ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年07月

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 今日は、明治時代前期の1875年(明治8)に民俗学者 柳田國男が生まれた日です。
 柳田國男は、明治時代後期から昭和時代中期に活躍した民俗学者・官僚で、日本の民俗学の創始者です。
 1875年(明治8)7月31日、播磨県神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)に、漢学者・医者松岡操の6男として生まれました。16歳で上京し、尋常中学共立学校(現在の開成高等学校)、郁文館中学校を経て、第一高等中学校に進み、1897年(明治30)には、東京帝国大学法科大学政治科(現在の東京大学法学部政治学科)へ入学しました。
 卒業後は、1900年(明治33)に農商務省に入省り、農村の実態を調査・研究するようになります。翌年5月には柳田家の養嗣子となって、柳田姓となりました。
 この頃、田山花袋、国木田独歩、島崎藤村、小山内薫らとも交流し、抒情派の詩なども書いたりします。
 1908年(明治41)には、法制局参事官に宮内書記官を兼任するようになりましたが、自宅で「郷土研究会」を始めました。この中で、民俗的なものへの関心を深めていき、1910年(明治43)に、代表作「遠野物語」を発表するに至ったのです。そして、1913年(大正2)に雑誌『郷土研究』を刊行し、民俗学への探究を進めました。
 それらによって、1940年(昭和15)に朝日文化賞を受賞、1947年(昭和22)には、自宅に民俗学研究所を設立します。1949年(昭和24)に日本学士院会員に選任され、日本民俗学会の初代会長にも就任しました。
 これ等の功績により、1951年(昭和26)に文化勲章を受章し、その後も民俗学研究に尽力したのです。しかし、1962年(昭和37)8月8日、東京都世田谷区の自宅においいて、87歳で亡くなりました。著作には、「遠野物語」「桃太郎の誕生」「蝸牛考」「民間伝承論」「海上の道」「海南小記」などがあります。
 以下に、名文として知られる柳田國男著「雪国の春」を掲載しておきます。

〇柳田國男著「雪国の春」



 支那でも文芸の中心は久しい間、楊青々たる長江の両岸にあったと思う。そうでなくともわれわれの祖先が、つとに理解し歎賞したのは、いわゆる江南の風流であった。おそらくは天然の著しい類似の、二種民族の感覚を相親しましめたものがあったからであろう。初めて文字というものの存在を知った人々が、新たなる符号を通して異国の民の心の、隅々までを窺うは容易のわざでない。ことに島に住む者の想像には限りがあった。本来の生活ぶりにも少なからぬ差別があった。それにもかかわらずわずかなる往来の末に、たちまちにして彼らが美しといい、あわれと思うもののすべてを会得したのみか、さらに同じ技巧を借りて自身の内にあるものを、いろどり形づくり説き現わすことを得たのは、当代においてもなお異数と称すべき慧敏である。かねて風土の住民の上に働いていた作用の、たまたま双方に共通なるものが多かった結果、いわば未見の友のごとくに、やすやすと来り近づくことができたと見るのほか、通例の文化模倣の法則ばかりでは、実はその理由を説明することがむつかしいのであった。
 ゆえに日本人の遠い昔の故郷を、かのあたりに見出そうとする学者さえあったので、呉ごの泰伯の子孫という類の新説は、論拠がなくても起こりやすい空想であった。ひとり魚鳥のはるばると訪おとない寄るもの多く、さては樹の実や草の花に、移さずしてすでに相同じいものがいくらもあったのみならず、それを養い育てた天然の乳母として、温かく湿った空気、これを通してきらきらと濡れたような日の光、豊かなる水とその水に汰ゆり平らげられた土の質までが、まことによく似た肌ざわりを、いく百年ともなく両国の民族に与えていたのである。人間の心情がその不断の影響に服したのは意外でない。
 その上に双方ともに、春が飽きるほど永かった。世界のいずれの方面を捜してみても、アジア東海の周辺のように、冬と夏とを前うしろに押し広げて、ゆるゆると温和の季候を楽しみうる陸地は、多くあるまい。これはもとより北東の日本半分においては、味わいあたわざる経験であったが、花の林を逍遥して花を待つ心持、または微風に面して落花の行くえを思うような境涯は、昨日も今日も一つ調子の、長閑な春の日の久しく続く国に住む人だけには、十分に感じえられた。夢の蝴蝶のおもしろい想像が、奇抜な哲学を裏づけたごとく、嵐も雲もない昼の日影の中に坐して、何をしようかと思うような寂寞が、いつとなくいわゆる春愁の詩となった。女性にあってはこれを春怨とも名づけていたが、必ずしも単純な人恋しさではなかった。また近代人のアンニュイのように、余裕の乏しい苦悶でもなかった。獣などならばただ睡ねむり去って、飽満以上の平和を占有する時であるが、人には計算があって生涯の短かさを忘れる暇がないために、むしろ好い日好い時刻のあまりにかたまって、浪費せられることを惜しまねばならなかったのである。すなわちその幸福な不調和をまぎらすべく、いろいろの春の遊戯が企てられ、芸術はしだいにその間から起こった。日本人は昔から怠惰なる国民ではなかったけれども、境遇と経験とが互いに似ていたゆえに、力を労せずして隣国の悠長閑雅の趣味を知り習うことを得たのである。



