ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年10月

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 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、いわゆる自由民権運動における激化諸事件の一つである秩父事件が起きた日です。
 埼玉県秩父地方では、松方デフレ政策の影響を受けて、米や生糸相場が暴落し、高利貸からの多額の負債のため、生活がとても困窮しました。
 そこで、旧自由党左派の指導の下に井上伝蔵らを幹部として1884年(明治17)8月に困民党を結成します。そして、田代栄助を総裁として、高利貸への返済延長や村民税の減税などを要求し、陳情、請願を続けました。
 ところが、一向にらちが明かず、万策尽きた農民は、困民党のもとにやむにやまれず立ち上がることになったのです。
 1884年(明治17年)10月31日に、風布村琴平神社集会後、金崎村永保社の襲撃が起こり、「秩父事件」がはじまりました。翌日、下吉田村椋神社に約3,000名が終結し、大宮郷へ入って、郡役所を占拠し本陣とし、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を要求します。
 しかし、明治政府による警官隊と軍隊を使った徹底した弾圧によって押さえ込まれ、10日にわたる抵抗の後、鎮圧されました。この中で、30名以上が戦死し、警察官5名が殉職、その後の裁判の結果、死刑12名を含む計3,821名が処罰されたのです。
 秩父地方を巡ると音楽寺、椋神社、田代栄助の墓などにその足跡を見い出し、自由民権の先駆けになって処刑された人々のことを考えずにはおられませんでした。
 この事件については、2004年(平成16)公開の映画「草の乱」(神山征二郎監督)に描かれています。その撮影時に使用された、オープンセットの中の井上伝蔵邸が「秩父事件資料館」として、吉田町の「龍勢会館」に隣接して残されていて、貴重な資料を見ることができます。

〇秩父事件関係年表

<1883年(明治16)>
・12月 高岸善吉ら秩父郡役所に高利貸説諭方を請願する
<1884年(明治17)>
・2月 大井憲太郎が秩父を遊説(自由党へ多数が入党)
・8月 困民党の山野集会始まる
・9月6日 田代栄助が困民党に加わる
・9月30日 大宮警察署に高利貸説諭を請願
・10月4日 高利貸への集団交渉を開始する
・10月26日 困民党の武装蜂起を決定する
・10月30日 上日野沢村小前会議(戦術を練る)
・10月31日 風布村琴平神社集会後、金崎村永保社を襲撃(秩父事件はじまる)
・11月1日 下吉田村椋神社に約3,000名が終結し、夜小鹿野へ行く
・11月2日 大宮郷へ入り郡役所を占拠し本陣とする(総勢7千~1万名)
・11月3日 警察署・郡役所・裁判所を焼き、東京憲兵隊が出動し交戦
・11月4日 困民党軍は皆野本陣を解体、金屋の戦いで敗退する
・11月5日 軍隊・警官隊が大宮郷を奪還する
・11月6日 困民党軍数百名が長野県佐久地方へ進む
・11月9日 長野県佐久郡の東馬流の戦いで敗れて困民党軍は壊滅する
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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、小説家尾崎紅葉の亡くなった日で、紅葉忌と呼ばれています。
 尾崎紅葉は、明治時代に活躍した小説家、俳人で、本名は、尾崎徳太郎といい、1868年(慶応3)に江戸芝中門前町(現在の東京都港区)で生まれました。
 府立第二中学校(現在の都立日比谷高校)卒業後、大学予備門(現在の東京大学教養学部)に入学し、ここで石橋思案、山田美妙らと硯友社を結成、機関誌『我楽多文庫』を創刊したのです。
 1888年(明治21)、帝国大学法科大学政治科(現在の東京大学法学部)に入学、翌年に国文科に転科しました。しかし、1889年(明治22)に小説『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、読売新聞社に入社し、作家としてたったので、翌年には退学したのです。
 その後、「読売新聞」に『伽羅枕』、『三人妻』などの女性風俗を写実的に描いた長短編を連載し、好評を博しました。そして、心理的写実主義の体得や言文一致体への移行に努力し、『多情多恨』や『金色夜叉』(未完)を連載して、幸田露伴と共に紅露時代を現出することになります。
 明治時代の文壇に重きをなし、門下として泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声などを育てましたが、1903年(明治36)10月30日に胃癌のため、37歳で亡くなりました。

