニ至リ同盟國ノ一方カ現ニ交戰中ナルトキハ本同盟ハ講和結了ニ至ル迄當然繼續スルモノトス

右證據トシテ下名ハ各其政府ヨリ正當ノ委任ヲ受ケ之ニ記名調印スルモノナリ

 一千九百二年一月三十日龍動ニ於テ本書二通ヲ作ル

  大不列顛國駐剳日本國皇帝陛下ノ特命全權公使 林董 印

  大不列顛國皇帝陛下ノ外務大臣 ランスダウン 印{ランスダウンの右側に線あり}

以書翰致啓上候陳者本日貴我兩名カ各其政府ヲ代表シテ締結シタル協約ニ關シ本使(本大臣)ハ左ノ如ク閣下ニ開陳スルノ光榮ヲ有シ侯

日本國政府(大不列顛國政府)ハ日本國(大不列顛國)海軍ノ平時ニ於テ成ルヘク大不列顛國(日本國)海軍ト協同ノ動作ヲ爲スヘキコトヲ承認ス而シテ其一方ノ軍艦カ他ノ一方ノ港内ニ於テ入渠スルコト及石炭搭載其他兩國海軍ノ安寧及効力ニ資スヘキ事項ニ付キテハ相互ニ便宜ヲ與フヘキコトヲ約諾ス

現下日本國及大不列顛國ハ孰レモ極東ニ於テ如何ナル第三國ヨリモ實力上優勢ナル海軍ヲ維持シツツアリ日本國(大不列顛國)ハ出來得ヘキ限リ極東ノ海上ニ於テ如何ナル第三國ノ海軍ヨリモ優勢ナル海軍ヲ集合シ得ル樣ニ維持スルニ努ムルコトヲ弛フスルノ意思ヲ有スルコトナシ

右得貴意候 敬具

                      外務省編「日本外交年表竝主要文書」上巻より
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 今日は、1991年(平成3)に、昭和時代に活躍した小説家井上靖の亡くなった日です。
 井上靖は、1907年(明治40)5月6日に、北海道旭川で生まれましたが、代々医師の家系で、幼少期は伊豆湯ヶ島で育ちました。静岡県立沼津中学校(現在の静岡県立沼津東高等学校)卒業後は、旧制第四高等学校(現在の金沢大学)に入学し、文学に親しむようになって、雑誌に詩を投稿したりします。
 1930年(昭和5)に、九州帝国大学法文学部に進みましたが、翌々年には京都帝国大学文学部に転じました。その間も、同人誌に作品を発表したりしていましたが、卒業後は『サンデー毎日』の懸賞小説に『流転』が入選したのが機縁で、毎日新聞大阪本社に入社することになります。
 新聞記者として活躍しつつも、いろいろな詩人とも交流して、詩作も継続しました。太平洋戦争後の1950年(昭和25)に小説『闘牛』で芥川賞を受賞すると、翌年からは退職して作家活動に専念するようになります。
 『あした来る人』、『氷壁』などで新聞小説作家としての地位を確立する一方、『天平の甍』、『楼蘭』、『楼蘭』、『蒼き狼』、『風濤』などの歴史小説でも評価を高めました。
 それ以外に、『しろばんば』、『夏草冬涛』、『北の海』などの自伝的小説も注目され、日本芸術院会員に推され、1976年(昭和51)には、文化勲章も受章することになります。
 その後、日本ペンクラブ会長、日中文化交流協会会長等も務めましたが、1991年(平成3)1月29日に、83歳で亡くなりました。

〇井上靖の主要な作品

<長編小説>
・『流転』有文堂(1937年)
・『黯い潮』文藝春秋新社(1950年)
・『あすなろ物語』新潮社 1953年)
・『風林火山』新潮社(1953年)
・『あした来る人』筑摩書房(1954年)
・『淀どの日記』文藝春秋新社(1955年)
・『黒い蝶』新潮社(1955年)
・『射程』新潮社(1956年)
・『氷壁』朝日新聞社(1956年)
・『天平の甍』中央公論社(1957年)
・『海峡』角川書店(1957年)
・『敦煌』講談社(1959年)
・『蒼き狼』文藝春秋新社(1959年)
・『渦』新潮社(1959年)
・『しろばんば』中央公論社(1960年)
・『楊貴妃伝』中央公論社(1963年)
・『風濤』講談社(1963年)
・『夏草冬濤』 新潮社(1964年)
・『後白河院』筑摩書房(1964年)
・『おろしや国酔夢譚』文藝春秋(1966年)
・『わだつみ』岩波書店(1966年)
・『西域物語』朝日新聞社(1968年)
・『額田女王』毎日新聞社(1968年)
・『北の海』中央公論社(1968年)
・『四角な船』新潮社(1970年)
・『星と祭』朝日新聞社(1971年)
・『本覺坊遺文』講談社(1981年)
・『孔子』新潮社(1989年)