 風土と季候とがかほどまでに、一国の学問芸術を左右するであろうかをいぶかる者は、おそらくは日本文献のはなはだ片よった成長に、まだ心づいておらぬ人たちである。西南の島から進んできて内海を取り囲む山光水色の中に、年久しく栄え衰えていた人でないと、実はその美しさを感じえないような文学を抱えて、それに今まで国全体を代表してもらっていたのは、必ずしも単なる盲従ないしは無関心ではないのであった。いま一つ根本にさかのぼると、あるいはこのような柔らかな自然の間に、ことに安堵して住み付きやすい性質の、種族であったからということになるのかもしらぬが、いかなる血筋の人類でも、こういう好い土地にきて喜んで永く留まらぬ者はあるまい。まったくわれわれが珍しく幸運であって、追われたり逃げたりするような問題が少しもなく、いつまでも自分たちばかりでのんきな世の中を楽しみおうせていたうちに、なじみは一段と深くなって、いわばこの風土と同化してしまい、最早この次の新しい天地から、何か別様の清くすぐれた生活を、見つけ出そうとする力が衰えたのである。
 文学の権威はこういう落ち付いた社会において、今の人の推測以上に強大であった。それを経典呪文のごとくくり返し吟誦していると、いつの間にか一々の句や言葉に、型とはいいながらもきわめて豊富なる内容がついてまわることになり、したがって人の表現法の平凡な発明を無用にした。様式遵奉と模倣との必要は、たまたま国の中心から少しでも遠ざかって、山奥や海端に行って住もうとする者に、ことに痛切に感じられた。それゆえに都鄙雅俗というがごとき理由もない差別標準を、みずから進んで承認する者がますます多く、その結果として国民の趣味統一はやすやすと行われ、今でも新年の勅題には南北の果から、四万、五万の献詠者を出すような、特殊の文学が一代を覆うことになったのである。
 江戸のあらゆる芸術がつい近いころまで、この古文辞の約束を甘受していたことは、微笑を催すべき程度のものであった。ようやく珍奇なる空想が入ってきて片隅にうずくまっていることを許され、または荒々しい生まれの人々が、勝手に自分を表白してもよい時代になっても、やはりロシアとかフランスとかに、何かそれ相応の先型の存在することを確かめてからでないと、人も歓迎せずわれも突き出していく気にならなかったのは、おそらくはまた永年の模倣の癖に基づいている。すなわち梅に鶯、紅葉に鹿、菜の花に蝶の引続きである。しかもそれをすらなお大胆に失すと考えるまでに、いわゆる大衆文芸は敬虔至極のものであって、いま一度不必要に穏当なる前代の読み本世界にもどろうとしているのである。西ヨーロッパの諸国の古典研究などは、人の考えを自由にするのが目的だと聞いているが、日本ばかりはこれに反して、再び捕われに行くために、昔の事を穿鑿しているような姿がある。心細いことだと思う。だからわれわれだけは子供らしいと笑われてもよい。あんな傾向からはわざと離背しようとするのである。そうして歴史家たちにうとんぜられている歴史を捜して、もう少し楽々とした地方地方の文芸の、成長する余地を見つけたいと思うのである。
 その話をできるだけ簡単にするために、ここにはただ雪の中の正月だけを説いてみるのだが、今説こうとしている私の意見は、実ははなはだ小さな経験から出発している。十年余り以前に仕事があって、冬から春にかけてしばらくの間、京都に滞在していたことがあった。宿の屋根が瓦ぶきになっていて、よく寝る者には知らずにしまう場合が多かったが、京都の時雨の雨はなるほど宵暁ばかりに、ものの三分か四分ほどの間、何度となくくり返してさっと通り過ぎる。東国の平野ならば霰か雹かと思うような、大きな音を立てて降る。これならばまさしく小夜時雨だ。夢驚かすと歌に詠んでもよし、降りみ降らずみ定めなきといっても風情がある。しかるに他のそうでもない土地において、受売りしてみても始まらぬ話だが、天下の時雨の和歌は皆これであった。連歌俳諧も謡うたいも浄瑠璃も、さては町方の小唄こうたの類にいたるまで、滔々とうとうとしてことごとく同じようなことをいっている。また鴨川かもがわの堤の上の出て立つと、北山と西山とにはおりおり水蒸気が薄く停滞して、峰の遠近に応じて美しい濃淡ができる。ははア春霞というのはこれだなと初めてわかった。それがある季節には夜分まで残って、いわゆるおぼろおぼろの春の夜の月となり、秋は昼中ばかり霧が立って、柴舟下る川の面を隠すが、夜は散じて月さやかなりとくるのであろう。いわば日本国の歌の景は、ことごとくこの山城の一小盆地の、風物にほかならぬのであった。ご苦労ではないか、都にきても見ぬ連中まで、題を頂戴してそんな事を歌に詠じたのみか、たまたまわが田舎の月時雨が、これと相異した実況を示せば、かえって天然が契約を守らぬように感じていたのである。風景でも人情でも恋でも述懐でも、常にこのとおりの課題があり、常にその答案の予期せられていたことは、天台の論議や旧教のカテキズムも同様であった。だから世にいうところの田園文学は、今にいたるまでかさぶたのごとく村々の生活を覆うて、自由なる精気の行き通いをさえぎっているのである。



 白状をすれば自分なども、春永く冬暖かなる中国の海近くに生まれて、このやや狭隘な日本風に安心しきっていた一人である。本さえ読んでいればしだいしだいに、国民としての経験は得られるように考えてみたこともあった。記憶の霧霞の中からちらちらと、見える昔は別世界であったが、そこには花と緑の葉が際限もなく連なって、雪国の村に住む人が気ぜわしなく、送り迎えた野山の色とは、ほとんど似もつかぬものであったことを、互いに比べてみるおりを持たぬばかりに、永く知らずに過ぎていたのであった。七千万人の知識の中には、こういう例がまだいくらもあろうと思う。故郷の春と題してしばしば描かれるわれわれの胸の絵は、自分などにまっ先きに日のよく当たる赤土の岡、小松まじりのつつじの色、雲雀が子を育てる麦畠の陽炎、里には石垣のたんぽぽやすみれ、神の森の木の大がかりな藤の紫、今日からあすへの境目も際立たずに、いつの間にか花の色が淡くなり、樹蔭が多くなっていく姿であったが、この休息ともまた退屈とも名づくべき春の暮れの心持は、ただ旅行をしてみただけでは、おそらく北国の人たちには味わいえなかったであろう。
 北国でなくとも、京都などはもう北の限りで、わずか数里を離れたいわゆる比叡の山蔭になると、すでに雪高き谷間の庵である。それから嶺を越え湖を少し隔てた土地には、冬籠りをせねばならぬ村里が多かった。