〇尾崎紅葉の主要な作品

<小説>
・『二人比丘尼色懺悔』(1889年) 
・『初時雨』(昌盛堂 1889年)
・『風流京人形』(好吟会 1889年)
・『此ぬし』(春陽堂 1890年)
・『新桃花扇・巴波川』(吉岡書籍店 1890年)
・『紅鹿子』(春陽堂 1890年)
・『伽羅枕』(1890年)
・『夏小袖』(春陽堂 1892年)
・『二人女房』(1891年 - 1892年)
・『三人妻』(1892年)
・『裸美人』(1892年)
・『心の闇』(1893年)
・『をとこ心』(春陽堂 1894年)
・『恋の病』(春陽堂 1894年)
・『片靨』小栗風葉共著 (春陽堂 1894年)
・『隣の女』(1894年)
・『やまと昭君』(1895年)
・『不言不語』(1895年)
・『多情多恨』(1896年)
・『青葡萄』
・『金色夜叉』(1897年 - 1902年)

<翻訳>
・トルストイ著『名曲クレーツェロワ』(小西増太郎共訳)
・ヴィクトル・ユゴオ著『鐘楼守 ノオトルダム・ド・パリ』(早稲田大学出版部 1903年)
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 今日は、昭和時代後期の1976年(昭和51)10月29日に、酒田大火の発生した日です。
 この大火は、山形県酒田市中町2丁目にあった映画館「グリーンハウス」のボイラー室から午後5時40分頃に出火し、翌日午前5時に鎮火しました。
 これによって、酒田市中心部の商店街約22.5haを焼失し、死者1名、焼失棟数1,774棟、被災者約3,300名、被害総額約405億円と大きな被害を出したのです。
 当日は、西からの強風(最大瞬間風速26.7m/s)が吹いていて、焼失範囲が拡大し、一気に大火へと展開しました。火勢は新井田川まで迫ったものの、対岸からの直上放水実施や降雨の影響で、それ以上の延焼を食い止めることが出来たのです。

〇太平洋戦争後の日本の大火(500棟以上の焼失で、地震によるものを除く)

・1947年(昭和22)4月20日 - 飯田大火(長野県飯田市)
 死者・行方不明者3名、焼失棟数3,742棟、焼損面積約48ha、罹災戸数4,010戸、罹災人員17,778人
・1952年(昭和27)4月17日 - 鳥取大火(鳥取県鳥取市)
 死者3名、罹災家屋5,228戸、罹災面積約160ha、罹災者2万451人
・1954年(昭和29)9月26日 - 岩内大火(北海道岩内郡岩内町)
 死者35人、負傷者551人、行方不明3人、焼失戸数3,298戸、焼失面積約106ha、罹災者16,622人
・1955年(昭和30)10月1日 - 新潟大火(新潟県新潟市)
 行方不明者1名、負傷者175名、焼失棟数892棟、焼失面積約26ha、罹災世帯1,193世帯、罹災人員5,901名
・1956年(昭和31)9月10日 - 魚津大火(富山県魚津市)
 死者5名、負傷者170名(うち重傷者5名)、焼失戸数1,583戸、罹災者7,219人、
・1965年(昭和40)1月11日 - 大島大火(東京都大島町)
 死者なし、全焼戸数584棟418戸、焼失面積約16.5ha、罹災世帯408世帯1,273人、被害総額20億7千万円
・1976年(昭和51)10月29日 - 酒田大火(山形県酒田市)
 死者1名、焼失棟数1,774棟、焼失面積約22.5ha、被災者約3,300名、被害総額約405億円
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 今日は、明治時代後期の1891年(明治24)に、濃尾地震がおきた日です。
 この地震は、岐阜県本巣郡根尾村(現在の本巣市)付近を震源に、発生したマグニチュード8.0の大地震で、最大有感距離は800kmに達したとされ、明治時代以降の内陸部で起った地震としては最大のものでした。
 この結果、死者7,273人、負傷者17,175人、全半壊の家屋22万2,501戸、道路破裂2万67ヶ所、橋梁損落1万392ヶ所、堤防崩壊7,177ヶ所、山崩れ1万224ヶ所などの大きな被害が発生しました。
 この地震により、愛知県犬山市東方から福井県下にわたり、北北西―南南東の方向に、長さ約80kmの根尾谷断層が出現し、岐阜県本巣郡根尾村水鳥(現在の本巣市根尾水鳥)付近では西側が約6m隆起し、南南東方向に約2mずれたのです。
 この水鳥地区の断層崖は、1927年(昭和2)6月14日に国の天然記念物に指定され、さらに1952年(昭和27)3月29日に特別天然記念物になりました。
 この根尾谷断層を保存し、展示することを目的に1992年(平成4)3月に、「地震断層観察館・体験館」がオープンしましたが、断層のズレを直接観察できる貴重な施設です。
 尚、この場所は2007年(平成19)5月10日、に「日本の地質百選」にも選ばれました。