<短編小説>
・『猟銃』(1949年)
・『闘牛』 文藝春秋新社(1950年)
・『ある偽作家の生涯』創元社(1951年)
・『異域の人』大日本雄弁会講談社(1954年)
・『楼蘭』講談社(1958年)
・『わが母の記』講談社(1975年)
・『補陀落渡海記』講談社文芸文庫(2000年)

<詩集>

・『きたぐに』東京創元社(1958年)
・『地中海』新潮社(1962年)
・『運河』筑摩書房(1967年)
・『季節』講談社(1971年)
・『遠征路』集英社(1976年)
・『井上靖シルクロード詩集』日本放送出版協会(1982年)
・『乾河道』集英社(1984年)
・『星闌干』集英社(1990年)

<随筆集>
・『美しきものとの出会い』文藝春秋(1973年)
・『カルロス四世の家族 小説家の美術ノート』中央公論社(1974年)
・『わが一期一会』毎日新聞社(1975年)
・『ゴッホの星月夜 小説家の美術ノート』中央公論社(1980年)
・『河岸に立ちて 歴史の川沙漠の川』平凡社(1986年)
・『レンブラントの自画像 小説家の美術ノート』中央公論社(1986年)
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 今日は、奈良時代の712年(和銅5)に、太安万侶が編纂した『古事記』が完成し、元明天皇に献上された日ですが、新暦では3月9日となります。
 『古事記』は、奈良時代の元明天皇の勅命により、太安万侶が、稗田阿礼のそらんじていた帝紀・旧辞などを筆録した日本最古の歴史書で、712年(和銅5)元明天皇に献進されました。3巻からなり、内容は上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説・歌謡などを含んでいます。
 江戸時代後期から偽書説がありますが、学界の大勢はこれを認めるに至っておらず、近年はあまり言われなくなってきました。
 以下に、『古事記』の序文(原文・読み下し文・現代語訳)を全部載せておきます。

☆『古事記』の序文

古事記上卷 幷序

 臣安萬侶言。
 夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。所以、出入幽顯、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。故、太素杳冥、因本教而識孕土產嶋之時、元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世。
 寔知、懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬神蕃息與。議安河而平天下、論小濱而淸國土。
 是以、番仁岐命、初降于高千嶺、神倭天皇、經歷于秋津嶋。化熊出川、天劒獲於高倉、生尾遮徑、大烏導於吉野、列儛攘賊、聞歌伏仇。卽、覺夢而敬神祇、所以稱賢后。望烟而撫黎元、於今傳聖帝。定境開邦、制于近淡海、正姓撰氏、勒于遠飛鳥。雖步驟各異文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽・照今以補典教於欲絶。
 曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世、濳龍體元、洊雷應期。開夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然、天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎步於東國、皇輿忽駕、淩渡山川、六師雷震、三軍電逝、杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解、未移浹辰、氣沴自淸。乃、放牛息馬、愷悌歸於華夏、卷旌戢戈、儛詠停於都邑。歲次大梁、月踵夾鍾、淸原大宮、昇卽天位。道軼軒后、德跨周王、握乾符而摠六合、得天統而包八荒、乘二氣之正、齊五行之序、設神理以奬俗、敷英風以弘國。重加、智海浩汗、潭探上古、心鏡煒煌、明覩先代。
 於是天皇詔之「朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭、既違正實、多加虛僞。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。」時有舍人、姓稗田、名阿禮、年是廿八、爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。卽、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。然、運移世異、未行其事矣。
 伏惟、皇帝陛下、得一光宅、通三亭育、御紫宸而德被馬蹄之所極、坐玄扈而化照船頭之所逮、日浮重暉、雲散非烟、連柯幷穗之瑞、史不絶書、列烽重譯之貢、府無空月。可謂名高文命、德冠天乙矣。
 於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者、謹隨詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字卽難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之內、全以訓錄。卽、辭理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改。
 大抵所記者、自天地開闢始、以訖于小治田御世。故、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前、爲上卷、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前、爲中卷、大雀皇帝以下、小治田大宮以前、爲下卷、幷錄三卷、謹以獻上。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