丹波雪国積らぬさきに
つれておでやれうす雪に

という盆踊りの歌もあった。これを聞いても山の冬の静けさ寂しさが考えられる。日本海の水域に属する低地は、一円に雪のために交通がむつかしくなる。伊予に住み馴れた土居・得能の一党が、越前に落ちて行こうとして木ノ目峠の山路で、悲惨な最期をとげたという物語は、『太平記』を読んだ者の永く忘れえない印象である。総体に北国を行脚する人々は、冬のまだ深くならぬうちに、何とかして身を容れるだけの隠れがを見つけて、そこに平穏に一季を送ろうとした。そうして春の返ってくるのを待ちこがれていたのである。越後あたりの大百姓の家には、こうした臨時の家族が珍しくはなかったらしい。われわれのなつかしく思う菅江真澄なども、暖かい三河の海近い故郷を、二十八、九のころに出てしまって、五十年近くの間秋田から津軽、外南部から蝦夷の松前まで、次から次へ旅の宿を移して、冬ごとに異なる主人と共に正月を迎えた。山路、野路を一人行くよりも、長いだけにこのほうがいっそう心細い生活であったことと思われる。
 汽車の八方に通じている国としては、日本のように雪の多く降る国も珍しいであろう。それがいたる所深い谿をさかのぼり、山の屏風を突き抜けているゆえに、かの、

黄昏や又ひとり行く雪の人
の句のごとく、おりおりは往還に立ってじっと眺めているような場合が多かったのである。停車場には時としては暖国から来た家族が住んでいる。雪の底の生活に飽き飽きした若い人などが、何という目的もなしに、鍬を揮うて庭前の雪を掘り、土の色を見ようとしたという話もある。鳥などは食に飢えているために、ことに簡単な方法で捕えられた。二、三日も降り続いた後の朝に、一尺か二尺四方の黒い土の肌を出しておくと、何の餌も囮もなくてそれだけで鵯や鶫が下りてくる。大隅の佐多とか土佐の室戸とかの、茂った御崎山の林に群れてさえずりかわしていたものが、わずかばかり飛び越えるともうこのような国に来てしまうのである。
 われわれの祖先がかつて南の海端に住みあまり、あるいは生活の闘争に倦んで、今一段と安泰なる居所を求むべく、地続きなればこそ気軽な決意をもって、流れを伝い山坂を越えて、次第に北と東の平野に降りて来た最初には、同じ一つの島がかほどまでに冬の長さを異にしていようとは予期しなかったに相違ない。幸いにして地味は豊かに肥え、労少なくして所得はもとの地にまさり、山野の楽しみも夏は故郷よりも多く、妻子眷属とともにいれば、再び窮屈な以前の群れに、帰って行こうという考えも起こらなかったであろうが、秋のあわただしく暮れ春の来ることのおそいのには、定めてしばらくの間は大きな迷惑をしたことと思う。十和田などは自分が訪ねてみた五月末に、雪を分けてわずかに一本の山桜が咲こうとしていた。越中の袴腰峠、黒部山の原始林の中では、ともに六月初めの雨の日に、まだ融けきらぬ残雪が塵をかぶって、路の傍に堆く積んでいた。旧三月の雛の節句には、桃の花はなくとも田の泥が顔を出していると、奥在所の村民は来てみてこれを羨んだ。春の彼岸の墓参りなどにも、心当りの雪を掻きのけて、わずかな窪みを作って香花を供えて帰るという話が、越後南魚沼の町方でも語られている。あの世に行って住む者にも寂しいであろうが、この世同士の親類朋友の間でも、たいていの交通は春なかばまで猶予せられ、他国に旅する者の帰ってこぬことにきまっているはもちろん、相互いに燈の火を望みうるほどの近隣りでも、無事に住んでいることが確かなかぎりは、訪おとない訪われることが自然に稀れであった。峠の双方の麓の宿場などが、雪に中断せられて二つの嚢の底となることは、常からの片田舎よりもなおいっそう忍びがたいものらしい。だからめいめいの家ばかりを最も暖かく、なるだけ明るくして暮らそうとする努力があった。親子兄妹が疎うとみ合うては、三月、四月の冬籠りはできぬゆえに、誰しもこの小さな天地の平和を大切にして、いつかは必ずくる春を静かに待っている。こういう生活が寒い国の多くの村里では、ほぼ人生の四分の一を占めていたのである。それが男女の気風と趣味習性に、大きな影響を与えぬ道理はないのであるが、雪が降れば雪見などと称して門を出でて山を望み、もしくは枯柳の風情を句にしようとする類の人々には、ちっとも分らぬままで今までは過ぎてきたのである。



 燕を春の神の使いとして歓迎する中部ヨーロッパなどの村人の心持は、似たる境遇に育った者でないと解しにくい。雪が融けて初めて黒い大地が所々に現われると、すぐにいろいろの新しい歌の声が起こり、黙して草むらの中や枝の蔭ばかりを飛び跳ねていたものが、ことごとく皆急いで空にあがり、または高い樹の頂上にとまって四方を見るのだが、その中でも今まで見かけなかった軽快な燕が、わざわざ駆け回って、幾度かわれわれをして明るい青空を仰がしめるのを、人は無邪気なる論理をもって、緑がこの鳥に導かれてもどってくるもののごとく考えたのである。春よ帰ってきたかのただ一句は何度くり返されても胸を浪打たしむる詩であった。嵐、吹雪の永い淋しい冬籠りは、ほとほと過ぎ去った花のころを忘れしめるばかりで、もしか今度はこのままで雪の谷底に閉ざされてしまうのでないかというような、小児に近い不安を味わっていた太古から、引続いて同じ鳥が同じ歓喜をもたらしていたゆえに、これを神とも幸運とも結びつけて、飛び姿を木に刻み壁に画えがき、寒い日の友と眺める習いがあったのである。そうしてこれとよく似た心持は、また日本の雪国にも普通であった。
 すなわちかくのごとくにしてようやくに迎ええたる若春の喜びは、南の人のすぐれたる空想をさえも超越する。例えば奥羽の所々の田舎では、碧く輝いた大空の下に、風はやわらかく水の流れは音高く、家にはじっとしておられぬような日が少し続くと、ありとあらゆる庭の木が一せいに花を開き、その花盛りが一どきに押し寄せてくる。春の労作はこの快い天地の中で始まるので、袖を垂れて遊ぶような日とては一日もなく、惜しいと感歎している暇もないうちに、艶麗な野山の姿はしだいしだいに成長して、白くどんよりとした薄霞の中に、桑は伸び麦は熟していき、やがて閑古鳥がしきりに啼いて、水田苗代の支度を急がせる。このいきいきとした季節の運び、それと調子を合わせていく人間の力には、実は中世のなつかしい移民史が隠れている。その歴史をしみ透ってきた感じが人の心を温めて、旅にあっては永く家郷を思わしめ、家にいては冬の日の夢を豊かにしたものであったが、単に農人が文字の力を傭うことをしなかったばかりに、その情懐は久しく深雪の下に埋もれて、いまだ多くの同胞の間に流転することを得なかったのである。