〇明治時代以降に日本周辺で起きた被害の大きかった地震ワースト12

1. 関東地震[関東大震災](1923年9月1日)死者・行方不明者105,385人<マグニチュード7.9>
2. 東北地方太平洋沖地震[東日本大震災](2011年3月11日)死者・行方不明者22,010人<マグニチュード9.0>
3. 明治三陸地震(1896年6月15日)死者・行方不明者21,959人<マグニチュード8.2>
4. 濃尾地震(1891年10月28日)死者・行方不明者7,273人<マグニチュード8.0>
5. 兵庫県南部地震[阪神・淡路大震災](1995年1月17日)死者・行方不明者6,437人<マグニチュード7.3>
6. 福井地震(1948年6月28日)死者・行方不明者3,769人<マグニチュード7.1>
7. 昭和三陸地震(1933年3月3日)死者・行方不明者3,064人<マグニチュード8.1>
8. 北丹後地震(1927年3月7日)死者2,912人<マグニチュード7.3>
9. 三河地震(1945年1月13日)死者・行方不明者1,961人<マグニチュード6.8>
10,昭和南海地震(1946年12月21日)死者・行方不明者1,443人<マグニチュード8.0>
11.昭和東南海地震(1944年12月7日)死者・行方不明者1,223人<マグニチュード7.9>
12.鳥取地震(1943年9月10日)死者1,083人<マグニチュード7.2>
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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、幸徳秋水と堺利彦が平民社を設立した日です。
 平民社は、日露戦争開始の危機にあたり、非戦論を核心として結成された社会主義結社でした。日露戦争を前にして日刊新聞『万朝報』は非戦論を主張していましたが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して、非戦を固持した幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が退社します。そして、1903年(明治36)10月27日に、幸徳秋水と堺利彦が東京有楽町の社屋を構えて、平民社を結成しました。
 社会主義・平民主義・平和主義の三主義を標榜し、安部磯雄、片山潜らの支持を得て、社会主義、反戦運動の拠点となります。
 11月15日には週刊『平民新聞』を発刊し、日露戦争反対を高唱したり、足尾鉱毒事件について、被害者支援の記事を度々掲載したりして、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えました。また、同紙第53号で『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られています。
 しかし、度々の政府による弾圧のため、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至りました。
 尚、社会主義協会とも提携し、社会主義演説会、講演会の開催や地方遊説のほか、平民社同人編『社会主義入門』、山口孤剣著『社会主義と婦人』、木下尚江著小説『火の柱』、幸徳秋水著『ラサール』など15冊の平民文庫も出版されました。ところが、政府の弾圧に加え、財政難、内部の不統一のため1905年(明治38)10月9日解散することになります。
 その後、1907年(明治40)1月15日に再興され、日刊『平民新聞』も発刊されましたが、社内不和と政府の弾圧強化により、同年4月14日に廃刊となり、平民社も解散されました。
 以下に、『平民新聞』の代表的な反戦記事を掲載しておきます。

○『平民新聞』第十号 1904年(明治37)1月17日付

「吾人は飽くまで戦争を非認す」

凡ての時と所とに於ける凡ての罪悪を集むるとも決して一の野戦に依りて生ずる害悪に過ぐることなし(ヴォルテール)。
戦争は人間の財産及び身体に関してよりも人間の道徳に関して更に大なる害悪を為す(エラスムス)。
大砲と火器は残忍にして嫌悪すべき器械なり、予は信ず、是れ悪魔の直接の勧奨に依りて生ずるものなるを(ルーテル)。
時は来れり、真理の為めに、正義の為めに、天下万生の利福の為めに、戦争防止を絶叫すべきの時は来れり。