 和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶

<読み下し文>

 臣安万侶言さく、
 夫れ混元既に凝りて、気象未だ效れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分れて、参神造化の首と作り、陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為りき。所以に幽顕に出入りして、日月目を洗うに彰れ、海水に浮沈して、神祗身を漱ぐに呈る。故、太素は杳冥なれども、本教によりて而土を孕み嶋を産みし時を識り、元始は綿?なれども、先聖に頼りて、神を生み人を立てし世を察る。
 寔に知る、鏡を懸け、珠を吐きて、百王相續ぎ、剣を喫み釼蛇を切りて、萬神蕃息せしことを。安河に議りて天下平け、小濱に論ひて国土を清めき。
 是を以ちて番仁岐命。初めて高千嶺に降り、神倭天皇、秋津嶋に經歴したまひき。化熊川を出でて。天釼を高倉に獲、生尾徑を遮りて、大烏吉野に導きき。?を列ねて賊を攘ひ、歌を聞きて仇を伏はしむ。即ち夢に覺りて神祇を敬ひたまひき。所以に賢后と称す。烟を望みて黎元を撫でたまひき。今に聖帝と云ふ。境を定めて邦を開きて、近淡海を制め、姓を正して氏を撰び、遠飛鳥を勒めたまいき。歩驟各異に、文質同じからずといえども、莫不古を稽へて風猷を既に頽れたるに繩し。今に照らして典教を絶えむとするに補はずということなし。
 飛鳥の清原の大宮に、大八洲にしらしめし天皇の御世に曁りて、濳龍元を体し。?雷期に応じき。夢の歌を聞きて而業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまいひき。然れども天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共洽わりて、東国に虎歩したまいき。皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を挙げて、猛士烟のごとく起り、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。未だ浹辰移さずして、氣?自ら清まりき。乃ち牛を放ち馬を息へ。愷悌して華夏に帰り。旌を巻き戈をおさめ、舞詠して都邑に停まりたまひき。
 歳大梁に次り、月侠鍾に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。道は軒后に軼ぎ、徳は周王に跨えたまひき。乾符を握りて六合を摠べ、天統を得て八荒を包ねたまひき。二氣の正しきに乗り、五行の序を齊へ、神理を設けて俗を奬め、英風を敷きて国を弘めたまいき。重加、智海は浩瀚として、潭く上古を探り、心鏡は?煌として、明らかに先代を観たまひき。
 ここに天皇詔りたまわく、「朕聞く、諸家のもてる帝紀および本辭、既に正實に違ひ、多く虚僞を加ふと、今の時にあたり、その失を改めずは、いまだ幾年を経ずして、その旨、滅びなむとす。これすなわち邦家の經緯、王化の鴻基なり。故、これ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り、実を定實めて、後の葉に流へむと欲ふ」とのりたまひき。時に舍人、有り。姓は稗田、名は阿禮。年はこれ廿八。人と爲り聰明にして、。目に度れば、口に誦み、耳に拂るれば心に勒す。即ち阿禮に勅語して、帝皇の日繼及び、先代の旧辞を誦に習はしめたまひき。然れども運移り世異りて。未だその事を行ひたまはざりき。
 伏して惟うに皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。紫宸に御して徳は馬の蹄の極まる所に被び、玄扈に坐して化は船の頭の逮ぶ所を照らしたまふ。日浮かびて暉を重ね、雲散ちりて烟に非ず。柯を連ね穗を并す瑞、史書すことを絶たず、烽を列ね訳を重むる貢、府空しき月無し。名は文命よりも高く、徳は天乙にも冠りたまへりと謂ひつべし。
 ここに舊辭の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れると正さむとして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔りして、稗田阿禮が誦む所の勅語の舊辭を撰録して、獻上せしむといへれば、謹みて詔旨のまにまに、子細に採り摭ひぬ。
 然れども上古の時は、言と意を並朴にして、文を敷き句を構ふること、字におきて即ち難し。已に訓によりて述べたるは、詞心におよばず。全く音を以て連ねたるは、事の趣さらに長し。是をもちて今、或は一句の中に、音訓を交いて用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録す。即ち、辭理の見えがたきは、注を以ちて明かにし、意况の解り易きは更に注せず。また姓おきて日下を玖沙訶といひ、名におきて帶の字を多羅斯といふ。かくの如き類は、本のままに改ず。大抵記す所は、天地の開闢より始めて。于小治田の御世に訖る。故、天御中主神以下、日子波限建鵜
草葺不合尊以前を上卷となし、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前を中卷となし、大雀皇帝以下、小治田大宮以前を下卷となし、并せて三卷に録して、謹みて獻上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。
 和銅五年正月二十八日。
 正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上。
 