 そうしてまた日本の雪国には、二つの春があって早くから人情を錯綜せしめた。ずっと南の冬の短い都邑で、編み上げた暦が彼らにも送り届けられ、彼らもまた移ってきて幾代かを重ねるまで、その暦の春を忘れることができなかったのである。全体日本のような南北に細長い山がちの島で、正朔を統一しようとすることが実は自然でなかった。わずかに月の望の夜の算えやすい方法をもって、昔の思い出を保つことができたのである。しかるに新しい暦法においては、さらに寒地の実状を省みることなくして、また一月余の日数を去年から今年へくり入れたのである。これが西洋の人のするように、正月を冬と考えることができたならば、その不便もなかったのかしらぬが、祖先の慣習は法制の感化をもって自然に消滅するものと予測して、なまじいに勧誘を試みようとしなかったために、ついにこういう雪国においても、なお正月はすなわち春と、かたく信じてかわらなかったのである。
 東京などでも三月に室咲きの桃の花を求めて、雛祭りをするのをわびしいと思う者がある。去年の柏の葉を塩漬にしておかぬと、端午たんごの節供というのに柏餅は食べられぬ。九月は菊がまだ見られぬ夏休の中なので、もう多くの村では重陽を説くことをやめた。盆も七夕もその通りではあるが、わずかに月送りの折合いによって、なれぬ闇夜に精霊を迎えようとしているのである。しかし正月となるとさらにいま一段と大切なる賓客が、雪を踏み分けて迎えられねばならなかった。正月さまとも歳徳神としとくじんとも福の神とも名づけて、一年の福運を約諾したまうべき神々がそれであった。暦の最初の月の満月の下において、ぜひとも行われねばならぬ儀式がいくつでもあった。人も知るごとくこれらの正月行事は、一つとして農に関係しないものはなかった。冬を師走の月をもって終わるものとして、年が改まれば第一の月の三十日間を種籾よりも農具よりも、はるかに肝要なる精神的の準備に、ささげようとしたのであって、すなわち寅の月をもって正月と定めた根源は、昔もやはり温かい国の人の経験をもって、寒地の住民に強いたことは同じであった。たくさんのけなげなる日本人は、その暦法をかたく守りつつ、雪の国までも入ってきた。白く包まれた広漠の野山には、一筋も春のきざしは見えなかったけれども、神はなお大昔の契約のままに、定まった時をもってお降りなされることを疑わず、すなわち冬籠りする門の戸を押し開いて、欣然としてまぼろしの春を待ったのである。
 もしも新たに自分のために発明するのであったら、おそらくこのような不自然、不調和を受け入れることはしなかったであろう。辺土の住人が世間の交わりが絶えると、心安い同士の間には身だしなみの必要もなくて、鬚を構わなかったり皮衣もを着たり、何か荒々しい風貌を具えてくるのを見て、時としては昔袂を別った兄弟であることを忘れようとする人たちもあるが、かりに何一つ他には証拠のない場合でも、かほどまでも民族の古い信仰に忠実で、天下すでに春なりと知る時んば、わが家の苦寒は顧みることなく、また何人の促迫をも待たずして、冬のただ中にいそいそと一年の農事の支度にとりかかる人々が、別の系統から入ってきた気づかいはない。
 あるいは今日の眼から見れば、そんなにまで風土の自然に反抗して、本来の生活様式を墨守するにも及ばなかったのかもしれぬが、同じ作物同じ屋作りの、いずれも南の島にのみ似つかわしかったものを、とにかくにこの北端の地に運んできて、辛苦の末にようやく新たなる環境と調和せしめたのみか、なおできるならばシベリアにもカムチャツカにも、はた北米の野山にも移してみようとする、それがむしろ笑止なるこの国人の癖であった。かつて中央日本の温和の地に定着して、こんなによく調和した生活法がまたとあろうかと喜んだ満足が、あるいは無用に自重心を培養した結果でもあろうか。何にもせよ暦の春が立返ると、西は筑紫つくしの海の果から、東は南部・津軽の山の蔭に及ぶまで、多くの農民の行事がほとんどわずかの変化もなしに、一時一様に行わるるは今なお昨のごとくであって、しかも互いに隣県に同じ例のあることも知らぬらしいのは、すなわちまたこれらの慣習の久しい昔から、書伝以外において持続していたことを意味するものでなくて何であろう。