 夫れ人類博愛の道を尽さしめんが為めに、人種の区別、政体の異動を問わず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶するの急要なるは、平民新聞創刊の日、吾人既に宣言せり、爾後の紙上、未だ特に此一事に向って全力を傾注するの機を得ざりしと雖も、而も各欄、各項、事に接し物に触れて、毎に此旨義を説明論道するに力めたるは、具眼の読者の諒とせらるる所なる可きを信ず。
 而して今や日露両国の事、狡兒事を好みて頻りに人心を煽揚し、豎子計を失して深く危地に陥り、揆離扞格日は一日より甚だしきを致す、市虎三たび出て、不狂人も亦狂人を逐うて走らざることを得ず、勢いの駆る所、横死流血の惨を見る、亦測る可らざらんとす、殆哉岌乎たり、之に加うるに我同胞中或者は戦勝の虚栄を夢想するが為めに、或者は乗じて奇利を博せんが為めに、或者は好戦の慾心を満足せしめんが為めに、焦燥熱狂、出師を呼び、開戦を叫び、宛然悪魔の咆哮に似たり、吾人是に於て吾人同志の責任益々深きを感ず、然り、吾人が大に戦争防止を絶叫すべきの時は来れり。
 吾人は飽くまで戦争を非認す、之を道徳に見て恐る可きの罪悪也、之を政治に見て恐る可きの害毒也、之を経済に見て恐る可きの損失也、社会の正義は之が為めに破壊され、万民の利福は之が為めに蹂躙せらる、吾人は飽くまで戦争を非認し、之が防止を絶叫せざる可からず。
 嗚呼朝野戦争の為めに狂せざるなく、多数国民の眼は之が為めに昧み、多数国民の耳は之が為めに聾するの時、独り戦争防止を絶叫するは、双手江河を支うるよりも難きは、吾人之を知る、而も吾人は真理正義の命ずる所に従って、信ずる所を言わざる可らず、絶叫せざる可らず、即ち今月今日の平民新聞第十号の全紙面を挙げて之に宛つ。
 嗚呼我愛する同胞、今に於て其本に反れ、其狂熱より醒めよ、而して汝が刻々歩々に堕せんとする罪悪、害毒、損失より免がれよ、天の為せる禍いは猶お避く可し、自ら為せる禍いは避く可らず、戦争一度破裂する、其結果の勝と敗とに拘わらず、次で来る者は必ず無限の苦痛と悔恨ならん、真理の為めに、正義の為めに、天下万生の利福の為めに、半夜汝の良心に問え。

                       『平民新聞』1904年1月17日第10号より

<現代語訳>
「吾人は飽くまで戦争を非認す」

 すべての時間と場所におけるすべての罪悪を集めるとしても、決して一つの野戦によって生じる害悪を過ぎるものはない。(ヴォルテール)
 戦争は人間の財産および身体に関してよりも、人間の道徳に関して、さらに大きな害悪を造り出す。(エラスムス)
 大砲と火器は残忍で嫌悪しなければならない器械である。私は、信じる。これは悪魔の直接の誘惑によって生ずるものであることを。(ルーテル)