<現代語訳>

 わたくし安萬侶が申しあげます。
 宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。それからして天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました。そこでイザナギの命は、地下の世界を訪れ、またこの國に歸つて、禊をして日の神と月の神とが目を洗う時に現われ、海水に浮き沈みして身を洗う時に、さまざまの神が出ました。それ故に最古の時代は、くらくはるかのあちらですけれども、前々からの教によつて國土を生み成した時のことを知り、先の世の物しり人によつて神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。
 ほんとにそうです。神々が賢木の枝に玉をかけ、スサノヲの命が玉を噛んで吐いたことがあつてから、代々の天皇が續き、天照らす大神が劒をお噛みになり、スサノヲの命が大蛇を斬つたことがあつてから、多くの神々が繁殖しました。神々が天のヤスの川の川原で會議をなされて、天下を平定し、タケミカヅチノヲの命が、出雲の國のイザサの小濱で大國主の神に領土を讓るようにと談判されてから國内をしずかにされました。
 これによつてニニギの命が、はじめてタカチホの峯にお下りになり、神武天皇がヤマトの國におでましになりました。この天皇のおでましに當つては、ばけものの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジによつて劒をお授けになり、尾のある人が路をさえぎつたり、大きなカラスが吉野へ御案内したりしました。人々が共に舞い、合圖の歌を聞いて敵を討ちました。そこで崇神天皇は、夢で御承知になつて神樣を御崇敬になつたので、賢明な天皇と申しあげますし、仁徳天皇は、民の家の煙の少いのを見て人民を愛撫されましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。成務天皇は近江の高穴穗の宮で、國や郡の境を定め、地方を開發され、允恭天皇は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりました。それぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、華やかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあつても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによつて衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。
 飛鳥の清原の大宮において天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。しかしながら時がまだ熟しませんでしたので吉野山に入つて衣服を變えてお隱れになり、人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。武器が威勢を現わして強い將士がたくさん立ちあがり、赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のように破れました。まだ十二日にならないうちに、惡氣が自然にしずまりました。そこで軍に使つた牛馬を休ませ、なごやかな心になつて大和の國に歸り、旗を卷き武器を納めて、歌い舞つて都におとどまりになりました。そうして酉の年の二月に、清原の大宮において、天皇の位におつきになりました。その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさつていました。神器を手にして天下を統一し、正しい系統を得て四方八方を併合されました。陰と陽との二つの氣性の正しいのに乘じ、木火土金水の五つの性質の順序を整理し、貴い道理を用意して世間の人々を指導し、すぐれた道徳を施して國家を大きくされました。そればかりではなく、知識の海はひろびろとして古代の事を深くお探りになり、心の鏡はぴかぴかとして前の時代の事をあきらかに御覽になりました。
 ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは國家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う」と仰せられました。その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。
 謹んで思いまするに、今上天皇陛下(元明天皇)は、帝位におつきになつて堂々とましまし、天地人の萬物に通じて人民を正しくお育てになります。皇居にいまして道徳をみちびくことは、陸地水上のはてにも及んでいます。太陽は中天に昇つて光を増し、雲は散つて晴れわたります。二つの枝が一つになり、一本の莖から二本の穗が出るようなめでたいしるしは、書記が書く手を休めません。國境を越えて知らない國から奉ります物は、お倉にからになる月がありません。お名まえは夏の禹王よりも高く聞え御徳は殷の湯王よりもまさつているというべきであります。そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました。
 しかしながら古代にありましては、言葉も内容も共に素朴でありまして、文章に作り、句を組織しようと致しましても、文字に書き現わすことが困難であります。文字を訓で讀むように書けば、その言葉が思いつきませんでしようし、そうかと言つて字音で讀むように書けばたいへん長くなります。そこで今、一句の中に音讀訓讀の文字を交えて使い、時によつては一つの事を記すのに全く訓讀の文字ばかりで書きもしました。言葉やわけのわかりにくいのは註を加えてはつきりさせ、意味のとり易いのは別に註を加えません。またクサカという姓に日下と書き、タラシという名まえに帶の字を使うなど、こういう類は、もとのままにして改めません。大體書きました事は、天地のはじめから推古天皇の御代まででございます。そこでアメノミナカヌシの神からヒコナギサウガヤフキアヘズの命までを上卷とし、神武天皇から應神天皇までを中卷とし、仁徳天皇から推古天皇までを下卷としまして、合わせて三卷を記して、謹んで獻上いたします。わたくし安萬侶、謹みかしこまつて申しあげます。