 ここにその正月行事の一つ一つを、別挙してみることは自分にはむつかしいが、例えば田畠を荒らそうとするいろいろの鳥獣を、神霊の力の最も濃やかなりとした正月望の日に、追い払うておく一種の呪法がある。鳥追いの唄の文句には後に若干の増減があったが、ムグラモチを驚かす槌の子の響き、肥桶のきしみ、これに付け加えた畏嚇の語のごときは、北も南も一様に簡明であって、ただ奥羽・越後の諸県では凍った雪の上を、あるくばかりが西南との相違である。この日の小豆粥を果樹に食べさせ片手に鎌・鉈などをとって、恩威二つの力をもってなるかなるまいかを詰問する作法なども、雪国の方の特色といえば、雪が樹の根にうずたかくして、真の春になってから粥を与えた鉈の切口が、手の届かぬほどの高い所になっているというだけである。囲炉裏の側において試みられる火の年占が、あるいは胡桃であり栃の実であり、また栗であり大豆であり、粥占の管として竹も葦も用いられているのは、単に手近にあるものを役に立てるというのみである。粟穂稗穂の古風なるまじないから、家具農具に年を取らせる作法までが一つであった。綱曳の勝負もまた年占の用に供せられた。二種の利害の相容れぬものが土地にあれば、優劣の決定を自然に一任して、これを神意と解したのであるが、もし一方にかたよった願いがあるとすれば、結局は他の一方が負けることに仕組まれてあった。雪深き国の多くの町で正月十五日にこれを行う他に、朝鮮半島においても同じ日をもってこの式があり、南は沖縄八重山の島々にも、日はちがうが全然同じ勝負が行われていた。
 あるいは同じ穀祭の日に際して、二人の若者が神に扮して、村々の家を訪れる風が南の果の孤島にもあった。本土の多くの府県ではその神事がややゆるみ、今や小児の戯れのごとくなろうとしているが、これもまた正月望の前の宵の行事で、あるいはタビタビ・トビトビといい、またはホトホト・コトコトなどと、戸をたたく音をもって名づけられているという差があるのみで、神の祝言を家々にもたらす目的はすなわち一つである。福島・宮城ではこれを笠鳥とも茶せん子とも呼んでいる。それがいま一つ北の方に行くと、かえって古風を存することは南の海の果に近く、敬虔なる若者は仮面をかぶり藁の衣裳をもって身を包んで、神の語を伝えに来るのであって、ことに怠惰逸楽の徒を憎み罰せんとするゆえに、これをナマハギともナゴミタクリとも、またヒカタタクリとも称するのである。閉伊の男鹿島の荒蝦夷の住んだ国にも、入れ代わってわれわれの神を敬する同胞が、早い昔から邑里を構え、満天の風雪を物の数ともせず、伊勢の暦が春を告ぐるごとに、出でて古式をくり返して歳の神に仕えていたなごりである。
 初春の祭のさらに著しい特徴には、異国のクリスマスなども同じように、神の木を飾り立てる習いがあって、これも広く全国にわたって共通であった。餅・団子の根本の用途は、主としてこの木の装飾にあったかとさえ思われる。飾ると言うよりもその植物の実を用い姿をかりて、一年の豊熟を予習せしめようとするのであって、すなわち一種のあやかりの法術であった。今日は最初の理由も知らず、単にこの木を美しく作り立てる喜ばしさのみを遺伝している。家の内の春はこの木を中心として栄えるが、さらに外に出ると門口にも若木を立て、それから田に行ってもまた茂った樹の枝を挿して祝した。この枝の大いに茂るごとく、夏秋のみのりも豊かなれと祈願したものであるが、雪の国では広々として庭先に畝を劃して、松の葉を早苗に見立て田植のわざをまねるのが通例であった。稲はもと熱帯野生の草である。これを瑞穂の国に運び入れたのが、すでに大いなる意思の力であった。いわんや軒に届くほどの深い雪の中でも、なお引続いてその成熟を念じていたのである。さればこそ新しい代になって、北は黒竜江の岸辺にさえも、米を作る者ができてきたのである。信仰が民族の運命を左右した例として、われわれにとってはこの上もない感激の種である。
 山の樹の中では松の葉が最も稲の苗とよく似ている。雪に恐れぬ緑の色をめでて、前代の東北人が珍重したのも自然であるが、しかもかような小さな点まで、新たなる作法の発明でなかったことは、正月の祭に松を立てるという慣習の、この方面のみに限られていなかったのが証拠である。子ねの日と称して野に出でて小松を引き、これを移植する遊びは朝家にも採用せられた。ただし大宮人が農事にはうとかったために、何の目的をもって小松を引き栽えるかまでは、歌にも詩にもいっこうに説いていないが、たぶんは山城の都の郊外にも、これを農作の呪法とした農民が住んでいたのである。北日本の兄弟たちは、ただその習俗を携えつつ、北へ北へと進んでいったのである。
 しかし雪国の暦の正月には、月は照っても戸外の楽しみは少なかった。群れの力と酒の勢いとを借りて、ある程度までは寒さと争ってはいるが、後には家の奥に引込んで、物作りの樹の周囲に笑いさざめくの他はなかった。そうしてこれらの行事が一つ一つ完了して、再び真冬の寂しさに復帰することは、馴れて後までもなお忍びがたいことであったろうが、幸いにして家の中には明るい囲炉裏の火があり、その火のまわりにはまた物語と追憶とがあった。何もせぬ日の大いなる活動は、おそらくは主として過去の異常なる印象と興奮との叙述であり、また解説であったろうと思う。すなわち冬籠りする家々には、古い美しい感情が保存せられ培養せられて、つぎつぎの代の平和と親密とに寄与していたのである。その伝統がゆくゆく絶えてしまうであろうか。はたまた永く語りえぬ幸福として続くかは、結局は雪国に住む若い女性の、学問の方向によって決定せられ、彼らの感情の流れ方がこれを左右するであろう。男子がだんだんと遠い国土について、考えねばならぬ世の中になった。雪国の春の静けさと美しさとは、永く彼らの姉妹の手に、その管理を委托せられているのである。

        (大正十五年一月「婦人の友」)
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 今日は、1913年(大正2)に歌人・小説家 伊藤左千夫が亡くなった日で、左千夫忌と呼ばれています。
 伊藤左千夫は、明治時代後期から大正時代にかけて活躍した、歌人・小説家で、本名は幸次郎といいます。1864年(元治元)に、上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家に生まれました。
 1881年(明治14)に上京し、明治法律学校(現在の明治大学)に入学しましたが、眼病を病んで中退して帰郷します。1885年(明治18)に再び上京し牛乳屋で働き、4年後本所茅場町に独立して牛乳搾取業を営むようになります。
 1898年(明治31)から新聞「日本」に評論を投稿するようになり、1900年(明治33)正岡子規に師事し、その没後は根岸短歌会の中心歌人として活躍しました。1903年(明治36)『馬酔木』を、1908年(明治41)には、その後継誌『アララギ』を創刊し、歌人としてもすぐれた短歌や歌論を発表し、正岡子規の実質的な後継者と言われているようになります。
 その間、1906年(明治39)、雑誌『ホトトギス』に左千夫の処女小説である中編小説『野菊の墓』を発表、同じ年に俳書堂から刊行し、注目されました。
 歌壇に近代的万葉調歌風を確立し、斎藤茂吉、土屋文明、島木赤彦らを育てましたが1913年(大正2)7月30日に、50歳で亡くなっています。
 現在でも生家が残されていて、隣接する「山武市歴史民俗資料館」に左千夫に関するいろいろな資料が展示され、すぐれた業績がよくわかります。

<代表的な歌>
「牛飼いが 歌よむ時に 世のなかの 新しき歌 大いにおこる 」
「久々に 家帰り見て 故さとの 今見る目には 岡も河もよし」
「石塚の 岩辺の桜 ひた枝に 苔むすなべに 振りさびにけり 」
「天地の 四方の寄合を 垣にせる 九十九里の浜に 玉拾ひ居り」