 時は来た、真理のために、正義のために、天下万生の利益と幸福のために、戦争防止を絶叫する時は来た。
 そもそも人類博愛の道を徹底しようとするために、人種の区別、政治体制の如何を問わず、世界中で軍備を撤去し、戦争を禁止・廃絶することが急を要しているのは、「平民新聞」創刊の日に、私たちはすでに宣言している。その後、紙上では、いまだ特にこの事につてい全力を傾注する機会を得ているとは言えないけれど、その中で各欄、各項、機会ある度に、この事の成り行きを説明し、論陣を張るために力を入れていることは、物事の善悪や是非を判断する見識や能力をそなえている読者ならば了解してもらえるものと信じる。
 そうして、今となっては日本とロシア両国のこと、悪知恵の発達した人が事件が起きるのを好んで、しきりに世の中の人々の心をそそのかし、未熟者が計略に失敗して深く窮地に陥り、考えが違って互いに受け入れない日は一日より甚だしい状態を引き起こしている、事実無根の風説も、言う人が多ければ、ついに信じられるようになるの「戦国策」の例えのように、狂人でないものもまた狂人を追いかけて走らなければならないことになる、勢いの強いところでは、非業の死や流血の惨劇を見る、また腹の中では何を考えているかわからず、実にあやういことになるのだ、これに加えて私たち同じ国民の中でも、ある者は戦勝の虚栄を夢見るために、ある者はこの戦争に乗じて一儲けしたいために、ある者は好戦の欲望心を満足しようとするために、あせって熱狂し、出兵を呼び、開戦を叫び、これは悪魔がほえたてるのにそっくりである、私たちは、これによって私たち同志の責任がますます深いことを感じる。つまり、私たちが大いに戦争防止を絶叫すべき時が来たのだ。
 私たちはあくまで戦争を認めない、これは道徳上の恐るべき害悪なのだ。これは政治上の恐るべき害毒なのだ。これは経済上の恐るべき損失なのだ。社会の正義はこのために破壊され、国民の利益はこのためにふみにじられる。私たちはあくまで戦争を認めず、この防止を絶叫しないわけにはいかない。
 ああ、世間は戦争のために狂っていないものはいない。多数の国民の眼はこのために見えなくなり、国民多数の耳はこのために聞こえなくなっている時、ひとり戦争反対を絶叫するのは、二つの手で川の水をさえぎるより難しいことは、私たちはこれを知っている。その中で、私たちは真理正義の命ずるところに従って、信じていることを言わないわけにはいかず、絶叫しないわけにはいかないのだ。すなわち、今月今日付の平民新聞10号の全紙面をこれに充てるものだ。
 ああ、私たちの愛する仲間たち、今においてその根本へ立ち返れ、その狂った熱から醒めよ、そして自分が少しずつ一歩ずつ堕落しようとしている罪悪、害毒、損失より免れよ。天が為したわざわいは避けることができないが、自分で為したわざわいは避けることができない分けではない、戦争は一度勃発するとその勝敗の如何にかかわらず、次に来る者は、必ず際限のない苦痛と悔恨にさいなまれるであろう。真理のために、正義のために、天下万生の利益と幸福のために、半夜でも自分の良心に問いかけてほしい。

【注釈】
[1]利福:りふく=利益と幸福。さいわい。福利。
[2]急要:きゅうよう=緊急であること、至急対応する必要があること。
[3]吾人:ごじん=わたくし。われわれ。
[4]旨義:しぎ=事のなりゆき。ありさま。事情。
[5]具眼:ぐがん=物事の善悪や是非を判断する見識や能力をそなえていること。
[6]狡兒:こうじ=悪知恵の発達した人。
[7]人心:じんしん=人間の心。世の人々の気持ち。
[8]煽揚:せんよう=そそのかすこと。
[9]豎子:じゅし=年若い者や未熟な者をさげすんでいう言葉、若造。青二才。
[10]危地:きち=危険な場所。また,危険な立場・状態。窮地。
[11]揆離:きり=はかりごとを同じくしない。
[12]扞格:かんかく=意見などが食い違うこと。互いに相手を受け入れないこと。
[13]市虎三たび出て:いちこみたびいでて=事実無根の風説も、言う人が多ければ、ついに信じられるようになる例え。「戦国策」
[14]横死:おうし=殺害されたり、災禍などのため、天命を全うしないで死ぬこと。不慮の死。非業の死。
[15]殆哉岌乎:たいさいきゅうこ=実にあやういこと。危険極まりないこと。
[16]奇利:きり=思いがけない利益。
[17]焦燥:しょうそう=思うように事が運ばなくていらいらすること。あせること。
[18]熱狂:ねっきょう=異常に興奮し熱中すること。何かに大変感動し、興奮すること。
[19]出師:すいし=軍隊を繰り出すこと。出兵。
[20]宛然:えんぜん=そっくりそのままであるさま。まさにそれ自身であるさま。
[21]咆哮:ほうこう=猛獣などがほえたけること。また、その声。
[22]蹂躙:じゅうりん=ふみにじること
[23]朝野:ちょうや=世間。天下。全国。
[24]半夜:はんや=一夜の半分。夜中。 
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