 和銅五年正月二十八日
 正五位の上勳五等 太の朝臣安萬侶

     現代語訳は、武田祐吉「古事記-現代語訳古事記-」(青空文庫)による。
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、詩人・作詞家野口雨情(のぐちうじょう)の亡くなった日です。
 野口雨情は、明治時代前期の1882年(明治15年)5月29日に、茨城県多賀郡磯原町(現在の北茨城市)において、船問屋を営む名家の父・野口量平と母・てるの長男として生まれましたが、本名は、英吉でした。
 地元の高等小学校を卒業後、上京して、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、坪内逍遥に学びましたが、1902年(明治35)に中退します。
 その後、実家に戻って家督を継ぎ、結婚もしますが、新体詩の創作を志し、1905年(明治38)に、創作民謡集『枯草』を刊行しました。
 1907年(明治40)に早稲田詩社を人見東明・小川未明・相馬御風・三木露風らと結成、詩作を諸誌に発表します。以後、職業を転々としながら、北海道、茨城、東京と転居しつつ詩作を続けました。
 1919年(大正8)に児童文芸誌『金の星』編集者となり、童謡運動をはじめた頃から、民謡、童謡の作者として知られるようになります。詩集『都会と田園』 (1919年)、民謡集『別後』(1921年)、童謡集『十五夜お月さん』 (1921年) などを刊行し、民謡や童謡の創作、理論的指導などを精力的に行うようになりました。
 作曲家中山晋平とのコンビによる作品はひろく愛唱され、「船頭小唄」、「波浮の港」などが有名となります。また、童謡「七つの子」、「シャボン玉」、「青い目の人形」など純真な童心をうたいあげた作品を作り、童謡運動の主柱をなしました。
 しかし、1945年(昭和20)1月27日に、疎開先の栃木県河内郡姿川村(現在の宇都宮市鶴田町)において、62歳で亡くなります。
 尚、出生地である茨城県北茨城市に「野口雨情記念館」が建てられました。

〇野口雨情の主要な著書

・『都会と田園 野口雨情詩集』銀座書房 (1919年)
・『日本民謡名作集』霜田史光共編 民衆文芸社 (1921年)
・『童謡作法問答』尚文堂書店 (1922年)
・『雨情童謡叢書 第1編 (童謡教育論)』米本書店 (1923年)
・『沙上の夢』新潮社 現代詩人叢書 (1923年)
・『童謡十講』金の星出版部 (1923年)
・『童謡と児童の教育』イデア書院 教育問題叢書 (1923年)
・『青い眼の人形 童謡集』金の星社 (1924年)
・『雨情童謡叢書 第2編 (童謡作法講話)』米本書店 (1924年)
・『雨情民謡百篇』新潮社 (1924年)
・『極楽とんぼ』黒潮社 (1924年)
・『民謡と童謡の作りやう』黒潮社 (1924年)
・『童謡と童心芸術』同文館 (1925年)
・『おさんだいしよさま 民謡集』紅玉堂書店 (1926年)
・『蛍の灯台』新潮社 童謡詩人叢書 (1926年)
・『童謠教本』啓文社書店 (1927年)
・『岐阜の伊奈波音頭』赭土社 (1928年)
・『児童文芸の使命』児童文化協会 (1928年)
・『波浮の港 詩集』ビクター出版社 (1929年)
・『草の花』新潮社 新潮文庫 (1936年)
・『朝おき雀』鶴書房 (1943年)
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