〇小説『野菊の墓』とは?
 伊藤左千夫著の処女小説である中編小説で、明治時代後期の1906年(明治39)、雑誌『ホトトギス』に発表され、同じ年に俳書堂から刊行されました。主人公斎藤政夫がまだ15歳の少年の頃、家にきていた2歳年上の従姉の民子との淡い恋を回想したものです。千葉県松戸の田園地帯を背景として、政夫と民子の悲恋を感傷的な筆致で描きました。

〇伊藤左千夫の主要な刊行物
 『野菊の墓』俳書堂 1906年
 『左千夫全集』全4巻 古泉幾太郎編 春陽堂 1920-21年
 『左千夫歌集』斎藤茂吉、土屋文明編 岩波文庫 1928年
 『左千夫歌論集』全3巻 斎藤茂吉、土屋文明編 岩波書店 1929-1931年
 『左千夫歌論抄』斎藤茂吉、土屋文明編 岩波文庫 1931年
 『伊藤左千夫選集』斎藤茂吉、土屋文明編 青磁社 1948-49年
 『隣の嫁・春の潮』角川文庫 1956年
 『伊藤左千夫歌集』土屋文明編 角川文庫 1957年
 『野菊の墓・隣の嫁・春の潮』講談社文庫 1971年
 『左千夫全集』全9巻 岩波書店 1976-77年
 『新編左千夫歌集』土屋文明,山本英吉選 岩波文庫 1980年
 『伊藤左千夫全短歌』土屋文明、山本英吉編 岩波書店 1986年
 『左千夫全集』全9巻 土屋文明、山本英吉編 岩波書店 1986‐87年
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 今日は、1871年(明治4)に「日清修好条規」が調印された日(新暦では9月13日)です。
 この条約は、明治時代前期の1871年9月13日(明治4年7月29日)に中国の天津で、日本側が大蔵卿伊達宗城、清国側は直隷総督李鴻章とで結んだ二国間の最初の通商条約で、同時に通商章程、海関税則も調印されました。
 全18ヶ条から成り、領土保全と侵略に対する相互援助規定、領事裁判権と両国が列強に強制された協定関税率とを相互に認め合う変則的対等条約となり、最恵国待遇や内地通商権は盛り込まれなかったのです。
 その後、1873年(明治6)4月30日に、批准書が交換されて発効しましたが、1894年(明治27)8月1日の日清戦争の開戦により失効しました。

〇「日清修好条規」(全文)

大日本国ト大清国ハ、古来友誼敦厚ナルヲ以テ、今般一同旧交ヲ修メ、益邦交ヲ固クセント欲シ、
 大日本国欽差全権大臣従二位大蔵卿伊達
 大清国欽差全権大臣弁理通商事務太子太保協弁大学士兵部尚書直隷総督部堂一等肅毅伯李
 各奉シタル上諭ノ旨ニ遵ヒ、公同会議シ修好条規ヲ定メ、以テ双方信守シ久遠替ラサルコトヲ期ス。其議定セシ各条左ノ如シ。

第一条 此後大日本国ト大清国ハ、弥和誼ヲ敦クシ、天地ト共ニ窮マリ無ルヘシ。又両国ニ属シタル邦土モ各礼ヲ以テ相待チ、聊侵越スルコトナク、永久安全ヲ得セシムヘシ。

第二条 両国、好ミヲ通セシ上ハ、必ス相関切ス。若シ他国ヨリ不公及ヒ軽藐スルコト有ル時、其知ラセヲ為サハ、何レモ互ニ相助ケ、或ハ中ニ入リ、程克ク取扱ヒ、交誼ヲ敦クスヘシ。

第三条 両国ノ政事禁令各異ナレハ、其政事ハ己国自主の権ニ任スヘシ。彼此ニ於テ、何レモ代謀干預シテ禁シタルコトヲ取リ行ハント請ヒ願フコトヲ得ス。其禁令ハ互ニ相助ケ、各其商民ニ諭シ、土人ヲ誘惑シ聊カ違犯有ルヲ許サス。

第四条 両国、秉権大臣ヲ差出シ、其眷属随員ヲ召具シテ京師ニ在留シ、或ハ長ク居留シ、或ハ時々往来シ、内地各所ヲ通行スルコトヲ得ヘシ。其入費ハ何レモ自分ヨリ払フヘシ。其地面家宅ヲ賃借シテ大臣等ノ公館ト為シ、並ニ行李ノ往来及ヒ飛脚ノ仕立書状ヲ送ル等ノコトハ何レモ不都合ナキ様世話イタスヘシ。

第五条 両国ノ官位何レモ定品有リトイヘトモ、職ヲ授ルコト各同カラス。因テ彼此ノ職掌相当スル者ハ、応接及ヒ文通トモ均ク対待ノ礼ヲ用ユ。職卑キ者ト上官ト相見ルニハ客礼ヲ行ヒ、公務ヲ弁スルニ付テハ職掌相当ノ官ヘ照会シテ其上官ヘ転申シ、直達スルコトヲ得ス。又、双方礼式ノ出会ニハ各官位ノ名帖ヲ用ユ。凡、両国ヨリ差出シタル官員初テ任所ニ到着セハ、印章アル書付ヲ出シ見セ、仮冐ナキ様ノ防キヲナスヘシ。

第六条 此後両国往復スル公文、大清ハ漢文ヲ用ヒ、大日本ハ日本文ヲ用ヒ、漢訳文ヲ副フヘシ。或ハ只漢文ノミヲ用ヒ其便ニ従フ。

第七条 両国、好ミヲ通セシ上ハ、海岸ノ各港ニ於テ彼此共ニ場所ヲ指定シテ商民ノ往来貿易ヲ許スヘシ。猶別ニ通商章程ヲ立テ、両国ノ商民ニ永遠遵守セシムヘシ。

第八条 両国ノ開港場ニハ彼此何レモ理事官ヲ差置キ、自国章民ノ取締ヲナスヘシ。凡、家財、産業、公事、訴訟ニ干係セシ事件ハ、都テ其裁判ニ帰シ、何レモ自国ノ律例ヲ按シテ糺弁スヘシ。両国商民相互ノ訴訟ニハ何レモ願書体ヲ用ユ。理事官ハ先ス理解ヲ加ヘ、成ル丈ケ訴訟ニ及ハサル様ニスヘシ。其儀能ハサル時ハ、地方官ニ掛合ヒ、双方出会シ、公平ニ裁断スヘシ。尤、盗賊、欠落等ノ事件ハ両国地方官ヨリ召捕リ吟味取上ケ方致ス而已ニシテ、官ヨリ償フコトハナサゝルヘシ。

第九条 両国ノ開港場ニ、若シ未タ理事官ヲ置サル時ハ、其人民貿易何レモ地方官ヨリ取締リ世話スヘシ。若シ罪科ヲ犯サハ本人ヲ捕ヘテ吟味ヲ遂ケ、其事情ヲ最寄開港場ノ理事官ヘ掛合ヒ、律ヲ照シテ裁断スヘシ。

第十条 両国ノ官吏商人ハ諸開港場ニ於テ何レモ其地ノ民人ヲ雇ヒ、雑役手代等ニ用ルコト勝手ニ為ヘシ。尤、其雇主ヨリ時々取締ヲ為シ、事ニ寄セ人ヲ欺クコトナカラシメ、別シテ其私言ヲ偏聴シテ事ヲ生セシムヘカラス。若シ犯罪ノ者有ラハ、其地方官ヨリ召捕リ糺弁スルニ任セ、雇主ヨリ庇フコトヲ得ス。

第十一条 両国ノ商民、諸開港場ニテ彼此往来スルニ付テハ互ニ友愛スヘシ。刀剣類ヲ携帯スルコトヲ得ス。違フ者ハ罰ヲ行ヒ、刀剣ハ官ニ取上クヘシ。又何レモ其本文ヲ守リ、永住暫居ノ差別無ク必ス自国理事官ノ支配ニ従フヘシ。衣冠ヲ替ヘ改メ、其他ノ人別ニ入リ、官途ニ就キ、紛ハシキ儀有ルコトヲ許サス。

第十二条 此国ノ人民、此国ノ法度ヲ犯センコト有テ、彼国ノ役所、商船、会社等ノ内ニ隠シ忍ヒ、或ハ彼国各処ニ遁ケ潜ミ居ル者ヲ、此国ノ官ヨリ査明シテ掛合越サハ、彼国ノ官ニテ早速召捕リラヘ見遁スコトヲ得ス。囚人ヲ引送ル時ノ途中、衣食ヲ与ヘ凌虐スヘカラス。

第十三条 両国ノ人民、若シ開港場ニ於テ兇徒ヲ語合ヒ盗賊悪事ヲナシ、或ハ内地ニ潜ミ入リ、火ヲ付ケ、人ヲ殺シ、劫奪ヲ為ス者有ラハ、各港ニテハ地方官ヨリ厳ク捕ヘ直ニ其次第ヲ理事官ニ知らスヘシ。若シ兇器ヲ用テ手向ヒセハ、何レニ於テモ格殺シテ論ナカルヘシ。併シ之ヲ殺セシ事情ハ、理事官ト出会シテ、一同ニ査験スヘシ。若シ其事内地ニ発リテ理事官自ラ赴キ査験スルコト届キカヌル時ハ、其地方官ヨリ実在ノ情由ヲ理事官ニ照会シテ査照セシムヘシ。尤、縛シテ取ルタル罪人ハ、各港ニテハ地方官ト理事官ト会合シテ吟味シ、内地ニテハ地方官一手ニテ吟味シ、其事情ヲ理事官ニ照会シテ査照セシムヘシ。若シ此国ノ人民、彼国ニ在テ一揆徒党ヲ企テ、十人以上ノ数ニ及ヒ、並ニ彼国人民ヲ誘結通謀シ、害ヲ地方ニ作スノ事有ラハ、彼国ノ官ヨリ早速査拏シ、各港ニテハ理事官ニ掛合ヒ会審シ、内地ニテハ地方官ヨリ理事官ニ照会セシメ、何レモ事ヲ犯セシ地方ニ於テ法ヲ正スヘシ。

第十四条 両国ノ兵船、開港場ニ往来スルコトハ自国ノ商民ヲ保護スルタメナレハ、都テ未開港場及ヒ内地ノ河湖支港ヘ乗入ルコトヲ許サス。違フ者ハ引留テ罰ヲ行フヘシ。尤、風ニ遇ヒ難ヲ避ルタメニ乗入リタル者ハ此例ニ在ラス。

第十五条 此後両国、若シ別国ト兵ヲ用ユル事有ルニ付、防禦イタスヘキ各港ニ於テ布告ヲナサハ、暫ク貿易並ニ船隻ノ出入ヲ差止メ、誤テ傷損ヲ受ケサラシムヘシ。又平時ニ於テ大日本人ハ大清ノ開港場及ヒ最寄海上ニテ、何レモ不和ノ国ト互ニ争闘搶刼スルコトヲ許サス。

第十六条 両国ノ理事官ハ、何レモ貿易ヲ為スコトヲ得ス。亦条約ナキ国ノ理事官ヲ兼勤スルコトヲ許サス。若シ事務ノ計ヒ方、衆人ノ心ニ叶ハサル実拠有ラハ、彼此何レモ書面ヲ以テ秉権大臣ニ掛合ヒ、査明シテ引取ラシムヘシ。一人事ヲ破ルニ因テ両国ノ友誼ヲ損傷スルニ至ラシメス。

第十七条 両国ノ船印ハ各定式アリ。万一彼国ニ船、此国ノ船印ヲ仮冐シテ私ニ不法ノ事ヲ為サハ、其船並ニ荷物トモ取上クヘシ。若シ其船印、官員ヨリ渡シタル者ナラハ其筋ニ申立、官ヲ罷メシムヘシ。又両国ノ書籍ハ彼此誦習ハント願ハハ、互ニ売買スルコトヲ許ス。

第十八条 両国議定セシ条規ハ、何レモ預メ防範ヲ為シ、偶嫌隙ヲ生スルヲ免レシメ、以テ講信修好ノ道ヲ尽ス所ナリ。是ニ因テ両国欽差全権大臣、証拠ノタメ先ス花押ヲ調印ヲナシ置キ、両国御筆ノ批准相済ニ互ニ取替ハセシ後チ、版刻シテ各処ニ通行シ、彼民ニ普ク遵守セシヲ永ク以テ好ヲ為スヘシ。

明治四年辛未七月二十九日   花押
同治十年辛未七月二十九日   花押

      外務省編「日本外交年表竝主要文書」上巻より
     *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
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 今日は、1873年(明治6)に「太政官布告第272号(地租改正)」と、それに付属する「地租改正条例」が公布された日です。
 地租改正は、明治時代前期に、明治政府が実施した土地・租税制度の改革のことです。
 まず、1872年(明治5)に田畑売買禁止令を解き地券を発行し、1873年(明治6)7月28日には、「太政官布告第272号」と「地租改正条例」を発しました。
 その主要な内容は、 (1) 課税標準を従来の収穫量から地価に改める、(2) 税率は100分の3をもって、豊凶に関係なく定率とする、(3) 物納を廃し、すべて金納として、土地所有者に課税するというものだったのです。
 しかし、今までの税収を減らさないことを基本としたので、地価は高めに設定され、農民には重い負担となりました。
 その結果、1876年(明治9)には、各地で地租改正反対一揆が起き、明治政府は、翌年から地租率を100分の2.5に引き下げる譲歩を行うことになったのです。
 これらの改革によって、明治政府の財政的基礎が確立した一方で、地主・小作の関係は強化されました。

〇「太政官布告第272号(地租改正)」

今般地租改正ニ付、旧来田畑貢納ノ法ハ悉く皆相廃シ、更ニ地券調査相済次第、土地ノ代価ニ随ヒ百分ノ三ヲ以テ地租ト可相定旨被仰出候条、改正ノ旨趣、別紙条例ノ通相心得ヘシ。且従前官庁並郡村入費等、地所ニ課シ取立来候分ハ総テ地価ニ賦課致スヘク、尤モ其金高ハ本税金ノ三分ノ一ヨリ超過スヘカラス候。此旨布告候事。

<現代語訳>
今度、地租改正について、従来の田畑に課せられる貢納方法はすべて廃止し、新たに地券の調査がすみしだい、土地の価格にしたがって、その百分の三を地租と定める旨が命令された。改正の趣旨は、別紙条例にあるので心得なさい。かつこれまで官庁ならびに郡村運営にかかる費用等、地所に課税し取り立てて来た分はすべて地価に賦課する、ただしその金額は本税金の三分の一より超過することはない。この旨を布告するものである。

(別紙)
地租改正条例  

第一章 今般地租改正ノ儀ハ不容易事業ニ付、実際ニ於テ半履審按ノ上調査可致、尤モ土地ヨリ緩急難易ノ差別有之、各地方共一時改正出来難キハ勿論ニ付、必シモ成功ノ速ナルヲ要セス、詳蜜整理ノ見据相立候上ハ大蔵省ヘ申立、 允許ヲ得ルノ後旧税法相廃シ、新法施行致シ候儀相心得ヘク候事。但シ一管内悉皆整理無之候共、一郡一区調査済ノ部分ヨリ施行致シ不苦候事。

第二章 地租改正施行相成候上ハ、土地の原価ニ随ヒ賦税致シ候ニ付、以後縦令豊熟ノ年ト雖モ増税不申付ハ勿論、違作ノ年柄有之候トモ減租ノ儀一切不相成候事

(中略)

第六章 従前地租ノ儀ハ、自ラ物品ノ税家屋ノ税等混淆致シ居候ニ付、改正ニ当テハ判然区分シ地租ハ則地価ノ百分ノ一ニモ可相定ノ処、未タ物品等ノ諸税目興ラサルニヨリ、先ツ以テ地価ノ百分ノ三ヲ税額ニ相定候得共、向後、 茶、煙草、材木其他ノ物品税追々発行相成、歳入相増、其収入ノ額二百万円以上ニ至リ候節ハ地租改正相成候土地ニ限リ、其地租ニ右新税ノ増額ヲ割合、 地租ハ終ニ百分ノ一ニ相成候迄漸次減少可致候事。

  右之通相定候条、猶詳細ノ儀ハ大蔵省ヨリ可相達事。

   明治六年七月二十八日

             「法令全書」より
 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
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 今日は、1976年(昭和51)に田中角榮前首相がロッキード事件で東京地検に逮捕された日で、「政治を考える日」とも呼ばれています。
 この事件は、昭和時代後期の1976年(昭和51)に発覚したアメリカのロッキード社の対日航空機売込みにかかる汚職事件です。
 これによって、前内閣総理大臣田中角栄(自民党)が、1976年(昭和51)7月27日に東京地検に逮捕され、その前後に元運輸大臣橋本登美三郎(自民党)、運輸政務次官佐藤孝行(自民党)の政治家と全日空の若狭得治社長以下数名の役員及び社員、ロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、黒幕と言われた児玉誉士夫や国際興業社主の小佐野賢治が逮捕されました。その結果、1995年(平成7)の最高裁判決に至る過程で有罪が確定したのです。
 これは、戦後最大の汚職事件で、政界・官界・財界の癒着による構造汚職といわれ、自民党政治の腐敗・金権体質として批判されることになりました。

〇戦後の政治家がかかわった主要な汚職事件(贈収賄・利益供与など)
・1947年(昭和22) - 炭鉱国管疑獄
・1948年(昭和23) - 昭和電工事件
・1954年(昭和29) - 造船疑獄
・1954年(昭和29) - 日興連汚職事件
・1957年(昭和32) - 売春汚職事件
・1961年(昭和36) - 武州鉄道汚職事件
・1965年(昭和40) - 東京都議会黒い霧事件
・1965年(昭和40) - 九頭竜川ダム汚職事件
・1966年(昭和41) - 田中彰治事件
・1966年(昭和41) - 共和製糖事件
・1967年(昭和42) - 大阪タクシー汚職事件
・1968年(昭和43) - 日通事件
・1976年(昭和51) - ロッキード事件
・1979年(昭和54) - ダグラス・グラマン事件
・1980年(昭和55) - KDD事件
・1986年(昭和61) - 撚糸工連事件
・1988年(昭和63) - リクルート事件
・1991年(平成3) - 共和汚職事件
・1992年(平成4) - 東京佐川急便事件
・1993年(平成5) - ゼネコン汚職事件
・2000年(平成12) - KSD事件
・2000年(平成12) - 若築建設事件
・2001年(平成13) - 中洲カジノバー汚職事件
・2002年(平成14) - 鈴木宗男事件
・2004年(平成16) - 日歯連・中医協汚職事件
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